2007年7月27日金曜日

映画:「プライド in ブルー」を観た。

テアトル新宿 10:00~

1185786857.jpg

映画:題名「プライド in ブルー」

忘れられている 純粋なひたむきさが ここにはある

監督:中村和彦   ナレーション:寺田 農   プロデューサー:鈴木政信、太田裕輝

この映画は、第4回INAS-FIDサッカー世界選手権ドイツ大会(サッカーワールドカップ2006年大会)に出場した日本代表チームの選手たちと、試合をメインに大会の様子を迫ったドキュメンタリーである。FIFAサーカーの祭典が4年に1度ワールドカップとして、最高のレベルの試合が繰り広げられ、つかんだ栄誉は、サッカー史に燦然と刻まれる。毎回、数々のスーパーヒーローが生まれる。ゲームの醍醐味に、世界の隅々の人々を酔わせる、とんでもない祭典なのです。が、そんなワールドカップとはちがう『もうひとつのワールドカップ』があることを、知っている人は少ない。この『もうひとつのワールドカップ』と、その大会に出場した『もうひとつの日本代表』による真実のドラマです。

映画を観ていて、私は錯覚に陥った。え~これが、なんでじゃ? 。知覚障害者って? 。だったら、俺は健常者か、知覚障害者か、どっちだ。 ええ~え どうなっちょるんじゃ。練習風景から、試合、ミーティング、試合を離れての彼たちの行動、どれをとっても、私には、知的障害者というカテゴリー?が解らなくなってしまった。そんなカテゴリー、何故?、何の為に?、必要なの。 それ、線引き?ってことか。それ、誰のために?。日本では、通常、知的障害を持つサッカープレーヤーが健常者とプレーする環境にないのが、現状です。オランダは代表選手全員が健常者のチームでプレーしている。

健常者と知的障害者とは、何ら変わるところがないのだ、と確信した。今まで、健常者と知的障害者とを区別してきた論理はなんだったんだろう、この根源的なことについての論議を期待したい。実は、私にとっても、再発見だったのです。学生時代に、学校教育における養護学校のことを、話し合う討論会に出席したことがあったのです。この映画は私がその討論会で置き残してきた問題を再び照射した。その討論会では、私は孤軍、奮闘したけど、成果は得られなかった。今、再び、ここであぶりだされたことに、はっと覚醒した。世の広範な論議を求めたい。

今までの教育行政は、摩訶不思議な論理を誤認のまま、無策だったのではないのか。稚拙な教育者か、徹底した官僚的合理主義者の仕業(しわだ)に任せっきりだったのではないのか。今までの彼ら(行政側)の論理を早急に見直しをするべきだと痛感した。

サッカーだけかよ、って言われたくないのです。きちんと仕事のできる人間になりたいのです。結婚する予定です。全員が前向きに生きている。

1185786912.jpg

この映画のプログラムの「解説」の文章を転載させていただきました。

「プライド in ブルー」は、ドイツで開催された知的障害者のサッカーワールドカップ2006年大会に出場した選手たちと、大会の様子を迫ったドキュメンタリーである。大会の正式名称は、INAS-FID(国際知的障害者スポーツ連盟)サッカー世界選手権大会。4年に一度、世界中を興奮の渦に巻き込むFIFAサッカーワールドカップ終了後に開催される、この通称(もうひとつのワールドカップ)は、1994年オランダ大会から始まり、2002年の日韓同時開催大会以後、同じ開催国(地)で実施されるようになった。日本チームはポーランドで行われたヨーロッパ選手権大会に特別参加し、2002年、日本で開催された第3回大会から正式に参加。4回目を迎える2006年ドイツ大会では、参加16ヵ国の選手たちが、06年8月27日から9月16日まで3週間に渡り、ドイツ国内41会場で熱戦を繰り広げた。

現在、国内の知的障害者サッカーチーム、及び選手数は、日本ハンデイキャップサッカー連盟の調査によると、2000年には日本全国で124チーム2375人、2004年には161チーム3053人、2006年には221チーム4258人となっていて、漸次増加傾向にある。2006年大会には15歳から33歳までの20人の選手がドイツに向かった。ちなみに選手団はコーチ、トレーナーなどもいれると長沼 健団長以下総勢30人であった。

本作品の中村和彦監督は、2002年8月にチームのことを知り、映像に収めたいと本作品を企画。実際の撮影は、2006年4月から2007年2月までを要した。最終的な撮影は総時間で200時間に及んだ。中でもドイツ大会には2班編成で望み、選手と寝起きを共にして撮影している。

映画はゴールキーパー加藤隆生が練習に励むシーンから始まる。加藤選手、両親、祖母の陽子さんが、それぞれの立場で、養護学校に入学することへのためらい、サッカーチームを知ったことなどを率直に語る。カメラの前で語る両親を心配そうに見つめる陽子さんの表情は印象的だ。父、隆造さんが「きらっと光るものを伸ばしてあげたい」と語る言葉には、立場を越えて誰もが共感できるに違いない。そして、ドイツに応援に行った隆造さんが、「タカオに連れてきてもらったんだな」としみじみ語る言葉には、決して生きやすくはなかった家族と本人のこれまでの道のりが込められていて、思わず涙する人も多いだろう。他の選手たちも仕事への取り組み、虐められたことなどを率直に語る。ミーチングを重ねることで信頼を深めていく選手たち、出場できない、あるいは十分実力を発揮できない苛立ちを素直に表現する選手たち、恋人との結婚に思いを馳せる選手、どの選手の姿にもひたむきに青春を生きる爽やかさがある。そしてその姿は、夢を持つことと夢の実現のために努力すること、誇りを持って自分の信じた道を生きることの大切さを、私たちに教えてくれる。

ナレーションは寺田 農が担当。サッカーが大好きで、自ら率いるサッカーチーム(インポッシブルドリーム)で選手としてプレーしている寺田は、映画の趣旨を知り、自らナレーションを引き受けることを申し出た。またラストの希望に充ちた力強い音楽は、浜崎あゆみの編曲などで知られるユニットH∧Lが担当。やはり映画の趣旨に賛同して、この映画のために作詞・作曲している。なお、ヴォーカルは新人のK∧N∧が担当した。

「プライド in ブルー」は文化庁の製作支援を受け、日本ハンデイキャップ連盟を始め、(映画「プライド in ブルー」の製作を成功させる会)のサポーター、その他数多くの団体・個人の協力を得てかんせいした映画である。

INAS-FIDとは? 

