2009年9月28日月曜日

本日は、休日なり。090923

今日は「秋分の日」。明日、24日は我輩の61歳の誕生日だ。

今日は一日、丸ごと休日宣言をする。だが、目が覚めるのはいつも通りだった。まずは小水、次に冷たいお茶をコップ1杯、一気飲み。

03:30、次女から2、3日前に誕生プレゼントにもらった、五木寛之の「人間の運命」を読む。

新刊書、新品だ。この匂い、この新しい本の手触りは久しぶりだ。何とかオフの105円コーナー漁(あさ)り名人にとって、新刊書は夢の夢、高嶺の花だ。五木寛之さんの著作物がこのごろ「大河の一滴」とか今回の「人間の運命」とか、法然か、親鸞、唯円か、歎異抄か、なんだか人間の生き方、考え方、人間の生涯のこと、そんな人間論に関する著作が目立ち過ぎて、その間にもお寺巡り、お坊さん巡りがあって、私の周囲には、イツキシラケ鳥が飛び回っている。

偶然にも昨日、この本が朝日新聞の全1ページの広告に出ているのを見つけた。広告のコピーは、人間の運命、とは何か? 人生は変えられるのか。親鸞の言葉に隠された謎が今ここに明かされる。紀伊国書店新宿南店では、売上第1位だとか、丸善丸の内本店でも第1位だとか、こんな手法は、書物の販売には不向きではないのか。また本一冊売るために、こんな過剰な広告は異状だと私は思うのだけれども。ひょっとして、他紙にも出稿していたのだろうか。いつの頃から、このように本の広告が大々的になったのだろうか。火点け役は幻冬舎か?本屋業界のこの浅ましさは、現在の日本文化の底の浅さ、儚(はかな)さの象徴か。

私は、本選びこそ、他人にガチャガチャ言われたくない、押し付けられたくない、自分で選びたいと思っている。自分で自分の読みたい本も選べなくてどうする。それこそ、自分の運命も他人に教えてもらえないと、生きられないのか。

本の内容は、今読みつつあるので、総括はできないが、優秀な人が苦労して考察したその成果を、きっと私も読後は満足するのだろうが。何か、違和感を感じるのです。この本の導入部分で、映画「愛を読む人」、原作はベルンハルト・シュリンクの「朗読者」を持ってきた。この「朗読者」は1ヶ月程前に読んで、感動した経験から、五木寛之はタイムリーなネタを、上手い具合に使うものだ、と感心した。先ずは、五木大作戦その1(いち)ということかな。私が感じる違和感は、五木寛之さんにはもっと小説を書いて欲しいと思っている気持ちが、心のどこかにあるのが原因かも。かっては、五木小説を熱愛した読者だったのですから。かって30年前、40年前の彼のストーリトーカーとしての能力の高さには感服していたのです。

友人に、最近五木寛之さんは小説を書いてないね、と質問したら、売れる物を書けばいいんじゃないの、ときたモンだ。

05:00、ポンタとツバサ、犬二匹との散歩に出た。

本日は休日 005 本日は休日 008

(自分のベッドでくつろぐポンタ、私の布団でくつろぐツバサ)

本日は休日 007

(三女が作った造形です。真ん中は名犬ゴンです)

いつもの通りのコースだ。いっつも決まった所でマーキングをしてウンコをする。ウンコは地面に落ちる前にナイスキャッチが求められる。いつもと同じウンコかどうか、きっちり確かめる。この時間に、いつも会う、近所の散歩のオジイサン・オバアサンは何人もいて、会うことがないまま散歩を終えると、心配になる。ケガや病気でなければいいが、旅行ならうらやましい。新聞配達のおにいちゃん、某宗教団体の広告宣伝紙の配布のお姉さん。

私は丁寧に手入れの行き届いた家々の庭先を覗き見しながら歩く。真夏には比較的少なかった花も、今は、咲いている花の種類が多くなったように感じる。俄然頑張り続けているのは、百日紅(サルスベリ)だ。7月の初旬から咲いているから、名前の百日(紅)は満更誇大広告でもなさそうだ。多分10月の中旬までは、咲き続けるのだろう、私は証人として見届けます。

昨夜、家人は帰宅した酔っ払い(私)に向かって、冬に備えて買ってきた敷物の上に、ポンタがゲロを吐いたと言って怒っていた。「敷いて、2,3時間も経ってはいないのに。電話中だったので何もできなかった」、本当に悔しそうな顔だった。アルコール漬けの頭の芯に家人の声がガンガン響いたが、聞き流して、私は酒を燗した。しょうがないんじゃないの。今朝のポンタは、昨夜にあれほど叱られたことなどすっかり忘れたような清清(すがすが)しい顔をしている。気分転換が上手いのだ、私も見習わなくっちゃ。ポンタ、最高!!

05:45、朝飯前に、お彼岸のお萩を食った。

本日は休日 010

(お萩です。)

甘いものを食えるのは、一日の中でこの時間帯だけだ。春のお彼岸には牡丹餅(ぼたもち)と呼び、秋はお萩と呼ぶ。唯、呼び方が違うだけだったんだ、と今更ながら気付いた。春に咲くのは牡丹、秋に咲くのは萩なので、このように呼ばれるようになったらしい。家人が言うには、今、萩の小さな花が咲いていますよと言う。子供の頃は、仏壇にお供えしてからいただいた。餡(あん・小豆)と黄な粉(大豆)でご飯を丸く固めたのを包み込んだもの、2種類だった。子供の頃、実家が農家なので、祖母が作ってくれた牡丹餅は、野良仕事のためにも、がっちり握られていて、大きかった。

それでは、私の今朝の朝食メニューを紹介しましょう。納豆、ネギ、梅干、焼き海苔、野沢菜のわさび漬け、それにだ、驚くな、なんと「かじめちゃん」と「ごま出し」だ。「かじめちゃん」はカジメとみりん、ごまを食塩や醤油、砂糖、ソルビットなどで混ぜ合わせたもので、海苔の練ったようなものです。ソルビットって何だ。カジメとは、現物を見たことはないのですが、海草らしい。昆布かワカメかそのようなものだと、想像した。また「ごま出し」はうどんや鍋物、スープのダシとして、茶漬け、卵ご飯などには味を添えるために使う。こんな、珍しい物を食していますのよ、我が家の食膳は豊かでしょ。これらの2品は、長男の嫁の実家の母親が、娘可愛さに贈ってくれるのを、横流しをしてもらっているのです。これ以外にも、色んな珍しい食べ物を送ってくださる、私の家にも、感謝、感謝だ。

孫が何処からか貰ってきたオクラの種を、家人が鉢に蒔いておいたのですが、そのオクラの実?がなっていた。何日か前には花が咲いていたことは確認していたのだが、こんなに立派な実になっていようとは、自然に感謝だ。タラの芽の木をチェック。タラの芽の天ぷらは若い頃に、信越地区のスキー場の事務所で鱈腹いただいた。その頃、私は某私鉄系観光会社の本社の宣伝課に所属していた。そのタラの芽の木を、偶然、初夏にホームセンターで見つけて育てているのです。明日の天ぷらになるタラの芽様をなんとか、私の管理下に治め、毎年満足するだけ食べたかったのです。まだ、幼木なのです。今、落葉して、花が咲いているのですが、これって普通ですか。この花はどうなるのだろう。誰かタラの芽の木の1年間の生態を教えてくれませんか。

本日は休日 001

(タラの芽の落葉)

金魚に餌をやった。金魚約10匹、鮒1匹。泥鰌(どじょう)1匹は、たまにしか姿を見せない。この泥鰌は、我が家に来てもう20年以上は経っている。

雨戸を開ける。ガタゴト、雨戸のきしむ音は、世間様に我が家の行動開始宣言のようにも聞こえた。

本日は休日 004 本日は休日 003

(オクラ、と金魚のいる池)

07:00、三女が起きてきた。私は朝食を終え、新聞を読んでいた。

この娘、目覚めが悪くて、顔はボヤ~ンと、目はまぶしそう。オヤジ、俺は駄目だ、もう駄目だ、もう今日は駄目、と言ったまま浮かぬ顔のまま。どうしたんだ、と詰問しても、もう駄目だと言うばかり。少し時間が経ってから、聞いてみると、昨夜、長男から借りた映画のDVDを観たんだけれど、もう私、どうにもならないほどショックを受けたとのことだった。その映画は「闇の子供たち」だったのです。この映画はね、「血と骨」のあのオッサンが原作者なんだ、と聞かされれば、大体どのような映画だろうな、ぐらいの想像力は働く。タイにおける子供の虐待を扱ったものだ。

08:35、テレビをつけながら、新聞を読んだ。

山由紀夫新首相の国連気候変動サミットでの発言が先進国に、とくにヨーロッパの国々に拍手で迎えられたニュースをテレビが伝えていた。環境問題で世界をリードしていこうとする、首相の発言内容とその取り組み方を、鳩山イニシアティブ、と言われていた。オバマ米大統領との会談においては、日米同盟強化で一致しました、なんて報道もあった。

09:30、道路の向かい側に住んでいる次女と孫を起しに行った。

次女は昨日、ちょっとした交通事故を起した。大したことはなかったようだが、緊張して極度に疲れたのだろう。この時間になっても、まだ起きてこない。事故直後は気が張っていて痛くなくても、翌日になると痛みが激しくなることもある。そんな状態のようだ。次女の夫は、暗いうちに、昼には帰ってくると言って、サーフィンに出かけた。千葉の海岸らしい。

10:30、次女の息子、我輩の孫を連れて、狩場にある児童公園のプールに行った。

本日は休日 011 本日は休日 013

(プールでの遊びを終えて、次は公園や)

ここは、ゴミの焼却熱を利用している。我等、地元住民はゴミの焼却に伴う排気の影響やゴミ収集車の出入りで、多少迷惑を被っているとして、入場料を半額で利用できるのです。でも、この割引制度も今月で終了する。地元対策は終了したということだろうか。私達の子ども達は、ここのプールで家人の指導で、泳げるようになった。家人は、かってスイミングクラブの指導員だったのです。その影響もあって、私もなかなかのスイマーになりました。今、孫を教えるのは、私。幸せなことだ。孫は、スイミングクラブに週1で通っているから、もう2年も通ったから、その成果は目をみはるものがあった。すっかり水に慣れていて、私が遊んでやろうと思ったけれども、充分自分で工夫して遊んでいた。クロールをちょっと教えてあげたのだけれど、これも簡単に私が言った通りのことができた。ここまで水に慣れていれば、もう、オッケーだ。

