2008年12月28日日曜日

中国国内で、横暴警察に怒り発火

081220 朝日新聞朝刊・国際で、中国各地で相次ぐ警察に対する抗議行動が頻繁に起こっていることを報道した。内容を読んで、今回の北京五輪の際のチベット人による抗議や、報道関係者に対する取り扱い、国事最優先市民生活二の次、などの報道から中国国内での人権(民主化)の未成熟さを露呈した。人権以外にも、食と環境の問題も取り上げられた。

今後の中国政府の抱える大きな課題だな、と納得していた。私の頭の中ではその程度の認識だったが、中国国内での実態は、もっと凄まじいもののようだ。何故なら、今月の21日、友人にウドンを食おうと誘い出したら、その友人は横浜は中華街からの帰りで、街頭でこんな新聞が差し出されたので、受け取って電車の中で読んでいたら、是非君にも読ませたくなったので捨てないで持ってきた、と手渡しされた。

彼から受け取った新聞は、「大紀元時報」という。日本語版は月に2回発行されているようだ。定期購読の余ったものを宣伝用として街頭で配っていたのだろう。ちょこっと読んで、興味を惹いた。

内容について、多少偏向しているのかな、と当初は疑ってみた。ここで、朝日新聞の記事を紹介してから、この「大紀元時報」とその記事の内容も紹介して、どういうこっちゃ?事実はいかなるものか、学習したい。

あなたは、この大紀元時報なる新聞をどう読み解きますか。議論が戦わせることができたら幸せに存じます。

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朝日新聞に戻ります。この稿の頭書で指摘した内容の記事だ。以下は、(瀋陽・古谷浩一)氏の記事をダイジェストにして転載させていただいた。

警察に対する不満が高まっている。強権を背景にした横暴な取締りがあるとされ、市民を巻き込み、警官隊との衝突や警察の車への放火など暴動寸前の騒ぎも起きている。

当局側は「信頼回復」に躍起だが、長年の不信の払拭は容易ではない。中国は共産党一党支配下で警察が絶大な力を持つ「警察大国」。公安機関に所属する「警察官190万人」(公安省スポークスマン)のほか武装警察部隊や国家安全省もあり、市民に恐れられてきた。

中国では逮捕権は警察当局にある。しかし、警察当局は独自に容疑者を拘束し、取り調べる権限を持ち、警察に拘束されたまま何年間も勾留された容疑者もいる。また、労働改造所送りといった行政処分を決める権限も持つ。

非合法とされた気功集団・法輪功のメンバーの多くはこうした処分を受けたといわれる。一連の動きは、この強大で不透明な権力への市民の不満を示している。

ある当局者は「市民の権利意識は想像以上に高まっており、警察なら何でもできるといった状況でなくなってきている」と話す。当局は7月、警察権力の乱用を禁じる異例の規定を打ち出すなど、信頼を取り戻そうとしている。しかし、その徹底が容易でないことは、各地で警察への抗議騒ぎが続いていることを見れば明らかだ。

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ネットの「ウィキペディア」より大紀元の情報を得たので、そのまま書き写した。

先ずは「大紀元」とは、英語では=The Epoch Times、はニューヨークに本部を置き、ニューヨークで法輪功を支持する華僑たちによって設立された。主に中国語で新聞を発行しているメディア。大紀元は「気功」などで知られる新興宗教「法輪功」と関連した報道機関であり、同社が発行する大紀元時報では中国共産党の言論統制に従うことなく、同党に批判的、反体制的な記事を多く掲載し、中国共産党に肯定的な報道は全くない。同紙は中国政府のいかなる検閲も受けていないことを強みとしており、中国共産党政府による中国国民や気功集団「法輪功」やチベット、ウイグル等の少数民族の人権弾圧に関する問題、中国国民の中国共産党からの脱党支援活動、中国共産党のスパイ活動、中国の民主化について盛んに報じるなど、反中国共産党政府の報道姿勢に立っている。

アメリカ国内に11の支社を持ち、日本やカナダ、イギリス、ドイツなど、世界30カ国にグループ社がある。全世界で発行部数は120万部。

2005年、アジア・アメリカ・ジャーナリスト協会の全国報道賞、アジア・アメリカ問題ネット報道部門トップ賞を受賞。同年、カナダ全国マイノリティーメディア協会のメディア賞を受賞。

新聞以外にも、希望の声(ラジオ局)、新唐人電視台(テレビ局)といったメディアを持ち、この三社でエポック・メディア・グループを形成している。

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この手の新聞のことだから、私には先入観があって、眉に唾をべったりつけた。某党の支持宗教母体が発行している新聞に、お付き合いをさせられて1年間購読したことがあった。その新聞は、初めから終わりまでその団体の名誉会長なる人物が、あっちこっちから感謝状やら名誉を授与されたとか、世界各地で大祭が行われ、その来賓客として有名な政治家や学者や有力者が出席したとか、そんな記事ばっかりだった。ウンザリさせられた。だが、この大紀元時報は全ページ中国共産党政府に都合の悪い記事がてんこ盛りなので、見た瞬間、ギャオ~と驚いた。

でも、どの記事にしても、本当のことのような気がした。否、多分、事実だろう。ますますのめり込んで読んだ。この稿の前半は、朝日新聞が中国における警察の市民に対する横暴が目立って多く起こっていることの取材した記事を紹介したのですが、これでは、言い足りていませんよ、とばかりに大紀元時報はこれでもかこれでもか、ビンビンと伝える。警察の市民に対する横暴だけではなく、警察関係者らが市政府当局に頻繁に抗議している内容も書かれていた。これらの事件で、所轄の警察は制止を発動していなかった。

このご時勢、言論統制なんかしているようでは、世界の仲間入りなんか到底覚束無い。経済大国になろうとするならば、中国共産党は、先ずは人権《民主化》問題に正面から取り組むことだろう。

世界からの監視は、鋭い。欧州連合(EU)の欧州議会は、人権擁護活動で貢献があった個人や団体に贈られる2008年度のサハロフ賞を、中国の市民活動家・胡佳氏(35)に決めた。中国政府は無視、馬耳東風然。胡佳氏は今年のノーベル賞の平和賞の有力候補者でもあった。彼はブタ箱に入れられたままだ。

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それでは、私が手に入れた大紀元時報の一部をここに転載させていただく。日本で発行されている新聞とは随分違うことに気がつくだろう。私が勝手にダイジェストした。

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大紀元時報   20081211 第84号

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*神韻(しんいん)世界ツアー、19日米国でスタート

中国古来の伝統芸能の最高峰、「神韻芸術団」の世界ツアーがいよいよ今月19日、米国でスタートする。同ツアーはその後三つのグループに別れ、来年四月にかけて世界100都市を回り、300回の公演を行う予定。日本公演は、来年2月11日の東京を皮切りに、同月13日に名古屋、15日に広島、18日に大阪で開催される。海外の華人アーティストで構成された「神韻芸術団」はニューヨークを拠点とし、今や失われつつある中国伝統文化の真髄を「純善・純美」をテーマに再現することを目指している。中国の最盛期とされる唐王朝の時代から脈々と受け継がれてきた伝統文化を。歌、踊り、音楽で余すことなく現代に蘇らせる。

*警察官ら、市政府を攻撃

中国各地で最近頻発している集団抗議事件が、それを取り締まる公安警察でも広がっている。12月2日、湖南省菜陽市で、公安警察官100人以上が市政府の所在地を囲み、収入の増加を要求する抗議事件が発生した。同事件は、60年代から70年代期間の文化大革命以来、初めて警察官が当局に抗議する事件であったようだ。抗議に参加した公安警察官は正式な公安警察官にほか、市パトロール課の保安警察官もいた。

*深刻な就職難、退役軍人千人が抗議

香港中国人権民主運動情報センターによると、11月21日夜、千人を超える退役軍人が山東省泰安市政府の前で抗議デモを行い、当局と衝突し、少なくとも10人が負傷したという。退役軍人たちは就職できない厳しい状況の下で今回の抗議デモを引き起こしたという。抗議活動の中心になったのは今年退役した軍人たちである。

*庁舎前で再び千人が集団抗議

12月3日午前、北京市政府前で約千人の大規模集団抗議があ発生し、当局は警察官100人以上を出動させ厳重な警備をしいた。抗議者たちは住居を強制的に移転させられて、補償されるべきものが得られなかったため、長期にわたり北京市政府に訴え続けたが取り合ってもらえなかった末に、抗議を行った。

*有害粉ミルク事件/被害乳幼児、29万人

中国国内で発生したミルク有毒物質混入について、「三鹿グループ」などのメーカーが製造したメラミン添加の粉ミルクを摂取したため、29万人以上の乳幼児が腎・泌尿系臓器に異常をきたしたことがわかった。この数値は、以前公表した人数の5倍になる。

*黄河3分の1、使用不可

中国政府機構「黄河・水利委員会」はこのほど、最新の報告書で、この中国国内2番目の内陸河の水質汚染状況をまとめた。それによると、その3分の1の流域は中国国内の水質基準では、このレベルの水は、工業用水としても使用できない水であり、中国語で泉水溝(どぶ水)と呼ばれている。

*ベルギーテレビ局記者/エイズ取材で妨害受ける

11月27日、ベルギーのテレビ局(VTR社)の駐中国通信記者トム・バンデウェハ氏及び撮影隊は、中国河南省で取材した際、地方行政府中国共産党(中京)関係者の妨害を受けた。記者たちは脅迫、暴力を受けたうえ略奪された。「世界エイズ・デー」 (12月1日)に因み、エイズ問題についての報道を行うためにバンデウェハ氏及び撮影隊は河南省商丘市を訪ねた。この地区では売血によって感染したエイズ患者は約100万人がいるとされる。

*「弁護士人権賞」・李平和氏/北京当局により出国禁止

中国著名人権弁護士・李平和氏はこのほど、欧州弁護士及び法律協会の「欧州弁護士人権賞」を受賞し、11月27日にブリュッセルへ出発しようとした際に北京空港で当局に止められた。出国禁止になった理由について、李氏は自分がこれまで法輪功学習者など敏感な案件に携わったからだとみている。

*EUに新変化/中国の人権擁護への支持を強化

12月2日、ブリュッセルのEU本部で行われた「中国の人権シンポジウム」で、法輪功の議題はEU議員とNGO国際組織かあら広く関心をもたれた。会議の参加者は中国の人権問題について、環境に対する権益、一人っ子政策、拷問の濫用及び法輪功、チベット人、ウイグル人への迫害など、全面的な検討が行われた。中国での拷問者被害者の66%が法輪功学習者であり、生体からの臓器摘出の対象も法輪功学習者で、法輪功問題はすでに中国における人権問題の最重要課題となっている。

12月3日、ダライラマがEU議会を公式訪問する前日、チベットと中国の人権問題に対し支持を表すため、5人のEU議会の議員により一日断食の活動を発起した。延べ35人の議員と400人以上のEU職員が参加した。

*中国生物学者 スパイ罪で死刑執行

台湾のためにスパイ活動をしたとして起訴されていた中国生物学者の呉維漢氏に11月28日朝、死刑が執行された。呉氏の遺族と国際特赦組織及びオーストリア、米国政府などが呉氏の死刑執行は透明性のある公正な司法審理を経ていないことを糾弾している。ラジオ自由アジアが伝えた。呉氏が弁護士もつけてもらえず有罪となったこと、呉氏の量刑が公平な審判を経ていないと伝えられている。

2008年12月27日土曜日

コーチ、指導者に感謝

サッカー、ラグビー、野球とソフト、アメフット、ハンド、バスケット、ホッケー、バレー、柔道にレスリングとボクシング、スピードとフィギュアスケート、スキー、卓球、弓道、トラックにフィールドの陸上競技、その他にもスポーツは各種あって、競技者はそれぞれ技術を磨き、体を鍛えて、覇を争う。春夏秋冬、毎日配られてくる新聞のスポーツ欄の記事は、スポーツ好きな私にはもう堪らない。スポーツ欄の記事を穴のあくほど真剣に読んでいる。

仕事や私事で、会場で観戦する機会は少ないけれど、テレビで観たり、写真を眺めたり、記事を読むだけでも、私の体にエネルギーが湧いてくる。悲喜こもごもの筋書きのないドラマに、大いに刺激を受けている。大げさではなく、そして、私は元気をもらって生きている。

私も、中学から大学まで勉強は程ほどに、でも真面目なサッカー競技者の一人であった。高校では、試合を前に選手11人を集めるのに四苦八苦した。そんなチームだったけれど部友はいつも仲良く結束していて、負け続けても負け続けても、又今度頑張ろうや、なんて言い合って翌日の練習の打ち合わせをしたものでした。監督は、釜本邦茂もメンバーの一人だった全京都選抜のキーパーを務めた岡本監督だった。この岡本先生の適度のいいかげんさが、私達を奮起させた。こういう指導方法もあるのだ。

大学では立派なチームに所属させていただいた。幸福者であったが、優秀なアスリートにはなれなかった。下手糞のままだった。生徒から学生になるまでの間、スポーツ競技の世界に身を置き続けたことで、学んだことは計り知れない。私を取り囲み、あれやこれや助言をしていただいた方々に、大いに感謝したい。先輩、全日本代表やそのクラスの人から簡単なことでも、極めて懇切丁寧に教えていただいた。同輩、よく付き合ってくれたものだ。後輩、常々叱咤激励してくれた。堀江監督からは競技の本質を教わった。受講していた科目を甘く採点していただいた。(ご迷惑をおかけしてしまった。ヤマオカ、あのレポートではどうしても優は点けられないヨ。可にしておいたゾ。恐縮、脱帽)。キングと言われていた工藤元監督からは、勝負に賭ける真髄、人間としての生き方を教えて貰った。(ヤマオカ、その走り方はなあんじゃ。ケツに糞でも挟んでいるのか)。個人だけではなく、意思を備えた「団体=チーム」からも、学び取ることは多かった。このように、私はいろんな人とかかわりながら、教わり成長させていただいた。人の縁に恵まれたのです。

スポーツを始めたきっかけはいろいろあるだろう。お父さんや、お母さんの手ほどきで始めた、お兄さんや、お姉さんがやっているのを見よう見真似で始めた、友人に誘われた、スター選手に憧れた、先生に声を掛けられた。松井秀喜やイチローはお父さんに教えられ、高校の恩師に、プロ球団の指導者等に薫陶を受け、もう一段、レベルの高い米国のメジャー球団に入った。そこでは指導をする、指導を受けると言った簡単な言葉で済まされない高度な交流なのだろう。競技者にとって指導者は、その重要性において不可欠な存在だろうが、競技以外の世界の人からもアドバイスを受けてそれをヒントにして新しい領域や技に足を踏み出した競技者もいただろう。大成した競技者にはその陰に必ず優秀な指導者がいる。子供をコーチする指導者に、指導者とは到底似つかわしくない呆れたコーチがいることも事実だ。傍から見ていて、そんなコーチなら居ないほうがいい、と思った経験もある。

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ここで、競技者とその周囲の人との縁を考えてみたいと思い起す新聞記事があった。それは、ソフトバンク前監督王貞治氏と、元全日本ラグビー日本代表大八木淳史氏に関する記事のことだ

ソフトバンクの王貞治前監督のお兄さんが、20日に亡くなったことの訃報の記事のなかで、この「縁」を考えさせられた。兄・鉄城さん(享年78歳)の通夜終了後、王前監督は「早稲田実業に入るときも巨人に入るときも、兄が私の意思を尊重してくれた。私の強い味方でした」と語った。野球で大げさに喜ぶと、いつも「相手の身になれ」と言われたという。お父さんも立派な人だった。兄が慶応大学の医学部の野球部に所属していて、大学の合宿に当時小学生だった王少年を連れて行ったとも聞く。王前監督には、偉大な選手になるのに必要な素地、下地が、選手になる前からあったのだ。荒川コーチとの共同作業による一本足打法の考案、川上監督や並みいるコーチ、指導者、ライバルで人気者の長嶋の存在も影響があっただろう。

大八木淳史氏が下の新聞記事によると、四国は高知の高校のラグビーチームのゼネラル・マネージャーとして、熱い指導に燃えている。このチームは彼が参加してから、成長猛々(たけだけ)しく、この冬に行われる高校ラグビーの全国大会に出場することになった。そのゼネラル・マネージャーになってからの経緯を著している。多分、彼がこの仕事を請われた時、きっと彼の頭の中には、高校時代の自分の姿を思い起こしたことだろう。彼が入学した伏見工業高校には、あの山口良治監督がいたのだ。彼は、この名物監督に学んだことを、自分を育ててくれた恩師への感謝の気持ちを、是非高知の高校で実践の形で表現したいと考えたのだろう。高校生にとって、さぞかし嬉しかったことだろう。この企画を思いついた人も、それに応えた選手、当の大八木氏に天晴(あっぱ)れのエールを送りたい。高知中央高校の本番での健闘を祈る。このようにして、この高校の生徒は立派なコーチに巡り会ったことに、この縁に感謝しなくてはイカンゾ。今も伏見工の総監督を務める山口良治先生にとって、教え子の活躍は至福の思いだろう。かっての神戸製鋼時代の大八木選手は迫力満点だった。そのいかつい体躯に愛嬌のある表情は、日本代表でも破格の人気者だった。

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20081223 朝日朝刊・スポーツ

楕円球が僕らを変えた/高知中央高校

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熱血教師がラグビーを通じて不良高校生を更正させ、人気を博した80年代のテレビドラマ「スクール・ウォーズ」。創部2年目で全国大会初出場を決めた高知中央は、そんなドラマを地で行くチームといえる。率いるのは、神戸製鋼の全盛期を支えた元日本代表のFWの大八木淳史。主演は「落ちこぼれ集団」といわれる21人の部員たちだ。

