2008年1月25日金曜日

和歌山・海草中 故嶋清一さん殿堂へ

野球殿堂入りを決める野球体育博物館(東京都文京区)は11日、競技者表彰のプレーヤー部門で広島で歴代4位の通算536本塁打を放った山本浩二氏(61)と、巨人で通算203勝を挙げた堀内恒夫(59)を選んだと発表した。このご両人のことについては、野球のことを余り詳しくない私に、論評する資格はない。立派な選手だったことは間違いないからだ。

今回はこれからが、重要なことなのです。

特別表彰には、和歌山・海草中(現向陽高)や明大の投手として活躍しながら戦死した故・嶋清一氏を選出したことなのです。こういうことに、私は特別感応しやすいのです。そのことを詳しく朝日朝刊(2008 1月12日 土)が紹介しているので、後日のために転載保存したいと思った。記事を読んで、当の嶋氏を選考したスタッフの方々に、ご立っ派ですぞ、あっ晴れですぞ、と感謝した。くどくて、すみません。私は嬉しいのです。戦争では、このような立派な人をたくさん亡くしたことだろう。アスリート、科学者、芸術家、あらゆる分野で、将来立派な仕事をしたであろう故人に、我々は何をもって報いればいいのだろうか。私の伯父も戦死した。優秀な農業従事者だった、と祖母から聞いた。憎むべきは戦争だ。我が祖国日本は、アメリカにどこまでも追従して、危ない橋を渡ろうとしているのではないのか。

甲子園の「怪物」69年越し勲章




1201229282.jpg




(海草中時代の故・嶋清一さんの投球フォーム)


準決勝・決勝で無安打無得点

全国高校野球選手権大会がまだ全国中等学校優勝野球大会と呼ばれていた戦時中の1939(昭和14)年、第25回大会で、伝説の快投は生まれた。海草中の左腕エースだった嶋さんは、1回戦から決勝までの全5試合を1人で投げ抜く。右打者の内角に食い込むように伸びてくる速球と、「懸河(けんか)のドロップ」と呼ばれた垂直に落ちるかのような変化球で、相手打者を次々と打ち取っていった。

優勝まで45イニングを投げて、失点はゼロ。しかも連投で疲れがたまる準決勝、決勝でノーヒット・ノーラン(無安打無得点試合)を達成するという偉業だった。

和歌山中(現桐蔭高)時代に嶋さんと対戦しているプロ野球元紺鉄監督の西本幸雄さん(87)=88年殿堂入りは、「戦争で命を落としていなければ、戦後の野球史は必ず変わっていた」と語る。

全5試合完封での優勝は戦後、48年の30回大会で福岡・小倉高の福島一雄投手も達成したが、準決勝、決勝で1安打も許さなかったのは、今年で90回を迎える大会史上、嶋さん1人しかいない。決勝の無安打無得点試合もその後、80回大会で横浜高の松坂大輔投手(現レッドソックス9が成し遂げただけだ。

嶋さんは1920年、和歌山市に生まれた。姓は野口。幼少の頃、親族の嶋家に養子入りをした。甲子園での勇姿とは裏腹に、ロイドメガネをかけた容姿は優しく、おとなしく見えたという。

明治大学に進学し、43年、学徒出陣。出征時に、海草中時代からの同僚、古角俊郎さん(86)に「おれなあ、戦争がなかったら新聞記者になりたかった」とこぼしたという。野球を愛し、甲子園で球児たちの姿を追うことを夢見た青年は45年3月、インドシナ半島沖の海戦で戦死した。24歳という若さだった。

古角さんは殿堂入りの知らせに「感動と感謝に尽きる」と喜び、「嶋をはじめ、多くの選手が戦争で亡くなった。平和ほど尊いものはないと思ってほしい」と語った。

猫・愛情物語


友人のことをどうしても書き留めて置きたいと思った


『猫・愛情物語』


                                           05 4 1から


(注)正月にPCを整理していたら、保存されていたこんな文章があったので、一部加筆して公開した。随分以前の文章だが、その時は何かのためにと思って書き綴ったのでしょう。



友人のホームページを覗くと愛猫家だとは直ぐに分かった。


最初のうち、そのパソコンの画面からは、友人の表面的な人となりを知ることはできたが、当然と言えば当然な話だが、友人の心の深奥までも覗き見ることはできなかった。それから、私の経験したことの無い、今まで知ろうともしなかった、私にとっては、別世界に引きずられてしまったのだ。



友人は、まず野良猫を拾ってきては里親探しをしていることに、私は興味を引いた。何でそんなことをするのだと思った。野良猫を拾ってきて、最初にすることは動物病院に連れて行き、診断してもらうのだ。元気に荒野を駆け巡っていたのだから何もそこまでしなくてもいいのではないかと私は思ったのだけれども、野にいる動物たちは何かしらの病気に罹っていたり、お腹に虫が湧いていることが多いそうなのだ。当然、保険はなし、診療費は自腹で賄うのだ。



春は、盛りの時季、交尾を求め合う恋人たちが、威勢良く走り廻る。この時期に入る前に友人は頑張るのだ。避妊をしてない奴を捕まえて、避妊手術を施すためだ。丁度ネズミ捕りを二回り大きくしたような猫捕獲機があって、友人は、よく出没する場所に仕掛けては、遠くから猫が捕獲機に入るところを息をこらして待つ。入ればそのまま風呂敷か布でかくまい自宅に連れて帰り、朝を待って動物病院に連れて行くのだ。


朝は仕事を控えているので時間が無い。よってタクシーを使わざるを得ない、当然自腹だ。診断してもらい、診断次第では治療も必要になることがある。注射や薬が必要になることのほうが多い。避妊をする。手術したときはお泊りのこともある。高額な治療費になることもある。連れて帰り、友人の判断で、荒野でも生活できそうな奴は再び野に放し、病気や怪我で野に放すには忍び難い奴は自宅にて回復を待つ。そして人間との共同生活に慣れてきた奴を、インターネットで里親捜しを開始するのです。



野良猫全てに避妊手術をしなければ、野良猫たちはどんどん増えていく。一年間に2、3回妊娠するそうです。そして、人間との悲しい戦い?不毛なトラブルが発生しては、結局は猫が殺されることになる。その悲劇を未然に防ぎたいのだ、と友人は言う。


そして、野で暮らす猫にも餌をあげたい。友人は餌とは言わないのです、お食事をあげたい、と言うのです。野良猫を捕まえては、このような活動をしている人に対して、格安の治療費で対応してくれる獣医さんもいてくれる。心ある獣医さんもいらっしゃるのだ。友人が活動しているエリアにいる野良猫は、どいつのことも素性を把握済みです。避妊手術済みの奴、避妊してやりたくてもどうしても捕まらない奴、群れをなす奴らの血縁関係、人懐っこい奴、びくびくしていて近寄ってこない奴。


私はここで、猫のことをやつ(奴)と言っているけれども、友人はあの(子)と言う。あたかも自分の子供(肉親)のように接しているのです。



以前、愛犬家の私は友人に言ったことがある、雨が降ると私は嬉しいのだと、何故なら私は犬を3匹飼っていて散歩が犬と私の共通の楽しみなのだよ、でも頭の痛いことがあるのだ。犬の小便のことで悩んでいるのです、っと。電柱や植木や塀に小便を掛けてはマーキングをする。特に大型犬のゴン(ラブラドール、レトリバー)は小便の量が多く私は気をもむのだと。又、マーキングの回数も多いのだ。小型犬のツバサ(ミニチュア ピーシャ)とポンタ(シーズ)は小便の量が少なく6、7回したら後は小便をしている恰好をしているだけで,肝腎の小便はほとんど出ていないので、いいのだが。


雨が降ると、気にしている犬の小便が水洗トイレの如く洗い流されて,私の気が楽になるのですよと言ったら、友人は、私は雨が降ると嫌なのです、憂鬱になるのですよ、と仰るではないか。


野良猫は雨が降っても雨宿りの場所をそれなりに確保はするのだろうが、寒い冬の氷雨の時などは、小さい体力の無い子猫や病に罹っている猫にとっては、命がけのシノギになるのであろう。


友人はそれらの猫のことを真剣に心配する。あたかも自分の子供のことのように気に掛ける。その優しさに心打たれた。



インターネットで里親希望者がアクセスしてくる。そうしたら、会う前にお互いの情報交換をする。里親希望者の住まいの状況、マンションなのか一戸建住宅なのか、そして猫が日常過ごす部屋はどんな状況か、サラリーマンなのか学生か自営業者なのか、何人暮らしなのか、小さい子供がいるのかいないのか、飼いたいと思う動機は何か。


里親になってもらう以上、猫をお預けするルールを一通り説明して納得してもらわなければ、話しは進まない。猫の一般的な性向、預ける猫の性格、性分、癖、などを伝える。猫との同居に慣れている人ならば多少は安心できるのだが、初めて猫を飼う人には、こと細やかに話し合う。