公園でも遊んだ。滑り台と雲梯(うんてい)で遊んだ。うんていは、長い梯子を横にしたもので、懸垂やぶらさがりながら移動する遊具です。うんていを、こんな漢字(雲梯)を当てるのを知ったのは家に帰って調べてからのことだ。

本日は休日 014 本日は休日 015

(滑り台とうんてい)

12:30、「ごま出し」を使ってのうどんを食った。うどんの麺も九州長崎の地元で製造された乾麺でした。美味かった。

13:15、映画「闇の子供たち」を、次女の夫と観始めた。次女と孫も最初の1分間は見ていたのですが、これは見るなと言って、階下に行かせた。

原作:梁石日、監督:阪本順治、出演者:江口洋介、宮崎あおい、妻夫木聡ら。タイで行われている臓器移植を目的とした幼い子供たちの人身売買や幼児買売春。日本の新聞記者がタイにおける人身売買の情報を得て取材に動く。タイの身寄りのない子供たちをあずかる人権センターと、そこに日本から派遣されてきた女子大学生、タイ国内で活動するNGOたちが、闇に潜む組織を暴く物語だ。

親に売られる子供、買った子供たちを檻に収容、病気になった子供はゴミ収集車に捨てる、子供を保護する人権センターとスタッフ、人権センターを助けるNGOとボランティアの背信、男の外人の性行為を受ける男の子と女の子、病気で追い出されやっと生まれ故郷にたどり着いた果てに死んだ子供、生きたまま臓器を取り出される子供、子供の心臓が病んで新しい臓器を求める裕福な日本人の父親と母親、新しい心臓を求める日本人の仲介人、手術を担当する医師、見たままを見たままに報道しようとする記者とカメラマン、犯罪グループに通じた警察。

そして最後の最後に阪本順治らしい、仕掛けが、映画的には面白い話だが、観る者たちには辛いヒネリがあって苦しんだ。

15:40、イーハトーブの果樹園に、栗拾いに出かけた。

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(栗拾いだぞ~い)

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宮澤賢治さんが、命名してくださった、我等の”イーハトーブの果樹園”です。所有権は、家人のものだ。6年ほど前から少しづつ開墾してきた。開墾って、大げさ?そんなことない、私の血と汗の結晶だ。本日のメンバーは、私、長女の夫と孫、次女夫婦と孫の6人。長女は栗拾い後の宴会の準備。長男夫婦は、長男は仕事でその若妻は家に、二人揃ってでないと我が家に来ないという、何かが可笑しいぞ。若妻は11月の初旬が出産予定だ。安産を願う。俺の孫がもう一人増えるのだ。有り難いこっちゃ。

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(イーハトーブの果樹園だぞう~)

15:00、大量の栗とそろそろ収穫時だけれども、もう少し様子見の柿を5個ほど採って、我が家に帰った。栗の一部は、隣地の玄関前に置いてきた。隣地の方は、この果樹園の草刈を時々やってくださるのです。私以外は、皆初めての経験らしく、イガの痛さにもめげず、栗の実をつまみ出したり、拾ったりしていた。蜜柑(ハッサク)の木にも、まだまだ緑で小さいけれど、たくさんの実をつけていた。昨年は9個採れた。今年は、30個ぐらい収穫できそうだ。豊作だ。収穫時には、みんなに声をかけよう。いやはや、豊穣じゃ。

16:00、幸せな栗拾いの時の様子を思い出しながら、ビールに手をつけた。長女の夫も、次女の夫も、私のサアサア呑もうか、の掛け声の前に、もう既に乾杯済みだった。見る見るうちに、ビールは進む。家人が、前回の栗よりも上等だと褒めてくれた。実際、前回よりも実は大きく、虫に食われているのが少なかった。

17:30、会社から東戸塚のマンションに帰ってきた長男と嫁を次女が車で迎えに行ってくれた。長男は明日の私の誕生日プレゼントとして焼酎「父の誇り」をくれた。父の誇りか、と独り言。頼りない自分に苦笑した。有り難くいただかなくちゃイカンな、と思いつつも、翌翌日にはなくなっていた。健康だからこそ飲めるんだ、健康に感謝しよう。

宴は、続いたらしい。というのは、私は酒量限界と感じて一人退場したからです。その後の楽しい飲み会は相変わらず盛り上がったようだ。

全身のすみずみまで、アルコールに浸(ひた)したまま、寝た。

この夜、巨人のセリーグ優勝が決まった、とのことだったが、我が家にはなあ~んにも関係ない。我が家で、一番嫌われている球団だ。

安藤忠雄さんは闘う建築家だ

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2016年の夏季五輪の開催地が来月2日に決まる。鳩山首相は、国連総会からの帰りの機中でも、デンマークで開かれる国際オリンピック委員会の総会に出席すると意気込んでいたらしい。オバマ米大統領もシカゴ招致で参加するとか。石原慎太郎東京都知事は、本日(090927)デンマークに到着、これから総会開催までロビー活動を行う。

東京都民は、盛り上がっていない。一次選考では、最も高い評価を受けたものの、2日に、国際オリンピック委員会が公表したデーターでは、都民の支持率は55,5%、不支持率は23,3%で、支持率は他の候補都市に比べて低い。この支持率の低さが、今後の選考過程において、どう評価されるのか、これからが山場だ。

実は私も、今回の東京招致には、興味が湧かないでいた。五輪の陽の当たる世界と、陰の世界を少し知ってしまった私には、もろ手挙げての賛同は無理だった。いつも、誰よりも、世界のトップアスリートの競技を、目の前で見たがる私が、どうでもいいやと思っているなんて、不幸な状態だ。最悪の気分だ。石原東京都知事の方は、自分が音頭をとって立ち上げた新銀行東京の赤字が膨れ上がり、この赤字の穴埋めにでもしょう、との魂胆が見え見えで、いやらしい。また当社はこの不況の中、そんなことにウツツヲを抜かしている場合ではない、そんなこんなで、私も盛り上がっていなかった。

でも、だ。この安藤忠雄さんの話を聞いて、本当は読んだのですが、私も、ちょっとは頑(かたく)なになっていた頭が、緩(ゆる)んだような、ちょっぴり幸せな気分になりだした。

招致委理事の安藤忠雄さんは、さすが闘う建築家だけあって、仰ることが違うわ、と感心させられた。

090919の朝日新聞「オピニオン、異議あり」で、安藤忠雄さんと記者との談話を記事にしたものが載っていた。闘う建築家らしく、建築家の視点で熱く招致を語っていた。このように相手に伝わる言辞で語ってくれれば、気分もなんとなく盛り上がるのに、招致委員の誰もが何のために招致しているのか、誰も語っていない。

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その記事をダイジェストしました。

安藤さんは何のために日本で五輪を?

「オリンピックをきっかけに日本に新しい目標を作りたいという思いで引き受けました」。

どんな目標ですか?

「日本は技術は高いけれど、何のために技術をレベルアップするのかという哲学がありません。地球のために、世界の平等のために使うんだ、ということを掲げたい」

「私の考える2016年の東京五輪は、炭素排出ゼロを目指す。地球環境に配慮した大会です。メーンスタジアムから始めて、施設の大半を太陽エネルギーを使ったものにしたい。現在の技術水準では難しいかもしれませんが、オリンピックという大きな目標を掲げてみんなで頑張れば、日本の技術力ならば出来るんじゃないですか」

東京に決まった場合、施設の設計はどうしますか?

「私はやりません。すべての設計を世界中からのコンペ、公募による競争にしたらいい。日本は世界から『チャンスのない国』『アクセスできない国』と思われている。コンペをして世界中の建築家に開放したらずいぶん変わる」

「残念ながら今の日本は発信するものがほとんどない。世界のなかで宙に浮いているんです。だれも目標にしなくなった。これでは困る。私は日本が注目されていないことが問題だと思っているんです。日本人の多くも、このままでまあまあやっていけるんじゃないかと思っている。それを変えたい」

東京五輪が実現したら、どうなりますか?

「オリンピックを目の前で見たら、みなさん、すごいと感動するはずです。選手の活躍を見て、よし、自分も何かに賭けてみようという人が10人に1人でも出てきたらいいなと思いますね。その人はいずれ何かの分野のリーダーになりますから。オリンピックでもなんでも、輝いた人間をみて『自分も』と思う、そういう機会を与えたい」

「私は人の心を呼び起こすものが欲しいんです。これはすごいと感動すること。それが人間、生きていく力になります。テレビやインターネットを通してではなく、ナマでないといけません。これはぜひ、訴えたい。それが今の日本の国民に生きる力を与えてくれる。非常に楽天的に、そう思っています」

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「取材を終えて」の記者の短い文章にもサンショウが効き過ぎていた。首肯させられた。

安藤さんは常に戦ってきた人だ。相手は常識であり、権威であり、時に体制だった。

その安藤さんが今、日本に目標を作りたい、子ども達の目を輝かせたい、という。だが、それがどうにも広まらない。もし、盛り上がらないのは、私たちのエネルギーが枯れてきたためだとしたら。

今度の対戦相手は過去最強かもしれない。

2009年9月27日日曜日

安藤美姫(みき)、五輪へ

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来年2月のバンクーバー五輪女子フィギュアースケートの出場を目指す安藤美姫が、アメリカ、ニュージャージー州ハッケンサックで、練習に励んでいる様子が朝日新聞(090919、夕刊)で報道された。4回転ジャンプに拘るのではなく、演技力を身につけたい。ステップが評価され、柔軟性も磨きたい、と練習には貪欲だ。前回のトリノ五輪は15位に終わった。21歳らしい落ち着きを持って勝負のシーズンに臨む、と書かれていた。新聞記事は大体このような内容だった。元気な安藤美姫さんに期待しよう。

この直近の安藤美姫の練習のレポートを読んで、私が、何かで読んで、「これは一つ書き留めて置かなくては」と仕事用のノートにメモにしておいたのを思い出したのです。

安藤美姫の数字です。

4回転する時の数字だ。踏み切るのは、幅約4mmのブレード。摩擦ゼロの氷面に、約160㎏の力がかかる。平均秒速3,3m、ほぼ垂直の角度で空中へ。約50cmの高さで4回、宙を舞う。その間、約0,6秒。実感として判るのは、この0,6秒で4回転することぐらいだ。

