シュピルマン
1942年演奏会のポスター
ゲットー内、カフェ・シュトゥカ
2~3年前のことだ。映画=戦場のピアニスト、を観に行かないかと友人から誘われた。たまたまその時は、時間的に余裕がなかったこともあったが、正直に言って、財布の中身が貧困だった。映画を観た後のビール代がなかったのです。その映画の大体のストーリーは頂いたパンフレットで理解していた。
そして先月、古本屋のブックなんとか店の105円コーナーでこの「戦場のピアニスト」の本を買った。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
書名・戦場のピアニスト/ THE PIANIST
著・ウワディスワフ・シュピルマン
訳・佐藤泰一
初版・2000年2月
発行・(株)春秋社
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
本の内容においては、映画のイメージから私なりの誤解があって(本当は観てもいないのに)、気軽に吹っ飛ばして読もう、と思っていた。早朝4時からの眠気覚まし用の心算だった。ところが、少し読んだだけで憂鬱になってきた。そして恐ろしくなってきて、怒りが湧き起こってきた。そして、頭の中はクラクラ状態だ。4月10日から読み出し、今日(12日)でこの本の全206ページのうち101ページまで、まだ半分しか読んでいないのに。
193?年、ポーランドはドイツ軍に占領された。
ワルシャワに住む、主人公であるポーランド系ユダヤ人のピアニスト・シュピルマンとその家族と職場の仲間と友人たちが、ゲットー区域に追いやられ、隔離され、自由をどんどん奪われ、そのうちにユダヤ人の「人狩り」、次にはゲットーからの行き先の解らない再移住を強制されていく。
シュピルマンの家族は、もともとゲットーのエリア内に住んでいた。ドイツ占領軍が、いろいろ布令を発した。最初のうちの布令は、ユダヤ人はドイツ軍に見合った時には、頭を下げるように、なんて馬鹿げた内容のものだったが、日が経つにつれて内容が命にかかわる、厳しいものに変化していく。街はドイツ軍の攻撃で、どんどん破壊されていく。それでも、放送局の電源室が爆撃で壊されるまでは、戦火の下出勤して音楽を、自らの演奏も放送した。怪しく思われた者は、いとも容易く殺された。死体が、街のあちこちに転がっている。死臭。地下室に詰められ、狭い部屋に多くの人間が住み、住まいの周辺には、鼻先がひん曲がる程の腐臭が漂う。情報の閉ざされた社会の中で、あれこれポーランドにかかわる外国の戦況に、心配を募らせた。期待していた国々は、どの国もドイツにやられていく。
通りは、ひっきりなしに刑務所の車が拘置所からゲシュタポへ囚人(ユダヤ)を運んだ。帰りの車には、砕かれた骨、踏んづけられた腎臓、引き裂かれた爪などがついた血だらけの人間スクラップだ。有名なポーランド人外科医ラセヤ博士が、難しい手術中に、外科医と患者その場にいた全てが射殺された。
そしてゲットーに住むユダヤ人の50万人の移住計画が実行されようとしていた。最初の数日間はくじ引き方式で進められた。そのうち手当たり次第に建物を包囲し、性別、年齢関係なしに馬が曳く車に乗せられ、一箇所に集められ、そこから貨車に乗せられ、見知らぬ土地に配送された。働ける者は兵舎に宿をとり、工場に行くことになっていると言われたが、果たしてそうだったか。ほとんどの者は、殺人だけを目的としたガス室へ行かされるなんて、想像できた者はいただろうか。
ヤヌシュ・コルチャックが運営していた孤児院も立ち退きを命じられ、子どもたちには、新しく楽しいところへ行くんだ、と先生は子供と歌を歌いながら兵隊に率いられていった。コルチャックには助かるチャンスはあったにもかかわらず、同行した。有名な「コルチャック先生」のことだ。
ここまでは読み進んだ。これからのストーリーは、映画のパンフレットで想像がつくのですが、ここまで、読み進んできて、私の頭の中は、今後の物語の展開に対する興味は薄れ、読み進む気力が萎えた。
思考のベクトルは、ナチであり、ユダヤ人のことだ。
なんで、ドイツはここまでユダヤ人を憎むんだ。なんで、ユダヤ人はここまで憎まれることになったのだ、その原因はなんだ。このことが、はっきりしなければ、読み進めない。ここまで酷い仕打ちを受けたならば、タダではすまされない、と思うのも当然だろう。
そんなことを思いながらも、きっと、この本を明日も読み進むのだろうが、ユダヤ人とドイツのことを調べなくちゃ、私の頭は治まらない。頓珍漢のこの私に解りやすく教えてやってくれませんか。
13日、手探りでユダヤを理解しようと務めた。その結果、俺に大警告、私ほどのアホはこの世にいないのではないかと、自己批判した。ユダヤ人やユダヤ教のことは、そんな簡単なものではないことに気付き、赤恥な思いだ。情けないわ。この問題は一生ものだ。一生かけても、理解できないだろう、と思った。
そう言えば、オランダ系ユダヤ人として「アンネの日記」もあったか? これも、調べなくっちゃイカンな。
戦後、ポーランド放送局にて
本はこれからが、クライマックスなのに。クライマックスを前にド頭(どたま)を冷やしてから、読書に再突入します。
シュピルマンは、幸運にも死を逃れ、1945年以降、ポーランド放送で再び働き、管弦楽作品や三百曲ほどののポピュラーソングを作り、それらは大変ヒットしたらしい。ポーランドの大衆音楽の舞台を作り上げたと言われている。
ーーーーーーーー中憩です--------
0 件のコメント:
コメントを投稿