それから、お見合いだ。


お試しコースというか、一時預かりもやってみる。


ようしそれでは、一丁頑張ってみるかと両者が合意したら、今度は契約を締結する。これは双務契約であるから、里親になった者には猫に対しての扶養の責任と義務を負わされ、送り出した方は、里親に何か事情が発生して飼えなくなった時には、責任をもって引き取ることなどを取り決めるのだ。私には驚きだった。何でそこまでやらなゃ アカンのか?と。命あるものに対する尊厳なのだろう。


里親に猫を預けて、一定の期間は両者間にて、情報交換することも義務づけられている。何も連絡を呉れない人もたまには居るそうだ。そんな場合には次のようなことにも発展する。いくら待てども、里親からは連絡が無い、メールも電話も応答がない。心配で心配でどうにも堪らない日々を過ごしていたのだが、とうとう友人は直接行動に出た。里親を訪ねてみたが、家は灯りが点いたままの留守だった。友人は奇襲 家宅捜査に突入。二階で一人ぼっちで留守番をしていた猫を保護。無事に保護して連れて帰ったそうだ。そんなことを平気でやる人なのだ、友人は。身内の命を救うためには、当たり前のことをしたと平然だ。保護され連れて帰られた猫は、今は凄く可愛がってくれる里親さん宅で極めて平和な生活をしているそうだ。



こんなこともあった。


猫捕獲機で捕まえた猫を病院へいつものように連れて行った。東京のとある動物病院では、友人たちの活動について理解があって、メスもオスも避妊手術代が通常の半額でやってくれるというので、ゲージにいれて連れて行った。治療費が半額となれば、多少遠かろうが電車代がかかろうが、絶対的にお得なわけで悩むことなく、その病院に連れて行った。こういう情報は友人たちのネットワークで知らせ合うそうだ。お泊りにして、翌日迎えに行った。ところが、昨日預けた猫が、朝 死んだと知らされた。何故だ? お医者さんの説明では、横隔膜が破損していたと仰るではないか。捕獲機に入る時に強く打ったのではないでしょうか、と言われた。私は麻酔ミスではないかと疑った、友人もちらっとそのようなことも考えてはみたけれどもと言いながら、いつも厳粛に、まずは自分を責める。死んだ猫にすまないことをしてしまって御免と、静かだが強く自分のとった行動を省みる。誰が悪いのだ? 何故、そこまで自分を責める? 神様、友人に何か手落ちがあったとでもお思いですか。



こんなことの、一つ一つが私を驚かせた。


友人たちのネットで、車に轢かれたと思われる猫が道端に放り出されているという情報をキャッチ、友人は地図を頼りに見知らぬ所へ紙箱をもって現場に駆け参じては,収納して、公営の焼却場で焼いてもらうのだ。できるだけ早く現場に向かわなくては、ニ重三重に轢かれてしまう。収納したら公営の焼却場に予約をいれる。要する費用は、友人たちの行為を理解してか、通常の半額だそうだ、それでも自腹だ。轢かれて死んだ猫を見つけたら、私ならどんな行動をとるのかなと想像してみるが、ただ見捨てるだけだろう。それ以外の行動は無い、確信もって無い。今まで俺はそんなことを考えたことはないのだ。そんな人たちが世の中に居るなんて想像したこともないのだ。



友人は、仕事を終えてから東京日本橋に向かうと仰る。


横浜で仕事を終えるのが夜6時か7時頃だとしたら、日本橋に着くのはその一時間後、7時か8時だ。何をするのかというと、知人か友人か仲間が、捕獲 保護した猫を何かちょっとしたミスで取り逃がしてしまった、その猫の捕獲作戦だ。友人らは捕獲機で捕まえようとする。作戦は、そりゃ早ければ早いほどいい訳で遠くへ行かないうちに、車などに轢かれないうちに、徹夜で見張り続けたけれど、一日目は成果なしで、始発の電車で自宅に戻った。電柱には、迷い猫の情報を求むビラを張り、チラシをまいて猫の消息情報を待つ。休日も同じ様に辺りを捜索。


私にはできない。


私にも、友人にも、この世で与えられている時間は限定されているのだ。個人的には多少の相違があっても、その限定されている時間の消費方法には優先順位が必ずあって、合理的に費やしていくわけだ。無理すると、結果的に自分に無理が降りかかってくる。よって無理をしないで下さいなんて、余りにも日和見的な、軽率な意見は言えないけれど、ボチボチやってください、と遠くで祈る。こんな活動をしている人がいるとは、私には思いも付かなかったし、想像の域に及ばなかった。これからは、私の願い事だ。このような活動している人たちに、社会の光が差さないものかと。もっともっと世の中で理解されてもいいのではないのか? 


野良猫が町をうろうろするのを嫌う前に、この世に生まれてきた猫の命がまずそこに存在して、その生を受けた猫には生き続ける権利が生まれながらにして享受できる筈なのだと考えるべきなのだ、と教えられた。だから、餌も必要だし、罹病の子や傷を負っている子には治療が必要だ。弱っている子、困っている子、何かの原因で途方にくれている子に援助の手を差し伸べることを、友人たちは自然体でできるのだ。私にも、やっと、友人たちの活動の内容が分かりだした。



以前から、猫が嫌いだった。


野良猫が我が家の池の魚を食ってしまった、盛りのついた猫が深夜から朝にかけてギャアギャアうるさくて、猫のことをどうしても好きになれなかった。でも、そんな猫にも近所にはスポンサーがいた。猫ニャンおばさんだ。権太坂の有名人です。(猫ニャンオバサン)は、夜な夜な他人の目を憚りながら猫の餌を彼方此方に置いていた。あなたが餌をやるから、猫はいい気になってはびこるのや、どんどん増えていくではないか。そんな風に、猫ニャンおばさんを俺は本気で嫌っていた。


そんな猫ニャンおばさんだが、時には、皆を楽しく驚かしてくれることもあった。昨年の年の瀬も押し詰まった12月29日。場所は東戸塚駅前の横浜銀行の自動預入機の前。新年を前にして、ATM機の前は長蛇の列、その列の中ほどに長身の彼女が首に猫を巻きつけて並んでいるではないか。私だけかな、ぎょっとしたのは。防寒と触れ合いを兼ねての猫ニャンの様は、微笑ましさと驚きの不思議な光景だった。



子供が夏,セミを捕ったり魚を掬ったりする網だ。竹の柄の先に直径30センチほどの輪に網がついている子供必携の網をもって、友人は行く。真剣な表情で友人は行く。何か重大なことを決意したのだろう、表情に迷いはない。友人は里子に出した猫を捕まえる?のだと言うではないか。 何処で、何で?と思った。里子に出した猫は大変元気者で、ちょっと乱暴者で気が荒く、里親に引き取られて半年も経つのに、里親は一度も猫を抱いたことは無い。抱かしてもらったことが一度も無いのですよ。マンションの同じ部屋には住んではいるのですがね。予防注射をしなくてはならない時期がやってきた、どうしても捕まえることができないので、友人に出動要請がきたのだ。部屋の中を大人3人で追い回して網でやっと捕らえて、そのまま袋に入れた。袋からは網の柄が1.5メートル突き出している。そのまま車で動物病院直行、病院で順番待ちの人たちには吃驚まなこで見られた。得たいの知れない袋は不思議な視線を浴びたそうだ。


そこでだ、私には分からない。そんなにしてまでも暮らしたい、猫との生活。不思議な夫婦だ、寛容な人なの? 度外れて猫が好きなのか? 私には想像のつかない別世界の人のように思われる。まだ抱かせてくれないのですよ、静かに微笑みながら話すその夫婦のことは、私には理解できない。心の優しい人たちであることは、間違いないと思う。その後里親になって約1年後、この頃やっと少しだけ触らせてくれるのですよ、嬉しそうに知らせてくれたそうだ。



2005 4 15 朝日新聞 朝刊より。


米国ウィスコンシン州で11日、州の自然保護や資源活用の方針を決める自然保護会議が72の郡で開かれ、(人の手を離れて野生化した家猫は動物保護の対象ではない)とする提案を72郡の賛成票計6830票,反対票計5201票で可決した。自然保護団体は(猫の狩猟に道を開く提案だ)として反対している。~~新聞記事はここまで。


この新聞記事を読んで感じたこと。




野良猫だって、生きとし生けるものとしての生きる権利があって、生き続けられることの保証が確保されなければならない。人間の無責任さに対する反省、今後の対策を検討しなければならないのではないだろうか?と。人間が行った無責任な行為の報いは、やはり人間自らの行動で帳消しにしなくてはならないのだ。野放しにしてしまったのは誰なのか、何故そんな結果になったのか、その実態を元に戻せる方法はある筈だ。何もそんな険悪な銃を持って処理するなんて、そんな方法を選択するなんて愚の骨頂だと思う。銃をもって処理しても構わないなんて、極めて非文化的なことよ。そんなことが平気に行われる風潮がおこって、人の心の奥深いところに密かに住み着くと、その先に何かぞっとするような、見えないが巨大な悲劇が待っているような、寒々しい予感がする。最近日本で発生した、子供が子供を殺した残忍な殺人事件を思い出してみて欲しい。大事件が発生する前に必ず前兆がある。少年は、虫を殺し、カエルを殺し、猫を殺し、果てに少女を残忍な手法で殺した。