国際知的障害者スポーチ連盟

Ⅰnternatiional Sports Federation For Persons with Ⅰntellectual Disabilityの略。知的障害者がすべてのレベル(競技からレクレーションまで様々な段階)のスポーツ活動に参加する権利を保障すること、及びスポーツによる知的障害者自身の成長と地域社会との交流(社会参加推進)の促進を目的として、1986年に設立された。本部はオランダにある。200年の時点で、正式加盟国は60ヵ国、準加盟国は26ヵ国におよび、知的障害者のスポーツ振興、講習会やセミナーの開催、国際競技規則の確立、記録の管理、知的障害者の社会参加推進など様々な活動に努めている。

INAS-FIDサッカー世界選手権大会とは?

1994年にオランダで初めて開催され、大会運営やいろいろな活動のなかで、知的障害者自身の成長と、地域社会との交流を目的とする。2002年に本大会より、オリンピックやパラリンピックのように、ワールドカップ開催年に同じ開催国で行われる。4年に1度の祭典となっている。

8月21日 朝日朝刊より

ひと   知的障害者サッカーの記録映画を撮った映画監督

中村和彦さん

初監督作品の劇場映画はAV男優の恋愛がテーマ。もとはラブストーリー志向の監督が、昨夏ドイツであった知的障害者サッカー世界選手権に出場した日本代表の記録映画「プライド inブルー」を企画、撮影。劇場公開にこぎ着けた。早大生時代に映画のとりこになり、知人のつてで映画界で働き始めた。中退届けを大学に送ったのは、映画の製作現場からだった。

サッカーに取り組む知的障害者を知ったのは、02年に日本であった前回大会。もともとサッカー好きだが、彼らの存在に気づかなかったことに衝撃を受けた。同時に、映画監督としても関心を抱き、「サッカー映画として撮ってみたい」と決心した。

撮り始めて痛感したのは、健常者との違いよりも「選手一人ひとりが個性を持った人間という点でまったく変わらないこと」。彼らをもっと知りたい、存在を広く知ってもらいたいと、大会直前に制作会社が決まるまで自費で取材を続けた。総撮影時間は200時間以上。合宿中にリポートを課せられた選手たちが漢字を思い出せずに携帯電話をつかって調べるシーンなど日常生活が強く印象に残る。私生活も追い、恋人と将来を語る選手の姿も。映画は各地で順次公開中だ。

青いユニホームは日本代表と同じ。「A代表ではなくても、一つの集団を代表した選手たちをちゃんと描きたい」。映画の題にはそんな思いを込めた。

1188196134.jpg

私は、街のデリ・チラ マン。

アーバンビルドは、今、伊勢原桜台で、マンションの新築分譲を行っている。マンション名は、伊勢原・桜台 ツインテラスです。

丹沢の山々をバックに桜の丘に凛と建つのです。ダイナアミックなフォルムと、溢れるばかりの光と風を取り込んだ構造は、特に若い世代の人に好評です。各階2住戸・全戸角部屋で、3面採光、2面のテラスは、もうこれ以上ない贅沢を実現。お客さんのライフスタイルに合わせて間取り、カラーを選べるセレクトが可能なのも、喜ばれています。

洗練されたデザイン、構造、間取り、立地は申し分のないマンションです。工事現場は、現在基礎工事が終わって、1階の壁部分の鉄筋の立ち上げをおこなっている状態です。日に日に工事が進んでいます。構造部分については、施工してしまえば、見ることができなくなるので、ちょっとでも早期に、ちょっとでも多くの人に見ていただきたいと考えて、その告知のチラシを各家庭の郵便ポストに投げ込んでいるのです。社員が総出で手分けして、エリアを分けて、雨の日も、炎天の日も、投げこみをしています。有難いことに反響は大いにあって、営業的には、随分助かっています。

そこで、このチラシの投げ込みのことを、私は、デリバリー・チラシといっているのです。略してデリ・チラ。なかなか、ハイカラ、今ようの表現でしょう。私は気に入っているのです。

中央大学でラグビーをやっていたオジサンが社長をしている、?+*商事という不動産屋があって、その社長さんが、大学は違うものの、同じく体育会出身の私を何事につけて、気をつかってくれる。その社長の会社名は、やわらかい、ふわふわ、したイメージを文字にしてもらえれば、ピンポン、分かることでしょう。町田市は成瀬駅前だ。その社長が、何故、ヤマオカさんが、チラシを撒くの?。社長は、そんなことをするもんじゃないよ、おぬかしになる。このオヤジに、反論したって、何も得るものはないので、話は進めます。

そんな、個人的な見解の相違を、愚だ愚ざ言って居てもしょうがないことは、前の文章と重複する。チラシを投げ込むついでに、町を観察するのです。自ずから、町の様子が目に入ってくる。不動産学部人文科学科というとこか。この町を歩くことで、この町のいろんなことが看取、聴取、面白いことが次から次に発見できる。そのいくつかを雑感を込めて、少し綴ってみたいと思った。

伊勢原には、アパートなどの賃貸住宅が多いこと、多いこと。伊勢原から厚木にかけての工業団地に、金の卵たちが全国からやってきたのだろう、その住まいの受け皿として、あっちこっちにアパートの乱立ができたのだ。田んぼの真ん中に、米や野菜を作る代わりに、ぼこぼこアパートが建った。汗を流して土を耕すより、労少なくして得られる賃貸収入の方を選んだのだ。私よりも、少し先輩にあたる人たちが、まず集まった。その人たち用に用意された住宅は、もう老朽化が激しい。次の世代の人たちもやって来た、住んだ、そして何処かへ行ってしまった。さて、残されたアパートは如何に?農協が自分たちの組合員であるお百姓さんに、うまいこと言って、アパートを次から次に建てさせた。アパートを建てた住宅メーカーは利益を上げ、農協は百姓に金を貸して金利を稼ぎ、また住宅メーカーからは紹介料を貰い、農協は不動産会社を作り、管理費だと言って家賃の一部をピンハネして、みんなで、お百姓さんを食い物にした、結果だ。長いローンが終わったころには、もう建物は使えない。俺は、なんの為にアパートなんか建てたのだろう、と嘆きの声が聞こえる。農協と住宅メーカーと金融資本は、耕作地を荒らし、農民の精神まで、荒廃させてしまったのだ。

そして、大工場は外国に移設され、働き手は解雇され、次の職場を探して引っ越して行った。工場は人気なく荒涼、アパートは、ゴミとホコリの吹き溜まり、そして猫の棲家となった。空き室が増えたアパートに、大家さんは愛情が薄れ、管理にも身が入らない。放(ほ)ったらかし状態だ。この崩壊した賃貸住宅対策を考えるのも、ビジネスのネタかもしれない。困ったことの裏には、我々の出番があるように思われる。

