2009年5月25日月曜日

アウシュヴィッツを生きた少女

エバ  002

書名・エヴァの時代

著者・エヴァ・シュロッス

訳・吉田寿美

発行所・新宿書房

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先日、以前に映画化された「戦場のピアニスト」の原作(映画の題名も同じ)を読んで、ナチスやアウシュヴィッツ収容所、ユダヤ狩りに関しての私の浅薄な知識に、我ながら情けない思いをした。恥入った。ポーランド系ユダヤ人のピアニスト(シュピルマン)の家族とその友人や職場仲間の、ドイツ軍の監視(親衛隊=SS)から隠れ家を転々としたさま、狩られていくさま、いとも簡単に凶弾で殺された人間があちこちに横たわっている街の光景に、肝を冷やした。その読後感想を、内容のあまりのむごさに脳は機能不全に陥り、文章は不完全のままブログに投稿した。

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ナチスの人種絶滅収容所に関する「数」をまとめた。この数字だけは、いつでも諳(そら)んじたいと思ったからだ。ヨーロッパ被占領地17カ国で、補助収容所を含めると900余り、収容所で死んだ人は1100万人。ナチの手で虐殺されたユダヤ人の総数は、ヨーロッパで住んでいたユダヤ人の3分の2の600万人。

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ナチスとユダヤに関することを考えたり、本を読んだりすると、果てしのない闇の渦の中に引き込まれる気分になる。人の命が、虫けらよりも軽く蹂躙されていった過去の事実を知ることで、私の思念は乱れる。怒り、苦悩、また怒り。読めば読むほど、考えれば考えるほど、私は「命」に関して先鋭に、精神が尖(とが)っていく。アーリア人とユダヤ人、アイヌやチベット、犬や猫、牛や豚、そんな命と私の命と、どこがどう違うのだと考え突いて、はたと立ち止まるのです。人間を含めたどんな動物にとっても、自らの命はかけがえの無いものだ、又、本来、お互いにとってもかけがえのないものなのだ。だから私は、他人の命を尊重したいと思う。

答えは、命あるモノ(者)は種の異なるモノ(者)とも、尊重し合って、共存しなければならないということだろう。

以前に神戸で起きた少年による、少年殺害事件を思い出してみて欲しい。年下の少年を殺して、切り取った生首を校門の前に置いた事件のことです。時代が違って、社会背景も違うが、少年は、小動物に対する虐殺から、生身の人間の殺人へと進んでいった過程に留意して欲しい。小さい、弱い命を軽くみたところから、大きな悲劇が生まれたのだ。

ちょっと、話は拡大しますが、食用に必要だからと言って、牛や豚などの動物を大量に殺すことを是とすることは、近い将来きっと問題視されるでしょう。バカスカ殺すのではなく、節度をもつことを求められる世の中に必ずなる。日本人は昔、魚や動物を供養しながら食した。アイヌの人たちは、魚や川に、動物や山菜の宝庫の山に感謝の儀式を怠らなかった。その感謝の気持ちが薄れると、私たちは怨まれて、呪われますよ。

動物性たんぱく質の摂取が必要だとアピールしているのは、悪魔の穀物メジャーだけなのかもしれません

何故、ドイツでユダヤ人に対する憎悪と迫害、理解を越えるナチスの人間大量抹殺は行われたのか。この本の作家の母は、教育こそ全ての鍵であって、ドイツ国民の各世代が、子供の頃からユダヤ人に対する人種差別意識と果てしない憎悪を吹き込まれていなければ、あれほどの排斥と迫害にまで行き着くようなことはなかったはずであり、何にもまして大切で人々がしっかり心に刻みつけなければならないのは、差別意識や偏見を人の心に住みつかせないような正しい教育が小さい頃からなされることなのだ、と。

と言うことは、今のドイツのことはよく解らないのですが、かってのドイツのように、間違いなく日本の教育も崩壊しているってことだ。

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この「戦場のピアニスト」の読後感想の書き込みを読んだ友人が、オランダ系ユダヤ人のアンネ(アンネの日記)のこともあるよね、と言いながら自分が以前に読んで感動した本を、今思い出したので、図書館で見つけ出すことができれば、借りてくるから読んでみたらと言われた。その本を見つけ出した友人から後日貸してもらって、今読み終えた本が今回紹介した、「エヴァの時代」です。第二次世界大戦が終わって44年後に、エヴァが自分の実体験をもとに手記にまとめたものです。父と兄は殺されたが、母と娘は、奇跡的な幸運の連続で生き延びられたのですが、さすが本人の体験に基づいているので、内容は目から鱗(うろこ)落ちの連続です。その一つひとつを書き上げられませんので、機会を作ってこの本を読んでいただきたい。

