2006年11月22日水曜日

ドフトエフスキーが、本屋さんから消えた?

 



私には持病がある。何かの拍子にやってくる「ドフトエフスキー病」です。無性に、ドフトエフスキーを読みたくなるのです。 

太宰 治が、トカ トン トン と表現したような感じで近づいてくる。きたかな、と思いきや、今度は突然急に。それも、(カラマーゾフの兄弟)を。そろそろかな、と予感がしていた矢先、もう全く完全な病人状態になってしまった。


(カラマーゾフの兄弟)を最初に読んだのは、大学3年生夏合宿の前後1ヶ月で。


大学生の間には、代表的なロシア文学はだいたい読破した。


大学4年間のうち2年間は、校舎はロックアウトされていて中には入れなかった。クラス討論とそのあとのデモで忙しかった。昼間は本物の体育会のサッカー部員だった。



 

 

2回目は37歳の秋、某電鉄系レジャー施設運営企業を9年7ヶ月勤めて退社した時。それまで勤めていた会社の社長さんは、日本体?協!とか日本オ?ン!ック#員会とかの組織の要職について、鼻息荒い二代目だった。この人、ちょっと胡散臭いぞ、と思ったときには、辞表提出済みだった。その約25年後、この二代目は事業家としては、悲しい結末をもかえることになった。事業家としては、落第だった。逮捕まで、されちゃった。



 

 

3回目は、53歳の時、平成13年だ。


バブル崩壊後、我が社は荒波に呑み込まれる寸前の難破船状態だったが、なんとかほぼ10年を経て(ゼロ)の位置にたどりつけるようになった、その頃だ。難破船時には、以前の社員は皆、恐れを感じて去って行った。専務と私以外は、新しく参加してくれた社員のみになった。



 

 

今回、再発したのは4回目。平成18年11月だ。58歳の今だ。



 

 

「ドフトエフスキー病」が発症するときは、自分の内に何かが、起こっているときなのです。



 

 

居ても立ってもいられなくなって、チェーン店になっている古本屋さんに、(カラマーゾフの兄弟)を買い求めに行った。以前に読んだ本は私の本棚を探せばあるのだろうが、今回は活字の大きい本で読みたかったのです。


その店には(カラマーゾフの兄弟)が見つからなかった。


(カラマーゾフの兄弟)だけではなく、古典的な名作といわれる本の類が、何も、何処を探しても、見つからない。現代作家の著作物は、棚に溢れているのに。


商売にならないのだろうか?誰も古典的な作品を買おうとしないのだろうか?


古典的名著は、もう読まれないの?


読んだ本を、古本屋には持ち込まないで、自分の書庫にしまいこんでいるのだろうか。


どうなっているのだろう? 不思議だ?



 

 

私は、腑に落ちないまま、次の古本屋に行く覚悟をして、その店を出た。


が、しかし、もう一軒の古本屋にも無かった。学生街の古本屋にでも行けば、あるのだろうか、とも考えたが、そんなところへ行く時間がない。


古本屋さんで買い求めるのは諦めた。


しょうがないから、宮部みゆきさん、桐野夏生さん。長編、ダーク、ブレイブ ストーリーを買わせていただきました。


けっして、ドフトエフスキーさんの代打ではありませんから。私は、あなたたちの真剣な読者ですから、あしからず。



この数年間のうちに、本を買うのは古本屋さんで、という習慣が知らず知らずのうちに、身についてしまったようだ。そう言えば、駅前の情報誌やコミックをメインにしている本屋さん以外の、総合的に品そろえしている本屋さんには、永いこと行ってないことに、驚いた。



古本屋さんからは、間違いなく、ドフトエフスキーさん、トルストイ、チェーホフさんもいなくなっちゃいました。



 

 

新刊なら、本屋さんにあるの?



