2009年10月23日金曜日

「むべ」の実を初めて食った

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先日、横浜市泉区の中古住宅の物件調査に行った。住宅の家並みから、少し離れた農家の庭先に置かれていた野菜の無人店舗で、昼のラーメン用の野菜でも買おうと思って覗いてみた。この近辺に寄った時には、時々ちょこっと覗き見することがあるお気に入りのお店なのです。たまたま10円足りなくても、スマンと謝ればすみますから。でも決して常習犯ではありません。実家は農家ですから、働く農民の根っからの味方です。品物は、毎度御馴染みの、大根の間引いたもの、ネギ、柿、ニラ、薩摩芋、ジャガイモ、キャベツ他にも何かあったが、憶えていたのはそれぐらいだ。

それらの商品の横に、一人一個差し上げますと走り書きされたメモが添えられた「ムベ」が籠に入れてあった。ムベと書かれていて、読んでも、私には初見(はつみ)の実だ。秋で、落葉だ。季節柄、アケビに似ているなと直感した。一つ手に取って見ると、ほんふぁりと柔らかった。色は薄赤紫だ。匂いを嗅ぐと甘い香がした。一人一個とは書いてあるが、私は特別二個頂いた。だって、私はこの店の上顧客なんですから、神は許し賜るであろう。

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その無人店舗の前の道路を跨いだところに、藤棚のようにつるがぐるぐる巻きに棚を作っていた。そのつるからたくさんのムベが鈴なりになっていた。きっとこの無人店舗の店主の屋敷なのだろう。キュウイのようにたくさんの実がぶら下がっていた。

自宅に持ち帰って家人に、この実のことを説明しても、一向に興味を向けてこない。ならば、私が独占的にいただきますよ、と言って、半分に切ってみた。果皮は厚く固かった。果皮の中には、乳白色の粘液が黒いヒマワリのような種の隙間に詰まっていた。それをスプーンで種ごとすくい出して、種ごと口の中に入れ、乳液を喉に下して種をぺっぺと吐く。スイカを食べる時と同じ要領です。

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甘い。甘かった。アケビを最後に食ったのは、もうかれこれ50年近く前のことなので、その味の記憶は薄いのですが、アケビもたしかに甘かったが、ムベの方が糖度においては高そうだ。アケビも食べられる部分が少なかった。それでも、子供の頃、猿並みの山遊びの最中には貴重なおやつでした。それにしても、50年前とは、年月の経つのは早いものですね。百代の過客なんて言葉を思いだしたが、その意味はどうでしたっけ。キュウイは果皮の中に、しっかりした果肉が詰まっていて、小さい種は邪魔にはならずに果肉と一緒に食べられるので、商品としては十分流通しうるだけの資格があるように思うのですが、ムベの場合は、アケビと同様食べられる部分が余りにも少なさ過ぎる。これじゃ、売れない。天智天皇の時代には、貴重だったようですが。

それにしても、今回、ここでこの果実ムベに巡り会ったお陰で、食することができたのです。この機会が無かったら、一生ムベを知らずに死んでいったかも知れないのですから、今日の物件調査はそのものに大いに意義があったことに、初物(はつもの)体験が重なって、幸せな気持ちになりました。

注。文中、「むべ」を読み易くするために「ムベ」と片仮名にした。

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学習しよう=「むべ」の名前の由来をネットで見つけた。古文で「むべなるかな」という言葉に由来するそうです。以下は、ネットの文章をそのまま転載させていただいた。私の生まれ故郷のお隣で、その名が生まれたようなので、なおさら注目することに「むべなるかな」ということです。

では~。

その昔、大津に都があった時代(667~672年)、天智天皇が『蒲生野(がもうの)、湖東地域;愛知川と日野川の間の地域』に御遊猟に出かけた際、この地に立ち寄られ八人の男児をもつ元気な老夫婦に出会い,「汝ら、いかに斯(か)く長寿ぞ?」と尋ねられたそうです。

そこで老夫婦が「この地で採れるこの実を食べているためです」と説明したところ、「(むべ)なるかな」(なるほど、それはもっともなことだ)、「斯くの如き霊果は、例年貢進せよ」と仰せられたのです。それ以来、この果実を「むべ」と称するようになった、とさ。

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提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(私の方で、勝手にダイジェスト、編集させていただきました)

ムベ(郁子)

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ムベの実

分類
アケビ科
ムベ属

和名

ムベ(郁子)
トキワアケビ(常磐通草)

ムベ(郁子、野木瓜、学名:Stauntonia hexaphylla)は、アケビ科ムベ属の常緑つる性木本植物。別名、トキワアケビ(常磐通草)。方言名はグベ(長崎県諫早地方)、フユビ(島根県隠岐郡)、イノチナガ、コッコなど。

特徴

日本の本州関東以西、台湾中国に生える。柄のある3~7枚の小葉からなる掌状複葉。小葉の葉身は厚い革質で、深緑で艶があり、裏側はやや色が薄い。裏面には、特徴的な網状の葉脈を見ることが出来る。

花期は5月。花には雌雄があり、芳香を発し、花冠は薄い黄色で細長く、剥いたバナナの皮のようでアケビの花とは趣が異なる。

10月に5~7cmの果実が赤紫に熟す。この果実は同じ科のアケビに似ているが、果皮はアケビに比べると薄く柔らかく、心皮の縫合線に沿って裂けることはない。果皮の内側には、乳白色の非常に固い層がある。その内側に、胎座に由来する半透明の果肉をまとった小さな黒い種子が多数あり、その間には甘い果汁が満たされている。果肉も甘いが種にしっかり着いており、種子をより分けて食べるのは難しい。自然状態ではニホンザルが好んで食べ、種子散布に寄与しているようである。

利用

主に盆栽や日陰棚にしたてる。食用となる。日本では伝統的に果樹として重んじられ、宮中に献上する習慣もあった。 しかしアケビ等に比較して果実が小さく、果肉も甘いが食べにくいので、商業的価値はほとんどない。

茎や根は野木瓜(やもっか)という生薬で利尿剤となる。

ムベの花(4月末から5月)

ムベの実(断面図)

2009年10月20日火曜日

黄落(こうらく)

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著者・佐江衆一

発行・新潮社

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作者(夫)は、自分たち夫婦の壮絶な老老介護の実体験を、文学作品に仕上げた。迫真のドキュメンタリーです。

