2011年1月2日日曜日

今年は川崎大師にチャレンジだ

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(川崎大師平間寺)

昨年、一昨年と大晦日の夜、21:00頃自宅から歩いて、寒川神社に初詣をしてきた。地図上で、簡単に距離を想定したら、自宅から23キロぐらいだった。休憩、牛丼、ウンコの時間をいれて、片道大体5時間は要した。帰りは、昨年はバスと電車だった、一昨年は朝会社に出社してから参拝に来た同僚と合流して帰った。昨年は、次女・花の夫・竹ちゃんと二人で、一昨年は会社の同僚・出さんと長さんの三人だった。

今年は、何処に行こうかと思案していたら、川崎大師を思いついた。竹ちゃんは、同行を非常に喜んでくれた。ちょうど、寒川神社とは距離も同じぐらいですよ、と竹ちゃん。お参りの後は海側に出て、東京湾からの日の出を見ようと盛り上がった。行きは歩き、帰りは交通機関に恵まれているから、どうにでもなる。その竹ちゃんが、最近どういうわけか、ランニングに懲りだして、走る距離をドンドン伸ばし、走る頻度もドンドン増(ふ)やして、結局、お股部分の骨か腱か、筋肉がやられてしまって、今回は無念の欠場。無理はイカン。私一人の、独歩行とあいなりました。

仕事において難事を抱えており、明日元日も朝早くから打ち合わせることになったので、それならば、早くに行って早く帰って打合せに備えなくてはならない。余裕をもって、明日の仕事に影響が出ないようにしなければならない、ならば、21:00ではなくて、18:00に出て、ちょっとでも早く寺の近辺に着いて見学を済ましておけば、帰りは早く、明日にも万全だ。

仕事をしている古さんに、悪いなと言いながら、我輩は事務所を後にした。

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それでは、20101231~20110101の川崎大師初詣、徒歩でお参りに行きます。

進む方向は、東京に向かっていけばいいのだ。どの電車も、東京に向かっている。それに沿って行けば、大きく逸(そ)れることはない、何とかなる。

弊社がスタート地点。缶ビール2缶で景気づけた。帷子川を渡ったのが、18:06.八王子街道(通称・16号線)の宮田町二丁目の信号を右折、洪福寺。手前で、松原商店街の一画に足を入れる。ここは、横浜の台所、と言われているかどうか知りませんが、お客さんを惹き付ける魅力あるお店が多くて、訪れる買い物客は多い。今は、商売を終えてどの店も片づけが行なわれていた。今日は大晦日なのだ。それから、環状一号線で、浅岡橋、浅間町、浅間下、楠木町。iroiro 011

よく食べに行くラーメン屋さんの前を通る。店は閉まっていた。お兄さん、久しぶりだね、彼女、元気、なんて声を掛けてくれるグレートなママさんがいるんだ。鶴屋町。環状1号=第二京浜(国道1号線)をJR東海道線に沿って、川崎方面。桐畑、反町、東神奈川。ここで、間抜けた友人からメールが入る。コンビニで、日本酒を買う。内容が下らないものだったが、こちらからは気の利いた返信をしてやろうと、小休止も兼ねて立ち止まった。ヴァッカスを味方につけた。相手をやり込めてやった。ここで、19:12だ。

浦島丘、七島町、入江町、新子安、子安台、岸谷、東寺尾、荒立、響橋の下を通った。響橋の写真を撮ったのですが、巧く写っていなかった。東寺尾北台、諏訪坂、下末吉。このままこの方向に進むと川崎から、今更ながら外れていくことに気づいて、下末吉の交差点を右に、末吉大通りから三角通りを歩いて、鶴見駅西口入口から東海道線の線路の下を通って、区役所通り、第一京浜(国道15号線)の職安入口を左に第一京浜を川崎方面に向かう。鶴見川の鶴見橋を渡る、20:30。

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鶴見駅の近くには、有名な曹洞宗の総持寺がある。その寺院が運営している鶴見女子中学校がある。大学も、高校もある。この学校は教育熱心な先生が多く、私の娘は中学校でお世話になった。詳しいことは次の機会にしたいのですが、私の娘を担当した当時の、担任、学年主任、教頭、副校長はことごとく退職されたり配属替えになって、娘の前からは居なくなった。娘にそれほどの何かがあったのでしょうか。ミステリアスですなあ。