 

 

2006年11月21日


横浜駅ビルのなかにある、横浜では有名な本屋さんに行ってみた。さすが、有名な本屋さんだけあって、「カラマーゾフの兄弟」はあった。全て文庫本になっていた。買った。経済的に多少余裕ができたことと、小さい字では疲れるので、大きい字の本を手に入れたかったのだが、もうそんな本はなかった。やっぱり、この店にも、古典的名作といわれている本は少なかった。




宮部さん、桐野さんの次には、憧れのドフトエフスキーさんの苦悩の世界に突入するぞ。



 

 

この苦悩の世界が、たまらないのです。


この苦悩が人を成長させるのだろう。

k取締役が、アニサキスを土産に、出社した。

アニサキス君が、会社にやってきた   


弊社取締役のk氏が、「俺、胃ガンにやられているようなので、明日朝、病院に行ってくるわ」。「胃がんでも、胃潰瘍でもしょうがないんや、あれだけ、不摂生してりゃ。なあ、せやろう」と言う会話で、前日は仕事を終了した。


習慣になっている、仕事上がりのビール一杯もなしに帰社した。


私に対しては、そのように言ったが、他のスタッフには、2 3日前に食った刺身にやられたようだ、と打ち明けていたようです。生来の刺身好き、身体防御精神希薄、とん馬な衛生知識、そのうえ、食い意地が張ってりゃ、胃袋に何らかの変調が発生しても、何等不思議なことではない。


翌日昼過ぎ、k取締役は出社した。ポケットから出した小さな容器を皆の前に突き出した。透明の小さな容器には、何やら、白い小動物が泳いでいる。


容器の中のご主人様は、恐れ多くも、アニサキス君では、ありませんか。お医者さんもなかなか気が利くじゃないか。ちゃんと、お土産物にして、帰らすなんて。


大事に、育てましょう。なんて言う輩まででてきた。


会議室のテーブルにでも、置いとけばいいのに、と思ったのだが。


死んでしまっちゃ、面白くない、とk取締役は捨ててしまいました。

2006年11月21日火曜日

私の育った、宇治田原の里のご紹介

私の育った、宇治田原の里のご紹介。

  宇治平等院の裏を流れる宇治川をさかのぼっていくと、天ケ瀬ダムがある。源流は琵琶湖だ。川に沿ってダムを見下ろすような道が蛇行している。この道こそ、その昔、ここで紹介している私のふるさとの、京都、大阪に通じる唯一の出入り口でした。高校に、マフラーをカットしたホンダのスーパーカブに乗って、レーサー気取りで、通った。もう少し川をさかのぼっていくと、宇治川は、瀬田川と田原川に分かれる。その支流である田原川に沿った道を進むと、我がふるさと、宇治田原町に入ります。河岸段丘の少しばかりの平地を、山々がぐるりと取り囲んでいる。

ここで私は生まれ、20歳まで過ごした。


(2006年10月14日 京都新聞の記事より)


和みのまち 

大規模集団園を造成 

 京都府綴喜郡宇治田原町は今年町制50周年を迎えた。田原村と宇治田原村が合併で宇治田原町が誕生して半世紀。住宅や工業団地の開発が進む町はいま、茶文化をキ-ワードにした(和みのまち)を目指している。  

 

府南部のほぼ中央東に位置し、人口1万249人(10月1日 現在)。南東部に修験の山・鷲峰山がそびえ、中心部を田原川が流れる。町内各地区には由緒ある寺社や史跡が多く、豊かな歴史を今に伝える。また、緑茶製法の発祥の地として、町挙げて茶を通した国際交流など茶文化の発展に力をいれてきた。


史跡・伝統  豊かな歴史 今に伝え 

 古くは奈良と京都、近江を結ぶ要所だった宇治田原町は、由緒ある寺社や史跡をもち、文化財が数多く残る。同町で国の重要文化財に指定されている八件のうち、禅定寺所有は七件を数える。本尊(木造十一面観音立像)、平安時代―江戸時代の同寺伝来の古文書「禅定寺文書」などで、藤原道長から頼道に伝えられた領地が同寺に寄進されたことなどが文書に残るという。正寿院(同町奥山田)の「木造不動明王坐像」も国の重要文化財で鎌倉初期の仏師、快慶の作とされる。  

 

神社では、こぶとりの神で知られる猿丸神社(同町禅定寺)が有名で、緑茶製法を開発した同町出身者の永谷宗円を祭る茶宗明神社もある。


一方、各地区には今も古来の風習が伝わる。落ち武者の隠れ里とされてきた高尾地区に女人禁制の小正月行事「縁たたき」が残り、奥山田地区には、「ねりこみばやし」が代々受け継がれている。酒を飲ませたウナギを滝つぼに放流する一風変わった雨乞い行事は、湯屋谷地区で毎年開催される。


