2010年5月30日日曜日

首相の普天間「決着」

先の衆院選で民主党の鳩山由紀夫代表は、普天間飛行場を国外、最低でも県外に移設するんだと大見得を切った、それ以外にもできもしない、鼻先にニンジン型の利益誘導の戦法で、大量の票を獲得、そして政権交代を実現させた。民主党代表の鳩山氏は首相、総理になった。特に沖縄県民には圧倒的に支持された。沖縄の人々の積年の思いを、一票に代えさせた。期待させて、、、そして、裏切った。

それから、民主党を含めた三党連立政権は、その後、政治とカネ問題以外にも、ゴタゴタは続いた。このゴタゴタ、メッチャクチャの一つ一つは、ここでは触れない。まだまだこれからもメッチャクチャが続きそうだなので、参院選挙前にはこのブログでその「総集編」を考えている。29日の新聞は、辺野古移設を閣議決定したことをとりあげた。新聞には、多くの国民、特に沖縄の人々の失望や怒り、政権与党への不信の言葉が溢れていた。

以下は5月29日の朝日新聞・朝刊の記事を転記した。

鳩山由紀夫首相は28日夜、臨時閣議を開き、この日午前に発表した日米共同声明を確認し、米軍普天間飛行場(宜野湾市)を名護市辺野古周辺に移設するとした政府方針を閣議決定した、これに先立ち社民党党首の福島瑞穂・消費者担当省が閣議決定への署名を拒んだため、首相は福島氏を罷免、同党は連立政権離脱の検討に入った。首相は記者会見で「5月末決着」の前提としていた地元と連立与党の合意が得られなかったことを認め、陳謝した。政権内では首相への失望が広がっており、政権運営は厳しさを増している。

MX-3500FN_20100530_160113_001

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

新聞の題字だけを拾い書きしておこう。題字を読めばその記事の内容は概(おおむ)ね想像できる。

拒否の福島氏を罷免/首相謝罪「沖縄傷つけた」/社民、連立離脱論強まる

政権一層の弱体化/見識なき政治主導の危(あや)うさ

砂上の日米合意。実現困難、普天間固定化

社民覚悟の罷免。「首相に正義ない」

修正最小限、歓迎の米

官のネットワーク構築を/日米の信頼関係傷つけた/振興策で沖縄抑えられぬ

失望と怒り移設厳しい・沖縄知事

首相誤算の連続=県外「もう言わない」心算がーー/「徳之島は命綱」崩れた」青写真/孤立の末「合格点にはほど遠い」

首相会見要旨「沖縄の理解得られてない」

基地の考え方福島氏と根本的に違った

社民は沖縄裏切れぬ/党の筋通した

日米共同声明 米の意向色濃く反映/沖縄負担減一部盛る

野党批判=沖縄の理解ない、必ず破綻

中国・鳩山政権の不安定化懸念/韓国・朝鮮半島有事にらみ歓迎

金が来ても辺野古の海に捨てて

期待は幻、沖縄怒る/切捨て また/基地の痛み共有しない国

徳之島3町長と知事=訓練受け入れ反対姿勢確認

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

20100529

朝日・朝刊

社説/首相の普天間「決着」

政権の態勢から立て直せ

ーーーーーーーーーーーーーー

これが、鳩山由紀夫首相の「5月末決着」の姿だった。深い失望を禁じ得ない。

米海兵隊普天間飛行場の移設問題は最後まで迷走を続けたあげく、政府方針が閣議決定された。臨時閣議に先立ち発表された日米共同声明とともに、移転先は名護市辺野古と明記された。

これは、首相が昨年の総選挙で掲げた「最低でも県外」という公約の破綻がはっきりしたことを意味する。首相の政治責任は限りなく重い。

首相は決着の条件として、米国政府、移転先の地元、連立与党のいずれの了解も得ると再三繰り返してきた。

しかし、沖縄は反発を強め、訓練の移転先として唯一明示された鹿児島県徳之島も反対の姿勢を崩していない。

社民党党首の福島瑞穂・消費者担当相は国外・県外移設を貫くべきだとして方針への署名を拒み、首相は福島氏を罷免せざるを得なくなった。連立の一角が崩れたに等しい打撃である。

「5月末決着」という、もうひとつの公約すら守れなくなることを恐れ、事実上、現行案に戻ることで米国とだけ合意したというのが実態だろう。

地元や連立野党との難しい調整を後回しにし、なりふり構わず当面の体裁を取り繕おうとした鳩山首相の姿は見苦しい。

 

同盟の深化も多難

この「決着」は、大きな禍根を二つ残すことになろう。一つは沖縄に対して、もう一つは米国政府に対して。

政権交代の結果、普天間の県外移設を正面から取り上げる政権が初めて誕生した。県民が大きな期待を寄せたのは当然であり、そのぶん反動として幻滅が深くなることもまた当然である。

日米合意は重い。だが辺野古移設は沖縄の同意なしに現実には動くまい。首相はどう説得するつもりなのか。

それが進まなければ、2014年までの移設完了という「日米ロードマップ」(行程表)の約束を果たすことも極めて困難になる。それとも強行という手段をとることも覚悟の上なのか。

一方、米国政府に植えつけてしまった対日不信も容易には取り除けない。

きのうの共同声明は「21世紀の新たな課題にふさわしい日米同盟の深化」を改めてうたった。両国が手を携えて取り組むべき「深化」の課題は山積している。だが、普天間問題の混乱によるしこりが一掃されない限り、実りある議論になるとは考えにくい。

私たちは5月末にこだわらず、いったん仕切り直すしかないと主張してきた。東アジアの安全保障環境と海兵隊の抑止力の問題も含め、在日米軍基地とその負担のあり方を日米間や国内政治の中で議論し直すことなしに、打開策は見い出せないと考えたからだ。その作業を避けたことのツケを首相は払っていかなければならない。

「問い」あって解なし

普天間問題の迷走は、鳩山政権が抱える弱点を凝縮して見せつけた。

成算もなく発せられる首相の言葉の軽さ。バラバラな閣僚と、統御できない首相の指導力の欠如、調整を軽んじ場当たり対応を繰り返す戦略のなさ。官僚を使いこなせない未熟な「政治主導」。首相の信用は地に落ち、その統治能力には巨大な疑問符がついた。

もとより在日米軍基地の75%が沖縄に集中している現状はいびつである。県民の負担軽減が急務ではないかという首相の「問い」には大義がある。

しかし、問いには「解」を見いだし、実行していく力量や態勢、方法論の備えが決定的に欠けていた。

普天間に限らない。予算の大胆な組み替えにしても「地域主権」にしても、問題提起はするものの具体化する実行力のなさをさらしてしまった。

首相と小沢一郎幹事長の「政治とカネ」の問題や、利益誘導など小沢氏の古い政治手法も相まって、内閣支持率は20%を割り込むかというところまできた。鳩山政権はがけっぷちにある。

55年体制下の自民党政権であれば、首相退陣論が噴き出し、「政局」と永田町で呼ばれる党内抗争が勃発するような危機である。

しかし、鳩山首相が退いても事態が改善されるわけではないし、辞めて済む話でもない。誰が首相であろうと、安保の要請と沖縄の負担との調整は大変な政治的労力を要する。そのいばらの道を、首相は歩み続けるしかない。

そのためには民主党が党をあげて、人事も含め意思決定システムの全面的な再構築を図り、政権の態勢を根本から立て直さなければならない。

参院選の審判を待つ

何より考えるべきなのは鳩山政権誕生の歴史的意義である。有権者が総選挙を通じ直接首相を代えたのは、日本近代政治史上初めてのことだ。

政治改革は政権交代のある政治を実現した。永久与党が短命政権をたらい回しする政治からの決別である。選ぶのも退場させるのも一義的には民意であり、選んだらしばらくはやらせてみるのが、政権交代時代の政治である。

歴史的事件から1年もたたない。政治的な未熟さの克服が急務とはいえ、旧時代の「政局」的視点から首相の進退を論じるのは惰性的な発想である。

普天間への対応も含め、鳩山首相への中間評価は間もなく参院選で示される。首相は「5月末」に乗り切れても、国民の審判から逃れられない。

2010年5月26日水曜日

ええ~写真や

昨日(20100525)、池袋にある金融機関にプロジェクト資金の借り入れの手続きに出かけて、その帰りの電車の中で、網棚にカバンを置こうとしたら、そこに捨てられた日経新聞があった。貧乏性の私はこういう場合、必ず手にとって読むことになってしまうのです。新聞の時も、雑誌、マンガの時も必ず手にするのです。恥ずかしくて目を伏せたくなる雑誌も時にはあるのですが、これは私の秘かな官能を刺激してくれるので、カバンの中に蔵(しま)って、後のお楽しみ、ってとこか。この習慣は、私が田舎から東京にやってきてから始まったので、42年の歴史がある。さすがにゴミ箱に捨てられたものを、ガサガサ、ゴソゴソ、穿(ほじく)り出すことはしませんが。

この新聞を手にとってペラペラめくっていると、俄然、衝撃力のある写真が目に入った。これは、この写真は本もののペレーとマラドーナ、ジダンではないか。この三人が偶然出くわしてこのような状況になったのではないだろう、何かの企画で撮った写真とはいえ、私にとって、一度目にしてしまった以上、この新聞を簡単には捨てられない。明日、水曜日は営業が休みだ。知的所有権や著作権、味噌も糞もあるものか、我が物にしてしまうのが、山岡 保の本能のおもむくままの流儀だわい。このブログに無断使用させてもらった。貧乏人の私に、世界の大ブランドがケチな損害賠償請求なんてありえない、笑止千万だ。

この写真は全15段片面を使った、LOUIS VUITTO の広告だったのです。

写真を勝手に我が物にしてしまった、その罪滅(ほろ)ぼしにと、せめて広告コピーも併せて転記しました。このコピーは新聞紙面では、写真の下に書かれていました。

ルイ・ヴィトンの商品には縁がなく、感謝の気持ちを購買することでは表せないが、この写真を使ったコマーシャルのお陰で、私以外にも多くの人が喜んでいることでしょう。ルイ・ヴィトンに感謝もしているんです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

3人の類い稀なる人生という旅。伝説のゲーム。

カフェ・マラヴィラス、マドリード。

ペレ、ジダン、マラドーナが語るーーーlouisvuittonjourneys.com

 

