2007年(平成19年)5月15日で沖縄が本土に復帰して35年になる。那覇のホテル建設の準備や、石垣島でのホテル計画、その他にもいくつもの企画がもちあがっていて、私を含めて弊社の役員は、何度も沖縄に通うことになった。そこで、話題になるそのひとつひとつから、考えさせられることが多い。
文化人類学上のことについては、興味を大いにそそられる。宗教、言語、音楽、住居、食については、後日、機会あるごとに学習して、学び取った内容を記録しようとも思った。
そんな折、沖縄が本土に復帰した35年目の5月15日に、発行された新聞を一目見るだけで、沖縄の現状、日米安全保障条約における日本の、とりわけ日本の中の沖縄の置かれている状況がよくわかる。本土に住む一市民としての私は、私達は、何を、どのように考えれば良いのか、この機会を大事にしたい。
沖縄タイムズと琉球新報の15日朝刊の2紙の社説を読んだ。
本土の人たちは、これらの新聞を読む機会が少なかろうと思って、転載した。沖縄の人たちの声、私たちが考えなくてはならないことの示唆に溢れている。
沖縄タイムズ
復帰35年・基地
穏やかな暮らしなお遠く
沖縄が本土復帰してきょう五月十五日で三十五年になる。
「基地のない平和な島」を願いながら県民が過ごした三十五年間は、復帰後も居座る続ける巨大な米軍基地との戦いであり、その返還、生理・縮小に向けて声を張り上げることであった。
沖縄タイムズが実施した復帰三十五年の県民世論調査drは、米軍基地について「段階的に縮小」(70%)「ただちに全面撤去」(15,4%)を合わせ、なお八割強が縮小を求めている。
しかし、現実はどうだろう。米兵による暴行事件を契機に日米特別行動委員会(SACO)で返還合意された普天間飛行場や那覇軍港など十一施設で明らかなように、返還が決まった施設も県内移設が条件とされ、目に見える「負担軽減」にはつながっていない。
それどころか、極東最大の嘉手納基地には、新たに地対空誘導弾パトリオット(PAC3)が配備され、F15戦闘機の一部訓練を本土に移転する代わりに最新鋭のステルス戦闘機F22Aラプターを一時配備するなど負担は増すばかりだ。
県内の米軍訓練空域では、米軍再編に基づく「米軍と自衛隊の一体化」に沿い、航空自衛隊と米軍との合同訓練なども実施されている。
朝鮮半島有事の際、普天間飛行場が米軍のアジアにおける「出撃の最前線基地」になることも最近、米公文書などから明らかになった。紛争が勃発した時は、ハワイや米本土からも戦闘機を追加配備し、計三百機体制で作戦を遂行する計画だ。
私たちが気に掛かるのは、計画を知っていたはずの日本政府が、なぜ県民にこれらの情報を伝えないのか、ということである。これでは、県民の目に触れない軍事計画がほかにもあるのではないかと疑念が広がるだけだ。
県民は三十五年前の復帰の日に、それまでの米施政権下にあった二十七年間を振り返って「平和な島」をつくることを誓った。だが、復帰後もベトナム戦争、その後のアフガニスタン紛争、湾岸戦争、イラク戦争と沖縄は米軍の出撃拠点として使われてきた。
「加害者にはならない」という私たちの意志は踏みにじりられ、その思いは今に至っても強く残っている。
「沖縄の歴史」伝える責務
文部科学省の教科書検定で、二00八年度から使用される高校の歴史教科書の記述から沖縄戦における住民等の「集団自決」に対する日本軍の関与が削除された。
日本軍の強制という意味合いを消し去り、日本軍による「加害性」を教科書から排除しょうとの意図だ。
県民世論調査では日本軍の関与が削除されたことに対する「反対」が81,4%に達した。
理由は「沖縄戦の歴史を歪曲するから」52,4% 「『集団自決』の現実を伝えていないから」37% 「日本軍の関与が明確だから」9,5%の順に多かった。
その上で、沖縄戦の体験などを次の世代に語り継ぐことについては「すすんで語り継ぎたい」(51,3%) 「尋ねられたら話す」(40,1%)を合わせ約九割が戦争体験継承の必要性を感じていることがうかがえる。
非戦闘員の「集団自決」がなぜ起きたかという「真実」に目を閉ざしては、歴史を見誤ることになりかねない。
旧体制下の負の遺産を直視することは重要であり、私たちもまた「沖縄の歴史」として後世に伝えていく責務があることを忘れてはなるまい。
「憲法の理念」見つめなおそう
憲法改正手続きを定める国民投票法が十四日、与党の賛成多数で可決、成立した。今後の改憲論議の最大焦点が戦争放棄と戦力の不保持をうたった第九条であることは言うまでもない。
集団的自衛権の解釈改憲への動きなども表面化した今、米軍基地を多く抱える私たちはこの問題にどう対応すべきなのか。自らの問題としてきちんと検証していく姿勢が求められよう。