日本橋で取り逃がした猫の捕獲作戦はその後も続いていた。最初にその件を知らされてから、もう2 3週間も経つのに、現場では作戦が継続中だったのだ。なんちゅう執念深さよ。目的の猫ではなくて別のオスの猫を捕獲しちまった。怪我をしているので、治療が必要、友人は治療費をカンパして帰ったそうだが、保護した友人の仲間は、夜は自宅で過ごし翌日病院行きだ。お金も時間もかかる、与えられた自分の時間を切り裂いてまで不幸な不遇な猫にプレゼント。涙なしでは語れない よ 。



先日(2005 4月のある日) ニューヨークにいる長女から電話があって、その時彼女が話したことが、友人のやっていることと同じなので興味を惹いた。長女は夫が仕事に行っている間、自由になる時間を利用して陶芸教室 英会話のレッスンに通っていたのだが、英会話で知り合った人の紹介で、犬の里親探しのボランチィア団体のお手伝いをしているのだと言うではないか。何らかの理由で飼えなくなった犬を、犬を飼いたがっている人へバトンタッチする仕事だ。長女よ、生きとし生ける犬たちの幸せのために頑張って欲しい。動物虐待も世界の各地で行われている。長女のやっていることや友人がやっていることからも(世界のまるごと平和)に通じる何かが見えてくる。そんな気がするのです。猫の里親探しもやっているのだろうか? 下手な英会話教室よりも、実のある英語上達方法かもしれない。



友人の話を続けよう。


この前、横須賀の里親さんに猫を預けてきたのです。そこの家庭はご主人さんがリタイヤーしていて家事を任され、奥さんはお勤め。子ども3人、一番上の息子さんが今年大学受験だそうだ。奥さんが友人のホームページの里親探しにアクセスしてきた。「今、我家には猫5匹いるのだが、あなたのホームページに載っている里親探しの?の子が、以前自分の家に居た猫にそっくりなのです」。その猫の思い出が、どうしても頭の中から抜けない矢先に、このホームページの?子に巡り合ってしまった、ということらしい。私にとっては、もう既に5匹も家に居るのだから何も、他に、もう一匹も求めなくても、十分じゃないのか?と思うのだけれども、そこが私の常識と違うところだ。友人は、そういう人だから、里親になってくれるのだ、と語る。


ご主人さんがしてくれた面白い話を紹介しよう。


5匹いるどれかの猫が、ある日、今大学受験で頑張っているお兄ちゃんに、当然何か原因があってのことだとは思われるのだが、叱られた。叱られた猫は、納得できなかったようだ。何故、叱られたのか、その理不尽さが理解できなかった。やがて怒り心頭、反撃にでた。お兄ちゃんの机上に広げられていたノートに大きいウンコをして、自らの怒りをぶちかましたそうです。その子はなかなか、いい奴なんですよ、とどこまでも猫に優しいご主人さまでした。その後、この猫は家庭内野良をしているそうです、と仰っていたので、少し心配している。



ある日のこと。



東大和市のシェルター85匹の野良ちゃんを保護しているグループがある。そのことを聞いた友人は、自分にもまだ協力できる余裕があるので、是非協力したいと思いつき、いざ東大和!参上。保護している会員の一人に円福家がいて、その人の所有する建物を、保護するスペースに無料で使わせてもらっているそうだ。世話人の一人が友人におっしゃった。私達のグループは何とか会員同士で、やり繰りしながらでもやっていけるので、私達の方よりも、昭島で頑張っている?氏の活動を助けてやって欲しい、と。

友人はその意を汲んで、急遽、会員の案内で昭島に歩を進めた。私には進撃のように思われた。


昭島の?氏は65匹を一人で保護しているのです。?氏の夫は、市の委託を受けて再利用可能な資源を回収する会社を経営していて、回収で巡回中に捨て猫を見つけては自宅兼会社に連れて帰って、保護している。そのうちに、65匹にまでになってしまったそうだ。社長夫人が、もっぱら世話役のように思われた。「ある猫は保護して、ある猫は知らん振りをして見捨てる、そういうわけにはいきませんよ」社長夫人のお話はごもっとも、当然と言えば当然の話なんだけれど。


私には何かが可笑しい、何かがちょっと狂っているぞ、と思われてしょうがない。


どんどん捨て猫が増えている、行政はノータッチ。捕まえて保健所に届ければ、ためらうことなく、殺す。猫の命の尊さは、役所では一考なし。自動的に薬殺される。猫の命を本気で心配して、なんとか生きながらえるようにしてやりたい、と活動しているのはほんの少数のボランティアの人達だけだ。この実態に社会の関心がもう少し高まってもいいのではないのか。私の整理できてない頭とは裏腹に、平気?で、むしろ嬉々?として、当然のごとく、保護に精出す人達の活動に、社会はもっと関心をもつべきではないのか。


簡単に、猫を捨てるな。


その友人は昭島から、子猫3匹を預かって帰った。捨てられた猫は自ら自分の身を守らなくてはならない。ひ弱な子猫といえども、いかなる敵にも自分の命は自分で守らなければならない。当然、気性は激しく獰猛になる。その猫に食事と寝所を用意して、食事を与えてくれる人はこの人なんだと安心すれば、やっと猫は初めてその人に寄り添ってくる。そこまで、人間とのコミュニケーションができるようになれば、里親探しを開始する。そして、良縁を待つ。



インターネットの里親探し情報に、申し込んでくる人は、さまざま。友人は里親宅を猫と共に訪問する。そして、見合いだ。


これからも、この里親探し活動は続くのです。活動家の人たちの精神には頭がさがる、労苦を思うと気が重い。


友人は、介助犬や盲導犬についても、人間による動物虐待ではないかと主張する。人間さんのことは、人間たちで完結すべきだ、と。もっとものようで、簡単には拒否できない。友人とのコミュニケーションを深めたいと思っている。





続きはありますので、しばしのお待ちを。

2008年1月19日土曜日

箱根駅伝と我家の新年会

久しぶりに、箱根駅伝で泣いた。学校を卒業して35年も経つのに、いまだにWの文字を見たら、私の脳みそ(脳幹)は正常ではなくなるのです。おかしくなるのです。ましてや、Wがいい状態? 他を圧倒しているようなことがあれば、私はもう滅茶苦茶狂うのです。何に関しても学校の誇りを高めるような理想的な学生ではなかった。誇り高い大学のホコリだらけの学生だったが、私の染色体にはWの因子が組み込まれてしまっているようです。屈辱にまみれながら、何回も母校の名を、何回も母校の校歌を、何回も母校の応援歌を歌った。その結果のことだろう。が、栄光は少なかった。

2日、午後1時。私は会社に居た。私は保土ヶ谷の権太坂(2区、9区)に住んでいるので、箱根駅伝の沿道での応援は30年来の我家の正月の欠かせない行事でした。ところがじゃ、今年は、2区で母校は12位ぐらいで通過しそうよ、と女房に言われ、馬鹿な私は30年来の慣わしを捨てて会社に向かった。母校の応援よりも会社が、仕事が大事なんだと言わんばかりに。会社で飼っている金魚に餌もやらなくちゃいかん。誰も居ない会社で、私は、日ごろ読み残した銀行や不動産・建築関係の団体が発行している小冊子を、読みながらビールを飲んでいた。それに、私はこの20年程、正月に福島の喜多方から大学のサッカー部の先輩・塚原さん(この後から、喜多方と呼ばせていただく)がやってくることになっていて、その先輩の到着を待っていたのです。1年に1度、必ず正月の2日、午後2時前後に横浜に着くのです。奥さんと一緒に横浜まで来て、奥さんは自分の実家のある大和へ、先輩は私の家に来てくれるのです。そして、葉山の田中先輩(この後から、葉山と呼ばせていただく)も呼んでサッカー部の同窓会を兼ねた新年会をやるのです。旧交を温めるのです。今年は、私の息子も、息子の会社の同僚も、近所に住んでいる娘2人、娘の夫、孫2人も集まった。皆が集まれば、その瞬間に、私はしっちゃかめっちゃかになる(酒乱なのです)のが解りきっていたので、その前に静かな時間を過ごしたかったのでしょう。

コーヒーを飲んで、ビールを飲んで、お酒を飲んでいたら、会社の電話が鳴った。静かな会社の中で電話が鳴ったので、吃驚した。正月の2日に会社に電話してくる奴は誰だろう、と思いながら受話器を握った。そしたらじゃ、自宅から血相を変えているんじゃないかと思われるような、興奮シマクラ千代子さん口調の電話が、私の耳を襲った。大きい高い声が受話器から突出。早稲田が箱根の山登りをゴボウ抜きで、1着でゴールしたのよ。すごかったよ。興奮しちゃた!!!  ラジオを聴いていた? そんな女房からの電話だった。

