2008年2月26日火曜日

ハンドボール。五輪予選やり直し

世にも珍しいことが起こった。北京五輪のハンドボールのアジア予選が、不自然な審判が原因でやり直しをすることになって、現実にやり直しが行われた。こんな前代未聞の出来事が起こったのです。そうしたことがあって、私が尊敬するセルジオ越後さんが新聞紙上にコメントを出した。さすがにセルジオさんらしいコメントだったけれども、競技をやってきた者には、理解できただろうが、なかなか難しい内容でもあった。そして数日後、朝日新聞の社説でもこの問題に触れた。二つの記事を読んで、全体の問題点、反省点、競技の理想の姿、競技の本質が明らかにされた。

本題に入る前に、私が知っているセルジオ越後さんの素顔の一部を紹介したい。

20年程以前、私が今住んでいる保土ヶ谷・権太坂の地元自治会の要請で、子供のサッカーチームの指導をしていた時期がありました。対象は自治会内に住んでいる小学生でした。当初、自治会役員が予定していたコーチが、朝寝坊したり、突然キャンセルしたりするものだから、代わりの人間を探していたところに、私に白羽の矢がたったのです。日本サッカー協会の催事としてセルジオ越後さんのサッカー教室が相模原で行われ、子供たちを率いて参加したことがあったのです。そのときに、セルジオ越後さんは、私でさえ見たことのない足技を披露して、受講生の誰をも目を点にさせた。そして楽しい、ウイットに富んだお話をしてくれた。

これからは、セルジオ越後さんのお話です。「私が小さかった頃には、塾は勿論、テレビゲームもゲームボーイもなかったので、私には有り余る時間がありました。暇人(ヒマジン)でした。その時間をサッカーというよりは、ボールを蹴ること、フェント、ボールの止め方に工夫をこらしたのです。誰もがやったことのないやり方を思いついて、それをいつでも、どんな状態のなかでも出来るように、なんかいも何回も繰り返し練習をしました。そして、私のヒマジンは、もう天才的ヒマジンになっていたのです。天才的ヒマジンを自負していました。学校の行き帰り、お買い物の行き帰り、家の中、道路で、野原で。ボールを頭で、肩で、胸で、背中で、足の甲、裏、内と外そのどちらでもない部分で、ボールを地面に落とさないようにリフティング。そうして、大人からも先生からも、私は天才的ヒマジンと公言されるようになったのです」。

私より1年先輩の脇 裕二さんは日本サッカーリーグで藤和不動産に所属していた。藤和不動産が天皇杯で優勝したときのキャップテンを務めた。その試合をテレビで観戦していたのですが、彼の奮闘振りは凄まじいものがあった。前線に最後尾に、重要な戦機に必ず出没していた。その彼が、セルジオ越後さんのボールのキープ力を、褒めていた。アイツからは絶対ボールを奪えない。ひとたびアイツがボールをもつと、二人がかりでないとボールをとれないんじゃ。そのサッカー教室では、10人ほどの子供からも狭いミニサッカーコート内を逃げ切ってみせた。

①朝日朝刊 セルジオ越後 サッカー解説者(元プロサッカー選手)

セルジオ越後

ハンドボール 勝つために何をしてきたのか

「中東の笛」で五輪アジア予選がやり直しになり、、日本で無名なスポーツだったハンドボールが思わぬ形で脚光を浴びた。クウェートの王族がアジアハンドボール連盟を牛耳っていると言われるが、もともとスポーツは、「権力」と切り離せない関係にある。バレーボールの五輪出場権をかけた大会が、日本という固定された国で開催されるのも、興行的な力がそうさせており、これも、一種の「権力」と言えるのかもしれない。

今回は、ジャッジ(審判)の問題なので大ごとになったが、ジャッジミスはスポーツの世界ではよくあることだ。サッカーの日韓ワールドカップで、ベシト4に進んだ韓国に有利な笛があったのは有名な話だ。

「中東の笛」は、たまたまではなく、長年の常識と言われているが、負けた側がジャッジを問題にしても、説得力がない。この間、韓国は何度も五輪に出場している。問題の本質は、「日本はなぜ勝てなかったのか」ということである。ジャッジミスがあっても負けないほどの実力をつけるべきで、そのために何をしてきたのか、ということが本来問われるべきである。

ハンドボールが無名スポーツに甘んじてきたのは、企業スポーツというアマチュアのままだったからではないだろうか。プロとアマの違いは「けじめ」にある。負ければ関係者が責任をとるのがプロの世界だ。プロ化すれば発言力もついてくる。

今回の騒ぎは、日本のハンドボールを変えていく大きなチャンスである。このエネルギーを利用し、協会が先頭に立って新たな運動を始めるべきなのに、ハンドボールをどう育てたいのか、という理念が伝わってこないのは残念だ。メディアにも責任がある。やり直しの日韓決戦をあれだけ盛り上げておこながら、その後の国内リーグの扱いはわずかだけ。ワイドショー的にハンドボールを利用した、と批判されても仕方ないだろう。

今回の事態は、日本のスポーツ文化の問題点も映しだした。私は06年夏から、アイスホッケー・アジアリーグの日光アイスバックスのシニアディレクターをしている。資金難で撤退した企業チームを受け継ぎ、プロチームとして存続させるために、スポンサー獲得などを無償で手伝っている。スポーツ記者からは「なんでアイスホッケー?」とびっくりされたが、そんなに不思議なことなのだろうか。

日本には「種目文化」の後遺症があると思う。学校での部活動は、「自由にスポーツを楽しむ」ことが許されず、一種目しかできない「貧しさ」がある。学校以外でスポーツを楽しむ機会もまだ少ない。だから、やったことのあるスポーツしか興味を持てなくなり、違う種目は敵とさえ思ってしまう。ハンドボールもアイスホッケーも、スポーツはみんな面白い。そうした当たり前のことを気づかせてくれるようなスポーツ文化を育てないといけない。

「日本は縦割り社会」と言われているが、シポーツこそ横割りにつながるべきだと思う。大企業に頼る企業スポーツでは、横へのつながりは生まれない。その役割を果たす組織として、地域でクラブを育てていくべきだ。地域がスポーツでつながり、みんなで助け合って苦労していけば、すそ野は自然と広がるだろう。