農林業 

日本緑茶発祥の地である宇治田原町は、江戸時代に永谷宗円が「永谷式煎茶」を生み出して以来、茶作りの歴史を積み重ねてきた。町内に広がる茶園の総面積約二百三十ヘクタールで、生産農家は約五百七十戸。年間の生産量は約四百トンに上る。春の茶摘みの時期には茶園のあっちこっちで、青々とした茶の芽を摘み取る摘み子たちの姿が見られ、初夏の新茶作りの最盛期には、町内の製茶工場から茶の甘い香りが漂う。

緑茶と並ぶ同町の特産品が「古老柿」だ。皮をむいたつるのこ柿という渋柿を山里の寒風にさらし、甘く柔らかな「古老柿」に仕上げる。晩秋のころには稲刈りの済んだ田んぼに古老柿作りための柿屋が立ち並び、何万個ものつるのこ柿が干してある風景は、昔から続く宇治田原の風物詩だ。


町は本年度から、町内に大規模な集団茶園を造成する事業を始めた。移りゆく時代とともに、茶業を取り巻く環境も変わってきたなかで、緑茶発祥の地として茶文化を支え続けてきた町は、これからも茶の歴史に新しいページを付け加えていく。



教育・文化   

宇治田原町は「地産地消」をキーワードに、地元産の食材を生かした食育に力を注いでいる。新茶のシーズンには、町立保育園や小学校の子供達が町内の茶園で茶摘を体験し給食には新茶を使ったかき揚げや茶の芽の炊き込みご飯など、郷土色豊かなメニューが出る。小学校では、茶やキュウリなどの生産農家を講師に招いた授業や休耕田を利用した米の栽培体験など、学校と地域が一体となって食の大切さを学んでいる。茶を通した国際交流も盛んで2004年から茶発祥の地といわれる中国雲南省との交流事業を進めている。04年からは町内の三小学校の児童が摘んだ茶を同省に贈り、友好を深めてきた。食を通してふるさとの文化に親しみ、茶を通して世界の文化を知る試みが続いている。


産業  

緑豊かな茶畑に囲まれて、平屋の工場が立ち並ぶ宇治田原工業団地。1988年、府内初の民間開発による工業団地としてオープンした。総面積約80ヘクタールの広大な敷地の中に、約50の製作場や工場が立ち並び、府内有数の工場団地に発展してきた。オープン当時は金属プレスの工場が多かったが、時代とともに業種も移り変わり、今は紙加工や印刷技術、食品関係の工場が多く入居している。半導体部品や精密機械の組み立てなど、先端技術を支える企業の進出も目立つ。

同工業団地に隣接する緑苑坂地区にも、2002年に緑苑坂テクノパークがオープンした。約10ヘクタールの敷地には学校給食共同調理場や印刷工場などが入居し、現在も新たな企業が工場を建築中だ。



産業の発展が進む一方で、同町は環境保全の取り組みにも力を入れている。今年8月には、町内に生息する府の絶滅寸前種や絶滅危惧種などの野生動植物800種の生態をまとめた(宇治田原町レッドデータブック)を発行した。地域に残された豊かな自然という財産を町はこれからも守っていく。  

2006年11月16日木曜日

社長、会社は変わりましたよ

社長、会社は変わりましたよ

2006年11月14日 夕方 


長年頑張ってくれていた女性スタッフが、悲願のオメデタ。出産激励会を会社内で行った。当の本人は、お腹、ポンポコリンのために、早い目に帰宅してもらった。産休だ。


後は、弊社のいつも通りの、大騒ぎの大宴会。


「社長、新しい人が入ってきて、会社に活気が出てきました。とっても楽しいです」とベテラン社員のT君が、言ってくれるじゃありませんか。


私は、「有難う、そう言うてくれると、嬉しいじゃありませんか」。なんて会話がいき交った。


そうなんだ。一人が入社するごとに、会社は変貌しなければならないのだ。


決算を終えた後の、不思議な精神状態は快方に向かっている。怖気づいた私の経営者としてのマインドも、やっと乗り越えたようだ。


スタッフの面構えを見て,今後の会社運営に自信復活って、とこかな。


 