第84回東京箱根間往復大学駅伝。

第1日は2日。

東京・大手町~神奈川・芦ノ湖の5区間108キロに関東の19大学と関東学生選抜が出場し、早大が5時間33分8秒で12年ぶり13度目の往路優勝を飾った。

これより、朝日新聞のスポーツ面の記事を拝借する。ーーーーーーーー

ハイライト

往路12年ぶり 5区駒野主将奮起の5人抜き

1200369423.jpg

(5区で、山梨学院大・高瀬を抜きにかかる早大・駒野と駒大・安西)

胸の「w」マークを拳でたたき、早大の駒野がゴールを駆け抜けた。「帰ってきたぞ、というのを見せたかった」。エースの不調で、脇役だった一人ひとりが奮起した伝統校が、12年ぶりの往路優勝をもぎ取った。

ずうっと3年生の竹沢におんぶにだっこだった。12月中旬、その竹沢が坐骨神経痛を訴えた。出場さえ危ぶまれた。「自分たちがやらないと勝てないという危機感が生まれた」と話す駒野自身、駅伝主将として、後輩に頼るふがいなさを誰よりも自覚していた。

トップから1分半近く遅れ、6位でたすきを受ける。飛ばした。5キロの通過は、昨年の大会で順大を優勝に導いた今井の区間記録とほぼ同じペース。「ちょっと突っ込みすぎかなと思ったけれど、きつくなかった。そのまま行っちゃえ」。8キロ過ぎに駒大をとらえると、相手の顔をのぞき込んだが、10キロ過ぎに首位に立つ時はあ前を見据えたまま、迷いは消えていた。昨年は8位であった。あっという間に今井に置いていかれた。その時に今井が作った区間記録と、わずか7秒違い。「うちにも『山の神』がいて良かった」と竹沢をうならせた。

起伏があり体に負荷のかかる2区ではなく3区に回った竹沢の踏ん張りも大きかった。スタート20分前に痛み止めの注射を打った。痛みが出るたびにペースを落とし、波が引くと再度ペースを上げ、区間賞を確保した。

総合優勝から15年遠ざかっている。駒大優位は間違いないが、渡辺監督は「駅伝は何があるか分からない。山梨学院大を見ても、逃げるチームには強みがある」。静かに笑った。 ーーーーーーーここまで新聞記事による。

初日の往路(1月2日)は、早大が1位、駒大が1分14秒差で2位。東海大は駒大から3分42秒遅れの3位。こういう結果になった。

ようし、これからは気合いを入れての宴会開始だ。

喜多方が東戸塚駅に着いた。先輩は開口一番、横浜はいい天気だなあ、喜多方は1メートル程雪が積もっているよ、と。このセリフは20年間いつも同じだ。そして、帰り際、我が家を出る時は必ず、あんなところに帰りたくない、とも。この喜多方と、葉山と、私は共に昭和23年生まれの子(十二支)です。年男達です。早稲田大学ア式蹴球部(通称はサッカー部です)の先輩、後輩の仲なのです。ちなみに、慶応大学はソッカー部です。喜多方は現役で入学、葉山は1浪、私は2浪で、年は同じ(今年60歳)なのですが、学年が、私が1年の時、葉山は2年で、喜多方は3年生でした。学年は違えども、生まれて過ごしてきた期間は同じなのと、当然、経験してきた世相も、考えることも、身の回りの環境も大差ない。個人の志(思)向はそれぞれ違うけれども、40年の熱い交流は今も激しく続いています。

喜多方と葉山は、一時札幌で共に過ごしていたことがあった。喜多方は実家が魚屋のため、魚の修行に札幌の中央魚市場に勤めていた。葉山は卒業して勤めたベニアの会社が面白くなく、数ヶ月で転職を考えていた時に、スキー場にコネがあるので働いてみないかと喜多方に勧められて、札幌に行くことになった。ニセコでも働いた。葉山は、大学時代に授業で経験したスキーに熱を上げていたこともあって、その転職は大成功だった。その後も、喜多方の紹介で葉山にある大手企業の保養所で働くことになって、これもうまくいった。そして、私はその保養所を家族や会社のスタッフとともに、あつかましく利用させていただいた。料金もその企業の社員並みで。葉山はその保養所で今の奥さん・オオトモさんと知り合って、結婚した。

私と喜多方との付き合いは、私が1年で喜多方が3年で学年の懸隔はあった。喜多方は、当時サブマネージャーだった。夏の菅平の合宿のこと。午前の練習が終わって、午後の練習が一通り終わって、最後の仕上げがインターバルなのです。このインターバルは、サッカーコートのタッチラインに沿って走るのですが、105メートル程の距離を16秒で走りきって、元のスタートしたラインまで1分で戻るのを、何回も繰り返すのですが、私以外の者は数回だけで終わってお仕舞いなのですが、私には、皆と同じようにお仕舞いというようには許してくれなかった。皆はグラウンドを後に、合宿所に向かう。私以外、練習は終わったのです。それまでの練習で、エネルギーの全てを使い果たしている私には、さあこれから、5回だけキチンと走ってみろ、と言われても、足も、頭も、糞!!タレ、と気合が入らないのです。最初の1回目から16秒に入れていないのだから、これからキチンと走れと言われても、どだい無理だった。やっとのことで、スタートラインに戻ってきたと同時にスタートの笛。息を整える余裕がない。その時に、喜多方が登場するのです。戻ってきた時に、バケツの水を私の頭にぶっ掛けてくれるのです。ぶっ掛けられると、不思議にほんの瞬間だけれども、シャンとなって意識が覚醒されるのです。一人だけのインターバル。朦朧としてくる。目が開けられない。足元は、フラフラでガタガタでジグザグ。多い日には、116回走ったことがあるのです。それに、最後まで付き合ってくれた人が、喜多方なのです。もう終わろう、と言われてグラウンドにへなへなとへたり込む。薄暗がりの空に星がきれいだった。頬をなぜる風に、生まれ故郷の風を思い出した。グラウンドに仰向けになったまま、疲労した体はいつまでも動けない。土の冷たさが気持ちいい。そんな(水かけ不動的?)関係が二人にはあるのです。だから、いつまでも喜多方は私に優しく、私は彼に感謝しているのです。何年経っても、この絆は失せない。

葉山との付き合いは、濃密だ。その歴史は、私が3年で葉山が4年生だった時から始まった。私は合宿所の中でも一番環境の劣悪な部屋に一人で寝起きしていた。陽が射さないどころか昼間でも真っ暗なのです。田舎から送られてきた米を狙ってネズミが横行するのです。チュウと声を出して壁の穴から顔を出す。顔はなかなか愛嬌がある。黙って様子をうかがっていると、身を乗り出してきて私の布団の上を横断、米袋を襲う。余りにも多くのネズミが出没して寝られなくなったので、ネズミの捕獲器をセットした。いとも簡単に、連日、ネズミを捕まえることができました。今や、フジタ工業で頑張っている脇氏が水攻めにして殺すのです。水の入ったバケツに捕獲器ごと浸けて、絶息させるのです。

葉山が酒に酔っ払って、12時過ぎに寮に帰ってくる。門限は12時だ。門限といっても、自主管理です。そして必ず私の部屋に立ち寄って雑談するのです。早速、私は電気ポットで酒を燗する。サッカー部の寮の門限は12時と決められていたのですが、葉山は、葉山なりに独自の解釈をしていたのです。12時を過ぎると、もうその時は次の日になっていて、その日の門限はその日の深夜の12時のことだと。11時が門限ならばそのようなことはないのだが、たまたま12時という今日と明日の境目が、門限時間と同じなので、葉山流の理屈が成り立つのです。大分臭いヘ理屈です。寮内では禁酒、禁煙だったので、酒を飲むなんて許されることではないのですが、門限破りグレーな葉山と私は、禁を破ることには、内緒を前提に認め合っていたのです。

葉山が卒業して、ベニアの会社に勤めてからも、仕事にいまいち気合の入らない日に、房総半島を仕事のフリをしながら、ドライブに連れ出してくれたものです。貧乏学生だった私には、最高のレクレーションでした。それから喜多方との関係で北海道で働くようになってからのしばらくは交流はなかったが、葉山が葉山の大手企業の保養所の管理人になってからは頻繁に会っては酒を、ビールを鱈腹(たらふく)飲んだ。私が結婚してからも、毎週のように、我家に来てくれた。子供が生まれれば、子供を随分可愛がってくれた。子供は嫌がっていたけれども。葉山が結婚してからは、彼の奥さんも参加して、賑やかな宴会は続いている。我家の記念すべき折々の催事において、全て参加してくれている。私にとって、仕事以外の友人としては、大切なお方なのです。