身長1メートル61 体重49キロ

2009年9月23日水曜日

金藤さん、今度は君だ

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競泳界の若者は元気だ。アスリートがライバルと競い合う姿は感動的だ。

今月6日、競泳の日本学生選手権の最終日、熊本市総合屋内プールで行われた女子200メートル平泳ぎは世界選手権代表の金藤理絵(東海大)が2分20秒72の日本新で制した。100メートルで日本新の鈴木聡美(山梨学院大)は3位だった。

男子100背泳ぎは、前日に日本新を樹立した入江陵介(近大)はが世界選手権金メダリストの古賀淳也(早大)を破り、2連覇を果たした。レース後の二人のコメントで、入江は「前回は古賀君に負けてしまったから、勝てて本当にうれしい」、古賀は「今の力で精いっぱいやりきった。日本で隣で泳げるのは彼しかいないので、これからも高めあっていきたい」。

金藤理絵さんの樹立した日本新記録に注目しよう。

この女子100メートル背泳ぎ2分20秒72の日本新記録は、今夏イタリアで開かれた世界選手権の優勝タイムを0秒90も上回る、立派なものだったのです。恐(おっそ)ろしいことに、自身の今までの記録を一気に1秒60も縮めたのです。記録の伸びシロが半端じゃなかった。

「素直にうれしいけど、もう少しで世界新だったから悔しいです」

独特な腕のかきと力強いキックで、少ないストローク数の泳ぎを習得、だが世界選手権では体調や気持ちが整わないまま5位に終わった。

090907の朝日・朝刊/スポーツの記事を参考にした。

核密約

朝日新聞で、核密約がどのようにして、なぜ生まれたのか、その経緯が関係者の証言で浮かび上がってきたことを報じていた。

自民党政権が、外務省高官らと長く有耶無耶(うやむや)していた問題だ。この件については、私も前から真相を知りたかった。非核三原則を国是として、多国に対して世界から核兵器をなくそうと、日本は先んじて宣言してきた。今回も、鳩山由紀夫首相は、日本時間で25日未明、国連総会と安保理首脳会合において、唯一の被爆国として、世界から核の廃絶を訴えた。この演説の中でも、日本は非核三原則を堅持することを誓う、と言い切った。民主党は15人程の調査担当を決めて本格的に取り組みだした。証言者から、その真実が漏れ聞こえる。それを伝える新聞の記事をダイジェストで転載させていただいた。

国連安全保障理事会でも、核不拡散条約(NPT)で核兵器の保有が認められている米ロ英仏中5カ国全ての指導者が、安保理議長国の米国が提起した「核兵器のない世界」を目指す歴史的な決議を全会一致で採択した。

日本は、非核三原則をどう堅持していくのか、私は期待したい。

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朝日・朝刊

20090921

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核兵器を積んだ米国の船や航空機の寄港・通過を認める「核密約」が成立した経緯が、関係者の証言で判明した。60年の安保条約改定で始まった「事前協議制度」で、日本側は当初、寄港・通過を協議対象になると理解。米国側は対象外と解釈していた。その後日本政府はひそかに解釈を米側に合わせ、寄港・通過を黙認。非核三原則(67年)の「持ち込ませず」は最初から空洞化していた。(本田博)

「これが核密約の日米合意です、という文書はない」。核密約にかかわる重要な文書は、①条約本体②事前協議制度について定めた「岸・ハーター交換公文」③その解釈を記し、米側でいったん公開された後に再度極秘指定された「討議記録」の三つだ。そのいずれにも密約の核心部分となる「核搭載艦船・航空機の寄港や領海・領空の通過は、事前協議の対象となる『核持ち込み』には該当しない」ということは明確に示されていない。

安保改定交渉の際に、何が事前協議の対象になるかを具体的に詰めなかったために、日米間に深刻な「解釈の食い違い」が生まれていた。

核搭載艦船の寄港・通過は50年代から繰り返されており、米軍部はこの既得権を譲らないよう強く求めていた。

当時の日米は戦後間もない小国と超大国の関係。しかも日本は安全保障を全面的に米国に依存していた。米国が示した文案を問いただすことはできず、都合よく解釈していたのかもしれない。

日米の解釈のずれは、新安保条約を批准するための60年の安保国会で表面化した。藤山愛一郎外相が核搭載艦船の入港を「事前協議の対象になる」と明言。63年には池田勇人首相が「核弾頭を持った船は、日本に寄港はしてもらわない」と答弁した。

米側の解釈に反する日本側の理解に気付いたジョンソン国務副次官の問題提起を受けて、ケネディ大統領は3月26日、国務省、国防総省、軍部などの担当者を集めて対策会議を開いた。

その結果、ライシャワー駐日大使は4月4日、大平正芳外相を朝食会に招き、米側の懸念を伝えた。米側文書によれば、大平外相は米側の解釈を受け入れたという。

しかし、これで密約が成立したわけではなかった。66年に赴任したジョンソン駐日大使は、米側解釈が三木武夫外相に全く引き継がれていないことを知る。ジョンソン氏は68年1月26日、牛場信彦外務次官、東郷文彦北米局長とともに小笠原諸島と硫黄島に視察に行くことにし、機中で約3時間、問題の経緯を話した。東郷氏は大使の話に驚愕し、自らの不明を認める内部文書を省内に残したという。

69年11月21日、佐藤栄作首相が訪米してニクソン大統領と署名した「沖縄返還に関する共同声明」では、大統領が核兵器に対する日本の政策に理解を示す一方で「安保条約の事前協議制度に関する米国政府の立場を害することなく」沖縄返還実施を確約する内容になった。「米国政府の立場」が、沖縄に限らない核搭載艦船の寄港・通過を含むことを、日本側は十分理解していた。

このとき「核密約」が成立したと見ることができる。

68年前後の外務省条約課の内情を知る次官経験者は「当時から、核の寄港・通過を核持ち込みから除外することを公に認める『正面突破論』が省内で何度も浮上している。だが、国内が紛糾して沖縄返還がおかしくなるということで、結局あきらめたのだろう。その後、70年代、80年代、冷戦後の90年代にも『正面突破論』は議論されたが、国会に持ち出せば内閣がつぶれるということで、出来なかった」と証言する。

「正面突破」が現実味を帯びたのは、74年に米海軍退役少将ラロック氏が核搭載艦船の寄港を米議会で証言したときのことだ。当時の田中角栄首相と木村俊夫外相が内密に米側と交渉を進めたが、日の目を見る前に内閣が金脈問題で倒れてしまった。

こうして日本政府は、横須賀や佐世保などに核搭載艦船が寄港していることを認識しながら、①寄港・通過も核持ち込みに含まれ事前協議の対象になるということは、日本政府が当初から言っている② 米国もそれを承知している③米国が事前協議を求めてこないので、持ち込みはないと信じるーーとのごまかしの答弁を繰り返すことになった。

実態を把握していたのは、外務省の事務次官、北米局長、条約局長(現国際法局長)日米安保課長、条約課長、時の首相や外相にも必ずしも全容は報告されていなかった。

92年に、父ブッシュ政権が「地上、海洋配備戦術核の米国本土への撤去完了」を宣言。日本政府はこれ以降、核持ち込みの可能性はなくなったとしている。01年には 、外務省幹部が関連文書の廃棄を指示。実行されたかは不明だが、その後は担当者間の引継ぎも途絶えているという。

2009年9月22日火曜日

彼岸花(ヒガンバナ)を想う

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今から40年も前のことですが、大学の4年間は菅平でサッカーの合宿をした。そこでの合宿のことについては、涙や汗や鼻汁や、嗚咽や悲鳴、苦しさや悔しさに情けなさ、そんなものを総動員しなければ語れない。

が、今回の主たるテーマは合宿のことではなく、彼岸花のことなのです。普通は秋のお彼岸の頃に咲くと言われているのですが、菅平は避暑地なので、丁度我等の合宿の頃、8月の初旬が見ごろなのです。大量に群生していて、そのさまは恰(あたか)も火が噴いているようでした。他にも草花は色々咲いてはいたが、花の色が真っ赤で、その存在は他を圧倒していた。菅平での思い出と言えば、グラウンドでの練習以外では、冷たい水と空気、それにレタス畑にこの彼岸花の群生でした。

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私の田舎にも、彼岸花は彼方此方(あっちこっち)にたくさん咲いていました。とりわけ、水田の畦道では、丁寧に雑草が刈られた後なので、まるで緋毛氈が敷かれたようでした。畦道の雑草は、夏に草が伸びきった頃に刈られ、彼岸花はその後に、茎を真っ直ぐに飛び出したように伸びるのです。花は、地面から50センチ位の高さに揃って咲く。

そんな彼岸花のことを、私は父から余りいい話を聞かされていなかった。

その彼岸花が昨日、弊社で企画中の中古住宅の庭に赤い色のが一輪と、裏の空地に黄色い花の蕾を見つけたのです。それをきっかけに、この稿を書き出したのです。今まで観てきたのは赤い花ばかりで、白い花は観たことがありません。黄色の花を見つけたのは今回が初めてでした。

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毒のある花だ、とか。仏さんがこの花になり代わって咲いているので、摘み取ったりしないように、とか。摘み取って家に持ち帰ると、家が火災に遭う、とか。そんなことを聞かされて、死や不吉なイメージが付きまとい、忌み嫌うようになっていた。

仏教用語としての彼岸は、先祖の霊を敬い墓参りをすること。また、彼岸(ヒガン=悟りを得た理想の世界、あの世、死)と此岸(シガン=迷いの世界、現世、生)からも、彼岸には死が漂う。

そして今月、61歳を迎えるこの私にも、経済的に困窮していることは依然と変わりはないものの、花などを観る心の余裕を少しは持てるようになったようだ。それで、今は彼岸花だ。

ネットを駆使すれば、思わぬ新発見や、曖昧のまま放ったらかしにしていたことの確認作業がいとも容易くできるようになった。確認をサボって、死んでいくわけにはいきません。