ラグビー経験者は数えるほどしかいない。大半は他の部活や他校をやめて入ってきた生徒たちだ。テニスやバスケットで挫折した選手や、高校受験の失敗などでぐれていた選手、親子関係で苦しんで越境入学した選手もいる。学校からの就任要請に、大八木GMは「そんな不遇な境遇にいたヤツ、楕円球に触れたこともないヤツらを、ラグビーで変えたい」と引き受けた。

1年目の昨年は、部員のモラルの低さに驚いた。練習の無断欠席は当たり前。ラグビーのルール以前に、学校や社会の規則を守れなかった。大八木GMは講演活動などで多忙の中、年間120日を高知で過ごし、高校生と向き合ってきた。携帯電話の番号を教え、「困ったことがあったらかけてこい」と対話の機会を増やしたという。夏合宿では大部屋で寝食をともにして、自らをさらけ出した。

CTBの浅利(2年)は言う。「大八木さんに会って、僕らは変わった」。口酸っぱく言われたのは「約束は絶対守れ」。ミスをチームメイトに押し付けていた選手たちが、自らの責任を追及するようになり、まとまった」。出場4校の予選を突破した。

「スクール・ウォーズ」の熱血教師のモデルは 、伏見工の山口良治総監督。大八木GMの恩師でもある。ラグビーを通じて人間育成したいという思いが、師弟の間を貫いている。

初戦は27日の平工(福島)。寄せ集めチームが勝てるほど花園は甘くない。それを知る大八木GMは「周りへの感謝の気持ちを忘れずにプレーしてほしい」と話している。(野村周平)

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12月27日、第88回全国高校ラグビー大会が大阪・近鉄花園ラグビー場で開幕した。大八木GM率いる、初出場の高知中央高校は、初陣を飾ることはできなかった。平工(福島)に12トライを奪われて、大量63点差で敗れた。防戦一方の試合でもなかったらしい、2トライを取ったのだ。大八木GMは「きれいなトライじゃないけれど、意義のあるトライだった」と選手達の頑張りを讃えた。

また、大八木GMは、「技術的にはまだまだだけど、精神面では向上した。これをチームの新しいスタートにしたい」と、今後に賭ける。また「もうドロップアウトの集まりと違う。花園の聖地を踏んだラガーとして育ってほしい」と、表情は誇らしげだった、と報道された。

2008年12月22日月曜日

フェルメール展に行ってきた

 

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(手紙を書く婦人と召使い)

東京・上野の東京美術館で開かれていた「フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち」が14日、閉幕した。私は絵の好きな友人に、前日になって電話で強引に誘われ、最終日の14日の午後に連れて行かれた。

フェルメールなる画家など、今の今まで知らなかった。友人に言わせれば、今回公開される絵画は、ヤマオカ、あなたが生きている間には、二度と日本には来ないだろう。作品の少ない画家なので、日本で過去最多の作品7点が同時に公開されるなんて重大なことなんだよ、と説得された。

商売上、今月は最重要な年末月で、世界同時不況風をモロに受けて、そんな悠長なことをしている場合ではないのだと思いながらも、午後休みにしてもらった。スタッフに頭を下げた。午後3時頃上野駅に下りた。駅から徒歩10分のところに東京美術館があるのですが、どうも同じ目的に向かっているような人が異常に多いように思われた。小雨が降っていた。友人は、早足のスピードをもう一段早く歩きだした。彼の表情の一部に、緊張が走った。私には、そんなに急いでどうするのよ、有名な画家のようだが、たかが絵画展だろう、とブツブツ。ところが、入り口付近に近づいて驚かされた。長蛇の列だ。蛇ではないですぞ。入館を待つ人間の列が長々と続いて、入り口のホールに所狭しと、とぐろを巻いたように並んでいたのです。牛歩、入り口に到達するまで1時間半待った。

館内に入るや、入り口付近に展示されている絵画には見向きもしないで、友人は脱兎の如く私を置き去りにして薄暗闇の混雑した人の渦の中に消え入った。後で、その絵画を観たら、フェルメールの作品ではなかった。彼にとってはイの一番にフェルメールだったようだ。取り残された私は、とりあえず、観るしかないと決心して、人の頭越しに作品を観て回った。素晴らしい絵画だということは、なんとなく解る。私は絵画を観るよりも、説明書きを読むことの方に注力し、我ながら情けない鑑賞家だと自嘲した。一通り観終わって、空いたシートに座って、館内で販売されている絵画紹介本のサンプルを弱い照明の下で読んだ。俺は、何をしに来たのだろう。絵画、それも飛びっきりの名画の鑑賞だった筈だよな。貧しい鑑賞家だ、ここでも自嘲。でもその読書で、オランダのこと、初めて知ったフェルメールのこと、デルフトという小都市のことを学んだ。2時間程経っても、友人とは会えない。館内の照明は薄暗いので、人の顔は近づかないと分からない。携帯電話は禁止されている。しょうがないなあ、ともう一度見直していたら「マルタとマリアの家のキリスト」の前で偶然友人に出くわし、今度は会う場所を指定して、又バラバラに散った。

それから30分、指定し合った場所で待った。暫くしてから友人はやってきて私に声を殺して叱った。「ヤマオカ、お前なあ、腰をすえてゆっくり観ろ。そろそろ入り口は閉ざされる。混雑はおさまる。これからもう一度最初から、ゆっくり、ゆっくり、じっと絵を見つめてごらん、そしたら、何かが見えてくる。名画ならではの良さを感じてくるものだよ。ええか、ゆっくり睨み付けるんだぞ」。「俺も偉そうに言っているが、画法も技法も解らないが、じっと見つめているだけなんだ」。事実、館内は空いてきた。

そして、三度目の鑑賞という「仕事」にとりかかった。もう簡単には済まされメエ。必ず何かを掴んで帰るぞ。光の天才画家って書いてあったな。なるほど、どの絵にも光が窓から射している。窓辺では明るく、部屋の奥の方の明度は弱い。影は濃いところから薄いところへ、その濃淡の中にそれぞれに変化をもたせて描かれている。光と影の濃淡の世界のなかに、自分が描きたい主体を炙(あぶ)り出している。その主体を際立たせるために、白、黄、赤だったり、青色だったりする。私には、これ以上作品を論じることは不可能なので、ここからは、専門家が書いたと思われるネットで仕入れた文章を転用させていただく。「静謐(せいひつ)で写実的な迫真性のある画面は、綿密な空間構成と巧みな光と質感のある表現に支えられている」。その通りでした。

館内は人込みも疎らになり、顔を絵画にくっつけて観ることができた。グラビアや雑誌で観るのとは、立体感においても全然違うことに、恥ずかしながら、その場で実感した。館内での滞在時間はゆうに4時間は過ぎていた。

今回の展示会の会期中の総入場者数は、93万4222人だそうだ。日本で開かれた美術の展覧会の中で歴代4位になるという新聞報道もあった。私のような無粋な人間にも、今回はいい勉強になった。60歳にして、初めての経験でした。

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江戸幕府の鎖国政策時にも、オランダはヨーロッパの国のなかでも長崎出島で貿易が許された唯一の国だった。フェルメールが生まれた都市がデルフトだということはパンフレットで知った。その都市を調べていたら、この都市から遠く日本にやってきて、徳川家康に信任されたヤン・ヨーステンがいたことも初めて知った。

ヤン・ヨーステンのことを親しみを込めて呼べるのは、はるか40年ほど前の受験勉強で完全マスターしていたからだ。今もあるのかないのか定かではないが、培風館発行の「日本史精義」だけは、完全に制覇していた。受験勉強用の参考書だったのですが、教科書には載ってないことも書かれていて、相当難しい試験にでも対応できるシロものでした。この本の一語一句を丸暗記していた。

(東京都中央区八重洲にあるヤン・ヨーステンとリーフデ号の彫像)

ヤン・ヨーステンは、オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリス人ウィリアムス・アダムスとともに、1600年豊後に漂着した。徳川家康に重宝され、江戸丸の内に邸を貰い、日本人と結婚した。彼の屋敷が東京・八重洲の語源である。東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後帰国しようとバタヴィアに渡ったが帰国交渉ができず、再び日本へ帰還中、乗船していた船がインドネシアで座礁して溺死した。

航海長のウィリアムス・アダムスも西洋の科学的知識を家康に見込まれ、幕府の外交顧問として活躍した。家康から日本橋の屋敷と相州三浦郡逸見村(現・横須賀市逸見)に領地を与えられ、三浦安(按)針という日本名を名乗った。夫婦の墓は「安針塚」と呼ばれ、京浜急行の駅名にもなった。(ここの文章はネットから得たものです)

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フェルメール展

光の天才画家とデルフトの巨匠たち

(館内で無料で頂いたパンフレットの案内文を転記させていただいた)

上野・東京美術館

8月2日~12月14日

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ヨハネス・フェルメール(1632~1675)は、オランダのハーグ近くのデルフトという小都市に生まれました。彼がその生涯で残した作品は、わずか三十数点。この作品の少なさと、光を紡ぐ独特の技法の美しさから、彼は光の天才画家といえるでしょう。フェルメールの作品が展覧会へ出品されることは、ほとんどありません。しかし2008年、日本との修交15周年を記念する欧米各国の多大なるご尽力により、フェルメ-ルの作品を中心に、オランダ絵画の黄金期を代表するデルフトの巨匠たちの絵画を一堂に集めた奇跡の展覧会が実現することになりました。出品されるフェルメールの作品は、晩年の優れた様式で描かれた《手紙を書く婦人と召使い》、光に満ちた美しい空間を描いた風俗画の傑作《ワイングラスを持つ娘》、現存する2点の風景画のうちの1点《小路》、近年フェルメール作と認定され大きな話題となった《ヴャージナルの前に座る若い女》、《マルタとマリアの家のキリスト》、《ディアナとニンフたち》そして《リュートを調弦する女》の日本初公開5点を含む今世紀最多の7点の来日です。このほかレンブラントに天才と称され、フエルメールの師であるとの説もあるカレル・ファブリティウス《1622~1654)や、デルフトに特有の技法を確立させたピーテル・デ・ホーホ《1629~1684》など、世界的にもごく稀少で非常に評価の高いデルフトの巨匠の作品、約40点が展示されます。デルフトの芸術家による名作がこれほど一堂に集うことは、本国オランダでこ稀有であり、この奇跡の展覧会は、私たちにとってまさに一生に一度しかめぐり合えることのない機会といえるでしょう。

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(ディアナとニンフた
ち)
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(マルタとマリアの家のキリスト)
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(小路)
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(リュートを調弦する女)
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(ワイングラスを持つ娘)
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ヴァージナルの前に座る女)’
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(楽器商のいるデルフトの眺望)

2008年12月15日月曜日

お嬢さんは、そこまでやるか!!

私は無類のスポーツ好きだ。年間通じて彼方此方(あっちこっち)で、いろんな競技が行われ、その競技のたびに、選手や試合の内容、競技が巻き起こした出来事について、マスコミがあれこれ騒いでは話題が舞い上がる。その興奮が、又私を興奮させるのです。この楽しみが私の人生にささやかな潤いを添えてくれている。そのようにして、私は今まで生きてきたのです。

でも、こんな私なのに全てのスポーツに対して、オッケーではないのです。偏見があるのです。恥ずかしながら、述懐します。私には受け付けない分野のスポーツがあるのです。それは、格闘技です。特にボクシングです。他にもいろんな種類の格闘技があって、総合格闘技とか、K1とか、競技団体ごとに試合が催行されているが、この種の競技は絶対見ません。

今からほぼ35年前、学校を卒業して入った会社の創業者が近江の出身の関係で、その会社の専務が、当時の滋賀県出身のボクサーの階級は忘れたのですが東洋チャンピオンの後援会長だったのです。ときどき所属していた部に招待券が配られてきたのです。それまで、私はボクシングをリングの上で本気になって戦う試合を、目の前で見たことがなかったのです。一度は見ないわけにはいかない、と小躍りしながら同僚と東京・後楽園ホールに行った。

観た試合は、滋賀県出身の東洋チャンピオンが、挑戦を受けてのタイトルマッチだった。両者、気合の入った緊張した拳闘だったが、私は試合が始まって間もなく、見に来たことを悔いた。グローブに包んだ拳で殴りあうことぐらい、当然のように知っていたが、その殴り合いの激しさが私の想定外であった。グローブで相手の肉体を殴る際に発生する、ズド~ン、ドドン、グァン、バぁ~ンが、観客の私の肉体を同じ強さで打ってくるのです。私は、打たれ殴られ、回が進むにつれて、もうグロッキー寸前まで追い込まれてしまった。リングサイドのいい席を頂いたものだから、その激しさがもろに私の体を痛めつける。血が飛んでくる。汗が、唾が飛んでくる。アっとか、ウっとか、うめき声が、悲鳴のようにも聞こえる。痛みの生の実感が、私の神経系統のコントローラを乱した。心的外傷という奴だ。もう二度と、目の前で本物の殴り合いを見るものかと腹にきめた。

この試合を観戦するまでは、テレビで世界タイトルマッチの試合が放映されるときは、必ず視聴して、興奮したものでした。そして画面に向かって、もっといけ、もっといけと贔屓の選手に、殴りかかることを激励した。その時は、選手が負った傷のことや、受けたダメージの深浅については、私の思慮外のことだった。私が小学生から中学生になった頃、力道山が華々しく活躍していた。プロレスのテレビ中継を画面にかぶり付きで観ていた。グレート東郷が、椅子で殴られ、額からは血を流しながら、受けたダメージにもかかわらず相手にニタニタ笑って両肩を上げたり下げたりして、向かって行く。相手はその不気味さにたじろぎ、後ず去りしては、観客を喜ばせてくれた。又、ブラッシーがヤスリで研いた歯で、力道山の額に噛み付き肉を引き裂いた。リングの上には鮮血が飛び散り、ブラッシーの口は吸血鬼のように血だらけで、テレビを観ていて卒倒した人が日本の津々浦々で多く出た。そんな時にも、私は平気の平左衛門だったのに。

そんな私だったのに、どうしたのだろう。観戦して、自宅に帰っても、体の変調は戻らない。怖かった。無性に悲しくなった。心臓がビクビク体はブルブル、悪寒が走った。体が重い。ビールを飲んで、焼酎飲んで、ウイスキー飲んで、日本酒に手を伸ばしたあたりから私の体はやっと平穏になった。そして、配偶者に言ったのです。できるものならば、子供にはボクシングに興味を持たせないように仕向けてくれとたのんだ。配偶者は黙って肯いてた。私の意見には必ず反抗する人なのに、私のショックが大きかったことを理解してくれたようだった。

テレビゲームなどの仮想劇や絵空事で神経をボケさせてはいかんぞ。生の実感を味わえ、そしてその実感を忘れるな。

そんな恐っそろしいボクシングの世界にも、女子が登場してきて、激烈な試合が行われたのです。12月8日、東京・後楽園ホールで、世界ボクシング評議会(WBC)の女子世界戦2試合が行われた。ライトフライ級は暫定チャンピオン富樫直美(33)=ワタナベ=が、挑戦者の元WBCミニフライ級チャンピオン菊地奈々子(33)=白井・具志堅=を10回21秒TKOで破り、初防衛に成功した。アトム級はチャンピオン小関桃(26)=青木=が挑戦者の金慧珉(25)=韓国=を3-0の判定で下し、初防衛に成功した。

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スポーツの世界にも女性進出が華々しい。今まで男の得意としている競技にも、女性が頑張っている。女子柔道、女子のプロ・アマレスリング、空手、重量上げ、サッカーはもうお馴染みだ。今日、新聞で知ったのは女子のプロボクシングだった。殴りあう二人の女性ボクサーの報道写真を見て、私の30年前の嫌な記憶が蘇ってきたのです。嗚呼、やっぱり、女性がこの世界にも現れたのかと納得したが、本当は諦めたのですが、落ち着いて、落ち着いて、現実を凝視しなきぇあ、アカンなあと思った。

拳闘現場はさぞかし、凄まじいことだっただろうな。クワバラくわばら。私は人並み以上に臆病なのだろうか。それって、格闘技に対してか?、それとも女性に対してか?。

かって、私の親しかった女性は、相手に手加減はしませんでしたから。

*上の写真は、9回富樫直美(右)は菊地奈々子に右アッパーを浴びせているところ=筋野健太撮影

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上の文章を綴った後すかさず、女子が参加する新種目にジャンプが加わったことの報道があったので、これも又すかさず、加筆した。スポーツは勿論、なんでもかんでも、スピードが一番。20081217、朝日朝刊・スポーツより。(ダイジェスト)

来年2月にチェコのリベレツで開催されるノルディックスキー世界選手権で、新種目の女子ジャンプが行われる。国内からは4人程度となりそうな代表枠を目指し、熱い戦いが続いている。代表争いを引っ張るのは、ともに神戸クリニックに所属する山田いずみ(30)と渡瀬あゆみ(24)と、14歳の伊藤有希だ。代表は21日までの全日本合宿の内容や1月上旬の大会の成績で決まる。全日本スキー連盟によると、世界基準に達していることが最低の条件という。

映画「私は貝になりたい」を観てきた

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弊社は、東京テアトル株式会社の大株主だ。株主優待券を、大いに振り回して観に行ってきた。勿論、仕事を終えてからの、私の特別時間だ。