ルイ・ヴィトンは地球温暖化防止プロジェクトを支援します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

20100525

日経新聞・朝刊

ルイ・ヴィトンの広告より

MX-3500FN_20100526_115611_001

2010年5月22日土曜日

野良猫に餌、加藤元名人敗訴

私の知人にも、野良猫に餌を上げている人がいる。又、その人は自宅に20匹近い野良猫を保護している。自宅の近くに現われる野良猫は、どの猫も確認している。初めて見かけた猫は、捕獲器で捕まえて保護する。そして動物病院で、病気に罹っていないか、お腹に虫をもっていないか、エイズに感染していないか血液検査もする。体に異常がなくて、野で耐えられるようなら、不妊や去勢手術をしたうえでリリースするか、保護して里親募集をする。病気に罹っていた場合は、動物病院で治療してもらい、知人の家の中で仲間と暮らす。病気が治り人間との生活に慣れてくると、ネットで里親募集を行なう。

保護した野良猫を、動物病院で診てもらったり治療してもらうのですが、このような活動している人のために、治療費や薬を割引している病院も数多くある。不妊や去勢手術、ワクチンも特別料金では有り難い、理解ある獣医さんや動物病院には本当に感謝しています、と知人。でも、個人が自分の生活費以外に負担するには高額だ。このような活動をしている人は、数多くの猫を保護するのですから、尚更だ。

相性の合った里親に恵まれた猫は幸せだ。相性チェック、里親になるための資質、条件は厳格だ。ネットでの里親募集なので、里親さんは何処からともなく反響がある。関東周辺なら手軽だが、北海道の小樽や富山県の里親希望者に猫を届けに行ったこともあるらしい。でも、知人は良縁を信じて嬉々として行動する。猫を預ける側と猫を受取る側は、猫の今後の安らかな生活のための約款を締結する。

加藤元名人の場合は、屋外で20匹ぐらいに餌をあげていたとのことだが、やはり20匹が集まってくるようでは、糞尿やその他のことで、周辺住民には何らかの嫌な影響を及ぼすことは避けられないだろう。このようなことで、周辺住民と諍(いさか)いを避けるために、知人は自宅で保護しているのです、と言う。

知人はお金のことは余り言おうとはしないけれど、お金の有り余った生活をしているわけでは決してない。活動の全てを自分のポケットマネーどころか、人間様用の生活費を削りに削って、猫の飼育費に当てているのだろう、その大変さは想像に難くはない。このように、配慮の行き届いた善良な保護者がいて、はじめて先ほどの加藤元名人のようなトラブルが発生しないのだ。

どうか、今回加藤元名人を裁判所に訴えた原告の方々、加藤元名人を訴えたのはよくよくのことであったのだろうが、町の彼方此方で、このように猫を保護して頑張っている人たちがいることを認識して欲しい。50匹以上も保護している人も知っている。ネットワークが自然に作られて、お互いに保護した猫の飼育を助け合ったりしているようだった。このような活動をしている人たちに、この野良猫問題を任せておくわけにはいかない。猫好きな人が勝手にやっているんでしょ、なんて簡単にすまさないで欲しい。

裁判で勝って、唯、よかったよかった、と言っている場合ではない。猫が好きな人も嫌いな人も、猫に迷惑な被害を受けた人も、自治体も、役割分担して解決を試みてみましょう。人間と猫、同じ生命を持ち合う動物の仲間たちだ。猫を挟んで、双方が恐い顔で睨(にら)み合っている場合ではない。優しい眼差しで微笑みを交わせるようになりたいものです。

この問題は、もう充分社会問題だ、行政の出番でもあろう。とりあえず、野良猫の不妊や去勢手術費ぐらいは早急に条件なしで自治体が全額負担すべきだろう。晴れて、早く実施されたし。

加藤元名人に餌をもらっている猫らは、元名人に感謝しながらも、立派な大人たち同士を、裁判といえども、人間どもに戦わせてしまったことを、悪いことをさせてしまったニャと心苦しく悩んでいることだろう。猫にはニャンにも罪はニャイ。

憎むべき敵は、猫にとっても人間にとっても共同の敵は、猫を捨てた罪深い人間の「奴」(アイツ)だ。

殺処分だけは絶対避けなくてはならない。

ーーーーーーーー

20100525

朝日・朝刊・社会

地域猫 トラブル防げるか?

ここの記事をダイジェストさせていただいた。

ーーー

「地域猫」とは、「決められたルールに従って、地域ぐるみで飼育をしている猫」。猫の住民トラブルに頭を悩ましていた磯子区が1999年、区民公募の検討委員会で「猫の飼育ガイドライン」をまとめ、提唱した。

ルールは四つ。①猫には不妊去勢手術をする ②餌の場所を決め、残った餌は片付ける ③フンの始末をする ④個体識別をして、健康をチェックする

動物病院やボランティア団体はその後、「磯子区猫の飼育ガイドライン推進協議会」を作って活動を拡大。現在27グループが同協議会に登録し、ルールに従って活動をしている。1年目で大半の猫に手術を受けさせ、「地域猫」として見守り始めた。だが、治療代や餌代の負担は変わらず、費用は年間で百数十万円に上る。協議会に登録することで、手術代が半額以下になる援助はあるが、活動費用ほぼ全てがメンバーの自腹だ。

「正直言って結構な負担ですが仕方がない。地域猫として認められるよう、細心の注意を払います」

難しいのは地域住民が猫を「地域猫」と認めなければ、地域猫活動は成り立たないところだ。

この記事を読んで、そんなに皆で猫のことを心配するのなら、家に入れてあげればいいのにと思ってしまう。外敵、人間が一番狂った外敵になるのですが、どうしても猫を苛める奴が必ず居る。それならば、家に入れてあげて、楽しく過ごそうよ、ということには、何か問題ありますか。

---------------------------

20100514

朝日・朝刊 社会

猫に餌「住民に被害」

加藤元名人「敷地外で続ける」

ーーーーーーーーーーーーーーーー

集合住宅に集まる野良猫に、将棋の元名人加藤一二三・九段=東京都三鷹=が餌をやり続けたために悪臭などが発生し苦痛を受けたとして、近隣住民らが、加藤さんに餌やりの中止や慰謝料など約640万円の支払いを求めた訴訟で、13日東京地裁立川支部で判決が下された。

判決は午後になった。判決によると、加藤さんは1993年ごろから野良猫に餌をやり始め、周辺に現われる猫が18匹になった。2002年には庭で生まれた子猫6匹について、餌をやったり、猫が凍死しないように玄関前などに段ボールやバスタオルを置いたりした。不妊去勢手術をしたため、現在は4匹まで減ったが、原告住民らは、猫のフンの始末を余儀なくされたほか、洗濯物に臭いがついたり、車に傷をつけられたりした。

市川正巳裁判長は判決の中で、「猫には、餌やりだけでなく、段ボールを用意してすみかを提供しているのだから、『飼育している』と認めるべきだ。猫は原告住民に様々な被害を及ぼしており、『迷惑を及ぼす恐れのある動物を飼育しないこと』と定めた管理組合の条項に違反し、住民らの人格権を侵害する」と慰謝料の支払いを命じた。加藤さんの「猫は『迷惑を及ぼす恐れのある動物』にあたらない」との主張には、「小鳥や金魚は含まれても、小型犬や猫はふくまれない」と判断。そのうえで「動物は家族の一員、人生のパートナーとしてますます重要になっているが、集合住宅にはアレルギーの人もおり、人と動物との共通感染症への配慮も必要。犬や猫の飼育を認めるようにするには集合住宅の規約の改正を通じて行なわれるべきだ」との考えを示した。

裁判では、「動物愛護」の精神による餌やり行為が、集合住宅における他の居住者の「人格権」を侵害するかどうかが焦点となった。

★人格権とは=生命や身体、自由や名誉など、個人が生活を営むなかで他者から保護されなければならない権利。侵害した場合は損害賠償が生じる。これまでの民事裁判の判決では軍用機の騒音、焼き鳥屋のにおい、水道水を汚染する可能性がある産業廃棄物処理場建設などが「人格権を侵害する」と判断されたケースがある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

20100514

朝日・朝刊

天声人語

ーーーーー

将棋の元名人で、現役55年を誇る加藤一二三さん(70)は、ものごとへの「こだわり」を語る伝説が多い。盤上では居飛車に棒銀、対局中のネクタイは長いが袖は短め、暖房は静かな電気ストーブで、出前は昼夜ともうな重ときめている。

タイトル戦を指す旅館で、音が気になると庭の人工滝を止めさせた話は有名だ。その九段にして、こだわりの一手が通らぬこともある。加藤さんが東京地裁立川支部に204万円の支払いを命じられた。

争いの舞台は、棋士が住む庭付き集合住宅。加藤さんは長らく玄関先や庭で、多い時には約20匹の野良猫に餌を与えてきた。増やさぬ努力をしたものの、フンや鳴き声に悩む住民たちが裁判に訴え、餌やり中止と慰謝料の判決が下った。

「迷惑」は加藤さんの鼻や耳にも届いただろうが、「動物愛護だ」と一歩も引かなかった。裁判所にも禁じ手と断じられ、控訴するそうだ。5年前の公式戦で反則をとがめられて以来の〈待った〉である。

住居ひしめく大都会では、餌づけで野良猫が居ついたといったもめごとが絶えない。飼い猫と野良猫の間に、皆でかわいがる「地域猫」がいる。フンの処理や不妊手術まで、近隣で責任を分かち合う工夫だ。

腹ぺこの子猫がにゃ~と鳴けば、誰しもぐっとくる。かといって、勝手に地域猫を始められても困るし、人になれた猫は虐待の的にもなりやすい。判決文に「一代限りの命を尊重しながら、時間をかけて野良猫の総数を減らしていく必要がある」とあった。「捨てないで」と受け止めたい。

2010年5月21日金曜日

天国のおっ母(か)さん、俺は元気です!!

