2010年12月30日木曜日

白瀬矗(のぶ)の名に、胸に高鳴りが

探検はロマンだ。未知の分野であればあるだけ、そのロマン度も高まる。

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20101221の朝日新聞・夕刊に「南極探検100年、白瀬の伝言」の記事が掲載されていた。題字は「苦難の道のり 世界が評価」で始まっていた。この白瀬陸軍中尉の名を、新聞の一コーナーと言えども、目にしてしまった以上、私の胸の高鳴りはどうしても抑えようがない。かって集中的に白瀬に関するものや、アムンゼン、スコットなどに関連する探検本を読み漁った時期があったのです。今から20年程前のこと、私が40歳頃のことでした。

新聞記事を読んで、私は探検モノにちょっとばかり知識があることを、密かに自負していることに赤恥したものの、この胸の高まりはどうにもおさまらない。新聞記事にはスペースに制限があるので、そんなにノタリクタリとは書けないのはよく解っているのですが、他にも知っていることが「私」にはいっぱいあるので、皆、聞いて、みんなもっと聞いて、状態になってしまっていた。またまた不遜、恥ずかしい限りだ。

とっかかりは本多勝一さんの本「アムンゼンとスコットー南極点への到達に賭ける」(出版社・教育者)だった。本多さんが所属していた京都大学探検部の指導者で精神的主柱の今西錦司さんを知り、この今西錦司氏の個性の魅力にはまった。その種を蒔いたのが西堀栄三郎、学問の分野は違えども生態学研究センターの井上民治、最後は国立民族博物館を創立した梅棹忠夫。この人たちの研究論文は読めないし理解できないが、エッセイや記者との会話を文章にしたものに触れて、一時期彼らに現(うつつ)を抜かした。東京を中心とした中央に対する在野の意地が感じられ、京都府出身の私には彼らの活躍が快く感じられた。勝手に親近感を持っていた。

それから、ここにたどり着くのです。共同通信の記者だった加納一郎さんの訳したスコット隊の生存者であるアスリー・チェリー・ガラードの探検記「世界最悪の旅」(出版社・中央公論新社)だ。戦中に発行された、この本を読んで尻に火が点いた。それから、アムンゼンの先輩ナンセンの「フラム号 漂流記」(加納一郎訳)。興奮しまくりの勢いのまま、これらをまとめた加納一郎著作集全5巻を手に入れた。そのときの感動は忘れない。探検に興味のある方は、どうか私にお申し出ください、貸し出します。探検とは何かを生涯説き続け、極地研究と啓蒙に尽くした加納一郎氏、この全5巻は私の脆弱な精神構造を強く支えてくれているのです。精神的に落ち込んだり、苦しくなったとき、引っ張り出してきて、端々をつまみ読みする習慣が身についてしまった。苦しい時の--------、神ならぬ、加納一郎氏であり、ドフトエフスキーさんだのみだ。1巻=極地の探検  2巻=フラム号漂流記  3巻北海道の山と雪  4巻=自然のなかで  5巻=世界最悪の旅(5巻のみが、我が書庫に見つからず)

これより下は、20101221の朝日新聞・夕刊による (中山由美)

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「3人の探検家に与えられた運命はそれぞれ栄光、死、そして苦難ーーーー」100年前に白瀬矗(のぶ)が南極点をめざして出航した東京・芝浦で、11月28日に開かれた記念式典。DVD「白瀬・開南の夢」のナレーションが流れると、白瀬の孫、潤さん(79)の表情が曇った。

同時に南極点をめざした探検家3人のうち、「栄光」が与えられたのは、1911年12月14日、世界初到達を果たしたのはノルウェーのアムンゼン。「死」は、1ヶ月遅れで南極点に立ったが、帰途に隊員全員が遭難死したイギリスのスコット。「苦難」は、12年1月28日、南緯80度5分の氷の上で南進を断念した白瀬だった。

国の威信をかけた国家事業に比べ、白瀬隊は資金や装備でははるかに劣った。スコット隊のテラノバ号は750トン、アムンゼン隊のフラム号は402トン、白瀬隊の開南丸はわずか204トンの木造船だった。

国は資金を出さず、民間支援に頼る探検だった。新聞社とのつながりもあった早稲田大創設者の大隈重信を会長に、南極探検後援会を創設。出発前、朝日新聞は5千円を出し、義捐金を呼びかけた。当時の記事には、約4万8千円が集まり、後援会に渡した、とある。だが、白瀬が帰国した時には後援会は消え、借金4万円が残されていた。今の1億~2億円相当という。白瀬が一人で背負った。

新聞で初めて見ることとなった他の親族には、複雑な感情が残された。救いの手を差し伸べなかったわけではない、との思いがあるからだ。白瀬は帰国後、ともに暮らしていた三男家族の元を離れ、秋田県の生家・浄運寺からも離れて疎遠になっていたという。孫の潤さんは「白瀬の晩年が不遇だったと語られると心が痛むのです」と言った。

今回の記念式典には、白瀬に関する文献をまとめた本を出版したチェット・ロスさん」(63)が米国から駆けつけた。(民間の支援を懸命に集め、諦めずに挑戦し、一人の犠牲者も出さずに帰った」。自らの力で夢をかなえ、責任を全うした魅力を語る。

出身地である秋田県にかほ市の白瀬南極探検隊記念館には、海外からの訪問客が絶えない。記念館職員だあった佐藤忠悦さん(70)は言う。「苦難の道だったが、白瀬は世界の名だたる探検家と並んで評価されている」

100年の時を経て、うねりは動き始めた。「故郷の秋田から全国へ発信しよう」

2010年12月29日水曜日

座間高校を応援する

MX-3500FN_20101227_083346_001 朝日新聞の記事より。間接照明で練習する座間高校

第89回全国高校サッカー選手権が30日から始まる。全国から48代表が決まった。神奈川県からは、県立座間高校が代表に決まった。かって、名門校と言われる学校が上位を占めてきたのだが、昨今、群雄割拠の時代に突入、どこから、栄冠を勝ち取る学校が出てくるのか、想像がつかない、と新聞では書かれていた。

栄えある代表チームでプレーする選手にとって、これほど意気の上がる大会はない。サッカーファンにとっては、正月の休みの、見逃せない重要な大会でもある。会場に足を伸ばすのもよし、コタツでミカンをむきながらの観戦は、堪らない魅力だ。勝ち進んでいくうちに、さなぎが脱皮するように、一人ひとりが、チームが、一皮、二皮むけながら成長していくのを、毎年、必ず見せ付けられる。外れがないのだ。だから、開幕が待ち遠しい。

此処で、県立座間高校のことを、触れたくなったのです。それは、私の息子が高校時代に座間高校と対戦した時のことを思い出したからです。私の息子・草が通っていた高校は権太坂にある県立光陵高校、自宅から歩いて十分もかからない距離にある。

光陵高校のグラウンドで、高校サッカー選手権の神奈川予選のベスト8進出を賭けた試合があったのです。この対戦相手が今回神奈川県代表の座間高校だったのです。今から約10年ほど前のことです。

前半は2-0で、光陵が優位にたった。光陵にはラッキーなゴールでもあった。光陵の選手たちの父兄と何とかこのままで終わってくれればいい、と本気でそう思っていた。その思いは、どの父兄の表情からも、読みとれた。青のお父さん、幼少の頃は保土ヶ谷のマラドーナと言われた川のお父さん。黒のお父さんとお母さん。私は、一抹の不安を抱いていた。それは、座間が劣勢ながら、攻撃の手を緩めなかったことです。ゲームの内容は点差はあっても、五分五分だった。

後半、光陵の選手は浮き足立ってきた。勝ちを意識したのだろう、体が強張って、へんてこなパスを出したり、つまらない反則を取られたり、黒の落ち着いていこう、という指示も弱弱しく聞こえた。私は、大きな声でしっかりせいと怒鳴っていた。前線にボールがつながらない。光陵持ち前のチームの一体感が崩れてきていた。そこで、相手チームにとっては会心のゴールが、光陵のネットを揺らした。

そうして2-1に迫られ、2-2に同点にされ、延長で逆転されたまま終了したのだ。この時の座間は、勝利することへの貪欲さが溢れ出ていた。しっかりした日常の練習が裏づけされていたのだろう。よく走った。よくボールを追い回した。光陵は、幸運なゴールを得た優位をキープできるほど逞しくはなかった。この時の試合は、私の息子にとっても、高校最後の公式戦だったのですが、悔しさは残ったろうが、考えさせられるところが多々あって、意味ある試合だった。大いに学習したことだろう。

今回の県代表までの座間高校の道のりは、厳しいものだったようだ。準決勝戦での逆転勝利はさどかし、圧巻だったことだろう。息子が高校生だった頃から、座間高校は最後まで諦めないチーム作りを心がけ、その積み重ねが今回の県代表に結びついた。

