弊社が行っている横須賀秋谷1丁目での宅地造成工事現場から、奈良時代のものと思われる瓦を作るための登り窯の跡が見つかったのは、平成19年の9月のことでした。当該地は、横須賀市の教育委員会では乗越(のりごし)遺跡の隣接地と言われています。
造成工事は、窯跡が見つかるのと同時にストップがかかって、立ち入り禁止の札が立てられ、我々のスタッフも遠巻きに眺めるしかなかった。埋蔵文化財ですから、学術的に大切な遺構ですから、今回発掘できるのは珍しい登り窯なのですから、などなど、協力をしてくださいと言われれば、それは仕方のないことだと納得した。
発掘に参加している人たちは、地主である弊社に、それはそれは夢見心地で楽しく説明してくださるのですが、私とこの宅地造成工事を担当してくれているK取締役は、調査が終わるのはいつのことやら、と行(工)程や資金のことを考えて憂鬱だった。夏の盛りは過ぎたといえども、炎天下の作業は大変そうでした。調査員や作業する人たちが、なだらかな丘陵地に蟻の行列のように連なって手作業をしていた。作業員の人に、南傾斜で住宅地としては最高でしょうと話しかけたら、窯にとってもこの傾斜は海からの絶え間なく吹き付ける西風が、窯の焚口に入れた薪を燃やし続けるのによかったのですということだった。
奈良時代に、相模国分僧寺(海老名市)が創建されたときに使われた瓦の模様が布目のもので、その瓦が作られたと思われる生産工場が何処かにあったと想定はされていたものの、その場所が確認できていなかった。そのような背景のなかで、この登り窯が発見された意味は大きいのです、とは調査員の力の入った弁です。
国分寺は天平13年(741)、聖武天皇の詔により、全国60余国に造園された僧寺と尼寺のことです。奈良の東大寺・法華寺を総国分(僧・尼)寺とした。日本の歴史の中で、最初で最大の国家プロジェクトであったようです。地元の人間は使役としてかり出され、大変な負担だったようです。
時代は奈良時代。
聖武天皇。国分寺(僧寺と尼寺)
相模の国、今の海老名、三浦半島。
瓦の生産工場と寺の建立。
窯を作って瓦を焼いた職人、その作業を支えた関係者たち、とその家族たち。瓦職人集団は、帰化人(渡来人)だったのだろうか。秋谷が選ばれたのは、瓦に適した土が採取できたからなのだろうか。現場から100メートル近くには入り江があって、そこから生産された瓦は船で積み出されたようです。
海を渡って、川を遡(さかのぼ)り、陸路で現場へ。陸路は人力による荷車か、馬か牛で車を引かせたのだろうか。搬送に使った船は何が動力だったのだろうか。帆船だったろうか、まさか人力による櫂か、いや帆と櫂の併用か。
建築の監督も帰化人(渡来人)か、帰化人二世か三世か、帰化人から教わった弟子か。 瓦以外の建築資材は何処でどのように調達したのだろうか。工事に要した道具は。資金はどうしたのだろうか、時の朝廷が用意した国家予算からか、篤志家からの寄付か、民衆からのお布施か。内装は、水回りは、便所は。当時の仕事に携わった人たちの住居は、服装は、食事は、移動手段は。瓦の工場や建築作業場での徒弟関係、仲間、恋愛からめでたく職場結婚に至った若者もいたのではないのか。
そんなことの想いが次から次に連なる。遠く、奈良時代のロマンを追うなんて、粋(イキ)なことじゃござんせんか。
横須賀市の教育委員会からは、協力していただいたことに感謝して、調査した結果を本にまとめたら贈呈させていただきますから、と言われていた。その本が届いたのです。
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横須賀市文化財調査報告書 第46集
2009年3月31日
横須賀市教育委員会
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