今回はこれからが、重要なことなのです。
特別表彰には、和歌山・海草中(現向陽高)や明大の投手として活躍しながら戦死した故・嶋清一氏を選出したことなのです。こういうことに、私は特別感応しやすいのです。そのことを詳しく朝日朝刊(2008 1月12日 土)が紹介しているので、後日のために転載保存したいと思った。記事を読んで、当の嶋氏を選考したスタッフの方々に、ご立っ派ですぞ、あっ晴れですぞ、と感謝した。くどくて、すみません。私は嬉しいのです。戦争では、このような立派な人をたくさん亡くしたことだろう。アスリート、科学者、芸術家、あらゆる分野で、将来立派な仕事をしたであろう故人に、我々は何をもって報いればいいのだろうか。私の伯父も戦死した。優秀な農業従事者だった、と祖母から聞いた。憎むべきは戦争だ。我が祖国日本は、アメリカにどこまでも追従して、危ない橋を渡ろうとしているのではないのか。
甲子園の「怪物」69年越し勲章
(海草中時代の故・嶋清一さんの投球フォーム)
準決勝・決勝で無安打無得点
全国高校野球選手権大会がまだ全国中等学校優勝野球大会と呼ばれていた戦時中の1939(昭和14)年、第25回大会で、伝説の快投は生まれた。海草中の左腕エースだった嶋さんは、1回戦から決勝までの全5試合を1人で投げ抜く。右打者の内角に食い込むように伸びてくる速球と、「懸河(けんか)のドロップ」と呼ばれた垂直に落ちるかのような変化球で、相手打者を次々と打ち取っていった。
優勝まで45イニングを投げて、失点はゼロ。しかも連投で疲れがたまる準決勝、決勝でノーヒット・ノーラン(無安打無得点試合)を達成するという偉業だった。
和歌山中(現桐蔭高)時代に嶋さんと対戦しているプロ野球元紺鉄監督の西本幸雄さん(87)=88年殿堂入りは、「戦争で命を落としていなければ、戦後の野球史は必ず変わっていた」と語る。
全5試合完封での優勝は戦後、48年の30回大会で福岡・小倉高の福島一雄投手も達成したが、準決勝、決勝で1安打も許さなかったのは、今年で90回を迎える大会史上、嶋さん1人しかいない。決勝の無安打無得点試合もその後、80回大会で横浜高の松坂大輔投手(現レッドソックス9が成し遂げただけだ。
嶋さんは1920年、和歌山市に生まれた。姓は野口。幼少の頃、親族の嶋家に養子入りをした。甲子園での勇姿とは裏腹に、ロイドメガネをかけた容姿は優しく、おとなしく見えたという。
明治大学に進学し、43年、学徒出陣。出征時に、海草中時代からの同僚、古角俊郎さん(86)に「おれなあ、戦争がなかったら新聞記者になりたかった」とこぼしたという。野球を愛し、甲子園で球児たちの姿を追うことを夢見た青年は45年3月、インドシナ半島沖の海戦で戦死した。24歳という若さだった。
古角さんは殿堂入りの知らせに「感動と感謝に尽きる」と喜び、「嶋をはじめ、多くの選手が戦争で亡くなった。平和ほど尊いものはないと思ってほしい」と語った。
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