「宿題」がいっぱいあることがわかったことが、今回の一番の収穫ではないか。中東の王族の力の大きさを嘆くよりも、自分たちの努力不足をまず問い直すべきである。

②朝日朝刊 社説 ハンドボール

対話のパスで対立ほぐせ

こんな泥沼の争いはスポーツに似つかわしくない。そろそろ打開の道へとかじを切るべき時だろう。

ハンドボール界の国際連盟とアジア連盟の対立のことである。

騒ぎの発端は、「中東の笛」と呼ばれる不自然な審判だった。国際連盟は北京五輪のアジア予選をやり直した。その結果、男女とも韓国が五輪の出場権を得て、敗れた日本は世界最終予選に回ることになった。中東の国々などはやり直し予選への参加を拒んだ。

アジア選手権が17日からイランで始まる。これに対し、国際連盟は来年の世界選手権のアジア代表選考会とは認めないことを決めた。アジア連盟が大会の運営権を手放さず、審判の選定も自分たちでおこなうと譲らなかったからだ。

一連の動きで、アジア連盟のかたくなな態度は異常という他ない。だが、ここにきて微妙な変化も出ている。

やり直し予選に出場した日本と韓国に対し、アジア連盟が決めた処分は罰金千ドル(約10万8千円)と警告だけだった。資格停止などの厳罰を科す構えを見せていただけに、予想外の軽さである。追加処分もにおわせてはいるが、本気かどうかはわからない。

アジア連盟は、クウェートの王族アーマド会長が率いている。アーマド氏はこの騒ぎで、「日本は信頼できない」といい、2016年の東京への五輪招致は支持できないと発言していた。だが、これも事実上、撤回した。

国際オリンピック委員会(IOC)は国際連盟を支持している。孤立するアジア連盟は、強気の態度とは裏腹に手詰まりというのが現実の姿だろう。

ここで日本はどうすべきなのか。

処分に従う必要がないのは言うまでもない。国際連盟も早くからアジア連盟の処分は無効だとの判断を示している。

大事なのは、日本ハンドボール協会がきちんと意見を主張し、仲間を増やしながら、アジア連盟の体質を変えていくことだ。今回、韓国と手を携えてアジア予選のやり直しを実現させた経験も役に立つだろう。アジア選手権が世界選手権の予選でなくなっても進んで参加し、多くの国々と対話を重ねたい。

不思議なのは、静観している日本オリンピック委員会(JOC)の態度だ。アーマド氏はアジア・オリンピック評議会の会長を兼ねているので、ことはハンドボール界だけの話では済まない。

東京への五輪招致に真剣に取り組むというのなら、言うべきことは言ったうえで、アーマド氏を取り込むぐらいの指導力を発揮したらどうか。

日本ではあまり注目を浴びることのなかったハンドボールが、今回の騒ぎで大きな関心を集めた。テレビ中継もされたやり直し予選で、選手の俊敏な動きに引き込まれた人も多かったろう。

今こそ対立をほぐして再出発することがハンドボール界に求められている。

2008年2月23日土曜日

今の不動産事情をまとめてみた

昨年 8月。今まで聞いたことのない「サブプライム」問題が、突然天から降ってきた。なんじゃ、サブプライムちゅうのは? アメリカの、信用力の低い低所得者向きの住宅ローンのことだ、と聞かされた。信用力が低い?とか低所得者向け?って、それ差別用語じゃないのか。それが、どうした? その内容が分からないままに、あれよあれよという間に我が日本の地価が下落し始めた。神奈川県でも、9,10,11,12月と地価は5%~15%下がった。8月以前に企画した商品が、商品化されたときには、もうそのときには住宅購入層には受け入れられない価額になってしまった。我社は日常業務において、そんなことはとっくに認識していたが、不動産仲介会社のスタッフはもちろん、その会社の管理職でさえ理解していなかった。我社は新しい市場で新しい商品を作り出そうと懸命に努力したけれども、地価が下がり続けている環境下では、なかなかいい成果は出せなかった。でも、この頃は我社が活躍の場にしている地域でのことですが、地価は落ち着いたように思う。

今回の地価の変動で、社員の教育にはいい材料になったのではないかと思っている。我社の管理職以外の社員は、社歴も浅く、こんなに変動するのを初めて経験したのです。2006 12 23発売の週刊ダイヤモンドでは「地価狂乱」を特集、まだまだ地価は上がります、東京はまだまだ買える、そんな記事が満載。そして、2007 12 15発売の週刊現代では「不動産バブル崩壊で平成大恐慌」を特集した。同時期に週刊ダイヤモンドでは「ゼネコン断末魔」を特集した。たかだか、1年間にこの激変ぶりだ。

この短期間にこれ程の激変なので、建売やマンションのように企画から商品化までに時間がかかる事業 はどの会社も苦戦を強いられた。事実、マンション専業のグレイス住販、アジャックスが最近倒産した。

この4~5年、地価は二極化して、東京の全域、横浜の主要な駅に歩ける地域、とくに山手地区、湘南地区、鎌倉、葉山が上がった。その他の地域では顕著な動きはなかった。例えば、湘南地域の藤沢市鵠沼松ヶ丘は去年の春には坪単価140万円ほどしていたのが、今では110万円まで下がった。この価額なら流通する。東戸塚駅から歩いて10分以内なら、やはり坪単価140万円はしていた。が、最近では115万円位だろう。このように地価は、下げ止まりをした、と私は考えている。

アメリカがくしゃみをすれば日本は風邪をひく。

2006年まで続いたアメリカの住宅ブームは低金利に支えられていた。家計が抱える住宅ローン残高は積みあがっていたが、毎月の利払い負担はそれほど増加しなかったために住宅ブームは長期化した。しかし、2004年から2006年にかけて行われた利上げ政策の影響を受けて2007年以降一転して住宅価額の下落基調になり、住宅価額の上昇を前提にしていた借り手のローン返済が滞りだした。デトロイトでは住宅の差し押さえ率が4,9%だそうです。全米の平均は4%。デトロイトでは、ほぼ20軒に1軒は差し押さえられていることになる。超異常です。そしてこの住宅不況はアメリカ経済の全体に必ず大きな影響を及ぼすことになって、我が日本にもこれから何年も影響を与えることになるのだろう。

先日、三井関係の不動産会社の代表取締役会長の講演を聞いた。その講演者に不良債権化している住宅の債権を、アメリカなら力があるのでみんな買っちゃえばいいじゃないですか、日本がかってバブルがはじけたときに破綻した銀行を国営化したようにすればいいじゃないですか、と尋ねた。講演者は、君はいいことを聞くね、が事態はそんな簡単じゃないんだよ、と前置きしてその深刻さを説明してくれた。優良な債権は配当が低いので金融商品としては魅力がもの足りない。その配当を少しでも良くするために、サブプライムの貸付債権を証券化したものをサンドウィッチにして売り出したことにあるのですよ、と。