懐かしい写真が出てきました。先日の黄金週間、久しぶりに生まれ故郷に戻った時、私が育った家を壊して新しい家に建替える際、解体現場から出てきたのです、と今や実家の大黒柱になった甥っ子が、取って置いてくれたのです。

母は平成14年の2月に、父は同じ年の11月に同じガンで亡くなった。

この写真は、今から15年ほど前、私と私の友人・小と吉と、父母の5人でニュージランドに行った時に、オークランドの上空遊覧ヘリコプターに乗った時に、操縦士の横に座った誰かが撮ってくれたものです。MX-3500FN_20100512_092149_001

ちょっとばかり仕事に余裕ができた時期でした。懐具合も、悪くはなかった。15年ほど前のことです。私は、気付かなかったのですが、世間ではバブっていると言われていた頃だったのです。父や母を何処かに連れて行ってやりたいと急に思いついて、田舎に電話した。仏教国で日本人には馴染みやすいかなと思って、タイと考えたのですが、気候とか、のんびり感を考えると、やはりニュージランドだった。

ニュージランドに行こうか? と。

「保、足が痛いから、そんな広い所を歩くのがシンドイし、よう行かんわ」

「そんなことないよ、飛行機で行くンやから、何もそんなに心配せンでも、ええよ。ホテルもド田舎にあって、日本語で通用するさかいに、何にも心配することはない」

こんな会話を、電話で何度も繰り返した。コテージ風のホテルは私の知り合いが、購入していて是非使ってくれと頼まれていたのです。母との電話での会話は、何んだか可笑しくて、歯車が合わない。ピ~ンと通じるものがない。母は何か、思い違いをしているのだろうと思っていた。

そしてある日、ついに気付いたのでした。ピンポ~ン。きっと、母はニュージランドを東京ディズニーランドと勘違いしているのだ、と。そして確認し合って大笑い、勘違いを楽しんだ。

この写真に戻ります。

ヘリコプターの定員は乗務員を含めて5人だったので、我が一行の5人全員が乗ることはできなくて、俺は、内心、誰かが私は遠慮しますからと言い出すのを待っていたのです。本音を言うと、母が、私遠慮するわと言うのを待っていたのだ。悪い息子だ。折角、旅行に連れ出して、それはないだろうと反省した。そんな私の悩み事なんかに、ちょっとも気にする風もなく一番先に乗り込んだのは母だった。

父は昔から機械が大好きで、珍しいものが大好きで、新しいものやちょっと変わったものがあれば、イの一番で見たり手に入れたりするお仁(ひと)だったのです。このヘリコプターに乗ろうかと尋ねたときに、快哉を叫んだのは父だった。

ヘリコプターの乗務員に父は、田舎言葉で何か喋っていたが、相手に反応がなくて、次第に怖い顔に変わった。意味が通じないことが不満だったようなのだ。

母の葬式の後の食事会で、親戚の人から、母は亡くなる前に「保にどこか遠い所に連れて行ってもらった」と、色んな人に言っては喜んでいたそうだ。ささやかな、私の親孝行の真似事だったのです。

2010年5月19日水曜日

宇治田原への帰省、望郷編その④

 

2010 050

 今日は、朝から「農業」だ。茶農家のお助けマンだ。一宿一飯の恩義に17貫の老体に鞭打って、働いて返さなくっちゃならん。甥の嫁は、早速私に野良仕事用の靴を用意してくれた。中国人が日常的に履いているような靴だった。働け、と言う意味だと理解した。

朝めしをご馳走になってから、甥・セと甥の嫁・ヤ、私と竹さんの4人は、茶畑に行って、茶の新芽が少し出ているのを、隙間のある黒いビニールで被せる仕事をした。このようにしてとれる茶のことを、一般的には「かぶせ茶」と言われている。玉露の一種なのです。

本格的な玉露と言えば、畑に並ぶ茶の木の全部を、棚を作ってその棚の上に菰(こも)といって、稲の藁を編んだものを被(かぶ)せるのです。最初は何も被せない状態で芽を少し伸ばし、それから菰を掛けて、横にもこの菰を張る。暫らくして収穫の時期を見計らって、この粗い菰の上に、さらに藁をばら撒いて、密閉度を高めるのです。そうすると、菰の中は薄暗く日射を完全に断つのです。日射を遮ることで、茶の甘味を呼ぶそうです。この菰を被せていく手順には、当然のことながらベストの決まりはあるのですが、一度にはできないので、芽の出具合から、あっちの畑、こっちの畑と張っていくようです。

この黒いビニールを被せる仕事は甥と甥の嫁の仕事になっているようだ。丘陵地に茶畑があるので、移動するだけでも足腰が疲れる。甥の嫁は、慢性的な腰痛だ。丘陵地は土壌の水はけがいいので、茶畑にはいいそうだが、嫁にとってはハードだ。彼女は、日焼けや虫よけのために頬っ被りをしていた。蛇が私の歩いている農道を横切った。私は飛び上がって逃げた。世の中で、借金取り以外は怖いものがないのですが、唯一蛇だけは苦手なのです。甥が予定していた範囲の仕事は、割と早く終わったので、もう少しやろうよと甥に言っても、まだ茶の芽が被せる状態ではない、と言う。少しの休憩。農道に仰向けになって寝転んだ。隣の雑木林は、風に揺れている。小さな雲が、大きな青空の中に、ぽつんと浮かんでいる。

2010 049 2010 044

ところで、この開墾畑はどうしたんだっけ?と甥に質問をした。私の子供の頃は、この開墾畑はなかったのです。この開墾畑は、40年前におじいちゃん(私の父)が12人ほどで組合を作って始めたのや、と甥。南地区の森林組合の入会地を開墾したのです。40年前と言えば、私が大学を卒業した頃だ。当初、計画段階では30人ほどの参加希望者がいたのですが、最終的に参加したのは12人だった。参加を取りやめた人からは、今更開墾して茶を作るなんて、時代の流れを知らない連中だと揶揄されたらしい。

そして、ここに費やした工事費や何やかやの借金は、20年前にオヤジ(私の兄)の時代に終わらせた、と甥。開墾畑の茶園は充分の収穫をもたらし、今や茶の木は老木化して、もう少し経つと老木を切り倒して代替ええをしなくてはならない時期にきているんです、その時は大変や、と甥。

その茶の木の代替えは甥がやることになる。この話をしていて歴史を思った。私の父が始めて、その借金は兄が最終的に支払い終え、その間は借金を払いながら収穫し、借金が終わって暫くした頃には茶の木の世代交代。このようにして産物を生みながら歴史は重みを増していく。そのことこそが、山岡家の財産になったのだと思った。

私の父は、ここの開墾畑だけでなく、いくつも畑や田を買い入れていた。昭和5年から15年ぐらいにかけてだろう。資金を借りたのは、何とか振興銀行だったり、殖産何とか銀行だったりで今はそんな金融機関はない。農地の売買を活発化するための国策で用意された金融機関だったのだろう。戦争が激化していくなかで、食料の自給率を高く維持するために、耕作もしない荒地を少なくしたいという国の施策でもあったのではと思う。父が死んで相続登記をするために権利書などを整理していたら、金融機関からの借り入れの書類がでてきた。父は頑張ったのだ。

兄も、実家の敷地に隣接している土地を買った。父も兄も農業という事業に意欲的だったのだ。

組合員の中から離作する人が出てきて、甥と兄はその離作した人が手放した茶園の管理から収穫を任されて、最初は全体の12分の1の広さだったのですが、今や4分の1くらいの面積の茶園の面倒をみている。隣の茶園が荒れ放題になると、虫や病気が発生した時など、隣接の茶園の持ち主は非常に困るのは当然で、営農を放棄する人は必ず隣接の人に相談を持ちかけるのです。そんな関係で、兄と甥が管理する茶園はどんどん増えてきた。

そういう環境の中なのに、今度は甥たちが次のチャレンジに入っていた。新たな開墾畑の造成に着手したのです。宇治寄りのくつわ池の近くだ。父が参加して作った開墾よりも、3倍以上の広さだ。何人かで組合を作って、隣町の森林組合の入会地を借りてそこの茶畑を、今(201005)、ほぼ造成が終わりかけていた。

隣町の森林組合の入会地なので、地代が高く求められて弱ったわ。排水の処理も当初町の土木課との打ち合わせをした通りにいかなくて、工事費が突出した分は、現金を用意できないので自分等で働いて処理をしたのです。工事費は国,京都府、宇治田原町からの補助で7~8割をまかなえるのですが、残りを組合員で均等に負担するのですが、やはり1世帯でも過分の負担になるらしい。説明してくれる甥の言葉はどこまでも頼もしい。

甥は仲間に恵まれているようだ。性格が温厚で人に好かれるのだろうが、何よりも、何よりもお茶に対する取り組みが真剣だ。その真剣さが仲間を呼び集めるのだろう。茶づくりの研修を重ね、たゆまぬ興味や研鑽をし続けることが、気分の張りになっているのだろう。

-----------------------------------------------------------------------------

2010 051

思いの外、茶の木に黒いビニールを被せる仕事が早く終わったので、午後は猪(いのしし)や鹿が作物を荒らしに来ないように、柵を作ってそれに電線を張り巡らす仕事をすることになった。柵に、電線を3段に一定の間隔で張るのです。電線が柵に触れるところは碍子(がいし)で離す。動物がその電線に触れるとビビっと電気が流れてそのショックで猪や鹿は逃げていく、その仕掛けをする。

ところで、上の写真は、その工事を始めた最初の現場なのですが、この場所というのが、私の田舎では比較的賑やかな所なのです。宇治から私の田舎に入ってくるメインの道路の側、50メートルと離れていない所から、このような電気の柵が作られているのです。私がこの田舎で暮らしていた40年前までは、考えられないことだった。猪や鹿がこんな住宅街にまで近づいてきていることに驚かされた。40年前にもそのような被害はあったことはあったのですが、人里離れた山の側ならば、しょうがないと観念してこのような柵や、定時に爆音を起こさせる装置で、闘っていたことはあったが、このような住宅街至近でのことはなかった。

府道から外れた、農道といっても立派なアスファルト道路を、夜、鹿や猪が歩いていることになる。田の所有者がそれぞれに自分の田を囲っているのですが、もっと効率よく大外回りを共同で柵を作るか、夜、見張りをたてるかした方がいいのではと思ったのですが、他所モンがいい加減なことを言うものではないと、口にチャックした。

現実に我等が宇治田原を後にするとき、高速道路の渋滞を避けたいと思って深夜1時に実家を出て横浜に向かったのですが、狸の陶器で有名な信楽で、1時20分頃新名神高速道路のインターに近づいた所で、鹿が山の裾野を歩いていたのを見つけた。助手席の竹さんは、別の場所でも2頭の鹿を見つけた。このようなことは、私が田舎に住んでいた時はなかった。異常な繁殖で、増えているようだ。

