2010年8月16日月曜日

富士山に登ってきた

201008(07ー08)

日本一高い富士山に登ってきた。霊峰と言われている。身を正して登らないとイカンのだ。今回は、孫・晴が通っている幼稚園の夏の恒例の企画に参加させて貰ったのです。

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その幼稚園というのは、保土ヶ谷にある初音ヶ丘幼稚園とスカイハイツ幼稚園のことです。初音ヶ丘幼稚園には、私の子ども4人がお世話になり、今、長女・実の長女・モミジと次女・花の長男・晴の二人がお世話になっている。代替わりだ。私の可愛い二人の孫のことだ。園長先生は、学生時代に山登りをやっていた経験があるからこそ、園児を富士山の頂上に立たせたいと思いついたのだろう。幼稚園としては、破天荒とまでは言わないが、余りにも思い切った企画だ。私の子どもらが通園していた時には、毎年一度は保土ヶ谷の初音ヶ丘からみなとみらい地区にあるランドマークタワーまで歩いた。今でも続いているのだろう。当時、おう、ようやるなあ、と感心、喝采した。少し体育会系の方針が、私には気に入っていた。

私は今回二度目の富士山になるのですが、一度目は約10年ほど前、何処をどのように登って、どのように下りたのかさえ記憶にないのです。兎に角忙しかった、夜歩いた、一緒に登ったオジサンが絶息しそうだった、ご来光は大人数だったので頭越しに見た、頭が高山病で痛かった、山頂でのビールは不味かった、下りは走って下りた、そして6合目から5合目までのだらだら道が死にそうに苦しかった、足がパンパンに腫れて一週間は普通には歩けなかった、こんなことが、前回の思い出だ。

今回は幼稚園が主催した富士登山だ。サポート隊のお父さんたちは、何度も仕事を終えての夜、抜かりのないように打ち合わせを繰り返したと聞いた。

その山行(さんこう)を振り返ってみた。

前夜(0806)、準備にかけた時間は30分。酒は控えめにして、21:00に寝たので、深夜01:00には目が覚めた。布団の中で井上ひさしの「腹鼓記」を少し読む。朝と昼の食べ物は次女が用意してくれている。家人は3日前に手術して入院中だ。富士山の山頂にある浅間神社奥宮(おくのみや)に彼女の病気の回復祈願をすることにしていた。安易にお祈りしただけでは、神様は何も聞いてくれない、難行苦行の果てでないとお祈りする資格がないのでは、と考えた。

一行は、子供9人、園長さんはじめ先生方、学研のオジサン、カメラマン、幼稚園児の送迎を担当しているバス会社の人、父兄たちの総勢37名の団体でした。子ども1人に家族らの保護者が1名以上必要だということなのですが、我がチームは6歳の子ども1人にその両親とジジイの3人のバックアップ体制だ。登山、下山及び全ての行動は家族単位、家族の責任においての実施なのです、とpapaの会、オヤジの会から強いお達しが出ていた。この企画のことを娘から聞いて、寸秒の間もなく、参加することを決心した。来月で62歳、68,5キロの体が瞬間に反応したのです。この駆け出しの老人は、ここ数年このような企画を渇望していたようでした。

初音ヶ丘幼稚園前集合、スタート=04:00 環状2号、保土ヶ谷バイパス、東名高速道路、御殿場から国道138号線、東富士五湖道路、富士スバルライン五合目着=07:00

5合目の富士急雲上閣の3階大広間で休息した。

    

さすが幼稚園主催だけあって、慎重だ。この地点で標高2350メートル、今までの日常生活に比べて、酸素がすでに異常に薄い状態の所に居ることになる。よって、先ずは体を今の高度に慣らすことが必要だ。2時間の休憩はどうしても必要らしい。ここで、風船が配られた。この風船を何度も膨らませることによって、肺への呼気、吸気の活動を活発にさせる。初めての経験でした。いい結果が出ているようなので、毎年、この風船を膨らませることをやっているのです、と幼稚園の先生の説明だった。高山病になった時のために薬も用意してある、その薬の種類、飲み方の説明があった。気分が悪くなった時、怪我をした時の対応の仕方も説明があった。何かの事に備えて、この場所で待機してくれる人もいる。山登りの専門的用語としては、ベースキャンプだ。