伊勢原農協がやっているお店に行った。店内には、早朝に採れたと思われる野菜が、行儀よく並べらていた。野菜には、生産者の名前が付せられていて、その名前を読みながら、このお百姓さんはどのような人で、どんな手入れをして、どんなに工夫をこらされたのだろうか、種を蒔いて、肥料をやって、虫、病気に気を配って、葉の色、茎の成長、根は大丈夫かと、生産者の苦労が偲ばれる。私の野菜が、一番美味いよと、どの名前も主張している。私も、百姓のこせがれだ。百姓の大変さは十分に理解できる。同じ種類の野菜でも、生産者によって個性が違うのが、微笑ましい。人参一つとっても、太り気味でまとめてあるもの、スマートなものでまとめてあるもの、購入者が考えている料理メニューでどちらかを選ぶことができる。芋類も、大きなものの袋詰め、小粒で数多くを袋詰めにしたもの、選んで買えるのが便利だ。玉葱が名産なのだろうか、多かった。6月には、筍(竹の子)を買った。私にとって、馴染みの太短い筍ではなく、細く伸びた笹竹風のものだったので、早速買った。レジのネーさんに、料理方法を習った。太短い筍と違って、アク抜きはしなくても平気です、そのままテンプラなどで食べられます、と言われてその通りにしてもらった。が、結果アクが強くエグかった。

路傍で、カブトムシを拾った。若い奴だ。この世に生まれて,余り日が経っていないようだ。捕まえた私の手を、カブト君は手と足で、掻いて逃れようとする。カブト君の足は、ノコギリ状態になっていて、人間の肌には結構、痛い。私は、カブト君に嫌な思いをさせないように、両手で柔らかく包んだ。さて、このカブト君をどうするか。子供の頃は何匹も捕まえたが、この頃は、お店で高い値段で売られていると聞くではないか。どこかに、子供は居ないかと考えた。昨今、特にこの暑い炎天下では、子供と言えども、外で遊んでいる子はさすが少ない。ようし、子供を見つけるぞ、と意気込んでみたものの、どうするか。子供の衣服の洗濯物が干してある家には、子供がいるのだろう。子供用の自転車が玄関周りに放置されていれば、その家には子供がいるのだろう。それと、おぼしき家をピンポーンして回った。私の両の手は、カブト君に預けたままだから、できるだけ早く贈り先を決めないと、仕事はいつまでもできないのです。苦労の甲斐あって、少年がみつかった。少年とその母は、すごく喜んでくれました。私も、仕事にやっとのことで戻りました。ただ、それだけのことです。

子供を探すために、洗濯干し場の子供服を探して歩いている私の様子は、少し怪しげでもあったのではないだろうか、見方によっては不審者か変質者と何一つ変わっていないのだから。子供の服を見ると、ほのぼのとして、温かい気持ちになるのは、私だけだろうか。靴下を見ては、そこにおさまっていたちっちゃな、ふっくらとした足を思い描いてしまう。ちっちゃいズボンは、柔らかなお尻をすっぽり包んでいたのだろう。白いズボンにはすり傷の汚れが一部が残っている。白いシャツには、絵の具らしい汚れが残ったままだ。腕白な少年なのだろう。

が、大人物の洗濯物はいかん、楽しくありません。怖いのは女物の洗濯です。女物などが干してあると、私は瞬時に目をそらすようにするのです。だって、女物を見ている私を、誰かが見ているかと思うと、羞恥心で、やりきれないのです。どうか、下着などは、何かで隠すか、室内で干すように配慮してください。

無人野菜売り場があちこちにある。店主によって、同じ野菜でも値段や量が全然違うのがいい。代金の支払い方法にそれぞれ工夫されているのが面白い。野放図なやりかた、無警戒、なもの。自分の家より30メートル程高いところを走っている道路脇に置かれた店舗から、店舗のコイン入れに入れたお金は、塩ビのパイプの中を、ジェットコースターのように流れて、めでたくご入金になる。やるやんケと、うなってしまった。

団地の階段を駆け上る。集合ポストには入れないで、玄関扉の郵便受けに入れるように指示しているのです。集合ポストには玉石混淆の情報が入り混じっていて、我が方の質のいい情報はできるだけお茶の間に近いところまで届けるようにしているのです。階段を一段一段上るのは、大変な労苦を伴う。汗は次から次に出てくる。息は荒くなる。動悸が激しい。その配っているのを見つけて、他人様はいろんなことを言ってくる。アルバイトか、本業か知らんけど、大変だね。それ一枚配ったら、幾ら貰えるの。その犬、狂犬病持ちだから、近づかない方がいいよ。今、参議院選挙の最中だからか、運動員と間違えられた。あんた、何党?とくる。選挙じゃないんです、マンションなんです、と答えると、相手はニッコリ。

このデリ・チラ活動で、私には、ハッピーで、思わぬ副効果が生まれたのも事実です。それは、我が社に入社して数ヶ月経った者でも、仕事に馴染めなかったり、人間関係が変わったことでスムーズに業務に入れない者もいるのです。頑張りたいけど、うまくいかない。期待に応えたいと思えば思うほど、行動がギクシャクして、相手を困らせ、自分も追い込まれて行くのです。そんな筈ではない筈だ、と。鬱鬱と悩んでいた君が、うっとうしい事務所を離れて、肉体を意の赴くまま自由に振舞った結果、彼の筋肉はほぐされ、精神は解かれたのです。

筋肉をほぐし、精神を解かれた君が、会社に戻ってとった行動は、目を瞠るものがあった。仕事が実にスムーズに進められるようになった。上司に対する報告が緻密。社外の人との交渉にも力が入っている。社内でも、大きな声を出して、行っていることが全て快感風。かくして、君は、かってのイジケ気味の君ではなくて、もうさっぱり、すっかり我が社の重要なスタッフになってくれました、という幸せな話です。以前の君は、遅刻して会社の前まで来てみたけれども、気持ちが挫けて、社内まで入ることができずに帰ってしまったことがあった。今は、寝坊して遅れてきても、大きな声で、遅れました、すみません、と胸を張って入ってくるようになった。よかった。

2007年7月13日金曜日

イチロー Wシリーズ MVP

米球宴初のランニング本塁打に、笑顔。

忘れられない日になりました、イチロー快挙。

3打席連続安打

大リーグのオールスター戦が10日、当地のAT&Tパークであり、イチロー外野手(マリナーズ)=本名・鈴木一朗が78回の歴史で初のランニング本塁打を放つなど3打数3安打の大活躍で、MVPに輝いた。