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ストーリーは~

主人公はエヴァ、1929年5月11日の生まれ。15歳の時のことだ。母フリィッツィ、父エーリィッヒ、兄ハインツの4人のユダヤ一家の物語です。兄にドイツ国内の労働収容所に出頭せよとの令状が届いたことで、一家は身を潜めることを覚悟する。父は、青年実業家だったが、追われることになってからは、対ナチ地下抵抗組織で活躍。兄は、音楽を愛し、絵を描き、学習意欲の高い青年だった。家族は隠れ家を転々と繰り返していたが、最後は心ない密告により身柄を拘束されてしまう。刑務所に入れられ、所定の取調べ後旅客列車で、ヴェステルボルグ収容所に送られた。

ここで奇跡①。この列車から降りる時、母はエヴァに自分の持っていた丈長のコートと大人っぽいフェルトの帽子を渡して無理やり着させた。取り上げられるのを嫌って身に付かせたのだ。その結果、エヴァは収容所の入り口の選別で、15歳以上の女の子と判断され、母と同じグループになって移動することができた。15歳以下と老人、弱っている者は選別されて、ガス室直行だったのです。

収容所には、ユダヤ人、ユダヤ人を匿(かくま)ったキリスト教徒、ユダヤと同じくらい敵視していたジプシーが囚(とら)われていた。

そしてビルケナウ女子収容所へ。

「火葬場の臭いに気が付いただろうが。さっきお前たちの家族が連れて行かれたのは浴室なんかではない、ガス室だったのだ。今頃はジリジリ火あぶりの真っ最中だ。もう誰一人帰ってきやしないんだ」。

衣類を全部脱がされ、丸裸のまま窓も仕切りもない大きなコンクリートの浴室に入れられた。密室だった。ガスではなく水が天井から降りかかった。濡れた体のまま外へ出され、タオルなしの天日干し。一列に並ばされ、髪の毛はおろか体中の体毛を全部剃られた。恥毛もだ。そしてサイズの合わないブルーマが1枚と上着が1枚、左右不揃いで大きさがちぐはぐな靴が1個というより1本ずつ無造作に投げられた。腕に入れ墨でA/5232と書き込まれた。食べ物として、一日分として10センチ厚さの黒パンひと塊と砂糖なしの代用コーヒー。共同トイレはコンクリート台の上にそれぞれ30センチぐらいの丸い穴が両端に二列にくりぬいてあるだけで、他に何もない。水洗設備はおろかチリ紙すらなく、プライバシーなど論外だった。

極度の心的外傷によるストレスのためか、全ての女性には生理がなかった。スープの中に生理を止める臭化カリが入っているという噂もあったが、スープを飲んだ後きまって体が宙に浮くような妙な気分になったので、噂は当っていたのかも知れない。

三週間の間、雨が降ろうが風が吹こうが来る日も来る日も一日中外の空き地に放り出された。衰弱していく。餓死する者、病死する者が毎日のように出る。理解できない懲罰。エヴァは燃えるような高熱に襲われ、意識が朦朧となる。だが、病気に罹ったものの、衰弱した者は選別されガス室に送られることを知っているエヴァは、病院行きを拒む。だが、ついにチフスの疑いがあるとのことで、診察に同意せざるを得なかった。母を付き添い人に指定した。

そこで奇跡②。母に抱きかかえられるようにして入った診察室にいた看護婦が、母方の親戚で、母が小さい頃しょっちゅう姉妹のように仲良く休暇を過ごしたことのあるミニだった。

ミニの出現で心強くなった。ミニは食べ物を差し入れしてくれた。この頃から選別された者がある日突然居なくなることが多くなった。ガス室に送られたのだ。逃亡者が絶えなかった。逃亡者で生きて捕まった者は、見せしめにみんなの前で絞首刑にされた。凝視することを強制された。

隔離棟での収容も終わりにさしかかる頃には、労働作業を割り当てされた。エヴァと母は、鋏で何千着と積まれた毛皮のコートの裏地を一枚一枚はいでいく。隠されている貴重品を探すのです。宝石、金貨、紙幣がたくさんでてきた。

そこで奇跡③。プラハの裕福な家庭で育ったミニはアウシュヴィッツでは何よりも上等な錆付いたスプーンが嫌だったのだろう、いいスプーンが欲しいと頼まれた。そしたら数日後の作業中一本の銀のスプーンを探し当てたのです。監視を逃れてプレゼントすることができた。