終戦から13年後、戦争の悲惨な記憶が薄れ、日本が高度成長に入りかけた昭和33年(1958年)に、フランキー堺主演でこのテレビドラマが放映されたそうだ。その時分から、技術革新によって様々な家電製品が新発売され、好景気のあおりを受けて、一大家庭電化ブームがつづいた。テレビは家庭の娯楽の王座におさまった。私は10歳、小学4年生か5年生の頃だった。世の中の動きになど何も判らないまま、立派な洟垂れ小僧として元気に成長中でした。

ドラマのタイトルに、子供の心は強烈な刺激を受けたようで、「私は貝になりたい」、この名セリフを、遊びの最中にも言ってはふざけたものでした。だが、そのテレビドラマをライブというかリアルタイムで観たことの記憶はないのです。我が家には、まだテレビが無かった時期だからです。お隣の家のテレビを見せて貰った記憶もない。

テレビのドラマが放映されてから1年後(1959年)に、同じフランキー堺さん主役で映画化された。きっとこの映画をその後、学校の講堂で映画鑑賞会として観たのだと思う。5年生か6年生の頃だった。ストーリーや場面の端々をはっきり記憶しているのですから。小学生の頃、一年に一度か二度、映画とかバレエー、人形芝居とかの鑑賞会が学校の年間行事として行われた。私の極上の楽しみの一つでした。松山バレエー舞踊団だったり、宮沢賢治の物語「風の又三郎」の映画だったりした。昨夜、付き合いの長い関君と、仕事の打ち合わせ後酒盃を何度も交わした。子供の頃の学校での映画鑑賞会の話を切り出した時、彼が言うには、「小学生の頃、学校に映画がよく巡回してきたんだよね。例えば『風の又三郎』だとかさ」。当時、田舎の学校廻りの映画会で持ち回られた定番は、この映画だったらしい。私が唯一、映画鑑賞会で観た映画で憶えているのは、「風の又三郎」だけだったのです。関の出身は新潟県は南魚沼郡湯沢町だったし、私は京都府綴喜郡宇治田原町だった。どちらも、都会から遠い寒村だった。

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ここで、観てきた「私は貝になりたい」の映画の内容をまとめておこう。

遺書・原作/加藤哲太郎、「狂える戦犯死刑囚」

監督/福澤克雄

出演/中居正広、仲間由紀恵、西村雅彦、平田満、武田鉄矢、泉ピン子、草なぎ剛、笑福亭鶴瓶、石坂浩二(失礼を省みず、知っている俳優さんだけを列挙した)

物語(パンフレットより)

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「戦犯容疑で逮捕します」。豊松にとってその言葉は、まさに晴天の霹靂だった。

清水豊松は高地の漁港町で、理髪店を開業していた。家族は女房の房江と一人息子の健一。決して豊かではないが、家族三人理髪店で何とか暮らしてゆく目鼻がついた矢先、戦争が厳しさを増し豊松にも赤紙=召集令状が届く。豊松が配属されたのは、外地ではなく、本土防衛のために編成された中部軍の部隊だったが、そこで彼は、思いも寄らない過酷な命令を受ける。

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終戦。---豊松は、やっとの思いで家族のもとに戻り、やがて二人目の子供を授かったことを知る。平和な生活が戻ってきたかに思えた。しかし、それもつかの間、突然やってきたMP(ミリタリーポリス)に、従軍中の事件の戦犯として逮捕されてしまう。そして待っていたのは、裁判の日々だった。「自分は無実だ!」と主張する豊松。だが、占領軍による裁判では、旧日本軍で上官の命令がいかに絶対であったか判事には理解されず、極めて重い判決が下りる。

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豊松は収監された巣鴨プリズムで、聖書を熱心に読む死刑囚の大西や、事件の司令官だった矢野中将と交流を持つが、無情にも彼等に刑が執行されていく。

妻の房江は船と列車を乗り継ぎ、遠く離れた豊松のもとを訪れる。逮捕後に生まれた初めて見る娘の直子、妻・房江の泣きそうな顔。そして気丈にふるまう健一。豊松は「帰りたいなあーーーみんなと一緒に土佐へ」と涙を流し語りかける。

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無実を主張する豊松は、同房の囚人西沢の協力でアメリカの大統領に宛てて減刑の嘆願書を書き始めていた。やがて結ばれる講和条約で釈放される。誰もがそのことに希望をつないでいた。

一方、故郷の高地に戻った房江は、来る日も来る日も必死の思いで嘆願書の署名を集めるのだった。豊松の帰ってくる日を信じてーーー

*つぎに、私の映画についての感想だ。

いい映画だった。名人とも言われている橋本忍氏の脚本も、回を重ねるごとに、ますます円熟味は増しているのだろう。過去の作品をこの場で、見比べているわけではないので、詳しくはコメントできない。名人・橋本忍は、能力の高い人だと思った。最初から最後まで、観る者を飽きさせなかった。監督・福澤克雄の、映画作りに賭ける真面目さは痛いほど実感できた。豊松役の中居正広の、ひたすらな演技には好感がもてた。演技については、いろいろ指導はされたのだろうが、スタッフの熱意に応えようと一所懸命に演じていた。そして、要所要所に、存在感ある俳優さんが配されていて、全体に緊張したまま見終えることができた。笑福亭鶴瓶さんだったり、石坂浩二だったり、ピン子さんだったり、武田鉄矢だった。美しい日本の風景が彩られている。絞首刑を控えた豊松の苦しみ、獄から放たれて一緒に暮らす生活を取り戻したい、そんな思いに海が共感するように、青く大きくうねる。土佐の高知にもこんな雪深い山々があるのかと場違いに思えたけれども、女房・房江の夫を救うためのひたすらさを、その冷たく白い雪が際立たせていた。

そこから私の思いは、どうしても極東国際軍事裁判に向かう。当時、この裁判はどのように行われ、その内容はどうだったのだろうか。それから、60年経った今、この裁判が何を教えてくれているのか、学習するにいい機会を得たと思った。

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今日は2008年12月3日だ。このテレビドラマを再映画化されたのは50周年を記念しての企画だとは聞かされた。東京裁判(極東国際軍事裁判)の判決がくだり、A級戦犯が処刑されてから60年目にもなるのです。米英中が日本に降伏を勧告したポツダム宣言に「吾等の俘虜(ふりょ)を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰をくわえるべし」とあるのが、この裁判が行われた根拠。

裁判では、5人の判事は個別的に意見書を提出した。ウェップ判事は、「戦争を開始するには天皇の権限が必要だった」と言及。反西洋帝国主義の人と言われ、インド代表の判事パルは、東京裁判は後で作った法規で指導者を裁くのは問題があるとし、多数判決を全面的に批判し、被告全員の無罪を主張した。オランダのレーリング判事は、公正さを貫いた人だった。

広島、長崎への原爆投下や都市への無差別爆撃のような連合国側の戦争犯罪は、何故審議されなかったのだろうか。

081210の朝日夕刊の記事によると、国立公文書館が所蔵する資料で、日本の弁護団は当初、終戦時の鈴木貫太郎首相を証人に呼ぼうとしたが、天皇への波及を恐れる声が内部にあり、結局は断念した事実が分かってきた。いかなる形でも、天皇を法廷に立たせないという絶対方針だったようだ。

私達はA級戦犯の判決が出て、7人が絞首刑に処されたことは、よく知っていたのですが、BC級戦犯でも死刑に処された者がいたとは、私は知らなかった。それに、これは私一人の勉強不足か、どこかで誤解したのか、A級戦犯と聞くと、犯罪としての悪質度が一番高くて、BC級は悪質度では二級品であったり三級品だったのだ、と思い込んでいた。このA,B,Cは裁かれた罪の種類だったことを、今回学び取った。この裁判で、裁かれた罪は次の三つである。A、侵略戦争を計画・開始・共同謀議したとする「平和に対する罪」 B、通常の戦争犯罪 C、政治的人種的迫害などの人道に対する罪、だったのです。

学校では、A級戦犯のことしか教えなかったのではないか。A級だけがシンボリックに扱われていたように思う。A級戦犯の起訴人数は28人、死刑判決7人、終身・有期刑は18人、死亡・棄却は3人でした。が、BC級戦犯起訴人数は5644人、死刑判決934人(執行920人)、終身・有期刑は3413人、無罪は1018人、死亡・棄却は279人だった。この数字を見ても、いかにBC級戦犯が多く、又極刑に処された者の多かったことに驚かされた。

この東京裁判60年を機して朝日新聞が社説でとりあげた。

この記事の内容は、この裁判は十全ではなかった。裁判の経緯や結果において、複雑な問題を抱えていながらも、今、世界で起こっている問題や今後起こり得る事件の処理にあたって、教材としての役割りを担わせられている、と。

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081113)

朝日朝刊・社説

東京裁判60年

歴史から目をそらすまい

極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判の判決から60年がたった。第2次世界大戦後に日本の戦争指導者を裁いたこの国際裁判は、東條英機元首相ら7人を絞首刑にするなど、日本の政治家や軍の幹部25人を厳しく断罪した。

はるか昔の裁判だが、今も厳しい論争の的だ。日本の過去の植民地支配や侵略を正当化した田母神俊雄・前航空幕僚長の論文でも、東京裁判で認定された日本の戦争犯罪が、今もいわばマインドコントロールのように日本人を惑わしていると批判した。

東京裁判をどう見るかは、有罪となったA級戦犯を合祀した靖国神社に首相が参拝することの是非と結びついている。政治と不可分の問題なのだ。

東京裁判となると、とかく議論が熱くなりがちだ。だが、私たちがまず確認すべきことは、東京裁判が極めて複雑な問題だという冷厳な事実である。「勝者の裁き」か「文明の裁き」かという二元論で、万人の納得いく解釈はできない。それを単純化して白黒はっきりさせようとするところに、実は大きな落とし穴がある。

論点を整理しよう。東京裁判に問題があるのは事実である。戦争が行われた時点では存在しなかった「平和に対する罪」や「人道に対する罪」で裁くことは、法律学でいう事後法にあたりおかしいという批判がある。日本の戦争犯罪は裁かれたが、米軍の原爆投下は審理されなかった。連合国側だけで判事団を構成した。被告の選び方も恣意的だった。

その一方で、この裁判の意義も忘れてはならない。裁判を通じて戦争に至る道が検証され、指導者の責任を問うた。そのことで、戦後日本社会は過去を清算し、次に進むことができた。

また、独立回復に際してこの裁判を受け入れたことで、国際社会への復帰を果たした。東京裁判はナチスドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判と並んで、戦争を裁く為のその後の国際法の発展に寄与した。

こうした両面をそのまま受け入れる必要がある。欠陥に目を向けつつ、この裁判が果たした役割を積極的に生かすのが賢明な態度ではなかろうか。

なぜならば、裁判が十全でなかったからといって、日本がアジア諸国に対する侵略を重ね、最後は米国との無謀な戦争に突入し、膨大な人命を失わせた事実が消えるものではないからだ。日本に罪や責任がなかったということにはならない。都合の良い歴史だけをつなげて愛国心をあおるのは、もう終わりにしたい。グローバル化は進み、狭い日本の仲間うちだけで身勝手な物語に酔いしれていられる世界では、もはやない。

悪いのは全部外国だ。そう言いつのるだけでは、国際社会で尊敬される日本がどうして築けるだろうか

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そして、来年5月から始まる司法改革の一端、裁判員制度の導入だ。候補者29万5千人に候補者通知が、昨日から今日にかけて各家庭に届けられている。有権者352人に1人の勘定になる。選(よ)りによって親子とか上司と部下に届いたり、81歳の高齢者にも届いているとの新聞報道があった。裁判員に求められるのは、法の専門家が忘れがちな生活実感と、上級審や判例の意向にとらわれない目である。もともとプロに足りない部分を期待されているのだから、素人丸出しで、遠慮せずに物を言えばいい、と朝日組系天声人語親方は言ってくれているので、選ばれたときには精一杯努力しようではないか。

この裁判員制度の詳しい説明の新聞や雑誌の記事、パンフレットを昨今見る機会が多い。関連して、死刑についての是非論も喧(かまびす)しい。

この死刑存廃問題は、大きいなあ。

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この稿を綴っている過程で、学び取ったBC級戦犯の裁判の内容が、映画「私は貝になりたい」のプログラムのなかで、田中宏巳氏(元防衛大学教授)がタイトル「BC級戦犯裁判の全容」で寄稿されているので、この文章を読んで認識を深めたい。特に若者達に、真実をを学んで欲しいのです。

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BC級戦犯裁判の全容

田中宏巳(元防衛大学教授)

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戦犯裁判が行われたのは,第二次大戦が最初である。日本は世界初の核兵器の洗礼を受けたが、世界初の戦犯裁判もドイツと並んで受けた。

戦争裁判の動きが表面化したのは第一次大戦のことで、英仏両国が独皇帝カイザーとオーストリヤ皇帝カールを裁判にかけようとした。しかし亡命先のオランダ及びスイスが身柄の引渡しを拒否し、裁判は不成立に終わった。大国とは言えないオランダとスイスがノーと言えば、道義的に自信がなかった英仏両国も引き下がる他なかったのである。

裁判には法の存在と刑を執行する権力が必要である。第一次大戦後、戦犯裁判になる国際法や国際的合意事項が成立し、第二次大戦になると、強大な軍事力を背景にアメリカという独善的理想を掲げるスーパーパワーが登場し、違反を取り締まり、刑罰を科す強制力の役割を買って出るようになった。大戦後のアメリカは「世界の警察官」と呼ばれるようになったが、その最初の仕事が戦犯裁判の実施であり、各国裁判への指導であり、刑の執行であったといってよい。

戦争裁判で判決基準にされたのは、1899年何度も改定された「ハーグ条約」、1929年に俘虜取り扱いを定めた「ジュネーブ赤十字条約」、1919年のパリ平和予備会談で示された15人委員会が定める「戦争犯罪項目」等であり、国際法を批准するか、委員を出した国家には法を遵守する義務、あるいは合意を尊重する道義的責任があり、日本はいずれにも関係していた。

戦犯裁判の根拠になった国際法は、強制力をともなわないために、法の前の平等をうたった万民法ではなく、国家の都合により解釈が変えられた。そのため同じ罪を犯しても、勝者は裁かれず敗者のみが裁かれることになった。戦犯裁判は、誰彼に関係なく犯した罪を公正公平に裁く理想とは大きくかけ離れ、、そのため裁かれた日本兵から、裁判を日本に対する報復、復讐であると非難する声が上がった。ジャワの日本軍が、勝者の軍人だけで審理される裁判を「軍法会議」と呼んだが、的を射た表現である。「軍法会議」と考えれば、不条理な裁判になっても納得できる。

裁判では、勝者の法解釈、国内政治、戦争の進め方、文化及び伝統といった諸要素が影響を与えた。第一次大戦の独ツェッペリン飛行船による都市爆撃を受け、「戦争犯罪項目」の第十九項に「無防備地域を故意に砲爆撃すること」が挿入され、都市爆撃は犯罪になった。戦後、都市爆撃を犯罪と考えた日本の重爆撃機搭乗員は経歴を隠し続けたが、原爆を投下したアメリカが一言も触れずに裁判を進めたのは典型的な事例である。

ドイツに勝利した連合国は、アメリカ主導の下に戦犯をA、B、C級の3つのカテゴリーに分けた。A級は平和を破り戦争を始めた罪、B級は国際法違反及び「戦争犯罪項目」該当の罪、C級は人道にもとる罪である。A級は国家指導者が主たる対象で、ドイツではニュルンベルク裁判、日本では極東国際軍事裁判(東京市ヶ谷で行われたため東京裁判とも呼ばれた)において審理された。C級はいわばドイツのユダヤ人虐殺関係者が対象で、日本には該当しなかったが、BC級という呼称で残った。東京裁判(A級)の起訴28人に対してBC級5644人、死刑判決では7人に対し934人にのぼるが、日本ではA級ばかりに関心が集まり、BC級は看過されてきたきらいがある。A級裁判がショー的雰囲気の中で、昭和とともに日本が歩んだ歴史そのものが裁かれたために日本人の注視を集めたが、それこそが連合軍側の狙いであった。この間に、大量死刑、大量長期禁固刑のBC級裁判が大車輪で行われていたのである。

BC級は、戦争中、戦場で発生した犯罪行為を裁くのが主な目的であり、そのため戦場になった国内と海外に法廷が設けられた。日本が「大東亜共栄圏」と豪語した広大な占領地に、米英などの7ヶ国が合わせて49ヶ所の法廷を設置し、その一つが横浜にも設置された。日本を遥かに離れた戦場で開かれた法廷は、主催国の言語、法律、倫理観で審理が進められ、弁護人も通訳もない被告が、孤立無援の中で判決を言い渡された例は枚挙にいとまがない。アメリカのような豊かな国の裁判では、被告は生活の心配をしなくてもよかったが、戦災にあった国は被告の面倒をみるどころでなく、近辺の日本軍の差し入れで食いつなぎながら、出廷する被告が多かった。

横浜裁判はアメリカの担当で、横浜球場の近くに開廷された。日本国内や沖縄諸島、小笠原における戦争犯罪行為を取り扱い、49ヶ所のなかで最も多くの事件を扱った。被告は生活面の不安も無く、通訳及び被告の心の拠りどころ役を務める仏教やキリスト教の教誨氏師もつけられ、僻地の裁判に比べれば恵まれていた。勝者と言う圧倒的優位の下では、敗者の主張も制度や文化の違いが災いして無視され、日本人に裁判を災害と思わせる一因になった。戦争犯罪の特徴の一つは、軍隊と言う組織の犯罪を個々の兵士の犯罪に替え、審理の効率化、時間の節約につとめたことである。そのため命令者だけでなく、実行する部下の責任が追及された例が少なくない。指揮官・上官が責任をのがれ、下士官・兵卒に責任を押し付けられたことは、日本人社会の信頼関係に亀裂を入れ、戦後社会に暗い影を落とした