菅沢町、市場富士見町、市場大和町、池田、元木、貝塚、東田、榎町、多摩川の手前の競馬場の信号を右折、大師道をひたすら京浜急行大師線の川崎大師駅をめざす。コンビにで缶ビールのロングサイズを買って、小用をすます。まだまだ、遠いですよ、とは奇麗な店員さんの励ましの言葉。それでも、23:28、川崎大師に到着した。

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除夜の鐘が撞かれた。いっせいに本殿に向かうのですが、ここでは「護摩木」という、四方がほぼ1センチ角の、長さが30センチほどの白木が用意されていて、そこに祈願する内容、名前、年齢を書き込むのです。

私は、自分のことはそっちのけで、昨年、病気や怪我、仕事に恵まれなかった人を家族含めて20人分は書いた。順風満帆の人には、あえて何もしなかった。名前や年齢、祈願する内容以外にも、私は裏表横のスペースに書き込めるだけ書き込んだ。商売繁盛だけではなく、契約が多く取れるようにとか、いい家を作って見せますとか、コストを意識して作業に取り組むとか、具体的に書いた。尿結石で悩んでいる人には、尿結石だけにしてくださいなとか。思いつくまま書き込んだ。空海さんなのか、御釈迦さんに、随分強欲な奴だと思われただろう。そんなに思われたって構うもんか。

私個人のお祈りはと言えば、ただただ健康に恵まれますようとお願いした。今年は特に精神的にも肉体的にも、タフでハードな一年になる。どのようなことにも、真摯に誠実に、真面目に取り組みたい。精神的には、常に心がけてはいるものの、病が不意にやってくるのが怖いのです。お百度ではあるまいが、このように自らの体に鞭打ってお参りにきたのです。よろしく、お願いします、と何度も何度も頭を下げた。少々のアルコールはお許しください。

友人にくず餅(包装紙には久寿餅と書いてあった)を頼まれたので最小の物を800円で買った。本殿までの広場では屋台がたくさん出店していた。私が子供の頃とは売っているものが全然違う。私たちが子供の頃は、コマや鉄砲のおもちゃ類、金魚や水の入った風船玉のようなものを釣ったり、水飴類、焼きそば、イカの焼いたものだった。

歩行距離は20キロぐらい。真剣に歩けば、3時間で歩き通せるだろう。帰りは電車で帰った。当初考えていた初日の出は帰ってからにした。住まいに戻ったのは、02:30だった。

ーお勉強ですー

1128年、平間兼乗という武士と高野山の尊賢上人が建立したのが、現在の川崎大師平間(へいけん)寺。真言宗智山派のお寺で、成田山新勝寺、高尾山薬王院とともに、智山派関東三山の一つ。ご本尊は弘法大師像。1813年、徳川幕府の将軍家斉が厄除けに訪れたことから厄除け大師として広がる。お護摩とは、梵語でホーマといい『焚(た)く』『焼く』などの意味をもつ言葉で、仏の知慧の火をもって煩悩(苦の根源)を焼き尽くすことを表しています。

2010年12月30日木曜日

白瀬矗(のぶ)の名に、胸に高鳴りが

探検はロマンだ。未知の分野であればあるだけ、そのロマン度も高まる。

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20101221の朝日新聞・夕刊に「南極探検100年、白瀬の伝言」の記事が掲載されていた。題字は「苦難の道のり 世界が評価」で始まっていた。この白瀬陸軍中尉の名を、新聞の一コーナーと言えども、目にしてしまった以上、私の胸の高鳴りはどうしても抑えようがない。かって集中的に白瀬に関するものや、アムンゼン、スコットなどに関連する探検本を読み漁った時期があったのです。今から20年程前のこと、私が40歳頃のことでした。

新聞記事を読んで、私は探検モノにちょっとばかり知識があることを、密かに自負していることに赤恥したものの、この胸の高まりはどうにもおさまらない。新聞記事にはスペースに制限があるので、そんなにノタリクタリとは書けないのはよく解っているのですが、他にも知っていることが「私」にはいっぱいあるので、皆、聞いて、みんなもっと聞いて、状態になってしまっていた。またまた不遜、恥ずかしい限りだ。