しかし、憲法ができて二十五年間の空白がある沖縄では、まだまだ憲法の理念が生かされているとは言えない。
憲法施行六十年の節目に、現行憲法の理念とその重さをあらためて見つめ直したい。
戦後二十七年間の米施政権下で蹂躙された県民の人権、奪われてきた平和に暮らす権利を思えば、この三十五年間と私たちが復帰に求めた「願い」との隔たりはあまりにも大きい。
復帰とは何だったのか。これからの沖縄像をどう描くのか。復帰の日のきょう、あらためて考えたい。
琉球新報
復帰から35年
まだ遠い「自立の確立」対米追従からの脱却が先きょう十五日で、沖縄は復帰から三十五年迎えた。この間、道路や港など社会基盤の整備は進んだが、米軍基地など変らないものもある。
基地経済依存率は減少したが、日本政府の国庫支出金、振興策などの官依存経済は進み、県民の目標「自立の確立」はむしろ後退しているようにみえる。そして、十四日には憲法改正手続きを定める国民投票法が参院本会議で与党などの賛成多数で成立、憲法改正に向けて一歩を踏み出した。
沖縄の基地負担がさらに増える懸念もある。憲法が復帰の原動力去る対戦で沖縄は戦場となり、二十万人余の犠牲者をだした。県民は四人に一人が犠牲になった。一九五一年にはサンフランシスコ講和条約が結ばれ、翌五二年四月二十八日には発効、日本の独立の回復と引き換える形で、沖縄と奄美は日本から切り離された。
米軍は沖縄を太平洋の「キーストーン(要石)」「巨大な不沈空母」とする基地建設を進めた。基地機能を維持するため現役軍人を長とする琉球列島米国民政府(USCAR)を通じて統治するが、行政、司法、立法などすべてに権限が及び、銃剣とブルドーザーで土地を接収し基地を拡帳するなどした。
住民は怒り、島ぐるみ土地闘争、主席公選の要求など、復帰運動へと進展した。立法院での日本復帰決議をはじめ、国旗掲揚請願、本土と沖縄を隔てる北緯二七度線上で海上集会が開催された。
「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」を掲げる日本国憲法の下で、基本的人権が守られ、人間としての尊厳をーとの願いが復帰運動の原動力でもあった。
日本国の憲法の適用を求め、立法院は復帰前の六五年に憲法記念日を休日と定めた。その憲法は今年で施行六十年を迎え、「戦後体制からの脱却」を掲げる安倍首相は任期中に憲法を改正する方針を打ち出し、改憲の手続きを定める「国民投票法」を成立させた。
沖縄に憲法が適用されてからまだ三十五年。米軍基地が集中する沖縄から見れば、憲法がちゃんと実践されていなように思える。
「今、求められているのは、憲法を変えることではありません。
憲法を誠実に実践し定着させることです」(沖縄の弁護士七十四名による共同の意見表明)。憲法の適用を求めてきた県民からすれば、まだ三十五年、憲法が持っている本来の目的、狙いを実感したい。
静かな沖縄返せ「戦後体制からの脱却」を訴えるなら、教育基本法や憲法より前に、日本政府が戦後一貫して推し進めてきた「対米一辺倒」「対米追従」からの脱却が先だ。沖縄の復帰運動の高まり、本土での反ベトナム戦争の高揚などから「沖縄が爆発する前に~」、と復帰を認めざるを得なくなった米国にとっては、沖縄の基地を復帰前と同様に自由に使用できることが重要だった。
日本政府は米国のやることに基本的には反対しなかった。それが今でも続いており、嘉手納、普天間基地からの騒音、基地から派生する事件、事故となっている。
嘉手納基地は日米合同委員会で合意した「航空機騒音規制措置」で、「午後十時~(翌日)午前六時の飛行および地上での活動は、米国の運用上の所用のために必要と考えられるものに制限される」としているが、実際は戦闘機の未明の離陸が恒常化しており、規制措置は有名無実。
「静かな夜を返せ」「静かな空を返せ」と訴える嘉手納や普天間の爆音訴訟で司法から過去の損害賠償の支払い命令を受け、今後とも損害賠償が発生する恐れがあるのに、有効策は打ち出していない。
在日米再編に協力した自治体に交付金を上積みする米軍再編推進法案は、米軍基地を押し付ける「アメとムチ法」。地元の頭越しで合意した再編をこれまで以上に強引に推し進めるものだ。このところ沖縄からの発信力が低下したといわれる。
日米両政府を動かした復帰運動のエネルギーを再構築して、県民が一体となり平和で豊かな沖縄を目指したい。県民一人当たりの所得は全国最低で、若者を中心に失業率は高い。
官経済、財政依存体質など課題は多いが、「経済の自立なくして沖縄の自立なし」で、脱・基地・沖縄振興を実現したい。
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