県立高校では優秀な選手を沢山集めるには無理がある。そんな条件の下に県代表になったことは、何はともあれ、凄いことだと思う。おめでとう。

本大会での活躍を期待したい。

2010年12月25日土曜日

今年も行ってきた、「銀河鉄道の夜」

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昨日(20101223 19:00~)、東京演劇アンサンブル、ブレヒトの芝居小屋に「銀河鉄道の夜」を観に行ってきた。ジョバンニ、カンパネルラ、ザネリ、お母さん、尼僧、車掌、博士、赤ひげ、信号手、青年、男の子、女の子、さそり、燈台守、影たち。

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作・宮沢賢治/脚本演出・広渡常敏/音楽・林光

多分、今回で10回近く見ていることになる。来年の今頃もきっと、同じことを言っていることだろう。今年は28回公演だ。共同代表者のお二人は元気だった。入江洋佑さんは、タメやん(これって、俺の学生時代からの仲間うちでの呼び名)九州公演を3ヶ月行ってきましたよと仰っていた、入江さんの息子・龍に聞いたら、主役をやってきたんだ、とオヤジを褒めていた。入江さんの年齢は確か80歳前後だ。志賀澤子さんは、この劇中の語り手をやられていた。志賀さんに、元気ですね、ますます磨きがかかっていますね、なんて生意気なことを言っても、優しく微笑み返しをしていただいた。永遠であって欲しいと思う、このブレヒトのコ・コ・ロを。

今回付き合ってくれたのは、伊君だ。彼に最初に会ったときは、3歳頃、保育園児だった。祖母の背中に背負われて、病院に向かう時に、偶然遭遇したこともあった。おばあちゃんは髪が真っ白だった。伊の母親が、我々の会社のスタッフだったので、会う機会は度々あった。そして、現在は弊社のコンピューター関連の保守管理とソフトのサービスのために、週に一度会社に来てくれている。この母・息子は極めて特殊な関係で、同じ一軒家に住みながら、会話がないのは勿論、食事も何もかも別々に暮らしている。かけがえのない親子だからこそ?このように変則的な家族の形が生まれたのか。機会があったら、二人によく聞いてみたい。

そんな彼が会社に顔を出したのを巧く捕まえることができて、一緒に行くことの同意を得た。私は、今までの付き合いがあって招待客なので、劇団には売り上げ面において協力できない分、有料客を連れていくことで、恩返しをしたかった。

今回の芝居の演出は、昨年とは余り変わっていなかった。ただ、私は、観る側として多少なりとも感じ方は変わってきている。台詞をよく聞き取れたことがよかった。そこで、思いついたのです。この広渡常敏さん演出のお芝居を、戯曲というのか、台本というのか、それとも小説として、原作の宮沢賢治モノとは違う、すばらしい文学作品になるように思ったのです。劇団の太田さんに話してみよう。龍にも聞いてみよう。

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下の文章は、1998年12月22日に広渡常敏さんが、なんらかの印刷物に寄稿された文章が劇団からいただいた資料のなかにあったので、ここにそのまま、転載させていただいた。

広渡常敏

早いもので『銀河鉄道の夜』をクリスマス公演としてやりはじめて、今年は16回になる。正直いってこんなこと考えてもみなかった。アンサンブルの俳優たち、そしてブレヒトの芝居小屋に足を運んでくださる見物の方々に支えられて、上演を重ねることができたのである。ぼくらはこれから先も、いつまでも、『銀河鉄道の夜』の舞台を上演しつづけることになるだろうと思っている。

ぼくがはじめて宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読んだのは1942年、中学3年の頃のことだった。たいへん感動したのだが、たしかに感動はしたのに、その実、なんのことやらわからなかった。友人と話したのだが、わからなくても感覚的に感動するのだから名作だというのだった。ところでこの童話を舞台にのせようということになって、上演台本を書くとなると、感動しただけではすまされない。困ってしまった。原稿用紙をニラんでいるばかり。1981年の11月、40年近くたっているのに、やはりわかっていない。

近くにある高輪美術館(軽井沢・千ヶ滝)に行ってみた。マルセル・デュシャンを展示していた。暗箱の覗き穴に眼を近づけると、自転車が吊り下げられていて、一条の光に照射されている。自転車の影が床面に投影されている。2次元(XY)の影の上に3次元(XYZ)の自転車、とすると3次元の上の4次元はーーーー?そこにはどうやら「自転車の自転車」があるらしい。その投影として3次元の「自転車」となり、その投影として2次元の「自転車の影」となる。ジョバンニの影が起ちあがると、、ジョバンニは3次元現実から4次元世界の銀河の夜へと旅たつ。デュシャンの暗箱に啓示されて、その夜からぼくは上演台本を書き始めた、というわけである。こうして「おかあさんのおかあさん」が「おばあさん」でないことが、ぼくもわかった。稚気あふれる賢治の”毒”’(あるいは”洒落”)に挑発されて、ぼくは一気に台本を書きあげた

2010年12月24日金曜日

モナリザの目に文字が

20101224 朝日新聞の朝刊、天声人語をここにそのままゲットさせていただいた。この記事に、最大の興味が惹いた。モナリザの目の中に文字が書き込まれていたそうだ。

天声人語

わが身が没するほどの愛を例えて、目に入れても痛くないという。砂粒ひとつ受け入れない急所なのに、かわいい子や孫なら中で転がして一体化したい。そんな思いだろう。

どんな溺愛と同化の痕跡か、レオナルド・ダビンチの代表作「モナリザ」の目の中に、微細な文字が書かれていることがわかった。右の目に画家のイニシャルとおぼしき「LV]、左にも「CE」か「B」と読める字が確認された。

外電によれば、ルーブル美術館に出向いて発見したのはイタリアの文化遺産委員会。50年前の本に〈モナリザの目は暗号に満ちている〉という記述を見つけ、高度の拡大鏡で調べてみたという。委員長は「500年前の筆致は不鮮明だが、さらに謎を掘り下げたい」と語る。

ルネサンスの巨匠は、フランス国王の招きで渡仏した晩年まで、この絵を手元に置いて筆を入れ続けたとされる。微笑むモデルは豪商の妻と伝わるが、「女装の自画像」とする説もある。

天才は科学にも通じていた。解剖学への興味から目の研究も怠りなく、角膜の表面にたっぷり水をつけると視力を矯正できる、と考えていたらしい。『人工臓器物語』(筏義人著)にある。今のコンタクトレンズにつながる発想だ。眼中に忍ばせたサインは、後世の発明を見越した「特許願」にも見えてくる。

ダビンチの時代、魔法のルーペがあったとは思えない。では、肉眼で見えない字をいかにして書き入れたのか。一部始終を見届けたはずの瞳は、防弾ガラスの向こうから謎めいたまなざしを返すばかりである。

2010年12月22日水曜日

故郷から、甥がやってきた

私の兄貴の長男・清が奥さんを連れて、20101219、横浜の我が家にやってきた。私の実家の頼(たの)もしい後継者だ。郷里は、京都府綴喜郡宇治田原町。大学で、私が私の故郷を紹介するときには、酒は美味いし姉ちゃんは奇麗な寒村貧村だと言ってきた。この甥は私が大学3年生の時に生まれたので、今年私が62歳、甥は40歳になる。甥の息子・リョウが東京の杉並で暮らしているようなのだが、金がなくなったら、不安な声で無心の電話があるだけで、どんな仕事をして、どんな処で暮らしているのか、心配になって、そんなことを確かめにやって来たそうだ。清ヨ、立派な親父をしているではないか。そんな甥っ子の行動が、叔父さんには嬉しいのです。

昨夜20101217、甥夫婦にリョウは、弊社が運営している相模原にあるパラデイス イン 相模原に泊まった。

時代が変われば、何もかもが面白いように変わるものだ。心配なのでやって来たという甥・清、この本人だって、若い頃は、父親である私の兄に随分心配やら苦労をかけたものだ。仕事が忙しい兄に代わって、私の父もよく面倒みた。尻を追いかけた。お前だって、随分兄貴に迷惑掛けたではないか、との私の詰問には、俺は金では迷惑掛けてヘンで、ときたもんだ。そう言えば、色んなことにキリキリ舞いをさせられたけれど、生活はきちんと自立していたことは確かだった。当時、久しぶりに実家に帰った時に驚かされたのは、古い農家の庭先に不似合いな大きなコンクリートミキサー車が、家屋の庇ぎりぎりに停まっていたことだ。

父は私達の家族の将来を考えて、昭和の30年代から40年代、聞いたことのない金融機関からお金を借りて、田畑を買っては耕作面積を増やしてきた。当時のその金融機関は、国策で田畑を購入する農家を資金的に援助していたようだ。食糧増産政策の一環だろう。そして現在の甥の時代は、離作する農家が増えて、その断念した田畑を借り受けて、耕作面積を増やしているのです。一団の茶畑があって、その一画の管理が放棄された時には、周辺の田畑に虫が飛び散ったり病気が広がったりで大変悪い影響を及ぼすことになる。耕作を放棄する農家は隣地の所有者に先ずは相談が持ち込むことになる。