とっかかりは本多勝一さんの本「アムンゼンとスコットー南極点への到達に賭ける」(出版社・教育者)だった。本多さんが所属していた京都大学探検部の指導者で精神的主柱の今西錦司さんを知り、この今西錦司氏の個性の魅力にはまった。その種を蒔いたのが西堀栄三郎、学問の分野は違えども生態学研究センターの井上民治、最後は国立民族博物館を創立した梅棹忠夫。この人たちの研究論文は読めないし理解できないが、エッセイや記者との会話を文章にしたものに触れて、一時期彼らに現(うつつ)を抜かした。東京を中心とした中央に対する在野の意地が感じられ、京都府出身の私には彼らの活躍が快く感じられた。勝手に親近感を持っていた。

それから、ここにたどり着くのです。共同通信の記者だった加納一郎さんの訳したスコット隊の生存者であるアスリー・チェリー・ガラードの探検記「世界最悪の旅」(出版社・中央公論新社)だ。戦中に発行された、この本を読んで尻に火が点いた。それから、アムンゼンの先輩ナンセンの「フラム号 漂流記」(加納一郎訳)。興奮しまくりの勢いのまま、これらをまとめた加納一郎著作集全5巻を手に入れた。そのときの感動は忘れない。探検に興味のある方は、どうか私にお申し出ください、貸し出します。探検とは何かを生涯説き続け、極地研究と啓蒙に尽くした加納一郎氏、この全5巻は私の脆弱な精神構造を強く支えてくれているのです。精神的に落ち込んだり、苦しくなったとき、引っ張り出してきて、端々をつまみ読みする習慣が身についてしまった。苦しい時の--------、神ならぬ、加納一郎氏であり、ドフトエフスキーさんだのみだ。1巻=極地の探検  2巻=フラム号漂流記  3巻北海道の山と雪  4巻=自然のなかで  5巻=世界最悪の旅(5巻のみが、我が書庫に見つからず)

これより下は、20101221の朝日新聞・夕刊による (中山由美)

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「3人の探検家に与えられた運命はそれぞれ栄光、死、そして苦難ーーーー」100年前に白瀬矗(のぶ)が南極点をめざして出航した東京・芝浦で、11月28日に開かれた記念式典。DVD「白瀬・開南の夢」のナレーションが流れると、白瀬の孫、潤さん(79)の表情が曇った。

同時に南極点をめざした探検家3人のうち、「栄光」が与えられたのは、1911年12月14日、世界初到達を果たしたのはノルウェーのアムンゼン。「死」は、1ヶ月遅れで南極点に立ったが、帰途に隊員全員が遭難死したイギリスのスコット。「苦難」は、12年1月28日、南緯80度5分の氷の上で南進を断念した白瀬だった。

国の威信をかけた国家事業に比べ、白瀬隊は資金や装備でははるかに劣った。スコット隊のテラノバ号は750トン、アムンゼン隊のフラム号は402トン、白瀬隊の開南丸はわずか204トンの木造船だった。

国は資金を出さず、民間支援に頼る探検だった。新聞社とのつながりもあった早稲田大創設者の大隈重信を会長に、南極探検後援会を創設。出発前、朝日新聞は5千円を出し、義捐金を呼びかけた。当時の記事には、約4万8千円が集まり、後援会に渡した、とある。だが、白瀬が帰国した時には後援会は消え、借金4万円が残されていた。今の1億~2億円相当という。白瀬が一人で背負った。

新聞で初めて見ることとなった他の親族には、複雑な感情が残された。救いの手を差し伸べなかったわけではない、との思いがあるからだ。白瀬は帰国後、ともに暮らしていた三男家族の元を離れ、秋田県の生家・浄運寺からも離れて疎遠になっていたという。孫の潤さんは「白瀬の晩年が不遇だったと語られると心が痛むのです」と言った。

今回の記念式典には、白瀬に関する文献をまとめた本を出版したチェット・ロスさん」(63)が米国から駆けつけた。(民間の支援を懸命に集め、諦めずに挑戦し、一人の犠牲者も出さずに帰った」。自らの力で夢をかなえ、責任を全うした魅力を語る。

出身地である秋田県にかほ市の白瀬南極探検隊記念館には、海外からの訪問客が絶えない。記念館職員だあった佐藤忠悦さん(70)は言う。「苦難の道だったが、白瀬は世界の名だたる探検家と並んで評価されている」