海野先生の進行で、今回のメンバーの自己紹介を全員でした。サポート隊の皆さんは、所属している会社や名前しか仰らなかったが、一人ひとりにこの幼稚園とのかかわりの歴史を聞いてみたいと思った。私にも、長くて深い関係があるのだ。本人がこの幼稚園を卒園して、子どもが4人とも同じ幼稚園でお世話になったという人が二人居た。そのうちAさんは、子どもが現役の年長さんなのに、子どもは参加せず、お父さんだけの参加でした。もう一人のBさんは、子どもはとっくに卒園しているのに、自分だけが参加していた。このBさんは、去年は雨がどしゃ降りで山頂には行けず、その前年は仕事が遅くなって深夜帰宅。睡眠不足のまま参加して強度の高山病で、中途で断念、下山した。その前の前は、スズメ蜂に刺されて、これも中途でリタイアー。悔しいから、今年も来たのです、と言っていた。奥さんからは、今年は落石かもしれないよ、ビビラされて出てきました、と苦笑い。

 

河口湖口登山道(吉田口)からスタート=09:00。軽い体操と記念写真を撮ってから歩き出した。

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6合目までは、アップダウンの少ない単調な道が続く。数人が乗れる馬車や一人乗りの馬が行き交う。馬糞があちこちに落ちていた。客を待つ馬が待機していた。孫の足取りは軽い。園長先生の手を引っ張っていた。全員難なく歩き続けた。行きも帰りもこの区間は、山登りが目的ではなく、単純な観光として訪れている中国人のグループが多く目に付いた。やはり日本一高い富士山の登山口だけでも見届けたいのだろう。記念写真を撮っていた。

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6合目(2390メートル)安全指導センターで下のチラシが配布されていた。何の下調べもしなかったので、このチラシだけでも大いにお助け資料になった。噴火した火山礫が、風化して、人間の足に踏みしだかれ、細かくなった砂地を歩くのは大変だった。大人の足は大きくで接地する面積が広いので、抵抗が生まれて、それなりに歩けるものの、子どもにとっては滑りやすく大変苦労していた。幼稚園の送迎バスの運行会社の若者が、密着で孫をサポートしてくれた。岩場は、子どもにとっては砂地よりも苦なく登っていた。アスレティックのように両手で岩を掴み這うように進んだ。これは、楽しそうに見えた。快晴が続いた。

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子どもたちには、肉体的な疲労と言うよりも、目標地点が見えないことによる精神的な苦痛や不安に、耐え難かったのだろう。子どもたちは泣く、泣く、ぐずる、ぐずる。引っ張っている手が痛いとか、暑いとか、理由のない不平が絶えない。それでも、足は動かさないと進まない。私は孫に、いち、に、イチ、ニ、いち、に、イチ、ニと声を掛けた。孫も自分で、声を掛けて、自らを叱咤激励しているようだった。バス会社の若者が、密着でサポートしてくれたのが嬉しかった。私は若者に、結婚しているんですかと尋ねた。もう少しで1歳になる子どもがいるのです、そう、これから楽しみですね、と会話を交わした。この若者は、きっといい父親になるだろうと確信した。

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7合目(2700メートル)を過ぎた辺りから、園長先生がトップを歩き、その後に私、カメラマンが続いた。私は隊長さんを越してはならないと言われていたので、躊躇っていたのですが、園長先生から休むと体が冷えるので、歩きましょと言われ、ついつい掟を犯してしまった。それでも、私はブレーキをかけながら歩いたのでした。

