2007年12月31日月曜日
復刻(朝日新聞)サッカー五輪決定
2007 11 22朝日新聞 朝刊 1、18、39面。U-22の北京五輪の出場が確定した記念の記事を丸写し、した。
1面 サッカー五輪決定
「見返す」選手奮起
(反町監督に炭酸飲料を浴びせて喜び合う)
22歳以下によるサッカー男子の北京五輪アジア最終予選C組最終日は21日 、東京・国立競技場であり、日本が4大会連続8回目の五輪出場を決めた。引き分けでも出場権を得る日本は、2位のサウジアラビアとの直接対決に0-0で引き分け勝ち点を11に伸ばして各組1位のみに与えられる出場権を手にした。
「若々しくない」「サッカーがつまらない」。これまで結果を出してきたが、特に攻撃面で内容が伴わず、反町監督の手腕に疑問が投げかけられた。称賛される入院中の日本代表のオシム監督とは対照的だった。
こうした批判に、選手たちは「やっているのはおれたちだ。見返してやる」との思いを強くしていた。おとなしすぎると言われ続ける中、自主的にミーティングを開くようになった。「選手にずいぶん助けられている」。反町監督がしみじみと話したことがあった。
17日のベトナム戦に快勝して緩んだ雰囲気を引き締めたのも、主将の水本選手(千葉)や伊野波選手(FC東京)だ。
ホーム・アンド・アウェーの最終予選で、ライバルと見られたサウジアラビアとは2分け、カタールとは1勝1敗の五分の結果だが、目的は遂げた。予選初戦から約10ヶ月。弱気になることもなく、積極的に攻撃を仕掛けて引き分けたこの日の戦いぶりが、チームの成長を物語る。
試合後のロッカー室。日本サッカー協会の川淵会長が「このチームはピチピチ感がないと言ったのは悪かった」と言葉をかけると、選手から大歓声があがった、という。
18面
決戦 成長の証
立ち上がりはピンチを招いたが、主将の水本(千葉)ら守備陣がしのいで徐徐にリズムをつかんだ。相手GKの好守などで無得点に終わったものの、無失点に抑え引き分けに持ち込んだ。
立派な引き分けだ。
負けなければ五輪という条件をクリアーしたからではない。このチームに欠けるといわれていた躍動感と勝利への飢えを、最後の山場で体現したことに成長の跡が見えたからだ。
試合は強運から始まった。右から完全に崩された9分。ゴール至近距離から放たれたシュートを、Mf青山敏が体に当てて失点をのがれた。
それ以降、失点の臭いをほとんど漂わなかった。FW李、岡崎、Mf細貝~。再三の決定機に決められないもどかしさが本大会への課題として残る一方で、次々とスペースに飛び込む動きから好機を作り続けた。ゴールに直結するプレーをすればいいのだというシンプルさは、細かいパスを回すだけで一向に日本ゴールに迫れないサウジを圧倒した。
「最後はメンタル勝負。引き分け狙いではなく、勝ちにいったのがいいリズムを生んだ」と主将のDF水本。勝つしかないサウジが前掛りになった分、背後にはスペースが生じる。そのすきを突き、有利な立場をしっかり生かし切った。
2月の2次予選から始まった戦い。当初の煮え切らなさに、実力伯仲の相手とギリギリの勝負になった時に、ひたすら勝利を求める集団になれるかどうかが心配の種だった。「10月のカタール戦の負けで変わった」と反町監督。若いチームは吸収も早い。
病に倒れ、集中治療室で眠る日本代表のオシム監督は若手たちを気に掛けていた。水本は「回復したら、成長した姿をみせたい」と胸を張った。
失点覚悟 青山敏クリア
ボランチの青山敏が決定的なピンチを救った。相手に攻め込まれていた前半9分、こぼれ球を押し込まれそうになったが、ゴール前で瞬時に反応し、シュートを体に当てて止めた。最終予選の先発は3試合連続。走り回って好守に奮闘した。「(シュートの場面は)体に当たってくれと思った。自分がチームを救ったMVPだと思っている」とニヤッと笑った。
厳しい条件、耐える
長丁場/ホーム・アンド・アウェー
前回のアテネ五輪予選は、1ヶ所に集めて集中的に試合を行うセントラル方式。今回のホーム・アンド・アウェー方式は「全く違う。試合間隔が空くから考えてしまう」。総合力が問われる厳しい予選だった。A代表と違い、U22代表は強化に十分に準備期間は与えられていない。反町監督が今年思い通りに選手を選べたのは、2次予選直前の熊本合宿と予選本番だけ。最終予選が始まる直前に中国・瀋陽で開かれた4カ国大会もオールスターなど国内日程との関係で呼べない選手も少なくなかった。
クラブ側には「U22代表でベンチ外になるようなら呼ばれないほうがいい」という声もある。所属先で中心を担い、出番をつかみかけている選手もいる。Jリーグで試合に出て経験を積むほうがいいという意見も多い。
「与えられた状況を生かす」。反町監督は我慢を重ねた。Jリーグだけでなく、大学の練習にまで足を運ビ、コーチと月に複数回の打ち合わせをして、チームの基盤を作った。
日本の力が突出しているわけではない。カタールとサウジの対戦成績は五分。反町監督も「今日のサウジを見れば、実力は同じか、相手が少し上だった」。五輪を世界に挑む貴重な強化の機会と考えるならば、予選に臨む態勢を充実させる覚悟と努力が必要だ。アジアのW杯出場枠4,5に対し、五輪は3という狭き門だ。
「もっとクラブと代表が緊密に連絡を取る必要がある」と柏の竹本GMは当たり前のことを指摘する。課題も残る予選だった。
アジアの出場枠は(3+1)
中国(開催国)、日本、豪州、韓国
39面
北京だ 歓喜の青
2007年12月28日金曜日
初めてのテープカットだった
「ホテル1 2 3 相模原」の竣工レセプション
12月16日(日曜日、大安)、11:30。
弊社が、相模原の北里大学病院前に進めていたバジェットホテルの竣工を祝って、関係諸氏をお招きしてレセプションを行ってきた。その祝宴に先だって行われたのが、テープカットでした。よく新聞やテレビ等で報道されているヤツです。テープにリボンが吊らされていて、そのリボンごとにカットする人間が配備されるのです。今回は、ホテルを直接運営する会社の取締役さん2人と、ホテルのオーナーである弊社の代表として私が行いました。ただ、それだけのことなんですけどね。カット役を任された人間にとって、なかなか気持ちのいいものでした。晴れ晴れとした気分でした。今までの私の人生、怒られたことはあっても、晴れ晴れしい状態に身を置かしてもらえるようなことはなかった。翌日、我社の定例会議で、なかなか気持ちがよかったです、よって、こんな気持ちのいいことはもっともっと味わいたいので、皆さんは頑張って企画をドンドン立てて欲しいと言いました。パイプカットじゃないよ、テープカットだよと念を押しました。
それから、祝宴が始まりました。ごちそうを鱈腹(たらふく)食べて、お酒をいっぱいいただきました。それから、ホテルを運営する会社の取締役さんが、祝辞と今後の事業展開、運営することに強いご決意を披露していただきました。私にもスピーチの機会をいただいたので、工事に関わっていただいた会社や現実に作業していただいた方々に感謝と慰労の挨拶をした。2番目のホテルとして、那覇でも準備中だということも披露させていただいた。そして、お酒とお料理でした。
嬉しい報告を当ホテルの現場の方々がしてくれました。予約状況がいいのです。年末年始の休暇を、患者さんと共に過ごすための予約ががっちり入っている。年明けには、大学受験のための宿泊予約がバッチリです。それ以外には、近隣の外食店舗やホームセンターへの商品の納入業者からの予約も思わぬ勢いで予約が入っている。開業前からこんなに予約が入れば、オーナーにとっても運営する会社にとっても、いいことだらけだ。
あの狭苦しい東横インに比べたら、我がホテルはエコノミーでゆったりしていて、敵なしだ。頑張って、3番目、4番目を早く企画したいと思っている。
2007年12月27日木曜日
忘年会「銀河鉄道の夜」のご挨拶
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のお芝居鑑賞が、アーバンビルドの忘年会だ。参集してくださった方々にする挨拶の案文を作った。
挨拶文
本日は、アーバンビルドの忘年会によくぞお集まりくださいましてありがとうございました。横浜一元気な会社のアーバンビルドの山岡です。日ごろアーバンビルドの業務に、参加協力していただいて、社員一同感謝しています。皆さんのお力添えをいただいて、迷うことなく成長まっしぐらと行きたいものです、が、我々の業界は、今、すさまじく逆風が吹いています。ここにお集まりの皆さんは、厳しい状況にこそ本領を発揮される元気者ばかりだと思っています。日常業務のなかで、皆さんの表情から強い意志を感じ取っています。強い気魄も感じ取っております。
ところで、今年の忘年会は、全く私の独断で決めさていただきました。好き嫌いの問題じゃないんだね、と寛容にご理解ください。