湘南に住む還暦間近の夫婦に92歳の父と87歳の母を介護することになった。物語は、栃木県に住む老父母を自分たちの近くの貸家に住まわせたことから始まるのです。

母は転んで、大腿骨を骨折する。手術で人工骨を埋める。夫は交通事故を起こして入院。母は入院してリハビリに励む。妻の腰痛が激化。母は痴呆を発症する。母は退院して自宅に戻るのですが、喧嘩でもしたのか、錯乱か一時的な感情の高ぶりか、深夜父の首を絞めるようなことが起こった。ベッドのなかにいる時間が長くなった。自の意志で絶食を仕掛ける。衰弱が進む。妻は介護に疲れ、夫婦関係も最悪の状態に陥り、離婚して妻を解放してやらねば、と考えるようになり、そのことを妻に話すと、妻はその前に、あなた、お母さんのオムツをかえてみたら、と言われ、慣れない手つきでやってみたものの、耐え難いものだった。妻は懸命だ。褥瘡(学習=じょくそう・床ずれのこと)にならないように、体の位置をこまめに変えてやる、便秘気味の糞詰まりを指で栓になっている便をとる。

介護疲れで夫に何も話さなくなった妻。妻の介護の努力は涙ぐましく、献身的だった。母が最後のお話があると枕元に自分の息子とその嫁を呼びつけ、あ・り・が・とう、と言った。その後には、私は結婚してないのよ、とも言った。何かがあったのだろう、父を許していないようだ。母の容態を窺う父を、シッシッと追い払う母。最期には、こ、ど、も、とうわ言を言った。だが、母は介護も空しく命を絶った。

夫として、妻に母の介護に対する感謝の言葉の一言もかけてやれなかった悔いと、そのことを娘から叱責されたことにショックを受けた。

父を夫婦の家に引き取る。それから、夫婦は今度は父の痴呆に振り回される。その顛末に悲しくなることが多いが、辛いけれど懸命に介護に励んだ。病院や介護施設への送り迎えのために軽自動車を購入した。夫は、長年の持病だった痔ろう『痔の薬の宣伝コピーでは、「じ」ではなく「ち”」を使ってますね、何故だ?ち(血)が出るからか』の手術入院をする。父をショートスティの養護施設に入所させる。週に1回の大学の講師としての仕事を辞める。入所中に、この時とばかりに、妻を連れてスペイン旅行に出かけた。この施設で、父に恋人ができた。退所後は、ラブレターの交換が始まる。徘徊が始まった。恋焦がれ合う年老いたカップル。自殺を仄(ほの)めかす父、そのため四六時中警戒していなければならない。父の部屋の様子が気になって、夜は眠れない。小田原に住む彼女から父に会いたいと、電話をかけてくるようになった。彼女に会いに行きたがる父。

また妻には、自分の老母がいてそちらの方にも、泊りがけで介護に行かなければならなかった。

私=ヤマオカがこのような事態になったら、私は一体どのような行動をするのだろうか。主人公のように、父母に接することができるだろうか。母と息子とその妻とのことについては、過酷な介護の中にも心温まる意思の交流があって、読者の気持ちを少しは治まらせてくれるのですが、男親である父の場合は、一人で居るときは、腹がへった、目が見えない、聞こえない、あ~あ、とかう~うとか意味もなく大声上げて、静かにしているなと部屋を覗き見れば、貯金通帳を長々と眺め、そしてお金を何度も何度も数えたり、それでも好色だけは衰えず、二階からは唾を吐くこともあって、この父を介護する側からは、どうも可愛くなく、愛嬌もなく、気持ち悪くて、介護相手としては難物過ぎるのです。私=ヤマオカも、こんな難物になるのだろうか。

著者はこの作品でドゥ・マゴ文学賞を受賞した。

(注。パリのドゥ・マゴ賞(1933年創設)の持つ、先進性と独創性を受け継ぎ、既成の概念にとらわれることなく、常に新しい才能を認め、発掘を目的に創設された。bunnkamuraが主催する文学賞。)

この本の中で、感動した一場面を、この場に及んで思い出した。母は息子の嫁に下の世話から何から何までお世話になりっぱなしで、気を揉む日々が続く。これから先、どれほど長く自分は、この息子の嫁にお世話になるのか、時には絶望的になることがあって、そんな時、母は嫁に聞いたのです、「これから、私はどうすればいいの?」。その質問に嫁は「いいのよ、このままでーー」と応えた。私は、この問答を読んで、瞼が熱くなった。できた嫁さんだ。

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ところで、私のことだけれど。

私には、介護する父も母も、もういない。

私の兄は、私よりも5歳年長なのですが、母の時も父の時も、体を酷使する農作業の合間に、病院への送り迎え、入院中にも毎日必ず様子を窺いに顔を出し、医者と打ち合わせをし、退院後は自宅での療養の手助けをよくぞマメにやってくれた。兄嫁は、宗教には熱心なのですが、実生活では頼りにならなかった。何の為の宗教なのか、この人に限っては、宗教なんて屁の突っ張りにもならない(この表現は、私の田舎ではよく使うのですが、何の役にも立たないし、何の効能もないときに使う常套句です)。そんな妻に対して兄は、何も文句も苦言も発しなかった。面倒なことは一身に引き受けてくれた。

この小説を読んで、私には介護する老人がいないので、介護する側からではなく、介護される側の私のことについて、考える時間をいただいた気がする。きっと私も時間の経過と共に、必ず老いる。そして、必ず私にも介護の手が必要になる時がくる。自力で在宅療養、それから民間ヘルパーのお世話になる、それから介護施設、病院へと、どのような経過をたどるのだろうか。

そこで、子ども達にはできるだけ負担を少なくしたい。負担をかけなくて済まされるものなら、そうしたい。できるものなら、自分の身の処し方ぐらいは自分で判断して、その選んだ方法・手段で、余生を暮らすことができれば最高なんだろうが、本当に、できるのか、不安だ。

果たして、私にはどんな老後が待ち受けているのだろうか。

2009年10月18日日曜日

虹の岬

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著者・辻井 喬

発行所・中央公論社

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著者・辻井 喬と言えば、豪腕な政治家で西武の創業者でもあった堤康次郎の息子であり、セゾングループを育て上げた経営者でもあった。今は経営からは離れ、セゾングループとの関りは、唯一セゾン財団の理事長としてのみだ。経営者だった時には、その名は堤清二だった。この作品「虹の岬」で、谷崎潤一郎賞を受賞した。