園長先生は、上の方からカメラマンに、ちゃんと仕事をしろよな、と大きな声でカツを入れた。眼下に見える河口湖や山中湖と頑張る子どもたちをシャッターにきちんと収めろ、ということだろう。周りは、茶色い岩と石、砂だが、遥かな遠くの山の眺めは濃い緑や淡い緑、陽が射している部分と陰になっている所が、微妙に変化して登山者の目を飽きさせない。この辺りまで登ってきて、疲れは吹っ飛んだ。眺めが癒してくれる。今夜の泊まりの小屋ももうすぐだ。

 

 

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(8合目到着寸前)

 

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8合目(3250メートル)の山小屋「元祖室」に着いた=15:00。ここで宿泊したのです。すぐ脇には残雪が見える。私が着いた時には、園長先生はカップラーメンを食っていた。顔の赤みはビールだろう。私も負けずに、娘婿の竹さんが用意してくれたウイスキーをストレートで飲んだ。何で、ストレートかって、それは水を買うと高いのです。こんな所でも貧乏根性は抜けないようだ。

家族単位で行動しなければならないルールを破った後ろめたさがあって、ひたすら孫が上がってくるのを今か、今かと待ち続けた。やっと、孫の一団が一つ下の山小屋白雲荘に姿を見せたとき、ジジイは感激した。タオルを握った手を、孫の名前を呼びながら千切れんばかりに振った。孫も元気に手を振って応えた。頑張る孫だ。それからの孫は、目的地を頭の中で、しっかり確認したのだろう、ゆっくりだけど、しっかりとした足取りで登ってきた。孫は、破顔一笑、しっかりした足取りで到着した。私の目に涙が滲んだ。他人に見られないように、横を向いてそっと涙を拭った。

孫の母親も、よく頑張った。彼女だって、今までこれほどの荒行(あらぎょう)の経験はない。母親としての意地もあったのだろう。サポートしてくれたバス会社の若者に感謝。

見晴らしは最高だった。山の峰々がどこまでも続き、野がどこまでも広がっている。尾根があって谷がある。平らな部分は人間さまの日常の生活の場なのだろう。河口湖、山中湖が眼下に、相模湾はにぶい銀色だ。大島、初島が大きく見えた。江ノ島、丹沢の大山の頂が尖がっていた。南アルプスがくっきりと存在を誇示。はるか彼方に横浜みなとみらい地区のランドマークタワーも薄っすらと見えた。人間が生活したり経済活動しているエリアの何と狭いこと、まだまだ広大な自然に恵まれていることを、今更ながら感心した。

眼下を眺めながら、ウイスキーを娘婿の竹さんと園長先生と飲んだ。孫の園友・キヨのお母さんにも少し飲んでもらった。奇麗な女性だ。キヨも、ぐずぐず言いながら、よく頑張った。

園長先生が大きな声で、陰富士が見える、あれだよ、あれ、と叫んだ。夕日を浴びた富士山が陰になって表れる。私が今まで見た陰のなかで一番大きい陰だ。下の写真では、富士山の稜線に沿って、陰が少し外れて同じように稜線を描き、頂上を形づくっているのが陰富士と呼ばれているもののようだ。よくご覧くださいな。

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夕食のカレーは美味しかった。前回登った時の会社の同僚のことを思い出していた。この同僚は、容器に入ったカレーをもの凄いスピードで平らげた後、食い終わって空になった容器を無言で長く睨(にら)みつけていた。きっと、量の少なさに怒っていたのだろう。気性は激しいのですが、口数の少ない人でした。

8月7日が誕生日の孫の園友・ショウと次女に山小屋から記念のTシャツがプレゼントされた。ショウは6歳、次女は29歳だ。いい記念になったことだろう。

翌朝の朝食も配られた。これ以上、ウイスキーを飲むのをやめた。朝食には、マスクが付いていたので、何でなの?と竹さんに尋ねると、下り坂は火山灰の砂煙が舞い上がるので、鼻と口を覆うためのものです、と教えられた。事実、砂煙の量は多くて、顔にはべったり、鼻の穴にも、耳の穴にも、たっぷり吹き込まれた。タオルで拭う度に、白いタオルが真っ黒になった。