悪貨は良貨を駆逐するってやつですか? まあ、そういうことかな。

信用度の低い家計向き不動産担保貸付が、厳正な審査もしないでドンドン貸せば、結果どうなるかぐらい想像できた筈なのだ。そしてその貸付債権を証券化して、世界を駆け巡った。東京の某信用組合が50億とか、60億とか買っていたというではないか。でも、欧米の金融機関に比べて、日本の金融機関の不良債権はたかが知れている。それにもかかわらず、なぜ日本の金融機関が不動産融資に慎重なのか。理由は、バブル再来を恐れた金融庁が、日本の金融機関に不動産融資の自主規制を暗に要請したからである。

過去には、1990年初頭、不動産バブルを冷やすため、大蔵省は不動産業界への融資を絞る「総量規制」を実施した。これで一気にバブル崩壊の坂を転げ落ちた。

そして今、各金融機関が融資の出し渋りが始まった。どの金融機関も、不動産の評価を厳しくしたり、社有在庫の量をみながらの融資だ。

神奈川県内においては、もう既に地価の下落機運は沈静化しているように思っている。この2~3年の最高値から10%から15%を引いた金額なら、物件は売れているのです。我社は今、懸命に新しい市場での新しい商品作りを行っていることは先に書いた。売れているのです。先月も、今月も売れている。新価額でなら。そこで、我社のスタッフには今所有する物件を、できるだけ早く損をしてでも処分することだと言い続けている。そして新しい商品を早く作ることだと発奮を促している。

昨年6月の建築基準法の改正で、建築確認がなかなか取得できなくて、工務店、不動産屋は、大変だった。このことについては、後日書き足します。

「天龍の改革」から学べ

こんな記事を提供してくれるから、新聞を読み続ける習慣は絶えないのだと思う。読み終えて、どうして古紙回収にまわすことができようか。ファイルするしかないと思って転載した。この天龍さんの行動が、当時の色々な問題を惹起したのだろう。

稽古をつけてやるといって、殴る蹴るのリンチで若い力士が亡くなった。この部屋の前親方・時津風親方が先月逮捕された。亡くなってからの親方の嘘八百の言辞と振る舞い、相撲協会特に理事長の情けないほどの不適切な行動、結果、警察や司直のお世話になるような最悪の結末だ。横綱・朝青龍の相撲協会や親方、ファンを馬鹿にした行動。それを監督できない親方(元・朝潮)と理事長(元・北の潮)。

その以前、覚せい剤使用、八百長事件については未だに、協会はうやむやに葬ろうとしている。それに、何で相撲が国技なのだろう?

08 2 17(日)朝日朝刊

私の視点 団体役員・伊藤昭一

伊藤・€・€一

大相撲 「天龍の改革」から学べ

日本相撲界は昨年には朝青龍の帰国問題、今月には力士が急死した事件で時津風部屋の前親方が傷害致死容疑で逮捕されるなど大揺れだ。相撲界をよくするためにも過去の相撲界の歴史に学ぶ必要がある。いささか古いが、力士「天龍」が目指した相撲界の改革の経過を振り返ってみたい。

事件は1932(昭和7)年1月6日に起こった。出羽海部屋の十両以上の力士32人が、一人も欠けることなく関脇力士だった天龍の飛びかけに応じて終結し、部屋を出た。そして日本相撲協会に次のような改革案(骨子)を提示したのである。

① 会計を明瞭に ②興行時間の改正 ③一般大衆のために入場料を安くする ④相撲茶屋の廃止 ⑤年寄制度の廃止 ⑥養老金制度の改革 ⑦地方巡業制度の改革 ⑧力士の生活の安定 ⑨冗員の整理 ⑩力士の共済制度確立

14日から始まる正月場所が間近に迫っていた。返答を先延ばしにしようとする協会との話し合いは決裂し、天龍たちは「大日本相撲協会」の組織を作って別に興行を開催した。天龍、わずか29歳の時である。

その興行は従来の取り組みではなかった。当時としては珍しいトーナメント制とリーグ制を併用したり、お好み挑戦試合を行ったりするなど、実に工夫をこらしたものであったという。

この相撲界の分裂は確かに問題であったらしく、当時の新聞も「天龍事件」として報道している。天龍たちの行動を好意的に見る人ばかりでなく、反体制的な行動だとして、様々な妨害もあった。

そこで天龍たちはやむなく東京から大阪に本拠を移した。そしてここでの興行を6年間にわたって開催したが、やがて解散のやむなきに至った。

天龍についてきた力士の一人ひとりのその後の手だてをし、ある力士には相撲協会に復帰させた、そしてもう一人の指導者であった大関「大ノ里」とともに満州に渡り、その地の青少年の指導にあたった。

私は天龍こと和久田三郎が生まれた浜松市と同郷である。その生家にも極めて近かったが、500軒ほどあるその地域で天龍のことを知っている人はほとんどいなかった。

たまたま天龍のおいがその地域で健在で、私は天龍のことを聞く機会を得た。さらに天龍が戦後になって著した自叙伝も見つかった。それを読むにつけ、戦前だというのによくこのようなことを考えて実行に移したものだと感心するだけであった。そうするうちに相撲界の不祥事である。私はその業績を出来る限り明らかにしたいと思った。

天龍の示した改革案は、相撲協会の運営の不透明さと、当時の力士が「使い捨て」であったことを明らかにしている。今この改革案をみてもその新しさは失われてはいない。国技である相撲の伝統を守りばがら、日本相撲協会を発展させるための改革とは何か。

天龍が目指して果たせなかったことを協会はいま一度、かみしめてほしい。

2008年2月4日月曜日

福も鬼も、内へ来い!!