私も、学校を卒業してから最初にお世話になったのが、かって西武鉄道の持ち株会社だった。その会社を退職してからも、西武の関連会社とは、仕事上お世話になる機会が多くて、堤清二(辻井喬)さんの名前は、しょっちゅう聞かされた。彼の人となりを社員の口を経て聞かされるものの、実際には会ったこともないのですが、彼の大学時代のこと、父・堤康次郎衆院議員議長の秘書として、文化性を取り入れたセゾングループの代表取締役として、それから詩人、小説家、文化人、評論家としての才智に凄く魅いられていたのです。

西武鉄道の堤義明氏については、会社からは9年半給料を頂き、現実に観光宣伝物についての決裁をいただく機会があったので、それ以外にも他の社員から色んなことを聞かされ、それらしきイメージはできていたのですが、セゾンの社長さんのことは、茫漠としたままだった。

その辻井喬さんの「父の肖像」(野間文芸賞)は既に読んだ。35年来の友人がその本を貸してくれた。そして今回のこの本「虹の岬」のことは、書名は随分前から知っていたのですが、手にとって読む機会はなかった。そして1ヶ月前、何とかオフの古本屋さんの105円コーナーで見つけた。躊躇うことなく何冊か買った中に入れた。

最初の2,3ページを読んでいるうちに、頭を過(よ)ぎった思いが、ページをめくればめくるほど、その思いが段々大きく確信に近いものになった。著者は学生時代から詩作などに才覚を見せ、それからは自らも起業し大成功を果たしたことなどが、本の主人公・川田 順と少し似ているように思った。それらが、次に記した妄想が沸き起こった理由の一つかも知れません。

ここからは、私一人の禁じられた妄想とでも片付けてもらいたい。著者にもこの本の主人公のような秘められた恋愛体験をおもちなのではないか、と着想した。著者の手鏡に主人公が映(うつ)ったのだ。そして、この本を書き上げようと決心されたのではないだろうか。スマン、繰り返しますが、これは私の妄想だ。この稿の読み人は、軽く、軽くに処理してください。が、詮索にストップをかけるのも、詮索を続けるのも、各自御随意に。そんなことを、想起させるほど、著者は主人公・川田順の愛情物語に入れ込んでいる。あっと言う間に読み終えた。熱心な読者のヤマオカにも、きっと老いの波が寄せてきているのだろうか。身を乗り出して読みました。

昭和23年の川田 順が恋に悩み自らの命を絶とうとした古典的事件が、急に、現在に艶(なま)めかしいものになって、読者に刺激的に迫ってくる。どうせ読むなら、読書の手法としては少し品には欠けるが、読者の雑念を行間に放り込んで読んだ方が楽しい。この老いらくの恋を、私の体の中に、うらやましく思っている虫が棲んでいるわけではないことを、ここに断言しておきます。

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さて、物語は終戦を挟んだ時期に、歌壇の重鎮だった川田順の老いらくの恋の巻でした。

この老いらくの恋を自ら、歌にしているので、それをネットで見つけた。本の中にも、歌はあちこちに出てきます。これらを詠めば、すっかり彼の恋愛がどういうものだったのかが、容易に理解できます。

 

*樫の実のひとり者にて終わむと思えるときに君現れぬ(歌作、研究中に出会った)

*相触れて帰りきたりし日のまひる天の怒りの春雷ふるる(逢瀬の帰りか?)

*たまきはる命うれしもこれの世に再び生きて君が声を聴く(自殺未遂後)

【注、たまきわる=魂きわる、枕言葉で命や世にかかる。日本語大辞典 講談社】

*何一つ成し遂げざりしわれながら君を思うはつひに貫く(安穏な生活に戻って)

 

若き日の恋は、はにかみて

おもて赤らめ、壮士時の

四十歳の恋は、世の中に

かれこれ心配れども、

墓場に近き老いらくの恋は、

怖るる何ものもなし。  (「恋の重荷」序)

 

はしたなき世の人言をくやしとも悲しとも思へしかも悔いなく  (俊子)

 

げに詩人は常若と

思ひあがりて、老いが身に

恋の重荷をになひしが、

郡肝疲れ、うつそみの

力も尽きて、崩折れて、

あはれ墓場へよろよろと(「恋の重荷」)

【注、うつそみ=うつせみ(現身) ①この世の人 ②この世、現世)日本語大辞典、講談社】

 

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ストーリは、ネットに、当時の朝日新聞の記事や、他にも載っていたもので、充分理解して貰えると思ったので、それを借用させていただいた。

老いらくの恋(朝日新聞より)

昭和23年12月4日「朝日新聞」社会面トップの見出し、
「老いらくの恋は怖れず。相手は元教授夫人。
川田順は昭和11年まで住友コンツェルンの常務理事として実業界で活躍する一方、歌人としても『西行』、歌集『伎芸天』などの著作を多数持つ歌壇の重鎮であった。昭和14年妻和子が病死した翌年京都に移住し余生をひとり気ままに歌作、研究に打ち込んでいた。そのとき若く美しい人妻鈴鹿俊子と出会った。俊子が順の弟子となって以来二人の仲は急速に進展した。
   吾が髪の白きに恥づるいとまなし溺るるばかり愛 しきものを
   逢はぬ日を数へてさびし二日三日四日五日となりにけるかな
やがて秘密は露見。俊子は家を出て離婚が成立した。事態は望む方向へ進んだが、相手を欺きその妻を奪った罪の意識からは遁れられない。順は友人たちに遺書を送り自殺を図るが未遂に終わった。
   つひにわれ生き難きかもいかさまに生きんとしても生き難きかも
自殺未遂から二週間後、朝日新聞は、「夕映えの恋に勝利、川田順結婚を決意」と報じた。ときに順67歳、俊子39歳、まさに老いらくの恋であった。
翌年二人は結婚し京都を発って小田原市国府津に帰住、のち藤沢市辻堂に移り順はここで俊子の献身に支えられ安穏な晩年を送った。
   たまきはる命うれしもこれの世に再び生きて君が声を聴く
   何一つ遂げざりしわれながら君を思ふはつひに貫く

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あらすじ(ネットにあった文章を転載させてもらった)