判決が下りると刑の執行に移る。助命嘆願書や再審請求による刑の執行延期、再審による減刑も少なくなかった。だがいかなる条件が揃えば行われるのか曖昧であった。死刑執行は戦地でも可能だが、有期禁固刑になると、牢獄の用意、食事・生活用品の支給、警備等の負担が増える。各国は判決後に有期刑囚を巣鴨に送り、アメリカ及び日本の手で刑期を過ごさせることにした。巣鴨には東京裁判や横浜裁判で係争中の被告、海外法廷で有罪になった者を収容し、「スガモ」は戦犯の象徴的地名になった。

1952年4月、サンフランシスコ講和条約の発効とともに、戦犯追及をうたったポツダム宣言が失効した。講和条約発効前に駆け込み死刑があり、発効後に死刑を失効した国はない。有期刑囚の服役は巣鴨で続いたが、看守する日本人に代わり、食事も日本食に変わった。それまで遺族に支払われなかった遺族年金も支給が開始された。日本政府はアメリカ政府と交渉を続け、仮釈放の手法で実質的釈放に務め、1958年末までに全員の仮釈放を勝ち取った。最も熱心に交渉したのは、かって巣鴨にA級戦犯容疑で収容されていた岸信介元首相であった。戦犯は一般の刑事犯ではなく、命令した軍(国)に代わって刑罰を受けた犠牲者である。しかし講和条約発効後まで、極貧にあえぐ遺族に国は遺族年金も支払わず、一般日本人も犯罪者扱いをして、遺族を苦しめた。この点については、われわれ日本人も深く反省しなければならない。

2008年12月7日日曜日

凄(スッゲ)え!! 日本の登山家たち

下の太字の文章は朝日新聞の記事を、いつものように無断で勝手に転載させていただいた。

以前に「冒険と探検はどう違うのか?論争」に興味を惹かれたことがあった。また、政府の後援を受けたスコット隊長が率いるイギリス南極探検隊の極点をめざしての行進を記録したチェリー・ガラードの「世界最悪の旅」を加納一郎訳で読んで、これこそ冒険であり探検なのだと思い知った。スコット隊と、生まれながらにして探検家のアムンゼン率いる南極探検隊との極点初到着を争っての行進の状況を、各々の隊を比較した記録本も読んだ。加納一郎さんの著作集全5巻も手に入れた。過去にこれだけたくさんの探検モノを著作に残した人はいないのではないだろうか。白瀬のぶ中尉の失敗に終わった南極探検のことを小説にした綱淵謙錠の「白瀬中尉南極探検記・極」も楽しく読んだ。明治時代、日清戦争前後に、千島列島を探検し占守島に到着、その後は資金難にもめげず南極探検を企て、貧弱な船や装備で南極大陸になんとか近づくことはできたが、大陸に足を一歩踏み出すまでには至らなかったが、日本にもそんな稀有な探検家・白瀬のぶ中尉がいたことが、日本探検界の誇りだ。朝日新聞の編集委員だった本多勝一の極地探検に関する著作も、面白く読んだ。京大探検部の生みの親の今西錦司や兄貴格の梅棹忠夫の探険に関する数々の著作も楽しく読んだ。

世界最悪の旅

写真は、南極点到達の5人(イギリス南極探検隊)

左からオーツ、ボワーズ、スコット、ウィルソン、エバンズ。1912年1月17日、ボワーズがレリーズボタンを押して撮影

そして、今、石原慎太郎の「弟」を読んでいたら、弟の裕次郎が独立プロを設立して、堀江謙一の「太平洋ひとりぼっち」の映画化に至るまでのてん末の部分が書かれていた。堀江青年は、1962年、ヨット・マーメイド号で、太平洋を単独無寄港で航海に成功した。映画化のことについては、この際のテーマではないので、脇に置いておこう。その一文の中で、堀江青年の「太平洋ひとりぼっち」の快挙を、石原慎太郎はなんとも私には耐えられない表現で矮小化していた。その箇所でカチーンと釘付け状態、私は読み留まったのです。発行所・幻冬舎、『弟』の181ページ の終わり3行から182ページの文章のことです。この本は、石原裕次郎とその兄の慎太郎の子供の頃から弟が死ぬまでの、生い立ちから俳優や作家や政治家になる過程での、その関係者を含めての生活史だ。病魔に苦しむ弟、彼を看取る親族や関係者。そして死亡。弟の鎮魂歌だ。そんな本なのに、わざわざ、堀江青年の偉業を、字を連ね行を替え、そこまで書き綴ることもないではないかと思われる、石原慎太郎の真意は何だ。私には、堀江元青年に対する悪意にも感じられた。正直、「石原さん、あんたなんかに、堀江謙一の冒険を批判できる資格なんて、ありっこないよ」、だ。

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20090103。正月の3日の朝日新聞に堀江謙一の日本人初の単独無寄港太平洋横断のことが載っていたので転載させていただいた。(伊藤千尋)

五月雨があがった真っ暗な海に、5,8メートルの小さなヨットが滑り出した。62年6月12日夜、兵庫県西宮市のヨットハーバー。目指すは太平洋の向こうだ。

荷を減らそうと、積んだ飲料水は標準量の3分の1。出航から3日目に強風が吹き、船酔いで血まで吐いた。疲労で、もう一人の自分がいる幻覚を見た。台風に遭い、巨大な波がガラスを割って海水がなだれ込んだ。9ミリしかない底板を、フカの群れが突いた。

目標の米サンフランシスコの金門橋をくぐったのは、出航から94日目である。単独で太平洋を渡った初の日本人となった。

無事に到着したのは嬉しいが、一方で堀江自身は逮捕、強制送還を覚悟していた。パスポートを持っていなかったからだ。当時の日本では、小型ヨットでの出国は許されなかった。

実際、堀江の航海を報道した日本の新聞は「太平洋を単独横断」という大きな見出しとともに、「人命軽視の冒険」と批判する記事も載せた。勇敢な冒険か、無謀で法を犯す密航かをめぐって世の評価は割れた。

判定はアメリカからもたらされた。サンフランシスコ市長が堀江を名誉市民とたたえて「市のカギ」を贈ったのだ。これを機に、日本のメディアは一斉に堀江の行動を「壮挙」と報道するようになった。64年にはイタリアで創立された「海の勇者」賞の第一回受賞者となった。

「評価はすべて外国からやってきた」と堀江は苦笑する。

堀江のヨットの設計をした横浜市の横山晃(故人)は、堀江を「日本の海洋スポーツ界に100年に一度と言うほどの功績を残した。1600年代の以来の日本政府の鎖国に明確な終止符を打った」とたたえた。

マスコミの批判の波は10年後の2回目の航海のときも押し寄せた。世界一周を目指したが、マストが破損して8日目で挫折した。だが、堀江はめげなかった。「8ヵ月後には次の航海をする予定だったから」だ。航海をしながら常に次の航海を頭に描き、新たな夢を追う姿勢はその後も続く。

74年には世界一周を成し遂げた。

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冒険とは未知の領域への限りない挑戦だと理解しているのです。堀江謙一氏が24、5歳で成し遂げた冒険は、私が勝手に尊敬している人が言う冒険のイメージ通りなのです。

『無謀な冒険を決行することによって、日本的社会での体制から指弾された、全ての分野での青年たち』よ、臆病者(イシハラ・シンタロウ)の言うことに惑わされるな、ということだろう。

このようなことに、異常に敏感に反応する私だから、下記の内容の記事には、格段、心がときめくのです。

冒険/探検/探険

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(081203)

朝日朝刊・スポーツ面・自由自在

速攻登山、日本隊が快挙

(近藤幸夫)

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この秋、日本人クライマーが相次いで世界的な登攀(とうはん)に成功した。ヒマラヤの6千、7千メートル級の未踏ルートを「速攻登山」で制覇した。

9月22日、隊長の一村文隆さん、天野和明さん、佐藤裕介さんのパーティーが、インド北部カランカ(6931メートル)北壁を攻略。10月5日には平出和也さん、谷口けいさんの男女ペアがインド北部のカメット(7756メートル)南東壁を世界で初めて登った。この二つが世界的評価を受けるのは、超高所のヒマラヤ難ルートを短期間で制覇したからだ。

かってのヒマラヤ登山は安全のため、物量、人材を投入。大人数で固定ロープを張り巡らす極地法主流だった。速攻登山は少人数でテントを担ぎ、互いにロープを結び一気に山頂へ突き進む。カランカ隊は吹雪で3日閉じ込められながら8日間で登り、男女ペアも1週間で成功した。

しかも挑んだのは、どちらも標高差約1800メートルの垂直に近い氷と岩の壁。欧州アルプスの岩壁登りでは標高の最高点が4千メートル台だが、彼らは5千メートルを超えた地点から登り始める。岩場の難しさに加え、高山病など危険も。メンバー全員にかなりの力量が必要で、世界でも限られた登山家のみに許される世界だ。

カランカ隊はアジアでその年に最も優れた登山隊を選ぶ「金のピッケル賞アジア版」を日本から初受賞した。授賞式に出た天野さんは明大山岳部OBで8千峰6座登頂の実力者。早くも「来年は7千メートル峰の難ルートを狙いたい」という。平出さんは「誰も登っていないのでルート図がない。未知の世界を克服する喜びがある」と振り返る。

この二つの新ルートは過去、各国登山隊の挑戦を拒んできた。レベルの高さを実証した日本は今後、世界をリードしてほしい。

2008年11月30日日曜日

私の部屋の時計が狂った

私の部屋には、私だけが利用している壁掛けの時計がある。一週間前あたりまでは狂いなく時を刻んでいた筈だった。ところが、3日前の夜のこと、一寝入りしてその時計を見たら5時、10分前を指していた。私は、毎朝5時に起きて、犬の散歩に出かける習慣を、もう15年以上続けているので、上手い具合に目が覚めたものだと感心しながら、外出の準備に入った。ところが、枕元の携帯電話は1時33分だ。目をパチパチさせながら、両方を見比べた。目を凝らして壁掛けの時計をもう一度見直した。4時50分だ。見た目には、何等変わりなく動いている。隣の娘が寝ている部屋の時計を見たら、私の携帯電話の表示している時刻と一緒だった。壁掛けの時計の方が間違っていることが判明したのです。

そのことを我が配偶者に話したら、ハイハイ、乾電池を換えておきますから、と言うではないか。えっえ、それでいいの?と思ったのですが、彼女には迷いがない。乾電池の蓄電量が減って、パワーが弱くなり、針の進み具合が遅くなるのなら、新しい乾電池に換えるというのは、よく分かるのですが、今回は、通常よりも早く針が進み過ぎているのだ。そんな状態の時計に、乾電池を換えて直るものなのか、私には分からなかった。

放電直近の乾電池には、時計の針を今まで以上に早める力が発生するのだろうか。死期を迎えた最後の最後には、通常の力ではなく、異常な力が生まれるのだろうか。理解できないままでいた。

だが翌日、配偶者によって新しい乾電池に換えられた壁掛け時計は、けなげに正常に時を刻んでいるではないか。それって、なんだったんだ!!配偶者の知恵は本物だったんだ、と敬服しながらも、自分では納得できないままでした。

その合点のいかない心模様を、グダグダ、文字で綴っていたら、ガ~ンと、私は私の思考に重大な過ちがあることに気づいたのです。この壁掛けの時計は「早く進んでいるのではなく、やっぱり遅れていた」、のだ。何日間の遅れ遅れが積み重なって、気づいた時には、たまたま進んでいるようなことになってしまっただけのことだったのだ。死期迫る乾電池に、急に力なんて湧いてくるわけ無いではないか。こんな、当たり前のことを、何故そのように考えるようになったのだろうか。私は、どうか?していたようだ。

ただ、それだけの話なんです。

私は、ちょっと疲れているようですな。

2008年11月25日火曜日

オバマ、次米大統領選勝利宣言

 

オバマ氏が、来年の1月から米国の大統領に就任することが決まった。4日深夜、日本時間5日昼に勝利宣言をした。記念すべき日の、朝日新聞の記事を転載させていただいた。

27州と首都を制す。

「変革の時がきた」

(081106)の 朝日朝刊/1面、天声人語、社説

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08年米大統領選を制した民主党のバラク・オバマ上院議員(47)は4日深夜(日本時間5日昼)、地元イリノイ州シカゴで演説し、「この選挙で私たちが起こした行動により、米国に変革の時がきた」と勝利を宣言した。10万人近い観衆が歓呼で応えた。

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47歳

バラク・オバマ氏

1961年8月、米ハワイ州生まれ。父はケニア出身の留学生、母は米国生まれの白人。コロンビア大卒業後、シカゴの貧民街地域活動家を経験し、88年にハーバード法科大学院に進学。イリノイ州議会上院議員を経て、04年、連邦上院議員に初当選。ミシェル夫人との間に2女。

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奴隷制度という過去を持ち人種問題を抱える米国が、奴隷の子孫ではないものの、アフリカ系(黒人)の大統領を選んだ歴史的な選挙となった。オバマ氏は演説で「(リンカーン大統領らが言った)『人民の人民による人民のための政治』は、なお滅びてはいないと証明した。あなたたちの勝利だ」と述べ、草の根の選挙運動を支えたボランティアの努力をたたえた。

世界の人々に向けて「今夜、米国以外の議会や王宮から見つめている人々、忘れられた世界の片隅でラジオを聞いている人々に対して言いたい。(今日成し遂げられた)米国の物語は特異だが、我々の行き先は共有できる。米国の新政権の夜明けが近づいている」と呼びかけた。「この世界を破壊しようとする者たちを、我々は打つ負かす。そして、平和と安全を求める人々を支援する」と決意を語った。

また、米国の「本当の力」として「武力や富の力ではなく、民主主義や自由、機会や希望といった絶えざる理想」を挙げた。そのうえで「米国は変化できる。我々の団結は完遂できる。これまで成し遂げたことから、今後、達成できることへの希望が生まれる」と語った。

一方でオバマ氏は「待ち受けている膨大な課題を理解している」とも語った。イラクとアフガニスタンという「二つの戦争」や金融危機を例に「道のりは長く、険しい。1年、あるいは(大統領任期の)1期(4年)の間には達成できないかも知れない」との認識を示した。そのうえで「できやしないという人に出会ったら、『イエス・ウィー・キャン(我々はできる)』と答えてやろう」と呼びかけた。

これに先立ち、ブッシュ大統領はオバマ氏に電話し、「あなたは、これから人生の偉大な旅に出ようとしている」と祝意を伝えた。

ブッシュ氏は5日午前、ホワイトハウスで声明を読み上げ、次期オバマ政権への移行について現政権による「完全な協力」を約束した。また、前夜の電話でオバマ氏夫妻をホワイトハウスに招いたことを明らかにした。

ABCニュースは5日朝、オバマ氏が民主党のエマニュエル下院議員(イリノイ州選出)に、ホワイトハウスの首席補佐官への就任を打診したと報じた。

一方、上下両院選挙は民主党が過半数を維持し、民主党主導の議会が次期オバマ政権を支える形が固まった。

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米国民、現状拒否を選択

アメリカ総局長・加藤洋一

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今回の米大統領選で米国民が示した選択の本質は、「オバマ氏の勝利」というより「現状の拒否」であることが明らかだ。

イラク戦争の長期化に加えて最近の金融危機。世論調査では「米国は間違った方向に進んでいる」と答える人が約8割を占め、選挙が本格的に始まった今年初めより増えている。ブッシュ大統領の支持率も30%を切った。軍人と医師を除き、あらゆる分野の指導者に対して不信感が募っているという「リーダーシップ危機論」すら聞かれる。

2年間にわたった選挙戦は当初、テロとの戦いに勝てるのかという「安全保障」が主要テーマだったが、終盤は金融危機を受けて「富の再配分」の是非に焦点が移った。いずれも国家の最も基本的な役割であり、それが真正面から問われたことに米国の国家基盤の弱体化がうかがえる。

今、オバマ陣営関係者の間で盛んに読まれている本がある。大恐慌直後の1932年に当選した、フランクリン・ルーズベルト大統領の就任後、100日間を描いた「THE DEFINING MOMENT(決定的瞬間)」だ。未曾有の危機から国家をどう救うのか。先輩の経験から何とかヒントを見出したいという必死の思いが見て取れる。

悲観的空気のなかで一筋の光明が見えるとすれば、「初のアフリカ系大統領」の誕生だろう。5日未明、ホワイトハウス前で気勢を上げていたアフリカ系の若者は「オバマは大統領として失敗したって構わない。我々は今日、歴史を作ったのだ」と興奮していた。しかし、これで米国が黒人差別を克服したのかと問えば人種を問わず返ってくる答えの多くは「ノー」だ。

オバマ氏は奴隷の子孫ではなく「怒れる黒人」の代表でもない。選挙戦を通じて見えたのは、むしろ人種を超越しようという姿勢だ。ジャクソン師ら公民権運動家があ冷ややかな視線を送る一幕もあった。

直近の民主党大統領だったクリントン氏は、96年の一般教書演説で「大きな政府の時代は終わった」と宣言した。しかし、金融危機に対応するため、政府の役割拡大は避けられない。最近の7千億ドルに上る金融救済策が如実に示している。「過去30年続いた、より小さな政府を目指す流れは完全に変わった」(ハムレ戦略国際問題研究所所長)との指摘も聞かれる。ただ、どこに向かうかは誰にも分からないようだ。時代の転換点でかじ取りすることの難しさが、浮き彫りになっている。