この日も、葉山は酔って眠ってしまった。奥さんの運転で葉山に帰った。喜多方は我家に泊まった。「ヤマオカ!!今晩は、泊めてくれよ。息子の奴なあ、去年、俺が酔っ払って行ったので、風呂に入らないで寝てしまったのだけどなあ、それがイヤだと言いやがるんだ。酔っ払って、風呂なんか入ったら、死んじゃうよなあ。嫁に言われたんだろう。あいつは馬鹿だよ」ということで、息子の家には行かなかった。喜多方の息子が住んでいる家は、我家から車で5分の至近なのだが、喜多方は寄りたがらなかった。彼は、尚言い続けた。「息子のヤツ、嫁の実家の近くに、嫁の親の土地に家を建てやがったんだ。婿に行ったようなもんや」と怒り口調のトーンは上がる。

翌日(1月3日)、喜多方と私と息子は、青島が指導しているサッカーチームの新年会(初蹴り)に顔を出した。喜多方は青島に会いたがっていた。青島には、グラウンドがよく似合う。「富士山に月見草がよく似合う」、あれのことや。どうだ、青ちゃん。元花屋さんだった青ちゃんにはよくわかるよね。表現方法は、私が尊敬する太宰さんから拝借した。私は、このサッカーチームの初代の指導者だった。バブルがはじけて、サッカーの面倒を見ている場合ではなくなったので、青島さんに後のことをお任せした。会社の経営がピンチに陥ったのです。その日、息子は、コブラという上部のチームに入れてもらって試合を楽しんでいた。息子と私がグラウンドで過ごした懐かしい日々を思い出した。コーチと選手の関係だ。息子の立派な成長をみるに、嬉しい思いがこみ上げてくる。目出度い、有難い正月だ。感謝したい。

次女と次女の息子(孫)、三女、私と喜多方が合流して、権太坂に箱根駅伝の復路の応援に行った。ポンタとツバサの犬連合も応援に加勢。私の目の前で、駒大に追い抜かれたけれども、早稲田は良く頑張った。駒大にこそ、称賛の声を上げなくてはならないのだけれども、ここは早稲田のOBなもんだから、駒大関係者殿、許せ。権太坂まで首位できたのは、凄かった。往路で優勝しても復路では5位前後につけられれば、もうそれで十分と思っていたのですが、この力走は力強かった。早稲田の底力を知らなかった私は、軽薄者だった。浅墓さを恥じた。ゴールを2位でしっかり入った。素晴らしかった。トイレに入って、トイレットペーパーで涙を拭った。

毎年のことだけれども、母校の名を声張り上げる度に、涙が出るのはどうしてなんだろう。年を重ねるごとに、涙の量が多くなるのです。「ワセダ、ガンバレ」。

駒大には実力があった。立派でした。

今年は3校が途中棄権となる異例の事態となった。往路の5区順大、復路の9区大東大と10区の東海大だ。アクシデントが有力校に相次いだのも特徴的だ。新聞記事によると、関東学生陸上競技連盟の青葉昌幸会長は「優勝争いが激しくなり、ぎりぎりまで選手を仕上げるなど勝利至上主義の影響が出てきていると思う。監督は健康管理を徹底して欲しい」と話した、と報道された。今後は、医師の意見も聞き給水の回数や中身など対策を協議する方針だそうだ。

2日目(復路)の内容を朝日新聞の記事からーーーーーーー

箱根駅伝  駒大逆転V

1200369449.jpg

(9区、首位争いを繰り広げる駒大・堺と早大・三輪)

3年ぶり6度目 3分超す差「エース軍団」焦らず

「もう少し楽に勝てるかなと思っていた」。駒大の大八木監督は振り返った。逆転の構想は出足でいきなり崩れた。

往路を終えて、首位早大と1分14秒差。「1分半以内なら」というもくろみ通りだったのに、6区の藤井は区間12位。差は3分以上に広がった。車から絶叫する大八木監督。フラフラになりながら、辛うじて中継所にたどり着いた。

しかし、このつまずくが逆に駒大の成長ぶりを際立たせた。それは、7~9区の三人三様の追い方のうまさに表れた。

7区の豊後は、スピードはあるが、スタミナにやや不安がある。約3分差のうちの3分の1だけ確実に縮めた。8区の深津は、大八木監督の「差は詰まっている」という言葉を信じ、早大を忘れて区間新を狙った。「早大のことは追いついてから考えようと思った」

そして、目の前に早大をとらえてたすきを受けた9区の堺は、最初の2キロ半程度で一気に15秒差を追いついて、並んだ。勝負は決まった。

昨年も、今回と8人が同じ顔ぶれ。何が変わったのか。大八木監督は「昨年は精神的に弱かった。今年は6区でああいう状況になっても焦らない」と話す。

「エース不在」と言われるのは、誰もがエース級ということの裏返し。5000メートル13分台の深津ら2年生トリオに刺激を受けた上級生も大幅に記録を伸ばした。4年生に頼りがちだった4連覇したころともひと味違う。強さと速さを手に入れた駒大。黄金時代の再来を予感させる総合優勝だった。

2位早大「来年こそ」

「もっと早く(駒大に)捕まると思っていたが、9区まで粘れたのは収穫です」。早大の渡辺康幸監督は、12年ぶりに2位に食い込んだレースを振り返った。

ここ数年失速していた5,6区の山登り、下りでともに区間賞。早大では75年ぶりの快挙だ。6区の加藤は「早稲田の下りは鬼門と言われないような走りができたと思う」と語った。

今春には秋田国体の5000メートルを制した八木勇樹(兵庫・西脇工)やマラソンの中山竹通・現愛知製鋼監督の長男卓也(兵庫・須磨学園)ら有力選手が入部する。

「来年は駒大と一騎打ちになるのは間違いない」。渡辺監督は第69回大会以来の覇権に向け強気の発言を繰り返す。新主将の竹沢は「いい流れを切らさないようにやっていきたい」と話していた。-----ここまで、新聞記事による。

2008年1月15日火曜日

我が早大サッカー、13年ぶり日本一

13日(日曜日)。私が業務繁忙中、会社の女性スタッフから「青島さんから電話があって、早稲田が勝った、と言っておいてください」という電話がありましたと告げられた。昨日、青島から敵の法政は強いぞ、と聞かされていたので、勝ったと聞いた時は天にも昇る喜びを味わえた。青島と私が所属していた早稲田大学のサッカー部が、13年ぶりに全日本大学サッカー選手権大会で優勝したのです。早速、青島の生の声を聞きたくて、彼の携帯電話にかけた。彼は試合会場にいた。いい試合だった。法政も早稲田もいいゲームをやった。レベルの高い試合だったとの報告。流石、青島さんだ。どちらのチームにも偏らない試合の分析は見事だった。私は、先取点を取った方が有利に展開できるだろうから、是非早稲田に先取点を取って欲しいと思っていた。有難いことに、その通りにゲームは進んだようだ。

サッカー部のOBとして、こんな日がいつやってくるのだろうか、気が気でならなかったのです。青島や後輩が、我が大学の我がチームのちょっとでもいい話しをしようものなら、私は自分勝手に幸せな気分に浸りたくて、過大に想像を巡らしていたのです。1部の入れ替え戦の時も、2部の入れ替え戦の時も応援に行った。その何れの時にも、選手は頑張った。残念だったが、実力がなければしょうがない。これが競技の厳粛さだ。昨年は準優勝だった。

今回の優勝をどれだけ待っていたことか。永い道のりだった。この大学や、この大学のサッカー部に何らかの関わりをもった人なら、今回のこの実績をどのように喜んでいるだろうか、と想像するには難くない。

戦況をWMW会報(早大ア式蹴球部の公式会報)より転載した。

昨年度味わった屈辱をはらすべく臨んだ法政との決勝。前半開始直後は法政ペース。得意のパスサッカーで早稲田ゴールを脅かす。しかし、GK伊藤のファインセーブにより早稲田がそれを凌ぐ。すると、徐徐にペースを取り戻した早稲田も反撃開始。流れを早稲田に引き寄せたまま前半を終える。後半開始早々、試合が動く。キャプテン兵藤が松本からのパスを冷静に流し込み、待望の先制点を挙げる。これで勢いにのった早稲田は、その直後のCKでも藤森がフリーで右足を振りぬき追加点。法政を突き放す。その後、横山、金守を中心にゴールは許さず、後半入ってすぐの2点を守りきった早稲田が念願のタイトルを獲得、”大学日本一”に輝いた。

*記事の内容とは関係ない写真です。昭和48年、青島と私が4年生だった時、関東大学サッカーリーグ優勝、全日本大学選手権(インカレ)優勝した。2冠をとったのです。インカレの表彰式後の記念写真と、当時、グラウンドで練習を共に部友たちと撮った写真をアルバムから引っ張りだした。撮影の時、私は「俺に表彰状を持たせてくれ」とせがんだことを思い出した。翌日のサンケイスポーツに、私がコメントした「神風が吹いたのですよ」が紙面のタイトルに使われていた。ニンマリしたものでした。