京都大学教授・森三之介の元へ、母親に言われるまま嫁いだ平凡な主婦・祥子が、住友本社の理事という地位を捨ててまで短歌の道を精進しようとした歌人・川田順と出会ったのは、昭和19年5月に行われた歌の会のことであった。夢見がちな祥子はロマンチシズムの心情を持つ川田に憧れ、敗戦後、新古今集の評釈を始めた川田の清書の手伝いをするようになる。だが、そんな妻の行状を三之介は快く思わず、川田の手伝いを辞めるように再三宣告した。しかし、彼女はそれを決して辞めようとしないばかりか、やがて川田との許されない恋に落ちていくのであった。姦通罪が廃止され、戦後民主主義が芽生え始めた時期とは言え、新聞や雑誌はふたりの・不倫・を報じた。一度は実家に身を隠す祥子であったが、実家にも居づらくなり、結局3人の子供を捨て川田の家に身を寄せることになる。やがて、三之介との離婚が成立した祥子は、川田への愛を貫こうと川田に身も心も捧げるも、川田は祥子に多大なる迷惑をかけたという思いから自殺を図ってしまう。祥子のお陰で一命を取り留めた川田は、その後、祥子と結婚。独立した長女・尚子を除く、ふたりの子供を京都から引き取り、掬泉居と名づけた関東の家で暮らすようになる。しかし、その生活は苦しいものであった。雑誌社へ原稿を持ち込むが、・老いらくの恋・と陰口を叩かれ、どこも相手にしてくれないのだ。そんな中、婦人画報の野口という男が川田に戯曲を書くように勧めてくれた。初めは演劇界にも受け入れられなかった川田だが、やがてそれも軌道に乗り、彼の書いた戯曲は歌舞伎座で演じられるまでになる。家の近くの岬に立った川田は、人生を振り返りひとつの歌を詠む。それは、何一つ成し遂げられなかった自分であったが、祥子を想う心だけは貫いたという意味の歌であった。


2009年10月16日金曜日

広島長崎五輪、こりゃ大義大ありだ

2016年夏季五輪の開催地に、ブラジルのリオデジャネイロが決まった。盛り上がらないままの東京が落選したのは、当然至極のことだと受け留めた。リオが南米大陸で初めての開催地になった。ブラジルの国民、リオ市民の喜びはいかばかりか。大いに腕を揮(ふる)って立派な大会が行われることを祈りたい。私も経済的、業務的に余裕が出来れば、行ってみたいと思っている。

東京の招致活動は、石原慎太郎東京都知事の味噌をつけた発言で幕を閉じた。落選した腹いせだった。招致を競い合った相手国に対して、記者会見で裏取引があったようなニュアンスの発言をした。不愉快にさせた。スポーツマンらしくなく、潔くなかった。

盛り上がらない招致活動に、150億円を投じた。そのことにも、馬鹿知事は「余剰分で夢を見ようと思ってやったのは間違いではなかった」とどこまでも、低次元で悪びれない。余剰金だと言ったって誰の金だと思っているのだろうか。極秘に開かれた反省会では、招致活動で一番重要なのは、IOC関係者との人間関係で、スポーツ、語学、外交の術に秀でた人材を育てることだ、と結んだと聞いている。解ってない。人材を豊かにすることには、異論はないが、でも落選の理由は、そんなもんではない。本当の原因は、皆が白けていることの理由を分析してみれば、答えはいとも簡単だ。市民レベルでは、ドッ白けていて、参加意識が希薄なままだった。何故か。それは、誘致することの大義が整っていなかったからだ。

そうして数日後、今度は広島の秋葉忠利市長が、2020年の夏季五輪招致を広島と長崎を中心になって目指すと日本オリンピック委員会に申し出た。このことを聞いた瞬間、東京招致のくだらなさに滅入っていた私は、俄然元気を取り戻した。これは、楽しいことになりそうだと予想する。広島市長は「より多くの世界中の人に被爆の実相を知ってもらう機会にもなる」と、田上富久長崎市長は「核廃絶の国際世論を加速させる可能性がある。核廃絶を達成するためにできることがあるならやってみたい」と口を揃えた。

朝日新聞の天声人語氏もこの企画に期待して、「ヒロシマとナガサキが人々の胸に刻まれば刻まれるほど、核廃絶の潮流が強まっていくと信じたい」と述べている。朝日新聞はすかさず社説でも、両市にエールを送った。後ろの方に転載させてもらった。

五輪招致は、核廃絶の世論をさらに高める重要なプロセスだと信じたい。

ただ、五輪憲章では立候補できるのは1カ国1都市で、両市が目指す共催という形は現時点では認められていない。かって東京オリンピックでは、主会場は東京でもヨットは藤沢で行われた経緯がある。

11月3日にはオバマ米大統領が日本に来る。多くの日本人はオバマ大統領に広島と長崎を訪れて欲しいと思っているけれども、アメリカの保守勢力のニラミが厳しく、訪問は無理なようだ。それほど、アメリカの保守層は、原子爆弾を二つの市に落下させたことを、アメリカの正義と理解しているようだ。

だが、オバマ大統領は、この世で初めて原子爆弾を使用した国の大統領として、アメリカには同義的責任があると発言した。そして、今後のオバマ大統領の核廃絶への取り組み、国連中心主義への回帰、覇権主義をとらない、単独主義で突出しない、話し合い外交を続ける等々の活躍を期待してノーベル平和賞を受賞した。

この招致には難しい課題が山積だ。両市の発意の源になる大義を、共有できる人たちをどれだけたくさん取り込めることができるかが、成否に懸っているように思う。願っている。ネットを通じたり、勝手連的であったり、兎に角若者達が招致の前線に立って活動できるようになれば、ハッピーだが。そのような形態が望ましい。ヒロシマやナガサキこそ、次代に引き継がれなければならない。これは、今度こそ、私は応援したい。この招致活動を実らすためには、IOCが今回、招致活動の反省会で出た、人材養成もここへきて、必要になるのだろう。

JOCは、両市の案を日本の案として取り上げて欲しい。そして、日本国としても物資両面において最大の協力をして欲しいと願う。

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☆学習/大義=①人がなすべき道。とくに、国家、主君に対して臣民が踏み行うべき道。②おおよその意味  (日本語大辞典・講談社)

☆学習/味噌をつける=失敗して恥をかかされたり信用を失ったりする。(慣用句ことわざ辞典・三省堂)

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朝日朝刊・社説

広島長崎五輪

共感呼ぶ夢の実現に

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大変な難題であることは承知の決断だろう。

2020年の夏季五輪をいっしょに開こうと、広島市と長崎市がそろって名乗りを上げた。

人類史上でただ二つ、原子爆弾を投下された都市が手を携えて共同開催の道を求め、検討委員会をつくって招致の可能性をさぐる。

両市を中心に国内外3千以上の都市が加盟する国際NGO「平和市長会議」は、20年までの核兵器廃絶をめざす。来年の核不拡散条約(NPT)の再検討会議で、その目標までの道筋を定めた「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を採択しようと呼びかけている。