そして奇跡④。エヴァは作業中に、父が野外作業のために通りかかったところを見つけた。兄も元気でいることを知らされ、母に告げると母は大層喜んだ。

厭(いや)らしい兵隊に付き纏われた。2,3週間ごとに刃の欠けた大きな鋏で頭を丸坊主にされた。

野外作業の内容がかわった。巨大な石の塊を敷地の片側から反対側に移し、重いハンマーで叩き割るのです。無意味な過酷な作業に体は弱っていく一方だ。衰弱する体には、与えられる食事は少な過ぎて、母とエヴァは炊事場のゴミ捨て場で野菜の残片をあさった。人参の頭、カボチャの皮などを見つけることができた。貪(むさぼ)った。

十月に入ったすぐの週1回目のシャワーのとき、いつもと雰囲気が違っていた。監視兵はイライラしていて、怒鳴り散らしていた。裸になって恐る恐るシャワー室に入った。天井から降りてきたのは、恐れていたガスではなかった、お湯だった。ひとまず安心した。入り口とは反対側の扉が開いた。収容者すべての生殺与奪を握り「死の博士」と怖れられていたメンゲル博士のチェックを受けることになった。選別されるのだ。裸のまま、メンゲル博士の前に進まされ、その前で立ち止まりゆっくり一回転させられた。一人ひとりの運命を定めるべくその臨床学的な精密な目で体を調べられた。

怖れていたことが起こった、母が選別されたのだ。その時母はエヴァに向かって「ミニに伝えて」と耳打ちした。母は、連れ去られた。エヴァは選別されなかったものの、ミニや母からははるか遠くの隔離棟に移された。

奇跡その⑤。母が選別されたことをミニに告げなくては、と夜半、監視塔の警戒やサーチライトを避けて病棟ブロックを目指した。仲間は危険千万な行為に反対した。が、なんとかミニに母のことを知らせることに成功した。不思議なことに、戻りは何等危険を感じなかった。

作業は、ロープをなうことに変わった。誰彼となく呼び出され、懲罰されたり、処刑されていった。死んだようにこちこちになって作業をしていた。

奇跡その⑥。父に再度会った。ドイツ人の上役の信用を得た父は、自由に行動ができたようだ。今から炊事係りに言って、お前のために食事の残り物を少しとっておくように、頼んでおくよと言って去った。さすが、父はすごいと思った。事実、炊事係から、ゆで野菜などが差し入れされた。

いつも使用している浴室の設備が壊れたので他のブロックの浴室を使うことになったと告げられて、真っ青になった。いよいよ最後の時がきたのだと観念した。脱衣室に入っても口をきく者はなかった。誰一人体を動かそうとも服を脱ごうともしなかった。監視兵が服を脱ぐように促しても、その言葉を死ぬ用意をしろと受取った皆は、動こうとせず、公然たる反抗だった。だが、この時もガスではなくお湯だった。

選別された母たちは、ガス室に行くことに決まった者たちだけが収容される棟に隔離された。床の上で、女たちは一人静かにむせぶ者、半狂乱になって夜通し泣き叫びながら扉を拳で叩き続ける者。最後の祈祷をあげる者。水もなく、パンもなく、着る物もなく、置き去りにされた。

奇跡その⑦。その後メンゲル博士の診察を受けた際、身内は一緒か?と聞かれて、夫と、息子と娘が一緒です。最後に、従姉のミニの名をあげた。博士は、服を着て出て行きなさいと言った。ミニが間に入って、何らかの工作を博士にお願いをしてくれたのだ。

もう一人の女性と二人は、選別からはずされたのだ。最後の点呼のために整列させられていたところに、一人の監視兵が他のバラックで二人が足りないのだ、と慌てて入ってきて、母ともう一人選別から外れた二人に向かって、「この図体の大きい馬め!来るんだ。その隣のものもついて来い」、と死を脱したばかりなのに瞬く間に死の逆転宣告だ。

しかし、奇跡の女神は母を見捨てなかった。奇跡その⑧だ。連れて行かれたバラックで、女性将校による、最後の最後のリストのチェックが始まった。連れてこられた二人は、ここのブロックの者ではないことを、将校に告げるや、将校は二人を連れてきた監視兵を思い切り平手打ちをくらわせた。二人は列からはずされた。呆然と見守る二人の前で、トラックの後部ドアが閉ざされ、走り去った。その夜、火葬場の高い煙突からは赤い焔(ほのお)が夜通し立ち昇っていた。

エヴァのつま先は凍傷が進み、黄色い膿がいっぱい溜まってびっこをひかなければ歩くことはできなくなった。病院で診てもらうことは、選別されることの可能性が大きくなるので行きたくなかったが、母が病舎に居るのだと思うと友人の説得を聞き入れることにし、申し出た。順番がきて病舎に行くと、ミニが助手として働いていた。声を掛けた。「親戚の者なのです」とユダヤの医師に紹介して、母のベッドを訪ねる許可を取ってくれた。