「オバマ氏なら現状を変えてくれるだろう」という期待が、米国内外で高まっている。ブッシュ政権の単独行動主義が是正されることを願う日本も例外ではない。しかし何をどこまで実施するのか、できるのかーーそれはまだ未知数だ。来年1月に発足するオバマ政権にとっては、各方面との「期待感の調整」が、当面の大きな仕事となる。

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天声人語

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それは、今日の日を予言した熱狂だったように、今になれば思われる。無名だったオバマ氏が4年前、一躍全米に名を広めた演説のことだ。民主党全国大会での鮮やかな雄弁を、取材で会場にいて聞いた。

クリントン夫妻や。その年の大統領候補ケリー上院議員ーー。きら星が光る会場の空気は「オバマって誰?」だった。だが登壇し、話を始めると、大聴衆は私語をやめ、たちまち吸い込まれた。きら星もかすむ歓声と拍手が、「祖国アメリカ」を語る言葉に湧いた。

米国の民衆は政治家に言葉を求め、言葉を楽しむ。心に響く言葉によって連帯感を強め、将来を確かめ合う光景は、日本の政治風景とだいぶ違う。かの地の選挙が「民主主義の祭り」と呼ばれるゆえんでもある。

その祭りに勝ち、オバマ氏は大統領になる。4年を経た勝利演説でも聴衆を魅了していた。「民主主義を疑っている人がいるなら、今夜がその答えだ」。初の黒人大統領になる自らを、建国以来の理念に重ねた。

無名かつ無銘から登りつめた勝利の言葉は、それゆえに重い。人を勇気づけもする。ひるがえって、世襲議員の首相が続く日本とは、残念ながらだいぶ違う。選挙は将来への賭けだという。米国民は「変革」のサイを投げた。こちらは掛ける機会も見通せぬまま閉塞感が募るばかりだ。

「真に偉大な大統領になりたい。情けない大統領ならいくらでもいるから」と、氏はかって語っていた。きょうの興奮がさめていけば、後には厳しい現実が控えている。言葉の真価は、これから問われる。

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社説

米国刷新への熱い期待

オバマ氏当選

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米国を変えたい。刷新したい。

米国民のこうした思いが、一気に噴出したような選挙だった。

民主党のバラク・オバマ氏が、史上初めてアフリカ系(黒人)の大統領に選ばれた。地滑り的な大勝である。イラクとアフガニスタンの戦争と金融危機。この「非常時」に、47歳の黒人大統領に米国の再生を託したのだ。

歴史的ともいえるこの米国民の選択から二つの声が聞き取れる。ブッシュ政権のもとで分断された社会の再生への期待と、米国一極支配はもう終わりにしたいという思いである。米国という国のありようが変わるだけではない。世界との関係も新しい時代に入っていくのだろう。

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厚い壁を打ち破って

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「米国の真の強さは、軍事力や経済的豊かさではない。その理想の持つ力なのだ」と、オバマ氏は勝利演説で語った。人種や差別にかかわらず、だれにでも機会は開かれている。そんな米国の理想を自ら体現してみせた自信がみなぎっていた。

選挙中は、人種的な理由やその若さから中傷にさらされた。世論調査でリードしても、多くの白人有権者が最後は黒人候補であることで二の足を踏み、投票しないのではないかという見方もつきまとった。

そうした偏見をはねのけた末の、圧倒的な勝利である。キング牧師らが先頭に立った公民権運動から半世紀。肌の色にとらわれずに指導者を選ぶことを、米国民はついにやってのけた。米国の人種問題は、奴隷制以来の負の遺産だ。1回の選挙で克服されるはずもない。だが、人種という壁が破られた意義は限りなく大きい。これからは女性やマイノリティ-が大統領を目指すことが特別視されなくなり、社会の融和が一段と進むのは間違いない。

オバマ氏勝利の背景には、ヒスパニックやアジア系などのマイノリティー人口の増加をはじめとする米国社会の構造的な変化がある。だが、まるで革命を思わせるこの大きな意識変化は、それだけでは説明できない。

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ブッシュ時代へ「NO]

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今の米国社会には、沈滞した空気が漂っている。約8割の米国民が「米国は悪い方向に向かっている」と感じているという。軍事力と経済力で他国を圧倒してきた超大国が、自信を喪失している。

この閉塞感を打破して、新しくやり直したい。そんなリセット願望が若い世代を中心に共鳴し合い、雪だるま式に「オバマ現象」を膨らませていったのだろう。

「イエス・ウィー・キャン(われわれはきっとできる)」というオバマ氏のメッセージは米国民を鼓舞し、前向きな挑戦への意欲を取り戻せた。

オバマ氏を押し上げたもう一つの原動力は、8年間のブッシュ政権に対する有権者の「ノー」だった。

9・11同時テロという衝撃が米国を襲ったあと、ブッシュせいけんは圧倒的な軍事力を前面に立てて単独行動に走った。大義なきイラク戦争は、4千人以上の米兵と多くのイラク国民を犠牲にしただけではなく、中東を混乱させ、米国の国際的な信用を失墜させた。

そして、大恐慌以来のといわれる金融危機、ウォール街の投資銀行が消え、かって米国の繁栄の象徴だった自動車産業ではリッストラの嵐が吹き荒れている。市場崇拝と規制緩和が

生み出したバブル経済のつけが回ってきた。

「強い米国」を掲げる軍事力を強化し、「小さな政府」路線を進めたレーガン政権以来、30年近くに及ぶ新自由主義の挫折といっていいだろう。ブッシュ時代に露呈したその失敗は、共和党支持者をも失望させ、マケイン候補の大敗につながった。

「政府には果たすべき役割がある」と強調し、イラク戦争を批判したオバマ氏は、米国民の異議申し立てを鮮やかに代弁してみせた。

上下院の議会選挙でも、民主党が圧勝した。ホワイトハウスと上下院の多数を民主党が制するのは、92年にクリントン氏が初当選いた選挙以来だ。

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米一極支配の終わり

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だが、新政権を待ち受ける現実は厳しい。まずは米経済の建て直しだ。冷え込む景気や急増する失業、1兆ドル(100兆円)に達するとも見られる財政赤字はもとより、世界経済の混乱をどう収拾していくか、来年1月の就任を待たずに対応を迫られよう。

「強い米国」による一極支配の時代は、軍事と経済の両面で終わりを迎えている。米国が超大国であることは変わらないが、イラクとアフガニスタンはもはや一国では手に負えない。巨額の資金が一瞬のうちに世界を駆けめぐる金融市場の規模とスピードには、グローバルに対応するしかない。

オバマ氏が国際協調の重要性を訴え、敵対してきた国との対話にも積極姿勢を打ち出したのは、その意味では時代の要請に応えるものだ。温暖化対策や核拡散の防止などの課題でも、米国を軸とした国際協力が欠かせない。

これからの世界が多極化に向かうとしても、米国の指導力が頼りにされていることに変わりはない。「米国の再生」を待ちわびているのは、米国民だけではないのだ。

オバマ氏は勝利演説で「私はみんなの声に耳を傾ける」と約束した。世界の超えに耳を傾けて、「信頼され、尊敬される米国」をよみがえらせてほしい。

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2面

オバマ流 合衆国包む

党派や人種、統合を強調

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「民主主義の力をなお疑う人たちへの答えが出た」。4日、米大統領選で当選した民主党のオバマ上院議員は、勝利演説でこう強調した。歴史的な勝利を呼び込んだ強さの背景を探ると、草の根の組織力に支えられた、一つの社会運動ともいえる独特の政治スタイルが浮かびあがる。(ワシントン=梅原季哉)

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「米国民は、我々が単なる青のアメリカや赤のアメリカの寄せ集めではなく、一つの『アメリカ合衆国』であり、今後もそうあり続けるというメッセージを世界に発した」-オバマ氏は勝利演説で、民主、共和両党のイメージカラーの青と赤を引き合いに、分断を乗り越え、統合を目指す考えを強調した。

レッテル分けを嫌う姿勢は、共和党地盤とされる州でも、一定の勝機があれば労力を注ぐ動きとなって表れた。

オバマ氏は、5ドル、10ドルといった小口のネット募金を広く薄く集め、財政面で優位に立った。それを生かし、従来なら民主党候補はあきらめていたような州でも、積極的に選挙運動を展開した。

その結果、04年ブッシュ大統領が選挙人を獲得した州のうち、少なくともバージニア、フロリダ、オハイオ、アイオワ、コロラド、ニューメキシコ、ネバダ、インディアナの8州を、共和党の「赤」から民主党の「青」に塗り替えることに成功した。

CNNによると、全米レベルの獲得総数でもオバマ氏は6千万票以上を得て、過半数を制する勢い。民主党の大統領候補で、選挙での獲得票が50%を突破すれば、76年のカーター氏以来となる。

レッテル分けの議論に組しないオバマ氏の姿勢は、人種問題でもみられた。

今年春、ヒラリー・クリントン氏と激しい党内指名争いを続けていたころ、自らが所属していたキリスト教会の黒人牧師による「白人のアメリカ」への憎悪を感じさせる扇動的な発言が問題になり、人種問題が争点となりかけた。

オバマ氏はその後、人種問題を克服するよう真正面から全米に訴えかける演説をし、牧師との間に一線を画する姿勢を強調。分断を深める政治家という印象が定着するのを防いだ。結局はこの教会から離脱までして、既成の「黒人政治家」の枠から自由であろうとした。人種問題に対する人々の関心は薄れ、牧師との交際を問題視する攻撃も、やがて下火になった。

有権者も大半は、こうしたオバマ氏の統合への訴えを支持した。CNN調査では、80%が「人種は投票先を決める要素ではない」と答えた。人種を選択の要素として考慮したと答えた少数派の中でも、むしろオバマ氏に票を投じた人のほうが多かった。

政策面でも「リベラル」「保守」といったレッテルに縛られるのを嫌った。実際の上院議員としての投票行動は明らかにリベラルだが、「政府が全ての問題を解決してくれるわけではない」とも繰り返し、「大きな政府」への懸念を和らげようとした。

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ネットで草の根

空前の若者動員

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「我々は今、歴史を作った。すべてはあなた方が時間と才能、情熱を選挙運動にささげてくれたからこそ、可能になった。ありがとう。バラク」。5日未明、オバマ氏がシカゴで勝利演説を終えて間もなく、ボランティアの携帯電話に、こんなメールが届いた。オバマ氏は大学卒業後、シカゴの低所得者層が住む地域で草の根活動家として政治にかかわるようになった。共和党は、イリノイ州上院議員を経て04年に連邦上院議員に初当選したオバマ氏に自治体の長や会社経営の経験がないことをとらえ、「履歴書に書ける唯一の業績が『地域活動家』」(ジュリアーニ前ニューヨーク市長)とやゆした。

だがライバル陣営は、草の根から組織をを作り、人々を動かすオバマ氏の能力を見誤った。「オバマ氏の選挙運動が見せた統率力は、彼自身の反映だった」(政治コラムニストのマーク・シールズ氏)

オバマ陣営は投開票日の4日も、フロリダ、バージニアなど「決戦場」とされた州で数万人のボランティアが戸別訪問による働きかけを最後まで続けた。

若者を対象とした新たな有権者登録の上積みでまず、共和党をしのいだ。それだけで気を緩めることはなかった。そうした有権者を実際に投票所まで足を運ばせた。決め手はオバマ氏本人の雄弁だけではなく、携帯電話やインターネットを駆使した人間関係の構築だった。特に米国の選挙ではかって見られなかったほどの水準で若者を動かし、「新しい世代」を呼び込んだ。

フロリダ州東部の町メルボルンで初めて投票に臨んだ大学生デレク・ターナーさん(18)は「歴史を作る一員になっている気がして感激している」と、オバマ氏支持の理由を語った。伝統的に共和党支持層が厚く、引退した高齢者が多く住む土地だが、夜明け前からできた投票所の列には意外に若者が目立った。

CNNの出口調査では、18歳から29歳までの若年層では66%がオバマ氏に投票し、マケイン氏の32%を圧倒した。

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経済重視、民意つかむ

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オバマ氏は「ブッシュ政権からの変革」をになう候補としての位置づけを明確にした。CNNの出口調査では、候補者に最も大事な資質として「変革をもたらす能力」を挙げた人が24%で最も多く、その中ではオバマ氏の支持率は89%に達した。

「変革」は当初、外交政策で鮮明だった。07年2月に出馬表明した段階から、泥沼化したイラクからの撤退を公約に掲げた。イラク戦争に当初から反対し続けてきたを、民主党に指名争いで本命視されていたクリントン氏と差別化する点としてアピールした。

だがその後、イラクの治安情勢の改善に伴い、米国民が大統領選で選択基準に挙げる争点としても影が薄れた。CNNの出口調査では、「イラク」を最大の関心事として挙げた人は10%に過ぎない。

イラクに代わって「変革」の必要性を米国民に決定的に植え付けたのが、今年9月からの金融危機だった。オバマ氏が「今世紀最悪」と呼ぶ状況は、かっての世界恐慌並みの事態になるのではないかという国民の不安を招き、ブッシュ政権が取ってきた解決策では対応できない。思い切った変革こそが求められている、という空気を強めた。

CNNの調査では「経済状況について心配している」とした人が85%にのぼり、うち54%がオバマ氏を支持。「経済」が政策面での決定打になったことを裏付けた。

オバマ氏の選挙運動を草の根で支えた人々は今後どうするのか。米オクシデンタル大のピーター・ドライヤー教授は「オバマ陣営はすでに今年夏、ボランティアの訓練で『11月4日は始まりに過ぎない』と強調していた。政策の実現に草の根の声を反映させる道具として、今後もこのネットワークを活用していくのではないか」と指摘する。

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「大きな政府」選択へ

財政赤字拡大の恐れ

経済

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オバマ米次期政権は、不況に突入しつつある経済を早急に回復させるという、極めて難しい公約を抱えている。これまでの「小さな政府」から「大きな政府」へかじを切り、格差是正を図るとみられるが、最大の制約要因は、過去最悪の1兆ドル(約100兆円)を超しそうな財政赤字だ。

オバマ氏は近く、次期財務長官を選んで経済政策チームを発足させるとの観測がある。長官候補には金融危機対策で活躍するニューヨーク連邦準備銀行のガイトナー総裁や、サマーズ元財務長官らが浮上。すでに財務省は次期政権スタッフが使える部屋を用意、来年1月20日の政権発足を待たずに現政権と連携できるよう準備を整えている。

オバマ氏が重視するのは低所得者・勤労世帯の支援だ。ブッシュ共和党政権の金持ち・大企業優遇からの転換を選挙戦で訴えてきた同氏は、「多くの家庭が経済危機で打撃を受けている。それでもマケイン氏は大手企業の最高経営者に平均70万ドル(約7千万円)減税しようとしているが、1億人以上もいる中流米国人には減税しようとしない」と厳しく批判していた。

オバマ氏は、勤労者の95%の税負担を軽くするため、1人あたり500ドル(約5万円)の支給など実施する計画だ。これらの政策で、所得税を払わない人の割合は約10ポイント上昇、48%程度に達する見通しだ。

顧問役のエコノミスト、ジェラッド・バーンスタイン氏らは「労働生産性は00ねんから07年まで約20%上昇したが、勤労世代の中流家庭の実質所得は3%低下すいた」と、ブッシュ政権時代に広がった格差を是正する必要性を強調する。

4日の投票所の出口調査では、家庭所得が全米平均を下回る5万ドル(約500万円)未満の有権者のうち61%がオバマ氏を支持した。

だが、「大きな政府」路線の前に立ちはだかるのは財政赤字だ。今年度の赤字額は、金融危機対策などで、過去最大だった前年度の2,5倍の約1,2兆ドル(約120兆円)に急膨張する、との見通しもある。対国内総生産(GDP)比は「3,2%から過去最高の8、2%に上昇する可能性がある」(金融大手UBS)という。長期金利は0,5%幅ほど押し上げられ、景気回復にマイナスの影響を与える恐れがある。

オバマ氏の公約を実施すれば、減税だけで赤字要因は4年間で1兆ドル近く増えると試算される。同氏の経済政策に影響力を持つルービン元財務長官は「短期的には大きな財政刺激が必要」との認識だが、長期的な赤字は「我々の通貨(ドル)や経済の将来にとって、深刻な脅威となる」と警告する。

減税の効果についても、先行き不安で貯蓄にまわり、消費に点火する力に欠けるとの見方が目立つ。「厳しい財政状況で、経済政策の幅は狭まる可能性もある」(エコノミストのデビッド・ジョン)との指摘もあり、経済運営ではブッシュ政権以上に難しいかじ取りを迫られそうだ。

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イラク撤退、多難の道

北朝鮮との対話継続

外交

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米国がイラクとアフガニスタンという二つの戦場を抱える中で、イラク戦争に当初から反対、「責任ある方法」での撤退を外交安保政策の柱に掲げたオバマ氏が、任務遂行を訴えたマケイン氏を退けた。ブッシュ大統領が就任した01年の同時多発テロ以来続いた「テロとの戦い」は、オバマ政権誕生とともに転機を迎える。

昨年後半からのイラクの治安情勢改善で、大統領選の争点としては後退したイラク問題だが、世論調査では米国民の過半数がなおイラクは「負担に値しない」と考えているとの数字がある。財政面からも巨額の戦費を削減する必要に迫られており、オバマ氏は公約通り、大統領就任後16ヶ月以内の早期撤退を目指すことになる。

ただ、民族・宗派間対立の火種がくすぶるイラクは、内戦状況に舞い戻るおそれがある。その場合、国際社会から無責任と非難されてもイラクを切り捨てるのか、難しい判断を迫られる可能性がある。