以下はネットで調べたことを材料にしました。ーーーー

別名、曼珠沙華(マンジュシャゲ)って、やっぱり線香臭いな。法華経の仏典に由来する。

有毒な多年草の球根性植物。これを食べた後は「彼岸(死)」しかないとも言われ、よくよく、死と馴染みの深い植物のようだ。死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)とも言われているなんてこともネットには書かれていた。

でも、彼岸花の鱗茎の毒を活かしたホッとするような、少しは嬉しくなるようなこともある。水田の畦などに植えられ、畦にネズミやモグラ、虫など田を荒らす小動物がその鱗茎の毒を嫌って避ける。そのことによって、畦道に穴が空けられないようにした。水田の水の確保は百姓にとっては肝腎なのです。

墓地などにも植えられた。虫除けや、土葬後に死体が動物によって掘り荒らされるのを防ごうとしたようだ。

私の実家の近くで少し小高くなった丘に、宇治川や瀬田川で自殺や事故で浮き上がった身寄りの判らない土左衛門を埋葬する無縁墓地がありました。大きな一枚岩が墓石になっていて、遺体が運ばれてくると、その石を除けてその下に埋葬していました。普段は、私達ヤンチャ坊主らがその一枚岩の墓石に登って遊んでいたのです。地中の仏様には、大層迷惑をかけた。その無縁墓地の周りには、彼岸花がいっぱい咲いていました。

学習=土左衛門(どざえもん)。【江戸時代、成瀬川土左衛門という力士が水死体のような太り方をしていたことから】水死体、溺死者。(講談社、日本語大辞典より)

鱗茎に毒を持っていることで、先人達はそれを利用していたことを知って、私の彼岸花に対する嫌な感じは、多少なりとも拭い去られた。何事にも、あんまり、先入観をもって接しないことだ。

追記

岐阜県・高山市では、今(090922)、彼岸花が満開だ。市では保護植物に指定して、約1000平方メートルの保護地区が手厚く守られている。愛されてもいるんだ。今でも愛してる人たちがいるんだ。ここで再び、ホッとした。

2009年9月21日月曜日

イチロー大リーグ9年連続200安打

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今季200安打目、一塁へ走るイチロー

マリナーズのイチロー(本名・鈴木一朗)が、13日レンジャーズ戦で、大リーグ史上初となる9年連続シーズン200本安打を達成した。15日の朝刊、この偉業を伝える記事が多くの紙面を占めている。朝日新聞では、イチローが広告塔になっている企業も、祝いを兼ねた広告を一斉に出稿した。祝賀ムードで溢れている。記事と広告を合わせると、全6ページ分になりそうだ。

日本で言えば明治時代に活躍したウィリー・キーラーの記録を108年ぶりに更新。04年にマークした史上最多の262安打ももちろん価値があるが、今回は記録を1年1年積み重ねた重みがある。

やはりスポーツに滅法五月蝿い(うるさい)私にとって、この偉業は私のファイルにしまいたい。20090915の朝日新聞から、ランダムに記事を転載させていただいた。なかでも、チームメイトの城島捕手が、「イチさん」のことを語っている一般には知られざる部分の話は、興味深く読ませていただいた。

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090915

社説

9年200安打/孤高の打者が歴史を刻む

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歓声に応える

記録達成の一打は、彼らしい内野安打だった。シアトル・マリナーズのイチロー選手がまた前人未踏の地に立った。大リーグ初の9年連続200安打。とてつもない快挙をたたえたい。

ウィリー・キーラーが1901年に記録した8年連続を抜いた。108年ぶりの歴史の塗り替えである。

そもそも年間200安打の達成さえ大変なことだ。通算で最多はピート・ローズの10回。ただ4256安打の記録を残す稀代の打者にして、200安打の連続は3年が限界だった。

今季、出血性胃潰瘍で開幕から8試合を欠場した影響は小さくなかった。残る154試合で昨年並みの1試合平均1,314本を打ったとすると、ぎりぎりの202安打にしかならない。

だが戦列に戻ると、自己新記録の27試合連続を含め安打を量産した。先月下旬から8試合を休んだが、先週には大リーグ通算2千安打も達成した。

「チェーシング・ヒストリー」。大リーグの公式ホームページは今回の記録挑戦を、こう表現した。イチローは「メジャーの歴史を追い、光を当てる男」というわけだ。

1年目の01年、242安打を放ち、ジョー・ジャクソンが作った新人最多安打記録を90年ぶりに塗り替えた。04年には262安打し、1920年にジョージ・シスラーが残した年間最多257安打を84年ぶりに更新した。そして今回の、世紀を超えた偉業だ。

細い体でこつこつ安打を重ねる姿は最初、「蚊のようだ」と揶揄された。「走りながら打つ」と言われる打撃も批判にさらされたが、自らのスタイルを貫き通した。孤高の打者であある。

俊足で常に敵の内野をかき乱す。正確無比な守備と強肩。本塁打に象徴されるパワー全盛の大リーグにあって野球本来の「スピード」の魅力を再認識させた功績は大きい。

近年、大リーグは筋肉増強系の薬物に手を染める選手が相次いだ。そんな中、不断の鍛錬と節制で肉体を維持し続けるイチローのプロ意識は、米国でも敬意の的だ。9年連続で球宴に選ばれていることはその証である。

キーラーの現役時代、大リーグは白人の社会だった。第2次大戦後、黒人も次第に増えたが、ベーブ・ルースの本塁打記録を黒人のハンク・アーロンが74年に超える直前には、白人至上主義者からの嫌がらせや脅迫もあった。

時は流れ、中南米、アジアとメジャーを彩る選手は世界に広がる。多様化を象徴する一人がイチローである。

次に見据えるのは27人しか達成していない通算3千安打だろう。ジョー・ディマジオが41年に残した56試合連続安打の更新を望む声もある。

歴史を追ってきたイチローは、すでに自らが歴史となりつつある。新たに刻む道を、これからも見守りたい。

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天声人語

その一打以上に、当人の感想が待ち遠しかった。「解放されましたね。人の記録との戦いにピリオドを打てた」。重圧をしのばせるコメントに少しほっとした。

雨空のテキサスで、イチロー選手が9年連続200安打の大リーグ記録を残した。8年連続で並んでいたのは明治時代の選手である。三つの世紀にまたがるベースボールの歴史を、細身の日本人が何度も塗り替え、彼ならではの語録が「正史」として刻まれていく。

古いファンは「ベーブ・ルース以前」を思い起こすという。腕力よりバットを操る技術、スピード、そして頭を競う野球だ。ボテボテの内野ゴロがクロスプレーになる。歴史的な安打は、3バウンド目をすくい上げた遊撃手が送球をあきらめた。

打率より安打数にこだわる。3割を守ろうとすればつらい打席も、ヒットを1本増やしたいと思えば楽しめると。「楽しみ」を重ねての200本ながら、毎年となると大きなケガや不調は許されない。例えれば、編み物しながらの綱渡り。そんな苦行を思う。

「僕は天才ではありません。なぜなら自分がどうしてヒットを打てるか説明できるからです」「驚かれているならまだまだ、おどろかれないようになりたい」。刻まれた言葉の数々は近寄りがたくもある。

50歳で惜しまれながら辞めるのが夢、と聞いた。足と目が許す限り、このまま前だけ見て進むのだろう。なにしろ「現役のうちは過去を懐かしんではいけません」という至言の主だ。「よし、私も」とは思わない。あやかる気がなえるほどの高みである。

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チームメイトの城島捕手の(談)

自分を客観視する強み

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ベンチで戦況を見つめる城島とイチロー

イチさんは決して天才ではない。本当の天才は、自分のパフォーマンスを説明できないでしょ。でも、イチさんは自分のプレーをこと細かく語れる。努力している過程を含め、一から十まで理詰めで話せる。人に話すのが面倒くさいから、イチさんも「もう天才でいいよ」と思っているんじゃないかな。

僕がイチさんのすごさを考えるとき、打撃技術は最後の方になる。本当にすごいのは、試合への取り組み方。200安打は驚異的な数字だが、それ以上に素晴らしいのは、毎年600打席以上も立っていること。

寒いシアトルを本拠にしながら、9年間、故障者リスト入りするような大きなけががない。もう30代半ばでしょ。僕が1年目から感動しているのは、徹底されていること。まずそれがあるから200安打につながる、と思っている。

例えば、本拠のクラブハウスのイチさんの椅子はどこにでもある普通のパイプイス。僕らはフカフカのソファなんだけどね。イチさんいわく、「フカフカのソファに長く座っていると、腰に負担がかかる」。試合前にはパイプイスの座る部分に、ホットパックを敷いて体を温めている。

本拠のクラブハウスからグラウンドに通じる通路にも、イチさん流のこだわりがある。階段とスロープがあるが、イチさんは必ずスロープで上り下りする。僕が見てきたこの4年間、その行動はかわらない。階段は足を滑らせる可能性があるんですって。スパイクを履いていれば、捻挫するかもしれない。下手したら、それ以上の大けがもある。

年間200安打を打ち続ける重圧は、年々苦しくなっているはずなのに、そう見せないのがイチさんの美学。「感心を表に出すと損しかしない」と、イチさんは言っている。自分をコントロールできる範囲で野球をやるから、悲しみも喜びも出ない。精神的にマイナスなこともやらない。だから、三振しても凡退しても、堂々と胸を張ってベンチに帰ってくる。

ヒットへの考え方は超越している。いい打球を打った後、僕ら普通の打者は「落ちろ!」と思う。でも、その打球が野手に捕られたときは、ショックが大きいじゃないですか。

イチさんは打った後、「捕れ!」と意識している。打った後の出来事は、自分で制御できないというのが理由。アウトになると思った打球が、野手の間を抜けると、精神的にプラスになるのですって。その考え方は理解できるけど、真剣勝負の場で、そう思える選手はいないですよ。

イチさんはホームランを打ってベンチに戻ってくると、「ジョー、オレの背中うれしそうだった?」と聞いてくる。僕が「うれしそうでしたよ」と答えると、イチさんは「オレもまだまだ、だな」と苦笑いする。うれしそうに走るとか、体から感情がにじみ出るなんて、あの人の中ではダメなこと。そこまで追究して野球をやっていることに尊敬する。

誰よりも「イチロー」という野球選手を客観的に見ているのが、鈴木一朗という人物だと思う。そのうち自分のことを、「彼」なんて言い出しそうな雰囲気がある。プレーだけでなく、精神面とか体調面とか、自分のことを冷静に分析できるところが、イチさんの最大の強みだと思う。