今夏の異常な高温で、米の味は美味くならなかった、とぼやいていた。甥の嫁・泰ちゃんは味は、古米の方が美味しいですよ、と言っていた。あんなに暑い夏だったのに、人は直ぐに忘れて、今は冬の入口だ。お茶は、価額が大暴落やった。特に高級茶の値下がり率が顕著だったので、俺は茶の葉を伸ばすだけ伸ばして、量で勝負したんヤ、臨機応変、そしたら量は圧倒的に多く生産できたお陰で、売上げは昨年並みをキープしました、と少し自慢げに話していたのが、頼もしく思われた。農家によっては、去年よりも一千万円も売上げが少なかった家(うち)もあったそうだ。

農閑期の仕事として竹炭も作っている。数年前から仲間たちと取り組みだして、試験を繰り返してきたのですが、ここに来て、やっとビジネスとして成り立つように育ってきたと言っていた。昨年この炭焼き窯を見せてもらった。窯作りの工夫や数々の苦労の歴史を聞かされた。作業場には、空きの缶ビールが転がっていて、ビールを飲みながらの勉強会を繰り返していたのだろう、と羨ましく想像してみた。

このように、私の実家は、父、長兄、甥ときちんと専業農家を後継できた。これからは、この甥の息子次第だが、私には、ヤ・マ・オ・カのDNAが脈々と生き続けていくさまを、見られるのは至福の思い。故郷(ふるさと)は、まだまだ近場にあって、遠くにはいきそうにない。

故郷での出来事、私の兄弟のこと、親戚のこと、私の友人達のことの話に華が咲いた。つまらない些細な出来事でさえも楽しく聞けた。よく来てくれたぞ、甥っ子の清と嫁の泰ちゃん。甥の子供・リョウも我が家について来た。彼とは、新横浜マリノススタジアムでのトヨタカップの決勝戦以来だ。6~7年前のこと。彼は今、二十歳。青雲の士だ。私が学生時代、「二十歳の原点」とかいう本が売れていたことを、由(よし)もなく思い出した。私が東京の高田馬場の大学に入学したのが20歳だった。

私の育った、宇治田原の里のご紹介

未分類 窶鐀 山岡保 @ 2006/11/21 08:55

私の育った、宇治田原の里のご紹介。

宇治平等院の裏を流れる宇治川をさかのぼっていくと、天ケ瀬ダムがある。源流は琵琶湖だ。川に沿ってダムを見下ろすような道が蛇行している。この道こそ、その昔、ここで紹介している私のふるさとの、京都、大阪に通じる唯一の出入り口でした。高校には、マフラーをカットしたホンダのスーパーカブに乗って、レーサー気取りで、通った。もう少し川をさかのぼっていくと、宇治川は、瀬田川と田原川に分かれる。その支流である田原川に沿った道を進むと、我がふるさと、宇治田原町に入ります。河岸段丘の少しばかりの平地を、山々がぐるりと取り囲んでいる。

ここで私は生まれ、20歳まで過ごした。

(2006年10月14日 京都新聞の記事より)

和みのまち

大規模集団園を造成

京都府綴喜郡宇治田原町は今年町制50周年を迎えた。田原村と宇治田原村が合併で宇治田原町が誕生して半世紀。住宅や工業団地の開発が進む町はいま、茶文化をキ-ワードにした(和みのまち)を目指している。

府南部のほぼ中央東に位置し、人口1万249人(10月1日 現在)。南東部に修験の山・鷲峰山がそびえ、中心部を田原川が流れる。町内各地区には由緒ある寺社や史跡が多く、豊かな歴史を今に伝える。また、緑茶製法の発祥の地として、町挙げて茶を通した国際交流など茶文化の発展に力をいれてきた。

史跡・伝統 豊かな歴史 今に伝え

古くは奈良と京都、近江を結ぶ要所だった宇治田原町は、由緒ある寺社や史跡をもち、文化財が数多く残る。同町で国の重要文化財に指定されている八件のうち、禅定寺所有は七件を数える。本尊(木造十一面観音立像)、平安時代―江戸時代の同寺伝来の古文書「禅定寺文書」などで、藤原道長から頼道に伝えられた領地が同寺に寄進されたことなどが文書に残るという。正寿院(同町奥山田)の「木造不動明王坐像」も国の重要文化財で鎌倉初期の仏師、快慶の作とされる。

神社では、こぶとりの神で知られる猿丸神社(同町禅定寺)が有名で、緑茶製法を開発した同町出身者の永谷宗円を祭る茶宗明神社もある。

一方、各地区には今も古来の風習が伝わる。落ち武者の隠れ里とされてきた高尾地区に女人禁制の小正月行事「縁たたき」が残り、奥山田地区には、「ねりこみばやし」が代々受け継がれている。酒を飲ませたウナギを滝つぼに放流する一風変わった雨乞い行事は、湯屋谷地区で毎年開催される。

農林業

日本緑茶発祥の地である宇治田原町は、江戸時代に永谷宗円が「永谷式煎茶」を生み出して以来、茶作りの歴史を積み重ねてきた。町内に広がる茶園の総面積約二百三十ヘクタールで、生産農家は約五百七十戸。年間の生産量は約四百トンに上る。春の茶摘みの時期には茶園のあっちこっちで、青々とした茶の芽を摘み取る摘み子たちの姿が見られ、初夏の新茶作りの最盛期には、町内の製茶工場から茶の甘い香りが漂う。

緑茶と並ぶ同町の特産品が「古老柿」だ。皮をむいたつるのこ柿という渋柿を山里の寒風にさらし、甘く柔らかな「古老柿」に仕上げる。晩秋のころには稲刈りの済んだ田んぼに古老柿作りための柿屋が立ち並び、何万個ものつるのこ柿が干してある風景は、昔から続く宇治田原の風物詩だ。

町は本年度から、町内に大規模な集団茶園を造成する事業を始めた。移りゆく時代とともに、茶業を取り巻く環境も変わってきたなかで、緑茶発祥の地として茶文化を支え続けてきた町は、これからも茶の歴史に新しいページを付け加えていく。

教育・文化

宇治田原町は「地産地消」をキーワードに、地元産の食材を生かした食育に力を注いでいる。新茶のシーズンには、町立保育園や小学校の子供達が町内の茶園で茶摘を体験し給食には新茶を使ったかき揚げや茶の芽の炊き込みご飯など、郷土色豊かなメニューが出る。小学校では、茶やキュウリなどの生産農家を講師に招いた授業や休耕田を利用した米の栽培体験など、学校と地域が一体となって食の大切さを学んでいる。茶を通した国際交流も盛んで2004年から茶発祥の地といわれる中国雲南省との交流事業を進めている。04年からは町内の三小学校の児童が摘んだ茶を同省に贈り、友好を深めてきた。食を通してふるさとの文化に親しみ、茶を通して世界の文化を知る試みが続いている。

産業

緑豊かな茶畑に囲まれて、平屋の工場が立ち並ぶ宇治田原工業団地。1988年、府内初の民間開発による工業団地としてオープンした。総面積約80ヘクタールの広大な敷地の中に、約50の製作場や工場が立ち並び、府内有数の工場団地に発展してきた。オープン当時は金属プレスの工場が多かったが、時代とともに業種も移り変わり、今は紙加工や印刷技術、食品関係の工場が多く入居している。半導体部品や精密機械の組み立てなど、先端技術を支える企業の進出も目立つ。

同工業団地に隣接する緑苑坂地区にも、2002年に緑苑坂テクノパークがオープンした。約10ヘクタールの敷地には学校給食共同調理場や印刷工場などが入居し、現在も新たな企業が工場を建築中だ。

産業の発展が進む一方で、同町は環境保全の取り組みにも力を入れている。今年8月には、町内に生息する府の絶滅寸前種や絶滅危惧種などの野生動植物800種の生態をまとめた(宇治田原町レッドデータブック)を発行した。地域に残された豊かな自然という財産を町はこれからも守っていく。

2010年12月13日月曜日

金子光晴の詩に、「六十代」というのが

今日も、金子光晴さんの詩集を手にとった。私、62歳。

昨夜、加賀乙彦さんの「夕映えの人」を読み終えた。主人公の60歳前から70歳前後までの間、夫婦を中心に、子供たち、兄弟らの身の上に起こった数々のできごとが繰り広げられた。仕事上のトラブル、父母の残していったものの後始末を物語りにしたものだった。異母妹が突然現われたりもした。面白かった。そんな物語を読むと自然に、私自身に、62歳の男として、年相応の生活をきちんと生きているか、と問う。即答=ただただ、だらしない生活ぶりに恥じ入るのみだ。それでも、老後の生活が安らかでありたいと思う。身内に災厄が少ないことを願う。

加賀乙彦さんの「夕映えの人」のようには、なかなか、そうは巧くいかないものだ。

そんな、老境に入りつつある私は、この今、何を、どうすればいいのか?と考える。悔いのないように、生きて死ぬことだろうが。下の金子光晴さんの詩に今、私が生きていくためのヒントがあるように思えた。

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六十代   金子光晴

六十代ともなれば男も、女も、

生えてくる毛がどこも、白い。

染毛剤はよくなったろうが、

染めている姿が困る場所もある。

 

従って、万端、むさくるしく、

人目に立つのがひけ目になるので、

出合茶屋の入口をくぐる勇気もなく、

さあ、これからは何を頼りに生きるか、

 