40年前の学生時代、私と青島はこの場所の隣町の東伏見で4年間を過ごしました。当時の住居表示は、東京都北多摩郡保谷町東伏見でした。青島は、体力もあったし技術的にもなかなか優秀でしたが、この私ときたら、もうどうしょうもない状態だったのです。上手とか下手とかの問題ではなく、走れない、真っ直ぐ蹴れない、飛べない、木偶(でく)の坊でした。「山岡、お前、ケツに糞でもはさんでいるんか」とキングに言われました。どんな言葉で怒られても、絶対へこたれるヤワイ男ではありませんが、さすがにその時はへこたれました。そんな私でも何とかなりだした頃、知り合った牛島孝之さんというオジサンが、時々東京演劇アンサンブルの舞台稽古を見に連れて行ってくれたのが、この劇団との付き合いの始まりです。牛島さんは、誰が何と言おうが、立派な放送作家でした。が、当時牛島さんは苦しんでいました。非(避)社会人、嫌(倦)社会人、反(半)社会人と化していた。でも、私にとってはとっても重要な人だったのです。そんな牛島さんから、私はいろんなことを教えていただいたのです。大企業がもたらす公害、そんな会社にヘラヘラ追従する馬鹿ども。アメリカ帝国主義とそれにへつらう日本の為政者、大国の覇権主義、銭ゲバ、ベトナム戦争、沖縄返還、浅間山荘、成田闘争、税を無駄食う官僚の腐敗ぶり、スポーツのこと、二人のお喋りのネタにはこと欠かなかった。牛島さんは、話が途切れた時、ぽつ~んと話し出すのは、この劇団 東京演劇アンサンブルのことだったのです。とくに、代表者の一人である入江洋佑さんとの思い出話だった。
そして私は学校を卒業して、社会人になった。なぜか不動産屋の社長になった。
今から約15年程前のこと、バブルがはじけて日本は不況の嵐に荒れていた。アーバンビルドは大波に飲み込まれそうになりながらも、かろうじて生き残ったのですが、その長く続いた苦しい日々の、そんな日のひと時、YMCAの教会を借り切って、「銀河鉄道の夜」の朗読会を行ったことがあったのです。その時、本を読んでくれたのが、ツムなのです。今の名前は村野紡子さんです。ツムは、当時この劇団に所属していました。当劇団の代表者の入江洋祐さんの娘さんです。「皆が疲れているんだ、つかのま、なんとか皆を楽しませてくれ」、と私は彼女に懇願したのです。そして実現したのが、「銀河鉄道の夜」の朗読会だったのです。ツムに対しては、交通費しか払えなかったことを、今でも心苦しく思っている。会社は極貧の状態だったのです。その時に、アーバンビルドの軽便鉄道は、横浜の関内から銀河に向かって発車したのです。幻想四次元の空間へ旅立ったのです。軽便鉄道の車窓からは、狂乱地価に踊らされた者どもの阿鼻叫喚、倒産がドタバタ、自殺者が年に3万人、夜逃げ屋本舗大繁盛、大量の家族の崩壊と離散、高利貸しが跋扈しているのが見えるのですが、地上の現実とは裏腹に、銀河からは静かで平和で、楽園そのものに見えました。
そして今年の夏、ひょんなことでセゾン財団の高橋さんと東京演劇アンサンブルの志賀さんとお酒を飲む機会があって、「志賀さん、年末はどんなお芝居をやるのですか」とお尋ねすると、志賀さんは「銀河鉄道の夜」をやりますと仰った。即、その場で、私は忘年会はこれだ、と決意したのです。
走り出したときの軽便鉄道の運転手は私、機関士は中村専務、車掌は矢野女史だった。乗務員はこの3人だけだった。軽便鉄道は頼りなげに、でもしっかりと走り出すことができたのです。一番目の停車駅では、ジョバンニが、出川さんと桜庭と一緒に乗り込んできた。設計や建築が分かる会社になった。二番目の停車駅では、カムパネルラが、海老沢と和泉と一緒に乗り込んできた。販売強化、経理業務強化がなされた。三番目の停車駅では、ほろ酔いの小見が顔を真っ赤にして乗り込んできた。入社するやいなや、会社らしくするための大ナタを振った。高津も乗り込んできた。開口一番、業務拡大に寄与したい、だった。それから青島だ!!俺にも応援させろ、と威勢よく乗り込んできた。静岡地区の仕事は俺にまかせろ、ときかない。セロ弾きのゴーシュが、佐藤と浅見を連れて乗り込んできた。佐藤はキツネを抱いて、浅見はナメクジをポッケットに入れて。白い熊のような犬も、風の又三郎も乗り込んできた。ブドリも、豚も、熊も、オツベルも、象も、北守将軍までも乗り込んできた。注文の多い料理店で腕を磨いていた小澤も乗り込んできた。いきなり業績をあげた。伊藤梓郎が、ホテル事業を一緒にやろうよ~と叫びながら、烏の大群に囲まれて、走り出した軽便鉄道を追いかけてきた。小見が手を差し伸べて軽便鉄道に引っ張り込んだ。そして、ホテル事業を開始した。インディアンも乗り込んできた。
我々が乗り込んだ軽便鉄道は走り続けている。夜空に静かな汽笛を鳴らしながら。次の停車駅にも、次の停車駅にも、たくさんのスタッフが乗り込んできた。軽便鉄道は幻想四次元の世界を快調に走って行く。
三次元現実の、皆さんの会社や・アーバンビルドや・家族や・人間の愛や・歴史が、そんなものが、幻想四次元の世界においては、皆さんの会社の会社が・アーバンビルドのアーバンビルドが・家族の家族が・人間の愛の愛が・歴史の歴史が・そして生命の生命が燃えているのかもしれない、と。この表現は、長年ブレヒトの芝居小屋、東京演劇アンサンブルの屋台骨を支えてこられた演出家で脚本家の広渡常敏(タリさん)さんの表現を真似をさせていただきました。そして、もう少し真似させてもらえば、この幻想四次元の投影として、現実の世界があるらしいのだ、と。
どうか皆さん、宮沢賢治のファンタジーな世界を、幻想四次元の世界を楽しもうではありませんか。幻想四次元の投影として、現実があるらしい、のです。
2007年12月25日火曜日
浦和世界3位に祝福と?
横浜総合競技場で16日開かれたサッカーのトヨタ・クラブワールドカップで、Jリーグの浦和レッズが「世界3位」の座を射止めた。3位決定戦でアフリカ代表のエトワール・サヘル(チュニジア)を下した。2-2で前後半終了、PK戦を制し3位をものにした。この試合を最後に浦和を離れ、母国ブラジルへ移籍するワシントンが2点を奪う活躍を見せた。ここまで、1回戦ではイランのセパハンに3-1で勝ち、2回戦(準決勝)では、イタリアのACミランに0-1で負けて、3位決定戦に駒を進めてきたのです。 ACミランは決勝戦において、ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)に4-2で優勝。欧州代表のクラブが優勝したのは初めてだ。 浦和レッズの対ACミラン戦の健闘振りについては、立派だと思う。また日本のサッカーがまだまだ上位に望みをつなげられることを見せてくれたことには感謝している。でも、じゃ。ここで、じゃ。私がここで言いたいのは、ACミランに負けたことを惜敗だと報道されていたことについてなのです。とんでもない力の差があることを、記者は表現しなければならないのに、たまたまスコアーが1点の差だからといって、目がくらんではいけない。浦和とACミランでは、まずは基本的なボールタッチが格段に違うのです。少し、サッカーをかじった者ならば、すぐに分かるものなんですが。それから、長身のプレーヤーが爆発的な加速で走る、球扱いも速く、正確。アイデアが多彩で、相手の能力を引き出す能力やゴールへの執念が格段に違うのです。鍛えられた体とボディバランスにはほれぼれとさせられた。何もかもが、こんなに違うのです。この違いの差はとてつもなく大きいのです。だから、その辺りを深く掘り下げた報道内容にして欲しかったのですが、残念ながらそのような記事はなかったが、浦和レッズの長谷部 誠が朝日新聞のスポーツ欄でいいこと言っているので、その記事を転載させていただいた。アスリートは謙虚だ。今後の活躍を期待したい。
私ごとだけれども、昭和47年、私が所属していた大学が4年生の時の大学選手権(インカレ)と関東大学選手権の2冠を制した。補欠ながら半分ぐらいは試合に出場させてもらった。いずれの祝勝会においても、私は先輩、同輩、後輩に必ず言い続けていたのです。「私のような者が試合に出て優勝するようでは、大学のレベルは低すぎる。だから、もっともっと、頑張っていい試合をできるように頑張ろう。お前ら、今後も命がけで頑張ろうや」っと。競技者は、いつも相手と自分等を分析、全体の理想のイメージをつかむことが大事なのだろう。
逆境から挑む〔朝日朝刊・スポーツ欄〕
浦和レッズ 長谷部 誠