この事態には行政の出番だと思う。 宇治田原町の町長も、出納長も俺の後輩なんだけどなあ。教育長は中学校、高校の同期なんだけどなあ。どうにかせ~とか、、、

  2010 057

場所を猪の口に移動した。猪の口という地名は、害獣、猪君と関係あるのか。仕事の内容は先ほどと同じだ。

仕事に取り掛かる前に、甥の奥さんが作ってくれたお握りで昼飯をとった。久しぶりだ、山に囲まれた畑で地面に尻をどっぷり下ろして、青空を眺めた。新緑の樹木がすぐそこに大いに迫っていて、食欲がそそる。畑に背中全体で寝っ転がった。土の匂いがする。懐かしい匂いだ。五月の風は爽やかだ。鳥の鳴き声がすぐ近くに聞こえる。小川の流れる水音が気持ちいい。うとうとしていたら、甥っこが作業開始を告げた。

この茶畑は以前は水田だった。この田を茶畑にするときはオヤジ(私の兄)は反対はしなかったけれど、渋い顔をしたと言っていた。そりゃそうだよ、今から約50年前、1961年の9月16日に第二室戸台風が紀伊半島から関西地方を襲った。この台風は室戸岬に上陸して関西地方に大被害をもたらした。死者200名。この台風で、この水田の水源になっている池の土手が決壊して、池の水が、V字型の谷を大量の土砂を下流に流した。川も氾濫、その土砂は周辺の水田に流れ込んだのです。

我が家の水田は比較的上流の方にあったので、流れ込んできたのは大きな岩や、大木で量も多かったのです。この荒れ果てた土地を、父は母の協力のもとに復元したのです。その努力は相当なものだったと思う。父も若かったのだ。3反ほどのうち1反は全く瓦礫だけの荒地に姿を変えてしまったのです。何年かかったのか、私は分らないのですが、兄がその復元の仕事を手伝った記憶があるという。兄は長兄なので、その辺りから父の影響を受け、百姓として、山岡家の田畑を守ろうと思い始めたのだろうか。

この水田のすぐ上の方は全部、復元されずに長いこと荒地のままだった。大きな岩や、大木の大きな根が転がっていた。我が家の田は、復元した水田の中では一番荒れていたことになる。父に、この田も台風の後はこんなんだったんだよと上の方を指を差して教えてもらった。その荒地で、私と祖母は蕨(ワラビ)やゼンマイ、蕗(フキ)を採った思い出がある。

父と母、兄がそんなに苦労して復元した水田を、今度は甥が茶畑に変えてしまったのだ。甥は、父が目に入れても痛くないほど可愛いがった孫だ、兄にとっては掛け替えのない重要な後継者だ。深さ1メートルほど掘り起こして、土を掻き雑ぜて整地、そこに茶の若木を植えたのです。説明する語調に、覚悟が感じられた。兄も自分の息子がこんなに農業に興味をもってくれて、特に茶に対する意欲は並々ならぬものがあって、申し出は受けざるを得なかったのだろう。兄の複雑な気持ちが痛いように分る。兄は亡くなった父の思いのことも考えたことだろう。

2010 055

竹さんは作業中です。竹さんは電鉄の電気工事を主に扱っている会社の社員なんですが、この種の仕事は初めてです、と言いながら真剣そのものでした。

2010 058 

これが電源です。

2010年5月18日火曜日

宇治田原への帰省、望郷編その③

朝めしをご馳走になって、竹さんと甥・セは茶園畑の消毒に出かけた。

私と甥の嫁・ヤは自宅で暫く雑談を楽しんで、甥がやっている竹炭づくりの窯見学に連れて行ってもらった。百姓仲間の一人が始めた竹炭づくりを、ただの物見遊山で一人集まり二人集まり、今は8人ほどで本気でやっているらしい。竹炭づくりは、冬の農閑期の仕事だ。今の窯ができるまでに試行錯誤があったのですよ、各地の異なる土を持ってきて試してみた、窯の構造もいろいろやってみたのですが、失敗の連続でした、と甥。孟宗竹を使うのですが、この竹は私の田舎のそこらじゅうにあって、材料にこと欠かない。荒れ放題の竹林の整備と、竹炭づくりは一石二鳥でよくぞ思いついたものだ。

打ち合わせの小屋と、出来上がった竹炭を保管する小屋の2棟が、いかにも手作り風に建っていた。黒板には仲間の名前と予定が書き込まれていた。このうち真面目に来る奴は少しだけだそうだ。テーブルがあって、ビールの空缶がいっぱい散らかっていた。窯に火をつけたら、後は飲んでばっかりや。甥はいい仲間に恵まれていると思った。

ここで仲間達は、米作りのこと茶のこと、始まった大型の茶畑開墾事業をビール片手に自分の感じたこと学んだこと、教えられたこと、これからのことの情報交換を行なっているのだろう。

夜、夕飯の際、竹酢液を薄くして飲まされたが、強烈な臭いと味がした。喉の奥に液体の一部がくっついたのか、いつまでも気持ち悪さは取れなかった。家の周りに撒いたり野菜にかけて、虫が近づかないようにしたり、入浴剤になったり、殺菌や消毒効果もあるのです。竹炭は、本来の炭としての役割以外に、空気清浄効果、消臭作用、湿気吸収、カルキの吸着効果があるのです。今や、健康趣向の時代だ、よく売れるそうだ。

 

今回の帰省の大きな目的の一つに、父と母、祖母の墓参りがあったのです。祖母は私が結婚して2年目ぐらいで亡くなった。36年前のことだ。祖母は父や母には厳しかったのですが、私には特別優しかった。お通夜、酒に酔った私は、布団に寝かされた祖母の布団の中にもぐって寝た。おばあちゃんは、冷たかった。平成14年の2月に母が、11月に父が同じ年に同じガンで亡くなったのです。母享年81歳、父享年86歳でした。この年とその1年前は、2週間毎、1週間毎に見舞いに行った。死が日に日に迫ってきて、休日には居ても立っても居られなかったのです。距離にして片道450キロ、ドアからドアまで5時間はかからなかった。親を亡くして人間は一人前になる、とよく言われるけれど、父の葬式の夜、夢の中で父母にしっかり生きていけよ、と迫らて心臓がぎゅっと押しつぶされそうになった。父母の霊が、生身の私の中に忍び込んできて、私を励ましたのだ。その後、七回忌にも、会社の財務が緊急事態だったので参加できなかったのです。

2010 039 報国寺だ。

父と母の思いではいっぱいある。高校進学、2年間の浪人生活、大学、就職について、何から何まで事後承諾で認めてくれたことは、私のようなちょっと我が儘な人間にとって、ありがたかった。父は、東京大や京都大、日本大学は知っていたけれど、私の入学した大学は知らなかった。卒業して入社した会社の関連の電鉄会社の名前も知らなかった。母からは田舎を出て上京する時、二つの約束をさせられた。その一つは、偉くならなくても、お金持ちにならなくてもいい、田舎ではお兄ちゃんが一所懸命百姓で頑張っているので、お兄ちゃんの顔に泥を塗るようなことだけはしないでくれ、それってどんなことをしたら泥を塗ることになるのと聞いたら、警察だけにはお世話になるようなことはしないでくれということだった。もう一つは、東京は何でも高いから、食事をする時は店の入り口に「めし」とか「定食」とか書いてある暖簾がぶら下がっている店に入りなさい、レストランとか綺麗な入り口の店は高いから入っていけない、と言われた。母の忠告を神妙に拝聴した。

何年か前に兄は墓石を新しくした。兄はトコトン山岡家の跡取りだ。代々継いで来た生業を、彼は全くの百姓然として、格好よく、少しも揺るぎなく山岡家を守ってきた。一番身近な者として、深く感謝する。天晴れなことに、立派な跡継ぎの息子を育て上げた、これも偉業だ。

2010 042 2010 043 

田原小学校の校門だ。校門には維孝館と銘打ってある。田原小学校は昔、維孝国民学校と呼ばれていた。この維孝という名前はその後、中学校の校名に使われ、宇治田原町立維孝館中学校となった。両方とも、私の母校だ。担任だった先生はみんな思い出せる、小学校は川南、山本、中村、伊藤先生だ。中学校は、名前は出てこないが国語の先生、森本、山田先生だ。

自宅から小学校に通う時に必ず渡る橋があって、その橋の上から上流方面と下流方面に向かって撮った写真です。私が幼少の頃は、もっと川の水は豊富で、夏になると大人が大きな石で堰を作ってくれた。水かさを増した臨時のプールでよく泳いだものです。ここは、子ども仲間では初級コースでした。難関コースは別の川にあって、小学校の上級生になって挑んだ。唇が真っ青になるまで、体が冷えてブルブル震えながら、陽がかげるまで遊んだ。水際の草むらに竹かごを構えて、片方の足で、上方からガサガサ騒ぎ立て、休んでいる魚を追い立ててその竹かごに誘導するのです。捕れた魚は、ハヤ、フナ、ゴリ、ドジョウ、他にはタニシ、ゲンゴロー、ザリガニ、イモリなどだった。

2010 040

 

 2010 047

昨日、寄った城南高校の後輩・原の家にもう一度行ってみた。彼は居た。奥さんも居た。43,44年ぶりだ。高校のときは、ちょっと二枚目を気どった静かな子だった。何で、宇治田原なの? と気になっていたことを聞いた。彼のお父さんは、この宇治田原の出身で、就職したのが宇治市役所だったので、土地の値段は安いし、職場にも近いので、ここにしたんです、もう30年以上住んでいます、と話した。美味しいお茶、コーヒー、甘味をご馳走になった。一通り、城南高校が廃校になったことや、共通の知り合いの情報を聞かされた。情報は貰い放しだ。さすが、30年も住めば、この宇治田原の人々とも随分濃厚な人間関係を構築しているもんだと感心させられた。私の友人、親戚、恩師とも仲良くやっているのには、驚いた。でも、二人の空白の何十年間のことは何故か話題にならない。狭い宇治田原の町では。何処の、誰が、何をして、どうなったか?一瞬にして、情報は行き届くのです。原はもう充分宇治田原の地元民だった。帰りには焼酎をくれた。

私は、彼の顔を見て喋りながら、45年前のことを思い出していた。サッカーは下手糞だったのに、朝の授業の始まる前、昼飯の後、午後の練習と、時間をみつけてはボールを蹴っていた。真剣だった。午後の授業が始まって教室に入っても、頭から湯気が立ち上り、先生に、ヤマオカ、ちょっと廊下で頭を冷やして来い、と言われ廊下をうろちょろしていたもんだ。皆からは、ゲラゲラ笑われた。いっつも元気印の私はみんなの人気者でもあったのです。特にBグループの女の子たちに。