テロとの戦いのもう一つの舞台、アフガニスタンに関しては、オバマ氏は「主戦場」と位置づけ、国際テロ組織アルカイダの指導者・オサマ・ビンラディン容疑者の捜索作戦を徹底させると訴えてきた。だが、アフガン問題は軍事力だけで解決できる余地は少なく、政情不安に揺れる隣国パキスタンの協力が欠かせない。

オバマ氏は闇市場を通じて流出した核による核の予防策確立を訴えてきたが、ここでも、核保有国パキスタンとの関係をどう再構築するかが課題だ。ひとつ間違えば泥沼化するアフガン・パキスタン情勢はオバマ政権の外交を占う試金石になりそうだ。

東アジア政策では、北朝鮮の核問題への対応が最優先課題。オバマ氏は北朝鮮との対話路線を打ち出している。6者協議の成果を引き継ぎ、米朝の直接協議をさらに活発に行い、非核化を目指すことになりそうだ。

オバマ氏のアジア政策顧問には北朝鮮問題に詳しい人材がそろう。中でも副大統領に選ばれたバイデン氏のもとで上院外交委員会スタッフを務めるジャヌージ氏は、訪朝や、北朝鮮当局者との民間会合への出席の経験が豊富。北朝鮮にとっても対話を始めやすいと言える。

ただ、北朝鮮の出方次第では身動きが取りにくくなる可能性もある。米朝は核計画申告の検証方法で合意したものの、合意には「試料採取」が明記されていないなど不十分な点が多い。オバマ氏は北朝鮮が検証を拒めば新たな制裁を検討すべきだとしており、今月中の開催を目指す6者協議で北朝鮮が非協力的な姿勢に終始すれば、強い態度を示さざるを得ない。

また、国際社会での存在感を増す中国とどう向き合うかは、任期を通じて問われる外交課題だ。オバマ氏は対中関係を「成熟した幅広い関係」と位置づけている。

ただ、オバマ氏は米中間の貿易不均衡を問題視、人民元の対ドルレート切り上げを求める発言などを繰り返してきた。政権与党となる民主党のペロシ上院議長は人権派として知られており、チベット問題などで中国への圧力が増す可能性もある。

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オバマ政権、同盟関係は継続

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オバマ氏の対日政策は、同盟関係の強化を基本とすることで、現在のブッシュ政権と大きな違いはなさそうだ。陣営のアジア政策チームの一員であるジャヌージ上院

外交委員会スタッフは先週、ワシントンで開かれたシンポジウムで「アジア政策への取り組みで、マケイン陣営と多くの違いはない」と語った。

ジャヌージ氏は、オバマ政権のアジア政策について「にほん、オーストラリア、フィリピンなど伝統的な同盟国との関係をまず強化、発展させる必要がある」と述べた。

米国務省当局は、新政権が当面取り組むべき重要な課題として、①エネルギー②環境③経済の3項目を挙げる。

「3項目は相互に深く関連している」として、全体として両国経済にプラスとなる形で取り組む必要性を強調した。

ただ、日米両国関係者がそろって改善の必要あると指摘するのが、北朝鮮をめぐる両国の政策調整だ。米国政府が10月に踏み切った北朝鮮のテロ支援国家指定解除をめぐっては、北朝鮮の非核化交渉の進展に必要とする米国に対し、「日本や韓国との調整を優先してほしかった」とする日本側に不満と不信感が残った。

日本側は「オバマ陣営関係者は、日本が不満に思っていることはよく理解している」としており、改善に期待をもっている。

オバマ政権は来年1月の発足直後、まずイラク、アフガニスタンを含めた中東政策に力を注ぐと見られている。日米関係に本格的に取り組むのは春以降になる見通しだ。

2008年11月20日木曜日

高橋尚子引退、数々の感動に感謝

 

28日、現役引退を表明した高橋尚子(36)は、女子マラソンの新時代を切り開いたスターだった。五輪陸上日本女子史上初の金メダルに輝き、世界で始めて2時間20分の壁も破った。2大陸連続で五輪出場を逃すなど不遇な時もあったが、残した足跡は大きい。

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(081029)

朝日朝刊

スポーツ面。

日本陸上女子初の五輪金・世界初19分台/スピード化時代先取る

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リクルート時代からコーチなどとして高橋を知る金哲彦氏は「高橋のすごさは、時代を先取りしたことにある」と話す。それはトラックのスピードで、42,195キロをもたせるというマラソンを、女子でやってのけたという点だ。

大学4年の頃の高橋はトラックの3000メートルで学生ランクの上位にいた。ただ、より短い距離の方が得意で「マラソンのマの字もない走り。長い距離は無理だろう」という見方だった。

練習量はこなせ、馬力もあったが、駅伝だとブレーキをおこした。本番に弱いタイプでもあった。変わったのは、小出義雄氏がマンツーマンで見るようになってからだ。

金氏によると、高橋は以前、ひざから下の筋肉や足首のバネで地面をける走りだった。いわゆる「足を使う」走りだった。それはスパート時には武器になり、見てはっきりわかるほど瞬間的にフォームが切り替わる。ただ、そんな走りだけではマラソンはもたない。豊富な練習と小出氏の指導により、バネを使わない長持ちする走りに徐々に矯正され、エネルギーロスの少ないピッチ走法が完成していく。

世界陸上統計者協会の野口純正氏の分析では、01年ベルリンの時の高橋はピッチ1分間209歩、ストライド145センチ。対して、07年東京での野口みずき(シスメックス)が197歩、151,5センチと対照的だ。高橋が野口より身長では13センチ高いことを考えれば、違いはさらに際だつ。

あとは、常識はずれの高地練習がゴールまでもちこたえる持久力を植えつけた。

女子マラソンの日本記録を98年3月から01年9月までの3年半ほどの間に1人で約6分も縮めた。日本を世界トップレベルに引き上げ、女子マラソンで一つの時代を築いた。〈酒瀬川亮介〉

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挫折、挑戦、人々に勇気

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高橋ほど、さわやかに42,195キロを駆け抜けた選手はいないだろう。ライバルをぴゅんと引き離す疾走のような走り。ゴール後は、苦しそうな顔は決して見せないと固く決めていた。「マラソンはこんなに楽しんだよって知ってもらいたい」。走ることが心の底から好きだということを、存分に示してみせた。

そう明るく語る笑顔は、実は、過酷な練習の末に生み出されていた。ピーク時には1日70キロを超える走り込み。米国では心肺機能を鍛えるため標高3500メートルを超える高地まで上がった。「呼吸が苦しくて、胸が締めつけられるのです」。心身とも極限まで追い込む日々があったから、五輪金メダルや01年の世界記録の栄光を手にできた。

現役生活は、32歳で迎える04年夏のアテネ五輪で区切りをつける方向に傾いていた。30歳の頃、「朝起きて足が痛くないことを確認してほっとする。あと2年間、体がもってほしい」ともらしている。すでに自らの肉体に不安を感じ始めていた。代表選考会で敗れたアテネ後は、一度はやめようかと心が揺れている。

それでも彼女は走り続けた。背中を後押ししてくれたのは、絶えることのないファンからの励ましや応援の声だ。「皆さんに支えられて、暗闇の中でも夢を持てました」と高橋。05年、練習方針にずれがあった小出義雄氏から独立。全てを背負う覚悟で少人数のチームを率いた。

実際は、その年の東京国際で3年ぶりのマラソン優勝を果たしたほかは目立った成績はなく、北京五輪も出られなかった。だが挫折を繰り返しても、常に前向きに挑戦する姿が共感を呼び、人々に勇気を与えたのは確かだろう。

国内3大マラソンを連続して走る構想には「走る姿勢をできるだけ大勢の方に見てもらいたい」という感謝の思いもあった。誰からも愛されたQちゃん。それに応えようと懸命に走り続けた長いマラソンは、ようやく終わった。今はゆっくり休んでほしい。

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高橋尚子の歩み

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* 95年4月/大阪学院大からリクルート入社。小出義雄氏の指導を仰ぐようになる。

   

95年 4月。大阪学院大からリクルーロ入社。小出義雄氏の指導を仰ぐようになる。

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* 97年1月/大阪国際で初」マラソン

4月/小出氏」とともに積水化学へ移籍

8月/アテネ世界選手権5000メートルで13位

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* 98年 3月/名古屋国際で日本記録(当時)でマラソン初優勝「本当ですか?夢見たい」

12月/バンコク・アジア大会日本記録(当時)で制す。「走り始めたら足がよく動いたので、そのま                                          まいった」  写真

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* 99年8月/左足を痛めセビリア世界選手権欠場

10月/ハーフマラソンで転倒し、左手首骨折

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* 00年3月/名古屋国際を制し初の五輪代表に。「(五輪)本番の9月24日は2時間20分を切る風の中で走りたい」

9月/シドニー五輪で日本陸上女子初の金メダル。「すごく楽しい42キロでした」 写真

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10月/国民栄誉賞受賞。「これをバネにもっと上を目指せるいい賞だと思い、受けることを決めた」

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* 01年4月/日本陸連がプロ活動を承認

9月/ベルリン・マラソンで世界記録で優勝「最後の2~3キロは落ちた。あと1、2分は縮められるようにしたい」 写真

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12月/虚血性大腸炎で入院

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*02年9月/ベルリンで優勝、マラソン6連勝、「2年後のアテネ五輪に向けて、やれるんだという気持ちになれた」

11月/東京国際を肋骨の疲労骨折で欠場。「まだ出たい気持ちが残っている」

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*03年2月/小出氏の後を追って積水化学退社。「お世話になったので悩んだ。アテネまで(小出氏に)ついていきたい気持ち優先させてもらった」

11月/東京国際で2位に終わる。「こういうこともあるんだな。マラソンの奥の深さを改めて知った」

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*04年3月/アテネ五輪落選。「走れないことは残念ですが、納得しています」

9月/右足首骨折

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*05年5月/小出氏とのコンビ解消。「チームQ」結成。「(小出氏に)守って貰える甘い環境から抜け出して自己責任で走ってみたい」 写真

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11月/東京国際で復活優勝。「(失速した03年の)自分自身の思い出との戦いだった」 写真

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*06年11月/東京国際で3位に終わり、07年世界選手権代表を逃す。「アテネ五輪の時のように、私はいつも最後まで皆さんをハラハラさせる」

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*07年8月/右ひざ半月板を手術

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*08年3月/名古屋国際で27位に終わり北京五輪逃す「引退か、と言われるかもしれませんが、まだまだやりたかった。

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(081118)の朝日新聞で、元マラソンランナーでスポーツジャーナリストの増田明美さんが黛まどかさんに宛てた、手紙形式で綴られた文章のなかで、高橋尚子さんの「大事にしてきた言葉」の紹介記事をみつけたので、ここに転記させてもらった。

98年のバンコク・アジア大会で優勝した頃は、「奢るなよ円い月夜もただ一夜」。その後は「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」。後半は「諦めなければ夢は叶う」だった。

ちなみに野口みずきさんは「走った距離は裏切らない」だ。

縁は、何処までも続くのですね

歌手・沢知恵(さわ、ともえ)さんのことを、名前は聞いたことはあるが、その人がどんなジャンルの歌手なのか知らなかった。ところが、2008、11、16の朝日新聞に、「縁、詠みつなぎ歌い継ぐ」というタイトルで、沢さんを特集していたのです。その記事を読むうちに、何やら、この私も、これからこの文章の中に出現する人々とも多少の縁があるのでは、と思い始めた。

今から40年前、私が大学時代に、サッカーに費やす時間以外は、テレビやラジオのドラマの脚本を書いていた牛島孝之さんと、いつも連れ立って行動していた。あれやこれや、スポーツ談義から演劇、小説、政事、社会で起こった事件を話題にして、時間が経つのを忘れて過ごした。私と出会う約10年ほど前は、華やかな人気脚本家だった。彼の売れっ子時代のスケジュール表を見せてもらったが、寝る間もないくらい働いていた。そのうち、自分が企画・脚本まで仕上げたドラマが、テレビ局のお偉いさんに没にされ、それからは筆を執ることも少なくなり、私が一緒に過ごした時には、TBSの「幸せ見つけた」たった1本だけだった。この仕事も、嫌がる牛島さんをなだめすかして、生活費の捻出のために、友人が無理やり仕掛けた仕事だった、と聞く。牛島さんは、世間から遠ざかって行こうとする、後ろ向きな生活をしていた。子供2人を育てながらです。生産的、向上的な生活ぶりではなかった。傍(そば)からは、やけくその人生のように見えた。それでも私には、私の知らないことをいっぱい教えてくれた。私にとって、学生時代、唯一学習らしい貴重な時間だった。本の読み方から、文章を書く初歩的な作法を教えてくれたのです。演劇については難解で、理解できないまま卒業してしまった。演劇どっぷりの人たちが、牛島さんの直ぐ傍に居たのに、私は学習する機会を逸したようだ。くれぐれも残念だった、と思う。

私は大学に入学すると、すぐにサッカー部に入部した。1年生は強制的に、グラウンドに隣接している寮に入寮しなければならなかったのです。寮とグラウンドの住所は、私が田舎からやってきた時には、東京都北多摩郡保谷町東伏見だった。今は東京都西東京市東伏見だ。東伏見は狭いエリアなので、私の居た4年間で全ての家を見ていると確信できる。狭い路地から大きな道路、全部くまなく歩いた。薬屋、八百屋、肉屋、中華料理屋、蕎麦屋、パン屋、酒屋さんに焼き鳥屋なら、その従業員から家族構成まで把握していた。銭湯のカッちゃん、酒屋のカクちゃん、肉屋のツンちゃん、ここまでは独身女性でした。蕎麦屋のイチロー、工藤薬局の工藤大幸、小鳥屋の和田あきこに駄菓子屋のアグネスチャンチャン(これは、私だけが使っていたニックネームです。洗練?された愛称でしょう)。こんなところで、学生時代の悪夢が蘇ってきた。嗚呼(ああ)、あの和田あっこのガラガラの怒声が暗闇の中から迫ってくる。私を追いかけてくる。私は引き倒され、組み敷かれ、馬乗りになった和田あっこの顔が私の顔を直接に覆う。うっう、苦しい。そして、怒鳴りつけられた。「ヤマオカさん、先月のツケ、いつ払ってくれるの(怒髪が直立)。2、380円だからね。わかったかあ。金さんもだよ、竹本さんにも言っておいてよ」。話は、思わぬ方向に脱線してしまった、誠に失礼いたしました。だらしない学生時代の残滓じゃ。

ここで、この稿準主役の茨木のり子さんの登場です。まさしく、本人・茨木のり子さんが住んでいた東伏見に、私も牛島さんも住んでいたのです。茨木のり子さんのお住まいは、当時その気になりさえすれば、簡単に見つけられたのだけれど、その時の私の優先順位は、1番はサッカーを続けることで、2番はサッカーを続けられるための細事、雑事。学校の授業なんて眼中になかった。サッカー以外は余興みたいなもので、全て捨てていた。ここまで書くと、私のことをよっぽど上手な選手だったのでは、と想像されると非常に困ります。ヘタも下手。立派に一番下手でした。下手糞な自分の逃げ場を封じて、真剣に自分に賭けていた。

4年生の時、その牛島さんから、茨木のり子さんのことを教えられたのです。茨木のり子さんは、この近所にお住まいで、時々グラウンドを覗かれているんですよ。端正な身なりでこの道を歩いておられるのをよく見かけるのですよ。清楚な人ですよ。きっと、あなただって道などで、見かけているはずだよ。牛島さんは、あたかも自分の愛する恋人のように話していた。牛島さんには、そういう生まれながらの癖があった。何でもないのに、何かがあったような謎めいた言い方で、自分と相手を特殊な関係にまで一気に昇華してしまう。牛島さんは、墓場に入って13年は過ぎた。悪口も少しぐらいなら、許されよう。茨木のり子さんのことを、自分との関係をほのめかしながら、雲の上の人のようにも語っていた。この関係ってやつなのだが、牛島さんは単なる熱心な読者に過ぎないだけなのだが。ホンマにしょうがない変なオジサンでした。

牛島さんから、当然、茨木のり子さんの詩集を紹介された。読めば読むほどに、茨木のり子さんの世界に魅(ひ)かれていった。私は近しい友人に、茨木のり子さんのことを話したり、詩集を紹介した。その友人は、すっかり茨木ファンになってしまい、新しい詩集が発売されて、私がその購入にモタモタしていると、気立ての好い友人は「ハイ、どうぞ」と微笑を添えでプレゼントしてくれるようになった。読み終えたら、俺にも読ませるんだぞ、という条件で。当時勤めていた会社で、それらの詩集を回覧した。女子社員の間でファンがドンドン増えていった。

その茨木のり子さんの詩に巡り合った沢知恵さんが、茨木のり子さんの詩に曲をつけて歌っていることを新聞は報じていた。

ここら辺りから、この稿の主目的である、運命的な「縁」のお話です。ドラマチックでもありますヨ。

その沢知恵さんが茨木さんの著書「ハングルへの」旅」を読んで、茨木さんがその著作のなかで、金素雲氏の『朝鮮民謡選』を少女時代に読み、金さんの秘められた抵抗精神を受け取らざるを得なかった、と又、彼の蒔いた種子がひょっこり私の中で芽を出したと言えなくもない、と書いた。沢さんは、体中に電気が走った、と。

金素雲氏は沢さんの母方の祖父だったのだ。私もこの「朝鮮民謡選」を、在日韓国人の友人に薦められて詠んでいました。人間のもつ強い意志を、静かな言葉で綴られていた。きっと、二人の気脈が深いところで通じたのだろう。