1200369281.jpg

(私と青島が4年生の時優勝した記念写真)

1200369296.jpg

(私と青島が4年生だった時の全部友たち)

大学の上位のチームとしては、部員数が極端に少なかった。みんな仲が良かった。

14日の日刊スポーツの新聞記事を転載させていただいた。

13年ぶり日本一!大榎監督有終

1200369310.jpg

(優勝した早大の選手たち。大榎監督の右隣が兵頭)

東都リーグまで落ちた名門を4年で立て直し「選手に感謝」

名門早大が、復活の日本一に輝いた。法大相手に苦しみながらも、MF兵頭慎剛主将(4年)のゴールなどで2-0勝利。東京都リーグ所属だった4年前に就任した大榎克己監督(42)が、退任前のラストマッチでチームを見事によみがえらせた。正月の駅伝、前日のラグビーに続いて吹き荒れた早大旋風。早大創立125周年の大トリを大榎早稲田が13年ぶり最多11回目の優勝で締めた。

大榎監督の目が潤んだ。「こんなハッピーエンド、できすぎです」。後半5分に兵頭が0-0の均衡を破り、同11分にDF藤森が続いた。終盤は法大の猛攻を浴びたが、守備陣が体を張って耐えた。4年前には「関東2部に上がることが最大の目標だった」(大榎監督)。同監督は「選手に感謝したい」と、言葉を震わせた。

07年度に125周年を迎えた早大は、運動部が次々と好成績を残した。前日には同じ国立でラグビー部が大学日本一になった。試合前、ラグビー部の汗と涙が残るロッカールームに、大榎監督の声が響いた。「天の時を逃すな!」。昨年から続く早大の勢いがサッカー部にも乗り移った。

4年間、1度も後退することなくチームは力を伸ばした。大榎監督の指導方針は「個を伸ばすこと」。多色のビブスを使い、工夫した練習だった。走りながら考えさせた。個の力をチーム力に変えた。ミニゲームでは衰えない技術を見せた。自らの持つ戦術も選手に伝えた。「4年間で成長できた。監督のおかげです」。MF鈴木は言った。100人近い部員の心をつかんだ。「3年まではレギュラーでもないのに、いつも声をかけてくれた」と藤森。「選手をリスペクトし、同じ目線で話す。上から指導するのではなく一緒に考える」と藤原コーチも言う。会見後には控え部員に競技場裏の通路で胴上げされた。部員から慕われているからこその2度目の胴上げ。「これがチームなんです」というと、監督の目がまた少し潤んだ。

東都リーグからの奇跡の復活を成し遂げ、大榎監督は清水に戻る。将来的にはトップチームの監督就任も予想されるが、まずはプリンスリーグで2部落ちしたユースの再建が仕事だ。「また0からです」。選手たちに囲まれて、大榎監督は最高の笑顔を見せた。

ーーーーー以上が新聞記事より。

幹細胞生物学者 山中伸弥さん

朝日賞は、学術、芸術の分野で傑出した業績をあげ、日本の文化や社会の発展、向上に貢献した、個人・団体に贈られる賞です。朝日文化財団が受賞事業を行っている。この賞を受賞された方々は他にも何人かいらっしゃるのだが、私はこの今の段階で、どうしても確認して、山中伸弥さんの業績を書き留めて置きたいと思った。この研究がドンドン進んで、医療の分野において多大な貢献が予想されるからです。昨年の科学における研究成果のなかで、私のような極非科学的人間でも、なんだか、これは大変なことの始まりのような胸騒ぎがしていたのです。

この記事を転載しているうちに、8日の朝刊では、理化学研究所が万能細胞を希望する研究者に提供・分配することの報道があり、9日には京都大と経産省がタッグを組んで万能細胞の解析手法を共同で研究することの発表があった。その記事も転載した。

朝日朝刊 2008 1月1日(元旦)より

万能細胞 丹念な研究結実

1200369337.jpg

幹細胞生物学者 山中伸弥さん(45)

皮膚や肝臓、胃など、いったん組織の細胞に分化した体細胞は、もうそれ以上分化しないと考えられてきた。そんな発生生物学の常識を覆したのが、人工多能性幹細胞(IPS細胞)と名付けた万能細胞だ。

マウスとヒトの体細胞に、もともと細胞内にある四つの遺伝子を細胞内で過剰に発現させると、未分化な状態に戻り(初期化)、万能細胞ができることを実証した。これまで万能細胞の代表格だった胚性幹細胞(ES細胞)と違って受精卵を壊さなくてもすむ。

京都大の研究で、ES細胞と体細胞を融合させればESに似た細胞ができることが分かった。体細胞にも可能性があると感じた。「すでに研究が進んでいる分野より、体細胞の初期化実現で勝負しようと思った」

初期化の因子は何なのか。まず、ES細胞の多能性を維持する因子と同じだろうと推測して、コンピューターでゲノム解析から始めた。

関連していると思われる遺伝子は、データベース上だけでも、1万以上。この遺伝子をパソコン上で並び替えたり、複数組み合わせたりして、初期化や多能性を誘導していると思われる遺伝子を集めた。4年がかりで、やっと24に絞った。

最初に絞り込んだこの24の候補の遺伝子に、初期化にとって重要な因子が含まれていた。「幸運だった」と山中さん。

これ以降は早かった。学生が以前に開発した特定の遺伝子の機能を失わせたノックアウトマウスを使い、細胞に導入する遺伝子の数を一つずつ減らしながら機能を調べ、数ヶ月で四つの因子を絞り込むことができた。一つずつではなく四つ同時に発現させると、うまく機能することが分かった。

「こんなに簡単に作製できるとは」と感じたという。当時、韓国のヒトクローン胚の捏造が明らかになったころだった。念には念を入れ、複数の検証実験をし、論文発表まで緘口令も敷いた。

昨年12月には、導入する遺伝子の数を三つに減らすことにも成功した。研究チームで対照実験中に見つかったが、最初は実現できなかった。わずかに薬剤を使うタイミングが違うためだった。

延べ50人以上の積み重ねで、こうした成果を築き上げた。大好きなスポーツにたとえ、「この研究は駅伝のようなもの。今回の受賞は監督賞」と学生の健闘をたたえる。

今回の成果は、受精卵を使うなどの倫理的な問題を回避するっことができ、将来的な再生医療への応用に期待がかかる。だが、「過剰な期待も、過剰な失望もしていない」と山中さん。将来、iPS細胞が再生医療で役立つために、「僕のような基礎医学の研究者から、臨床に近い分野の研究者まで、幅広い連携が必要」と訴えた。

2008 1月8日 朝日朝刊

万能細胞分配へ 理研センター

理化学研究所バイオリソースセンター(茨城県つくば市)は、マウスの体細胞から作製した万能細胞(iPS細胞)を希望する研究者に提供・分配する事業を3月中にも始める。ヒトのiPS細胞についても08年度以降の配布を目指す。

iPS細胞については、開発者の山中伸弥・京都大学教授の研究室を中心とするコンソーシアム(研究共同体)を年度内に立ち上げ、細胞を原則無償提供する方向で調整が進んでいる。コンソーシアム以外の研究者にも、契約に基づいて提供する方針だ。同センターは京大の依頼を受けており、コンソーシアム内外への提供の「交通整理役」といった形になる見通し。

同センターはiPS細胞を増やすとともに、細菌感染などの汚染がないかチェックする。細胞は1本に100万個が入った容器で配られる。提供を受けた細胞を使った研究成果は、京大との共同研究という形になる。

2008 1月9日 朝日朝刊

万能細胞の鍵 解析へタッグ 京大と経産省

候補遺伝子探し 高速化

京都大が開発した万能細胞(iPS細胞)研究を支援するため、経済産業省はiPS細胞作製や臓器の元になる細胞への分化に必要な遺伝子を効率的に見つけ出すため、データベースなどを京大に提供し、解析手法を共同で開発する方針を決めた。米国などの追い上げが激しく、日本が主導的な立場を維持するために研究の加速が急務とされている。

10日に開かれる総合科学技術会議の作業部会で報告する。経産省所管の新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)や産業技術総合研究所、生物情報解析研究センターなどが、これまでの研究関連の成果を提供し、京都大と共同開発する計画だ。

京都大の山中伸弥教授らは、人の皮膚細胞に四つの遺伝子を組み込んでiPS細胞の作製に成功した。ただ、人間の遺伝子は約2万2千あるとされ、山中教授の場合は無数の組み合わせから24の遺伝子を選び出すまでに4年、さらに実際に成功した四つの遺伝子の組み合わせを見つけるまでに数ヶ月かかった。

新たな解析手法やデータベースを使うことで、万能細胞の作製や、様々な臓器などへの細胞の分化に使える可能性が高い遺伝子の組み合わせを、短時間で大量に検証することができるようになる。