100年の時を経て、うねりは動き始めた。「故郷の秋田から全国へ発信しよう」

2010年12月29日水曜日

座間高校を応援する

MX-3500FN_20101227_083346_001 朝日新聞の記事より。間接照明で練習する座間高校

第89回全国高校サッカー選手権が30日から始まる。全国から48代表が決まった。神奈川県からは、県立座間高校が代表に決まった。かって、名門校と言われる学校が上位を占めてきたのだが、昨今、群雄割拠の時代に突入、どこから、栄冠を勝ち取る学校が出てくるのか、想像がつかない、と新聞では書かれていた。

栄えある代表チームでプレーする選手にとって、これほど意気の上がる大会はない。サッカーファンにとっては、正月の休みの、見逃せない重要な大会でもある。会場に足を伸ばすのもよし、コタツでミカンをむきながらの観戦は、堪らない魅力だ。勝ち進んでいくうちに、さなぎが脱皮するように、一人ひとりが、チームが、一皮、二皮むけながら成長していくのを、毎年、必ず見せ付けられる。外れがないのだ。だから、開幕が待ち遠しい。

此処で、県立座間高校のことを、触れたくなったのです。それは、私の息子が高校時代に座間高校と対戦した時のことを思い出したからです。私の息子・草が通っていた高校は権太坂にある県立光陵高校、自宅から歩いて十分もかからない距離にある。

光陵高校のグラウンドで、高校サッカー選手権の神奈川予選のベスト8進出を賭けた試合があったのです。この対戦相手が今回神奈川県代表の座間高校だったのです。今から約10年ほど前のことです。

前半は2-0で、光陵が優位にたった。光陵にはラッキーなゴールでもあった。光陵の選手たちの父兄と何とかこのままで終わってくれればいい、と本気でそう思っていた。その思いは、どの父兄の表情からも、読みとれた。青のお父さん、幼少の頃は保土ヶ谷のマラドーナと言われた川のお父さん。黒のお父さんとお母さん。私は、一抹の不安を抱いていた。それは、座間が劣勢ながら、攻撃の手を緩めなかったことです。ゲームの内容は点差はあっても、五分五分だった。

後半、光陵の選手は浮き足立ってきた。勝ちを意識したのだろう、体が強張って、へんてこなパスを出したり、つまらない反則を取られたり、黒の落ち着いていこう、という指示も弱弱しく聞こえた。私は、大きな声でしっかりせいと怒鳴っていた。前線にボールがつながらない。光陵持ち前のチームの一体感が崩れてきていた。そこで、相手チームにとっては会心のゴールが、光陵のネットを揺らした。

そうして2-1に迫られ、2-2に同点にされ、延長で逆転されたまま終了したのだ。この時の座間は、勝利することへの貪欲さが溢れ出ていた。しっかりした日常の練習が裏づけされていたのだろう。よく走った。よくボールを追い回した。光陵は、幸運なゴールを得た優位をキープできるほど逞しくはなかった。この時の試合は、私の息子にとっても、高校最後の公式戦だったのですが、悔しさは残ったろうが、考えさせられるところが多々あって、意味ある試合だった。大いに学習したことだろう。

今回の県代表までの座間高校の道のりは、厳しいものだったようだ。準決勝戦での逆転勝利はさどかし、圧巻だったことだろう。息子が高校生だった頃から、座間高校は最後まで諦めないチーム作りを心がけ、その積み重ねが今回の県代表に結びついた。

県立高校では優秀な選手を沢山集めるには無理がある。そんな条件の下に県代表になったことは、何はともあれ、凄いことだと思う。おめでとう。

本大会での活躍を期待したい。

2010年12月25日土曜日

今年も行ってきた、「銀河鉄道の夜」

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昨日(20101223 19:00~)、東京演劇アンサンブル、ブレヒトの芝居小屋に「銀河鉄道の夜」を観に行ってきた。ジョバンニ、カンパネルラ、ザネリ、お母さん、尼僧、車掌、博士、赤ひげ、信号手、青年、男の子、女の子、さそり、燈台守、影たち。

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作・宮沢賢治/脚本演出・広渡常敏/音楽・林光

多分、今回で10回近く見ていることになる。来年の今頃もきっと、同じことを言っていることだろう。今年は28回公演だ。共同代表者のお二人は元気だった。入江洋佑さんは、タメやん(これって、俺の学生時代からの仲間うちでの呼び名)九州公演を3ヶ月行ってきましたよと仰っていた、入江さんの息子・龍に聞いたら、主役をやってきたんだ、とオヤジを褒めていた。入江さんの年齢は確か80歳前後だ。志賀澤子さんは、この劇中の語り手をやられていた。志賀さんに、元気ですね、ますます磨きがかかっていますね、なんて生意気なことを言っても、優しく微笑み返しをしていただいた。永遠であって欲しいと思う、このブレヒトのコ・コ・ロを。