7年連続7回目の出場のイチローはア・リーグの「1番・中堅」で先発、第1打席で右前へ、第2打席では左前に連続安打。0-1の5回1死1塁の第3打席では、右越えに大飛球を放ち俊足を飛ばして、一気に本塁に生還して逆転した。バックスクリーンの壁に当たったボールは、センターの狙いの逆の方向にはねかえり、ボールに追いついたとき、イチローは3塁を回ろうとしていた。イチローは余裕で本塁に。高い技術とスピードを見せ付けた。

ところで、私の話も聞いてくれますか。イチローの大飛球を追った相手チームのセンターの守備を見ていて、私の記憶の果ての、私のナイス守備を思い出してしまった。

時は、今から27年前のことです。所沢に電鉄系の会社が保有する球場があって、当時、私はその球場を経営する会社の親会社の宣伝部のスタッフとして働いていました。我がチームのユニホームは、Sライオンズと同じだった。違うのは、胸に書かれた文字が、ライオンズではなく、コ?ドだっただけです。私の所属する宣伝部と毎日新聞の校正部の野球部と試合をしたのです。その時の試合に、MVP、投手賞、守備賞、打撃賞、他にも賞品をいろいろ取り揃えたものですが、私がなんと、守備賞を獲得したのです。賞品として、何を貰ったのかは、忘れましたが、皆に、大変褒められたことだけは、異常に記憶に残っています。

毎日新聞の攻撃で、高校時代に夏の高校野球選手権(甲子園球場)にも出場したこともある、投手で4番バッターの打ったボールが天井高く打ち上げられ、ホームランかとも思ったのですが、飛球は案外伸びず、外野フェンスに直撃したのです。この場面で、センターを守っていたのが、この私でした。フェンスに当たると予測した私は、当然、ボールが跳ね返ってくる方向を見定めた。そして、想定通りに転がってきたボールを素手で捕まえて、2塁に送球した。打者の足がのろかったのか、私の守備を見くびっていたのか、走者を、2塁ベースに着く前に、刺すことができた。あんなにでっかく打ったのに、と、がっかりしていた。私に対する味方チームからの賞賛の拍手が沸いていた。

再びイチロー

報道陣から「3本出ましたが」と問いかけられて、「出しました、です。出た、とは全然ちがう」とこだわった。3本の安打を「作品」と呼び、「いっぱい、いっぱいの安打ではなかった。(過去)6年間とは違う自分がいるのをオールスターで感じることができたのは、自分でもうれしい」。

社長、会社をどうしたいのですか?

T監査法人と、今後の会社運営についての打ち合わせ中、「社長、あなたは会社をどののようにしたいと、思っているのですか」と聞かれた。最近、よくこの質問を受けるのです。この質問を受ける度に、とくに我が社の社員に対してこそ、答える必要があるのではと考えた。

私たち役員(山岡・中村・小見)に共通の思いがある。

それは、苦しい過去、とりわけバブルでひどい痛手を受けたにも拘わらず、くたばらずに、ここまで頑張ってこられたことで、信念を体得した。その信念というのは、次の三つのことです。

①二度と、会社の屋台骨がおかしくならないようにすること。絶対、潰れない会社にすること

②ピンチに陥っても絶対、あきらめないこと

③常々、向上心をもつこと

④会社は各方面の人々、機関に支えられて機能していることを認識する。

この信念を念頭において、我が社の会社運営にあたりたい。

そのためには、常々、社会が求めている商品、サービスを果敢に提供し続けることだろう。過去を鑑み、将来を見据えた商品作りということになるのだろう。需要の先どりと、言い換えられるかもしれない。会社は、材料の仕入から、企画、加工、資金調達、販売の過程において、たくさんのサポーターたちに支えられていることに感謝しなければならない。また、全ての社員が、自分の会社を誇りに思えるような会社にしたいのです。誇れるとは、どういうことだろうか。安定しているだけではない筈だ。給料がいっぱい貰えたら、それなら誇りに感じられるの?そうじゃない筈だ。誇りに感じるとは、社員一人ひとりが、全てのことにおいて満足し、将来に対しても夢と希望がもてることをいうのだろう、と判断している。

会社の将来に、夢と希望がもてるとは、社員が会社と共に楽しく「成長する」ということと、歩調を合わせることになるだろう。それでは、社員の成長とは、なんどや、ということになる。社員の成長とは、能力と人格の成長だ。そのためには、社長始め役員が、会社の将来を見据えて、多くの情報を入手し、分析し、学習して、研鑽、間違いの無い運営の舵取りをしなければならない、と覚悟してる。

我が社に結集した者たちは、私も同様だけれども、過去に挫折したり、失敗をしたり、何かで調子が狂ったり、辛い経験を重ねてきた者ばかりです。その集団を、個性豊かな優秀な集団に成長させたい。同業者たちに対しても、お客さんにこそ、秀逸な企画を提案できるスタッフになって欲しい。さすが、と思わせる実務者になろう、なります、ならせます。

社内は、心温まる者たちの世界にしたい。

どうしても、この手の話になると、「私自身の生い立ちから今に至るまでの道程において、身についた私の人生観」を、どうしても抜きにしては考えられない。

百姓の家に生まれて、米やお茶の生産農家としての喜びや苦労を知った。三男坊として育ったことで、自由奔放と無手勝流の面白さを知った。、二浪したことで、躓く悔しさと、そのことに耐えることの重要さと、やらなければならないことは、やらなければ終わらないということを知った。ドカタでは、肉体労働の気持ちよさと、金を稼ぐ楽しさ、共同作業の仕方と工夫を学んだ。

大学サッカーのチャンピオンチームに入部したことで、最高のレベルを目指す、崇高なチャレンジ精神と気概、日常の勤勉な生活と、激しい訓練のたゆまぬ努力の必要を知った。優秀な先輩・同輩・後輩に愛されたことで、チームの動力であるエンジンは、人間の輪が核爆発を起こしているのだという実感を得た。チームメイトと同じ釜の飯を食ったことで、同じ目的を持った集団としての仲間意識、相互扶助とチームに貢献する喜びを学んだ。メッチャクチャ頑張ったことで、頑張ればいい成果が伴ってくるという必然を経験した。ヘタでも、練習さえしっかりやれば、何とかなることを知った。サボルことは、自滅行為だということも習った。サッカーのデフェンスを担当したことで、危機を察知する能力、危機から脱却する能力、危機脱却後の攻撃態勢ヘのチームの再編成、相手布陣の攻めどころを見極める能力を身につけた。読書したことで、人間というのは何じゃ?の難解を悟った。