2段になっているベッドで寝た。家族連れは下段だった。掛け布団は2人に1枚。私は、前回に泊まった小屋が隙間だらけで風が入ってきて寒い思いをしたので、ホッカロンを持って来ていたので、暖かく過ごせた。18:00から00:00まで熟睡。その後、夜景を眺めに起きたぐらいで、04:00までうつらうつら眠ったので約10時間ぐらい寝たことになる。完睡だ。

深夜、泊まっている山小屋の前を、山頂に向かって登っている人の声が途絶えなかった。夜から登り始めた人たちだ。同じ山小屋に泊まっている人でも、ご来光を山頂で迎えようとする人たちは、夜中1時過ぎに出て行った。

夜景が綺麗だった。星は、濃紺のビロードの上に砂金がばら撒かれたように輝いていた。平野部には、人間さまの営みの明かりが無数に灯っている。折れそうな月が鮮明に浮き出ていた。バイキングの刀?のようだ。貼り付けたようにも見える。星や月が、手が届くほど近くに感じた。子供の頃の故郷で見た夜空を思い出した。孫の園友・ショウのママは、死んであの世を見てきたような錯覚になりました、とか言っていた。天上界か? あなたは天上人?そんな気分になられたようだ。

ご来光は=04:45。神々(こうごう)しい。頂上の上空に、少し薄いが大きな虹も出た。天気は快晴だ。

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山小屋「元祖室」をスタート=06:00。山頂を目指す。

ここからは、頂上らしきところが何となく確認できるので、孫にも覚悟ができているようだ。しっかり歩いていた。いち、に、イチ、ニと声を掛けた。あの鳥居が頂上だと、指を差して教えても、黙って眺めただけで、歩くことに耐えていた。でも、声を掛けて励ます側も、目的地を具体的に教えながらなので、楽だった。次第に、孫の顔がシャキットしてきた。登りきれる、と確信したのだ。

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山頂に着いた=08:30。少し先に着いて、孫の一団を迎えた。孫の顔はいつも通りのいい笑顔だ。次女は自分の息子と何度も記念写真を撮っていた。この親子にとっていい記念になるだろう。

 

お鉢巡り。山頂の休憩所で後方のグループの到着を待っていたら、天気が変わってきた。雲にすっかり包まれてしまって、雨粒がポツーンぽつ~んと落ちてきたではないか。最終組が着いて、お鉢巡りに行こうと打ち合わせをしている頃になって、空模様がますます悪化した。腹が減ってラーメンに心を奪われた人が続発した。次女と孫は、ラーメンを食ってから後発でお鉢巡りに加わるということになって、私は竹さんと先発組でスタートした。常識的には、お鉢巡りは大気の澄んでいる午前中に済ませるのがいい、午後は雲海ができやすいのだ。悪天候、強風の時は絶対避けるべきだ。

冷たい風が強く吹いてきて、完全に濃霧に包まれた。風は体が揺すられるほどの強さだ。私は薄着だったのです。噴火口を覗いた。噴火口は直径600メートル、深さ200メートルのすり鉢型。富士山をご神体とする浅間神社では、噴火口の所を幽院とか大内院とかの名で神社の一施設になっているようだ。山頂郵便局の隣にある浅間神社奥宮で家人の病気の完全治癒を祈った。二日間着たきりスズメのティーシャツには、神のご加護がありますようにと子どもや孫、家族、知り合いの名前を書き込んできた。

この辺りにまで来て風と霧が心配になって、孫たちの後発隊に、大人の希望者はよしとするものの子どもは来させないようにして欲しいと、隊長に無線連絡をたのんだ。

馬の背は、風が強かった。体が揺すられて飛ばされそうになった。雨は降っていなかったが、吹き付ける霧には水が含まれていて、衣服は水っ気を浴びた。寒かった。

富士山測候所。あのNHKのプロジェクトXだ。富士山気象レーダーだ、新田次郎だ。日本一高い、剣が峰3776メートルのポイントを触れてきた。ここでも記念写真を撮ってもらった。誰かから、この時の写真は回ってくるだろう、楽しみにしている。