ミラン戦 高いレベル、慣れてきた 16日に終わったクラブワールドカップの3位決定戦で、エトワール・サヘル(チュニジア)に勝ってシーズンを終われたのは大きかった。3位と4位とでは大きな違いだ。J1最終節で優勝を逃しただけに、大会にかける思いは強かった。悔しい思いをさせたサポーターにも、納得してもらいたかった。刺激になったのは、準決勝の欧州王者ACミラン(伊)との対戦だ。やはりすべてにおいてレベルが高かった。守備ではプレスのかけ方、位置取りが良く、こちらのパスのスピードが遅いと、すぐにカットされた。攻撃でも一人ひとりが強く、うまい。驚いたのはブラジル代表のMFカカだ。よくプレースタイルが似ていると言われるが、じかにピッチで見ると、これまで見た選手とレベルが違った。浦和で一番背が高いFWワシントンと並んでも変わらないくらい大きい(身長186センチ)のに、ものすごいスピードでDFがぶちぬかれた。ドリブルの際、球をとられないためのボールの置き方、体の使い方は参考になった。ただ、我々も守備はある程度通じていたと思う。球を持った相手に対しても、数人で組織的に守ればチャンスは与えなかった。攻撃でも、ゴール前の精度は欠いたものの、速攻から好機を作った。最初から飛ばしたので、最後の方は体力が残っていなかったが。改めて感じたのは、強いチームとでもやっていくうちに、そのレベルに慣れて順応していくということだ。力の差は大きいと思うが、何回か戦えば、ミランにだって勝てないことはない。試合後、ミランの選手とユニホームを交換しなかった。もともとそういうことにはあまり興味がない。相手をリスペクト(尊敬)しているが、同じピッチで戦っている同じ選手なんだ、という思いがあるからだ。
2007年12月23日日曜日
グエン・ベトさんが亡くなった。
グエン・ベトさんが、10月6日に26歳で亡くなったことを報じる新聞記事を見つけた。ベトさんとドクさんは、下半身がつながった結合双生児として生まれた。彼たちが生まれた状態の仔細な報道を聞いた時、世界はその異常さに度肝を脱がされた。日本では、ベトちゃんドクちゃんとして親しまれた。2人はベトナム戦争時にアメリカ軍が大量に散布した枯れ葉剤の影響が出たと言われている。
米軍は、抵抗するベトコンのゲリラ戦に手を焼き、方法手段を選ばず、人道上大いに問題あることを平気でやっていたことになる。
そして、べトナム戦争が始まって米軍が敗退するまで、私は何を考えながら青春を過ごしていたのかを、戦争の経過と合わせて回想してみた、が断念ながら、途中までで終わりました。
2007 10 19
朝日朝刊
枯れ葉剤被害のベトナム双生児の兄 耐え続け無言の伝言残す
グエン・ベトさんが亡くなった。 (山本大輔 )
今まで見たことがないくらい安らかで、きれいな顔だった。ベトナム戦争中に米軍がまいた枯れ葉剤の影響とみられる結合双生児だった双子の弟・ドクさんとの分離手術から19年、脳症の後遺症で一言も話すことなくホーチミン市内の病院のベッドで生き続けた。「最後の最後にやっと苦しみから解き放たれた安心感が表情に出たのだろう。よく頑張った」とグエン・フォ・タン主治医(48)は語った。 ベトナム中部高原の村でドクさんと下半身の一部がつながった状態で生まれた。母親のラム・ティ・フェさん(54)終戦直後に枯れ葉剤がまかれた地域で農業をしていた。枯葉剤は土壌を汚染し、人体を侵す。双子も犠牲となった。脳症になる前は言葉も会話も問題なかった。大胆で積極的なドクさんとは対照的に物静かでおとなしい性格だった。ドクさんが好んだ歌謡曲風のリズムよりクラシックのような音楽が好きだった。「口げんかばかりだった。『おれの方が強い』と言うドクに、いつも負かされ感情的になっていた」とフエさん。一つの体を共用する対極的な存在だった。5歳の夏の86年、急性脳症で意識不明の重体に陥る。2人を切り離した88年10月の分離手術でも意識は戻らなかった。みなが「数日の命」と言った。以来、肺炎や出血、腎臓障害などを併発しながらも苦しみに耐え続けてきた人生だった。それでも確かなメッセージを残して旅立った。「多くの人がベトを見て感じたことが、ベトからの無言の伝言」と支援者でホーチミン市在住の日本語教師・富山悦子さんは考える。「一番変わったのは弟だ。枯れ葉剤被害について多くの人たちに発信したい。人前で話すのが苦手なドクさんが富山さんに語った言葉だ。「ベトは自分を犠牲にして僕を生かしてくれた。これから僕は彼の人生も生きる」。一度は離ればなれになった双子が再び一つになった。
*こんな記事を読むうちに、青春時代のあの頃の自分のことが甦ってきたのです。
ベトちゃんドクちゃんが結合したままの二人の写真が、新聞に掲載された。私の長女が4歳、長男が2歳で、妻は次女を妊娠中だったように思います。子供を持つ親になりたての頃です。子の出生を何とか無事にと、一度でも祈ったことのある者には、非常にショッキングなできごとでした。二人の両親の心境に思いを馳せた。
私の記憶が風化しないように。
ベトナム戦争に対する、私の反戦への思いが高まっていった。
そんな経緯をたどってみた。
私が中学1年生の頃、南ベトナム政府に対する反政府軍が、北ベトナムの支援を受けて、南ベトナム解放民族戦線が結成された。この部隊のことを通称ベトコンと言われていた。その頃、 私はベトコンを馬鹿にしていた。世間にそんな風潮があった。何もわからないままに、体に木の葉っぱをつけて動くさまが、子供心に可笑しかったのだろう。ベトコンの真似をして、皆を笑わせてもいた。ベトコンという呼称は蔑称のような取り扱いだった。きっと、たまたま見たテレビで、面白可笑しく取り扱ったものがあったのだろう、私は誤解したようです。ベトナムは、これから、長く、苦しい、悲しい本格的戦争に突入していくのです。アメリカの大統領はケネディ、南ベトナムの大統領はグエン・カオ・キ、北ベトナムの首相はホー・チ・ミン。
大学に行きたいと思っていたのに、どこにも入学の夢はかなわなかった。そして身分は素浪人。勉強だけで一日を過ごすことのできない私は、気分転換も兼ねて学費稼ぎのドカタ稼業に身を置いた。社会の底辺で働くことで、社会の矛盾や世の中の不合理なことに鋭敏に反応するようになっていた。大人の世界に飛び込んで、大人の会話を耳にした。労働の面白さと大変さと大切さ。請負という形式から得る労働の対価としての日当、発注者と請負者、下請け、孫請け、その下請け、そんな構造に興味が湧いた。
大会社の発注者がいて、下請けの下請けの下請けの親方がいて、末端の我々がいる社会の仕組みを知った。そうして、私こそ真の労働者だと、反ブルジョア的人間に傾きかけていったのです。正直者の私は、 常に原理主義者?でいたかった。私は、ますます過激な思念に傾いていったようです。
早く大学に入りたい。あんなベ平連なんかには、任せてなんかおけないやんけえ(関西弁です)。北爆が始まった。爆撃は、北の産業基地や中国やソ連からの供給物資を運ぶ通称〈ホー・チ・ミン・ルート〉と言われている軍事ルートだけでなく、人口の集中している地域までおよんだ。テレビの画面を両手で覆った。雨のように、ナパーム弾が降下された。ジュウタン爆撃というヤツだ。
当時、何故こんなことになってしまったのか、誰も教えてくれなかった。首相の佐藤栄作はアメリカに理解を示し、社会党と共産党は反対していた。自民党が何故アメリカに理解を示し、社会党等は何故反対しているのかを、友達の間でも話したこともなかった。戦争に正義なんてないことを、そんな年齢の私でさえ、解っていたのに。日本にある米軍基地は、戦場への補給基地として重要な位置を占めていた。沖縄の嘉手納基地からは、爆弾を積んだB52が直接ベトナムへバンバン飛んだ。
ずうっと後のことだけれど、アメリカが仕掛けた最悪のベトナム戦争を、世界のほとんどの国が反対するなか、支持し続けた元首相の佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した。どうなっちゃってるの? ノーベル賞の選考委員会はどうしたのだろう。佐藤栄作贔屓の人でさえ、ビックリこいたのではないでしょうか。
世界の各地で反体制運動が起こっていた。私もまた過激な反戦、反米に傾いていく。俺は素浪人のままで、こんな所で、こんな事をしていて、ええのか。どうなんじゃ。ドカタをしている場合ではないぞ。あせっていた。勉強にはもともと力は入ってはいなかったが、学校には早く入りたかった。
1967年、昭和42年、浪人1年目、東京都に革新の美濃部知事が誕生。京都は長年革新の蜷川知事だった。
南ベトナム全土で解放勢力が猛烈な攻撃をかけてきた。〈テト攻勢〉である。南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム政府軍はテト(旧正月)のお祭り騒ぎに乗じて一斉攻撃を開始した。 南ベトナム軍とアメリカ軍は、完全に理性を失いかけていた。なりふり構わぬ、あせりだ。ヤケクソになりかけているようにも思われた。