ひとには言えないことではあるが、

娑婆気の残物(あら)は、どこへすてたものか。

亡くなった彼を偲ぶ

彼が突然死したのは、約2ヶ月前だ。あんなに元気だったのに、どうしたことだろう。彼は死んだのだ、と諦めようとしても、仕事の合間にどうしても思い出してしまう。どうしてなんだ、と虚しい問いかけを何度繰り返してきたことか。12歳年下だったので、私が62歳、彼は50歳で、十二支は同じ子(ね)だった。

彼のことを思い出す度に、私にとって彼はどういう存在だったのだろうか。彼にとって、私は何者だったのだろうか。何故、そこまで彼のことに関心を持つようになったのだろうか、友情?にしては少し違うような気がする。肉親的な繋がりとでもいうのか。

私は男ばかりの三人兄弟の末っ子だ。長兄は、私が気づいた頃には既に、中学生にして大人だった。我々の父は、家族の将来に備えて、銀行からお金を借りて、耕作面積をどんどん増やしていた。伊勢湾台風で貯水池が決壊して、我が家の水田は大木の根や人間ぐらいの大きさの岩でうずまった。それを復元するために、長兄は学校から帰ると父の作業を手伝っていた。次兄はといえば、これも負けず嫌いの性格で、長兄と父に交じって働いていた。兄二人は、私の世界からは遠くに行ってしまっていた。私は一人っきりだった。三人は兄弟らしい会話もしないまま、助けたり助けられたりすることもなく、余りにも淡い兄弟関係だった。学校で偶然会っても、私たち兄弟は他人同士の様だった。だから、兄弟喧嘩もなかった。

私は、その後小学校から大学まで、友人に恵まれた。先生にも、先輩にも後輩にも恵まれた。社会人になってからも、上司に恵まれ同僚にも恵まれた。経営者になってからも、スタッフに恵まれた。そして私には勿体ないほどの嫁をもらい、子供に恵まれた。子供たちは健やかに成長した。

そんな私が、23年前に彼に会って、彼と深い人間関係を持つようになったのは、私に欠けていた部分を彼は満たしてくれたからではないか、と思うことがある。その欠けていた部分と言うのは、私に弟が居なかったことだ。兄らとは、交じることができなかった不満があった。姉や妹では無理だったろう。

私に弟がいたら、ーーーー、そこが空洞だった。甘えてくれる弟、助けを求めてくる弟が欲しかった。

その弟役を、彼は担ってくれていたのではないか、と思う。きっと彼は、父や母違いの、私の弟だったのだ、とこの頃思うようにしている。できのいい弟に、何度も難題をぶつけてたものだ。彼は、短いフレーズで明快に返答した。時には禅問答もあった。齟齬することはしばしば。私の質問に、当ての外れた答えで、私を混乱させたこともあった。そんなことが走馬灯のように、頭の中を過(よ)ぎる。

二人は、本、映画、お芝居、絵画、ダンス、それらを大いに批評しながら会話を楽しんだものだ。二度と、目と目を合わせて語れない、笑い合えない、怒ったり、悲しんだりもできない。絶望した。

お~い、天国は酒が美味いというがどうだ? 奇麗なネエチャンが居るって言うけど、ホンマか?

2010年12月12日日曜日

父の寡黙な仕事を愛する

嫌われてもオレ流

朝日新聞で、毎週日曜日の朝刊に、功成り名を遂げた有名人や、話題の多い人が、自分の父親への思いを各氏、それぞれに語ったものを文章にしたシリーズ「おやじのせなか」がある。私の楽しみにしている企画の一つです。今日20101212は、画家の安野光雅さんが語っている。その一部分を紹介しよう。新聞記事のままです。『僕の周りにはギターやハーモニカを持っている子がいて蓄音機のある家があった。「金持ちっていいな」って言ったら「お金持ちなら偉いってことじゃないんだよ」って。誰もが劣等感を持っている。劣等感は自分がこしらえているもんだ、と。』。こんな感じで、子供が父親から影響を受けたことを、楽しく語るコーナーです。

果たして、私の子供らは私のことをどのように思っているのだろうか、と考えてみると唖然とする。

女房には、悲しい話を持ちかけては嘆かわしい思いをさせている。嫌な父親を目の前で見て、いい印象を抱こう筈がないだろう。子供の面倒は、一切女房に任せ放しだった。毎晩、酔っ払って帰っては、勝手なことを言い、それでも足りなくて酒やツマミを用意させた。仕事では、調子がいいときには調子に乗り、調子が悪くなると、家族の誰にも辛くあたることもあった。そんな親父をどのように思っているのだろうか。

そんな折、二日前の20101210朝日朝刊に中日ドラゴンズの監督・落合博満氏の息子さんが、何かと話題の多い父について書いている文章が載っていたので、ここにパクらせて頂いた。監督には、賢い猛妻が添われていることは、各メデイア等の報道で知っていたけれど、こんな立派な息子がいるなんてことは今回初めて知った。監督のことは、私が、球界で最も関心の高い人物の一人なのです。これは、先に述べたシリーズものではなく、特別に寄稿されたものです。息子は、父をよく理解している。自分のこともよく分かっている、好青年だ。微笑(ほほえ)ましい父子関係だワイと羨ましかった。こんなことを書く私だって、父子関係は最高ですよ。

息子さんはコラムニストで、名は落合福嗣(ふくし)さん。以下は、新聞に掲載された息子さんの文章です。

いつのころからだろう。「背中で語る男」や「寡黙な職人仕事」に世間が敬意を払わなくなったのは。

私は寡黙であるがゆえに批判を浴びる父の姿を見て、そんなことを考えている。

そう。私の父はプロ野球・中日監督の落合博満である。

選手としても監督としても実績は十分だ。なのに嫌われるのは、発現を曲解され、何を言っても無駄だという思いから多くを語らず、それがさらに誤解を招いているからではないだろうか。最近では今年の日本シリーズだ。敗戦後、「一番低い山でけつまずいた」と対戦相手のロッテを見下す発現をしたと批判的に書かれた。

しかし本当は違う。シーズンが最も高くクライマックスシリーズ、日本シリーズと続く「3番目に高い山」と言ったのだ。「低い」という表現ではない。むしろロッテを称賛していた。後日、父は自宅に訪ねた記者に真意を説明し、落合=悪役という「方程式」に沿って書いた記者の立場に理解もしめした。その記者は感激して泣いていた。

そんな姿を想像できないなら、正月に和歌山県太地町の落合博満記念館に来るといい。一般のファンに、シーズン中の采配やプレーについて何時間も語る父を目にするはずだ。プライベートでファンにここまで語る監督など、まずいないだろう。話を聴くための労をいとわない人には存分に語り、冗舌で気さくな本来の姿を見せるのだ。

かって私は父のことで、随分いじめられた。そのことで苦悩し、批判を浴びても流儀を変えない父に食ってかかった。最近は「ファンサービスしないと批判されているよ」と苦言を呈している。父は球団との契約書を見せて勝つことが自分の仕事だと書かれている」と反論する。父は勝利が最大のファンサービスだと考えている。

「おれは子どものころ、巨人ファンだった。強かったからだ。勝利ほどファンの心を震わせるものはない」と。そんなやり取りを通じ、私は父への理解を深めていった。

私自身も世間が抱くイメージに泣かされてきた。幼少時のやんちゃなエピソードから、あり得ない話が作られて「伝説」となって流布している。私は「手のつけられない悪童」と見られているだろう。でも最近、それでいいと思うようになった。実像は違っても、気まぐれな世間のイメージを全て変えるのは難しい。であれば50%の理解を目指そう、と。眉をひそめる人が半分いても、もう半分が「伝説」を楽しんでくれれば。最近、出版した「フクシ伝説」(集英社)には、そんな意図がある。

無愛想だとたたかれても勝利だけを目指す。勝利に心震わせるファンのために。分かるヤツだけ分かればいい。そんな父の寡黙な職人仕事を、私は愛し続けたい。

好い文章だった。今度は、母殿のことを書いて欲しいと思った。あのフクシ君の母で落合監督の妻をフクシ君の言葉で綴ってもらいたい。

天声人語、創作四文字熟語

毎年年末恒例の住友生命の四文字熟語だ。確か、去年もこの天声人語をこの私のブログに使わせてもらった。マル写しで。優秀な人がいて、よくぞよくも上手いこと考えたものだと、感心させられた。私にも一つと試みたけれど、愚かな私には何も思い浮かびませんでした。

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天声人語

ウィキリークスにやられた米政府が「公電泥棒」と叫んだかどうかはさておき、たいていのことは漢字四つで表せる.海老蔵さんの一件は「殴顔無値(おうがんむち)」か「親系酔弱(しんけいすいじゃく)」か。以下、住友生命が募った年末恒例の「創作四文字熟語」で今年を顧みる。

まずは森羅万象のはやり物。「辛辣万食(しんらーばんしょく)」とばかりに食卓を席巻したのは食べるラー油。見渡す限り萌え萌えの秋葉原で輝いた「四萌八萌(しほうはっぽう)」はAKB48。呟(つぶや)きを飛ばすツイッターは「流呟飛語(りゅうげんひご)」とまとめられた。