病室は、強烈な臭いが鼻を突いた。尿と腐りかけた肉体と死の混じりあった臭い。母を見つけて声を掛けた。ベッドから降りてきて腰を下ろして、今までのことを話し合った。エヴァの凍傷も入院が必要だったが、順番を待たなければならない。「ここにいる限り、私が付いているから心配しないでいいんだから」、とミニは言った。

そして入院する日がきた。ミニの配慮で母のそばのベッドを用意してくれた。母子は一つのベッドでかたく身を寄せ合いながら、断続的に聞こえてくる砲撃の音と空襲のサイレンをバックに、昼となく夜となく、引き裂かれていた日々について語り合いながら過ごした。

絶えず戦闘の砲声の響きが届いていた。来る日も来る日も病人が次々に死んでいった。

ある日監視兵が突然やって来て,起き上がれる者は全員外に出ろ、と命じられた。母はよれよれになって、毛布で身をくるみ、半ば気を失いながらかろうじて外にでた。何時間も整列されたままだった。外は、シベリアの大平原のように、見渡すかぎり大雪原だった。長いこと待たされたが、何もなかった。こんなことが三昼夜、何度も繰り返された。ねらいは何だったのだろう。無駄骨だった。

ミニは病死した人の処理に追われていた。表情は暗かった。

そして、次の朝。妙にシンとして物音一つ聞こえない。周りには人っ子一人見えなかった、監視兵や看護婦、ミニの姿も消えてなくなっていた。

事態を理解し、体を動かせる者たちで対処を考えた。食料庫にはパンがいっぱい残されていた。水は氷を融かした。残された病人にそれらを配った。処理されてない死体をかたづけた。悪臭がすごかった。先日まで解放される日を夢見て語り合った友人の死体もあった。エヴァにとってこれだけの多くの死体に向き合ったのは初めてだった。衣料倉庫も物色して、洋服や羽布団を見つけた。

そして数日後の1945年の1月27日。解放者のソ連軍の兵士が前線に届ける武器や物資を馬に引かせ小部隊に分かれて終日次々と到着してきた。野営炊事場からジャガイモやキャベツのスープを煮るたまらなくいい匂いがしてきた。こっちに来いと言われて、ありがたくもらった。熱いものが体の隅々まで行き渡って体中がしびれた。

その後、ソ連兵がトラック10台余り連ねた100人ほどの前線部隊がやってきた。野営の焚き火を囲んでたどたどしい会話をやりとりしながら、温かい兵糧のお相伴にあずかった。

そんな状態だったので、病舎に残された者たちは以前ほど、緊張感がなくなっていた。そんなある日、ドイツ国防軍の兵士を満載したトラックが収容所の入り口に止まった。病舎にいた者は外に連れ出され、先頭と背後を2台のトラックにはさまれ両側に銃を突きつけられた。無残な女の一行が門を出て行った。母はその一行の中にいた。エヴァは、建物の影からその様子を見ていた。

エヴァは狂乱状態に陥った。が、奇跡⑨が起こるのです。連行されて行って間もなく、一人、二人、三人と力尽きて雪の上に倒れ始めた。ドイツ兵は動けなくなった女たちを見捨てるか、撃ち殺すかした。母はもう今しかないと悟って厚く積もった雪に足をとられるふりをして、くずれ落ちた。息を止めてそのまま動かなくなった母の傍ら1メートルと離れていないところをトラックが通り過ぎて行った。無事だった。

すっかり安全と思われるまで、雪の上に倒れていた。それから体を起こし、暗闇の中をとって返して来た。えんえんと凍りついた死体が横たわっていた。百人以上の女性がこの夜死んだのです。

その後、病舎にいた者たちは、アウシュヴィッシュ収容所に合流した。アウシュヴィッツ区域は、一時的にはドイツ軍の反抗はあったが、ソ連の駐屯司令部になっていた。合流した人たちと知人や身内の安否の情報交換をした。

それからは、モスクワを経由してオランダへの帰還の旅になる。

エヴァは旅の途中、一時的に母と逸(はぐ)れたりするのですが、ソ連領内のこと、心配するようなことではないと思うと、急に私の読書の「力(りき)」は萎えた。

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この本の内容とは関係ないのですが、「アンネの日記」のアンネのことに関して、訳者の後書きのなかで書いてあったことを、ここに記しておこう。

エヴァと母(フリィッツィ)は生き残ったが、父(エーリィッヒ・ガーリンガー)と兄(ハインツ・フェリックス)はガス室で殺された。アンネの家族はアンネと母は亡くなった。

その後、アンネの父(オットー・フランク)とエヴァの母は結婚して、母の姓はフリィッツィ・フランクになり、アンネとエヴァは義姉妹になったが、義姉妹になってからの生活はなかった。オットーはアンネの残した著作物の整理に励んだ。

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