「核兵器のない世界」を追求するオバマ米大統領に、ノーベル平和賞が贈られることが決まったばかりだ。世界の人々が注視する大イベントである五輪を被爆地で、と提唱することで、国際世論を核兵器廃絶に向けて大きく動かしたい。そんな思いが読みとれる招致声明である。「平和の祭典として出発した五輪は、核兵器廃絶の実現にふさわしいイベント」という訴えは多くの人々の共感を得るだろう。

とはいえ、立ちはだかる壁はあまりにも厚く、そして高い。

まず財政面だ。一般会計の大きさを16年五輪の招致をめざした東京都と比べると、広島市は10分の1以下、長崎市はさらにその半分以下だ。広島市は1994年のアジア大会を開いたが、参加したのは42カ国・地域だった。近年の五輪は200を超す国や地域が参加する。基盤整備や招致、運営にかかる多額の資金をどう調達するのか。

「志を共有する複数都市」にも仲間に加わるよう呼びかけ、ネット献金も募るというが、容易ではなかろう。

五輪憲章は「1都市開催」を原則にしている。例のない共同開催は、日本オリンピック委員会(JOC)や国際オリンピック委員会(IOC)が受け入れ難いのではないか。

ほかにも、ホテルの客室数の確保や二つの都市間の移動、五輪後の競技施設の活用、さらには招致に失敗した東京都のかね合いーー。解決しなければならない課題は多い。

今回の提案を実らせるには、五輪の姿を一変させる必要がある。

大型公共工事で都市基盤や豪華な競技施設をつくり、招致にも多額の費用をかける。そんな国威発揚や経済振興と結びついた五輪では、限られた大都市でしか開けない。そうではなく既存施設を利用することで、あまり金をかけない五輪を生み出せないものか。

広島、長崎両市は、JOCやIOC、さらには政府や国民に、自らが描く「これまでとは違う五輪」の姿を提案してみたらどうだろう。

そうでないと、二つの被爆地の市民の納得も得られまい。

2009年10月10日土曜日

だって、しょうがない。盛り上がってないんだモン

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(サッカーの王様・ペレー)

国際オリンピック委員会(IOC)は2日、デンマーク、コペンハーゲンで開いた総会で、16年夏季五輪の開催地にリオデジャネイロ(ブラジル)を選んだ。南米大陸で五輪が開かれるのは夏冬の大会を通じて初めて。立候補していた都市は、シカゴ(米)、東京、マドリード(スペイン)。総会では、シカゴにはオバマ米大統領が、日本からは鳩山首相、森元首相、マドリードには元IOC会長のサマランチ、リオデジャネイロはルラ大統領、サッカーの王様ペレーがそれぞれの都市への招致を熱く訴えた。

結果、東京は落選した。

そしてテレビや新聞では、落胆している日本の関係者の表情が、画面や紙面に踊っていた。開催能力の堅実さや安全面では高い評価を受けていたのに。橋本聖子さん、小谷実可子さん、室伏広治さんらの悲しそうな顔、顔、顔。でも、本当に何故そんなに、悲しいの?悲しがっているのは、あなた達と、ほんの一握りの人たちだけだよ。

ここでじっくり考えてみよう。

日本は何故、オリンピックなの? 何故、東京なの?それに招致委員会って誰なの? そしてそれらの人たちはオリンピックの招致をどの様に考えて、アピール活動をしたの?招致活動にどうして150億円ものお金が必要だったの? それに、IOCに4000億円ものお金を基金として供出するって本気だったの?

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(IOC総会で東京の落選が決まり、肩を落とす小谷実可子さんら)

正直な話をしよう。石原慎太郎東京都知事が、任期を残して輝かしい実績をあげられていない。むしろ、やりかけの仕事がことごとく破綻している。知事の日常の行動に対する批判、息子まで巻き込んだ乱費癖。新都市銀行の不振。都議会では、自公は野党に転落した。こんな景気の時だからこそ、自治体の首長は各方面に配慮した施策が必要なのに、意欲的に取り組もうとする意欲は萎えている。仕事に対する情熱が薄れている。そんな折、時間潰しに東京オリンピック招致だったのです。

深耕なしの彼の単純な思いつきに、みんなが振り回されていただけではないのか。招致委員会理事の安藤忠雄さんの朝日新聞で記者との談話を記事にしたものを読んだ。そこで、安藤さんが招致委員会の理事だということを初めて知った。彼は建築家の立場から、東京招致を熱く語っていた。私は、安藤さんの言葉に感動した。

それに、朝のテレビ番組でみのもんた氏が、彼はどういう役割を担っているのか知らないのですが、パラリンピックの重要性をを強く主張していた、彼の話にもなるほどと感心した。

が、それ以外どの招致委員からも、私を感動させるような話は聞かされていない。

新しく首相になった鳩山由紀夫氏は、首相就任早々国連総会で二酸化炭素ガスの90年比25%削減を先鋭的に取り組むと訴えた。ハトヤマ、イニシアティブとも言われた。この新しい日本のリーダーを世界は温かい拍手喝采で迎えた。この勢いをIOCにも持ち込みたかったようだが、ここではそれほど受けなかった。鳩山首相もオバマ大統領も、何か勘違いしていたのではないのか。ちょこっと出っ張って挨拶したぐらいで、その大きな流れを変えられるとでも思っていたとしたら、一番大事なことを忘れているのか、馬鹿にしているのかのどっちかだ。ことは、政治ではない、スポーツの祭典なのだ。情けないほど短命内閣だった森元首相さん、あなたはラグビーをスポーツとして語れるのですか。早稲田のユニフォームを着たりしているけど、後ろめたくないのですか。石原都知事、スポーツとは趣は異なるけれども、あの太平洋一人ぼっちの堀江謙一氏の勇気ある快挙にも、水をさすようなことしかコメントできなかった。スポーツも自らを極限に追い込むことにおいては、冒険と通じるものがある。情けないお坊ちゃま振りを露呈した。スポーツの本質の、その本質を判ってない奴がいくら叫んでも、共感は得られない。

築地市場の移転問題では移転先の工場跡地の土壌から環境基準をはるかに超える有毒物質が検出されている。石原都知事は、その地に何が何でも移転すると言い張っている、危険な知事だ。IOCの総会でも、そんなことには目を瞑り、鳩山首相にならって、ここに至って急に環境を訴え出した。空々(そらぞら)しい。東京都知事殿、あなたは本当に馬鹿なのですか。