龍馬ブームは紀貫之にあやかって「土佐日記」。500メートルを超えた東京スカイツリーは、早くも「全人見塔(みとう)」の観光地になった。映像の奥行き、飛び出し、臨場感の三位(さんみ)一体で売る「三見立体(さんみ)」の3Dテレビも評判に。

グアム行きの構想は奇想天外だったのか。普天間放置の「棄想県外」に沖縄県民の怒りは募る。中国漁船が体当たりしてくる「船嚇諸島(せんかく)」の事件は検察も巻き込んだ。特捜には期待したいが、事件を作る「独創検事」は困る。

畜産宮崎を襲った口蹄疫で29万頭の牛豚が処分された、ああ「諸牛無情(しょぎゅう)」。古色蒼然のお役所仕事で「戸籍騒然」、所在不明の超高齢者が後を絶たない。花鳥風月も鳴く「夏長秋欠(かちょうしゅうけつ)」の猛暑に、八百屋の店頭は「市場菜高(さいこう)」。腹ぺこの野生動物が街をうろつく「群熊闊歩(ぐんゆうかっぽ)」も。

バンクーバーは「遠金五輪(とおきん)」だったが、南アフリカのW杯は盛り上がった。「芝地団結(ピッチ)」の日本代表に、われら「不眠蹴球」。過労か寿命か、勝敗を当てまくって昇天した「百発蛸中(たこちゅう)」のパウル君も忘れがたし。

2010年12月9日木曜日

夕映えとは、粋やなあ!

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私、62歳です。

今、加賀乙彦氏の「夕映えの人」(小学館)を読書、進行中です。何故、この本の題名が「夕映えの人」なのか、半ばまで読み進んで、やっと作者の意図が分かってきた。この本の作中の主人公は、男ばかりの4人兄弟の長男。家系を先祖から次代に引き継ぐ仕事を、例えば墓守などは、その時の代表者として行なわなければならない。年老いた父母の世話を最高責任者として全うしなければならない。これらは、長男として家長としての仕事でもあるが、それ以外にも何かと負うものが多い主人公だ。そんな主人公の日ごろの仕事は、私立の病院長なのですが、60歳台にのっかって、先ずは自分や夫婦の高齢化による心身、周辺環境の変化を本の中で考察し始める。考察する材料には事欠かない。余計なことかもしれないが、この本も、何とかオフの105円コーナーで買ったものです。念のために、一言添えさせてもらった。

主人公は60歳になって、それから、何かにつけて60歳の感慨に耽りだす。

1970年代には、「熟年」という言葉が生まれた。1985年に厚生省が、50代、60代の中高年に代わる言葉として「実年」という言葉を作ったが、今では余り使われていない。60代を「老年」とは呼ばないようにしているようだ。それでも、ぴったりした言葉が見つからないので、各氏がそれぞれに「時雨(しぐれ)族」、「夕暮れ族」とか「濡れ落ち葉族」なる言葉を発明した。

何年か前にできた後期高齢者医療制度では、65歳から74歳までを前期高齢者といい、75歳以上を後期高齢者だと名づけた。後期高齢者って、もうそろそろ人生終わりだってことか。そんな馬鹿な。この年齢区分名の無慈悲な役所仕事に国民から不評を大いにかった。

かって、この私のブログでも書いたが、作家・佐江衆一さんは老いさらばえていく父母のさまを「黄落」という題で本を書かれている。

そこで、この本の著者・加賀乙彦さんは、「老年」に代わる言葉として、命を大切に扱う医事従事者でもあるがゆえに、持ち出してきた言葉は静かで豊かな老いのイメージ、「夕映え」だった。夕映えと聞いて、私は心穏やかで幸せな気分になりました。同じお医者さんでも、ちょっとH(エッチ)な作家の渡辺淳一さんとは、出てくる言葉は違うんですね。

本のなかの文章をそのまま、ここに引用させていただく。

作家・加賀乙彦さんは、このように著した。《斜陽に照り映える物の姿は、立体的でもっとも美しく輝かしいんだ。調べてみると夕暮れ前の黄ばんだ日光に照らされた、夕映えの美を日本の古典はちゃんと表現している。色うるわしく、はなやかに、きよげなりとね。夕映え、いとめでたしともいう》

かくして、私も、色うるわしく、はなやかで、きよげで、いとめでたき「夕映え族」ってことかな。

20101210 夜、読了。加賀乙彦氏ご自身の夕映え時の、自叙伝ではあるまいかと察しながら読んだ。氏の立派な人格性が文字になっていて、エラク感動しました。最後の代々子さんのドラマチックな出来事は、感涙に咽(むせ)び泣きました、と言ったら大げさ過ぎるか。だから、読書は止められないんだ、と再認識した。

2010年12月8日水曜日

頑張れ、W大女子サッカー部

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毎週、日曜日の朝一番の仕事は、相模原の北里大学病院前にある、弊社が運営するホテルに行くことなんです。その名はパラディス イン 相模原です。ホテルの周りの落ち葉を箒で掃く、生垣の隙間に生えた雑草をとる、掲示物や表示物が、適当であるか、一通りグルっと周ってから、イートインコーナーでコーヒーを頂き、日経、毎日、スポーツ各紙を読む。それから予約状況をチェックする。そして、しばらく皆の働きを見ながら、何か相談ごとはないか、意見はないか、とスタッフに尋ねるのです。そして9時過ぎにはホテルを出て本来の業務のために、天王町に向かうのです。これが、最近の日曜日の午前中の行動です。

事務所に戻って、予約のチェックをしていたら、そこに予約の電話が入った。日曜日の朝、それも午前の08:30の予約。お客さんはどんな人なのだろうか、と私の耳はダンボになった。受け応えしている女子社員の関さんは、もうベテランのスタッフだ、任せて安心

ええ、? わ、、せ、だ、、だい、がく、あ、、し、き、しゅう、、、きゅう、ぶさんですね。お泊りになるのは、1月2日。ハイ。10名様以上だと団体割引がありますので、と言って部屋ごとの料金を説明していた。夕食はやっていないのですが、希望があれば弁当を用意させていただきます。1000円のものと1500円のものがあります。あ、そうですか1000円のものでいいんですね。それから、何やら案内を終えて、有難うございました、と電話を置いた。

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この応答を聞いていて、これは早稲田大学ア式蹴球部女子のことだと解った。受け応えをしている関さんに、このホテルの社長は昭和48年卒の早稲田のサッカー部だったのですよ、と言ってみてくれと傍から小声で耳うちした。

こんな、巡り合せに驚きながらも、嬉しかった。大学では、サッカーとそれに付随することしかやってこなかったこの俺には、サッカーが唯一の私の誇りで、その関係者が、ずうっと後輩だけれど、この私達が経営しているホテルに宿泊の予約を入れてくれたことに、偶然とは言え、二重にも三重にも、嬉しかった。

長岡義一監督は、私が入学した時(昭和44年)には日立製作所のセンターバックをやられていた。福島廣樹コーチは私が1年の時の4年生だった。

泊まってくれる日の夕食の時か、翌日の朝食時には顔を出してみようと思っている。当然、試合には、応援にかけつけなくてはいかん。大事な後輩たちだ、それに大事なお客さんだ。試合は、1月3日・全日本女子サッカー大学選手権・キックオフは10:30。準決勝戦で対戦相手は、武庫川女子大学だ。先日マネージャーの北さんに、勝負はどうですかと尋ねたら、心配御無用です、という感じで話してくれた。自信満々だった。

まいど、おおきに、や。

2010年12月7日火曜日

あなたのうんこになりました。

この夏、弊社で取得した住宅を解体する前に現場確認に行った。その時、部屋の隅っこに積まれていた何冊かの詩集に目が留まり、そのなかから5冊を頂いてきて、私の仕事場の机の斜め前のラックにしまっておいた。集英社、「日本の詩」全28巻のなかから5巻です。真っ赤な背表紙で格好いいのです。かっての住民が捨てていったものだ。中原中也、三好達治、高村光太郎、金子光晴、島崎藤村らのものだ。このラインナップは流石(さすが)でしょう。

昨日の夕方、仕事をそろそろ終わろうかと、缶ビールのプルタブをプシュッと空けながら、金子光晴集を手にとった。がっちり詩が詰まったその本を、適当にパラパラめっくていて、ハッと目に付いたのが、この詩だった。何も、今、私はこの詩の「僕」のような状況に居るわけではないが、この詩を非常に気に入った。この感覚は「うんこになった僕」に共鳴した、と言った方が近いかな。変にこの詩に惹き付けられた。ついには可笑しい、と笑ってしまった。この「僕」に私はほのかな親近感をもってしまい、友人になりたいと思った。そして「僕」と私が、この恋人とのよ・し・な・し・ごと(由無し事)を話し合って盛り上がっている様子を夢想した。

金子光晴「もう一つの詩編」より

恋人よ。たうとう僕は、あなたのうんこになりました。

そして狭い糞壷(くそつぼ)のなかで、ほかのうんこといっしょに、蠅がうみつけた幼虫どもに    くすぐられている。

あなたに残りなく消化され、あなたの滓(かす)になって、あなたからおし出されたことに、つゆほどの怨(うら)みもありません。

うきながら、しづみながら、あなたをみあげてよびかけても、恋人よ。あなたは、もはや   うんこになった僕に気づくよしなく、ぎい、ばたんと出ていってしまった。

彼女に振られたのだろうか。二人は何かで気まずくなった、彼氏のせいだろうか、彼女の気ままか、離(はな)れ離(ばな)れになった二人。彼氏はかっての恋人を慕(した)いながら、彼女の周辺から去りがたく留まり、未だ冷めやらぬ恋心を癒しつつもまだまだ想いは果てていない。

方(かた)や彼女の方はと言えば、そんな彼氏の心模様などに、ちょっとした思慮もなく、微妙な葛藤もなく、何もなかったように普段の生活に明け暮れている。彼と、かって恋愛していたことなど、きっと、嘘のような生活なのだろう。彼女は、「僕」をうんこにして捨てた。すっきりしたもんだ。

男は立ち直りが遅く、女は立ち直りが早い。これって、俺と「僕」の女性に対する共通の偏見かあ?