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これからは下山だ。下りは、孫は絶好調だった。隊長に手を引っ張ってもらって、色んなお話をしてもらっていた。私も、漏れ聞いていた。この隊長さんは、私よりも10歳ほど若いのですが、左手が自由に動かないようだった。その件には触れなかったのですが、何か大病を患われたのでしょう。博識で、性格が穏やかで、うちの孫はすっかりこの隊長にべったりになった。隊長の人を惹きつける魅力を、孫はすぐに感知したのでしょう。火山のことは理解できてないだろうが、拾った石が、幼稚園の周りにある石よりも、軽いか重いか、どっちだろうと問い掛けてくれた。

霧が急に迫ってくるかと思いきや、嘘のように晴れ渡ったりした。

下り坂は、大人には厳しいが子どもには楽なようだった、登りの時のように、ぐずったり、泣いたり、喚いたりはしなかった。孫よりも、孫の母親の方が苦しそうだった。

6合目から5合目は、下り坂を下りきってからのだらだらした単調な道だ、そのなんてことのない道が、意外に疲れたのです。それは前回も同じだった。ツアーの団体が、勢いよく登り坂をやって来る、私は彼らの元気な足取りに見とれていたら、登り組のツアーのガイドさんが、私たち下り組の人たちの表情をとらえて、みなさん、下ってきた人たちの表情を見てください、疲れているでしょ、明日は皆さんもこのような表情になって下りてくることになります、なんて言ってやがる。これを聞いた瞬間、悔しかったけれど、作り笑いをして、余裕綽々の振りをした。我が一世一代の、やせ我慢だ。

やせ我慢、英語では、put up with from pride だ。受験勉強で習った述語だ。put up with~,~を我慢する、だ。こんなことを未だに思い出せるのは、よっぽど苦労したってことか!

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15:30に登り口の雲上閣に全員揃った。園長先生より、全員が無事に登って下りてこられたことが、よかった、と挨拶を締めくくられた。学研からのご褒美の図鑑、誰からなのか記念の鈴を頂いた。

バスに乗り込んだ時を恰も見計らっていたように、雨が降り出したのでした。山の天気は千変万化だ。ラッキーだった。下山の最中に、少しでも雨が降っていれば、幾らひとときと言えども、それはそれは大変なことだったのに。

16:00にバスは保土ヶ谷に向かって帰途についた。バスの中では、楽しい話に花が、咲き過ぎた。私も本来のペースに戻り、残りのウイスキーを飲み干し、誰に憚ることもなく放談した。私が気分よく喋ると、誰かに必ず迷惑をかけるのですが、今回はどうだったのだろうか、気分を害した人がいたとしたら、慎んでス・マ・ンだ。ここでのことは、誰が何といえども無礼講だ。

竹ちゃん一家に私を加えて、こんな大それたことをなし得られたことに、自ら驚いています。園長先生をはじめ、幼稚園の先生方、サポート隊の皆さん、お世話になりました。来年もどうか参加させてください。有難うございました。感謝しています。

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3776メートルの山頂。幼稚園の先生、学研のおじさん、竹さん、送迎バス会社の方、Bさん、そして山岡です。撮影者はきっと、もう一人の幼稚園の先生だと思われる。

追記

10年前に登った時と決定的な違いは、どこのトイレも綺麗になったことだ。富士山を世界遺産登録に挑戦しようとしていると聞いたが、それならば当然、自然のこと環境のことが、最優先で取り組まなくてはならない問題だ。前回、私のような不衛生にすこぶる強い人間でも、ちょっと苦しかった。かっては、し尿が地表に垂れ流しだったのですから。

それと、登山者の中に外国人が多くなったことだ。前回は半分夜の歩きだったので、詳しくは見ていなかったのですが、外人を見た記憶がないのです。今回は、中国人、韓国人、インド人、イスラム系の人を多く見かけた。

 

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