学生デモに参加して、世界が、全人類が平和に暮らせる世の中になって欲しいと願った。暴力の空しさも知った。力は、団結することで、連帯することで実を大きく結ぶことを知った。民主主義を守る社会、恵まれない人に光を当てる社会、差別のない社会、戦争の起こらない世界を、本当に願った。公害を知って、企業が悪にもなることを知った。

社会人になってからは、野放図な上司に仕えたことで、自らの発意による行動で、自分らしい成果を生み出す悦びを知った。世界一の資産家といわれたオーナー会社に勤めて、その会社のコンプライアンスの欠如で、オーナーはもろく経済界から放逐されたことで、会社と経営者の実業社会における厳しさを知った。電鉄系不動産会社に移籍になって、取引で一番大事なのは安全だということ、そのためには多くの知識が必要だということも解った。勉強しなければならないと理解できた。

結婚したことで、妻を必ず幸せにすることを決意した。我が夫婦に子供が生まれたことで、子供たちをきちんと育てることを決意した。子供たちの将来が、幸せに恵まれることを祈った。子供を戦争などに送りこまなくてはならないような国を絶対作ってはいけないと誓った。母と父を亡くしたことで、人間として一人前にならなければならないと自覚した。

バブル経済をまともに受けてもピンチを乗り越えたことで、絶対諦めてはならないこと、与えられた環境のなかで、やれることは全てやることの必要を知った。社長が率先してクレーム対応をしたことで、顧客を徹底的に大事にしなければならないと、身に沁みて感じだ。息子と同年代の社員が入社してきて、こりゃ本気で教育しなきゃいかんな、と決意した。

上のどれもが、私という人間を作り上げている原子です。

我が社の業務の指針は次の通りです。

 ア、弊社の得意とする分野、そのソフトとハードを先鋭に特化する。              

 イ、アから派生する二次的分野で、他社に例の無い商品を作る。

 ウ、社会が求めているもの(社会から求められているもの)の分野での商品化を促す。

 エ、弊社の拡大分野、様子見分野、余地あり分野を見極める。

 オ、社員教育を徹底的におこなう。

 カ、顧客第一主義を貫く。

2007年7月9日月曜日

盧溝橋事件から70年

日本では、七月七日は七夕の日だ。七夕とは、七月七日の夜、天の川に隔てられた彦星と織姫が、年に一度だけ会うという伝説にちなむ年中行事です。五節句の一つだ。子供の頃、短冊に、将来の夢や、身内の健康を祈った文章を綴り、天にお祈りしたものです。幸せを願ったのです。

だが、中国にとっては、日本軍に盧溝橋事件を皮切りにして、戦争を吹っかけられた日である。過去の戦争を厳しく反省して、新たな日中関係を構築しなければならない。と、私は思っているのだが、昨今の、戦争を知らない政治家が、かって政治的処理された事柄や、極東軍事裁判、サンフランシスコ講和条約で認めた内容に対しても、何とか会を作って、異議を唱え出している国会議員がいる。二世、三世の国会議員が多いのは、なんでや。「南京大虐殺」、「従軍慰安婦問題」だ。沖縄のほとんどの人々が、「集団自殺に、軍の指示があった」と認めているのに、何とか会は、そんな指示を証明するものは無かったのだと、主張する。そんな輩は、どこから、どのように発生したのだろうか。安部首相になってから、特に目立つ。

昨日テレビで、アメリカ制作の南京大虐殺をテーマにした映画が、中国で上映され、映画館から出てきた人々に、インタービューしている風景を映していた。改めて戦争のむごさを再確認したとか、日本を批判するコメントが続々。その後、もう時代が変わったのだ、今の日本は過去の日本ではないのだ、平和に付き合うことが大事だ、と言った人も居た。

私は、ホットしたのです。一部にでも、このようなコメントを述べる人がいてくれて、安心したのです。

映画「蟻の兵隊」では、新兵訓練の仕上げとして、上官の指導のもと、中国人を銃剣で刺した元兵士が、自分を責め、軍を責め、かって自分が処刑をした場所を訪れた。そこで、彼は自分の行為を知っている中国人はいないかと探す。居たのです。その人も、そこで会った中国人は誰もが温かかったのです。

それなのに、この日本では、

もう一歩踏み出す勇気を  

 2007 7 7  朝日社説

ちょうど70年前の1937年7月7日北京郊外の川にかかる橋の近くで発砲事件が起きた。盧溝橋事件である。この争いのきっかけに日中戦争は拡大の一途をたどり、太平洋戦争を経て、日本は敗戦を迎える。

今も盧溝橋は健在だ。建造されたのは12世紀といわれる。当時のものがどこまで残っているのかは分からないが、重厚な石造りや欄干に並ぶ獅子像は長い歴史を思わせる。

そのほとりの村に、抗日戦争記念館がある。事件をはじめ日中戦争の歴史についての展示が並んでいる。先生に連れられた子供たちや人民解放軍の兵士たちが学習に訪れる。時折、日本からの観光客も足を延ばす。

日中戦争の「起点」

「七七事変」。盧溝橋事件を中国ではこう呼ぶ。満州事変が起きた9月18日と並んで、7月7日は民族屈辱の日として記憶されている。その後、45年まで続く悲惨な日中戦争の起点との認識だ。

いま多くの日本人が戦争を振り返るとき、思い浮かべるのは真珠湾攻撃の12月8日であり、敗戦の8月15日だろう。中国人にとって今日という日は、それに匹敵する記憶を呼び起こす。七夕を祝う日本とは大違いだ。

その日に、私たちがこの社説を掲げるのは、この1年が日中両国にとって特別の意味を持つと考えたからだ。

盧溝橋事件から70年、そして南京大虐殺からも70年。中国や米国で最近、南京大虐殺などの映画がいくつも作られている。米議会では、旧日本軍の慰安婦問題をめぐる決議案が本会議でも可決されようとしている。好むと好まざるとにかかわらず、今年は歴史と向き合わざるを得ない年なのだ。

記憶にずれがある

少し、歴史をおさらいしておこう。

日本の中国侵略は、盧溝橋事件の6年前、1931年の満州事変が一つの起点だった。翌年、満州国が建国され、それらが原因となって国際連盟からの脱退につながる。日本は国際的な孤立への道を突き進む。

戦争が本格化したのは、盧溝橋事件の後からだった。日本軍は戦闘を中国各地に拡大していった。さらに日独伊三国同盟を結び、インドシナ半島を南下するなどして、英米などとの対立は極まった。その結果、太平洋戦争に突入し、最後の破局に至る。

日中戦争の歴史は、そのまま中国の近代史に重なる。国家存亡の危機であったのだから当然のことなのだが、一方、日本にとっては米国との戦争、とりわけ広島と長崎への原爆投下といった被害のほうが深く記憶に刻まれがちだ。