うんこになってしまった「僕」よ、うんこの身になり果てた自分に甘えるな。

糞壷から勇気をもって蘇れ。

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2010年12月5日日曜日

渡部良三、「小さな抵抗」

詩人の石井逸子氏が「息を殺して読んだ」歌集があると語ったその歌集は渡部良三の「小さな抵抗」だ。その記事が載っている新聞の切れ端を手に入れた。包み紙に使われていた朝日新聞の切れ端だ。いつの新聞か解らないが、夕刊のようだ。この新聞記事を読んで、この渡部良三という詩人に興味をもった。先ずは、その新聞記事マル写しから始めよう。それから渡部良三をもっと知りたくてネットを探ったら、この「小さな抵抗」の一部が「Shirasagikaraの日記」にあって、これもそのまま頂戴した。有難うございました。

渡部は44年、中国・河北省の戦線で、生きている捕虜5人を銃剣で刺し殺す訓練を拒否した。歌集はその折の心境や戦場の現実を鋭くえぐりだす。

〈纏足(てんそく)の女(おみな)は捕虜のいのち乞えり母ごなるらし地にひれふして〉

〈鳴りとよむ大いなる大いなる者の声きこゆ「虐殺こばめ生命を賭けよ」〉

キリスト者の渡部は「大いなる者の声」を聞き、命令を拒んだ。すさまじいリンチ。

〈血を吐くも呑むもならざり殴られて口に溜まるを耐えて直立不動〉

渡部はこれらの短歌をありあわせの紙片に記し、軍服に縫い込めて46年に持ち帰った。

「あの時、---銃剣を大地に叩きつけ、ましぐらに走り、刑台に縛されている捕虜の前に双手(もろて)を広げて殺すなと叫び、立ち塞(ふさ)がるべきであったのだ」

虐殺命令を拒否してなお、渡部は、心に深い悔恨を刻んでいた。渡部と会いたいと思い、10月に手紙を出した。ほどなく届いた返事には「年齢も満88歳と8ヶ月」であり、一昨年秋に「胆のう炎をわずらい全摘オペ(手術)」を受けた、「ご容赦を」と書かれていた。(編集員・上丸洋一)

渡部良三は1943年、学徒動員で入隊。1944年4月、当時22歳。彼ら新兵(48人)の前に中国兵捕虜5人(共産八路軍)が引き出され、訓練と称して彼らを刺銃剣で刺し殺すことを上官から命令された。度胸試しの刺殺だ。これに不服従。「敵前抗命」(処罰は銃殺刑に相当する)だ。以後、渡部は「赤付箋付きの兵隊、要注意人物」とされ徹底した差別とリンチを受けることになった。

渡部の父渡部弥一郎は、基督教独立学園の創設者でもある鈴木弼美とともに、1944年治安維持法のかどで逮捕され、獄中生活を余儀なくされている。この父の言葉「信仰も思想も良心も行動が伴わなければ先細りになってしまう。沈黙が信仰を守ってくれると考えることはおごりだぞ」。そんな言葉を胸に出征したのだろう。

苦難の中にあった彼らを支えるべき、当時のキリスト教会は何をしていたのか。大半の教会は、日本の戦時体制に協力していた。主だったプロテスタント教会は「日本基督教会団」に統合され、神宮を遥拝し、日本の戦争勝利を祈っていた。日本の過ちをとりなす、預言者的な性格を忘れ、偶像崇拝の罪を犯し続けた。

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「Shirasagikaraの日記」より

1992年 渡部良三『小さな抵抗』

「刺突の模範俺が示す」と結びたる訓示に息をのみぬ兵らは

深ぶかと胸に刺されし剣の痛み八路(パロ)はうめかず身を屈(ま)げて耐ゆ

屍(しかばね)は素掘りの穴に蹴込まれぬ血のあと暗し祈る者なく

虐殺(ころ)されし八路と共にこの穴に果つるともよし殺すものかや

新兵(へい)ひとり刺突拒めば戦友ら息をのみたり吐くものもあり

鳴りとよむ大いなる者の声聞こゆ「虐殺拒め生命を賭けよ」

「捕虜殺すは天皇の命令(めい)」の大音声眼(まなこ)するどき教官は立つ

信仰(しん)ゆえに殺人〈ころし〉拒むと分かりいてなおその冠を脱げとせまり来

酷(むご)き殺しこばみて五日露営の夜初のリンチに呻(うめ)くもならず

かかげ持つ古洗面器の小さな穴ゆしずくのリンチ頭(ず)に小止みなし

炊事苦力(クーリー)行き交いざまに殺さぬは大人(たいじん)なりとぞ声細め言う

2010年12月4日土曜日

普天間は、県外移設しかない

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沖縄知事選が、20101128に投開票され、現職の仲井真弘多氏(71)が前宜野湾市長の伊波洋一氏(58)らを破り、再選を果たした。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設問題に関しては、仲井真氏は「県内にはない。日本全国で普天間の解決策を見出していただきたい」と語った、と朝日新聞は報じていた。

かっては、仲井真氏は辺野古への移設を条件付で容認していた。が、今回の選挙では、一転「県外移設」に路線変更した。伊波氏は一貫して「国外移設」を訴えた。両者とも「県外移設」については同じ。ただ、仲井真氏には変節の経緯が胡散臭い、先の衆議院選挙を見て、県内には受け入れられないとする民意が多いと判断したのだろう。知事に留(とど)まるには、路線変更しかないと。このズルそうな胡散臭い人間に民主党はすがろうとしている節がある。民主党は、この知事は使えるとでも思っているのだろうか。でも、民意はそれを決して許さないだろう。

民主党の鳩山由紀夫氏は、日米合意を知りながら、まさか知らなかったってことはないだろうが、移転先は国外、最低でも県外と言って衆議院選挙に勝って、民主党政権の初代の首相になった。日本の安全保障や抑止力としての沖縄の存在、その基地による被害の甚大さを考えたことはあったのだろうか。結果的に、沖縄県民の心を弄(もてあそ)んだ。数々の鳩山首相の失政の締めくくりは、この沖縄の人々の心を馬鹿にしたことだ。新聞記事では遠慮がちに沖縄の人々の心を軽視したなんて表現していたけれど、軽視じゃない、馬鹿にしたのだ。沖縄の人たちを大いに怒らせることになった。

ところがどっこい、やはり民主党の新政権に早々と米国が突きつけたのは、日米合意の実施だった。こんなことは、解っていた筈だよね日本の首相の鳩山さん、菅さん、ときたもんだ。菅首相は難しい顔で本当に納得したのか、しなかったのか、オバマ大統領と日米合意に基づいて行動することを確認し合った。

そして、今回の沖縄知事選挙に政権与党の民主党からは、公認でも推薦でも、候補者を立てることはできなかった。立てられなかった。政権与党の候補者が立てられなかったことに、何か党としてのコメントがあったのだろうか。民主党が、党として発したのは、党員に対して地元候補者への応援に規制をしたことぐらいだ。この選挙についての、党としての考え方は、最後まで聞けずじまいだった。

沖縄にも、普天間基地移設反対の人々はいる、日米合意を尊重しようとする人々はいる。政権与党として日米合意を尊重しようとするならば、当然党の考えを持つ候補者を、自党の公認もしくは推薦候補として、民の声を聞くべきではなかったのか。今回の選挙が盛り上がりに欠けたのは、普天間基地移設反対の人たちが、声を上げるチャンスがなかったからではないか。

そして、昨日20101202、仲井真知事が菅首相に会って、この知事選で公約に掲げた「県外移設」を主張した。首相は、米軍普天間飛行場を名護市の辺野古湾一帯に移設するのは日米合意なので、理解をして欲しい、と意見交換がなされたと朝日新聞は報じている。