2006年11月15日水曜日

絵本「ハチドリのひとしずく」

2006年11月14日 朝日新聞から抜粋させていただいた。



 


一冊の絵本から環境問題に目を向ける人が増えている。


「ハチドリのひとしずく」


南米・アンデス地方の先住民族に伝わる民話で、燃えさかる森にハチドリが一滴ずつ水を落としていく短いストーリー。地球温暖化に対して「一人ひとりができることをやろう」とのメッセージにも読める。この話を広めようという動きが、各地で自然発生的に起きている。



 

 


絵本(ハチドリのひとしずく)より



 


森が燃えていました


森の生きものたちは


われ先にと逃げていきました


でもクリキンデイという名の


ハチドリだけは


いったりきたり


くちばしで水のしずくを


一滴ずつ運んでは


火の上に落としていきます


動物たちがそれを見て


「そんなことをしていったい何になるんだ」


といって笑います


クリキンデイはこう答えました


「私は、私にできることをしているだけ」



 

 


ハチドリの物語は勝利を暗示しているが、結果については語っていない。伝えているのは結果ではなく、過程の大切さだ。過程の力強さが、結果を暗示している。結果は読者に委ねられている。


ハチドリが燃える森に落とした一滴の水は、伝統文化やその基盤である環境を守るためのものだ。自分の巣だけでなく森という社会や経済全体も守ろうとしている。そして、自らが行動することの大切さを示している。

一星(いっせい)が、結婚した!!



 

 

2006年11月12日


息子の高校生時代のサッカー部の部友、高橋一星が結婚した。


仕事中、祝辞でも一発かまさないと、面白くない、と思いつき、披露宴会場に届けてもらうように、急遽、ファックスした。



 

 

ご結婚おめでとう、一星!!       草平の父  岡山 ?



 

 

結婚生活のスタートに際し、一言、祝辞を献上させていただきます。


君が、高三の時の公式最終戦、対座間高戦を思い起こしてください。


私は、君のことを「黒い弾丸」と名づけていました。


その名の通り、とにかくよく走ったヨなあ。よく頑張った。


試合は二転、三転した。


うまくいっている、と安心していると、突然ピンチに襲われ、


又、苦しく藻掻いている最中にも、思わぬチャンスがやってくることも、学んだヨな。


一星!! 新郎の「黒い弾丸」君、走れ。


君には、強い味方がいる。


最強の味方だ。


君が、どのような苦境に追い込まれようが、そばには優しく微笑む妻がいる。


輝いている妻がいる。


喜びを分かち合える、妻がいる。


走れ、一星。


水飲み場には、ちゃんと妻が待っている。


体の渇きを癒して、一息ついたら、


世界の偉大さに気づくことだ。


そのすべての真実を極めるのだ。


走れ、一星。


千里も万里も。



ええか、一星、


これからは、妻の手をとって、走るのだ、一星。

2006年11月12日日曜日

天声人語なしでは、今の私はない

何もこんなところで、朝日新聞を褒めちぎっても、しょうがない、と言えばしょうがない話だ。けれども、私と天声人語との付き合いは、実に永く深い関係だ、としみじみ思う。



 

 

勉強嫌いだった中学生の私に、慕っていた国語の先生からの影響は大きかった。その先生は、天声人語のことを、何か大変なもののように話され、それを私は、何か大変重要なことのように理解してしまったようです。中学1年生のある時から、今に至るまで天声人語は空けることなく、毎日読み続けてきた。私は、中学生、高校生、浪人中、試験勉強として、国語の教科書・参考書を広げたことはない。ひねくれ者だった。お仕着せには、素直に従いたくなかった。国語ぐらいは、自分で勝手にやらあ、と息巻いていた。かわりに、中高、浪人時代には、「国語」として、天声人語を完全に理解できるように努めた。漢字の読み書きも完全にものにした。


内容が時事的(即時的)・社会性に溢れ、啓蒙的、道徳的、教訓的、規範的で、私の成長の過程において非常に刺激を与えた。私は刺激を受けた。山深い、谷間山間の寒村に育った少年には、世間を覗く窓口でもあったのです。