この記憶のずれが、友好をうたいつつも、ぎくしゃくしてきた日中関係の根底に影響しているのは間違いない。

抗日戦勝利といっても、被害の大きさは日本とくらべものにならないし、中国が日本を屈服させたわけでもない。戦後、賠償を放棄して「ゆるした」のに、日本はその重みを受け止めていないのではないか。中国は軽んじられている。そんな屈辱感も重なっているのを見逃してはならないだろう。

半日デモの嵐が吹き荒れた一昨年春。デモ参加者の怒りには、さまざまな要因が絡まっていたことだろう。その一つに、江沢民時代に強化された「愛国教育」の影響があると言われた。

揺らぎだした共産党支配の正統性を立て直すために、抗日戦争を学習させ、結果として日本への怒りを再生産することになった、という見方だ。

その面があるのは確かだろう。中国の歴史研究にしても、政治権力から独立して自由に行われているとは言い難い。しかし、だからといって、日本による侵略を自らの近代史の中心テーマと受け止め、記憶し、世代を超えてそれを受け継ごうという中国人の心情を批判することはできない。

今の中国では、知日派の人々でさえ、戦争の歴史の話になると表情を変えることが少なくない。民族感情の渦が代々受け継がれていることを、私たちは意識しておかねばならない。

首相の南京訪問を

残念な世論調査結果がある。米国のピュー・リサーチセンターの今春の調査によると、中国を「かなり嫌い」「どちらかと言えば嫌い」とする人が、日本では67%にのぼった。調査の対象となった47ヶ国・地域で最も高かった。同じように中国人にも日本を嫌う傾向が強い。

今年は、日本と中国が国交を正常化して35周年にもあたる。盧溝橋事件からの70年間の半分は、関係正常化の年月でもあったのだ。それなのに、こんな数字が出てしまうことを私たちは深刻に受け止めなければならまい。

政治の役割は大きい。安部首相になって、両国関係が修復の方向に動き出したのは歓迎すべき動きだが、もう一歩、勇気を持って踏み出せないものか。

例えば、南京大虐殺をめぐる論争を建設的な方向へ押し出す。犠牲者数について中国は30万人と主張するが、いくらなんでも多過ぎないか。一方、あれは虚構だといわれれば、中国側が反発するのは当然だ。両国の歴史共同研究で冷静に検討が進むことを期待したい。

そうした中で、日本の首相が南京を訪れてはどうだろう。小泉前首相や村上元首相は在職中、盧溝橋の抗日戦争記念館を訪れた。論争は専門家に任せ、現地を訪ねて慰霊する。中国からの人々からも、国際社会からも歓迎されるはずだ。

この年を、感情と怒りがぶつかり合う年にしてはならない。

2007年7月5日木曜日

今度は、悪霊だ。

ドストエフスキーの「悪霊」(新潮社の文庫本 訳者・江川 卓)の上巻(651ページ)を読み上げた。

登場人物が、いっぱい現れて来て、誰と誰が、どのように、関連してストーリーが進んでいくのか、さっぱり解らない。人物に対する説明が、異常に細かく長い。冗長、クダクダと続くのです。

退屈だった。読み続けることに、何かつまらない支障でも起こってくれれば、私は躊躇うことなく、即、中断したことだろう。ところがじゃ、何の支障も起こらず、上巻を読みきってしもうた。

奇跡のようにも、思われる。余程、ドスト爺(じじい)が好きなのだろう。俺が偏執狂なのか、ドストじじいの偏執性が気に入っているのか?

「罪と罰」も、「カラマー~」も、苦しかったけれども、ストーリー性があって面白かった。

下巻に期待しているのですが、この『悪霊」の上巻は、きつかった。

昨日から、下巻に突入。ストーリーが急に展開していきそうな気配だ。楽しみです。

読みます。

読み終えたら、読後感想を書いてみます。

それまで、~

2007年7月4日水曜日

サッカーと,牛島さんとの邂逅


1946年、昭和46年 大学2年の夏。


当時の私の一日のスケジュールは、午前中体育の授業の助手のアルバイト、昼飯時は中華料理屋の吉葉で,皿洗いのアルバイト。午後は、1時から本番の大学のサッカーの練習だ。



授業の助手は、大学の体育局に雇われていることになっていた。1時間120円は余りにも安すぎるので体育局には二人雇っていることに申請してもらっていた。それでも、一般の半分だった。


講師は、毎度、お馴染みの吉田先生でした。吉田先生はサッカー部の先輩でコーチでもあったのです。吉田先生は、よくお休みになりました。そんな時、私が先生の代行をするのです。講義といえばグリーンハウスでルールの説明ぐらいで、他の時間は、全てチームに分けて、試合の繰り返し。


時間がきたら出席をとって、それで終わり。吉田先生は、終わり頃にちょこっと顔を出しては、「山ちゃん、悪かったね」なんてこと、ばっかりだった。


「今度、焼肉にでも、連れて行くよ」なんて、毎度、嘘のコテコテの上塗り。


雨の日は、必ず吉田先生は来なかった。雨の日は、出席した学生に簡単なルールの講義をして、出席カードを書かせて終わりにするので、私にも都合のいいアルバイトだった。



吉葉のアルバイトは、飯つき1時間500円、それを毎日2時間働いた。青島たちが飯を食いに来たときなどは、気をつけなければならないのです。「青ちゃん、よ~オ」「山岡 オ~お」とか言って、飯を盛っているうちに、飯の盛りは超大盛りになってしまうのでした。「や・ま・お・か、そりゃ、なんぼなんでも、ちょっと多過ぎないか」と、オヤジに注意されるのです。



大学の練習にしても、試合にしても始まるのは1時から。



大学の練習が終わりかけた頃、早実のサッカー部がやって来る。


大体、私、中野さん、一言さんは早実の練習に毎日参加した。たまには、金、砂田(途中で退部)、松若、が参加。



その日のことでした。


練習の終わりかけた頃、強烈な夕立になった。あまりの激しさに練習はいったん休んで、グリーンハウスの庇の下で高校生達と、雑談に花を咲かせていた。


いつまで待っても雨はやまない。イッツ レインズ キャッツ アンド ドッグ や。グラウンドは深さ5センチほどの水浸し。


待ちきれ無くなった松若が、ムッムッと気が狂ったように、グラウンドに出て行った、私も高校生も否応もなく連れ出された。


紅白ゲームをやろう、と松若は言い張ったのです。


面白かったのです、楽しかったのです。


大学の練習では、みんなに迷惑をかけてばかりの私にとって、高校生との練習は貴重なひと時なのだ。雨は雷鳴とともに容赦なくどしゃぶり。だれもやめようとしない。早実の連中にとっても、練習がもの足りない。悔しい、そう簡単には帰れない、暴れまくるしかない。