また、iPS細胞作製の際、がん化の危険を避けるため遺伝子の代わりに使う化合物の探索などにも蓄積した研究成果を提供する。

万能細胞をより高い効率で安全に作製するための新たな候補遺伝子探しは、すでに米国では10を超える研究機関で始まっているとも言われる。

2008年1月7日月曜日

朝食は七草粥だった

1月7日、早朝。

今日は早朝会議があるので、いつもより30分早く出かけて、5時半に戻った。      いつものように犬の散歩から帰ってきて、池の金魚に餌をやり、玄関の新聞受けより新聞を取って、風呂の追い炊きのスウィッチをONにして、食卓についた。いつもなら、テーブルには、納豆と刻んだネギの入ったパック、漬物、塩昆布、梅干をセットにしておかれているのですが、今日はそれらがない。女房が何やらせわしなく作ってくれていたのが、七草粥だった。毎年、何も考えずにいただいていたけれど、七草の一つひとつには意味があるのかね、と尋ねたら、彼女は七草が入っていたプラスチィックのケースを見せて、そこに何か書いてあるから、読んでみたら、ときたもんだ。餅が入っていたので、餅も七草粥には入っているものなの、と聞いたら、これは我が家のオリジナルです、物足りないと思ったので入れました、とのこと。正月明けだから餅が余っていたのよ。お粥を食べて、無病息災を願うのよ、なんて言われてもピンとこない不信心な徒だけれども、正月の暴飲暴食で疲れた胃袋を休めるためだよ、と言われるとすごく納得してしまう。

七草がセットになって入っていたケースに書かれていた説明書きより。         『せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これらが春の七草といわれ春を呼ぶ野草として、古来から親しまれている。春の七草を正月の七日の粥に入れて1年の健康と無病息災を願う風習が鎌倉時代より始まった。この七草は、各々緑黄色野菜の一種、野菜不足になるがちな冬場の、貴重な栄養源となる。又は消化を助け、心身も温まる最も調和のとれた健康食です』

子供の頃。私の実家(京都と滋賀の県境)は田舎の百姓なので、七草粥などの風習は大事に守っていた。が、我が家の七草は、ちっと違った野草?否、野菜を使っていた。8種類も9種類も入っていたように思う。私の母、ハナちゃんは細かいことには無頓着な人でした。大根の根と葉っぱ、ホウレンソウ、ゴボウ、ネギ、セリ、カブの根と葉っぱ、春菊、水菜、シイタケ、豆など、手元にある野菜を何でもかんでも入れるのです。冬のおやつ用の、ウルチ米で作った餅も、細かく切って入れていました。学校で、七草の7種類の野草の名前を知っている人は手を挙げてと先生に言われて、負けず嫌いの私も手を挙げた。幸にも先生は私を指名しなかった。先生から指名された生徒は、私の全く知らない野草の名前を幾つかあげて、その後先生が残りの野草の名を黒板に書いた。私は、何がなんだかさっぱり分からなかった。ええ、そんなのあったの!! 一体、今朝、自宅で食った七草粥はなんだったんだ?私が、先生に指名されていたら、どうなってたんだろう。私の母、ハナちゃんは大したもんだ、と今は思う。

粥には子供の頃から馴染みがあった。芋粥、世間の芋粥はどんなものか分からないが、我が家の芋粥は、粥のなかにサツマイモが入っているものでした。米は貴重品だったので、芋を入れて量をふかしたのでしょう。当時、ご飯の保温器がなかったので、冷たいご飯に温かいお粥をかけて食べました。水の代わりに番茶で作った粥も食ったことがあります。母、ハナちゃんのことだから、これは我が家だけの独創品かもしれないので、友達などには話したことはありません。

2008年1月4日金曜日

エディット・ピアフ 愛の讃歌

エディット・ピアフ 愛の讃歌


2007 12 30。11:20~


キネカ大森


1199421677.jpg


 


私は、娘(次女と三女)2人と、孫(次女の子供)の4人で、テアトル系のキネカ大森で映画を観てきた。世間は、お正月の準備におおわらわの人と、そんなこと関係ないわい、とのんびり休日を過ごしている2種類に分かれているようだ。我が家では、女房は正月に来るお客さんのための準備で他を寄せ付けない迫力で家事三昧。私ときたら何もすることがない。それじゃ、ということで女房の家事の邪魔をしないようにと、娘、孫を連れ出しての映画鑑賞になった。

得意の株主優待券を使わせてもらった。助かりました。「あなたの燃える手で、あたしを抱きしめて~」このフレーズは私たち日本人には特に馴染み深い歌詞だ。越路吹雪が、岩谷時子の訳詩で、大いに聞くものを虜にしてくれたものだ。この「愛の讃歌」の生みの親がエディット・ピアフだ。ストーリーについては、映画のパンフレットの文章をそのまま後ろの方にまとめた。不幸な幼少の頃、祖母と父と母、友人、路上で歌を歌って日銭を稼ぐ、クラブのオーナーにスカウトされた、オーナーが殺害される、挫折、酒をあおる、薬物依存、著名なアッソによる容赦ない訓練、復帰、飛躍、アメリカでの公演、マルセルとの出会い、マルセルの飛行機事故、歌が命、このように話は進んでいくのです。印象的だったのは、歌を歌い続けるための横暴なまでのふるまい、命を賭しての公演に対するこだわり。才能ある新人の作品を見つけ出し次々に世に紹介した。47歳という余りにも短すぎた人生だった。

1199421993.jpg

私は、映画のなかでこの「愛の讃歌」しか知っている曲はなかったのですが、彼女の持ち歌を知っている人にはたまらなかったのではないでしょうか。声量の豊かさ、明快な歌詞の表現、聞く者に歌詞の意味を委ねる。映画のなかでは、歌は、エディット・ピアフの声を使われたのですが、ピアフを演じたマリオン・コティヤールの名演技が、素晴らしかった。ピアフの歌い方、体や舌の動かし方、小さな息遣いさえも把握して演じたという。プレイバックをうまくこなすためにはリズムのとり方だけでは足りず、息遣いが非常に重要だった、ともいう。

出会い、別離、孤独、希望、愛が映画の始まりから終わりまで、満杯だった。

次女と孫は「えーがでとーじょー! たまごっち ドキドキ!うちゅーのまいごっち!?

私と三女は「エディット・ピアフ 愛の讃歌」

(ストーリー)

1915年エディット・ジョヴァンナ・ガションはフランスのパリ、ベルヴィル地区に誕生した。時は第一次大戦中で、町中戦火の渦だった。歌手を目指していた母アネッタは、路上で歌を歌い、日銭を稼ぐ毎日。そして、そのそばでエディットは小さくうずくまっていた。その後、彼女は祖母ルイーズが経営する娼館に預けれれることになった。エディットのことを実の子と同じように可愛がる娼婦テイテイーヌたちに出会い、戦争で傷ついた彼女の心は少しずつ癒されていった。しかし彼女の幸せな時間は長くは続かなかった。虚弱体質の彼女は角膜炎を患い失明してしまったのだ。何とか彼女の目をもとに戻してやりたいと思った。そこでルイーズたちは、エディットを教会に連れて行った。聖テレーズに祈ると彼女の目は光を取り戻したのである。その後、彼女は聖テレーズのクロスを生涯手放すことはなかった。

1199421752.jpg

その後、大道芸人の父親に引き取られ各地を転々としたエディットは、父の大道芸人の傍らで歌うことを覚える。彼女が歌った時は、いつもの数倍の金が集まった。彼女は自分の歌が人の心を動かすのを知った。

1199422026.jpg

1935年、エディットはパリのストリートで歌っていた。日銭を歌で稼いでいたのだ。そこで彼女は運命的な出会いを果たす。パリ市内の名門クラブ、ジェルニーズのオーナー、ルイ・ルプレが彼女の歌に目を留めたのだ。「もし人生をかえたければここに来てくれ」。彼女は彼からもらった名刺のクラブに行き、そこで歌を歌った。ルイ・ルプレはすぐに彼女を採用した。しかし彼女の名前が気に入らなかった。「エディット・ガショはパットしないな。君を見ていると雀(ピアフ)を思い出すよ。今から君はピアフだ」