1968年、世界の各地で反体制運動がピークをむかえた。政治・経済・社会・文化の改革を求める市民が権力への対決姿勢をあらわにする。面白くなってきたぞ、と喜んでいた。各地の反体制運動には多種多様なイデオロギーを掲げていたが、いずれもブルジョア的価値観をことごとく拒絶した。私も、この世界のうねりにピタット共鳴していくのです。自ら、過激な行動の模索に入っていく。反戦の内容のフォークソング集会があっちこっちで開かれていた。歌なんか歌っても、しょうがないのではないか。
後に、1968年(昭和43年、浪人2年目)に起こったコロンビア大学の学園闘争を題材にした映画「いちご白書」が作られた。好奇心と彼女への恋心から学生運動に身を投じたボート部の学生と活動家の女子大学生の恋愛を描いた。最後は、当局の一斉検挙が実行されて、終幕を迎える。後に、この映画を観た。終幕の悔しい思いよりも、彼女との恋愛に悩む学生が羨ましかったことの方が、頭に残った。
1969年、アメリカの大統領は、リチャード・ニクソンが就任した。昭和44年のことです。私は念願の学校に入学することができた。何を、どうすればいいのか、漠然としていたけれども、野心に燃えていた。夜行列車を乗り継いで、キセルを繰り返しながら、東京に着いた。2年間のドカタ暮らしで、筋肉隆隆、精神力は十二分に鍛えられていた。学力以外は、何も恐い物なし、だ。私には、並みの学生とは違うのだぞと強い自負心があった。ドカタで稼いだ金がある。2年半の授業料と生活費は十分貯えてある。2年半後は、その時考えればいい、なんとかなる。
反戦フォークソングを歌っていても、しょうがいのではないか。ベ平連なんか、屁(へ)みたいなもんじゃないか。
各大学の学園紛争の影響で、日々私は刺激を受けっぱなしだった。ベトナム戦争の泥沼化のなかで、私はこれからの学生生活に向かって力んでいた。精神が昂揚していた。何か、やり遂げないと気がすまないぞ。一発、やってこましたるぞ。世の中の誰よりも平和で民主的な国家、国づくりを望む、過激な学生になってやる。いい男になってみせるぞ。お母さんからは、警察に捕まるようなことだけはしないでくれ、と言われて田舎から出てきた。警察に捕まって、田舎で頑張っているお兄さんの顔に泥を塗るようなことだけはしないでくれ。それ以外なら、なにをしてもいい。金持ちにならなくてもいい。エラクならなくてもいい。
東大安田講堂が陥落。
40万人が集まったウッドストック。
ベトナムで北爆が強化。
新宿駅地下西口広場で反戦フォーク集会で若者と機動隊が衝突。
私の入学した学校は、入学して3ヶ月もしないうちに、授業は開かれないままクラス討論会を繰り返した。そしてクラス討論会の後は、校庭をデモしてまわった。私に急接近してきた友人の影響もあって、クラス単位で参加するデモには必ず参加した。頭の中では、こんなことをしているだけでは、授業料も安くならないだろうし、学生会館の使用についても学生が自主的に使えるようにはならないだろうなあ、と疑いながらデモってた。
学生会館の自主的運営一つ獲得できないようでは、真の学生自治なんてありえないではないか。脳足りんの馬鹿学生集団になっちゃうよ。そして日本国の将来、独立独歩の行く末を論じる学生なんて生まれっこないぞ。やっぱりアメリカの属国っか。そのうちにストライキ突入、ロックアウトで学校敷地はバリケードで囲われ、誰も入れないように封鎖された。バリケードの外周りをデモった。
1970年(昭和45年)3月、大学1年生の時。よど号ハイジャック事件。日本航空ボーイング727型機が羽田空港から福岡空港にむけて飛び立った。富士山上空あたりでハイジャックされた。平壌空港に着陸した。
11月、作家の三島由紀夫が、自ら主宰する〈盾の会〉の会員4人とともに、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自衛隊員にむかって決起を呼びかけた。その時、私は東伏見の隣駅の柳沢で、ダンボール箱をつくる会社でアルバイトをしていた。三島由紀夫は、憲法改正による自衛隊の国軍化、天皇を中心とする日本古来の伝統の擁護を訴えた。私には、滑稽にしか見えなかった。三島は割腹自殺した。三島の行動には、さすがにおったたまげた。三島の本をむさぼり読んだが、いまいちピ~ンとこなかった。でも、精神の空白化とか、政治の退廃について命がけで問題を提起したことには、感動した。三島の原理主義に嫉妬した。
新宿駅騒乱。大学1年だったか、2年だったか、新宿駅に学生デモが突入して、線路の敷石を機動隊に投石した。私は、その日昼間はサッカー部として練習して、学校でクラス会をすることになっていたので夕方学校の近くの喫茶店にいた。そこに集まった友人の一人は異常に興奮していた。彼はそのデモに参加することにしていたようだったのだ。そのデモで、逮捕されたことを2年後に友人から知らされた。クラス会を終えて高田馬場駅に着いた時には、新宿駅が大騒乱の状態だということを知った。高田馬場から歩いて新宿駅に向かった。そこで目にしたのは、恐怖だった。けが人が救急車で運ばれる。学生と機動隊のがなりたてるマイクの音。サーチライトが狂ったようにあっちこっちを照射する。何から発生しているのか不気味な鈍い音、突然に轟音が聞こえる。催涙弾の臭いがする、煙が見える。商店街はシャッターを下ろし、店主らしい人が心配そうに様子をうかがっていた。佐藤栄作の渡米反対、ベトナム戦争反対がスローガンだったと思う。
私は、ヤジウマのなかで一人、疎外感に苛(さいな)まれた。何にも参加できない弧独と焦燥。傍観者に過ぎないわが身を恥じた。
こんな筈じゃなかった。田舎にいる時は、俺こそ過激な反戦の騎士になってみせると張り切っていたではないか。、この怯(ひる)み様はどうしたのだ?お前は、ただのフヌケじゃないのか。
でも、これって本当に革命をめざしてのことなの?
深夜、西武線の終電のあと、一人で線路の上を東伏見まで歩いて帰った。空(むな)しかった。3時間ほどかかったのかな。東伏見に着いたときには、空がうっすら白みかけていた。明日も、サッカーの練習が待っている。寮には、こっそり入らなければ、大変なことになる。明日のために早く寝なければならない。翌日、同輩たちが「昨日は、新宿、大変やったな」、と話し合っているのが聞こえた。私は知らん振りをしておいた。
1972年(昭和47年)2月、大学3年生の時。浅間山荘事件。武装して逃亡していた連合赤軍の5人がヤマハの保養所に逃げ込み、管理人の妻を人質にたてこもった。サッカー部の寮のテレビで釘づけになった。革命?を目指していた? 革命ってなんだったんだ。
文章は途中だけれども、公開することにしました。 07 12 22
2007年12月18日火曜日
ヒマラヤ・ムスタン 頑張る日本の老人
記事を読んで、余りに驚かされてしまった。コンドーのじい様のことが頭から抜けない。頭がさがったまま上がらない。朝日朝刊の記事を転載させていただいた。 こういう記事は保存して置かなくてはイカンと思うのです。コンドーじい様の活躍とヒマラヤの彼方を想像しながら転載した。同じ日本人として、嬉しいですなんて言ったら、叱られるだろうか。このじい様は超えているわあ。
秘境 稲実る
荒地開墾16年 山村発展に貢献 ヒマラヤ・ムスタンの近藤亨さん(86)
標高3千~4千メートルのヒマラヤ奥地・ムスタンで86歳の日本人男性、近藤亨さんが稲作に成功、果樹や野菜、酪農など一大農場を作り上げた。寒冷と乾燥の荒地に、16年前に70歳単身で乗り込み、開墾から始めた。ニジマスの養殖、病院や学校の建設も手がけ、辺境の地の発展に貢献していた。
近藤さんは新潟県園芸試験場研究員を務めた後、国際協力機構の果樹専門家として76年にネパールへ赴き、ブドウ栽培など14年にわたり指導した。90年、退職の慰労金で「ヒマラヤ山村農民のために生命ある限り微力をささげたい」と切り出した。故郷・新潟の土地と家を売り、単身、91年にムスタンに渡った。
ムスタンは8千メートル峰に囲まれ、雨は極端に少なく乾燥し、真冬は零下35度にもなる。約300人のガミ村は砂利と岩のやせた土地。60~70人の働き手と、牛のふんやわらで作った肥料を与え、川から水をひいた。ソバや麦しか作れなかった村に200ヘクタールもの野菜畑やリンゴ園が広がった。
最も難しかったのは稲作。思いついたのは石垣ハウス。石を厚さ60センチに積み上げ、泥ですき間を埋めて風を防ぐ。縦1メートル、横2メートルの透明なパネルを敷き詰めて覆い、昼間の太陽の熱を蓄えた。穂ばらみ期に室温15度以上保つようにして4年目、初めて黄金の穂が実った。
シャン、テニ、ガミの三つの村の農場は約250ヘクタールになった。酪農、ニジマスやコイの養殖場のほか、病院と17の学校も造った。冬は仕事がなく、暖かい町へ出稼ぎに行かなければならなかった村人たちが今、春に向けてリンゴやブドウの枝切りに追われている。
「コンドーのじい様!」。すれ違う村人たちの声に、近藤さんは馬の背から真っ白な長いひげをたくわえた笑顔で返していた。