2月3日は、節分だ。

今までは、大豆の煎り豆を「福は内、鬼は外」と言いながら、家の内外にまいたものでした。子供が小さかった頃、自宅のチャイムを鳴らして帰宅を知らせると、女房が走ってきて、私はにわか作りの鬼にさせられ、子供等から豆の集中攻撃を受けるのでした。鬼の面をかぶった私に、「鬼は外」と。それから、去年は孫に「鬼は外」と言って豆を投げられた。豆をまくことで邪を追い払う。早く冷蔵庫のビールを飲みたいのに、一通り怖い鬼を演じないと家に入れてもらえない。私は、いつも(邪)鬼だった。

私の代わりに犬のゴンが鬼役を引き受けてくれたこともあった。鬼の面を紐で結びつけられ豆を投げつけられた。その豆を拾い食いしてお腹をこわし、ゴンは引退した。ゴンにとっては、人間こそ鬼だったのではないのか。優秀な犬だったから、馬鹿な人間どもにも、嫌々ながらもよく付き合ってくれた。

でも良く考えてみると、「鬼は外」ばかり言われ放しでは、余りにも鬼は可哀想ではないか、と思うようになった。鬼さんだって、たまには皆と楽しく過ごしたいと思っているのではないのか。歳のせいかな。私は、今年で60歳だ。

今夜は「福も鬼も、内へ来い」と掛け声をかけようと思っている。

私の田舎、京都府綴喜郡宇治田原町の節分には、住宅や農機具小屋、牛舎、蔵、便所(かって、水洗ではなかったので別棟になっていた)の入り口と出口に、ヒイラギの枝の先に生の鰯(いわし)の頭を刺して、掲げるのです。鰯の本体は焼き魚として夕餉のおかずとしていただいた。ヒイラギの葉には棘のようなものがあって、鬼を嫌がらせるのです。鰯の頭は臭くて、鬼が近寄りたがらない。このようにして、鬼から、我々の生活を守ろうとしたのです。

2008年2月3日日曜日

福士さんに、リンゴの花冠を

1月27日(日)に行われた大阪国際女子マラソンは、北京五輪代表選考会を兼ねていた。長居競技場を発着の42.195キロ。中学時代、保健体育の授業で42.195をシ(死)ニイ(行)クゴーと憶えた。それ程マラソンは過酷なレースなのだ。5000メートル、ハーフマラソンなどの日本記録保持者である福士加代子(ワコール)は序盤から飛び出したが、30キロ以降に失速した。練習不足からの失速。19位だった。1位はイギリスのマーラー・ヤマウチで2時間25分10秒。

何もかも無茶だった。初マラソンに向けての調整期間が1ヶ月と通常の3分の1で、練習での最長距離も約30キロだと新聞報道で知る。余りにも無謀だった。無茶苦茶だった。「もっと綿密な計画が必要だった」と、レース後永山監督が言っている。なんだ、この監督は。余りにも無責任ではないか。万が一、選手に重大な取り返しがつかない支障が発生でもしたらどうする心算だったのだろうか。監督は、選手の体の調子をベストの状態でレースに臨めるようにコーチするものではないのか。多少不足があったとしても、福士ならそんなハンディを乗り越えてくれると判断したのだろうか。指導者に重大なミスがあったことはゆがめない事実だ。私は怒っています。

そんな状況のなかで、福士は福士らしさを見せてくれた。私は、涙を拭うことも忘れて夜のスポーツニュースに釘付けになった。レース中は仕事だったので、ラジオからの端々のニュースで、トップを走っていたこと、足が止まりだしたこと、順位をドンドン下げていることを知った。気が気でならなかった。足がもつれて何度も転んだ。またゴールを目の前にしても転んだ。なかなか、ゴールに届かない。転んでも転んでも、満面に笑みを絶やさなかった。笑顔が清々しい。童女のようなあどけない笑みに心が打たれた。足はフラフラ、意識は朦朧、視線は宙を舞っていた。でも前に進む。人形浄瑠璃のようにも見えた。アスリートとしての気魄のみだ。津軽の厳しい気候と風土が彼女を作り出したのではと思い巡らせていたら、かって旅した津軽のあっちこっちを思い出した。

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(ゴール直前で転倒する福士加代子選手)


出身は、雪国青森、津軽の五所川原工高。所属はワコール。38年前、私が大学生だったときに、当時読み耽っていた太宰 治の生家を訪ねたことがあった。五所川原から津軽電鉄に乗って金木町で降りた。列車には、薪は焚(た)かれていなったたが、ストーブがまだとり外されていなかった。太宰の作品の中で一番気に入っていた「津軽」の文庫本をポケットに忍ばせながら。就職試験の専務さんとの最終面接で、初めて給料をもらったら、君はどうするんだ?と聞かれた。ある私鉄の親会社だった。そんな質問に私は太宰 治の全集を買いたいのですと言ったら、専務はうかぬ顔をしていた。このオッサンはアカンなあと直感した。学生時代には、太宰の弟分の田中英光の全集を古本屋で買った。嬉しかった。

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(青森県北津軽郡金木町の太宰 治の生家)


太宰の生家を見学して、裏の「バー斜陽」で安いウイスキーを飲んだ。マスターに太宰の話をふっかけても、何も戻ってこなかった。5月の頃だった。桜が散ってリンゴの花が咲いていた。見慣れぬリンゴの花を記憶に留めようと思って詳細に見たつもりだったが、今は思い出せない。梅のようであり、桃のようでもあった。雪深いと教えられたが、雪国での生活はいくら説明を受けても、想像の域を超えていて理解できなかった。北の方には竜飛岬がある。凍(い)てついた波が、そそり立つ岩壁にぶちあたる。冬の荒涼とした、まさに”冬の自然”が剥き出している、と言われている。岩木山に登った。サッカー部の現役だった私は、走って登った。ちょろいちょろい(極めて平易だった)。津軽富士といわれていて、稜線が長く穏やかな山容だ。

こんな津軽で、福士さんは育ったのですね。今回は苦渋をなめた福士さんに、リンゴの花のお冠を心を込めて捧げさせてくださいな。私のささやかな福士さんへのご褒美です。どうか、福士さん、マラソンを選ぼうがトラック一途でいこうが、よく考えていただいて、これに懲りずに頑張って欲しいのです。雪深い季節が終わり、リンゴ畑が一斉に白い花を咲かせるのです。福士さんにはリンゴの花が一番お似合いなのではと思いを馳せた。あなたの笑顔をいつまでも見ていたいのです。見せてくださいなあ。競技場を後にする時、記者に向かって、すみません、ご心配をおかけしました、なんて言っちゃって。満面はいつもの笑顔だった。「面白かった」とも言った。