練習が終わって、ホンダのカブに乗って宇治川に沿って帰るのですが、そそり立つ山からちょろちょろ水が流れる小さな滝があっちこっちにあって、蛍の季節になると、何万匹の蛍がその滝ごとに、山肌から離れた闇のなかに光を点して宙に飛び交っていたのです。まるで夢の中の世界だ。その中を、お尻を後ろに引いて背を丸めて突っ切って行くのです。これは、俺様だけが特別な経験をしているのだ、と思っていた。

元社員が、元気な姿を見せてくれた

アーバンビルドの再建計画が具体的になってきた。元社員だった人が戻ってくれて、彼らは以前よりも、元気に業務に携わっている。取引のある金融機関とのリスケ折衝も、金融円滑化法の後ろ盾もあって、何とかいい方向で了解を取り付けられそうだ。

そんな中、再建計画の何本かの事業の柱に、リフォーム事業を本格的に立て直そうと思っている。このリフォーム事業については、私たちの会社及び関係会社においてなら、直ぐにでも実行できる仕事なので、即、今からでもやりましょう、と言うことになった。ところで、責任者が欲しいと思い当たり、適任者が周辺にいないか、思い巡らしてみた。

そんな時に思いついたのが、以前に弊社に入社して実力を発揮するまでもなく、退社を余儀なくされた思いでいただろうⅠ君に電話した。早速会社に来てくれて、私の考えていることを率直に話した。彼も、病気で苦しんだけれども、なんとか克服して今は某大手不動産会社のリフォーム部門でバリバリやっている、と報告を受けた。

どうしたんだ? そんなに痩せて体でも壊したのか? いや、違うんですよ、朝から晩まで、歩き回っているからです、忙しくて、体の贅肉が削(そ)がれたようです。女房も元気になりました。そうだよ、君が元気になったから、奥さんも元気になったのだよ。そうでしょうね。

そこで、彼が弊社とのことについて、言葉少なげに話してくれたことが印象的で、感動的だったので、書き溜めておこうと思った。

自分は御社にお役にたてるように、と張り切って入社した。勤務中もなんとかお役にたてるように、と思って一所懸命仕事をしてきた心算です。だが、思っていたようには成果が出せなくて、退社後も気になっていました。今日、電話をもらってノコノコやってきたのは、その辺の複雑な気持ちを一掃したかったこともあるのです。

山岡さんたちがやろうとしていることには、出来ることなら何でも、協力したい。今自分たちで、色々将来の起業のために考えている企画、優秀な職人さんの協力と紹介、コストダウンの方法、何でも開示しますし、そのノウハウを使っていただいて、御社の利益の積み上げに利用していただきたい。こんなことで、何とか恩返しをしたい、と言ってくれた。何か相談事があれば、いつでも来ますから、気楽に声をかけてください。

2年前、弊社の業務が急に悪化し、退社してもらったような形で去らざるを得なかった彼からの言葉は身に沁みた。この述懐を承る身に余る光栄、私は久しぶりに人間関係の尊さを感じた。ラーメン屋で定食を食いながら、彼を前にして幸せな気分でいっぱいだった。この男となら、一生付き合えると確信した。

2010年5月14日金曜日

犬のいる暮らし 、中野孝次さん

私が不動産屋の一経営者として悩み、苦しみ、七転八倒、獅子奮迅の激しい生活のなかで、中野孝次さんの本の中の「清貧」なんて言葉で平安な気分にさせてもらって、かつ自らの気持ちを正すようになった。また犬との楽しい暮らしを、私の気分そのもののように書かれていて、本の中の犬と私と中野さん、中野さんのような高名な文学者には迷惑かも知れないのですが、勝手に一体感を感じさせていただいています。私の変わり映えのしない生活に涼しい文章で癒してくれるのは中野孝次さんでした。

この中野さんの犬との暮らしの物語は、その著作「ハラスのいた日々」で、ワンワンと多くの読者をうならせた。この本については、次の機会に語るとして、今回は、中野さんの別の本「犬のいる暮らし」(岩波書店)の中で紹介されている丸山薫さんの詩を、私もこの本の中で初めて知ったのですが、どうしても犬と一緒に暮らしている人には、この詩を味わって欲しくなって、詩の部分の前後の中野さんの文章もまとめてそのまま転載させてもらった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                                                            MX-3500FN_20100514_095902_001

一度でも犬を愛し、犬との暮らしを経験した者にとっては、もはや犬がいない孤独な暮らしに戻ったあとでも、犬はよろこびを与える存在でありつづける。

丸山薫に「犬と老人」という詩があるが、これこそそんな事情をやさしく歌ったものだ。詩の中で、詩人はスピッツ種の仔犬を飼っていて、仔犬をつれて散歩に出ると、出会う人でその愛らしさをほめない人はいない。ある日犬をつrてて草原にいると、坂の上から粗末な服を着た老人が下りてきて、彼も犬に注目して立ち止まった。老人は「ほう、良い犬でごわすな」とほめ、珍しい種だとか、何を食べさせているかとか、いろいろ質問するが、詩人が素気なくあしらっていると、ふしぎなことに犬の方が老人にしきりに親愛の情を示した。尾を振って老人にとびかかってゆき、節くれだって大きな手ではげしく撫でさすられ、「みるみる奇怪な形のなかに消え入りそうに見えた」それから、ーーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「老齢(とし)でごわすな」

ふいに思ひ余った吐息をして老人が言った

「かやうな無心なものがなにより慰めになり申す

女房は墓になりました

子供は育って、寄りつかん

世間には憂きことばかり

終日(いちにち)、働いて帰るとかやうなものがじゃれついてくれる

もうそれだけで疲れは忘れるでごわすよ」

その言葉は不思議な滋味を滴(したた)らした

仔犬は這って、いそがしく草の穂を嗅ぎまはった

それから、彼のつぎの当たったズボンとシャツに跳びついた

老人は頭を低く突き出した

犬が惨苦に光る額(ひたい)の皺(しわ)を舐めはじめた

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そういう詩だが、詩人が中でいうようにこの老人の言葉と、老人に対する犬の反応には、なんともいえぬ滋味があって、わたしはこの詩が好きだ。短い言葉からも老人の現在の孤独と惨苦にみちた過去は明らかだが、それを愛らしい仔犬のふるまいが癒してくれるのである。こうなると仔犬はたんなる犬ではなく、何かの化身のようにさえ見え、この場景全体に慈悲の光が漂いだすような気がしてくる。

 

こんな文章を読んでいると、陽だまりでうとうとまどろんでいるいるときのような幸せな気分になるのです。

中野さん、有難うございます。無断転載違反覚悟の確信犯、山岡です。

 

     gonn 003 

(上の写真は、三女・ソが作った『造形』です。向かって左はツバサ、右はポンタ。真ん中はゴン、2年半前に死んだ)

2010年5月13日木曜日

選手も監督も、狂え!!

サッカー日本代表の岡田武史監督は今月10日、ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会(6月11日開幕)に臨む日本代表23人を発表した。選ばれたメンバーを見て、今の現状ならば、これでしょうがないのかと思う気持ちの中に、どこかツマラナい気持ちが消え去らない。ワクワク(沸く湧く)してこないのだ。私は、この一年、守備で中澤や闘莉王を脅かす選手、狂ったような攻撃的MFやFWが、突如として現われてくるのを楽しみに待っていた。

中村俊、長谷部、本田、遠藤、松井の5人はそれなりの個人技は持っているものの、自ら崩せる技量はまだまだ充分ではない、それでも無理して無理してシュートを放すこと、そして、連携してどれだけ相手布陣を崩せるか、トリッキーな場面をどれだけ作れて、その瞬間、瞬間にできた隙間をボールという刃先で切り込めるかだ。内田、長友は後ろから、横、裏にどれだけトリッキーな局面を自ら作り出せるか。攻撃の層を厚くして変化を持たせ、相手守備の少しの綻びを突くこと、これしかない。相手ペナルティーエリアに近付いた時、日本の選手が何人その近くに位置しているか、必ず相手守備にコントロールされていないこぼれ球が、思わぬ方向からころがってくるものなのだ。層を厚くしていなければ、このボールは狙えない。クリーンシュートなんか、絶対ありえない。

かって磐田でプレーしたこともある今ブラジルの代表監督を務めるドウンガーは、チームメイトを怒鳴りつけ、司令官としては強烈だった。あんな司令官を私は初めて見た。初めて見た時、この男は狂っていると感じた。そして彼は、着実に磐田の屋台骨を作り上げ、最大の功労者になった。このような強い司令官がこの代表チームに欲しい。仲良しクラブでは、第一次予選、1勝もできないだろう。選ばれたメンバーの中から、狂った司令官に誰でもいいから、名乗りを上げてくれ。私は、このチームの司令官は本田が、一番適任だと思う。彼が、相手を制するためのイメージを描けて、それを理性的に説明できて、自らそのモデルになり得るプレーができたならば。本田なら、狂った司令官になれる。稲本にも、その素質は充分持ち合わせている。どうかね稲本君、ここらで一発、君の総仕上げとして大いに狂ってみないか。中村俊や遠藤、中澤では無理、今までと何ら変わらない。岡崎、君は刃(やいば)だ、大鉈(おおなた)を振るのは無理だ、鋭い刃先で素早く突っつくんだぞ。

応援しようとしている人間も必死なんだ。

守備においては、前線エリアで相手攻撃の芽を摘む、相手攻守の切り返しに必死で喰らいつく、層を厚くする、これらを忠実に行なうためには、冷静沈着な神経と強靭な体力が必要だ。ここ一番というピンチに体を、どれだけ大胆にはれるか、もう1センチ近くに、もう1秒速く、判断よくプレーできるか。

私はこの一年、狂ったような選手の出現を待っていたと言えば、何だか変なように聞こえるが、簡単に言えば、今まで見慣れてきた日本代表のメンバーではなくて、イメージをカッ飛ばすようなプレーを秘めた選手が現われて欲しかったのです。異質な個性を持った選手のことです。この段階ではテクニックよりも、速い、強い、恐(こわ)い、うるさい、しつこい、疲れを知らぬ体力、高い、相手の懐深くに入れる、なりふり構わずシュートする、こんなことを自然にこなせる選手だ。

変わり映えのしないいつもの選手達で、どれだけ、今までと違う試合運びができるというのだ。でも、選らばれたメンバーでやるしかない、やる日は時々刻々と迫っている。チームが変になっていることを全員がしっかり認識して欲しい。一般的な表現をするならば、全員が火の玉、相手の虚(きょ)を衝(つ)く、これしかない。選手達は、自分たちのよく通じ合う言葉で、コミュニケーションを図って欲しい。