(ムスタン〈ネパール北部〉=中山由美)
2007年12月13日木曜日
丹沢大山から七沢温泉
12月5日、丹沢大山を登ってきた。
朝8時、オジサン4人組は小田急線秦野駅に集合した。
今回のメンバーは私、平塚駅前の副田さん、成瀬駅前の佐藤さん、我社の社員の父親の小澤さんの4人でした。4人は、神奈川県不動産のれん会のメンバーです。小澤さんだけは、若くしてのれん会OBで、現役のビジネスマンではありません。それぞれ、偽名を使わせていただいた。佐藤さんの本名は、柔くて軟いイメージを膨らませていただければ、自ずから会社の名前は浮かんでくる。副田さんのことは、平塚駅界隈の商店街を仕事場にしているオジサンで、お話をキチンキチンと丁寧に話される、賢い人です。私は尊敬しています。
秦野駅からバスで蓑毛を過ぎて、ヤビツ峠で下車、所要時間25分。蓑毛から歩き出す人の方が多いのだが、我々は今回はゆっくりぶらぶらを優先させたので、ここで降りずにヤビツ峠まで乗った。常に無理をしないグループです。軟弱かも。
9:30 しばしの体操の後、ヤビツ峠を後に大山山頂を目指して歩き出す。
大山は、標高1252メートル。紅葉の見ごろ2週間か10日遅れの観賞ということになったが、それでもじゅうぶんオジサン4人組を楽しませてくれた。おぅオ~と立ち止まることしばしば。陽射しを真正面に受けたモミジの鮮やかな紅色、イチョウの黄色、雑木類の黄色から赤色、橙色が、杉林の濃緑色とコントラストをなす。絵画的だ。木漏れ日に照らされたモミジがあたかも照明を浴びたステージ上の女優さんのようだ。どきっとするほど、艶(あで)やかだ。山系は伊勢原、秦野、厚木の三市にまたがって裾野を広げている。一帯の丹沢山系をまとめて県立丹沢大山自然公園の指定を受けているのですが、その中心地域を丹沢大山国定公園に指定されているのです。かって江戸時代には、大山詣は江ノ島詣とセットで庶民の娯楽の一つだった。また山岳信仰のメッカとして、登山は「大山講」と呼ばれた。古くは、大山のことを雨降山といわれ、関八州の雨乞いの霊場でもあった。丹沢山系から流れる良質の水を利用しての豆腐作りと、民芸品の「独楽(こま)」作りが有名だ。山岳信仰と豆腐は、高野山も京都も同じだ。
霜柱があちこちにできていた。登って行くと、前日か前前日に雪が少し降ったようで、陽の射さない斜面などには、うっすらと白の薄化粧。初い初いしくて、なんだか恥ずかしく感じるのは、俺だけ?。今は初冬なのだと、実感した。振り返ると、富士山は裾野まで白装束だ。さすが、富士山は日本一美しい。ぎょっとするほどみずみずしい。富士山は、毎年冬を迎える度に、若さを取り戻すのだろうか。山容はゆったりとなだらかだ。
中年女性のハイカーが我がチームを追いつき追い越していく。逆からもやってくる。女性の元気なのは、日本がケッコウな状態だってことだろうか。女性は世の中のリトマス試験紙だ。男は、見栄をはったり、目先の金に目がくらんだりするが、女性はきっちり世の中の動向を見ている。まだ、女性が怒り出すほどまでには悪化していないってことなのだろう。振り返り、振り返り富士山を眺めながらの登り坂でした。太宰さんによると、井伏鱒二さんは、愛敬よく放屁をなされたらしいが、私も負けずに富士山に向かって小用と放屁をかまさせていただいた。
歩いてる最中は、以前に登った山と温泉の思い出話、気にしている健康問題、日々の食事のこと、旅行に行ってきたこと、これから行く旅行の話、家族のこと、仕事の悩み事、友人、仕事仲間のこと、出身学校の事情などを誰はばかることなく大きな声で話し合うのです。佐藤さんは、兄弟間の確執に熱がこもる。息が荒くなるときもある。山気のこもった空気を、肺胞奥深くまで吸い込む。山の「精」がいっぱい含まれていて、栄養満点のような気がする。この山の空気が、俺を蘇らせてくれたのだ、と常々こぼす副田さん。それに、俺は15年前は、もう死んだも同然の状態だったのですよ、と。昨日はテニスを5時間もプレーしたとおっしゃる小澤さん。
ゆっくり、ゆっくり歩いた。今回は、佐藤さんが隊長の山登りクラブの忘年会なのです。
大山山頂には11:00ころ到着した。
山頂は視界360度。体を一回転して眺望を楽しんだ。気温は5度ぐらい。空気は澄んでいる。北には筑波山、南は真鶴、東は東京から横浜、西は富士吉田。山頂にある全方位の案内盤は、ずいぶん前に設置された物なのだろう、富士吉田市、東京市になっていた。三浦半島、真鶴半島、東京新宿のビル群、横浜のランドマークタワーがはっきりと見えた。山頂には、阿夫利神社があった。
昼飯を摂った。佐藤さんが自宅の庭で採れた柿を広げてみんなに勧めてくれた。私は大の柿好きなんですよ、と言うか言わないうちにパクパク口にしてしまった。秦野駅売店で買ってきたバナナを3本食った。30分ほど休憩、談話してから下った。
下りは、下りの坂ばっかりでした。富士山が山で隠れて見えなくなった。道は単純な下り坂で、楽しみは紅葉だけ。でも、紅葉は見ごたえがあった。飽きたころにモミジがイチョウが、目を楽しませてくれる。学生時代に膝を痛めていて、下り坂が続くとダメージが増してきて歩き方もヘンチョコリンになるのです。これはどうしょうもないサッカーの後遺症です。退屈な杉林の間をお喋りしながら歩いた。お喋りには、いつも花が咲くのが我がチームの特徴です。
15:00 広沢寺温泉の玉翠楼に着いた。宿泊するお宿だ。売り物は「元祖シシ鍋」。七沢温泉の一番奥の一軒宿だ。昭和の初期に建てられたそうです。宿の内外にはイノシシの剥製から、イノシシのおもちゃ、イノシシに関するものが展示されていて、何もかもイノシシづくしだ。70歳代と思われる老夫婦とその息子夫婦でやりくりしているようでした。露天風呂に入る。ここの湯は、強アルカリ性だそうです。宿のパンフレットには、美人の湯だとか子宝の湯だとか言われているが、それってどういう意味? そして、シシ鍋に舌鼓(したつづみ)を打った。酒は地酒、黄金井酒造の「盛升(もります)」。口当たりがよく、私にとっては珍しく冷でぐいぐい飲んだ。美味かった。温泉で癒された、疲れた体には快く沁み込んだ。
酒宴での主たるテーマは自分たちの子供のことだった。どの家庭にも、子育てにおいてはイロイロありそうだ。私は元気者だった娘のことを話した。今から振り返ってみると、手を煩わせられたことはすっかり忘却の果て、俺も若かったなあ、と寧ろなつかしい思いがする。不思議だ。今は子供を育てながら介護の仕事に精を出している娘だからこそ、こんなに暢気でいられるのだろう。幸せじゃ。
シシ鍋をたらふくいただいた。酒が頭の天辺から手足の指の先っちょまで行き渡ったところでお開きにして、私はバタンキュっと床についた。先輩たちは惜しげもなく、温泉に入り、湯を楽しまれたとのこと。
翌日(12月6日)は宿泊料の精算を済まし、9:00に宿を出て、日向薬師に向かった。戻ってきたらもう一度温泉に入りたいと言ったら、通常1000円の入湯料が500円になる割引券をいただいた。熊が出るので、何か音の出るのをお持ちですか?と女将から聞かれたのですが、本気なのか冗談なのかはかりきれずにとぼけていると、女将さん、ますます真剣に聞いてくる。この真剣さはなんだ。そんな面倒くさいことは嫌なので、とぼけ切るつもりだったのです、が女将はしつこかった。しばらくしてから、「持ってないなら、ラジオを貸すからこれを持って行きなさい」、命令口調だった。「はい、ラジオは私が担当します」と言って、腰にぶら下げた。15:00には戻ってきまあ~す。昨日よりも暖かかった。そのかわり遠方までは眺められなかった。やはりツキノワグマやシカの糞と思われるのが、あっちこっちで目にした。最近はヤマビルがシカに付着して、シカの広範囲な行動にともなって広がっている。地面に直接足や尻を着けないように注意された。
日向薬師に11:00到着。
日向薬師は、案内書によると日向山霊山寺と言われ元正天皇716年に行基が開創した。眼病には特に霊験あらたかといわれている。日本三薬師と言われているそうです。他の二薬師はどこなんだろう?後日の調査に委ねるとするか。昔、罪人の駆け込み寺といわれた浄発願寺、天武元年(672年)壬申の乱で破れ、近江で自刃したが、実はここに逃れ没したとも伝えられている(伝)大友皇子之稜、石雲寺をめぐって、日向薬師の下の梅林で、宿で作ってもらったおにぎり弁当を食った。学校でならった、あの有名な壬申の乱の主役の大友皇子さんだ。相手方は、確か大海人皇子さんだ。憶えていたことに感動した。石雲寺で漁鼓(ぎょく)を叩いた。そして大田道灌日向薬師ののみち(現在は、関東ふれあいの道)を通って、七沢温泉の玉翠楼に戻った。途中には、熊が出ますよ、気をつけてくださいの看板がやけに目立ちました。先日、ほんの1ヶ月ほど前に、自転車の子供を熊が追っかけたのですよ、と地元の人が言っていた。ロッククラミイングの練習をする崖もあった。