糞っ垂れ、俺は~サッカーが好きだ~ そんな色んな感情が雨をも跳ね返す勢い。皆が狂ったようにボールを追いかけた。


そんな光景をじっと見詰め続けていたオジサンがいた、そうだ。


私はオジサンが、そんなに興味を持ちながら、見ていたとは、全然気がつかなかった。


そんな出来事があって1ヶ月ぐらい後に、偶然そのオジサンとプールの横の道で出くわした。オジサンは私に、先日、「雨の中、楽しそうにやっていましたね」と声をかけられた。「たまたまグラウンドの前を通り過ぎようとしたら、雨のなか、あんなに強く雨が降っていたのに、すごく、楽しそうに試合をしているのを見ましたよ。私にとっても、あんな光景を見たのは初めてでしたよ、呆気に取られて、笑っちゃいました」、と話された。


その変なオジサンが、牛島さんという方であると、ラグビーの友人から知らされた。


それから、そのことがきっかけで、その後牛島さんと私は、一緒に彼方此方行動を共にすることになり、深い深い関係にあいなり候ってとこです。



牛島さんは危険な老人だった。政治心情はアナーキーだった。


私は、子供の頃から旧来の考え方や因習、規範、常識と言われているものに対して、何故か、素直に受けいれられない性分だった。ちょっとひねくれていたのかも。


おかげで、小学校、中学校では随分先生を困らせたように思う。そんな私と牛島さんが急接近するのに時間はかからなかった。毎日毎日、会った。その時々に起こった事件について、朝方まで討論したことも、まれではなかった。ほとんど毎日、会って、討論ばかりしていた。



牛島さんとお付き合いを始めた頃、牛島さんの仕事は唯一、TBSの15分番組で「幸せみつけた」の脚本書きだけだった。二人は貧乏人同士の深い連帯で結ばれていた。最初のうちは、脚本書きという生業は結構な職業だ、あんなもんで食えていけるなんて、最高や、羨ましいと思っていた。


でも、実際はそんな番組一つでは家賃の支払いだけでも、十分ではなかったようだ。大人一人、子供二人が普通に生活できる収入には不十分だったようです。その時の牛島さんの経済的困窮を如実に知ったのは、薄々、以前から推測はしていたが、息子のYが起こした事件に関わって、初めて実態を知ることになる。



お金を持ってないことについては、みんな共通していたが、とりわけ俺と牛島さんは別格の貧乏だった。俺が牛島さん宅に行きだした時、娘のK子は幼稚園,Yは小学1年生。スカート姿のK子を、女の子らしいなとからかうと、牙をむいたライオンのように歯抜けの口を大きく開けて噛み付いて来た。


ラグビーの連中達によく肩車をして貰っていた、その時の彼女はとっても幸せそうに、俺には見えた。取り巻きは男ばかりで、誰もがK子を女の子としての取り扱いはしていなかった。


その後、日本女子体育大学の付属高校の女高生や,私の友人のコマツたちの女仲間が牛島家に来出したときは,さすがにK子は同性の親近感と気安さに嬉しそうだった。Yも皆から可愛がられ、俺達の話の輪のなかに常に居て、話題に上がったことに真面目に自分の意見を言っていた。


談論風発、話題もさまざま、口角に泡、時には激高の余り取っ組み合いになることもしばしば。


私たちが付き合いだした頃、牛島さんはどういう立場で関わられたのか東宝闘争のことを苦々しく話した。また、脚本を担当したTBSのドキュメント番組のごたごたで、一線から身を退いたことについては,昨日のことのように怒り出した。


保谷市の杜撰な疎水護岸工事の実態を関係者全て実名で放映しょうとしたらしい。


当然、然るべき手続きの上に進められていたので、社内での根回しは順調に進んで行っていると思っていたら、突然放映中止の知らせがきた。理由は何も説明なし。このショックから牛島さんは立ち直れなかった、と言った。


仕事を放棄した牛島さんを見るに見かねて、ささやかだけれども生活費の一助になればと、友人が、TBSの「幸せ見つけた」の仕事を用意してくれたそうだ。


昭和46年は、浅間山荘事件がおきた。日本中の人々がテレビに釘ずけ状態。連合赤軍とは何じゃ、こんな極悪な集団は絶対許す訳にはいかない。


成田空港建設反対闘争。


公害、熊本水俣病、イタイイタイ病、田子の浦。


北ヴェトナム軍大攻勢、アメリカ軍撤退。


沖縄本土復帰





毎夜、牛島さんの家に居たのは俺。金 昌克 西田。黒田さんは時々来た。時にはW大のラグビーのOBもやって来た。ある日、いつもののように何かで手に入れた食料を持って牛島さん宅を訪れた。


私が常用しているベッドに誰かが寝ていた。横向きの顔があって布団があって、その布団から30センチほど足が出ていた、頭から足までどうみても2メートルはある大男だ。卒業してリコーに入った井沢さんだった。彼は学生時代から全日本の代表だった。卒業してもふらりと牛島さん宅に遊びに来ていたんだ。



八百屋のTさんは牛島さんのことをちょっと違う角度から、心配してくれていた一人だった。


たしかクリスマスの夜のことだった。いつものように馬鹿話に飽きた牛島家族と私は寒い夜中を散歩していた。目的はない、唯 何か面白い事でも起こればいいのに、安穏と暮らす幸せどもが、困りそうな出来事が、でも被害は少なめに、こんな夜こそ起こればいいんだ。私たちは不穏な輩だった。


悲しい出来事は、何も起こらなかったけれど、牛島家には嬉しい出来事が起こった。台所の丸いテーブルの上の電灯を点けて、そのテーブルの上で最初に目にした物は、吃驚仰天、丸いお盆に盛られた寿司 寿司 寿司。