先ずは岡田監督こそ狂って欲しいのだ。あなたが狂わなくて、どうしてこのチームを変えられるか。

後ろの方に朝日新聞のうるさ型記者の記事を転載させていただいたのですが、編集委員の潮智志さんのは「日本人の欠点が武器に」と題した深耕記事だ。私は日本人の日本人らしさの良さは欠点につながることも大いにある、と心配している。

MX-3500FN_20100512_092149_002

MX-3500FN_20100512_092149_003

朝日新聞朝刊(20100511)の写真を利用させていただいた。朝日新聞の熱烈な読者に免じて

お赦しください。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

20100512

朝日朝刊

記者有論

サッカーW杯の日本代表へ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

日本人の欠点が武器に

その① 編集委員・潮智志(うしおさとし)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

サッカーの日本代表チームはオランダ遠征を行なった昨秋をピークに調子を落としたままだ。代表チームの難しさは、1,2ヶ月に数日集まって試合をしてはまた解散する、時間の短さにある。そのたびに積み上げてきたことを忘れていては、チームづくりは遅々として進まない。特に海外組みや主力が不在のときは、そんな繰り返しだった。W杯常連国ほど直前合宿で一気にチームをまとめ上げてくる。対戦相手に応じた具体的な戦略を落とし込む作業を含めて、ここから岡田武史監督の真価が問われる。

岡田監督のチームづくりは、過去の代表チームと出発点が異なる。自身が12年前に挑んだ98年W杯を含めて、これまでは世界と比べて劣っている部分をどうやって補うか、という発想だった。

本当にそうなのか。岡田監督は「個人の体格やパワーではかなわないから組織力で補おう」という前提を問い直すことから始めた。単調な無駄走りが多いと言う欠点を逆手にとって運動量で相手を圧倒できないか。日本人ならではの俊敏性や機動力は、セオリーを無視してあえて狭いエリアでこそ有効ではないか。そこで生まれたのが現在のスタイルだ。日本人の特性を明確な武器として持ち出したからこそ、どんな結果と内容を導き出すのか興味深く、何が通用して、しなかったかという評価を次に生かせる点で意味を持つ。

この2年半の間、岡田監督が徹底してやってきたのは選手へ問い続けることだった。物議を醸したベスト4という目標設定もその一つ。日常のトレーニングと試合で、あと一歩前へ、もう0,3秒速くという積み上げなくして世界に近づく方法はない。「こんなプレーで4強に入れるのか」という理屈抜きの自問自答を選手自身に促した。監督が「本気でベスト4を目指してみないか」と選手に問い掛けたのは08年9月。「やってみます」と最初に反応したのは3人だった。監督から見て、その人数は増えたり減ったりしてきた。「本気」を保ち続けた選手はどれだけいたか。直前合宿の重要性が増す一方で、問われるのは06年のW杯ドイツ大会からどんな時間を過ごしてきたのか、ということでもある。

その4年前、代表はばらばらのまま敗れた。「監督は何も授けてくれない」と選手は嘆き、試合中にベンチを見て指示を求める選手に「プレーするのは君たちだ」とジーコ監督はいらだった。もともと選手を戦術にはめこむ指導を得意としてきた岡田監督は「それではチームは伸びない」と気づいている。だからこそ、「自分の判断でリスクをとり、生き生きとプレーしろ」と問い掛け、背中を押し続けてきた。

代表チームは、その国の風土や社会、教育、価値観などを映し出す。W杯でベンチに助けを求めるような姿は願い下げだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

頑張るだけでは限界も

その② 編集委員・忠鉢信一(ちゅうばちしんいち)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

岡田武史監督になって日本が初めて負けた2008年3月のW杯アジア3次予選のバーレーン戦で、「日本のサッカーはどこへいってしまったのか」「これは迷走の始まりかも知れない」と書いた。W杯本大会の出場権をつかみ、南アフリカへ向かう23選手が決まった今も思いは同じだ。

「日本の良さを生かしたサッカー」に近いものがピッチ上で実現されたのは前任のオシム監督が率いた07年9月の欧州遠征が最後だ。絶好機が訪れるまで徹底的にパスを回し、守る相手を走らせて消耗させ、試合の後半以降、相対的な動きの量の多さで圧倒するという試合運びを、当時のチームは意図的に展開した。得点力に難がある日本代表だが、パスをつなぐ力は国際的に見ても高い。得意を生かしたサッカーが完成の途上にあった。

岡田監督の発想は違う。自分たちが走る量を増やして相手を上回ろうとする。「がんばる」が美徳の日本人が受け入れやすい方針だが、非効率的で駆け引きを忘れがちになる。日本人の良さというより弱点が引き出されている。岡田監督の日本代表に出来不出来の波がある理由はこれに尽きる。

最近の不振とあいまって日本代表の評価は近年になく低いものの、勝負は何が起こるかわからない。だが勝ち負けという結果以外にW杯で何を得られるだろうと考えると、現状ではあきらめに近い気持ちだ。

1998~2002年にトルシエ監督が取り組んだ「自動化された連携プレー」は称賛された一方、自由の抑圧という批判も出た。その後06年までのジーコ監督が「自主性」を強調すると、組織の意思決定やスター選手のエゴがテーマになった。「考えながら走る」など名言の多いオシム監督の哲学は関連本の出版が今も続く。いずれもサッカーの枠を超えた議論になり茶の間や居酒屋の話題としても広がった。

岡田監督が掲げる目標を巡る議論は、好き嫌いや信じるかどうか以上の深みを見せていない。「W杯4強」は途中の到達度を測れず、目標に近づく過程で自信を積み重ねられないもどかしさがある。脳科学や心理学を引き合いに語る「無心の状態」という理想も手ごたえをつかみにくい。岡田監督が日本人の良さと考える「ハードワーク」「アグレッシブ」も同じ。現象としておきる体力勝負が日本人の得意ではないから、勝つためのアイデアとして壁に当たる。

今からでも目標を定め直すべきだろう。「日本のサッカー」を語った「岡田サッカー」で独自色を求めるより理にかなった基本を徹底した方がいい。なぜなら結果から多くを学べるからだ。正攻法で格上と当たるのは不安だが、将来、本物の「日本の良さ」を見つける土台にきっとなる。自国開催以外のW杯で日本は5敗1分け。一足飛びを狙っても得られるものは少ない。

2010年5月10日月曜日

宇治田原への帰省、望郷編その②

私の黄金週間(ゴールデンウイーク)初日の5月2日、金さんの自宅を後にして、宇治田原に向かった。金さんの所へ来る時に気付いたのですが、京滋バイパスが整備されていて、名神高速道路の瀬田東インターから寝屋川までは、約20分ぐらいで来た。かってなら、宇治からでも1時間はかかった。今度はその逆行だ。寝屋川から宇治田原への道中を、車窓から懐かしい景色楽しもう。

同伴者の竹さんが、関西には関東で使っているパスモやスイカに代わるもので、「イコカ」というカードがあるらしいんです、とか何とか言っていたので、JRの何処かの駅に寄ってあげようと思っていたのですが、金さんとのビールでその思いつきは雲散霧消。この話を自宅に戻って、三女のソに話したら、福岡では「スゴカ」らしいよ、ときたもんだ。

母校である京都府立城南高校の前を通った。2、3年前に廃校になった。どこかの学校に吸収されてしまったのです。まさか、あの誉れ高く、美女は生まれたが天才だけは生まれたことのない、スポーツも全て弱かった、世にも稀少な学校だったのに。消極的には、校内での立ち食い弁当だけは、ちょっとばかり有名だったかも。

弁当の話題になったので、少し脱線させてもらう。翌日(3日)に43年ぶりに会った城南高校のサッカー部の後輩が、奥さんに私を紹介するのに、この人は元気な人で一人でもサッカーの練習をしていたんだよ、いっつも弁当を2個持ってきていましたよね、アレには驚きました、なんてことを言っていた。そんなことすっかり忘れていた。

2010 001

実家に着いたのは午後の3時頃だった。甥の嫁・ヤが迎えてくれた。甥は畑仕事に出かけていた。

先ずは、建替えられた実家を軽くチェック。内装や設備はホテル並みだ。二世帯住宅なので間取りや部屋割りについてはヤの担当だったが、もう一つの世帯の奥方もなかなか手強くて調整には苦労したらしい。車を実家に置いたまま、垣・サ・アに会うために南区名村(在所の名前です。私の実家は南区切林亥子〈いね〉)に向かった。

途中、大辻百貨店に寄った。

いつもは、店番をしているハルエちゃんに見つけられて声を掛けられるのに、この日は店は閉まっていた。店主の善さんは糖尿病を患っていて今は留守ですと言われた、私はそれ以上のことを聞けなかった。以前から病気が悪化していることは聞かされていたのです。店主の娘さんもお店を手伝っているようだった。

私が小学生のときには、冬や春、夏休み、休日には必ずこの店の手伝いをした。少しだけれど、小遣い稼ぎをしていたのです。大人になって現在のような仕事に就いた、その商売心の源泉は、この大辻百貨店にある。仕事を終えてご飯をご馳走になって、テレビを1時間ほど観て自宅に帰るのでした。当時、我が家にはテレビがなかったのです。大辻百貨店と名前は大きく謳っているけれど、内容はどこにでもある雑貨屋さん。その後、こんな小さな町にも割と大きなスーパーが進出してきて、大辻百貨店のやり繰りは大変だろうなと心配する、それでも頑張っている善さん一家に熱いエールを送ろう。この店は、私の経済人としてのルーツでもあるのですから、これからも頑張って欲しい。

大辻家を辞して名村に向かったのですが、途中に岡の藪という処があって、そこに城南高校のサッカー部の1年後輩・原がサッカー部の卒業名簿に記載されていることを、もう何十年前から知っていたのですが、何故、宇治に居た原がこんな処にどうして居るのか、誰にも聞かなかったし、知ろうともしなかったのですが、この日はどういう風向きか、積極的に確かめたい欲望に駆られた。

時間的に余裕があったこと、酒の勢いが冷めていなかったせいかも。恐る恐る、出られた奥さんに私の素性を説明し、この家の主は、私の知っている原さんではないかと尋ねた。奥さんは、原とは竹馬の友で、そのまま夫婦になられたようで、高校で1年先輩の私のことは、よく聞かされていました、と言ってくれるではないか。でも、本人の原は外出中だった。明日、時間がとれれば、再度お寄りしますと言って、失礼した。