宿に戻って温泉に入って、ビールを飲んだ。
宿の息子さんに途中のバス停まで送ってもらい、そこから本厚木まで出た。そこで、ビールと日本酒の燗を3本ほどいただいて帰途につきました。
土産は五穀米でした。何故かって?お土産は、実用品優先です。
2007年12月12日水曜日
オシム流を生かしつつ
岡田新監督 オシム流を生かしつつ
サッカーの日本代表監督に岡田武史氏が復帰した。イビチャ・オシム前監督が病に倒れ、緊急の交代である。新監督を語る前に、前監督のことを振り返る必要があるだろう。
オシム氏が就任したのは昨年の7月。分裂前のユーゴスラビアの監督としてワールドカップ(W杯)で8強入りし、来日後は市原(現千葉)を率い、Jリーグの主要タイトルであるナビスコ杯に優勝した。立派な実績だが、何より新鮮だったのは、サッカーを題材に語る言葉の強さとテーマの多様性だった。
たとえば日本社会の分析。「今の日本人が勤勉かどうか疑問だ。非常に高い生活水準を保っているが、それは先代が作ってきた水準を今の人々が享受しているだけなのではないか」
日本人の特性はこうだ。「伝統的に責任を他人に投げてしまう。工場ならそれでも機能するかもしれない。サッカーではそれは通らない。上司も労働者も全員が一緒にいるのだから」(いずれも「日本人よ!」新潮社)
ボスニア紛争を体験し、指導者として欧州を渡り歩いた経験に加え、歴史や社会環境をふまえた視点には、どきっとするものが少なくなかった。
それを土台に掲げたのが「日本代表のサッカーを日本化する」という言葉だった。体格が違うのに、欧州や南米のサッカー大国で成功したスタイルを模倣してもだめだ。自らを見つめ直し、機動性や流動性といった特徴を生かしたサッカーを創造しよう。そこに道は開かれる。
その訴えはファンの心に響いた。志半ばで任を離れるのはさぞ無念だろう。
岡田監督はチームを途中から引き受ける。まずはW杯への出場権獲得が使命となる。重圧は容易に想像できる。
「やると決めたのは理屈ではない。横を見たら断崖絶壁で、これにチャレンジしなければいけないという気持ちになった」と就任の記者会見で話した。淡々とした表情のなかに、武者震いが出そうな思いが伝わってきた。
岡田氏が歩んできた道のりにも、山谷があった。10年前の就任は、W杯最終予選の遠征先で前任者が成績不振を理由に解任されたのを引き継いでだった。
監督経験はなかったものの、チームを立て直してW杯初出場を果たした。大会直前、スターだった三浦知良選手をチームから外した決断は大きな波紋を呼んだが、判断がぶれることはなかった。
W杯は1次リーグ3連敗で敗退。退任会見では「この10ヶ月で10年分ぐらい生きたような」と打ち明けた。その体験は本人だけでなく、日本サッカーの貴重な財産だ。それを生かしたい。
新監督はオシムが残したものを大事にしながらも、それにとらわれることはない。「日本人らしさを生かす」という考え方は同じでも、それを実現する方法論はたくさんあっていい。
危機は常に次の成長への好機である。
2007年12月11日火曜日
星野ジャパンに白(しら)ける!!
野球の北京五輪予選を兼ねたアジア選手権は12月3日、台湾の州際棒球場で4チームによる決勝リーグの最終日があり、星野仙一監督率いる日本は台湾を10-で破り1位が確定して、来夏の北京五輪出場を決めた。
12月4日の新聞は賑やかに祝福の記事に溢れていた。テレビも、その後の週刊誌による報道も何故、そこまでやるの?どうして、そんなにすごいことなの?と、私は思っていたし、今も思っている。12月3日発売の週刊現代、12月9日発売の週刊アエラを読んだ。星野監督も立派な人だ。オーラを感じさせる監督だ。コーチの田淵さんも山本さんも立派な人だ。選手一人ひとり、どの選手も並はずれた実力のある選手だということも理解しています。そのなかでも、主将を務めた宮本慎也(37)のことは朝日新聞で4日朝刊2面「ひと」のコーナーでとりあげているので、最後のところで、転記して紹介したい。
そんな祝福? お褒め? 一辺倒! 過熱気味の報道を目にしたり、聞いたり、読んだりするたびに、私は一方的に白けていくのです。白け鳥が私の周りを飛び交うのです。星野ジャパンが北京五輪に出場できることになったのが、そんなにめでたいことなのだろうか。私は、お祝い気分にどうしてもなれない。一人そうっとフテ寝でもするしかないのか。
私はスポーツ狂、スポーツ耽溺派を自ら任じている。どんなスポーツにも関心があり、アスリートの日々の厳しい練習に思いを馳せるとき、わが身のダラシナサと比べて、えもいわれぬほど尊敬するのです。スポーツのなかでも、とりわけサッカーに関しては、プレヤーだったこともあって、日本サッカーリーグから、今のJリーグまでその隅々までチェックを怠りない、真面目なサッカーファンです。
この我が白け鳥心境は、何だろうか?何に起因しているのか? 女房に聞いてみたのです。私だけが偏見に満ちているのなら、即、この気分は訂正しなくちゃいかんわい。「星野ジャパンが北京五輪に出場できるようになって、みんなが騒いでいるんやけど、俺の気分は盛り上がるどころか、どんどん白けていくんだけど、お前はどう思う?」
女房曰く、「新鮮味がないから、そう思うんじゃないの」と、きた。新鮮味がないというのは、これはちょっと失礼な話やぞ、とは思ったのですが、それも一部にはあるなあ、と半ば納得した。が、それでは論評にはならないではないか。俺のこの勢いはどうすりゃいいんだ。
かってどのオリンピックだか忘れたのですが、バスケットにおいてアメリカがドリームチームとかいってプロで活躍しているスーパースターを集めて参加したことがあった。その時も、私は白けた。
「星野ジャパンが、新鮮ではないから白けるのよ」だけでは、無理があるのはよくよく理解しているのですが。白け気分はぬぐいきれない。
アジア予選決勝リーグにおける日本の成績は
対韓国 〇4-3 対台湾〇10-2 対フィリピン〇10-0 の3勝0敗
今回は、無益な騒乱を避けて、私だけの「理由なき白け」、ということにしておきましょ。
追記=サッカーのようにU-22で編成したチームの大会にしたらどうだろう。検討してみて欲しい。長島さん、王さん、グレイト・ナベツネさん、野球を愛する全ての人に提言したい。オリンピックの醍醐味は若人に味わってもらって、年俸何億?というプレーヤーは、ワールド・クラシック・リーグで真の世界チャンピオンを競えばいいのではないのか。
宮本慎也さん(37)
仲間の手で3度、宙を舞った。「嫌なことも、だいぶ言ったのに。みんな素直だね」。五輪切符を手にし、前日まで見せなかった吹っ切れた笑顔が浮かんだ。アテネ五輪に続く2大会連続の主将。星野監督から、コーチ的役割も求められ「こんな難しいこと、監督がやってくれればいいのに」とこぼしたこともある。
最年少のダルビッシュ(日本ハム)らとは16歳差。若手に話しかけ、食事に誘う。ヤクルトでつける背番号「6」を譲ったのも「自分がそうすれば、みんながやりやすいはず」の思いから。今では自分が練習中にミスをすると、若手から「慎也さん、もう一丁」と声がかかる。攻撃時に一塁コーチに立ち、ベンチでは内野守備の指示を出す。打撃投手も務め、相手のデータは投手用の分まで頭にたたきこんだ。大会中、緩慢なプレーに「執着心が足りない」と雷も落とした。「体調?関係ないよ、コーチだから」と軽口を飛ばすが、早出をして選手としての準備も怠りない。星野監督は言う。「コーチ5人分くらいの仕事をやってくれる。あいつが今年打率2割2分とか3分だったとしても、おれは選んだよ」
次は金メダル、の声に「勘弁して、今はホッとしているのに」と返した。だが以前、漏らしたことがある。「来年は辞退したいって言っても偉そうなことを言ってるから~。許してくれないだろうなあ」。北京でも、この男が中心にいる。(文・松元 章)
2007年12月2日日曜日
ケネディが凶弾に倒れた日
1963年11月22日。オープンカーに乗った米第35代大統領ジョン・フイッツジェラルド・ケネディが凶弾に倒れた。ケネディが命を落とした瞬間、自分がどこで何をしていたか、米国人の誰もが覚えているという。私もその一人だ。私もはっきり、その日のことを覚えているので書いてみた。
せっかくだから、その時分の前後1年間の私の生活の一部を振り返りながら。