今回付き合ってくれたのは、伊君だ。彼に最初に会ったときは、3歳頃、保育園児だった。祖母の背中に背負われて、病院に向かう時に、偶然遭遇したこともあった。おばあちゃんは髪が真っ白だった。伊の母親が、我々の会社のスタッフだったので、会う機会は度々あった。そして、現在は弊社のコンピューター関連の保守管理とソフトのサービスのために、週に一度会社に来てくれている。この母・息子は極めて特殊な関係で、同じ一軒家に住みながら、会話がないのは勿論、食事も何もかも別々に暮らしている。かけがえのない親子だからこそ?このように変則的な家族の形が生まれたのか。機会があったら、二人によく聞いてみたい。

そんな彼が会社に顔を出したのを巧く捕まえることができて、一緒に行くことの同意を得た。私は、今までの付き合いがあって招待客なので、劇団には売り上げ面において協力できない分、有料客を連れていくことで、恩返しをしたかった。

今回の芝居の演出は、昨年とは余り変わっていなかった。ただ、私は、観る側として多少なりとも感じ方は変わってきている。台詞をよく聞き取れたことがよかった。そこで、思いついたのです。この広渡常敏さん演出のお芝居を、戯曲というのか、台本というのか、それとも小説として、原作の宮沢賢治モノとは違う、すばらしい文学作品になるように思ったのです。劇団の太田さんに話してみよう。龍にも聞いてみよう。

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下の文章は、1998年12月22日に広渡常敏さんが、なんらかの印刷物に寄稿された文章が劇団からいただいた資料のなかにあったので、ここにそのまま、転載させていただいた。

広渡常敏

早いもので『銀河鉄道の夜』をクリスマス公演としてやりはじめて、今年は16回になる。正直いってこんなこと考えてもみなかった。アンサンブルの俳優たち、そしてブレヒトの芝居小屋に足を運んでくださる見物の方々に支えられて、上演を重ねることができたのである。ぼくらはこれから先も、いつまでも、『銀河鉄道の夜』の舞台を上演しつづけることになるだろうと思っている。

ぼくがはじめて宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読んだのは1942年、中学3年の頃のことだった。たいへん感動したのだが、たしかに感動はしたのに、その実、なんのことやらわからなかった。友人と話したのだが、わからなくても感覚的に感動するのだから名作だというのだった。ところでこの童話を舞台にのせようということになって、上演台本を書くとなると、感動しただけではすまされない。困ってしまった。原稿用紙をニラんでいるばかり。1981年の11月、40年近くたっているのに、やはりわかっていない。

近くにある高輪美術館(軽井沢・千ヶ滝)に行ってみた。マルセル・デュシャンを展示していた。暗箱の覗き穴に眼を近づけると、自転車が吊り下げられていて、一条の光に照射されている。自転車の影が床面に投影されている。2次元(XY)の影の上に3次元(XYZ)の自転車、とすると3次元の上の4次元はーーーー?そこにはどうやら「自転車の自転車」があるらしい。その投影として3次元の「自転車」となり、その投影として2次元の「自転車の影」となる。ジョバンニの影が起ちあがると、、ジョバンニは3次元現実から4次元世界の銀河の夜へと旅たつ。デュシャンの暗箱に啓示されて、その夜からぼくは上演台本を書き始めた、というわけである。こうして「おかあさんのおかあさん」が「おばあさん」でないことが、ぼくもわかった。稚気あふれる賢治の”毒”’(あるいは”洒落”)に挑発されて、ぼくは一気に台本を書きあげた

2010年12月24日金曜日

モナリザの目に文字が

20101224 朝日新聞の朝刊、天声人語をここにそのままゲットさせていただいた。この記事に、最大の興味が惹いた。モナリザの目の中に文字が書き込まれていたそうだ。

天声人語

わが身が没するほどの愛を例えて、目に入れても痛くないという。砂粒ひとつ受け入れない急所なのに、かわいい子や孫なら中で転がして一体化したい。そんな思いだろう。

どんな溺愛と同化の痕跡か、レオナルド・ダビンチの代表作「モナリザ」の目の中に、微細な文字が書かれていることがわかった。右の目に画家のイニシャルとおぼしき「LV]、左にも「CE」か「B」と読める字が確認された。