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9月15、16日の新聞から拾った、イチローのコメント

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笑顔でワカマツ監督と言葉を交わす

*解放されましたね。人との戦い、争いに一応終わりを迎えることができた。(200安打を)達成することで解放されたことが僕にとってうれしい。

*達成していく過程が面白かった。200安打に到達すると、いろんなものが消えてしまうので、それを実感できる時間があったのでよかった。

*来季以降も目標だと思うが、ずいぶん気楽になるんじゃないですか。(新記録を達成し)ちょっと楽になる。(今後は)自分と向き合っていればいいんだもん。それは最高ですよ。

*時々崩れる人間性を磨いていきたいですね。

*僕はナンバーワンになりたい人。この世界で生きているからには、オンリーワンでいいなんて甘いこと言う奴が大嫌い。

*失敗を重ねないと(安打)は生まれない。それが打撃。それで、奥深くなっていったらいいと思う。

*小さいことを重ねることがとんでもないところに行くただ一つの道だと感じている。

*ドキドキ、ワクワクとかプレッシャーが僕にはたまらない。それがない選手ではつまらない。

*手を出すのは最後だよ、ということかな。手が早い人はダメですよ、何をやるにも。手を出さないためにどうするかを考えているのが僕。手を出さないからヒットが出るということでしょう。

*僕には相反する考え方が共存している。打撃に関して、これという最後の形はない。これでよしという形は絶対にない。でも今の自分の形が最高だ、という形を常に作っている。この矛盾した考え方が共存していることが、僕の大きな助けになっていると感じている。

2009年9月19日土曜日

今、民主主義が面白い!!

こりゃ、政変ちゅうようなもんではない、革命だ。

民主党の鳩山由紀夫代表が、16日招集された特別国会の首相指名選挙で第93代首相に選ばれ、民主、社民、国民新の3党による鳩山連立内閣が正式に発足した。総選挙で野党が単独過半数を得て、政権交代が実現するのは戦後初めて。17日に朝日新聞が行った全国世論調査では、71%の鳩山内閣の支持率、14%の不支持率だった。

鳩山首相は、16日初閣議を開き、次のような基本方針を発表した。「本当の国民主権の実現」「内容の伴った地域主権」を二つの大きな柱とする。利権政治と官僚依存の政治システムからの脱却を目指す。与党の事前審査慣行を廃止し、政府・与党の二元的意思決定を一元化する。事務次官会議の廃止。重要政策は関係閣僚による閣僚委員会で実質的な議論や調整を行う。政策立案過程において、主導権を官僚に握らせない為にも、事務次官など官僚による記者会見を禁じた。総理直属機関として国家戦略室を設置し、税財政の骨格や経済運営の基本方針を決定する。行政刷新会議を開き、税金の無駄遣いを徹底的に排除する。議員立法を原則禁止の方針。20年までに温室効果ガスの90年比25%削減。

先ずは、麻生内閣が編成した約14兆の09年度補正予算の執行見直しだ。

新政権が、新内閣が、新大臣が動きだした。紙上では、主な閣僚が民主党のマニフェストのまま、大胆に発言しだしたことが報じられている。そんな各閣僚の発言を朝日新聞から抽出した。一部私が書き込んだ部分もありますが、大部分は新聞記事のままです。ホンマっかと疑いたくなるのもあるのですが、心配もするのですが、新しい大臣等はヤケに威勢がいい。国民が圧倒的な支持をしているのだから、ここは、やれるだけマニフェストに従って、頑張ってみてください。でも必ず、壁にぶつかるはずです、そのときこそ情報の公開です。情報の公開さえきちんと行われば、国民の理解は得られる。

ガンバレ、新閣僚殿。

菅直人副総理、国家戦略担当相は、脱官僚依存の象徴として発足させた国家戦略局を担当する。麻生政権下での概算要求基準(シーリング)を廃止。複数年度予算的な仕組みの導入。財務相、行政刷新担当相、官房長官を交え予算に関する閣僚委員会の発足と活動に着手。

前原誠司国交相は、八ツ場ダム、川辺川ダムの工事を中止する。中止による影響を少なくするために、地元住民の生活再建策に向けた特別措置法を制定する。143ダムの見直し。公共事業の見直しで天下りに狙いを定めている。高速道路の無料化。日本航空の経営再建をめぐる有識者会議を白紙にして、日航が策定中の再建計画を尊重する。

岡田克也外相は、核持込や沖縄返還をめぐる日米間の密約調査をして、その結果を公開する。米軍再編、沖縄県の米軍普天間飛行場の移設問題について、早急に見直しに着手する。アフガニスタン・パキスタン支援。地球温暖化問題。東アジア共同体、北朝鮮、核のない世界、アフリカ・貧困の問題に取り組む。

長妻昭厚労相は、厚労省のうみを出しきって立て直す。年金記録問題を2年間で信頼回復できたと思える状態まで整える。75歳以上を対象とする後期高齢者医療制度を廃止する。中学卒業までのすべての子どもに1人当たり年額31万2千円支給する「子ども手当て」の実施。社保庁はどうするのだろう、解体するのか。民主党は、社保庁を国税庁と統合させて税金と年金保険料を一体で徴収する「歳入庁」構想を掲げていたのだが、この件については新大臣からは未だコメントがない。生活保護の母子加算復活。障害者が福祉サービスを利用する際、原則1割の自己負担を課す障害者自立支援法を廃止。社会保険病院(53ヶ所)と厚生年金病院(10ヶ所)を公営で維持する。

川端達夫文科相は、高校無償化、アニメの殿堂の検証、全国学力調査はサンプルを取り出す抽出方式に改める。教員免許更新制の検証。

千葉景子法相は、小沢一郎幹事長事務所の絡んだ西松建設違法献金事件や、鳩山由紀夫首相の「故人献金」問題を検察庁が捜査しているが、指揮権を発動するのが、具体的にこういう場合と申し上げるのが難しい、と述べるにとどめた。刑事事件の取調べ全過程を録音・録画する「全面可視可」や夫婦別姓を導入する。検察の暴走のチェック。

小沢鋭仁環境相は、暫定税率廃止後「地域温暖化対策税」を4年以内に導入する。

原口一博総務相は、国直轄公共事業の地方負担金を廃止。中央省庁の出先機関を原則廃止。地方分権推進委員会の勧告に関しては基本的に順守する。国と地方の教義の場を法制化を待たずに実現する。補助金を11年度か荒ァ一括交付金にする。日本郵政・西川善文社長の辞任を求める。亀井。郵政改革担当相とは蜜に連係をとる。

藤井裕久財務相は、09年の補正予算の事業については、一定の基準を月内に決め、その後凍結する。来年度予算の基本方針を今月中に策定。ガソリン税など自動車関連諸税の上乗せ税率(暫定税率)を10年度は廃止。税収の目減り分は、増税で穴埋めするのではなく無駄の削減で補う。各省政務官による新政府税調を立ち上げ、税制を抜本改革。

直嶋正行経産相は、温室効果ガスを、2020年までに90年比25%削減する。この削減案は、海外における排出量取引や森林吸収分も含めた数字だ。

赤松広隆農水相は、販売価額が生産コストを下回った場合、差額を国が補償する「戸別所得補償」を10年度に制度設計、11年度に実施する。だが、事務作業の煩雑さや量が多いことをどのように処理するのか。

福島瑞穂消費者・少子化担当相は、消費者庁の長官人事について、「市民や消費者問題を担ってきた人がふさわしい」と内閣府事務次官を務めた内田俊一長官について、見直すべきだ。

亀井静香金融・郵政問題担当相は、業績悪化の中小企業や個人の借入金の元本返済猶予の措置をとる。4分社化を採用している日本郵政グループの形態について組織の見直し作業を本格化させる。日本郵政の西川社長には、自発的な辞任を求める。鳩山首相は解任を示唆した。

2009年9月16日水曜日

杉山愛、やり切った

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030706ウィンブルドン女子ダブルスで優勝。キム・クライシュテルス

 

9日、テニスの杉山愛(34)が今季限りの現役引退の意向を表明した。私は、ますます綺麗になっていく杉山愛を、テレビと新聞でオッカケをしていた。彼女の活躍をずうっとチェックしていた。美人になったなんて言い方は失礼に当たることは百も承知のうえだ。とりわけ笑顔に魅入られていた。日焼けした顔に白い歯が眩(まぶ)しい。プレー中の鬼のような顔。歯を食い縛る。栄冠をものにしたときの満面の笑み。平穏なときの柔和な表情。清楚な身だしなみ。清潔感。彼女にドップリ魅了されていた。引退すると聞いて、私の頭の中には彼女の時どきの表情が蘇る。

プレーしながら世界を駆け巡る彼女には、並々ならぬ精神力と体力を兼ね備えていたのであろうことは、容易に推し量れるが、それにしても大それた女性だ。世界で活躍し続けたのは17年間。向上心が強いのだろう。体のケアは入念にしていたのだろう。怪我など故障は少なかった。特段、体躯に恵まれていた方ではない。

そんな彼女は、特別な記録を達成していたのです。

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今年の全米オープンシングルス1回戦、サマンサ・ストーサー(豪)に敗北

 

男女を通じて世界歴代最多の4大大会連続出場記録を62回達成したことだ。快挙だ。この記録は、ギネスブックに登録される予定だと聞いている。海外では鉄人と称されているとも聞く。

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以下は、090910朝日朝刊の記事から

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全米オープンテニスに参加したために、ニューヨークに滞在中、マネージメント会社を通じてコメントを寄せた。

「国際大会で戦うなら世界ランキングで20~30位の間で戦いたいと練習を積んできた。年間を通じてそれができないとわかった時が引退の時だと考えました」

横浜市出身。5歳でテニスを始め、92年10月に17歳でプロ転向。日本のエースとして活躍を続けて10余年。シングルスでツアー通算6勝、女子ダブルスではツアー38勝を果たし、4大大会で3度、混合ダブルスでも1度の優勝を遂げた。