コンパクトな会場配備、環境対策、安定した都市インフラをいくら強調したって、本質に迫ってない。こんなことだけで、東京にオリンピックを持ってこようなんて、浅はかだ。国民から市民から、熱い想いが沸き起こってこなければ、ボスがいくら旗を振っても、何も変わらない。落選した原因なんて、国民の東京都民の関心の薄さを分析すれば、自ずから答えが出てくるではないか。又、このお馬鹿さんは、記者会見で、リオの招致活動について裏取引があったかのような発言をして物議をかもした。この類の選考においては、思わぬ極点に不思議なベクトルが作用するものだ。それを風が吹くというのだ。失礼な男だ。ブラジルの人に不愉快な思いをさせてはいけない。この男の人間性を疑いたくなる。招致活動費150億円の使途を明らかにする意向だというけれど、こんなことは民間企業では当たり前のことだ。一つのプロジェクトを終えたら、その予算と実行費をまとめて公開するのは当然だ。長野オリンピックの招致活動費の使途、不明金の内容が、なかなか公表されなかったことも記憶に新しい。隠し通そうとしたけれど、新任の田中知事によってやっとのことで、明らかにされたが、結果は不明のままだ。

私は、やっぱり東京が破れて、リオに決まったことの方が良かったと思う。私が敬愛する黒い真珠、サッカーの神様、ペレーさんが出てきたところで、こりゃ、東京は負けると確信した。ペレーは、ブラジルの英雄で、全国民の顔だ。石原都知事とは、政治とスポーツの違いはあるけれど、国民からの支持が全然違う。リオのヌズマン招致委会長の演説は、新聞記事で読んだのだけれども、この演説が決定打だった。この演説には、ブラジル国民の熱い想いが込められていた。会場では、圧巻だったのではないか。「近代五輪は欧州で30回、アジアで5回、オセアニアで2回、米国での8回を含む12回が北米で行われた。だから、今、初めて南米で開きたい。ブラジル、リオは準備が出来ている」、そしてブラジル中央銀行総裁、ルラ大統領が情熱的な演説だった。

100年前から、ブラジルへは、日本からたくさんの移民が海を渡って出かけた。大国ブラジルは日本人移民を受けいれてくれた。サッカー好きの私にとって、子供の頃は、サッカー王国ブラジルが憧れの国だった。今でも、その想いは変わっていない。

日本とは地球の裏表の位置にあるが、親近感をもつ国だ。おめでとうと、祝意を表したい。

ブラジル、リオは勢いのある国、都市だ。2014年にはサッカーW杯がブラジルで開催される。2016年はオリンピックだ。

楽し過ぎるぞ。サンバじゃ、サンバ、サンバ。

追記

091010 朝日新聞朝刊に、石原都知事が昨日の記者会見で、招致活動費150億円の使途の内訳を公表することに関連して、「財政再建の余剰分であり、東京の財政は痛くもかゆくもない」「余剰分で夢を見ようと思ってやったのは間違いじゃない」と述べた、とある。

この男は、狂っている。死を直前にして、狂気が爆発することがある。私の父が亡くなる寸前、父の口から出る言葉や行動は全く狂人のものだった。今の石原都知事と同じだ。きっと都知事としての死期、寸前なのだろう。早く知事を辞めてもらった方が、東京都のため、国のため、皆のためには、いいのではないか。スポーツマンは、潔(いさぎよ)くなくっちゃ。

 

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091004

朝日・朝刊

天声人語

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昔あった大学入試の合否電報ふうに言えば、「人魚姫はほほえまず」といったところか。デンマークでの国際オリンピック委員会総会で、東京は2016年の開催地に落選した。ほほえみを得たリオデジャネイロは南米初の開催になる。

残念な人も多いだろうが、祝福したい結果である。「五輪の歴史に新しい大陸を仲間入りさせてほしい」とブラジルのルラ大統領は語っていた。ちょうど50年前、「アジア初」を訴えて開催を勝ち得た日本の姿に、その言葉は重なっていく。

あのとき日本は、「五輪という花を初めて東洋にも咲かせて、五つの輪を完璧なものに近づけてほしい」と支持を広げた。五輪の理念と響きあう訴えには、やはり力がある。決選の投票ではリオが圧勝し、さらに一歩「完璧」に近づいたといえる。

ブラジルは2014年にサッカーW杯も開く。すぐ後の五輪開催は、盆と正月が立て続けに来るようなものだ。胃もたれしないか心配になるが、そこはお祭り好きの国。大いに張り切り、楽しむだろうと知人のブラジル通は見る。

かってリオを旅した三島由紀夫は名高いカーニバルに圧倒された。「ホテルの窓を閉めたって、眠れるどころではない」「日本人は、腰を抜かす他はない」と、リオっ子の気質と熱気に脱帽している。人々が「祭り疲れ」する心配はないようである。

日本からの移民が多く縁浅からぬ国である。もろもろの課題を克服して、五輪の新天地でどんな大会を見せてくれるのか。サンバのリズムなど思い出しながら、はや興味は尽きない。

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091004

朝日・朝刊

社説/五輪リオ

南米初への大いなる期待

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52年ぶりの東京五輪の夢は消えた。だが落胆している人の耳にも、地球の裏側からサンバのリズムに乗る歓喜の歌声が届いていることだろう。

カーニバルで知られるブラジルのリオデジャネイロに7年後の夏、聖火がともされることになった。

コペンハーゲンで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会で、リオが東京、シカゴ、マドリードを振り切り、16年夏季五輪の開催都市に選ばれた。南米初の開催である。

招致をめぐる大混戦の中でルラ大統領やサッカーの王様ペレー氏らが「南米の若者のために、五輪を新たな大陸にもたらしてほしい」と訴え続けた。それがIOC委員の心を幅広くとらえたのだろう。

ブラジルは中国、インド、ロシアとともにBRICs(ブリックス)と呼ばれ、世界に存在感を増す有力な新興国の一つである。ルラ氏はG20の顔でもある。中南米諸国や他の大陸の途上国への支援呼びかけもリオ五輪への共感を広げる効果があったに違いない。

ブラジルには約150万人の日系人が住み、日本からの移民が始まって100周年を昨年祝った。2014年のサッカーW杯開催国にも選ばれており、世界の耳目を集めるスポーツの祭典を立て続けに開くことになった。

南米大陸は、経済や資源外交でもこれからの日本にとって重要性を増す地域になろうとしている。五輪を通じてこの地域に日本人の目が向くことは必ずやいい影響をもたらすだろう。

五輪開催地としては犯罪率の高さといった問題が指摘されてきた。だがこれからに期待したい。スポーツを通じて、若者の非行を防ぐ政策が実を結びつつある。リオを推した委員は、街と市民の負の側面ではなく、潜在力を評価したいといえる。