外電によれば、ルーブル美術館に出向いて発見したのはイタリアの文化遺産委員会。50年前の本に〈モナリザの目は暗号に満ちている〉という記述を見つけ、高度の拡大鏡で調べてみたという。委員長は「500年前の筆致は不鮮明だが、さらに謎を掘り下げたい」と語る。

ルネサンスの巨匠は、フランス国王の招きで渡仏した晩年まで、この絵を手元に置いて筆を入れ続けたとされる。微笑むモデルは豪商の妻と伝わるが、「女装の自画像」とする説もある。

天才は科学にも通じていた。解剖学への興味から目の研究も怠りなく、角膜の表面にたっぷり水をつけると視力を矯正できる、と考えていたらしい。『人工臓器物語』(筏義人著)にある。今のコンタクトレンズにつながる発想だ。眼中に忍ばせたサインは、後世の発明を見越した「特許願」にも見えてくる。

ダビンチの時代、魔法のルーペがあったとは思えない。では、肉眼で見えない字をいかにして書き入れたのか。一部始終を見届けたはずの瞳は、防弾ガラスの向こうから謎めいたまなざしを返すばかりである。

2010年12月22日水曜日

故郷から、甥がやってきた

私の兄貴の長男・清が奥さんを連れて、20101219、横浜の我が家にやってきた。私の実家の頼(たの)もしい後継者だ。郷里は、京都府綴喜郡宇治田原町。大学で、私が私の故郷を紹介するときには、酒は美味いし姉ちゃんは奇麗な寒村貧村だと言ってきた。この甥は私が大学3年生の時に生まれたので、今年私が62歳、甥は40歳になる。甥の息子・リョウが東京の杉並で暮らしているようなのだが、金がなくなったら、不安な声で無心の電話があるだけで、どんな仕事をして、どんな処で暮らしているのか、心配になって、そんなことを確かめにやって来たそうだ。清ヨ、立派な親父をしているではないか。そんな甥っ子の行動が、叔父さんには嬉しいのです。

昨夜20101217、甥夫婦にリョウは、弊社が運営している相模原にあるパラデイス イン 相模原に泊まった。

時代が変われば、何もかもが面白いように変わるものだ。心配なのでやって来たという甥・清、この本人だって、若い頃は、父親である私の兄に随分心配やら苦労をかけたものだ。仕事が忙しい兄に代わって、私の父もよく面倒みた。尻を追いかけた。お前だって、随分兄貴に迷惑掛けたではないか、との私の詰問には、俺は金では迷惑掛けてヘンで、ときたもんだ。そう言えば、色んなことにキリキリ舞いをさせられたけれど、生活はきちんと自立していたことは確かだった。当時、久しぶりに実家に帰った時に驚かされたのは、古い農家の庭先に不似合いな大きなコンクリートミキサー車が、家屋の庇ぎりぎりに停まっていたことだ。

父は私達の家族の将来を考えて、昭和の30年代から40年代、聞いたことのない金融機関からお金を借りて、田畑を買っては耕作面積を増やしてきた。当時のその金融機関は、国策で田畑を購入する農家を資金的に援助していたようだ。食糧増産政策の一環だろう。そして現在の甥の時代は、離作する農家が増えて、その断念した田畑を借り受けて、耕作面積を増やしているのです。一団の茶畑があって、その一画の管理が放棄された時には、周辺の田畑に虫が飛び散ったり病気が広がったりで大変悪い影響を及ぼすことになる。耕作を放棄する農家は隣地の所有者に先ずは相談が持ち込むことになる。

今夏の異常な高温で、米の味は美味くならなかった、とぼやいていた。甥の嫁・泰ちゃんは味は、古米の方が美味しいですよ、と言っていた。あんなに暑い夏だったのに、人は直ぐに忘れて、今は冬の入口だ。お茶は、価額が大暴落やった。特に高級茶の値下がり率が顕著だったので、俺は茶の葉を伸ばすだけ伸ばして、量で勝負したんヤ、臨機応変、そしたら量は圧倒的に多く生産できたお陰で、売上げは昨年並みをキープしました、と少し自慢げに話していたのが、頼もしく思われた。農家によっては、去年よりも一千万円も売上げが少なかった家(うち)もあったそうだ。