1月28日(月)の朝日朝刊、天声人語より。

白日の下で行われるスポーツにも「魔物」の棲むところがある。よく知られるのは高校野球の甲子園だろう。独特の雰囲気が球児をのみ込む。魔に魅入られたようなエラーや乱調に、幾人もが涙を流してきた。マラソンでは、30キロ過ぎに棲むといわれる。「30キロの壁」という言葉もある。日曜にあった大阪国際女子マラソンで、魔物は福士加代子選手にとりついた。快調に先頭を走っていたが、別人のように失速した。足を運ぶのもままならず何度も倒れた。並外れた健脚を韋駄天と呼ぶ。仏法の守り神の名前だ。釈迦の遺骨を盗んだ鬼を追いかけて奪い返した俗説から、足の速い人の代名詞になった。福士選手はトラックでは名うての韋駄天だったが、初めて挑んだマラソンで魔物の洗礼に沈んだ。メキシコ五輪で銀メダルの君原健二さんによれば、30キロ過ぎての最終盤は「一歩一歩が血を吐く思い」だという。「だれがこんなむごいレースを考え出したのか」。憎しみながら走ったものだと、著書「マラソンの青春」で回想している。立ち止まる誘惑と格闘しながら、「この先の電柱まで、あそこの家まで」ともがく。その積み重ねで、君原さんは参加した35回すべてを完走した。「走りぬくこと」を大切にした名選手でもある。福士選手もまた、転んでも転んでも起き上がって、走りぬいた。優勝者より大きな拍手は、悔しかっただろう。だが前をめざす凄みを、見る者に教えてくれた。いつの日か魔物を敵討ちにする。その姿を見たいファンは少なくないはずだ。

2008年1月25日金曜日

和歌山・海草中 故嶋清一さん殿堂へ

野球殿堂入りを決める野球体育博物館(東京都文京区)は11日、競技者表彰のプレーヤー部門で広島で歴代4位の通算536本塁打を放った山本浩二氏(61)と、巨人で通算203勝を挙げた堀内恒夫(59)を選んだと発表した。このご両人のことについては、野球のことを余り詳しくない私に、論評する資格はない。立派な選手だったことは間違いないからだ。

今回はこれからが、重要なことなのです。

特別表彰には、和歌山・海草中(現向陽高)や明大の投手として活躍しながら戦死した故・嶋清一氏を選出したことなのです。こういうことに、私は特別感応しやすいのです。そのことを詳しく朝日朝刊(2008 1月12日 土)が紹介しているので、後日のために転載保存したいと思った。記事を読んで、当の嶋氏を選考したスタッフの方々に、ご立っ派ですぞ、あっ晴れですぞ、と感謝した。くどくて、すみません。私は嬉しいのです。戦争では、このような立派な人をたくさん亡くしたことだろう。アスリート、科学者、芸術家、あらゆる分野で、将来立派な仕事をしたであろう故人に、我々は何をもって報いればいいのだろうか。私の伯父も戦死した。優秀な農業従事者だった、と祖母から聞いた。憎むべきは戦争だ。我が祖国日本は、アメリカにどこまでも追従して、危ない橋を渡ろうとしているのではないのか。

甲子園の「怪物」69年越し勲章




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(海草中時代の故・嶋清一さんの投球フォーム)


準決勝・決勝で無安打無得点

全国高校野球選手権大会がまだ全国中等学校優勝野球大会と呼ばれていた戦時中の1939(昭和14)年、第25回大会で、伝説の快投は生まれた。海草中の左腕エースだった嶋さんは、1回戦から決勝までの全5試合を1人で投げ抜く。右打者の内角に食い込むように伸びてくる速球と、「懸河(けんか)のドロップ」と呼ばれた垂直に落ちるかのような変化球で、相手打者を次々と打ち取っていった。

優勝まで45イニングを投げて、失点はゼロ。しかも連投で疲れがたまる準決勝、決勝でノーヒット・ノーラン(無安打無得点試合)を達成するという偉業だった。

和歌山中(現桐蔭高)時代に嶋さんと対戦しているプロ野球元紺鉄監督の西本幸雄さん(87)=88年殿堂入りは、「戦争で命を落としていなければ、戦後の野球史は必ず変わっていた」と語る。

全5試合完封での優勝は戦後、48年の30回大会で福岡・小倉高の福島一雄投手も達成したが、準決勝、決勝で1安打も許さなかったのは、今年で90回を迎える大会史上、嶋さん1人しかいない。決勝の無安打無得点試合もその後、80回大会で横浜高の松坂大輔投手(現レッドソックス9が成し遂げただけだ。

嶋さんは1920年、和歌山市に生まれた。姓は野口。幼少の頃、親族の嶋家に養子入りをした。甲子園での勇姿とは裏腹に、ロイドメガネをかけた容姿は優しく、おとなしく見えたという。

明治大学に進学し、43年、学徒出陣。出征時に、海草中時代からの同僚、古角俊郎さん(86)に「おれなあ、戦争がなかったら新聞記者になりたかった」とこぼしたという。野球を愛し、甲子園で球児たちの姿を追うことを夢見た青年は45年3月、インドシナ半島沖の海戦で戦死した。24歳という若さだった。

古角さんは殿堂入りの知らせに「感動と感謝に尽きる」と喜び、「嶋をはじめ、多くの選手が戦争で亡くなった。平和ほど尊いものはないと思ってほしい」と語った。

猫・愛情物語


友人のことをどうしても書き留めて置きたいと思った


『猫・愛情物語』


                                           05 4 1から


(注)正月にPCを整理していたら、保存されていたこんな文章があったので、一部加筆して公開した。随分以前の文章だが、その時は何かのためにと思って書き綴ったのでしょう。



友人のホームページを覗くと愛猫家だとは直ぐに分かった。


最初のうち、そのパソコンの画面からは、友人の表面的な人となりを知ることはできたが、当然と言えば当然な話だが、友人の心の深奥までも覗き見ることはできなかった。それから、私の経験したことの無い、今まで知ろうともしなかった、私にとっては、別世界に引きずられてしまったのだ。



友人は、まず野良猫を拾ってきては里親探しをしていることに、私は興味を引いた。何でそんなことをするのだと思った。野良猫を拾ってきて、最初にすることは動物病院に連れて行き、診断してもらうのだ。元気に荒野を駆け巡っていたのだから何もそこまでしなくてもいいのではないかと私は思ったのだけれども、野にいる動物たちは何かしらの病気に罹っていたり、お腹に虫が湧いていることが多いそうなのだ。当然、保険はなし、診療費は自腹で賄うのだ。