スポーツの持つ力が人々に夢を与え、社会の活力を生み出す。それはどの国にも通じることだ。五輪はブラジル国民の自信を大きく育むだろう。

総会会場にはオバマ大統領や鳩山首相らが乗り込み、誘致を競い合った。各国の世論を背に火花を散らし合いながらも、開催決定の後は互いに健闘をたたえあう。そんな首脳外交もいいものだ。

磐石の財政やコンパクトな会場配置を柱にした東京の提案は評価を得た。鳩山首相の演説も、2020年までに温室効果ガス排出量25%削減するという野心的な目標をいれたもので力があった。12月にはCOP15でのより厳しい交渉が待ち受けている。

東京への誘致は、「世界初のカーボンマイナス(二酸化炭素削減)五輪」を訴える試みだった。敗れたとはいえ、今後の都市づくりに生きれば、これまでの誘致の努力も決して無駄にはなるまい。

「ケ」って漢字なの?

先日、弊社が企画しているプロジェクトに融資をしてもらうため、某金融機関と打ち合わせをした。日ごろお世話になっている担当者の上席の人も同席していただいた。その上席の方が私にくれた名刺には、役職と名前、取締役「大ヶ口太郎」(おおかぐち、たろう)とあった。

あの、少し教えていただきたいのですが、「大ヶ口」の「ヶ」は漢字なのですか?

浅学で小心者の割にはずうずうしく何でも知りたがる性質(たち)でして、ぬけぬけと尋ねてみたのです、その取締役に。「ケ」は「が」とも読む。宮ヶ瀬ダムとか、相撲取りの琴ヶ嶽とか、「ケ」と書いて、「が」と読む。だから、この取締役さんの苗字の「大ヶ口」の「ケ」は、片仮名ではなさそうだ、平仮名でもない、それじゃ漢字なのかと、考えついた。漢字というよりも、漢字もどきなのか。

手許にも「ケ」があった。私が今住んでいて会社の所在地でもあるのは、保土ヶ谷区だ。ここにも、「ケ」があった。どうも、ここでの「ケ」は、どのような使われ方をしているのかを辞書に教えを求めた。大辞林(三省堂)によれば、この「ケ」は連体修飾語を表す格助詞「が」に代用している、ということらしい。それ以外にもいろいろあるようだから、下の各解説をお読みください。

そんなこんなで、今回の学習は「ケ」についてです。

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☆日本国語大辞典、小学館ではーー

け【け・ケ】《付記》=かたかなの「ケ」を、物を数える「一カ年・一コ」の「箇」に代用することがあり、近来は「一ケ・ケ」等を、「イッケ・ニケ」等と読むようにもなった。また、「君ケ代」「越ケ谷」「八ケ岳」のように連体助詞の「が」にあてることがある。これは前例の「三ケ日」(さんがにち)等の「ケ」の転用である。これらの「ケ」は、もともと「箇」の略体「个」から出たもので、かたかなとは起源を異にするが、字型としては区別はなくなっている。

☆大野晋「大野晋の日本語相談」、朝日文庫ではーー

「ケ」という表記のもとの字は「箇」という漢字です。「箇」は、物を数えるときの助数詞として使われました。(中略)、ですから「ケ」という書き方は、すでに鎌倉時代には行われていたと見られ、これは先の「箇」の竹かんむりの最初の「ケ」だけを書いたものと判断されます。これを始めたのは多分僧侶だったろうと思います。(中略)

この用字法は便利なので、その頃から長い間にわたって広く使われてきました。そこで今度は、数量に何の関係もないところでも「が」の音をもつ地名などにも使われるようになり、「光ケ丘」「八ヶ岳」と、ヒカリガオカ、ヤツガタケなどの場合にも、がの音を表す文字として」ケ」を書くようになりました。

☆「言葉に関する問答集 総集編」文化庁編ではーー

ところで、数詞に続けて物を数えるときには、旧表記では「五ヶ所「五ヶ条」のように小さく「ヶ」と書くこともおこなわれた。また、固有名詞の場合にも「駒ケ岳」「槍ヶ岳」のように書かれる。これらは、一般には、片仮名の「ケ」を書いて「カ」または「が」とよむのだと意識されているが、本来はそうではない。この「ケ」は片仮名ではなく、漢字の「个」(箇と同字)又は「箇」のタケカンムリの一つを採ったものが符号的に用いられてきたものである。

この本を彼にあげたのは、誰だ

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書名は、心に龍をちりばめて

作者・白石一文

発行・新潮社

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先日、事務所の整理をしていたら、こんな名の本が弊社のプロジェクト資料に混ざっているのに気付いた。見つけた場所は、一人離れた場所に陣取っていた小さんの机の脇にあった棚でした。私はこの本を手にして、しばし考えた。小さんが、どうしたのだろう、こんな激しい本をどうして読んだのだろう。どういう事情があったのだろうか。不思議でしょうがなかった。この本は、還暦を迎えた男の読み本ではないぞ。

この本の内容は、この本を売るための広告にした文章を引用させていただいた。男と女の愛憎劇の過激版だ。性、ヤクザ、肉親、男と女、薬物、暴力、生い立ち。

誰もが振り返るほどの美貌をもてあます34歳のフードライター・小柳美帆は、政治部記者・丈二との結婚を控えたある日、故郷の街で18年ぶりに幼馴染みの優司と再会する。幼い日、急流に飛び込み、弟の命を救ってくれた彼は今では背中に龍の彫り物を背負っていた。

出生の秘密、政界への野望、嫉妬と打算に塗(まみ)れる愛憎、痺れるほどの痴情、そして新しい生命の誕生ーー。

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小さんとは35年来の友人です。彼とは同じ学窓の出だけれども、私は東伏見のグラウンドを本拠地にしていたし、彼は本部校舎周辺を根城にしていた。そんな二人は、同じ会社に入社したことで知り合った。二人とも10年近くでその会社を辞め、縁があって、また10年前頃から同じ会社で働くことになった。学校を卒業してからは、友人として彼と酒を飲む回数が一番多かった。彼の父母とも兄とも親しくお付き合いさせてもらった。それで、彼の性格や家族のこと、彼を取り巻く人間たちを詳しく知ることになってしまったのは、当然のことだ。子どもの頃の近所の友達から小学校、中学校、高校、大学の友人、それから我ら同期入社の仲間、それから彼の職場仲間、それからちょっと外れた友人等を私はことごとく見てきた。