96年から昨年までシングルスの年間世界ランキングで30位台以上を保っていた。だが今年は不調が続き、現在は71位。19歳の森田あゆみに日本女子トップの座を譲った。

公金不正、恥を知れ千葉県庁

こんな馬鹿なことがあっていいのか。

公金をよくぞここまでいい加減に使ってくれたもんだ。お金が可哀相だ。これ、みんなが汗水垂らして納めた血税だぞ。税金は浄財だ。役所に勤める人を公僕(国民に奉仕する人)と呼ぶではないか。公僕は選ばれた人なのだ。この時期、個人も法人も、必死こいて頑張って納税している。弊社も、血の滲む思いで納税している。未納が続くと、担当者によっては血も涙も無い督促の弾丸を、ライフル銃のように撃ってくる。聞き耳をもって支払いの猶予や支払日の調整に応じてくれる人もいるが、この人非人め、と思わざるを得ない担当者もいる。個人的には、私も色んな税金をなんとか納めている。納めるときにいつも思うのです、真面目に遣ってくれ、と。

自治体の過去の不正経理の報道は、今まで何度も聞かされた。06年には岐阜県、長崎県、07年は宮崎県、08年は会計検査院の調べで12道府県で不正経理が発覚した。それ以外にも北海道警察、宮城県でもあった。業務の特殊性なのか、各地の警察でも不正経理がまかり通っていた。領収書がなかったり、領収書の発行人名義がヤマダタロウ、やハナコさん風のものだったり。警察関係者には、悪びれるところが無かったのが不思議だった。公金の不正使用が全国的に、普遍的に行われていた、今も行われているのでは?と、呆(あき)れ果てて、怒るエネルギーが湧いてこないわ。糞っ垂れ。

以下は、090910朝日朝刊から抜粋、私が一部書き加えました。

千葉県の不正経理を調査した県と外部審査委員会の報告書が今月9日に発表されたことを、新聞が報道していた。

総額30億円にのぼる不正経理は、千葉県庁全体に及び、業者側にプールされたお金は、02年度以前から引き継がれたものだけで4億1800万円、4400万円が県庁に現金や切手などで保管されていた。不正の手口では「預け」が7割近くを占めた。一つには物品が納められていないのに納入されたことにしてその代金をプールする。もう一つには虚偽の発注書に虚偽の請求書を交わして、請求書と異なる物品が届けられ、発注書と請求書の差額をプールする。プールしたお金を管理するのは、県庁であり業者であったりする。現在もプール金を管理している業者は39社もある。業者にしてみれば、預かりがあれば、いつかは何かを買ってくれることが保証される。職員からその預かりから現金を求められることがある。そのときは、図書券などの金券を購入してそれを渡す。県庁でプールしていたお金は、飲み食いや遊興などその類で遣っていたのだろう。職員個人が私的流用した疑いが強いものが1億1168万円。県が返還請求する対象者となる管理職は、現職3400人、OB2000人の見込み。

不正が見つかったのは。出先機関を含む401部署のうち383部署。県土整備部が9億4721万円、農林水産部が7億4053万円、県警本部でも1億4千万円が見つかった。

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その後の090911朝日新聞より~

総額30億円に上る千葉県の不正経理問題で、県が物品購入の契約をする際、「プール金」を預かっている業者から複数業者分の見積書を一括して受け取っていたことがわかった。業者間では白紙の見積書を融通し合っていたといい、業者は自分が落札できるような金額を書き込んで提出していたという。県職員からの要請があったとの証言もあり、官製談合の疑いも出てきた。

2009年9月12日土曜日

褒めること、褒められること

先日、仲間と酒を飲んでの談笑のなかで、子どもから大人になる過程において褒められることの重要性について話し合った。

今回は私の場合のことを話しておこう。高校三年のとき、「芸術」と言う選択科目があって、音楽か書道、美術のどれか一科目を履修しなければならなかった。単位数は1でした。音楽は小学生のころからひどい音痴やなあ!と笑われ続けてきた。中学生になっても、いくら耳を澄ましてもドミソ、ドフャラ、シレソの和音を聞き分けられなかった。珍しいほどに音感が悪いと、先生は感心していた。ヤマオカさんは、天才的音痴やなあ、とも言われた。その先生は、我が家の遠縁にあたる人でした。美術は、準備が大変で時間がかかり過ぎる。最初のうちはアイデアや構成に興味が湧くのですが、描いてるうちに面倒臭くなって、エイヤーと仕上げてしまって後悔する。

そういう消去法で、残ったのが書道でした。通った学校は、美女と天才が絶対生まれない学校として有名だった。宇治にあった名門京都府立城南高校です。立ち食い弁当だけが有名だった。昼時になると、大半の生徒が弁当を食いながら、廊下や教室をウロウロするのです。勉強もひどかった。京都市内の学校とは、学力において随分差があった。スポーツも駄目だった。

そんなダメダメの学校なのに、どういうわけか、書道の先生は大家だったのです。今から45年ほど前のことです。日展では毎年何らかの賞を受賞していた。入選の常連だった。言葉遣いはオカマっぽかったけれど、容姿は充分オッサンで、髪が多く、髭が濃かった。表情は柔和で出てくる言葉が、ちょっと甘い物言いをするのが、それだけは嫌だった。

勉強嫌いな私は、どの授業でもコテンパにやられっ放しだった。レベルの低い学校なのに、そのなかでも特別できの悪い生徒だったようです。書道の最初の日に、先生は書道と習字の違いを説明してくれた。書道は絵画や彫刻、彫像と同じように美を極めることなのですーー、字を習う、習字とは根本的に違うのです、とのことでした。私はその説明に息を吹き返したのです。そのときだけはヤマオカらしさの復活だった。

今日は「風」と言う字を好きなように書いてみよう、何枚も書いてみて、自分がこれだと思う自慢の書を黒板に張ってください。

私は、自分の作品の良し悪しの程度は解らないのですが、態度はいつも図々しく、書を張り付ける仕草は堂に入ったものだった、ようです。内心自信があったのかも知れません。

学習コーナーです。堂に入る=『(堂に昇り室に入る)の略で、学問・技芸などに習熟し、その深度を窮める意から』そのことに十分熟達し、非の打ち所がなくなる。(三省堂)「慣用句 ことわざ辞典」より

そして、褒められたのです。

小学校の6年間、運動会の徒競争では負け知らず、卒業式では皆勤賞。中学校でも皆勤賞はもらったが、それ以外は褒められたことはない。中3のときは酷(ひど)かった、英語の採点後の答案用紙を配られた後、必ず2,3人は教壇に呼びつけられ、皆の前で、試験にサボった奴はこいつ等だ、と言われながら先生に桜の棒で頭を叩かれるのです。私は、いっつもこの仲間にいた。後で皆に聞いてみたら、私よりも成績の悪い奴は何人もいたというのに。叱ラレ易イ、ボーイだったのでしょう。

書道の先生に褒められたのには、吃驚(びっくり)こいた。初めての経験だった。そのときの私の字は美しいのだった? そうだ。でも、この部分がこうなっていて、ここがこうなっていたら、最高だったんだけどね、と言いながら朱で私の書に上書きした。私が審査委員長なら、とか言いながら順番を並び変えた。私の書が一番上だった。

その後は、特別褒められる機会はなかったけれど、いつも私の字はチェックされた。心がけたことと言えば、字の持つ意味を考えながら、筆を揮(ふる)うことだった。例えば「男と女」を書くときは、男はゴツゴツと骨太く、女は優しく柔(やわ)らかく、書きました。だから、一葉の書としての字並びは、実にアンバランスなものになるのですが、先生はそんなことも面白がってくれた。「男と女」の「と」をふざけて「ト」にして「男ト女」なんかにしても、喜んでくれた。私の遊び心と書と、そのときの先生とは相性のいい関係だったようだ。

こんなことがあってから、私は決して上手ではないが、堂々と主張したい言葉を書にして衆目にさらして、見せてきた。人前で筆を揮うのは、平気どころか快感を味わえるぐらいだ。

今、会社の壁に張ってあるのは

”愚直に、強い意志をもって、復活だ”

そろそろヤマオカおじさんも、人を褒め上手にならにゃイカンなあ。イカの金玉か。

この高揚感は久しぶりだ!!

私の経済人としてのこの一年間は大変だった。当然、今も、昨日も今日も、この経済不況の荒波の真っ只中に居る。不良在庫の処分、人材などのリストラ、経費の削減、金融機関との条件変更の折衝に明け暮れた。人材のリストラにおいては、大学の一年生の時から40年も付き合ってきた友人にも、会社を辞めてもらった。断腸の思いだった。早く会社を、なんとか元の状態にまで戻して、復職をしてくれたらいいな、と夢見ながら頑張っている。負の処理に当たっては、誰に会っても、何処に行っても、ペコペコ頭の下げっ放しだ。

私は、自分の筆で書いた標語を壁に張った。

”愚直に、強い意志をもって、復活だ”。

私自身にも、スタッフの皆にも、今日明日の共通した心構えだ。

我々の業界、市場はドン底を乗り越えたようだが、その後の予想はまだまだ侮(あなど)れない。緊張は続く。そんな矢先に、鶴見区栄町通にアーバンビルドの関連会社の宅建免許事務所を開設することになった。ちょっと変則的なのですが、パラデイス ハウスの本社の開設なのです。地名が目出度いではないか、「鶴」で目出度く、「栄」えてハッピー。場所柄については、誰もがアレッと思う不思議な立地だ。我らがゲリラ的に活動する為の陣地としては格好のポイントだ、と自画自賛している。

ここで、私が著したかったのは、久しぶりに味わっている気分、こころが高揚していくなんとも言えぬ幸福感なのだ。

宅建免許事務所を開設するための全日本保証協会への申請手続きや事務所としての体裁を整える為の作業が楽しいのです。申請書を何度も書き直して、ベテラン女性スタッフにチェックしてくれと見せたら、彼女は既に、パソコンで作り上げていた。私が鉛筆舐めなめ、モタモタしているうちに、言われてもいないのに、繁忙の合間に徐徐に作成していたのだった。スタッフが少なくなった分だけ、各人に仕事の負担が重くなったので、なんとか皆の手を煩わせないようにしたかったのだが、やっぱりお世話になってしまった。いいスタッフ、だ。スタッフに感謝。

郵便受けに社名を貼り付け、事務机、打ち合わせ用テーブルとそれらの椅子を軽トラックで運んだ。ファックス、電話の設置。冷蔵庫はビールを冷やすのに絶対必要だ。ポットもコーヒーやお茶を飲む為に必要だ。インターネットの接続。時にはスタッフの力を借りたが、ほとんど一人で作業した。正式な開業は今月16日からだ。