春は、盛りの時季、交尾を求め合う恋人たちが、威勢良く走り廻る。この時期に入る前に友人は頑張るのだ。避妊をしてない奴を捕まえて、避妊手術を施すためだ。丁度ネズミ捕りを二回り大きくしたような猫捕獲機があって、友人は、よく出没する場所に仕掛けては、遠くから猫が捕獲機に入るところを息をこらして待つ。入ればそのまま風呂敷か布でかくまい自宅に連れて帰り、朝を待って動物病院に連れて行くのだ。


朝は仕事を控えているので時間が無い。よってタクシーを使わざるを得ない、当然自腹だ。診断してもらい、診断次第では治療も必要になることがある。注射や薬が必要になることのほうが多い。避妊をする。手術したときはお泊りのこともある。高額な治療費になることもある。連れて帰り、友人の判断で、荒野でも生活できそうな奴は再び野に放し、病気や怪我で野に放すには忍び難い奴は自宅にて回復を待つ。そして人間との共同生活に慣れてきた奴を、インターネットで里親捜しを開始するのです。



野良猫全てに避妊手術をしなければ、野良猫たちはどんどん増えていく。一年間に2、3回妊娠するそうです。そして、人間との悲しい戦い?不毛なトラブルが発生しては、結局は猫が殺されることになる。その悲劇を未然に防ぎたいのだ、と友人は言う。


そして、野で暮らす猫にも餌をあげたい。友人は餌とは言わないのです、お食事をあげたい、と言うのです。野良猫を捕まえては、このような活動をしている人に対して、格安の治療費で対応してくれる獣医さんもいてくれる。心ある獣医さんもいらっしゃるのだ。友人が活動しているエリアにいる野良猫は、どいつのことも素性を把握済みです。避妊手術済みの奴、避妊してやりたくてもどうしても捕まらない奴、群れをなす奴らの血縁関係、人懐っこい奴、びくびくしていて近寄ってこない奴。


私はここで、猫のことをやつ(奴)と言っているけれども、友人はあの(子)と言う。あたかも自分の子供(肉親)のように接しているのです。



以前、愛犬家の私は友人に言ったことがある、雨が降ると私は嬉しいのだと、何故なら私は犬を3匹飼っていて散歩が犬と私の共通の楽しみなのだよ、でも頭の痛いことがあるのだ。犬の小便のことで悩んでいるのです、っと。電柱や植木や塀に小便を掛けてはマーキングをする。特に大型犬のゴン(ラブラドール、レトリバー)は小便の量が多く私は気をもむのだと。又、マーキングの回数も多いのだ。小型犬のツバサ(ミニチュア ピーシャ)とポンタ(シーズ)は小便の量が少なく6、7回したら後は小便をしている恰好をしているだけで,肝腎の小便はほとんど出ていないので、いいのだが。


雨が降ると、気にしている犬の小便が水洗トイレの如く洗い流されて,私の気が楽になるのですよと言ったら、友人は、私は雨が降ると嫌なのです、憂鬱になるのですよ、と仰るではないか。


野良猫は雨が降っても雨宿りの場所をそれなりに確保はするのだろうが、寒い冬の氷雨の時などは、小さい体力の無い子猫や病に罹っている猫にとっては、命がけのシノギになるのであろう。


友人はそれらの猫のことを真剣に心配する。あたかも自分の子供のことのように気に掛ける。その優しさに心打たれた。



インターネットで里親希望者がアクセスしてくる。そうしたら、会う前にお互いの情報交換をする。里親希望者の住まいの状況、マンションなのか一戸建住宅なのか、そして猫が日常過ごす部屋はどんな状況か、サラリーマンなのか学生か自営業者なのか、何人暮らしなのか、小さい子供がいるのかいないのか、飼いたいと思う動機は何か。


里親になってもらう以上、猫をお預けするルールを一通り説明して納得してもらわなければ、話しは進まない。猫の一般的な性向、預ける猫の性格、性分、癖、などを伝える。猫との同居に慣れている人ならば多少は安心できるのだが、初めて猫を飼う人には、こと細やかに話し合う。


それから、お見合いだ。


お試しコースというか、一時預かりもやってみる。


ようしそれでは、一丁頑張ってみるかと両者が合意したら、今度は契約を締結する。これは双務契約であるから、里親になった者には猫に対しての扶養の責任と義務を負わされ、送り出した方は、里親に何か事情が発生して飼えなくなった時には、責任をもって引き取ることなどを取り決めるのだ。私には驚きだった。何でそこまでやらなゃ アカンのか?と。命あるものに対する尊厳なのだろう。


里親に猫を預けて、一定の期間は両者間にて、情報交換することも義務づけられている。何も連絡を呉れない人もたまには居るそうだ。そんな場合には次のようなことにも発展する。いくら待てども、里親からは連絡が無い、メールも電話も応答がない。心配で心配でどうにも堪らない日々を過ごしていたのだが、とうとう友人は直接行動に出た。里親を訪ねてみたが、家は灯りが点いたままの留守だった。友人は奇襲 家宅捜査に突入。二階で一人ぼっちで留守番をしていた猫を保護。無事に保護して連れて帰ったそうだ。そんなことを平気でやる人なのだ、友人は。身内の命を救うためには、当たり前のことをしたと平然だ。保護され連れて帰られた猫は、今は凄く可愛がってくれる里親さん宅で極めて平和な生活をしているそうだ。



こんなこともあった。


猫捕獲機で捕まえた猫を病院へいつものように連れて行った。東京のとある動物病院では、友人たちの活動について理解があって、メスもオスも避妊手術代が通常の半額でやってくれるというので、ゲージにいれて連れて行った。治療費が半額となれば、多少遠かろうが電車代がかかろうが、絶対的にお得なわけで悩むことなく、その病院に連れて行った。こういう情報は友人たちのネットワークで知らせ合うそうだ。お泊りにして、翌日迎えに行った。ところが、昨日預けた猫が、朝 死んだと知らされた。何故だ? お医者さんの説明では、横隔膜が破損していたと仰るではないか。捕獲機に入る時に強く打ったのではないでしょうか、と言われた。私は麻酔ミスではないかと疑った、友人もちらっとそのようなことも考えてはみたけれどもと言いながら、いつも厳粛に、まずは自分を責める。死んだ猫にすまないことをしてしまって御免と、静かだが強く自分のとった行動を省みる。誰が悪いのだ? 何故、そこまで自分を責める? 神様、友人に何か手落ちがあったとでもお思いですか。