そんな彼から、こんな本を、お前にあげると言って、手渡された。顔には何やら意味不明な微笑を浮かべていた。

それからこの本を読み出したのですが、読み進めていくうちに、頭の片隅にどうしても引っかかるものが生じてきたのです。

彼は何故、この本を読もうとしたのだろうか。自らの小遣い銭で買ったのだろうか。いや、こんな本を彼が買いっこない、とも思った。借りたのだったら、私にくれないはずだ。ならば、誰かから貰ったのか。誰から? 身内からとは思えない。友人か?友人と言ったって、私たちの年並みなら、こんな本を選ぶだろうか。貰ったのは、女からか?女なら可能性はあるか、ないか。女と言ったって、どんな女だ。彼とどういう関係の女か。清き関係の友人ならば、こんな本の話題は出てこない。きっと特殊な関係の女だ。でないと、こんな本は選ばない。特殊な関係って、何だ。それ以上の詮索は、危険だ。

そんな思いを巡らせて本を楽しんでいた。そして、ある日、ふと思いついたのだ。見落としていた彼の家族の娘さんの仕事のことだった。娘さんは、大手の芸能プロダクションに勤めていて管理職に登りつつあると聞いている。彼女ならば、芝居や映画や、何か仕事になるものはないかと、常々アンテナを拡げていなければならない、そんな類の仕事についていたのだ。私達のありふれた世界から、すこしでもビヨンドしてないと、仕事としては取り上げられない。彼女にとって、この本はただのありふれた題材に過ぎなかったのか、興味が湧かなかったのだろうか。仕事に採用できるかできないかのチェック後、無用になったものを、尊敬する父親にプレゼントしたのだろう。

これだ。これしかない。

どうですか、小さん。この私の推察は?

2009年10月5日月曜日

亀井静香先生、太っ腹!!

亀井静香金融相は、頑張っている。私にとっては、今、救世主のような存在になりかけている。神さま仏さま、亀井大明神さまだ。私の会社はこの5年間で、規模を大きくした。そして、もう一段、高望みした時に、この世界同時不況の嵐に巻き込まれ、まさに吹き飛ばされようとしている。20年ほど前のバブル崩壊から何とか乗り越え、これからは、リスクを最大に回避しながら、お客さんのため社員のため、不滅の会社を作りたいと思ってやってきた。ところが、またもや米国のサブプライム問題に端を発し、今度は世界を丸ごと同時不況に陥った。この影響が、強烈だ。

3~4ヶ月前には景況が少し良くなりだしたのでは、と思う節があったのだけれど、どうも、今日(091004)、再びデフレスパイラル傾向にあるように、勘や感覚、肌でも感じる。魔のデフレスパイラルだ。この渦に再び、何もかも沈(ちん)しそうだ。

住宅ローンでゆとり返済を利用している人の多くが、ローンを組んでから10年目に当たる、去年から今年にかけて、月々の返済が滞りだした。私の会社の資金繰り、私の個人的な住宅ローンの返済も、同じ状態に陥っている。金融機関の担当者とは、密に打ち合わせをしている。自宅を競売に付される件数が、対前年比2倍になっていて、この事態に愛のある政策を打って出る政党はないのか、とこのブロゲでも嘆いた。衆議院選挙の前のことでした。

選挙の結果、民主党が圧倒的に勝って、新任の各大臣の選挙公約を実現すべく活発な発言が小気味いい、その中でも、亀井金融相が、打ち上げた「モラトリアム法」の制定が、私には度肝を抜かされた。まさか?というのが正直な感想だった。ところが、亀井大臣は本気なのだ。民主党の幹部はしかめっ面のようだが、連立内閣に参加している国民新党の党首で金融相だ、民主党としても無視するわけにはいかない。

モラトリアム法、ここには大きな問題が含まれているのは、私にさえ良く判る。危険千万だ。毒がある。また、日本経済全体にも悪影響が多いような気もする、が、私の会社も、国も同じだと思うのですが、ここは時間稼ぎが必要なのです、軟着陸するための時間が不可欠なのです。

かって、このモラトリアム法は日本では2度経験しているそうだ。関東大震災の時と昭和恐慌と言われた時だそうだ。その時のことは、今日のことのためにも、学習しておかなくてはならないな、と思う。

そんな、今日(091004)、友人が君ならもう読んではいるだろうけれど、と言って、新聞の切抜きをくれた。私はこの記事は読んではいたが、読めば読むほど、これからの推移が気になりだして、この新聞記事も転載させていただいた方が、後日のためにもなるのか、と思いきやキーボードを叩いた。

ーーー以下、全文朝日新聞の記事ですーーー

銀行からの借金返済の猶予をめぐり、亀井静香金融相の所属する国民新党が「元本だけでなく金利の一部も含めて3年程度猶予する」との独自案を固めた。民主党は利払いの猶予については慎重な姿勢で、「貸し渋り・貸しはがし対策」の内容を固める9日に向け、両者の調整が焦点になりそうだ。

金融庁では前日発足した「貸し渋り・貸しはがし対策検討会議」が30日も開かれた。臨時国会に提出する法案の素案を5日までにまとめ、大塚耕平・金融副大臣らの2次検討チームに引き継ぐ。

国民新党の独自案は、借り手の企業の経営状況を見て、立ち直る可能性が高い場合は金利も猶予するという内容。党幹部は「必ず実現させる」と述べ、亀井氏も30日のテレビ番組で「対象としては金利も含めて検討している」と明言した。国民新党が意気込む背景には返済猶予が党の「目玉政策」になっている事情がある。国会議員8人の小政党ながら、国民にPRできれば求心力も高まるからだ。

金利を猶予すれば、借り手は資金繰りの余裕が増す。一方で銀行側は資金を貸した「対価」が一時的にでも得られなくなり、当面の利益にも影響する。

一方、民主党は藤井裕久財務相や平野博文官房長官らが、利払いの猶予については当初から慎重な対応を求めていた。鳩山由紀夫首相も29日に記者団に対して「銀行も当然やっていけないから金利の部分だけは支払う。元本の返済は猶予する形の法案のあり方を考えてみたい」と述べている。

与党の中で民主党は圧倒的な比重を占めるが、この問題は担当相である亀井氏の影響力は大きい。亀井氏は30日、日本商工会議所の岡村正会頭と会談。岡村氏は「中小企業を倒産から守りたいという理念は正しい」と述べた。亀井氏は今後、銀行業界や中小企業の関係者らとも会って、政策への理解を求めるとみられる。

(関根慎一、多田敏男)