軽トラックに荷物を積んで走っている時などに、ふっと思いがけず過去のアレコレが浮かんでくる。この稼業で、思い出すのは楽しかったことよりも、苦しかったことばかりだ。楽しかったことなんてあっただろう?かと。それでも、懲りずに、次のステージの準備に入ろうというのは、幾ら苦しかっても、やっぱり働くのが好きなんだろうな、と我ながら感心する。

ここで働くスタッフは、まず一人。春のリストラで会社を去って行った人たちの中の一人だ。

まだまだ人を雇える状態に会社は至ってはいないが、先行して仕掛けなくてはならないこともある、給料は充分とは言えないが仕事を求めている人もいる。こんな状況の中で、事務所を作らなければならないことになったのは、思わぬ幸運なことだ。感謝。

今日は本棚にもなる収納ケースを運ぶことにしよう。

2009年9月5日土曜日

朗読者

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友人が、ヤマオカ、お前でもこの本のことは知らないだろう、とウインクをしながら一冊の本を貸してくれた。

「朗読者」だった。

ペラペラと最初の2,3ページを読むと、若い少年とその子の母親の年齢ぐらいの女性との恋愛?が始まろうとしていた。私はすかさず、お前なあ、俺のような助平男を、この本で俺を充分満足させられるのか、と質(ただ)すと友人は読んでみたら解るよと言ったきりでした。

ページを飛ばして、後半の部分をちょこっと覗くと、アウシュヴィッツなる文字が飛び込んできた。ただのエロ本(小説)ではなさそうだ。友人は、私がナチスとユダヤに関する本を読み続けていたことを知っていたから、この本を私に是非読ませたかったのだよ、と過日私が本を返す時に言った。

そんなことから、読書は始まった。これからの文章作成にあたっては、述懐者としての主人公の男のことを、彼女が姿を消すまでは原作(訳本だが)のまま「ぼく」として、裁判所で彼女と巡り会ってからは「私」としましょ。

物語は、スピード感があって、スリルがあって、提供されるネタにワクワクしながら読めるのですが、読み進むにつれて内容が重くなって、読後感想はスッキリしない。割り切れない想いが、鉛のように頭の深部に沈殿したままだ。

主人公の男は、大学の法学部の先生なんだろう、苦い回想の物語だ。

15歳のぼくと36歳の路面電車の女車掌との肉体関係優先(性愛という方が品がありますか?)の恋愛から、そのうちズッポリ本格的な恋愛に嵌(はま)ってしまった。

会話の少ないお付き合いだった。そのうち性愛の前後にぼくが彼女に朗読する習慣ができてしまった。そんな日々を通して、「彼女」の実相が模糊然として、全て解き明かされるのは、後半部分です。

そして、突然ぼくの前から姿を消した。

大学生になった私は、法学のゼミで実際に行われているアウシュヴィッツに関連する裁判を傍聴に行った。その収容所の看守たちが裁かれていた。その被告人のなかに彼女、ハンナがいたのだ。

裁判が進んでいくに従って、彼女が自ら不利な状況に追い込んでいるように思えた。何故か。結果、行為の割には罪深く裁かれようとしていた。彼女の発言が、深みにはまって行こうとしているようだったのだ。

そんな彼女の振る舞いの不自然さから、私は彼女が文盲だったのだと、ハット気付いた。彼女は字を読めないことを隠し通してきた。

文盲だったことを裁判官に知らせなければと思いつき裁判官にも会った。哲学者であった父にも相談した。だが、具体的なアドバイスはもらえなかった。

無期懲役の判決が言い渡された。服役中の彼女に朗読したテープを送り続けた。方や彼女は、字を書くこと読むことの学習に励んだ。

やがて刑期を終え、刑務所から出ることになった。私は、彼女の刑務所を出てからの生活のために奔走した。彼女の暮らす部屋用に友人が保有しているものを借りることができた。生活費を稼ぐための仕事は、獄中で身につけた裁縫で、雇ってくれるところは決まった。

そして、出所する当日の朝にーーーーー。

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本のカバーには、胸を締め付けられる残酷な愛の物語、などと書かれていた。

10時間の読書が、10分ですみますよ。でも、当たり前ダのクラッカーですが、本物を読んだ方が、もっと面白可笑しく楽しめますから、是非、そのようにしてくださいな。感想をお聞かせください。

この本を貸してくれた友人は、この春、この本を映画化したのを観たと言っていた。テンポが早く、ストーリーに意外性があって、映画にしやすい物語だ、とも想った。

*本を友人に返さなければならないので、それならば、あらすじ(ストーリー)を書き残そうと思いついた。

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「朗読者」

ベルンハルト・シュリンク

松永美穂/訳

新潮社

*ドイツで刊行後、5年間で20以上の言語に翻訳され、アメリカでは200万部を超える大ベストセラーになった。

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ぼくが15歳の時に、黄疸を患っていた。学校からの帰り道に吐いた。そのとき一人の女性がほとんど乱暴と言っていい態度でぼくを面倒みてくれた。泣いているぼくを抱きしめた。ぼくを自宅まで送ってくれた。

元気になってから、ぼくは花束を買って彼女の所へお礼を言いに出かけた。目的の建物に入って、彼女の部屋をさがしていたら、それはシュミッツさんだと教えられた。彼女の部屋に入れてもらった。そこで、何をどのようにお礼を言ったのか、挨拶したのか覚えていない。

帰ろうとすると、私も町まで出るので少し待ってくれるようにと言って、彼女は身支度を始めた。ぼくは玄関の手前で待った。玄関は少し開いていて、彼女の女らしい豊満な体が、妖(あや)しげに動くのが目に映り、彼女もぼくの視線を感じ取っていた。ぼくは顔から火の出る思いで、我慢できなくなって、その部屋から飛び出した。

この俺様(ヤマオカ)にだって、このような経験はある。ぼく(主人公)のように、時間たっぷりに覗き見できたわけではないが、ほんの数秒程度の出来事でさえ、心臓がパクパク破裂しそうになった経験はある。

だが、一週間後ぼくはまた彼女の部屋にやってきた。どうやってやってきたのか。道徳的な教育に対する反動か。「情欲をもって女を見ることが欲望を満たすのと同じく悪いことであり、自分で想像することが想像上の行為と同じく悪いというのなら、満足と行為の両方を選んだってかまわないんじゃないか?」。生憎(あいにく)留守だったが、帰りを待った。

彼女は帰って来た。彼女の着ていた服装から路面電車の車掌であることが解った。地下室の石炭を取って来てくれないかと頼まれた。その作業で自分の服を汚してしまう。お風呂に入りなさいよと言われ、恥ずかしながらも風呂に入った。洗って出てきたところにタオルを拡げたシュミッツさんが待っていて拭いてくれた。拭き終えたときには、シュミッツさんも裸だった。彼女はぼくの体に腕を回し、一方の手を胸に、もう一方の手を固くなった部分に置いた。そして「このために来たんでしょう!」。彼女はぼくを受け容れた。彼女は、何のためにこのようなことをしたのだろうか。

その夜、ぼくは恋に落ちた。そうだろうか?本当に恋に落ちたのだろうか。性のお目覚めか?。不思議な女の体にいっとき、甘い官能をくすぐられただけではなかったのか?とエッチな先輩(ヤマオカ)は想ったのだが、どうもそうではないらしい。真剣な恋愛が始まった。彼女が早番の時は、学校の最後の授業をさぼって帰った。遅番の時は、我が家の食事が終わったころに帰った。そして来る日も、来る日も愛し合った。

ぼくがこんなに愛しているのに。彼女はぼくのことをどう思っているのだろうか。彼女を愛するためにぼくは授業をサボってやってきた、と言うと勉強するまではここに来るなと叱られた。強い口調で叱った。やはり、勉強ということに彼女はこだわっていたのだ。

またお互いに苗字は知っていたが、名前を呼び合ってないことに気付いて、彼女からはハンナと聞き、ぼくはミヒャエル・ベルクだと告げた。ぼくのどの持ち物にも名前が書かれていたのに、ハンナは気が付かなかったようだ。

ぼくは病気で出席日数が足りなかったにもかかわらず、ハンナから勉強しろと叱られたこともあって、バカみたいに猛勉強した、結果、進級試験に合格できた。そしてハンナと愛し合った。先生も親も、喜んでくれたし自分には相当の自信がついた。

ぼくがハンナに生い立ちについて尋ねた。17歳でベルリンに出てきて、ジーメンスという会社の労働者になり、21歳で軍隊に務めた。そして2,3年前から路面電車の車掌をしている。この仕事では制服が着られること、いろいろな動きや景色の変化があることなどが気に入っているとのことだった。

いつも、ちぐはぐな会話だった。ある日ハンナから本を読んで欲しいとせがまれ、そのうち朗読することが習慣になった。「坊や、あたしは自分で読むよりあんたが読むのを聞きたいわ」。シャワーを浴び、愛し合い、それからまたしばらく横になる、そんな逢引の式次第ができてしまった。でも、依然としてハンナの気持ちがわからない。

復活祭の翌週、自転車で四日間の旅行をした。両親には嘘をついた。ハンナは道の方向や選択をぼくに任せただけではなく、泊まる宿も、宿帳に母子と書き込みハンナはそれにサインするだけだった。レストランでのメニューもハンナの分まで選んだ。ハンナが眠っている間に、バラでも買ってこようと思って、「おはよう、朝食を取りに行って、すぐ戻ってくるから」とメモを残しておいた。ぼくが戻ってくると、「なんで、黙って行っちゃうのよ」と怒った。ベルトでぼくの顔を殴った。なんぜ、こんなに怒るのか不思議だった。

ある日愛し合った後、ハンナのふくらはぎに触った時、筋肉がびくびく動いていた。それは、馬がハエを追い払おうとするときの馬の皮膚の動きを思い出し、「馬だね」と言ったら、彼女はぎょっとした鋭い視線をぼくに向けた。

 ぼくはハンナのことがとっても好きになってしまったのに、彼女からはハッキリした愛情の表現を受け取っていない。でも、性愛の後か前に習慣になった朗読をぼくがするときは、ハンナは本当に喜んでくれて、二人の間にしっかりとした交流を実感できた。