1199421817.jpg

ジェルニーズでの舞台は大成功だった。彼女は一躍時の人となり、ジェニーズは彼女の歌を聴きにきた観客で毎晩満席となった。彼女は遂に歌手として一歩を踏み出したのである。しかし、彼女栄光はすぐにかげることとなる。ジェルニーズのオーナー、ルプレが死体で発見されたのである。しかもエディットは容疑者の一人になっていた。容疑は晴れたものの、彼女がステージに立つと「人殺し!」といった罵声を浴びせられるようにまでなっていた。父親とも慕っていたルプレの死で絶望の縁に立たされた彼女を救ったのは、著名な作詞・作曲家であるレイモン・アッソであった。アッソはピアフに対して容赦ない訓練を施した。その甲斐あって、復帰のコンサートは大成功に終わる。彼女は舞台に戻ってきたのだ。その後の彼女はまさに飛ぶ鳥落とす勢いでスターダムを駆け上がり、フランス以外の国でも大成功を収める。フランス人で成功した者がいない国アメリカでも批評家から「無知なアメリカ人にはピアフの歌はわからない。だまって彼女の歌を聴けばいいんだ!」と称賛される。そんな絶頂期を迎えていた1947年、ニューヨークで彼女は人生最大の愛に出会うこととなる。ボクシングの世界チャンピオン、マルセル・セルダンとの出会いである。マルセルには妻子がいたが、ピアフとマルセルは磁石のように急速に惹かれ合っていく。素晴らしい出会いは続くもので、NYでマルセルとの食事中に、映画界の大スター、マレーネ・デートリッヒがピアフに「あなたの歌は素晴らしいわ。パリの夜を思い出して泣いてしまったの」と声をかけてきた。あこがれの大スターに声をかけられてはにかむピアフ。デートリッヒとは生涯を通じての友情を育むこととなる。

それは突然やってきた。1949年10月28日。マルセルとの出会いから約2年が過ぎていた。ピアフはマルセルをNYに呼んでいた。二人は会えないときは手紙のやり取りをしながら、愛を育んでいた。そのマルセルがNYに来る。この事がピアフの心を高揚させていた。うた寝のなかでマルセルとの愛を語らうピアフ。しかしもたらされたのは、マルセルの乗った飛行機が墜落したという知らせだった。彼女はマルセルに聞かせるためにステージで新曲を発表する予定だった。その曲名は「愛の讃歌」~。

1199421871.jpg

歌えなくなったら?------------生きてないわ

死を恐れますか?----------孤独よりマシね

女性へのアドバイスをいただけますか?-------------愛しなさい

若い娘には?---------愛しなさい

子供には?--------愛しなさい

正直に生きられますか?---------そう生きてきたわ

(キャスト)

エディット・ピアフ           マリオン・コティヤール

モモーヌ(友人、支えあう)      シルヴィ・テステュー

ルイ・バリエ(マネージャー)     パスカル・グレゴリー

ティティーヌ(娼婦,実子のように可愛がる)    エマニュエル・セニエ 

ルイ・ガショ(ピアフの父)       ジャン=ポール・ルーブ

アネッタ(ピアフの母)         クロチルド・クロー

マルセル・セルダン(ボクサー、ピアフの恋人)    ジャン=ピエール・マルタンス

ルイ・ルプレ(キャバレーのオーナー)     ジェラードドパルデユー

ルイーズ(ピアフの祖母)       カトリーヌ・アレグレ

レイモン・アッソ(作詞・作曲家 、指導者)       マルク・バルベ

マレーネ・デートリッヒ(大女優・歌手、ピアフの友人)      カトリーヌ・シロル

5歳までのエディット・ピアフ     マノン・シュヴァリエ

10歳までのエディット・ピアフ    ポリース・ビュルレ

(スタッフ)

監督・脚本=オリヴィエ・ダアン

脚色=オリヴィエ・ダアン    イザベル・ソベルマン

製作=アラン・ゴールドマン

1199421903.jpg

2008年1月2日水曜日

去年から今年にかけて

昨年、米国の住宅価格の下落に端を発したサブプライムローンの証券化問題で、世界中の金融機関が多大の損出を被り、頭真っ白顔真っ青状態になった。当然、日本の金融機関も損出を被った。当然、不動産業界への融資は慎重になっている。不動産ファンドは失速した。失速したということは、不動産価格が暴落したからだ。これが表面化したのが昨年の8月だっ。急に住宅やその他の不動産の購買意欲が薄れた。かっての日本の住専の破綻を思い出した。アーバンビルドが進めようとしていたホテルの証券化にも影響を受けた。しばらく時期をずらすことにした。

6月には、改正建築基準法が施行された。これによって建築確認申請と審査が厳しくなり建築着工件数が激減した。建築設計士、構造計算屋は忙しくても、仕事にならん(金にならん)。工務店は建築確認が今か今かと職人を待機させていても正式に発注はこない。沖縄・那覇で予定しているバジェットホテルの建築確認は、この1月で申請してから6ヶ月経つ。やっと目途がたったらしい。昨年の年間の住宅着工数は、1967年以来40年ぶりに110万戸を割り込んだそうだ。住宅業界が落ち込めば、家電、自動車、運送業などさまざまな業種に負の影響が波及して、景気減速の長期化は避けられそうもない。建設業は日本の全就労者の10%をかかえる最大業種だけに、その影響は極めて大きい。

原油価格が暴騰した。アメリカ経済には悪影響を与えるだろう。アメリカはサブプライムと原油高の二重苦に陥ることになった。石油製品の売値も上がり続けている。物価の値上がりを考慮して給料の賃上げが、やっと見直されようとしている矢先に不況の波が不気味に押し寄せてきている。給料アップは、またしばらくはお預け状態だ。

現場での実感としては、夏頃から、地価が高くなり過ぎた湘南地区、とりわけ海側の一帯からは地価の下落現象が見えた。高い土地は売れない。だが、10%~15%下げると売れた。横浜山手地区においても、3区画の土地分譲の企画において、夏に2区画はさっさと売れたが、秋まで売れなかった物件は、今でも売れていない。マンションの契約件数が急速に減少している。不動産経済研究所によると、首都圏のマンション契約率は8月以降、3ヶ月連続で70%を下回っている。東京以外は惨憺たるものだ。

週間現代12月15日号では、表紙で、2008年「不動産バブル崩壊」で、平成大恐慌が日本を襲う、とか何とか、派手なタイトルで読者を煽る。同時期に発売された週間ダイヤモンドでは、表紙に、ゼネコン断末魔!!のタイトルだ。これじゃ誰もが不動産を買い控えするのだろう。今、住まいがどうしても必要な人以外は様子見状態だ。

我々の業界の景況感が一段と厳しくなってきて、今後も1年間ぐらいは続くと思われる。我々の業者間でも、苦しい期間が少しでも短ければいいという願望が先走っていて、春にはなんとか、夏までにはなんとか、と気まぐれで言っている者がいるけれど、1年間は続くと思っていた方が正しいだろう。2年かかるかも知れないのだ。

そこでじゃ、我々はどんな行動をとればいいのか?

先ず我々の業界で今一番大変な状況にある会社の内容を分析すると、今後のアーバンビルドの方向性が見えてくるものです。アーバンビルドにプロジェクト融資をしていただいている金融機関の担当者からは、貴社はこの状況に直面してどのようにお考えなのですか、と聞かれることが多いのです。その度に、私は以下の★印の内容のことをお話しています。

恐れることなかれ、我々は30年も不動産を生業にやってきたのだ。大きい波もあれば小さい波をある。あの恐ろしかった01~02年、バタバタ倒産が相次いだあの時代を生き抜いてきたではないか。そこで頭を冷やして考えよう。マンションの売れ行きが悪くて、新規着工を見合わせている会社が多い。そうこうしているうちに、各企業は努力して売れ残りの在庫を処理するでしょう。苦しんでいる建売業者も在庫を処分するのです。そして新たな時代に突入するのです。その新たな市場原理のなかで、新たな競争が始まるのです。これは、決まっているのです。その新たな市場原理のなかで、アーバンビルドはどんな商品で勝負するのか?ここが、キーポイントなのです。

★マンション専業の分譲会社のような会社は、資金回収において対応しずらいところがある。床卸し無理、青田売り無理。ある程度建築が進まないと売りに出せない。期間がかかる。商品になっていない現場(売りたくても、売れない物件)が何棟もあれば、こりゃ大変だ。弱小マンション分譲会社が一番キツイ。マンション専業以外にも、建売専業の会社も同じだと思います。分譲を行う会社は、いつも危険と背中合わせですぞ

☆ならば(我社は)、早く商品にできる物件を優先的商品化。需要性の高い商品を揃え、特殊な物件は避ける。

★経営者の判断で、損金が発生する商品を売るのをためらう会社はきつくなる。損もあれば益もあるのが、商いの普通の状態だ。

☆ならば(我社は)、長期滞留している在庫にはコストがドンドンかかるので、早い目に処分する。新たな商品(新しい時代に合った、新しい価格)を迅速に作って勝負に挑む。

★この5~6年の間の不動産バブルにのって、一挙に会社を拡大した会社は危ない。黒字倒産の危険性が高い。脇が甘いと言われる会社が多い。拡大したことの努力なんて軽く、先を計って規模を調えるには知恵が必要で、その知恵が会社の能力である。

☆ならば(我社は)、必要なところに、必要な人材を投入する。配置転換も有効だろう。スタッフの能力アップを図る。社員教育が必要だ。経営者は、先の先(目先ではない)を見越した展望をもつ。