こんなことの、一つ一つが私を驚かせた。


友人たちのネットで、車に轢かれたと思われる猫が道端に放り出されているという情報をキャッチ、友人は地図を頼りに見知らぬ所へ紙箱をもって現場に駆け参じては,収納して、公営の焼却場で焼いてもらうのだ。できるだけ早く現場に向かわなくては、ニ重三重に轢かれてしまう。収納したら公営の焼却場に予約をいれる。要する費用は、友人たちの行為を理解してか、通常の半額だそうだ、それでも自腹だ。轢かれて死んだ猫を見つけたら、私ならどんな行動をとるのかなと想像してみるが、ただ見捨てるだけだろう。それ以外の行動は無い、確信もって無い。今まで俺はそんなことを考えたことはないのだ。そんな人たちが世の中に居るなんて想像したこともないのだ。



友人は、仕事を終えてから東京日本橋に向かうと仰る。


横浜で仕事を終えるのが夜6時か7時頃だとしたら、日本橋に着くのはその一時間後、7時か8時だ。何をするのかというと、知人か友人か仲間が、捕獲 保護した猫を何かちょっとしたミスで取り逃がしてしまった、その猫の捕獲作戦だ。友人らは捕獲機で捕まえようとする。作戦は、そりゃ早ければ早いほどいい訳で遠くへ行かないうちに、車などに轢かれないうちに、徹夜で見張り続けたけれど、一日目は成果なしで、始発の電車で自宅に戻った。電柱には、迷い猫の情報を求むビラを張り、チラシをまいて猫の消息情報を待つ。休日も同じ様に辺りを捜索。


私にはできない。


私にも、友人にも、この世で与えられている時間は限定されているのだ。個人的には多少の相違があっても、その限定されている時間の消費方法には優先順位が必ずあって、合理的に費やしていくわけだ。無理すると、結果的に自分に無理が降りかかってくる。よって無理をしないで下さいなんて、余りにも日和見的な、軽率な意見は言えないけれど、ボチボチやってください、と遠くで祈る。こんな活動をしている人がいるとは、私には思いも付かなかったし、想像の域に及ばなかった。これからは、私の願い事だ。このような活動している人たちに、社会の光が差さないものかと。もっともっと世の中で理解されてもいいのではないのか? 


野良猫が町をうろうろするのを嫌う前に、この世に生まれてきた猫の命がまずそこに存在して、その生を受けた猫には生き続ける権利が生まれながらにして享受できる筈なのだと考えるべきなのだ、と教えられた。だから、餌も必要だし、罹病の子や傷を負っている子には治療が必要だ。弱っている子、困っている子、何かの原因で途方にくれている子に援助の手を差し伸べることを、友人たちは自然体でできるのだ。私にも、やっと、友人たちの活動の内容が分かりだした。



以前から、猫が嫌いだった。


野良猫が我が家の池の魚を食ってしまった、盛りのついた猫が深夜から朝にかけてギャアギャアうるさくて、猫のことをどうしても好きになれなかった。でも、そんな猫にも近所にはスポンサーがいた。猫ニャンおばさんだ。権太坂の有名人です。(猫ニャンオバサン)は、夜な夜な他人の目を憚りながら猫の餌を彼方此方に置いていた。あなたが餌をやるから、猫はいい気になってはびこるのや、どんどん増えていくではないか。そんな風に、猫ニャンおばさんを俺は本気で嫌っていた。


そんな猫ニャンおばさんだが、時には、皆を楽しく驚かしてくれることもあった。昨年の年の瀬も押し詰まった12月29日。場所は東戸塚駅前の横浜銀行の自動預入機の前。新年を前にして、ATM機の前は長蛇の列、その列の中ほどに長身の彼女が首に猫を巻きつけて並んでいるではないか。私だけかな、ぎょっとしたのは。防寒と触れ合いを兼ねての猫ニャンの様は、微笑ましさと驚きの不思議な光景だった。



子供が夏,セミを捕ったり魚を掬ったりする網だ。竹の柄の先に直径30センチほどの輪に網がついている子供必携の網をもって、友人は行く。真剣な表情で友人は行く。何か重大なことを決意したのだろう、表情に迷いはない。友人は里子に出した猫を捕まえる?のだと言うではないか。 何処で、何で?と思った。里子に出した猫は大変元気者で、ちょっと乱暴者で気が荒く、里親に引き取られて半年も経つのに、里親は一度も猫を抱いたことは無い。抱かしてもらったことが一度も無いのですよ。マンションの同じ部屋には住んではいるのですがね。予防注射をしなくてはならない時期がやってきた、どうしても捕まえることができないので、友人に出動要請がきたのだ。部屋の中を大人3人で追い回して網でやっと捕らえて、そのまま袋に入れた。袋からは網の柄が1.5メートル突き出している。そのまま車で動物病院直行、病院で順番待ちの人たちには吃驚まなこで見られた。得たいの知れない袋は不思議な視線を浴びたそうだ。


そこでだ、私には分からない。そんなにしてまでも暮らしたい、猫との生活。不思議な夫婦だ、寛容な人なの? 度外れて猫が好きなのか? 私には想像のつかない別世界の人のように思われる。まだ抱かせてくれないのですよ、静かに微笑みながら話すその夫婦のことは、私には理解できない。心の優しい人たちであることは、間違いないと思う。その後里親になって約1年後、この頃やっと少しだけ触らせてくれるのですよ、嬉しそうに知らせてくれたそうだ。



2005 4 15 朝日新聞 朝刊より。


米国ウィスコンシン州で11日、州の自然保護や資源活用の方針を決める自然保護会議が72の郡で開かれ、(人の手を離れて野生化した家猫は動物保護の対象ではない)とする提案を72郡の賛成票計6830票,反対票計5201票で可決した。自然保護団体は(猫の狩猟に道を開く提案だ)として反対している。~~新聞記事はここまで。


この新聞記事を読んで感じたこと。




野良猫だって、生きとし生けるものとしての生きる権利があって、生き続けられることの保証が確保されなければならない。人間の無責任さに対する反省、今後の対策を検討しなければならないのではないだろうか?と。人間が行った無責任な行為の報いは、やはり人間自らの行動で帳消しにしなくてはならないのだ。野放しにしてしまったのは誰なのか、何故そんな結果になったのか、その実態を元に戻せる方法はある筈だ。何もそんな険悪な銃を持って処理するなんて、そんな方法を選択するなんて愚の骨頂だと思う。銃をもって処理しても構わないなんて、極めて非文化的なことよ。そんなことが平気に行われる風潮がおこって、人の心の奥深いところに密かに住み着くと、その先に何かぞっとするような、見えないが巨大な悲劇が待っているような、寒々しい予感がする。最近日本で発生した、子供が子供を殺した残忍な殺人事件を思い出してみて欲しい。大事件が発生する前に必ず前兆がある。少年は、虫を殺し、カエルを殺し、猫を殺し、果てに少女を残忍な手法で殺した。