この沢知恵さんと、沢さんの祖父・金素雲さんと茨木のり子さんたちの、人の縁のことを書いた朝日新聞の記事を丸ごと転載させていただいたので、それを読んで楽しんでください。この不思議な縁でつながる人の輪のなかに、オイラも牛島さんも入れてくださいナ。

私は、茨木のり子さんの著作からは韓国の抵抗詩人・金芝河(キムジハ)、「祝婚歌」の吉野弘さんのことを教えていただいた。感化され易い私は、金芝河を詠み、彼がこよなく愛したミョンドンの飲み屋にも行ってきた。濁酒(どぶろく)を鱈腹飲んできた。吉野弘さんの「祝婚歌」は、仕事の関係で出席した結婚披露宴で、何度も祝辞の一部に使わせていただいた。詩を綺麗な紙に綺麗に印刷してお土産に持って帰ってもらった。

茨木のり子さんの、私が詠んだ詩集を挙げておこう。

『鎮魂歌』  『私が一番きれいだったとき』  『倚(よ)りかからず』  「『言の葉さやげ』  『食卓に珈琲の匂い流れ』  『一本の茎の上に』、これらより以前の作品はまだ詠んでいない。

 

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081116 朝日朝刊

詠みつなぎ歌い継ぐ

宮地ゆう

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広島市中区の広島女学院の講堂に今月11日、沢知恵(37)の歌声が響いた。用意した13曲の10曲目、沢は約650人の高校生に語りかけた。

「私の大好きな詩人、茨木のり子さんの歌を歌います」

《わたしが一番きれいだったとき/街々はがらがら崩れていって/とんでもないところから/青空なんかが見えたりした》

茨木のり子は06年に79歳で亡くなるまで、戦中の青春時代や戦後の世のあり方、日々の暮らしを詩に残した。

とすれば重い詩になるのに、沢がつけた曲は明るい。

「茨木さんの詩は、ひとつも暗くない。ユーモアもスパイスもあって、どんな時代でも希望も笑いもあると教えてくれる」

沢は日本人の父、韓国人の母の間に川崎市で生まれた。2歳で母の故郷ソウルに渡ったが、小学3年のとき、牧師だった父が説教中に軍事政権の批判をしたとして国外退去に。一家は1週間に荷物をまとめ、再び日本に渡った。

15歳から2年は、父の留学で米国暮らし。再び日本に戻り東京芸大を卒業後は都内のライブハウスで弾き語りをしていた。韓国、日本、米国の間で「自分は何者か」と揺れる日々だった。

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沢が茨木の代表作「自分の感受性ぐらい」に出会ったのは、00年のことだ。

《自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ》

「私のことだ」。頭を殴られたような気がした。

数年後、沢は茨木の著書「ハングルへの旅」を読んでいて、一節に目を奪われた。茨木は50歳から韓国語を学んだ経緯をこう記していた。

「金素雲(キムソウン)の『朝鮮民謡選』(岩波文庫)を少女時代に愛読しーー金素雲氏の秘められた抵抗精神を受け取らざるをえなかった。ほぼ40年を経て、彼の蒔いた種子が、ひょっこり私の中で芽を出したと言えなくもない」

体中に電気が走った。「やっぱりそうだったのか」

金素雲氏は沢の母方の祖父だった。「2人にはものすごい批判精神と最上級のユーモアが共通していた」

祖父は、植民地時代、日本と半島を往復し、朝鮮の詩を日本に伝えた。日本語に訳した時は、北原白秋や島崎藤村に絶賛されている。

沢は幼い頃遊んでくれた祖父を覚えている。ベレー帽にステッキをついた「おしゃれなおじいちゃん」。だが、沢が詩人・金素雲を意識したのは、もっと後のことだ。

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96年9月、沢はソウルで舞台に立っていた。熱気を帯びた満員の会場。当時、韓国では日本語の歌を歌うことが禁じられていた。ライブは表向き「金素雲文学の夕べ」。でも聴衆は知っていた。「日本の歌手が歌うらしい」と。

舞台に立ち、沢は語った。

「今日はぜひ日本語で歌いたい歌があります。でも、許されないから、ら・ら・らで歌います」

沢なりの反骨精神だった。聴衆から声が上がった。「日本語で歌わせてやれ」

それから2年後、日本の大衆文化が開放され、沢は韓国で日本語の歌を歌った最初のシンガーになった。

開放後の歴史的な一曲目は、あの日「ら・ら・ら」で歌った「こころ」という曲だ。

訳したのは祖父。沢がゆったりした旋律をつけた。

《わたしのこころは湖水です/どうぞ漕いでお出でなさい》

05年、沢は茨木の詩を歌にした。アルバムのタイトルを「わたしが一番きれいだったとき」に決めた。歌が完成すると、茨木に見本のCDを送り、手紙で許可を求めて、最後に書き添えた。

「本の中に祖父の名前を見て驚きました。私は金素雲の孫です」

療養中の茨木から、太い鉛筆で書かれた返事が届いた。

「沢さんが金素雲氏のお孫さんであられたとは驚きでした。十五才くらいで読んだ『朝鮮民謡選』は、今も大好きな本で、これによって朝鮮への眼がひらかれたなつかしいものです」

茨木の訃報が届いたのは、それから半年後の06年2月だった。

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昨年末、沢は、茨木の長編叙述詩「りゅうりぇんれんの物語」に曲を付け、歌った。

戦時中、山東省で日本軍に拉致された劉連仁氏が、北海道の炭鉱から逃亡して山中に隠れ、13年後に終戦を知らないまま北海道で発見される実話を描いた壮大な詩だ。

歌いきるのに70分あまり、1曲で1ステージかかる常識はずれの曲だ。沢は、直前まで歌うかどうか迷った。観客はクリマスソングを聴くつもりで集まっていた。

思い切って歌い終えたとき、拍手はすぐに起きなかった。しばらくしてぱらぱらと聞こえ、最後は会場を埋めた。

茨木が金に一度も会わなかったように、沢も茨木に会うことはなかった。でも沢は、「3人をつないだ一筋の線が見える」と言う。

東京都西東京市の茨木の家は今もそのままになっている。生前、詩作にふけった書斎の本棚には、茶色くなった金素雲の詩集が並んでいる。=敬称略

2008年11月9日日曜日

有名な知識人、教養人の言うことにだまされるな

社会から知識人とか、教養人とか言われている人が、とくに著作物の多い人に多い例なのだけれど、「知識人」「教養人」「文化人」「碩学家」「評論家」「オピニオンリーダー」「知性派」を、自ら任じている場合もあるし、世間から自然とそのように敬称されている方々がいる。この方々のなかで、持論に大いに欠陥があるにもかかわらず、平気でのさばっている人がいたとしたら、これは大いに警戒しなければならない。社会問題だ。不幸なことに、この類の人間は大学の先生であったり、高級官僚だったり、世襲(国会)議員だったり、世間に影響を大きく及ぼす力を持っている場合が多い。

この稿は、いわゆる「知識人や教養人」と呼称されている人たちは、いったい何者なのか、と皆で考えてもらいたくてキーボードを叩いている。この人たちの功罪を見極めたいのです。

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私が今、焦点を絞ろうとしているのは、知識人、教養人のチャンピオン、「渡部昇一」氏のことだ。

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航空自衛隊のトップ、航空幕僚長の田母神(たもがみ)俊雄氏が、民間企業主催の懸賞で最優秀賞に選ばれた論文では、日本は日中戦争に「引きずり込まれた被害者」だと主張。旧満州、朝鮮半島の植民地支配も、日本を正当化するような考えを書いているが、田母神氏は以前からの持論であることを強調した。記者会見では、「親日的な言論の自由は制約されていたが、日本を悪く言う自由は無限に認められていたのではないか」と述べた。また「政府見解に一言も言えないのでは北朝鮮と同じだ」とも述べた。政府見解と明らかに異なる見解を公表して、防衛省から懲戒免職を求められても、徹底抗戦の構えをみせた。これじゃ、シビリアンコントロール(文民統制)を根本から否定しているのではないか。この航空幕僚長・田母神氏のその他の言動については、後ろのほうに報道記事を転載したので、そちらを読んでください。

私が気にするのは、この懸賞で次席の表彰を受けられたのは、どんな論文だったのでしょうか。最優秀賞とその次の賞との違いを比べたい。また、それ以外の賞に選ばれた作品の内容も知りたい。懸賞論文を主催した会社の真の目論見は何だったのでしょうか。何を期待して企画したのだろうか。田母神氏が主張するような論文を期待してのことだったのでしょうか。論文を提出した人の名前や肩書きは伏されての審査だったと聞いている、が。

朝日夕刊(081106)によると、防衛省は6日、航空自衛官78人が田母神氏と同じ懸賞論文に投稿していたことを明らかにした。応募総数は235人で、その約3分の1を航空自衛官が占めていたことになる。78人のうち、62人が田母神氏が以前トップを務めた小松基地(石川県小松市)の所属。アパグループ代表の元谷外志雄氏は「小松基地金沢友の会」の会長だった。この78人の航空自衛官の論文の内容は、幕僚長と同じように政府見解と全く異なる内容だったのだろうか。この投稿した航空自衛官たちが、揃いも揃って、同じように政府見解と異なる主張をしていたとしたら、首相、内閣総理大臣殿、最高指揮監督権はどうなってるの ?ですか。

この田母神氏の論文を最優秀に選んだ選考委員会の委員長が渡部昇一氏だったのだ。その他の審査委員はどういうメンバーだったのですか。これも重要な問題です。この審査委員長が、なんと上智の、大学の、名誉な教授、だったからだ。

彼には、膨大な著作物、新聞や雑誌、評論集がある。膨大な人々の前で自分の意見をどれだけの回数、論じてこられたことでしょう。そこで、何を論じてこられたのでしょう?その彼が、この選考審査会の委員長だったのです。 何故か、私は渡部昇一氏の著作物については、今まで一度も手にしたことはない。社会に影響力のある人なのに、それでも、彼の著作物を読もうと思ったことは一度もないのは、自分の世界にとって縁のない人だったようだ。

学校の名誉なのか、名誉ある実績を残した人物なのか。?、?、上智大学名誉教授だ。上智大学は全学あげてこの問題をとりあげて、議論してもらいたい。大学は、研究と教育の場だ。いい教材が転がってきたもんだ。歴史ある立派な大学の名誉教授となりゃ、大学の名誉のみならず、広く日本の国の名誉でなくちゃ、ならんのではないのか。立派な大学の、立派な名誉教授が発した考えは、あたかも世の中の人々に正論であるかの如く、声高に伝わる危険を秘めている。危なかしい思念や思想や考えと言えども、知識人と言われている人にお墨付きを与えれると、その意見は胸を張って一人歩きをするのです。繰り返すぞ。あたかも、世の中の正論の如くに、だ。

青年よ、研鑽に励め。知識と教養を身につけて真贋を見極めることだ。そして、真に正しいことに行動を起こすことだ。

渡部氏は、この話題の論文をどう評価したのだろうか。授賞の根拠を論評して欲しい。新聞に報道された論文要旨を読んで、呆れ果てて、一々私との認識違いを指摘する気も起こらない。この空自のトップがこんな考えで日々、軍務に精励したと聞くとゾウっとする。シビリアンコントロールも糞も、あったもんじゃない。今の自衛隊の実態は、もう既に怖い軍に成り果ててしまっているのではないのか?

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ここで、ネットで知り得た、私が理解できる範囲内の「渡部氏のお考え」を紹介をする。さすが、名誉教授だけあって、私のような人間とは随分違う意見の持ち主のようです。

*日中戦争、太平洋戦争の勃発原因について、陰謀論を支持する。

*南京大虐殺、否定派である「まぼろし派」に分類される。

*「ヒットラーやムッソリーニ、二・二六事件の青年将校らは共産主義者である」と主張している。

*従軍慰安婦問題に関しても日本の責任を完全否定する立場をとる。慰安婦の強制連行を認め性的奴隷説の根拠となった河野談話を強く批判し、当時官房長官の河野洋平は割腹して日本の汚名をそそぐべきだと述べた。

*沖縄における集団自決問題については、実際には積極的に日本軍に協力した沖縄の人々が、復帰後左翼メディアに扇動され、「歴史で騒げば金が出る」と考え、堕落した結果であると述べた。

*1980年、「週刊文春」誌上で、小説家の大西巨人に対し、息子二人が血友病であり、高額な医療費助成がなされていることから、「第一子が遺伝病であれば、第二子を控えるのが社会に対する神聖な義務ではないか」と問題提起し、大きな論争を巻き起こした。

*統一教会の新聞、「世界日報」を「この四分の一世紀の間、日本のクオリティー・ペーパーであった」と世界日報25周年記念メッセージにおいて、他の4人とともに述べている。

前の*問題については、渡部氏の考えに同調する人々が多々居ることは、承知している。正誤の完全決着をつけることは無理なことはわかっている。が、このままでは議論の先延ばしになって、次代につながらないのではないか。この現状が、私には歯がゆい。真剣な国民的討論の必要を求めます。

真の知識人、真の教養人とは、どんな人のことなのですか。

議論で、コンセンサスを得たい。

保守系言論人の方々、保守系出版社の今後の動きにも注目したい。

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報道された新聞記事を転載させていただいて、この事件の内容を確認してください。

11月1日(月)の朝日新聞の、1面と社会面記事をダイジェストした。

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空自トップ更迭

過去の侵略を正当化

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航空自衛隊トップの田母神(たぼがみ)俊雄・航空幕僚長(60)が「我が国が侵略国家だったというのはぬれぎぬ」と主張する論文を書き、民間企業が主催した懸賞論文に応募していたことがわかった。旧満州・朝鮮半島の植民地化や第2次世界大戦での日本の役割を一貫して正当化し、集団自衛権の行使を禁じる現行憲法に疑問を呈している。政府見解を否定する内容で、浜田防衛相は31日、田母神氏の更迭を決めた。

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論文要旨は次の通り。

日中戦争 日本は被害者

侵略国家ぬれぎぬ

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問題の論文の要旨ー

日本は朝鮮半島や中国大陸に一方的に軍を進めたことはない。日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために軍を配置した。

我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者だ。

日本政府と日本軍の努力で(満州や朝鮮半島の)現地の人々は圧制から解放され、生活水準も格段に向上した。

大東亜戦争後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放された。日露戦争、大東亜戦争を戦った日本の力によるものだ。

東京裁判は戦争責任をすべて日本に押し付けようとした。そのマインドコントロールが日本人を惑わせている。自衛隊は集団自衛権も行使できない。武器の使用も制約が多い、攻撃的兵器の保有も禁止されている。がんじがらめで身動きできない。

多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識する必要がある。我が国が侵略国家だったなどというのはぬれぎぬである。

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論文の題は「日本は侵略国家であったのか」。ホテルチェーンなどを展開するアパグループが主催する第1回「真の近現代史観」懸賞論文の最優秀賞(賞金300万円)に選ばれた。同社は31日、ホームページで論文を公表。防衛省詰の報道各社に報道発表文を配布したことから、投稿の事実が明らかになった。

名前・肩書き伏せ審査

懸賞論文は、アパグループが今年5月に創設し、審査委員長は上智大学名誉教授の渡部昇一氏が務めた。グループ代表・元谷外志雄氏によると、論文は筆者の名前や肩書きを伏せた形で審査し、田母神氏の論文が最高点だった。元谷氏は「立派な論文で、日本人なら内容に異論はないと思う。肩書きのある立場で見解を示すのは勇気のいることだ。広く世界に知らしめた」と話す。

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「猛将」更迭 大慌て

独自歴史観 身内も批判

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「猛将」タイプと言われ、ストレートな発言をすることで知られる。78年、統幕議長だった故・来栖弘吉氏が「自衛隊法では奇襲攻撃に手が出せない。超法規的な行動をとらざるを得ない」と言及して事実上解任されて以降、制服組が突出した発言を控えるなかでは異質の存在だ。今年4月には、空自のイラクでの活動を違憲と判断した名古屋高裁の判決について、お笑い芸人の言葉を引いて「『そんなの関係ねえ』という状況だ」と記者会見で話し、物議をかもした。

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事実誤認だらけ

日本の近現代史に詳しい現代史家の秦郁彦さんの話

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論文は事実誤認だらけだ。通常なら、選外佳作にもならない内容だ。私の著書「盧溝橋事件の研究」も引用元として紹介されているが、引用された部分は私の著書を引くまでもなく明らかなデータだけ。事件の一発目の銃弾は(旧日本軍)第29軍の兵士が撃ったという見解には触れもせず、「事件は中国共産党の謀略だ」などと書かれると誤解される。非常に不愉快だ。

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公然と奇矯な説

白石隆・政策研究大学院大学副学長(国際関係論)の話

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近隣諸国の反発が予想されるから問題だというレベルの話ではない。日本が歴史とどう向き合っているかという問題として、外からは認識されるだろう。たとえ個人の立場で書いたにしても、空自のトップという肩書きは常についてまわる。多くの歴史家から見て奇矯な説を高官が公然と出すことは、日本人がそのように歴史を総括していると見られても仕方ない。

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(081108)

朝日朝刊

社説

自衛隊/隊員教育の総点検を急げ

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航空自衛隊の田母神(たぼがみ)俊雄幕僚長が政府見解に反し、日本の侵略戦争を肯定する内容の論文を投稿して更迭された事件をめぐって、新たな事実が明らかになっている。

懸賞論文に応募したのは田母神氏だけでなく、応募者235人のうち、94人が航空自衛官だった。この中の63人が、かって田母神氏が司令を務めていた小松基地所属の自衛官だった。

航空自衛隊の中枢である航空幕僚監部が、全国の隊員に応募を呼びかけていたことも防衛省の調査でわかった。懸賞論文の課題は「真の近現代史観」である。教育の一環として奨励したというが、戦前の日本の歩みを美化する方向の歴史観を、組織をあげて論じようとしたと見られても仕方あるまい。