農閑期の仕事として竹炭も作っている。数年前から仲間たちと取り組みだして、試験を繰り返してきたのですが、ここに来て、やっとビジネスとして成り立つように育ってきたと言っていた。昨年この炭焼き窯を見せてもらった。窯作りの工夫や数々の苦労の歴史を聞かされた。作業場には、空きの缶ビールが転がっていて、ビールを飲みながらの勉強会を繰り返していたのだろう、と羨ましく想像してみた。

このように、私の実家は、父、長兄、甥ときちんと専業農家を後継できた。これからは、この甥の息子次第だが、私には、ヤ・マ・オ・カのDNAが脈々と生き続けていくさまを、見られるのは至福の思い。故郷(ふるさと)は、まだまだ近場にあって、遠くにはいきそうにない。

故郷での出来事、私の兄弟のこと、親戚のこと、私の友人達のことの話に華が咲いた。つまらない些細な出来事でさえも楽しく聞けた。よく来てくれたぞ、甥っ子の清と嫁の泰ちゃん。甥の子供・リョウも我が家について来た。彼とは、新横浜マリノススタジアムでのトヨタカップの決勝戦以来だ。6~7年前のこと。彼は今、二十歳。青雲の士だ。私が学生時代、「二十歳の原点」とかいう本が売れていたことを、由(よし)もなく思い出した。私が東京の高田馬場の大学に入学したのが20歳だった。

私の育った、宇治田原の里のご紹介

未分類 窶鐀 山岡保 @ 2006/11/21 08:55

私の育った、宇治田原の里のご紹介。

宇治平等院の裏を流れる宇治川をさかのぼっていくと、天ケ瀬ダムがある。源流は琵琶湖だ。川に沿ってダムを見下ろすような道が蛇行している。この道こそ、その昔、ここで紹介している私のふるさとの、京都、大阪に通じる唯一の出入り口でした。高校には、マフラーをカットしたホンダのスーパーカブに乗って、レーサー気取りで、通った。もう少し川をさかのぼっていくと、宇治川は、瀬田川と田原川に分かれる。その支流である田原川に沿った道を進むと、我がふるさと、宇治田原町に入ります。河岸段丘の少しばかりの平地を、山々がぐるりと取り囲んでいる。

ここで私は生まれ、20歳まで過ごした。

(2006年10月14日 京都新聞の記事より)

和みのまち

大規模集団園を造成

京都府綴喜郡宇治田原町は今年町制50周年を迎えた。田原村と宇治田原村が合併で宇治田原町が誕生して半世紀。住宅や工業団地の開発が進む町はいま、茶文化をキ-ワードにした(和みのまち)を目指している。

府南部のほぼ中央東に位置し、人口1万249人(10月1日 現在)。南東部に修験の山・鷲峰山がそびえ、中心部を田原川が流れる。町内各地区には由緒ある寺社や史跡が多く、豊かな歴史を今に伝える。また、緑茶製法の発祥の地として、町挙げて茶を通した国際交流など茶文化の発展に力をいれてきた。

史跡・伝統 豊かな歴史 今に伝え

古くは奈良と京都、近江を結ぶ要所だった宇治田原町は、由緒ある寺社や史跡をもち、文化財が数多く残る。同町で国の重要文化財に指定されている八件のうち、禅定寺所有は七件を数える。本尊(木造十一面観音立像)、平安時代―江戸時代の同寺伝来の古文書「禅定寺文書」などで、藤原道長から頼道に伝えられた領地が同寺に寄進されたことなどが文書に残るという。正寿院(同町奥山田)の「木造不動明王坐像」も国の重要文化財で鎌倉初期の仏師、快慶の作とされる。

神社では、こぶとりの神で知られる猿丸神社(同町禅定寺)が有名で、緑茶製法を開発した同町出身者の永谷宗円を祭る茶宗明神社もある。

一方、各地区には今も古来の風習が伝わる。落ち武者の隠れ里とされてきた高尾地区に女人禁制の小正月行事「縁たたき」が残り、奥山田地区には、「ねりこみばやし」が代々受け継がれている。酒を飲ませたウナギを滝つぼに放流する一風変わった雨乞い行事は、湯屋谷地区で毎年開催される。

農林業

日本緑茶発祥の地である宇治田原町は、江戸時代に永谷宗円が「永谷式煎茶」を生み出して以来、茶作りの歴史を積み重ねてきた。町内に広がる茶園の総面積約二百三十ヘクタールで、生産農家は約五百七十戸。年間の生産量は約四百トンに上る。春の茶摘みの時期には茶園のあっちこっちで、青々とした茶の芽を摘み取る摘み子たちの姿が見られ、初夏の新茶作りの最盛期には、町内の製茶工場から茶の甘い香りが漂う。