 

 

そんなことを、何故ここでこんな文章を綴っているのかというと、今日も又、天声人語に素晴らしい文章を読ませて頂いたものだから。



 

 

9・11同時多発テロ以来二つの戦争に踏み切り、イラクではいまだに出口が見えない。そんな状況下、ブッシュ大統領の不人気の影響で、中間選挙で,共和党が減り上・下院とも過半を割った。そのような内容が書いてあって、最後にワシントン初代大統領の演説内容にふれてある。その文章に魅入られたのです。その記事をここに転載させていただいた。



 

 

2006年11月9日の天声人語より


230年前に独立した時、アメリカは北米大陸の中の、新しい一つの国でしかなかった。初代大統領となったワシントンは、3期目には立候補しないことを表明した後、議会で決別の演説をした。「ある特定の国々に対して永続的で根深い反感をもったり、他の特定の国々に対して深い愛着をもったりせず、かわりに、すべての国に対して正当で友好的な感情を育むことが何よりも重要である」(井上一馬・編著『後世に伝える言葉』小学館) 生まれたての国の未来を案ずる切実な思いが伝わってくる。超大国としてではなく、世界の中の一つの国として、建国の父の精神を思い起こす好機だ。

2006年11月7日火曜日

お前ら、よく読め。腹の脂肪は死亡に通じるってヨ

この記事を紙面に見つけた時、私は、これは頂きと思った。こんな、いいニュースを、もっと多くの人に知ってもらいたい。特に、私の身近の、n君,o君,t君,s君,s2君,a君,k君には、この記事を面前に叩きつけてやらねば、と思ったのです。「よく、読めよ」と、言葉を添えて。 

朝日新聞 2006年10月28日の記事を拝借。


毎日1万歩、脱メタボリック 

 毎日1万歩以上歩くとメタポリックシンドローム(内臓脂肪症候群)の予防につながりそうー。名古屋大の押田芳治教授(スポーツ医学)らがこんな研究まとめ,神戸市で開かれている日本肥満学界で27日、発表した。メタボリックシンドロームは、食べ過ぎなどで内臓脂肪がたまり、糖尿病や高血圧などになりやすくなった状態。アディポネクチンという物質の分泌が減り、動脈硬化になる危険性があるとされる。女性27人に協力してもらい、毎日の歩数を3ヶ月間記録し、血液中のアデイポネクチン濃度を調べた。毎日1万歩以上か、2千歩以上早足で歩いていた人たちは、運動前より2割以上高くなった。

2006年11月6日月曜日

つたない経営者よ、荒野をめざせ

つたない経営者、私の大きな悩み    

 

(注)この文章は社内用に作成したものだが、弊社の求人募集に応じてくれる方々が多くいることも念頭において、社外の人にも弊社の経営方針の一部でも知ってもらったほうがいいと判断して公開した。



 

 

27期(平成17 9/1~ 18 8/31)が終わって、申告を先日の10月31日に行った。同日に納税も済ませた。急成長期突入の故、決算内容はよかったけれど、まだまだ流動資金が足りなくて、納税資金を調達するのに、大変だった。経理事務所からは、後2~3期は大変な思いをしなくちゃならないでしょう、とのこと。


決算内容を詳細にチェックしたが、細かい数字についてはよく解らないのが実感だけれども、なんだか、私は、不思議な精神状態に陥ってしまった。


この不思議な感覚は、何んや? 何故? どういうことなのだろうか?


このことが、この文章を綴る動機になった。



 

 

この不思議な感覚は、「会社は誰のもの?」について考えると、はっきりしてくるのではないかと思いついた。


「会社は誰のもの?」について、経営者(役員)、社員、株主、関係者等は同一の認識を共有しなければならない、と考えている。


私以外の者がどのように考えようが、金輪際、お構いなしに、私流に考証を巡らしてみる。



 

 

決算が真っ赤、火達磨状態の時に、社員に対して「会社は誰のもの?」と聞いたら皆はどのように応えるだろうか。


「私は会社のスタッフの一人です。会社あっての私ですから、会社が存在するかぎり、死にもの狂いで頑張ります」と応える者は、まあ、余程、達観している奴でないかぎり、言いきれないだろう。