投票者のほぼ全員の意見は、普天間飛行場の移設は、国外か県外かのどちらかなのだ。移設反対、日米合意に従うべきだと投票した人の数は把握できていない。政権与党の考え方「日米合意を基づく移設を行う」を民意に諮(はか)らなかったことをどう考えているのだろうか。かって、辺野古への条件付で容認していた人たちも、仲井真知事もかってそうだったが、こぞって県外移設になびいていった。

もう、日米合意の見直しをやるしかない、絶対県内移設はありえない。民意が許さないだろう。

それともかってのように琉球国として、独立しましょうか。

2010年12月1日水曜日

北朝鮮、韓国に砲撃

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写真は読売新聞より。23日、北朝鮮の攻撃を受けた延坪島。島内の港では島民たちが立ち上がる煙を見つめていた=聯合AP

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日本から海を越えた一番近い国、韓国。北朝鮮が韓国に砲撃した。戦争だ。こんなことが、身の回りで現実に起こった、私には初めての経験だ。哨戒艦撃沈とか飛行機爆破とかは以前にもあったことだが、民間人が住んでいる住宅街を爆撃するなんて、私には到底考えられないことだ。大変なことをしでかしてくれたものだ。

私が大学4年の時、24歳、1972年に韓国に行った。その時のことを思い出したので、少し触れてみたい。韓国に行ったのは、日本に一番近い外国で、当時、私は大学のバリバリの体育会のサッカー部に所属していたのですが、サッカーでは韓国代表に日本代表がいっつも負けていて、我々と同じ世代の韓国の大学のサッカーがどんなものなのか、実際に自分の目で確かめたかった。日本が勝ったことも引き分けたこともあったのですが、私の分析では韓国が体力的、戦術的にもいつも勝っていた。試合に賭ける執念でも韓国は勝っていた。私が所属していた大学のサッカー部は、高麗大学と毎年親善試合をしていて、こっちも勝ったり負けたりだったのですが、日常の練習がどのようになされているのかを見たかった。旅程は10日間、使える費用は総額3万5千円。翌春、就職したのですが、初めてもらった給料の手取りが5万円だったので、3万5千円はさほど少ないということではなかった。東京から下関までの往復は、キセルが絶対条件だった。下関から関釜フエリーに乗って釜山に入った。韓国のオバチャンが、日本からの荷物をいっぱい背に担ぎ、両手にいっぱいぶら下げて乗り込んできた。ペチャクチャペチャクチャ強烈にうるさかった。商売熱心で気丈夫なオバチャンたちだった。キムチのせいか、ニンニクのせいか。渡航費は往復だと1万円。往復券を買うと1割引で9千円だった。早朝釜山港に着いた。

釜山からは日本の対馬が見えた。釜山の何とか公園には、日本からやってきた豊臣秀吉の軍を追い払った李氏朝鮮軍の大将の銅像が日本に向かって建っていた。釜山港や釜山駅が見下ろせた。この何とか大将と伊藤博文を撃ち殺した安重根(アン・ジュングン)は、憎っくき日本との抗戦の歴史に残る韓国の英雄なんだろう。その公園は釜山市民の憩いの場だった。教科書で習った文禄、慶長の役がこれだ。釜山からソウルまでは、列車・統一号に乗った。釜山の駅長さんが鳥取の出身者で、私に日本語で釜山の町の事情やソウルへの行き方、ソウルの町のことを話してくれた。それも駅長室で。ソウルのミョンドン(明洞、このような字を当てるのではなかったか)で、当時の反抗詩人、キムジハ〈金芝河)がよく酒を飲んでいたと謂われていた酒場で、彼の血、反軍、民主化の血は俺にも流れているんだ、そんな気障なことを口走りながら、マッカリー(濁酒)をあおるように飲んだ。店では、韓国の大学生とも話ができた。梨花女子大だったか、奇麗な女学生もいた。キムジハの長編詩「五賊」を読んで、私はイカレてしまっていたのです。反共法で逮捕されたが、その後も度々逮捕されたが、軍事政権下において言論弾圧には屈しなかった。韓国の学生からは、キムジハの話は聞き出せなかった。感心が薄いことに、何だか、肩透かしを食わされた思いだった。

午後だったか午前だったか、ソウルの町の上空に飛行機が現われ、ウ~ウというサイレンが鳴って、歩道を歩いている人は物陰に隠れ、車は路肩に止めて黄色い旗を揚げていた。往来には人っ子一人もいなくなるのです。飛行機は新聞社のもので、敵機に擬(なぞら)えた。建物にも、一番高い位置に黄色い旗が取り付けられていた。何しろ記憶は薄れているのですが、思い出せるだけ思い出してみよう。私も皆と同じようにビルとビルの間に隠れた。そうすること20分ほどで、敵機もどきは去っていった。人はぞろぞろと物陰から出てきて、車は旗を下げて走り出すのです。

その時に初めて、韓国は戦・争・状・態にあるのだということを知った。まだ戒厳令が出ていたのです。高麗大学のサッカー部のなかにも、徴兵を終えた人もいた。夜も外へ出るのには、時間制限があったように思う。10時か、11時以降は外出はできなかった。マッカリーが飲みたくて、薬缶で酒屋に買いに出て、旅館のおばさんに叱られた。

飯を食いに食堂に入ったら、女の子が私のオーダーを聞きながら、私の髪の長い頭を見ながら不機嫌な表情をするので、どうしたんだ?というような顔をしたら、その彼女が言うには、長髪はナンバーテンだと言うのです。男として、ナンバーテン。男として私の姿が、最悪だと言うのです。長髪は格好悪いのだ。韓国人なら、もう立派な国賊モン扱いだ。

朝、ホテルをチェックアウトして、これから何処へ行こうかと考えながら、うろちょろ道路を歩いていたら、警官が私の傍に寄ってきて、確か「パルリー」と言いながら、本気で怒っているのです。怖くなって、警察の目から逃げるように、その場から離れました。それは、急げと言うことなんだよ、と帰国後友人に教えてもらった。ゆっくり歩くことも許されない国だったのです。少し前、横浜でAPECが開かれ、横浜には警察官がそこらじゅうにいて、横断歩道で立ち話でもしようものなら、走ってきて早く通り過ぎてくださいと言っていた、あれと一緒だ。

バスで板門店に向かって高速道路を走っていた。軍隊か警察によってバスは止められ、乗り込んできた兵隊か警察官に取調べを受けた。身体検査をされた。銃器を持っていた。表情は怖くなかったが、それでもこのようなことに慣れない日本人にとっては、クワバラだった。板門店は異様な警戒感に包まれていた。盗むようにカメラを北に向けて撮った。北朝鮮の兵隊が銃をこちらに向けて立っているのが小さく見えた。その後、板門店は観光の名所になり、今は、今回の北朝鮮の韓国への砲撃事件で、板門店には近づき難くなっているようだ。

高麗大学の本校があるグラウンドに着いたら、此処はサッカー部が使っているグラウンドではないと言われ、事務局へ行って、サッカー部が毎日練習しているグラウンドを教えてもらったのですが、肝腎のサッカー部は今、地方に遠征中と言われてしまった。韓国語が喋れないために、事前にそのような情報を得ることをしなかったのです。

それから、数日ソウルの町を徘徊した。いろんなことがあったが、ここまでにしておこう。又の機会があるだろう。

私の大学時代の友人・金さんの叔父さんは横浜市の石川町に住んでいて、金と私がそのお宅にお邪魔をした時のことです。今から15年ほど前のこと。叔父さんが金に話しているのを聞いて、驚いたのです。「イサオ〈金のこと〉、来月ポサン団(墓参)として韓国へ行くんだが、怖くて、恐ろしくて心配しているんだよ。殺されるんじゃないか。帰って来れないんじゃないか」、とそんな話を真顔で金に話していた。この会話を私はその時は理解できなかった。墓参団で韓国に行って、何故、そんなに怖がることがあるのかと。後で、金の説明してくれたことによると、叔父さんは朝鮮総連の仕事の一部を手伝っていたので、韓国政府からは、注意人物と見られていないかと言うことだった。1948年、私が生まれた年だ、朝鮮半島が二つの国に分かれて、東西冷戦で、政治的にも対立する羽目になってしまった。市民生活のレベルでもこのような不幸が生まれていることを、初めて知った。祖国の分裂がこのような家庭内にも不幸の影をさしていたのだ。東西冷戦の犠牲だ。韓国系の民団(在日本大韓民国民団)と北朝鮮系の朝鮮総連(在日朝鮮人総連合会)は対立していた。金は叔父さんに、建物の角を回るときには少し注意した方がええですよ、大きく回れば大丈夫ですよ、と半ば冗談の心算で言った言葉を、叔父さんは真剣に聞いていた。

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韓国大延坪島で24日、北朝鮮の砲撃によって被害を受けた海兵隊官舎の前で報道陣を制止する韓国軍の兵隊=ロイター

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20101124、25の朝日新聞・朝刊1面の記事をそのまま転載させていただいた。