八百屋のTちゃんらしく、「Tより」とだけ記したメモ書きだけ。うおーと言ったか、わおーと言ったか、誰もが瞬間的に寿司を口に投げ込むように食った。


タメやん(当時、私はタメやん、と呼ばれていた)、Tちゃんはこういう人なんやと言い掛ける牛島さんの目は、感謝感激、歓喜でうるうる。


又、TちゃんはYやK子を自分のトラックに乗せて時々遊びに連れ出してくれた。女手のいない、大人ばかりに囲まれてさぞ退屈しているだろうと思っての献身的な行動。


牛島さんと交友関係があって、それなりに職業を持っていて、定期的に収入あると思われる人は少なかった。


金持ちは近づきたがらなかったのか、牛島さんが金持ちを避けていたのか、豊かさとは縁遠かった。そんな雰囲気が私を安らかにしてくれた。


警官の棍棒に頭を叩かれ、催涙弾に泣かされた。「神田川」を歌った、恋人が欲しかった。若く、未熟者の不安と焦燥。サッカーの過酷な練習を乗り越えてきた部友達との連帯。


牛島さんとの交流で得る平穏。こんな一切合財がその時のヤマオカ タモツの全てであった。


今年の1月(平成19年)、牛島さんの13回忌の法事を、K子と、私(サッカー)、飯尾昌克(旧姓・福田 サッカー)、西田英生(水球)、佐藤隆善(ラグビー)の5人で行った。随分、昔の話になった。

2007年7月3日火曜日

酔っ払って、二階から落ちた。

私は二浪した後、大学でサッカーをやるためだけに田舎から出てきた。


チャンピオンチームに所属したかった。今までに数回、そのときの心境を、大学時代に書き残した文章で、ブログを利用して自己紹介をさせてもらった。


新しく入社した者は、私の実像を知りたがり。また、弊社に入社することを検討している者たちには、ナマの山岡を知って貰うために、3年前の手記を公開することにした。


二階から落ちたのです。


「若秩父関のまわしが、落ちた」は、大学に入った頃、放送禁止用語が続発する歌で、アングラでもてはやされた。まわしが落ちた、その後の顛末が卑猥とみなされたようだ。私には卑猥でもいやらしくも、なんともなかったのですが。その落ちたではないのです。


本当に、二階から落ちたのです。


その後、弊社の販売部長の「E」さんが、私の姉の旦那が、二階から酔っ払って落ちて、結構大変な怪我をしました、と報告を受けた。



04 7 23(fri) 


酔っ払って、自宅の二階から隣の小坂さんとの境のアルミフェンスの上に落ちた。


午後3時 株式会社東京Tにて「M」常務(現在は、代表取締役専務です)と解体工事費についての打ち合わせの後、東京駅から東戸塚(当時は、東戸塚に会社はあった)の会社に戻った。



昨今、仕事は順調、資金繰りもそれなりに廻っている。


商品の回転がいい結果だ。売れれば、全てがうまくいく。


だが慢心はどんな時機にも禁物だ。


わが社は最悪期を乗り越え、耐え忍び、藻掻き苦しみながらも、なんとかかんとかまあまあの状態までたどり着き、最近は哀れなドタバタ劇もなくなり、今こそ我が社の発展の再スタート地点に立ったのではないのか。


車中、そんな気分の高揚を楽しんだ。



でも、車窓に映る俺の顔、ぼさぼさの髪、無精髭のなんとむさくるしいことか。我ながら自分の面貌にうんだりした。よし、髪をばっさり切って丸刈りにしよう。丸刈り頭で念力をこめて、鉄兜の緒を締め直すのだ。


そして田舎から野心を抱いて大学に入った頃のことをもう一度思い返して、第二弾のロケットエンジンを噴射させ、新たなステージへの挑戦のために未知の世界へ突入しよう。



そんな大げさなことではないのですが。



会社の近くの散髪屋さんで、丸刈りにした。どうしたのですか?と、散髪屋のスタッフは聞いてきたけれども、スカッとしたいのだよと答えた。俺は鏡に映った自分の丸刈り頭に、ニコッと微笑んだ。マンダラでもない、わりと精悍じゃのう。



会社に戻ったら、大学の1年生のときから一緒だった青ちゃんが、「どうしたんだよ、その頭。学生時代とちっとも変わってないじゃないか。ほんとに学生時代と一緒だよ」と褒めてくれたのか、面白おかしく笑われていたのか、えらく盛り上がってくれるものだから、俺も何だか意味もなく嬉しくなって、ついつい大酒を呷ってしまった。



酔っ払ってしまった。



コマツに迎えに来てもらった。我が家に着くなり泥酔の態(てい)で二階に直行した。網戸の内側に厚手のカーテンがかかっていたので、そのカーテンを引いて、開けようとしたんだけれども、酔っていたんだ。体重の全てを抵抗のない網戸とカーテンに掛けてしまった。


暖簾に腕押し状態だ。



瞬時に小坂さんとの境に転落、気がついたときは仰向けになって下から天を眺めながら、どうしたんだ、どうなったんだ、と喚いていたそうだ。


その一部始終を向かいのYさんが見ていたそうです。さぞかし、吃驚されたことでしょう。



コマツの車に乗せてもらって東戸塚記念病院で応急治療をしてもらった。鎖骨が折れた。


酒の勢いも手伝って、俺はお医者さんに対しても横柄だったようだ。


翌日、さすがの不死身の俺でも、全身打撲の痛みがじとっとして、体がぐったり重い。



鎖骨そのものは、骨格のなかで余り重要な役を果たしていないそうだ。


これが折れている様子ですよ、とレントゲンの写真を見せてくれた。治療方法には二通りあります、一つは手術すること、もう一つは帯のようなもので固定させて骨がくっつくのを待つやりかたです。


手術すると綺麗につきますが入院が必要です。帯で固める方法は外形的には多少変形する場合がありますが通院でオッケイ、それも一週間に一度の診察でいいのです。


子供の場合は、知らないうちに折れて、知らないうちにくっついていることもママあります。俺は帯にしてくださいとお願いした。



どういう訳か、俺が鎖骨を折ったと言ったら、聞かされた者は誰もが、にこっと笑って喜ぶのです。何故じゃ? 何がそんなに、面白いんだ?


この事件には、私の大きいミスがあったのです。酒に酔ったのが、ミスではありません。暖簾に腕押しの、カーテンに体重をかけたのも、ミスではありません。20年ほど前に家を増築したときに、坂西さん(今のティー・エー・ユニオンの坂西さんです。以前は、工務店の社長さんでした)が、私にアドバイスをくれたのです。「ここに、手摺がいりませんか」と。私は、経済的フトコロ事情から判断して、危険性については一切顧みず、坂西さんのアドバイスをノーと却下したのです。安全はケチッてはいけない、こんな大事なことを無視したのです。どこの工事現場にも標語として、看板が掲げられています。水戸黄門さんにも、叱られました、「安全第一」が目に入らぬか、と。



俺が二階から落ちて1週間ほどたった日の朝刊に、作家の中島らもさんが酒に酔っ払って二階の階段から落ちた際の強烈な脳挫傷が原因で亡くなったことを報じていた。



くわばらクワバラ