公民館の前を通った。

この公民館で私たち夫婦は38年前、結婚披露宴をしたのです、と竹さんに説明した。結婚式は、一の宮神社でユニークな神主さんが神事を執り行ってくれた。誓詞もあった。私たちよりもう少し先輩たちの時代には、結婚披露宴のために多額のお金を遣わないように、公民館を利用する運動が、農協の青年部で起こったのです。私は、それを真似たわけではないのですが、少しの費用でできるだけたくさんの人に来てもらいたかったのです。百五十畳ぐらいの畳敷き込みの部屋なので、詰込めば幾らでも人員は収容できた。宴席は丸いテーブルを数箇所配置、そのテーブル毎に父の尋常高等小学校の同級生の魚屋〈屋号は魚留(うおとめ)〉が、煮焼きした海老や鯛を並べ、それ以外の料理といえば、親戚の方々の協賛品でそれはそれは豪勢な盛付けだった。畳なので、招待客は、酔っ払っては寝っ転び、目が覚めたら料理に口鼓を打つ、宴会は牛の涎のように続いた。大学の友人のマサなどは、ごちゃごちゃ言っているかと思いきや、気がついたら鼾をかいてのご就寝、起きだしては歌を歌った。舞台つきだったので、歌を歌うときは歌手になったつもりで、義妹の琴演奏も見栄えがして好評だった。

コバの家にも寄ってみた。

トントンと玄関扉を遠慮なく叩いた。オーという返事と共に懐かしい顔で私たちを迎えてくれた。中学校時代はバレー部だった。コバの家は貧乏だった。父親は早くに亡くなり、母は子育てで精一杯、田畑や財産があったわけではない、田舎では現金収入を得る働き場もないのだ。そんな環境の中で、コバと姉はよく育ったものだと思う。コバは、中学校を卒業して京阪宇治交通というバス会社に就職した。コバの母は、その時ホッと一息ついたことだろう、その実感は幼い私にも痛いほど理解できた。コバが車掌をしているときに偶然に乗り合わせた時は、ラッキー、目配せだけで無銭乗車だ。それほど、彼と私の間には強固な友情関係があった。私が2年間の浪人から脱け出して、東京に向かって実家を発つ朝、餞別の品として万年筆を持って来てくれた。少ない給料のなかから、私好みの品選びをしてくれたのだろう。母とコバの前で憚ることなく万年筆を握って泣いた。立派にはなれなくても、強く生きて母やコバを落胆させまいと決意した。

私が、大学を卒業して入った電鉄系の観光会社を足掛け10年勤めて、心に吹いた隙間風と共に退社した。その時気休めのために帰省して最初に訪ねたのは、私の父と母がいた実家ではなく、コバの家だった。

垣さんサっちゃんご夫妻のお宅に着いた。

垣さんは少し前に網膜はく離の手術をして、今日は外泊許可をとって一時的に帰宅されていた。でも、根っからの仕事人の垣さんは、野菜に水を掛けていた。今夜は酒が飲めないので、妹のアの処での宴会には行けない、すまん、と仰っていた。この垣さんの家というのは、私の母の実家なのです。

かって、この家には私の母のお姉さん(伯母)や母の母(祖母)がいて、垣さんは垣家の家長で、伯母の子どもだから私の従兄弟です。郵便局を定年まで勤め上げ、今は農業一本だ。私の父は病気になるまではこの垣さんに、事あるごとに何かと相談にのって貰っていた。先見性があり、常識派でもあるのだ。

 2010 002      2010 036

私の田舎では、毎年夏のお盆の時期に、薮入りで、母と私たち兄弟3人は、この垣家に泊りに来ていた。

薮入りは嫁が実家に里帰りして、日頃のご無沙汰を詫び疲れを癒すためでした。広くは、薮入りといえば1月16日と7月16日の閻魔様の縁日に、商家の主人が奉公人に小遣いを持たせて家に帰し、休みをとらせたのです。私たちの家と垣家は歩いて10分ぐらいの距離の処なので、何もお泊りコースでなくてもいいのではと事情を知らない人は思うだろうが、この薮入りには深い意味があるのです。

私の母はこの薮入りを非常に楽しみにしていた。我が家は父母と祖母、兄弟3人の6人家族だったのですが、父と母は夫婦喧嘩が絶えなかったのと、祖母は厳しい人だったのです。私には特別優しかったのですが。父は金融機関から資金を借り受け耕作面積をどんどん増やしていたことと、機械好きで次から次に新発売される農業用の機械を購入するので、家計は火の車でした。そんな状況下で母は過酷な農作業の手助けと家事を一手に引き受けていたので、心身ともその疲労は大変なものだった。でも、性格は生まれながら暢気なところもあって、なんとか緊張と疲労をうまい具合に調整していたのだろう。そんな母が一年のうちで最高にリラックスできるのが、この薮入りだったのです。

母は3人姉妹の真ん中だった。お姉さんや妹に囲まれて、会話に花が咲いていたかと思うと、今度は嘘のようにグーグーと惰眠を貪(むさぼ)っていたのが印象的だった。その寝顔を見て、皆で大笑いしものです。 薮入りに行った時には、垣さんは近所の池に鮒を釣りに連れて行ってくれた。クチボソやハヤ(ウグイ)、鯉も釣れました。伯母さんの、今日はすき焼きにしよう、の号令と同時に、アちゃんの自転車の後ろに乗せてもらって肉屋さんに、飛びっきり上等の肉を買いに行った。アちゃんの腰に両手を添えて、ちょっと恥ずかしい気持ちになったのでした。アっちゃんは垣さんの妹で、その頃は中学生だった。二番目の兄は、伯母さんの料理に文句を言っては嫌われていた。特に豆ご飯が大嫌いで、お茶碗の中のご飯を掻き雑ぜて豆を一つ一つを摘まみ出し、お膳の上に並べた時は、非常に拙(まず)かった、伯母さんはカンカンに怒っていた。伯母は相当頭にきたのだろう、その後、何度も伯母の口からこの話を聞かされた。二人の兄は、すぐに自宅に戻ったけれど、私はいつまでも帰らずに、垣さんの家から学校に通っていた。

この垣とアっちゃんの二人は私のことを弟のように可愛がってくれました。私には、情熱的に百姓に燃える一番上の兄と、気難しい理系の二番目の兄がいたのですが、兄弟三人揃って仲良く何かをしたとか、遊んだとかは不思議なことに一度もなかったのです。だからと言って、いがみ合っていたわけでもなく、他人のように三人三様独立して行動していたのです。まるでライバル同士のように。前の方で書いたように、私の父と母の関係、祖母の存在、それに殺伐?ではないが、淡々とした、味気のない兄弟関係。誰もが家族の雰囲気を和やかにする役目を果たそうとしない、親愛の情に溢れた気の利いた台詞が飛び交うこともなかった。そんなことに敏感だった私と疲弊していた母にとって、この垣さんの底抜けに明るい家庭の雰囲気は、私には楽しさを、母には癒しを与えてくれたのです。

実家では、百姓に真剣に取り組む家族の姿を見たが、垣さんの家では、生活の楽しみ方の知恵を学んだ。

 

2010 004       2010 037 

 

 2010 007       2010 006

 

本日の最後の訪問先は、アちゃん宅だ。

アっちゃんは、垣さんの妹で私の従姉弟だ。この家は、アっちゃんが結婚する時に、夫の実家が提供した土地に夫婦が建てたものだ。私の母の若い頃の顔や体型が似てきたように思って、再三そのように言うと、アちゃんは嫌な顔をした。でも、似てきたんだからしょうがないじゃないか。殊更親近感が湧いてくるのです。この日もアちゃんの手作りの料理がテーブル狭しと並べられた。メインはアちゃんご自慢の鯖寿司だ。何回ご馳走になっても、変わらぬ美味しさだ。宇治田原で採れた米に肉厚の鯖。この鯖寿司と、私とアっちゃんの三角関係は長い歴史があり、今後も廃れることはないだろう。

枚方に住んでいるアちゃんの娘さん夫婦も子連れで来ていた。ご主人さんは測量士さんだ。山岡家からは、甥夫婦も参加してくれた。私の強い味方だ。私の、今置かれている、経済人としての状況を説明した。皆から励まされた。また、一緒にお邪魔した竹さんの紹介も皆にした。

最後の最後は、今晩寝床のお世話になる実家、建替えられた新築の家に戻ってきた。体中アルコール漬けで、何を話したか分らない。豚のような鼾をかいて、迷惑をかけたようだが、あしからず、スマン。

2010年5月9日日曜日

お父さん、何で吉岡先生なのよ

久しぶりの帰省を前に、私の所作は傍(はた)目にも、やはり浮き足立っているように見えたようだ。そりゃそうだろう、久しぶりに我が聖(生)地に帰るのだ、心も体も浮き浮きなのは極、自然なことだ。

田舎が、俺を呼んでいる、ぜ。

三女・花が、「お父さん、吉岡先生のお見舞いに行くって聞いたけど、いっつも吉岡先生、吉岡先生って言ってるけれど、いい先生は他にもいたでしょう、に」と聞かれた。

不思議なことなんですが、私の日常に起こる出来事がほとんど同時に、同じ内容や事柄が新聞や週刊誌上で、記事として見つけることがよくあるのです。今回も、三女に恩師のことを問われて、20100427の朝日朝刊の声(投書欄)に、東京都の小学校講師の男性が吃音の癖で嫌な思いをしていたが、高校の先生の温かい指導に恵まれてから、徐々に吃音が直った、という記事を見つけたのです。この新聞記事はこの稿の最後に転載させていただいた。

そこで、私にとっての吉岡先生問題に触れてみる。

吉岡由治先生は、中学校の体育担当の教諭だった。生まれも育ちも、我が家の近所だった。体育のクラブ活動では、野球と陸上部を担当されていた。3年生の時は、私は4組で、先生は5組のクラス担当でもあった。中学校の3年間は、吉岡先生からは保健体育の授業を受けただけで、直接親しくさせてもらったわけでもなかった。ただ、先生の行動する姿が私に対して、大きな影響を与えた。

その頃の私はどんな子どもだったのか、その辺りから書いてみよう。成績はまあまあ、悪くはなかった。高校進学用の一斉試験(きたおうじ?)が定期的に行なわれていて、その試験においては常時上位にはいた。高校進学も、希望する唯一の府立高校にはお墨付きをもらっていた。希望も糞も、公立高校はその学校しかなくて、毎年その高校には母校の維孝館中学からは25人前後は入学していた。そのように、入試は何とかクリアーするだろうが、私にはその先の先のこと、自分の将来への不安が常に付き纏っていた。こんな田舎育ちの私に、大都会で何が出来るというのだ。貧農の三男坊は、実家を出て、自らの人生を自らの力だけで生きていかなければならない、何をどのようにすればいいのだ、その精神的な重圧は、少年には相当なものだったように思い返す。不安を抱えながらも、漠然と将来に胸を膨らませ、青雲の志には覚束ないまでも、大いに夢見る少年だったのです。