私、15歳、京都府立城南高校1年生。学校ではサッカー部。美女は生まれるのですが、天才、秀才は絶対生まれない高校で有名だった。サッカー部といっても、毎日の練習には10人も集まらない人気のないクラブだったのです。試合の日にはなんとか11人は集まった。監督の岡本先生は、社会人のチームでは日本一のキーパーだと私は思っていた。岡本先生は、紫光クラブ(京都教員チーム)のキーパーで釜本、二村を含めた全京都チームの正キーパーでもあった。勉強の嫌いな?否、勉強を二の次と考えていた私と少数の部員は、ことサッカーに関しては真面目だった。弱くても、弱くても、練習は真面目だった。後に大学でサッカーをする幸運に恵まれた私は、いかに我が高校が稚拙なレベルだったのか、気づかされた。でも、当時は本当に本気だった。
昼飯は、早弁(昼前に弁当を食うこと)で済ましておいて、昼休みになると即、ボールを蹴ったり、ボールリフチィング、スローイン、フェントの練習を校庭の隅っこでやりました。午後一番目の5時間目の授業が始まってぎりぎりに教室に戻るのですが、火照った体はそう簡単には冷めません。頭からは湯気が、ずうっと高くまで、筋を作って立ち上るのです。全身、汗びっしょり、なかなかひかない。英語のイチダ先生が「山岡なあ、お前、廊下で頭を冷やしてこい。兄貴は頭よかったのに」と。私は、皆の哄笑を背に教室を出て、服をバタバタさせたり、下敷きで胸や腹、バンドを緩めて下半身に風を送った。一人、廊下でのさえない作業でした。
先生が、「山岡、どうじゃ?」と教室から顔を出した。先生の顔は私には笑顔に見えたのですが、本当は怒っていたのかもしれません。席に着くやいなや、「山岡、丁度お前に訳して欲しいところやったんや」とおっしゃる。「風とともに去りぬ」か、そんな英語のリーダーを日本語に訳する授業だったのです。文章の前後から、その物語がどういう状況にあることは、想像できるのですが、分からない単語があって、なかなか文章にならなくて困っていると、先生が、「そこは、特別ええとこやさかいに、山岡、来週まででええから、ちゃんと訳してみろ」と言って、授業はその部分を飛ばして進められた。
それから一週間、辞書を片手に頑張った。前後の文章も確認した。私に与えられた部分は、男女の愛の告白から、チュウをして、二人は合体して、野原に横たわる、そのような内容だったのです。先生は私のことを特別かわいがってくれていたのです。この物語のクライマックスの部分を、一番おいしい部分を私に訳させてやりたいと思ってくれた先生に感謝した。一週間後の英語の授業の時間に、私は、翻訳家を気取って、当時のエロ雑誌風(梶山季之さん風のことを言っているのです)に訳した文章を大きな声で読み上げました。ちょっと、卑猥っぽく。生徒は喜んでくれました。先生はもっと卑猥に訳するのを期待していたのだろうか、その訳文が物足りなかったのだろうか、私は真剣に悩みました。先生も喜んでくれていたように見えたのですが、本当は怒っていたのかもしれません。先生の顔は、いつも怒っているのか面白がっているのか、はかりしれないものだったのです。余裕をもってニタッとするその表情の意味が読み取りにくいのです。
中学も、高校も、勉強は二の次、三の次だった。勉強は大人になってからでもできるのだ、と思い込んでいました。頭の隅っこには、勉強なんて大したことはないんだと、馬鹿にしているところがあったのかもしれません。だから、小学生の時は徹底的に遊んだ、中学生の時は丸っきりバスケット、高校生の時はサッカー一途だった。勉強はいつでもできる。この仲間と、この時に遊んでおかないと、バスケットやサッカーを今やっておかないときっと後悔するのだと決め込んでいたようです。このことは、大学に入ってからも同じでした。お父さん、お母さん、私は卒業したら誰よりも誰よりも勉強しますから、今はサッカーのみの生活を許してください。遠く田舎の方を向いて、頭(こうべ)を垂れ手を合わせました。いや、大学の前に浪人時代があったのです。浪人時代は誰もが勉強を最優先するのだろうが、私には、やっぱり勉強は二の次だったのです。1浪のときも、2浪のときも前半の8月まではドカタで金を稼ぐことを優先させて、後半の9月から本番の試験日までは、さすがに勉強を優先させました。ぎりぎりまで勉強はできなかった。何故、そんな子供から成年になったかと、よくよく考えてみると、私の田舎では頭のいい奴よりも健康で丈夫で、野良仕事を一所懸命に働く者の方が、立派な人間扱いされていたからではないかと思うのです。
そして、ケネディの運命の日は。
突然余談ですが、最近では11月22日を「いい 夫婦(ふうふ)の日」と言われているんですね。
従兄弟の清市さん(27)が、同じ町内で隣の在所のサッチャンと結婚式を挙げて、新婚旅行から戻ってきて数日後のことだった。私の郷里では、新婚旅行から帰ってくると、夫婦は結婚式や披露宴でお世話をしてくれた人に対して感謝の気持ちを込めて、饅頭だったか?何だったか忘れたのですが、品物を配る習慣があったのです。その配る役を私が一手に引き受けていたのです。品物を届けると、受け取った人は、私にごくろうさんと言って、駄賃をくれるのです。2~30軒届けると、結構な小遣い稼ぎになるのです。清市さんの心くばりだったのだろう。
途中、清市さんの家に立ち寄ったとき、テレビでケネディが撃たれ、走り続ける車上で、抱きかかえられている映像が繰り返し放映されていた。私が見たのは、現実に撃たれてから、数時間後のことだと思うが、撃たれたのと饅頭?を配っていたのとは、ほぼ同時期だったはずだ。私には異常に気になったのに、故郷の大人たちは余り関心をしめさなかったことが不思議だった。ダラスという惨事が起こった地域のこと、ケネディの生い立ちから大統領にのぼりつめたまでのこと、ヴェトナムに戦火が噴出していること、アメリカの明と暗の実態を知りたくなったことを思い出します。
小学生の6年生の時だった。社会党委員長の浅沼稲次郎さんが壇上で演説中に、元大日本愛国党の山口二矢(おとや)に短刀で刺されてたニュースも当時の私を異常に興奮させたことを思い出す。この事件の後、学校で皆の前で、犯人の山口二矢の真似をして伊藤先生に怒られたことがあった。先生は私に、何をあなたは面白がっているんだ、と強く叱った。その強く叱る先生のゆがんだ表情が気になった。面白おかしく演じた私に先生は、我慢ならなかったようだった。この事件のニュースは、当時普及しだしたテレビでお茶の間に飛び込んできた。私は、人前で人が刺されるのを、初めて見たことになります。そして、今度はアメリカ大統領のケネディだった。
中学校は歴史のある町立維孝館中学校だった。バスケット部だった。当時京都では小学校区制になっていて、公立の普通高校を目指す者は城南高校しか受験できなかった。私の郷里は、山間谷間の山村だった。京都や宇治に比べて、情報が少なく、学力では随分差があった。低かったのです。中3の受験指導では、城南高校へはクラスで2~3人しか受けさせてくれなかった。私はと言えば、総合評価ではクラスで5番位の位置が定番でした。だから、本来なら受験させてもらえなかったのです。が、月に1度行われるキタオウジ(どんな、漢字を使われていたのか忘れてしまった)のテストでは、5クラス250人のうち10位には必ず入っていました。期末試験とか中間試験には、力が入らなかったのですが、全クラスで行う腕試し風の試験には俄然強かった。先生たちは、私のことを不思議がっていました。「先生!!ええやろう。受けさせてよ」。通信簿では、いつもいい評価はもらえていなかった。予習をしていって、先生に気に入られるようなことはしなかったからかな、と思ったこともありました。バスケットにうつつを抜かしている変な生徒としての評価は抜群だったのですが。
自宅から高校までは、ホンダのカブに乗って通っていました。部活を終えてバスを利用すると、帰宅が10時になってしまうのです。マフラーを半分に切っているのでアクセルをひねると、55ccと言えどもエンジン音はそれなりの迫力がありました。部活を終えての帰途、平等院の前を通って、宇治川沿いをホンダのカブと私の体は黒い弾丸になって、まるで、オートバイのレースのように疾駆する。夏のはじめ、宇治川の支流の田原川にさしかかった辺りから、無数の蛍が群遊しているその中を走り抜けるのです。蛍が飛び交う時間帯があって、早くても、遅くても蛍に出くわすことができないのです。8時ころから9時ごろの間だったように思う。夢のなかのできごとのようで,「ファンタジー」ってとこか。こんな体験をしてきたことを大学に入って部友に話したら、誰もがうらやましがった。
これからどんな事が私を待ち受けているのか、不安はつきまとった。でも、夢追い人に徹してみせるぞ、といつも考えていた。俺は能天気(脳タリン?)な男だったようです。
2007年12月1日土曜日
復刻(朝日新聞)浦和、アジア初制覇
サッカーのアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)決勝は14日、埼玉スタジアムで第2戦があり、浦和レッズがセパハン(イラン)を2-0で破り、アウェーの第1戦と合わせて3-1で初優勝を決め、アジア王者に輝いた。02年に現行方式のACLになってからは日本勢の優勝は初。前身のアジアクラブ選手権を含めると、99年のジュビロ磐田以来浦和はイランでの第1戦を1-1で引き分けていた。浦和は12月7日から日本で開かれるクラブワールドカップ(W杯)にアジア代表として出場する。