日本橋で取り逃がした猫の捕獲作戦はその後も続いていた。最初にその件を知らされてから、もう2 3週間も経つのに、現場では作戦が継続中だったのだ。なんちゅう執念深さよ。目的の猫ではなくて別のオスの猫を捕獲しちまった。怪我をしているので、治療が必要、友人は治療費をカンパして帰ったそうだが、保護した友人の仲間は、夜は自宅で過ごし翌日病院行きだ。お金も時間もかかる、与えられた自分の時間を切り裂いてまで不幸な不遇な猫にプレゼント。涙なしでは語れない よ 。



先日(2005 4月のある日) ニューヨークにいる長女から電話があって、その時彼女が話したことが、友人のやっていることと同じなので興味を惹いた。長女は夫が仕事に行っている間、自由になる時間を利用して陶芸教室 英会話のレッスンに通っていたのだが、英会話で知り合った人の紹介で、犬の里親探しのボランチィア団体のお手伝いをしているのだと言うではないか。何らかの理由で飼えなくなった犬を、犬を飼いたがっている人へバトンタッチする仕事だ。長女よ、生きとし生ける犬たちの幸せのために頑張って欲しい。動物虐待も世界の各地で行われている。長女のやっていることや友人がやっていることからも(世界のまるごと平和)に通じる何かが見えてくる。そんな気がするのです。猫の里親探しもやっているのだろうか? 下手な英会話教室よりも、実のある英語上達方法かもしれない。



友人の話を続けよう。


この前、横須賀の里親さんに猫を預けてきたのです。そこの家庭はご主人さんがリタイヤーしていて家事を任され、奥さんはお勤め。子ども3人、一番上の息子さんが今年大学受験だそうだ。奥さんが友人のホームページの里親探しにアクセスしてきた。「今、我家には猫5匹いるのだが、あなたのホームページに載っている里親探しの?の子が、以前自分の家に居た猫にそっくりなのです」。その猫の思い出が、どうしても頭の中から抜けない矢先に、このホームページの?子に巡り合ってしまった、ということらしい。私にとっては、もう既に5匹も家に居るのだから何も、他に、もう一匹も求めなくても、十分じゃないのか?と思うのだけれども、そこが私の常識と違うところだ。友人は、そういう人だから、里親になってくれるのだ、と語る。


ご主人さんがしてくれた面白い話を紹介しよう。


5匹いるどれかの猫が、ある日、今大学受験で頑張っているお兄ちゃんに、当然何か原因があってのことだとは思われるのだが、叱られた。叱られた猫は、納得できなかったようだ。何故、叱られたのか、その理不尽さが理解できなかった。やがて怒り心頭、反撃にでた。お兄ちゃんの机上に広げられていたノートに大きいウンコをして、自らの怒りをぶちかましたそうです。その子はなかなか、いい奴なんですよ、とどこまでも猫に優しいご主人さまでした。その後、この猫は家庭内野良をしているそうです、と仰っていたので、少し心配している。



ある日のこと。



東大和市のシェルター85匹の野良ちゃんを保護しているグループがある。そのことを聞いた友人は、自分にもまだ協力できる余裕があるので、是非協力したいと思いつき、いざ東大和!参上。保護している会員の一人に円福家がいて、その人の所有する建物を、保護するスペースに無料で使わせてもらっているそうだ。世話人の一人が友人におっしゃった。私達のグループは何とか会員同士で、やり繰りしながらでもやっていけるので、私達の方よりも、昭島で頑張っている?氏の活動を助けてやって欲しい、と。

友人はその意を汲んで、急遽、会員の案内で昭島に歩を進めた。私には進撃のように思われた。


昭島の?氏は65匹を一人で保護しているのです。?氏の夫は、市の委託を受けて再利用可能な資源を回収する会社を経営していて、回収で巡回中に捨て猫を見つけては自宅兼会社に連れて帰って、保護している。そのうちに、65匹にまでになってしまったそうだ。社長夫人が、もっぱら世話役のように思われた。「ある猫は保護して、ある猫は知らん振りをして見捨てる、そういうわけにはいきませんよ」社長夫人のお話はごもっとも、当然と言えば当然の話なんだけれど。


私には何かが可笑しい、何かがちょっと狂っているぞ、と思われてしょうがない。


どんどん捨て猫が増えている、行政はノータッチ。捕まえて保健所に届ければ、ためらうことなく、殺す。猫の命の尊さは、役所では一考なし。自動的に薬殺される。猫の命を本気で心配して、なんとか生きながらえるようにしてやりたい、と活動しているのはほんの少数のボランティアの人達だけだ。この実態に社会の関心がもう少し高まってもいいのではないのか。私の整理できてない頭とは裏腹に、平気?で、むしろ嬉々?として、当然のごとく、保護に精出す人達の活動に、社会はもっと関心をもつべきではないのか。


簡単に、猫を捨てるな。


その友人は昭島から、子猫3匹を預かって帰った。捨てられた猫は自ら自分の身を守らなくてはならない。ひ弱な子猫といえども、いかなる敵にも自分の命は自分で守らなければならない。当然、気性は激しく獰猛になる。その猫に食事と寝所を用意して、食事を与えてくれる人はこの人なんだと安心すれば、やっと猫は初めてその人に寄り添ってくる。そこまで、人間とのコミュニケーションができるようになれば、里親探しを開始する。そして、良縁を待つ。



インターネットの里親探し情報に、申し込んでくる人は、さまざま。友人は里親宅を猫と共に訪問する。そして、見合いだ。


これからも、この里親探し活動は続くのです。活動家の人たちの精神には頭がさがる、労苦を思うと気が重い。


友人は、介助犬や盲導犬についても、人間による動物虐待ではないかと主張する。人間さんのことは、人間たちで完結すべきだ、と。もっとものようで、簡単には拒否できない。友人とのコミュニケーションを深めたいと思っている。





続きはありますので、しばしのお待ちを。