2月になって、高校入試の日が近づいてくると、母は昼間の野良仕事で疲れているのに、夜中に布団を縫いだしたのです。上等の真綿を買ってきたとか言いながら。実は、私には近所の有力な茶問屋・矢から、中学を終えたら仕事に来てもらえないかと誘われていたのです。父母にとっては、高校に進学するのも、茶問屋に丁稚奉公にいくのもあまり違いはないようだった。大阪に店を出すためのスタッフを募っていたようです。先方にはその諾否は告げていなかったが、入試が駄目だった時は、きっと茶問屋行きになっていだろうが、両親の思いはこっちの方に傾いていたようだ。小学生の頃から、大辻百貨店の店員として、店番から、月掛け売りの集金や、リヤカーに日用雑貨を積んで在所を売り歩いたり、土用のアンコロの予約を一軒一軒回って受け付けたり、そんな商売好きな子どもの私に、茶問屋さんは興味をもったのだろう。生家とは遠い親戚にあたることも、両親には好都合だったのかもしれない。

私は、以前から地元の裕福な酒屋・田から、高校を卒業した頃に養子に来て貰えないかと、要請を受けていたらしい。この件で、父は鬼になって酒屋に怒鳴り込んだ。うちの大事な息子を、養子なんかにやれるもんか、と。そんな出来事をを他人の口から聞かされたのですが、我が父は頑張っているなあ、と感心させられた。私のことを思いやる父を、頼もしく思った。嬉しかった。私は、養子としては抜群の魅力を備えていたようだ。

不安だったのだ。これから、俺はどうなるんだろうか?

そんな危なっかしい精神状態の時に、吉岡先生は私の前に答えをもって現れてたのでした。先生の授業は、マアマア、ホドホドに楽しかったけれど、午後、授業が終わってクラブ活動の時間になると、それはそれは吉岡先生の行動が目を瞠るものに大変身するのでした。先生は、一心不乱、熱中、大人が何故そこまで熱くなれるの、私はそれらの光景に身も心も奪われてしまったのです。雨の日も、風の日も朝の練習から午後の練習、休みなしの毎日、正月の元旦も。愛嬌のある顔を真っ黒にして、運動場、教室、体育館を小柄な体で走り回っていた。どの体育クラブも成績は飛びぬけていい結果を残せなかったけれど、生徒たちも可笑しいほど頑張っていた。生徒から挨拶を受けると、必ず何かの冗談を返すのです。そんな先生の行動にヒントをもらったのです。

ちょっとばかり勉強できたからって、そんなことで、私は嬉しくもなんともなかった。

動こう、体を動かそう、一つのことに邁進していれば、その先に何か光明が射してくるかもしれない。そのように自らを追い込み精進した。結果、実り豊かではなくても、充実した日々を過ごすことができたら、それでいい。そんな時間の過ごし方を先生の行動から学び取ったのでした。最高の指導を受けたことになったのです。

そして、中学校ではバスケットボールに打ち込み、大辻百貨店でアルバイトに精を出し、兄ほど上手ではなかったけれど畑仕事や山仕事を手伝ったのでした。

高校ではサッカーと大辻百貨店、運送会社、メタル工場でのアルバイト。浪人時代は、ドカタだった。大学ではサッカーと数々のアルバイトに精を出した。

あらゆるアルバイトから社会人になるための重要な素養を身につけていった。何故か、勉強することは除外していた。この除外したことによる損失の甚大さは、大学の3年生の頃には気付いていたが、もう修正がきかなくて、ひたすら田舎の方に向かって「お父さんお母さん、卒業したら一所懸命に勉強しますから」、そのように詫びた。

 

この声欄の記事を転載させていただく。感動的なんだ。東京都北区にお住まいの59歳の小学校講師の飯塚修一さん。タイトルは、私の吃音、こうして治った。

幼い頃、私には吃音の癖がありました。特に、サ行とタ行の音が苦手で、小学生の時は国語の授業が苦痛でした。

中学生になって、駅の窓口で切符を買う時、サ行とタ行の駅名が言えず、顔中真っ赤になりました。周囲から吃音を笑われたり、からかわれたりするのが本当に嫌でした。

都立高に入学して間もないある日、国語の授業で音読の順番が回ってきました。私は覚悟を決め、読み始めました。最初の1行からもう駄目、つっかえつっかえです。2行目、頭の音が出てきません。教室は静まり返り、私は開き直りました。もういい、どうにでもなれ、どもってやれ。

一体どれだけの時間がかかったか、ついに私は2ページを読みきりました。異様に静かな教室で、先生は何事もなかったように穏やかに「はい次」と授業を進めていきました。

その日を境に、私の吃音は少しずつ治っていった気がします。そして私は、大学を卒業し、小学校教員になって三十数年間、子どもたちの前で話し続けてきました。

あの時の安食(あんじき)恒昭先生の温かいご指導に感謝しております。黙って待った、先生の仁術で吃音は治ったのです。

2010年5月6日木曜日

宇治田原への帰省、望郷編その①

2010、5月2日の早朝3時、権太坂を車で私の聖(生)地である京都府の宇治田原町に向かった。故郷(ふるさと)は、遠くにありて、、、と想い過ぎたのか、帰りたくなったのです。同伴者は、二女の婿・竹さんだけ。家族の誰もがそれぞれに用事があって、休みを揃って取れたのは二人だけだったのです。竹さんは、電鉄関係の電気工事を請け負っている会社に勤めていて、3月末で、大方の仕事はやり終え、新年度になったばかりの4月は、比較的に仕事が楽な様子だ。私の実家、実家と言っても建替えられた新築の家で寛いでいるときに勤務先の社長さんから電話があって、木(6日)、金(7日)も有給休暇でいいよ、8,9日は土、日曜日で休みだから。なんちゅう気の利いた社長さんやないか。電鉄系の仕事がメインなので、急に突発的な仕事が発生することがある、休める時にはできるだけ休んでおこうという算段のようだ。話は逸れますが、長女夫婦の自宅を一週間前に上棟したばかりなんですが、この家の電気工事はこの竹さんの会社で請け負ってくれた。幸せなことだと、草葉の陰ならぬ打ち合わせの隅っこで、そっと様子を窺っているのです。

竹さんは、以前に宇治田原で農業をしている、私の甥・清と一緒に旅行した際、もともと興味があった百姓仕事の手伝いを申し出たことがあって、この機会に是非実現させたいと思っていたようだ。この旅行というのは、昨夏、私の長男・草の嫁さんの実家=五島列島の宇久島に、長男が嫁を迎えに行くのに二女夫婦と子どもが便乗、そこに、甥夫婦も合流したのでした。長男の嫁の実家には、随分刺激的に迷惑をかけたようだが、それもいい思い出になったようだ。

今回の私の帰省の目的はと言えば、病床に臥している中学校時代の恩師・森先生のお見舞い、父・勝と母・ハの墓参り、長くご無沙汰している親戚の方々・垣、ア、サへの挨拶回りをしたかったのです。たったの一日だけど、野良仕事の邪魔でもさせてもらおう。

でも、そこは欲張りの私のこと、それだけでは満足できなくて、折角京都まで行くのなら、寝屋川に居る金さんに会わないわけにはいくまい。スケジュールに詰め込んだ。

昼、正午前に金宅に着いた。

早速、喉を乾すことなく缶ビールを空け続けた。金さんの三女のミと長女のヤが、お好み焼きを作ってくれた。ヤは元スッチィーで、スチュワーデスをこのように言いませんでしたか。ミはタイでのNPO活動で、オーストラリア人と知り合い、結婚。今はバースで住んでいると言っていた。ミから、久しぶりに俺のことをレッドマンや、と冷やかされた。ミが子供の頃、箱根での宴会で初めて冠名を付けられたのだが、その後もずうっと、彼女の前ではレッドマンになってしまったのです。

金ちゃんと、話すことは昔の学生時代のことばかり。お金がなくてもビールが飲みたくて、蕎麦屋(さんこうわん)の店の横に隠してあった1ケースを深夜ちょろまかしたこと、20本を二人では飲みきれなくて返しに行こうかどうか本気で悩んだこと、このことを二人っきりの内緒にしていたのに店の長男・イっちゃんは、ちゃんと知っていたらしい。だからか? イっちゃんは私にはいつも優しかったんだ。など、など、いつまでも品のいい話は出てこなかった。2年の時、大学サッカー春季新人大会で優勝した時の狂宴、宴会後の各人が精一杯あっちこっちで働いてくれた狼藉物語を懐かしく思い出した。私は、寮の集会室の畳にゲロまみれになって泥酔したまま、寝込んでしまったのだ。朝、目を覚まして顔を畳から離そうとしても離れなくて、必死で顔を離すとバリバリ畳の網の目が頬っぺたにくっきり、痛かった。ゲロが糊になって、顔を畳に張り付けたのだ。ますます、話の内容は品よくなるばかりか、下品になっていく一方だった。

金さんの母が亡くなって丁度1年が経ち、墓参りをしようと、4人いる娘さん達は金さんの家に総結集することにしたらしい。オーストラリア在住の三女とその息子、東京は品川から来た長女とその息子、二女・バと四女・マは未婚でそれぞれ東京から、今夜と明日に帰ってきょんね、と言っていた。明日はみんな揃って、信貴山に墓参りだ。学生時代の牛のシッポの料理以来、お邪魔する度に何かと食の面でお世話になった。気丈夫な、大阪のオバハンだった。強い女だったようだ。

2010 018  2010 031 2010 024

 

 2010 022 2010 032

 

保土ヶ谷バイパスー東名(町田インター)=東名高速道路=(豊田ジャンクション)=伊勢湾岸自動車道=(四日市ジャンクション)=東名阪自動車道= (亀山ジャンクション )=新名神高速道路=(草津ジャンクション)=名神高速道路=(瀬田東インター)=京滋バイパス=寝屋川

 

 

2010 013

車窓から、東名高速道路に迫っていた森の中の、綺麗な紫色の藤が見事だったのでシャッターを切ってはみたものの、写真には実物ほどの色が出ていなくてがっかりしたが、それでも、貼り付けました。藤は花が咲いた時だけ、その存在感を見せる。