浦和 次は「世界」
アジアCL制覇 集中2発
真っ赤に染まった観客席から大声援を受けて、浦和が初めてアジアの頂点に立った。14日に埼玉スタジアムであったアジア・チャンピオンズリーグ決勝の第2戦で、浦和がセパハン(イラン)を2-0で退けた。前半22分に永井のゴールで先制し、後半20分には阿部が加点。相手の反撃を粘り強い守りでかわし、優勝賞金60万ドル(6660万円)を獲得した。大会の最優秀選手には永井が選ばれた。
浦和はアジア代表として出場するクラブワールドカップで、12月10日の準決勝に臨む。来年のACLには日本から浦和を含めて3チームが出場。06年度天皇杯準優勝のJ1上位につけるガ大阪の出場も決まった。
オーレ
何も変わらなかったそれがたとえ、アジア王者をかけた舞台でもだ。守備が身上の自らの姿を浦和は忘れない。第1戦で苦しんだカウンターには対策を十分練っていた。
抜け出してきた相手に対して、MF長谷部、鈴木が体を寄せ、まとわりついた。飛び込んでかわされるようなまねはしなかった。味方が自陣に戻る時間を与え、ゴール前を固めることができた。
第1戦の後半早々、気持ちが高まらないうちに、速攻から追いつかれた。この日は後半3分にCKを与えたが、ワシントン1人を前線に残し、10人がゴール前に戻った。
攻撃で圧倒できないのは覚悟の上だ。第1戦をより上回ったのがゴール前の集中力。守備に追われ、シュート2本に終わったFW永井は「とにかく入れと思った」と先制点の場面を振り返った。
オジェック監督は常に目前の試合に関する質問にしか答えない。ACL全試合に出場したMF鈴木もかねがね力を込めて口にする。「すべてが一つ一つの積み重ねだ」と。アジア王者のタイトルは、課題を見つけては改善し、次の試合に臨むという地道な作業を繰り返した結果だ。
試合直後は歓喜にむせんだ選手も、帰り際には落ち着いた表情に戻っていた。腰痛をこらえてフル出場した阿部はいつもの小さな声で「ACLに勝ったからといって、J1優勝を逃せば通用しない」とぽつり。今季の浦和の目標はJ1清水戦に向け、準備を整えるだけだ。
ウエーブ
厳しい国際試合、クラブに収穫
今年ほどJリーグがアジアと向き合った年はなかっただろう。これまで、ACLに出たクラブは「アジアをとりたい」と言いながら、本腰で取り組んでこなかった面がある。経費を減らそうと小さい競技場を使ったクラブもあり、ACLは国内リーグより格下だと自ら位置づけていたようなものだ、
送り出す側の日本協会やJリーグも配慮が不十分だった。04年にA3チャンピオンズカップとACLの日程が重なり、横浜マがチームを二つに分けて臨んでいる。
アジア王者の地位が高まり始めたのは、05年。欧州と南米の王者が対決してきたトヨタカップが、6大陸王者が世界一を争うクラブW杯に代わったためだ。ACLの先には世界が開けている。今年は浦和も川崎も、アジア王者への思いを押し出した。Jリーグも過密日程の中、中3日が空くよう配慮した。
それでも容易に勝てないアウェー戦を、浦和は1勝5分けでしのいだ。藤口社長が「引き分けがいかに重要か。ホーム・アンド・アウェーの戦い方が体でわかった」と話す軌跡はW杯予選の厳しさそのものだった。
これまで国際経験を積む場は日本代表が中心だった。それをクラブが共有すれば、世界の奥行きを知る場は広がる。
浦和の勇躍は、Jリーグクラブの役割と可能性を思わせた。(中小路徹)
アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)=67年に始まったアジアクラブ選手権と90年からのアジア・カップウィナーズカップを統合、真のアジアクラブ王者を決める大会として02~03年シーズンから始まった。優勝チームはクラブワールドカップ出場権を獲得。日本からは前年度J1覇者と前々年度天皇杯全日本選手権優勝の2チームが出場。
復刻〈朝日新聞) 剛脚健在、野口みずき。
野口V北京確実
東京国際 大会記録を更新
来年8月の北京五輪代表選考会を兼ねた2007東京国際女子マラソンが18日あり、アテネ五輪メダリストで日本記録を持つ野口みずき(29)=シスメックス=が大会記録を8年ぶりに更新する2時間21分37秒で初優勝し、2大会連続の五輪代表入りを確実にした。
2位は終盤まで野口と競ったサリナ・コスゲイ(ケニア)で、尾崎朱美(セカンドウィンドAC)が日本選手2番目の4位。前日本記録保持者の渋井陽子(三井住友海上)は7位に終わった。五輪代表枠は3人で、今夏の世界選手権銅メダルの土佐礼子(三井住友海上)がすでに内定。代表選考会は来年1月の大阪国際、同3月の名古屋国際が残っている。
勝利の証し 突き上げた2本指
「走った距離は裏切らない。マラソンは走れば走るほど味が出る」野口は常々そう口にする。ワコール時代から野口選手を指導する広瀬永和(ひさかず)コーチは野口の長所を「勝負への執着心」と語る。
アテネ五輪で金メダルを獲得し、ひとつの頂点を極めながら、野口の闘争心は変わらない。アテネ五輪のレースが終わってすぐに、藤田信之監督は言った。「これから先どうするか、自分で答えを出せ。プロになって金を稼ぐ方法もある」。そして続けた。「そうするんやったら、チームから離れてやってくれ」。野口が選んだのは競技を追求する道だった。
「とにかく誰にも負けたくない」。マラソン6戦で敗れたのは03年パリ世界選手権でキャサリン・ヌデレバ(ケニア)だけだ。そのヌデレバにも翌年のアテネ五輪でお返しした。それでも、野口は「タイムはヌデレバさんが上。その上には世界記録保持者ラドクリフさんがいる」と話す。
ゴール直後に突き出した3本指は、日本選手で初めて名古屋、大阪、東京の国内3大マラソンを制した証し。「ひとつの目標をクリアできた」。北京への道を開き「強い選手がいっぱいいるので今まで以上の練習をしていきます」。野口はさらに高い頂を目指す。(堀川貴弘)
仲間にVの恩返し 野口みずき選手
失業保険・自炊生活・苦楽ともに
晩秋の青空の下、かってのチームメイトらも沿道から声援を送った。笑顔でゴールした野口選手は、支えてくれた指導者と真っ先に喜びを分かち合った。10年以上指導を受ける藤田信之監督と抱き合い、海外合宿でもマンツーマンで練習を見てくれる広瀬永和コーチとは握手を交わした。
勝者の証しである月桂冠をかぶると、「大会記録更新を狙っていた。北京の道を開くことができてうれしい」と勝利をたたえる観客席に応えた。その大歓声の中にいたのは、同じチームで苦楽を共にした徳島県鳴門市の尾池(旧姓・田村)育子さん(29)と、東京都葛飾区の黒田(同・加岳井)ひとみさん(29)。98年、解任された藤田監督を追う形で、実業団を飛び出した仲間だ。
トレーニングルームやプールが完備され、寮生活で食事の心配もいらなかった生活が一変。コーチが住んでいた京都市内の団地に部屋を借り、食事は交代で作った。失業保険をもらいながら、公営体育館でトレーニング。3人で自転車を買いに行き、「まとめて買うから」と値切ったこともある。「チーム・ハローワーク」。いつからかそんな名前で呼ばれるようになった。
食事や練習用具の差し入れのありがたさが身にしみた。「色んな人に支えられて、走れるんだと気づいた。ずっと恵まれた環境にいたら、分からなかった。恩返しするには結果をだそうって。再出発の原点だった」。今は陸上を離れた尾池さんはそう振り返る。
2人は電車を乗り継ぎ、コース沿いを回って応援。野口選手とほぼ同時に競技場に戻った。「前半は競り合いで、自分のレースより緊張した。本当に良かった。風もあって暑かったのに、このタイムはすごい」と喜んだ。
「みずきーっ」
表彰台の一番高いところに立った野口選手に声をかけると、笑顔とピースサインが返ってきた。
黒さんは銭湯で野口選手と話したことを思い出す。「30歳になったら、3人で温泉でも行こうねって。でも、来年は温泉に行っている場合ではないですね」。記念の温泉旅行は、五輪応援ツアーに変わりそうだ。
両親も感涙
夜行バスに乗って三重県伊勢市から応援に駆けつけた野口選手の両親も国立競技場の観客席で抱き合って喜んだ。「みずきー」声援も涙で声にならない。母春子さん(56)は「最初があまりよくなかったから、大会新記録なんて信じられない。よく頑張ったと思います。おめでとうと言ってあげたい」と話した。
ゴールの瞬間、ガッツポーズした父稔さん(55)は「みなさんのおかげです」と周りの応援団にあいさつ。「五輪代表に選ばれたら、2大会連続のメダルという夢をかなえてほしい」