ハンナは、いつも妙な雰囲気で気まぐれで威圧的なだけでなく、プレッシャーを感じていて非常に苦しみ、敏感で傷つきやすくなっていた。朗読を終えて、次の本の候補を持ってきていたが、なぜかハンナは選ばなかった。その日の愛し方はまるでぼくと一緒に溺れていこうとするかのようだった。愛し合った最後の日のことだ。

そして彼女は突然姿を消した。突然の彼女の失踪は、耐え難くつらかった。

5年後、私は大学生になった。

私が法学のゼミで、裁判所に行った。法廷では、被告人5人のうちの一人としてハンナが出廷していた。私の前から姿を消したころから、アウシヴィッツ関連の裁判がたくさん行われていた。その一つの裁判だった。私は毎日のように裁判所に通った。今では、彼女のことを何も感じなくなっていた。

ハンナは戦争のとき、ジーメンスで働いていた時に親衛隊の募集に応じ、強制収容所の看守になった。裁判での主要な起訴理由は、アウシュヴィッツ収容所へ送り込む女性達を選別したことに関わったことだ。もう一つの起訴理由は、ある空襲の夜、衛兵と看守は何百人もの女性からなる囚人を教会堂の中に閉じ込めた。落ちた爆弾は教会の塔に当たった。屋根が焼け教会堂は落ちた。重たい扉だけ焼け残った。被告人たちには、その扉を開けてやることができたはずだ、というのが起訴理由だ。

その空襲の夜は、囚人達を西へ向かって移動させていたのです。衛兵や看守の幾人かは死に、幾人かは逃げた。囚人達は全員死んだことになっている。しかし、二人の母娘だけ生存者がいて、娘の方が収容所と西への行軍について本を書き、アメリカで出版した。この本がもとになって、告発されたのだ。

ハンナの公判は苦しいものだった。が、私は、ただの一法学生として、裁判を見続けた。

起訴状朗読の後、彼女は事実に反することがあると発言した。裁判長は困惑した。公判の開廷前に充分読む時間ぐらいあったのだから、そのときに抗弁できたはずだと。証拠調べで、証人の娘が出版した本のドイツ語訳を朗読するのは省略したい、と提案した。閲覧可能だからという理由で。ハンナは同意したくなかった。

彼女がサインしたはずの司法尋問の調書には、彼女の考えとは別のことが書かれていた。だから尋問の確認においても、裁判官とのちぐはぐな応答で、いい印象を与えることができなかった。

自分に不正が加えられていると思われる箇所では反論し、正しい主張や告発がなされていると思う箇所では罪状を認めた。私と顔を合わすことがあったが、その顔は無表情だった。

裁判長に、「(選別されて、殺されるために送られていく者たちに)あなたとあなたは殺されるのよ」と言ったわけですか?と聞かれ、ハンナは「わたしが言いたいのは、あなたなら何をしましたか?」と尋ね返した。ドイツの刑事訴訟で被告が裁判長に質問するなどというのはあり得ないことだった。

優秀な弁護士ならば、起訴理由になっているその罪状に反駁(はんばく)することぐらい、それ程困難なことではなかった。他の被告たちの弁護士は、ハンナの積極的な罪状肯定によって破綻していくことに気付き、作戦を変更して、ハンナの態度を逆に利用し、ハンナに罪を押し付け、他の被告人たちの罪を軽くしようとした。

生き延びた娘が、収容所にいたときのことを書いた本のドイツ語版が、裁判が終わったころ出版された。その娘が収容所で「雌馬」と呼ばれていた女看守に出会ったことが述べられていた。ハンナらしき女看守の登場はなかったが、以前に性愛の後、私が彼女のことを馬にたとえたとき、あんなにも激しくうろたえたことを思い出した。

親衛隊の記録書類のなかにある報告書の検証がなされた。間違いだらけのその報告書をハンナが書いたことにさせられようとした。筆跡鑑定をしようとする前に、彼女は、自分が書いたのだと発言した。自ら、罪の深みに入ることを選んだ。

そして、私はある日森での散策中、ある場所で、ハンナが文盲であるという彼女の秘密を解き明かした。文盲であるとしたら、全てのことが辻褄(つじつま)が合ってくる。文盲であるという罪の無い告白の代わりに、犯罪者であるという恐ろしい自白をしてしまったのは、何故か。

父に相談した。父ほ、「その人がそのことに目を開こうとしないなら、目を開かせる努力ををする必要はある。最後の決断はその人に任せるにしても、その人と話さなくちゃいかんよ、その人の知らないところで他の人と話すんじゃなくて、その人自身とね」と言った。私には、ハンナと話すことは、どうしてもできなかった。

裁判官にもハンナが文盲であることを伝えたかったが、法学の勉強のことや裁判官の心構えについての話だけで、文盲のことについては話し出せなかった。

そして、無期懲役の判決が下された。他の被告は軽い罪でおさまった。そのことに、私は何も感慨はなかった。

私は、修習生の時に修習生仲間と結婚した。子どもが生まれた。

修習期間が終わり、妻は裁判官として働き始めた。私は、ハンナに対する裁判で法律家たちが演じた役割のどれにも、自分を当てはめることはできなかった。告発という行為は弁護と同じくらいグロテスクな単純化に思えたし、裁くことは単純化のなかでもそもそも一番グロテスクな行為だった。行政部門で働く公務員になるのは耐えがたかった。裁判所の中で働くのは灰色で不毛で陰鬱だった。教授の勧めがあって、法史学的な関心を追究することにした。

急に思い立って、ハンナに朗読したものをカセットに吹き込んで送った。ケラーやフォンターネ、ハイネやメーリケの作品が多かった。市民的教養のある人には馴染みのあるものばかりだった。個人的コメントは入れなかった。

カセットによる多弁で寡黙な私たちの接触の4年目に、彼女からの挨拶が届いた。「坊や、この前のお話は特によかった。ありがとう。ハンナ」。その紙には線が引いてあって、書き方練習帳から1ページを破って、皺を伸ばしたものだった。

ぱっと見るとまるで子どもが書いたような字だった。ハンナの字だ。書ける、書けるようになったのだ。彼女にとって、字を書くことがどれほどの力と戦いを必要とすることだったか、理解した。

私は離婚した。憎しみ合ったりしたわけではない。互いに尊敬し合っていたが、何かが違うと感じ続けていたのだ。

それからは、刑務所の様子や、窓から眺めた様子などを書いてきた。私は何も書くことはせずに、どんどん朗読のカセットを送り続けた。1年間アメリカで過ごしたときも、そこから送り続けた。

刑務所の女性所長から手紙が届いた。私へのお願い事や、ハンナの出所が近づいていること、出所後の生活のことなど相談したいので、一度お目にかかりたい、という内容だった。ハンナは果たして喜んでいたのだろうか。私は、嬉しくなかったのだろうか。

出所後の住まい探しや、仕事のことに関しては、私が手伝うべき内容だと思っていたが、会うことに躊躇(ためら)いはあった。私たちの間にあったことを蒸し返さないまま、顔を合わせることがどうやってできるのだろうか。

恩赦の決定が下りた。

所長が私に電話してきた。

私は刑務所に初めて出かけた。ハンナは灰色の髪で、額にも口にも頬にも深い縦皺が刻まれていた。彼女の表情のなかに、私を認めたときの期待が喜びに変わって輝くのを見た。「大きくなったわね、坊や」。匂いは、老人のものだった。私は帰り際、彼女を抱きしめたが、しっかりした手応えはなかった。何故だ。

出所の前日。「明日はどうするか考えておいてよ。直ぐに家に行きたいか、それとも森か川にでも行きたいか」、「考えてみるわ。あんたは相変わらずすごい計画家なのね?」、と電話で話した。

翌朝、ハンナは死んだ。夜が明けるころに首を吊ったのだった。どうして、私の傍に来ることを拒んだのか。私の態度が、彼女を苦しめていたのだろうか。

ハンナの独房に案内された。身の回りの小物の他には、テープレコーダーとカセットがびっしり並んでいた。カセットは目の見えない囚人の介助をしている人たちに貸していた。本棚には、有名な作家の本に混ざり、ナチの犠牲者たちの本、ルドルフ・ヘスの伝記、エルサレムでのアイヒマン裁判のレポート、強制収容所についての研究書もあった。

私が送ったカセットに吹き込んだ本を図書室から借りてきて一語一語、一文一文自分で聞いたところをたどることで、字を学んだ。所長曰く、「彼女は、あなたから手紙をいただけることを期待していたのです」。

私がギムナジウム卒業試験に合格し、卒業式の際に校長から何かの賞を贈られ、そのことを報じた地元の写真入りの新聞記事をハンナは大事に保管していた。

遺書のようなものが残されていた。それを所長は読み上げた。「紫色のお茶の缶にまだお金が入っています。それをミヒャエル・ベルクに渡してください。銀行に入っている七千マルクと一緒に、教会の火事の際に母親とともに生き延びたあの娘さんに渡して欲しいのです。そのお金をどうするかは、その娘さんに決めてもらってください。ミヒャエル・ベルクに、わたしからの挨拶を伝えてください」

所長は、「どうして自殺するか、シュミッツさんは書きませんでした。そしてあなたも、あなたがた二人の間に起こったこと、あなたが迎えに来る前の夜にシュミッツさんが自殺する原因になったかもしれないことを話そうとはされません」と。所長の言葉には、怒りが込められているように感じた。

ハンナの遺志を実現するために、生き延びた娘さんにお金を届けにニューヨークに行った。私たちは話し合った結果、読み書きを習いたがっている文盲の人の為に、それもユダヤ人関係の団体に振り込むことにした。ハンナ・シュミッツの名前で振り込んで構いませんと言われた。

 

ナチの暗い時代を引きずった、もどかしい男と女の物語でした。

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090921追加した。

その後、次女が61歳の誕生祝いにくれた、五木寛之の「運命」を読んでいたら、一部にこの「朗読者」をとりあげていた。そこでは、ハンナが字を読み書きできないので、彼女のことを非識字人という文字を使っていた。私は文盲(もんもう)という文字を使って、文章を綴っていたのですが、この「文盲」は適切な文字ではないのでしょうか。適切でないならば、上の文章の全ての「文盲」を「非識字人」と改めなくてはならんのだろう。

私のP,C,からは、monnmouと打っても文盲はでてこない。やはり、あまり好ましくない言葉のようだ。