今日は「秋分の日」。明日、24日は我輩の61歳の誕生日だ。
今日は一日、丸ごと休日宣言をする。だが、目が覚めるのはいつも通りだった。まずは小水、次に冷たいお茶をコップ1杯、一気飲み。
03:30、次女から2、3日前に誕生プレゼントにもらった、五木寛之の「人間の運命」を読む。
新刊書、新品だ。この匂い、この新しい本の手触りは久しぶりだ。何とかオフの105円コーナー漁(あさ)り名人にとって、新刊書は夢の夢、高嶺の花だ。五木寛之さんの著作物がこのごろ「大河の一滴」とか今回の「人間の運命」とか、法然か、親鸞、唯円か、歎異抄か、なんだか人間の生き方、考え方、人間の生涯のこと、そんな人間論に関する著作が目立ち過ぎて、その間にもお寺巡り、お坊さん巡りがあって、私の周囲には、イツキシラケ鳥が飛び回っている。
偶然にも昨日、この本が朝日新聞の全1ページの広告に出ているのを見つけた。広告のコピーは、人間の運命、とは何か? 人生は変えられるのか。親鸞の言葉に隠された謎が今ここに明かされる。紀伊国書店新宿南店では、売上第1位だとか、丸善丸の内本店でも第1位だとか、こんな手法は、書物の販売には不向きではないのか。また本一冊売るために、こんな過剰な広告は異状だと私は思うのだけれども。ひょっとして、他紙にも出稿していたのだろうか。いつの頃から、このように本の広告が大々的になったのだろうか。火点け役は幻冬舎か?。本屋業界のこの浅ましさは、現在の日本文化の底の浅さ、儚(はかな)さの象徴か。
私は、本選びこそ、他人にガチャガチャ言われたくない、押し付けられたくない、自分で選びたいと思っている。自分で自分の読みたい本も選べなくてどうする。それこそ、自分の運命も他人に教えてもらえないと、生きられないのか。
本の内容は、今読みつつあるので、総括はできないが、優秀な人が苦労して考察したその成果を、きっと私も読後は満足するのだろうが。何か、違和感を感じるのです。この本の導入部分で、映画「愛を読む人」、原作はベルンハルト・シュリンクの「朗読者」を持ってきた。この「朗読者」は1ヶ月程前に読んで、感動した経験から、五木寛之はタイムリーなネタを、上手い具合に使うものだ、と感心した。先ずは、五木大作戦その1(いち)ということかな。私が感じる違和感は、五木寛之さんにはもっと小説を書いて欲しいと思っている気持ちが、心のどこかにあるのが原因かも。かっては、五木小説を熱愛した読者だったのですから。かって30年前、40年前の彼のストーリトーカーとしての能力の高さには感服していたのです。
友人に、最近五木寛之さんは小説を書いてないね、と質問したら、売れる物を書けばいいんじゃないの、ときたモンだ。
05:00、ポンタとツバサ、犬二匹との散歩に出た。
(自分のベッドでくつろぐポンタ、私の布団でくつろぐツバサ)
(三女が作った造形です。真ん中は名犬ゴンです)
いつもの通りのコースだ。いっつも決まった所でマーキングをしてウンコをする。ウンコは地面に落ちる前にナイスキャッチが求められる。いつもと同じウンコかどうか、きっちり確かめる。この時間に、いつも会う、近所の散歩のオジイサン・オバアサンは何人もいて、会うことがないまま散歩を終えると、心配になる。ケガや病気でなければいいが、旅行ならうらやましい。新聞配達のおにいちゃん、某宗教団体の広告宣伝紙の配布のお姉さん。
私は丁寧に手入れの行き届いた家々の庭先を覗き見しながら歩く。真夏には比較的少なかった花も、今は、咲いている花の種類が多くなったように感じる。俄然頑張り続けているのは、百日紅(サルスベリ)だ。7月の初旬から咲いているから、名前の百日(紅)は満更誇大広告でもなさそうだ。多分10月の中旬までは、咲き続けるのだろう、私は証人として見届けます。
昨夜、家人は帰宅した酔っ払い(私)に向かって、冬に備えて買ってきた敷物の上に、ポンタがゲロを吐いたと言って怒っていた。「敷いて、2,3時間も経ってはいないのに。電話中だったので何もできなかった」、本当に悔しそうな顔だった。アルコール漬けの頭の芯に家人の声がガンガン響いたが、聞き流して、私は酒を燗した。しょうがないんじゃないの。今朝のポンタは、昨夜にあれほど叱られたことなどすっかり忘れたような清清(すがすが)しい顔をしている。気分転換が上手いのだ、私も見習わなくっちゃ。ポンタ、最高!!