でも、普通の経営者だった私、の会社には、地獄のどん底をさ迷っていたとき、会社と運命を共にと、艱難辛苦、無我夢中で頑張ってくれた社員がいた。今のN村専務だ。稀有な、奇特な人物だ。彼の良さは、苦しいことも、あたかも楽しい事を行うが如くこなしてみせた。


こんな社員ばかりなら、何も、この課題の考証を進めることもない。



 

 

*社員は、働き手としての権利・義務、そして所属する会社との取り組み、関わり方を、経営者に対して明確に意思表示すべきだ。


*経営者は、社員に対して、労働の対価を、何を、どれだけ、どのようにして、用意してあげられるかを精一杯、考えることだ。



 

 

そこで、今回の決算〆で、私が感じたことを露骨に話す。「会社は誰のもの?」。こんなことは、つたない経営者と言えども、私は、基礎素養として、既に当たり前のように身につけている。


が、しかし、会社は社員のものでもあるんだ、ということに、なかなか気が行き届かなかったのが正直なところだ。今回の決算に記載されている数字は、全てのスタッフの日常活動の、よかれ悪かれの成果なのだ。多くの社員は当然社員として、社長、専務も役員として、社員として働いた。その社員等が一年間頑張った成果が年次の決算書で、その一年一年の積み重ねが、直近の決算書の累計(資産の部)であり、(負債・純資産の部)である。



 

 

私は、我が社は、『(会社は社員のものでもあるんだ)改革』の手始めに、先ず,後記の事をトライしてみたい。



 

 

早速、取り込んでみたいと思っているのが、社員に株を持ってもらうことです。社長や専務が、独占していてもしょうがないのではないか。社員に褒賞として、分け与えていくべきではないか。


そうすることで、会社は社員のものでもあるんだ、ということになるのではないか。会社が良くなれば、良くなるだけ、社員も経営者も、もっと良くしたいと思うのではないだろうか。社員も株主として、業務の励みになれば、こんなにいいことはない。


役員の両名とよく相談して、できるだけ早い時期に、この案を実行したい。



 

 

前の方で書いた、不思議な感覚とは、実は我が社の将来に対する恐怖や不安が入り混じった感覚だったのだ。会社がよくなれば、よくなるだけ、会社の存在の重要性が増してくる。内外に対しての責任が重くなる。


もっと正直に言えば、決算書を見ていて怖くなってきたのです。二人っきりの株主で、役員が三人だけで、経理・経営に不慣れな監査役では心配三昧だ。


こんな状態で、今後の我が社の飛躍的な発展はあるのか?


もう、停まる(留まる、止まる)わけにはいかないのです。縮小するわけにもいかないのです。


今こそ、社内の体制、組織、を見直して、自由で闊達で、生き生きした組織に、あらためて脱皮したいものです。労使?がお互いの壁を破った組織をイメージしている。


親・女房・子供に、我が社を取り巻く誰に対しても、誇れる会社にしたい。


お客さんには、いい商品を提供して喜ばれたい。




そして、不思議な感覚に陥らないようになりたいものです。

2006年11月1日水曜日

田口 苦闘5年。みんな そう(壮)に学べ!!

カージナルス ワールドシリーズ優勝 田口 世界一 苦闘5年         (朝日新聞 2006年10月28日 夕刊)         


 


2006年10月27日 「日本時間28日」のワールドシリーズ第5戦。ナ・リーグ覇者のタイガースに4-3で勝利。1勝1敗から本拠で3連勝し、24年ぶりの栄冠をつかみとった。


いつも通りの献身的なプレーを貫いた。2回無死1塁で3前にセフチイーバンド。


「自分の仕事は記録を追うことじゃない。いかにチームを勝ちに近づけるか」


4回には中前安打を放ち、逆転のホームを踏んだ。


 


 


入団当初のキャンプで「打力が弱い」と判断され、3Aへ落とされた。メジャーに上がってもすぐにすぐにマイナーに逆戻り。ひび割れたヘルメットをかぶり、長時間のバス移動を経験した。2年目には、開幕当日に3A行き。苦闘の中で、生き残るすべてを探した。ラルーサ監督の掲げる緻密な野球に適応しようと守備を磨き、相手投手を研究して打力をつけ、はい上がった。指揮官は言う。「ハードにプレーし、ミスをしない。これがうちの野球だ」。その象徴が背番号99だった。