緑茶と並ぶ同町の特産品が「古老柿」だ。皮をむいたつるのこ柿という渋柿を山里の寒風にさらし、甘く柔らかな「古老柿」に仕上げる。晩秋のころには稲刈りの済んだ田んぼに古老柿作りための柿屋が立ち並び、何万個ものつるのこ柿が干してある風景は、昔から続く宇治田原の風物詩だ。

町は本年度から、町内に大規模な集団茶園を造成する事業を始めた。移りゆく時代とともに、茶業を取り巻く環境も変わってきたなかで、緑茶発祥の地として茶文化を支え続けてきた町は、これからも茶の歴史に新しいページを付け加えていく。

教育・文化

宇治田原町は「地産地消」をキーワードに、地元産の食材を生かした食育に力を注いでいる。新茶のシーズンには、町立保育園や小学校の子供達が町内の茶園で茶摘を体験し給食には新茶を使ったかき揚げや茶の芽の炊き込みご飯など、郷土色豊かなメニューが出る。小学校では、茶やキュウリなどの生産農家を講師に招いた授業や休耕田を利用した米の栽培体験など、学校と地域が一体となって食の大切さを学んでいる。茶を通した国際交流も盛んで2004年から茶発祥の地といわれる中国雲南省との交流事業を進めている。04年からは町内の三小学校の児童が摘んだ茶を同省に贈り、友好を深めてきた。食を通してふるさとの文化に親しみ、茶を通して世界の文化を知る試みが続いている。

産業

緑豊かな茶畑に囲まれて、平屋の工場が立ち並ぶ宇治田原工業団地。1988年、府内初の民間開発による工業団地としてオープンした。総面積約80ヘクタールの広大な敷地の中に、約50の製作場や工場が立ち並び、府内有数の工場団地に発展してきた。オープン当時は金属プレスの工場が多かったが、時代とともに業種も移り変わり、今は紙加工や印刷技術、食品関係の工場が多く入居している。半導体部品や精密機械の組み立てなど、先端技術を支える企業の進出も目立つ。

同工業団地に隣接する緑苑坂地区にも、2002年に緑苑坂テクノパークがオープンした。約10ヘクタールの敷地には学校給食共同調理場や印刷工場などが入居し、現在も新たな企業が工場を建築中だ。

産業の発展が進む一方で、同町は環境保全の取り組みにも力を入れている。今年8月には、町内に生息する府の絶滅寸前種や絶滅危惧種などの野生動植物800種の生態をまとめた(宇治田原町レッドデータブック)を発行した。地域に残された豊かな自然という財産を町はこれからも守っていく。

2010年12月13日月曜日

金子光晴の詩に、「六十代」というのが

今日も、金子光晴さんの詩集を手にとった。私、62歳。

昨夜、加賀乙彦さんの「夕映えの人」を読み終えた。主人公の60歳前から70歳前後までの間、夫婦を中心に、子供たち、兄弟らの身の上に起こった数々のできごとが繰り広げられた。仕事上のトラブル、父母の残していったものの後始末を物語りにしたものだった。異母妹が突然現われたりもした。面白かった。そんな物語を読むと自然に、私自身に、62歳の男として、年相応の生活をきちんと生きているか、と問う。即答=ただただ、だらしない生活ぶりに恥じ入るのみだ。それでも、老後の生活が安らかでありたいと思う。身内に災厄が少ないことを願う。

加賀乙彦さんの「夕映えの人」のようには、なかなか、そうは巧くいかないものだ。

そんな、老境に入りつつある私は、この今、何を、どうすればいいのか?と考える。悔いのないように、生きて死ぬことだろうが。下の金子光晴さんの詩に今、私が生きていくためのヒントがあるように思えた。

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六十代   金子光晴

六十代ともなれば男も、女も、

生えてくる毛がどこも、白い。

染毛剤はよくなったろうが、

染めている姿が困る場所もある。

 

従って、万端、むさくるしく、

人目に立つのがひけ目になるので、

出合茶屋の入口をくぐる勇気もなく、

さあ、これからは何を頼りに生きるか、

 

ひとには言えないことではあるが、

娑婆気の残物(あら)は、どこへすてたものか。