2兵士死亡、住民も負傷

大延坪島(テヨンピョン) 陸地砲撃は休戦以来

【ソウル=牧野愛博】韓国国防省によると、北朝鮮南西部の黄海南道に駐屯する北朝鮮軍が23日午後2時半過ぎから、韓国の大延坪島やその周辺海域を断続的に砲撃した。同日午後3時40分ごろまでに数十発の砲弾が撃ち込まれ、韓国軍に死者2人、重軽傷者16人の被害が出たほか、民間人が少なくとも3人負傷した。韓国軍も応援措置として対岸の北朝鮮軍陣地に砲撃80発を加えた。

1953年に朝鮮戦争が休戦した後、北朝鮮軍が韓国領土の陸地を直接砲撃したのは、今回が初めて。今秋、南北離散家族の面会事業などで緊張が緩和しかけていた南北関係は再び緊張し、北朝鮮核開発を巡る6者協議の行方にも大きな影響が出そうだ。

大延坪島は、海上の軍事境界線に相当する北方限界線(NLL)挟み、北朝鮮から南に十数キロ。北朝鮮の海岸砲による砲撃で市街地など島内数ヶ所で火災が起き、民間家屋60~70軒も破壊された。島内には民間人1100人以上が住み、韓国軍約500人が駐屯しており、民間人は島内の施設や本土へ退避した。

現場海域では韓国軍が22日から演習をしていた。北朝鮮は国連軍の設定したNLLの有効性を認めていない。朝鮮中央通信によると、北朝鮮軍最高司令部は、砲撃は韓国軍演習への対抗措置だとして「我々の領土を侵犯すれば、無慈悲な軍事対応打撃を加え続ける」と警告。先に砲撃したのは韓国だと主張した。

韓国の李明博(イミョンバク)大統領は23日午後、緊急の外交・安全保障関係閣僚会議などを開き、「状況が悪化しないよう万全を期せ」と指示。同夜には韓国運合同参謀本部を訪れ、「民間を無差別に攻撃した重大な事態だ」と強調。北朝鮮が再び挑発した場合、通常の対応の枠を超えて応戦する考えを示した。

韓国統一省は同日、25日に予定された南北赤十字協議の無期限延期を発表した。

韓国軍は、砲撃が朝鮮戦争の休戦協定などに違反すると判断、北朝鮮軍の砲撃陣地に集中的な反撃を加え、「相当な被害を与えた」とした。周辺海域一帯に、局地挑発に備えた軍の防衛準備態勢を最高基準に格上げして発令。空軍機も現場海域に待機させた。

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「村全体が萌えている」

【ソウル=箱田哲也】「村全体が燃えている。真っ黒な煙で何も見えない」---。北朝鮮から砲撃を受けた韓国・大延坪島の島民たちは23日、韓国YTNテレビの取材に当時の生々しい状況を語った。

「船に乗り込もうとしたところで砲弾が落ちてくるのを直接見て、逃げた。まだ目の前に真っ赤な火柱が立っている。今は橋の下に約20人の住民と避難している。道路にはだれ一人としていない」

島の生まれと言う40代の男性は、電話口で話した。「子供が学校にいる。心配だ」「村が廃墟になった。震えている。早く島を出たい」

砲撃は白昼、何の予兆もなしに始まった。50代の男性は「『これは訓練ではない、実戦だ。すぐに避難しなさい』という放送を聞き、近くの学校に逃げてきた。ここから見えるだけで10軒以上の家が燃えている」と話した。

「みんな『戦争が起きた』と言い合っている」。被弾した集落に住むイ・ジョンシクさんは、「一発落ちるたび、すごい衝撃だった」。

ソウル中心部から100キロ以上西の黄海に浮かぶ大延坪島は、「住民千数百人の大半が漁業か農業で生計を立て、ふだんは静寂に包まれている。

付近海域で交戦があるなど、いったん南北が衝突すると緊張が走る「海の火薬庫」のような地域ではあった。だが40代の男性は「これまでとは全く違う」と語った。

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20101128の朝日の社説より

朝鮮半島

米中、そして日本の役割

北朝鮮が砲撃した韓国領の島から遠くない黄海で、きょうから、米国と韓国の合同軍事演習が始まる。北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。

北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

緊張の緩和と危機の管理へ、米国と中国が果たす役割が大きい。

北朝鮮が砲撃した韓国領の島から遠くない黄海で、きょうから、米国と韓国の合同軍事演習が始まる。北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。

北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

だが、これだけでは、中国に集まる国際社会の厳しいまなざしを満足させるものではあるまい。

北朝鮮が砲撃した韓国領の島から遠くない黄海で、きょうから、米国と韓国の合同軍事演習が始まる。北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。

北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

今年は朝鮮戦争が開戦してから60年だ。北朝鮮は砲撃の後、朝鮮戦争で戦死した中国の故毛沢東主席の長男の生涯を描いた中国のテレビドラマを放映したり、墓前に閣僚らが献花したりして、中国の歓心を買うような行動を見せた。

とはいえ、北朝鮮の今後の暴挙中国は強くいら立っているに違いない。演習名目とはいえ、ひざ元の黄海に米軍の原子力空母まで来させることになり、心穏やかではなかろう。

中国は今年、金正日総書記の訪問を2回も受け入れ、友好を演出した。経済やエネルギー、そして食糧の面で気や朝鮮の生命線を握ってもいる。

そんな中国も、北朝鮮の核実験やウラン濃縮の開始を防げなかった。その影響力に限界があるが、世界で急速に存在感を高める中国は、それに伴う責任も果たすべき大国である。より強い説得に当たってもらわねばならない。

米国も今回の事件による危機を押さえ込むために、中国との高官協議の実現を探り、これまで以上に中国の影響力行使を求めている。近く、日米韓の外相会談も開きたい考えだ。

米国は中国とともに朝鮮戦争の当事者でもある。それだけに、東アジア地域の平和と安定の確保にとりわけ重い役割がある。米中の首脳同士をはじめ、あらゆるチャンネルを使って緊張緩和に努めてほしい。

そして、日本は「中国頼み」「米国任せ」にとどまってはならない。

日本は、国連安全保障理事会の非常任理事国だ。北朝鮮情勢は、東アジアで最大の安全保障問題であり続けている。安保理などの場で、北朝鮮に国際社会の一致したメッセージを出すよう積極的に動くべきだ。

韓国では、北朝鮮への強硬論と戦争の不安が交じり合い、社会が揺れている。日本は韓国に思いを致し、安定回復に向けて連係を強めたい。

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20101130 朝日朝刊・社説

朝鮮半島  米中が対話の環境作りを

「対話と協力を通じて努力し、人道支援mp惜しまなかったのに、返ってきたのは、核開発と哨戒艦爆沈に続いて島への砲撃だった」

韓国の李明博大統領が昨日、国民向け演説でそう憤ったのも無理ない。

哨戒艦事件で兵士46人が犠牲になった。今回の砲撃は民間人を含む4人の命を奪い、多くの民家を焼いた。

いま最も大切なのは、更なる衝突を回避し、緊張を和らげることだ。当事者はむろん、関係国はそのための知恵を絞らねばならない。

中国政府が、6者協議の代表による緊急の会合を呼びかけた。

6者協議は本来、南北朝鮮と日米中ロが参加し、北朝鮮の非核化、米朝や日朝の関係正常化をめざすものだ。中国が提案したのは、核問題を扱う正式な会議ではない。「最近半島情勢に複雑な要素が現われている」といい、6者で意見交換をしたいという。

北朝鮮に影響力を及ぼすよう求められている中国が、真剣に動いていることを世界に示す。対話を提案しているとき、北朝鮮は新たな挑発をしづらくなるだろうーーー。6者協議の議長国である中国が、そう期待しての提案かもしれない。

事態好転の糸口を探ろうという狙いはわかる。だが、今いきなり6者代表が集まって、現実的な成果をあげられようか。

韓国は「まだその時期ではない」と反応している。米国も、北朝鮮が「態度の変化」をはっきり示すことが先決だとする立場を明らかにした。

韓国は「まだその時期ではない」と反応している。米国も、北朝鮮が「態度の変化」をはっきり示すことが先決だとする立場を明らかにした。

日本もそれに同調している。北朝鮮は行為の責任を認めるなど、先にすべきことがある、という姿勢だ。

北朝鮮は、韓国の挑発が砲撃の原因だと反論している。新たな核開発につながるウラン濃縮施設の公表や軽水炉の開発のほか、核実験の準備ととられかねない動きも見せている。

これでは、6者が顔を合わせたところで平行線に終わる。だが、何もしないままでは、緊張と膠着状態が続く。北朝鮮の核をどうするかも、いずれ本格的に打開する必要がある。

局面を転換させる大きな力を持っているのは、やはり米国と中国だ。

一昨日、クリントン米国務長官と、中国外交を統括する戴耒国国務委員が電話で話し合った。戴氏は「重要なときに中米が建設的役割を積極的に果たさねばならない」と語った。

その通りである。両国が対話の環境づくりに協力して努めてもらいたい。

米国は日韓との外相会談を開く意向だ。中国は近く高官を訪朝させると観測されている。北朝鮮を説得し、各国を調整する。米中のそんな取り組みがあってこそ、6社が会える素地ができる。この戦略に沿って日本も、朝鮮半島の緊張緩和に貢献すべきである。