第1戦でバットを投げ出して進塁打を打ち、第3戦は右翼で好守を連発。4,5戦ではきっちり犠打を決めた。


第5戦では、8番左翼で今シーズン3度目の先発だ。






田口の今までの行動に学ぼう  職人、メジャーに「証し」  


   以下  私                                                


5年前、オリックスからメジャーのカージナルスに入団した。その記者会見で、英語だけで受け応えしていたことが、すごく印象に残っていた。それも、冗句をまじえながら。


当時、田口のことには、正直、関心が無かった。私は、特別、何かに秀でている選手ではないと、思っていたのだろうか?


メジャーで活躍する他の選手のことは、ことあるごとに、マスコミで騒がれ、いや応なしに報道される。表舞台はいつも、賑やかで、華々しい。


かたや田口のことは、苦労していることばかりがテレビのちょっとした特集で報道されていたぐらい。マイナーで健気に頑張っている練習風景など。守備では高い評価を受けながら、どうしても打力が貧弱だと評価されていたのだろう。


でも、メジャーに戻ってきたこともしばしば、あった。ところが、メジャーに復帰しても数すくないチャンスに、守備ではそつが無いが、どうしても打力では目立った貢献はできなかった。


でも、時には打力でも頑張っていたんだけどなあ、と、私は思っていたんだ。


そんな数年のうちにも、田口は精進を重ね、メジャーでの活躍のための準備を着々と積み上げて来ていたのだ。


監督を含め、取り巻くコーチ陣は田口の成長をきっちり認めていたのだろう。田口、監督等は、相互に、求めているもの、求められているもの、の共通認識がなされていたのだろう。言葉を交わすまでもなく、よく理解し合っていたのだろう。


今シーズンは先発3回のみ。


ベンチで待機していて、監督からの指示を待つ。


だから。打数、打率、塁打数、では決していい数字ではない筈だ。


が、田口は、田口を必要がられたときの貢献度が高いのだろう。だって、ベンチ入りができる人数は決められている。そのなかに入れるだけの価値を認められているのだから。


塁にいる走者を次の塁に進めるために犠打の指示を受ける。流れを変えたいときに呼ばれては代打を命じられる、ここ一番の守りに、左翼に右翼に、ワンポイント守備だ。


試合を進めていく過程で、要所要所に、ピンチがありチャンスがある。指揮官は、その場から、最大の収穫を得ること、最少の損出に抑えること、に苦心する。


指揮官の指示に従って、確実に仕事をこなす。


田口は、立派に与えられた仕事をこなせられる優秀なスタッフの一員に成長した。今回、その評価を十二分に受けた。


田口は、職人として?傭兵になって?


ラルーサ監督は、ワールドシリーズの優勝を決めた最初のインタービューで、イの一番にソウ(田口のこと)のことを褒めた。




田口から、彼の生き方から学ばせてもらうことは、いっぱいあるぞ。




田口は語る=物事は飛躍的には進まない。少しずつ積み重ねがあって、ここまでこられた。2Aも含めていろいろな経験をさせてもらい、ファンの辛い時に励まされた。すごく幸せだと思う。



フロリダの青空の下、大きな瞳を潤ませた。腕にカージナルスのユニホームを着た息子を抱き上げて、観衆に応えた。


翌日のパレードでは、オープンカーに奥さんと息子も一緒だったと、聞いた。


      リックス 仰木監督は、トルネード投法の野茂、振り子打法のイチローに次いで、「世界一」の田口を、メジャーに送り込み、大きく花を咲かせたことになる。野茂は私から見れば、奇っ怪な投法でバタバタ三振をとり、イチローはあたかもピンポンのように、何ぼでもヒットを打った。又、イチローは今春のWBCで優勝のための大役を果たした。田口はいぶし銀の職人芸を磨いた。 田口は語る=トニー(ラルーサ監督)も仰木監督と似ている。突然使われるし、打順も何番でも打たされる 優勝を決めた日、田口のスタメン発表の放送に応えて、観衆は一際拍手がおお、、


仰木さん、天国での気分は、さぞかし満足じゃろう。