懸賞論文を主催した企業の代表は「小松基地金沢友の会」の会長で、田母神氏の知人でもあった。第6航空団の応募が突出している背景には、そうした人間関係が浮かんでくる。

小松基地の第6航空団では、事前の論文指導までしていた。田母神氏は問題論文で、日本の植民地支配や侵略戦争への反省を表明した政府見解を非難した。似たような趣旨で書くよう指導していたのだろうか。

航空自衛隊だけではない。海上自衛隊では隊員や幹部向けの「精神教育参考資料」に「わが国民は賤民意識のとりこ」という表現があったことも明らかになり、防衛省が陳謝した。

田母神氏は、将官への登竜門といわれる統合幕僚学校の校長もつとめていた。全国の自衛隊でいま、どんな教育が行われているのか、早急に総点検する必要がある。

論文応募が明らかになった直後、辞職を求めた浜田防衛相に対し、田母神氏が拒否したことも判明した。

そもそも自衛隊は、大日本帝国の日本軍が果たした役割への反省を踏まえ、平和憲法に基づく民主主義国家の独立と平和の守り手として発足した。精強でなければならないが、意識において旧軍の負の遺産とは明確に断ち切られている必要がある。

自衛官ならなおのこと、歴史認識などバランスのとれた教養と正確な知識、民主主義社会における文民統制のあり方などがきちんと教育されなければならない。組織の外と触れあい、平衡感覚を磨くことも大切だ。

災害救援や平和維持活動への参加などもあって、自衛隊に対する国民の信頼は着実に高まってきた。過去の反省に立ち、全く新しい組織として生まれ変わったという自衛官の意識と実績が、それを支えてきたのだ。今回の空幕長論文の事件は、そうした努力と国民の信頼を大きく揺さぶっている。

自衛隊に対する最高の指揮監督権をもつ麻生首相はもっと危機感をもって、信頼回復の先頭に立つべきだ。

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(081112)

文民統制 欠けた資質

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更迭された田母神俊雄・前航空幕僚長は11日の参考人招致で、とうとうと持論を繰り返した。つい最近まで、実力組織を率いる「制服組トップ」だった人物が、公然と政府に異を唱える姿は、シビリアンコントロール(文民統制)の危機を浮き彫りにした。ただ、最高指揮官の麻生首相は、相変わらずひとごとのようだ。(山田明宏、金子桂一)

上記のような記事が出ていて、なんじゃこりゃ、恐ろしい幕僚長や。能天気な首相や。と嘆いていたら、朝日新聞は、そんなオジサンを気分転換させる記事を用意しておいてくれるところなんだ、粋だね。天声人語だった。

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(081112)

天声人語

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雷が落ちたかのように驚いたと、去年亡くなった宮沢喜一元首相は回想している。日本の占領時代、帝王のように君臨していたマッカサー元帥が、トルーマン大統領に解任されたときの話だ。

朝鮮戦争をめぐっての、米政府の政策を顧みない言動が、解任の理由だった。帝王より偉い人物がいることに日本人は驚く。「シビリアンコントロール(文民統制)とはこういうものか」と、若き宮沢は目を開かれる思いだったらしい。

軍隊を文民政治家の指揮下に置く仕組みは、民主国家の原則とされる。それを軽んじる、横着な空気が自衛隊にあるのではないか。航空自衛隊トップの「論文問題」に、封印したはずの「戦前の臭い」を嗅いだ人は少なくなかっただろう。

その前航空幕僚長への参考人質疑が国会であった。先の戦争についての、政府見解に反する論文への反省は聞かれなかった。「武器を堂々と使用したいのが本音か」の問いには、「そうすべきだと思う」。あれこれ答弁を聞けば、5万の隊員を束ねる人として、不適切と見るほかない。

昭和の旧軍は、「政治に拘わらず」の軍人勅諭に背いて横車を押しまくった。ついには政治をほしいままにして戦争に突き進んだ。時代が戻るとは思わないが、武装集団に妙な政治色が透けるようでは国民は不安になる。

ところで今日は、戦争犯罪を裁いた東京裁判の刑の宣告から60年になる。文官では元首相の広田弘毅ひとりが極刑になった。軍に抗し切れなかったとされる宰相の悲運は、文民統制なき時代の暗部を伝えてもいる。

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(081112)

朝日朝刊

社説

前空幕長/「言論の自由」のはき違え

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事態の深刻さが、そして何が問われているかが理解できていない。航空自衛隊の田母神前幕僚長を招いての参院の参考人質疑は、そんな懸念を強く抱かせるものだった。田母神氏は「自衛官にも言論の自由がある」「言論統制はおかしい」と繰り返し発言した。自衛隊のトップにまでのぼり詰めた空将が、こんな認識の持ち主だった。

戦後の日本は、軍部の独走が国を破滅させた過去を反省し、その上に立って平和国家としての歩みを進めてきた。自衛隊という形で再び実力組織を持つことになった際も、厳格な文民統制の下に置くこと、そして旧日本軍とは隔絶された新しい組織とすることが大原則であった。

憲法9条に違反するという反対論も根強かったなかで、国民の信頼を築いてきたのは、この原則からの逸脱を厳しく戒めてきた自衛官たちの半世紀に及ぶ努力の結果である。

自衛官のトップにいた人が、こうした基本原則や過去の反省、努力の積み重ねを突き崩しておいて、なお「言論の自由」を言いつのる神経を疑う。

むろん、自衛官にも言論の自由はある。だが、政府の命令で軍事力を行使する組織の一員である以上、相応の制約が課されるのは当然ではないか。

航空自衛隊を率い、統幕学校の校長も務めた人物が、政府方針、基本的な対外姿勢と矛盾する歴史認識を公然と発表し、内部の隊員教育までゆがめる「自由」があろうはずがない。

問題が表面化した後、防衛大学校の五百旗頭〈いおきべ〉真校長は毎日新聞のコラムでこう書いた。

「軍人が自らの信念や思い込みに基づいて独自に行動することはーーきわめて危険である」「軍人は国民に選ばれた政府の判断に従って行動することが求められている」

五百旗頭氏は歴史家だ。戦前の歴史を想起しての、怒りを込めた言葉に違いない。

それにしても、文民統制の主役としての政治の動きがあまりにも鈍い。浜田防衛相は、田母神氏の定年が迫って時間切れになる恐れがあったので懲戒処分を見送ったと述べた。

田母神氏の行動が処分に相当すると考えるのは当然だ。きちんと処分すべきだった。そうでなければ政府の姿勢が疑われかねない。自民党国防部会では田母神氏擁護論が相次いだという。そうであればなおさら、麻生政権として明確な態度を示さねばならない。麻生首相の認識が聞きたい。

【正論】拓殖大学大学院教授・森本敏 田母神論文の意味するところ

2008.12.5 03:22

このニュースのトピックス国会

≪侵略でないといえない≫

歴史や戦争は人間社会の複合された所産であり、日本が先の大戦に至るまでにたどった道を省みれば、明らかに「自衛」と「侵略」の両面がある。歴史を論じる際、これらをトータルに観察し分析すべきである。田母神俊雄・前航空幕僚長の論文を読んで感じるのは、証拠や分析に基づく新たな視点を展開するならともかく、他人の論評の中から都合の良いところを引用して、バランスに欠ける論旨を展開している点である。あの程度の歴史認識では、複雑な国際環境下での国家防衛を全うできない。

大戦に至る歴史の中で日本が道を誤る転換点となった張作霖爆破事件は、満州権益の保護拡大のため関東軍が独断専行の結果引きおこしたものであることは各種証拠からほとんど間違いない。このときの処置のあいまいさや満州での激しい抗日運動、関東軍の独断がその後の満州事変の引き金になり、満州国建国、上海事変、シナ事変へと続いていったのである。この歴史的事実をもって日本は侵略国家でないというのはあまりに偏った見方である。

我々が心得べきことは、大戦に至る数十年、日清・日露戦争で勝利した奢(おご)りから軍の独善が進み、国家は「軍の使用」を誤ってアジア諸国に軍を進め、多くの尊い人命を失い、国益を損なったことである。これは日本が近代国家を建設する過程での重大な過誤であり、責任は軍人はもとより国家・国民が等しく負うべきである。この過誤を決して繰り返してはならない。

≪政治感覚の著しい欠如≫

ところで、田母神氏は自衛隊員として論文の部外発表手続きを踏んでいない。それを十分承知の上で、日常の不満・鬱憤(うっぷん)をこういう形で、一石を投じる目的をもって公表したのであれば、それによってもたらされる影響についても責任を有する。政府の村山談話がおかしいと思うなら防衛省内で大臣相手に堂々と議論すべきであり、懸賞論文に出すなどと言う行為は政府高官のすべきことではない。

さらにこれによって防衛省改革や防衛大綱の見直し、防衛費や自衛隊の海外派遣問題などにマイナス影響を与えかねない。それが分かっていて発表したというなら政治的な背信行為であり、分からなかったというなら、幕僚長がその程度の政治感覚もなかったのかと言うことになる。

自衛隊員は呼称は何であれ、武力行使できる実行組織を指揮するのであるから、いわゆる「軍人」である。一般市民が自衛隊員をどう見ているかを、高官になれば分かっていなければならない。田母神氏は、日本の自衛隊はいかなる国より文民統制がしっかりしていると国会答弁しているが、自衛隊員がこれを言っても説得力はない。

国民には、文民統制は自衛隊員に意図があれば機能しなくなると考えている人がいる。しかし戦後半世紀、文民統制に大きな疑惑が起きなかったのは、この間の先人の自己抑制努力によるものである。今回の論文によって文民統制への信頼性を失ったとすればその責任は大きい。

≪防衛省の対応には疑問≫

他方、防衛省の対応措置には納得がいかない。田母神氏を懲戒処分にする手続きをとらずに解任し、空幕付きにして退職させた。懲戒にしなかった理由を防衛省は、審理に通常10カ月近くかかり、その間に本人が定年を迎えるので、と説明した。懲戒処分といっても実際には、個人の表現の自由が認められている限り、懲戒免職にはできず、それより軽い処分ですむ。1日も早く防衛省から辞めさせてしまいたい、審理に入ることにより省内で歴史論争がおこるのを防ぎたいという事情が合わさったのであろう。

幕僚長という地位にあるのであるから、大臣は本人に面談のうえ身の処し方を協議すべきであった。国会も参考人質疑で歴史認識論議を避けたが、立法府こそ堂々と歴史認識を論議すべきである。

今後、部外発表をチェックする制度を強化すると、自衛隊員は部外に個人の思想・信条を吐露しなくなる。何を考えているか分からない23万人もの実力部隊が存在することの方が不健全である。文民統制の本義を履き違えた議論は戒めるべきであり、自衛隊員の部外発表を規制することは論外である。

一方で、自衛隊も人材育成や教育を見直す必要がある。自衛官が政治の場を体験する機会を増やすことも考えるべきだ。幕僚長以上を国会の同意人事にすることは違和感があるが、そうするのであれば、彼らを国会審議に引き出す制度を作る必要があろう。

今回は国内世論が左右にはっきり分かれた。これは歴史認識が確立していないからであり、近代史に関する歴史教育の重要性を痛感させられる。(もりもと さとし)

2008年11月6日木曜日

今度の奥秩父は、笠取山だ

081103)

晩秋

のれん会親睦ハイキング

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今回、幹事さんからこの企画のお知らせをもらうまで、正直、笠取山と言われても何処にある山なのか知らなかった。私が、学生の頃、唯一自分で楽しく遊んだ山域なのに、知らなかったのです。山好きの人は、あっちこっちの山を踏破し、その登った山々をきちんと山ごとにお話ができる。登った山を色々語るのも楽しみの一つでもある。私も、奥多摩から奥秩父にかけては、ちょっとしたこの地域の「通」ぶっていたのに。

私の郷里は山の中。山の中で育ったものだから、たかだか山を登るぐらいで、山登りとかワンダーフォーゲル、ハイキングだとか、栄養食? 何もそんなに気色ばらなくてもいいのではないか、という考えが頭から抜けない。山なんかチョロイもんだ。未(いま)だにそんな考えから抜けられないために、何時まで経っても山登りの装備を整えようとしない。山登りをなめたような軽装を、ベテランから何度も注意された。靴がどうだとか、雨具がどうだとか。山をなめたらアカンことは、オジサンになってやっと解っているんだが、何だか素直になれない。

こんな不真面目な私なのに、先輩たちからはいつも声をかけていただいて、感謝している。

笠取山は、整備された東京都の水源林です。手厚く保護されている。具体的には、天然林にはいっさい手をつけず、人工林には奥地林とその他に分けて、間伐と植林で理想的な針葉樹と広葉樹の混交林つくりを進めている。歩くコースは、あたかも公園の遊歩道の如く整備されていた。大正のころ東京都は水源林を確保するために買い入れたと案内看板に書かれていたが、誰から所有権を取得したのか、入会権を取得したのか、詳細に書かれていなかった。頂いた案内書には、この水源林は、塩山市、丹波山村、小菅村にまたがる約一万三千ヘクタールに及ぶ。丹波山村だけでも村の70%に当たる六千五百九十六ヘクタールに及ぶ。この山の一帯を緑のダムと呼んでいるそうです。丹波川から小河内(おごうち)ダムに集まる。そして、東京都民の喉を潤すことになる。水干(みずひ)という水源があって、そこには水の神を祀る祠が造られていた。その水干から湧き出た一滴の水は、「多摩川を経て東京湾まで138キロ」、と書かれた看板が立てられていた。またコースのポイントごとに、「湧き水の仕組みと量」「森と水」「ミズナラの天然林」などといった案内板が設置されていて、自然の大切さを勉強できるようになっている。

直登にさしかかる手前の広場に石柱があって、それは分水嶺を示すものでした。その石柱から山梨市側に流れ出した水滴は笛吹川になって富士川に、秩父市側に流れ出した水は荒川に、甲州市側に流れ出した水は多摩川になるのです。

最後の直登部分で高度100メートルを、登ることになるのです。角度は、見た目には30度程に見えるのですが、実際には20度ぐらいでしょ、と登山ガイドの説明でした。移動距離は短いけれども、心臓にはきつかった。我がグループの精神的シンボル、76歳の御長老ソエダのオヤジにとっては、大変苦しそうだったが、このオヤジはタダモノではないのだ。並みのダラダラ老人ではない。戦闘的なオヤジなのです。俺も苦しかった。お互いに声を掛け合って登りきった。加藤隊長の愛フル・サポート、声を掛ける私と掛け声に応えるソエダのオヤジ。冷静に自分のペースを守る角野さん。全員が頂上にたどり着いたときには、全員で拍手をして喜びを分かち合った。

曇り空だったけれど、眺望はよかった。甲武信ヶ岳は近くに、遠くに大菩薩の峰峰、富士山の中腹は雲で消えていたけれど、少し雪をかぶった頂上付近は神々しく聳えていた。富士山はやっぱり日本一や。

晩秋の候、紅葉はもうそろそろ終わりかけていた。ウルシの真っ赤な葉もヤマブドウの葉も落葉して見られなかった。一部のモミジがところどころ、赤い葉を見せてくれたけど少なかった。黄色くなったカラマツ林は広大だった。ナナカマドの真っ赤な実と、マユミがきれいだった。名前がマユミだと教えられて、過去、思い当たる女性はいなかったが、何故かビクっとした。マユミはあたかも桜の花が咲いているように、実がいっぱいなっていた。「登山道は枯葉のジュウタンのようですね」、と角野さんは言いながら、その文学的?表現に照れていた。高貴な加藤隊長は今回も私の顔の前で、放屁をなされた。公爵(我が隊の講釈師でもあるのです)はワッハッハと笑い飛ばされました。屁をかまされた私は、どこまでも楽しくなかった。

バスでの帰り道、鹿が3頭林道を横切った。慌てた鹿は、逃げるように険しい崖をよじ登っていった。鹿が増えているようです。長野県では、予定していた頭数の3分の1しか駆除できなかったと、ガイドさんから聞いた。頭がいいから、ハンターがやって来る頃には、どこかに姿を消すそうです。

天空(てんくう)の湯で温泉に入って、ビールを飲んで蕎麦を食った。天空という名には恐れ入ったが、大浴場からは、眼下に甲州盆地の夜景が丸見えだった。向こうからは、こちらの裸天国が見えないだろうから、大胆なポーズでうろちょろ。

そして帰路。スタートした時点では中央高速道路が混んでいる、という情報が入ったのですが、一部ノロノロの状態もあったが、大体順調な走行でした。

お疲れさまでしたと、横浜西口天理ビル横で解散した。

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紅葉の奥秩父ー天空の湯と笠取山

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横浜駅西口(07:00)=バス(第3京浜、環八、中央高速)・勝沼インター=作場平(さくばたいら)橋ーーー笠取小屋ーーー分水嶺ーーー笠取山(標高1953メートル)---水干(みずひ)〈多摩川源流)---中島川橋==バス==天空の湯(入浴)==バス==横浜駅西口(21:30)

歩程約12キロメートル 約4時間、当日は約5時間程要した。

主催・クラブツーリズム株式会社

我らの仲間たち=幹事は角野士朗、隊長は加藤史朗、添田 郁、山岡 保 の4名

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山名の「笠取」は山容からきているのではなく、風が強く、かぶっている笠を取られる、ということに由来すると言われている。別の案内書には、姿が笠の形にそっくりなこと、西側の雁峠で行き交った山梨と秩父の人たちが笠を取って挨拶をしたことにちなむ、との説もある。

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