05:45、朝飯前に、お彼岸のお萩を食った。
(お萩です。)
甘いものを食えるのは、一日の中でこの時間帯だけだ。春のお彼岸には牡丹餅(ぼたもち)と呼び、秋はお萩と呼ぶ。唯、呼び方が違うだけだったんだ、と今更ながら気付いた。春に咲くのは牡丹、秋に咲くのは萩なので、このように呼ばれるようになったらしい。家人が言うには、今、萩の小さな花が咲いていますよと言う。子供の頃は、仏壇にお供えしてからいただいた。餡(あん・小豆)と黄な粉(大豆)でご飯を丸く固めたのを包み込んだもの、2種類だった。子供の頃、実家が農家なので、祖母が作ってくれた牡丹餅は、野良仕事のためにも、がっちり握られていて、大きかった。
それでは、私の今朝の朝食メニューを紹介しましょう。納豆、ネギ、梅干、焼き海苔、野沢菜のわさび漬け、それにだ、驚くな、なんと「かじめちゃん」と「ごま出し」だ。「かじめちゃん」はカジメとみりん、ごまを食塩や醤油、砂糖、ソルビットなどで混ぜ合わせたもので、海苔の練ったようなものです。ソルビットって何だ。カジメとは、現物を見たことはないのですが、海草らしい。昆布かワカメかそのようなものだと、想像した。また「ごま出し」はうどんや鍋物、スープのダシとして、茶漬け、卵ご飯などには味を添えるために使う。こんな、珍しい物を食していますのよ、我が家の食膳は豊かでしょ。これらの2品は、長男の嫁の実家の母親が、娘可愛さに贈ってくれるのを、横流しをしてもらっているのです。これ以外にも、色んな珍しい食べ物を送ってくださる、私の家にも、感謝、感謝だ。
孫が何処からか貰ってきたオクラの種を、家人が鉢に蒔いておいたのですが、そのオクラの実?がなっていた。何日か前には花が咲いていたことは確認していたのだが、こんなに立派な実になっていようとは、自然に感謝だ。タラの芽の木をチェック。タラの芽の天ぷらは若い頃に、信越地区のスキー場の事務所で鱈腹いただいた。その頃、私は某私鉄系観光会社の本社の宣伝課に所属していた。そのタラの芽の木を、偶然、初夏にホームセンターで見つけて育てているのです。明日の天ぷらになるタラの芽様をなんとか、私の管理下に治め、毎年満足するだけ食べたかったのです。まだ、幼木なのです。今、落葉して、花が咲いているのですが、これって普通ですか。この花はどうなるのだろう。誰かタラの芽の木の1年間の生態を教えてくれませんか。
(タラの芽の落葉)
金魚に餌をやった。金魚約10匹、鮒1匹。泥鰌(どじょう)1匹は、たまにしか姿を見せない。この泥鰌は、我が家に来てもう20年以上は経っている。
雨戸を開ける。ガタゴト、雨戸のきしむ音は、世間様に我が家の行動開始宣言のようにも聞こえた。
(オクラ、と金魚のいる池)
07:00、三女が起きてきた。私は朝食を終え、新聞を読んでいた。
この娘、目覚めが悪くて、顔はボヤ~ンと、目はまぶしそう。オヤジ、俺は駄目だ、もう駄目だ、もう今日は駄目、と言ったまま浮かぬ顔のまま。どうしたんだ、と詰問しても、もう駄目だと言うばかり。少し時間が経ってから、聞いてみると、昨夜、長男から借りた映画のDVDを観たんだけれど、もう私、どうにもならないほどショックを受けたとのことだった。その映画は「闇の子供たち」だったのです。この映画はね、「血と骨」のあのオッサンが原作者なんだ、と聞かされれば、大体どのような映画だろうな、ぐらいの想像力は働く。タイにおける子供の虐待を扱ったものだ。
08:35、テレビをつけながら、新聞を読んだ。
鳩山由紀夫新首相の国連気候変動サミットでの発言が先進国に、とくにヨーロッパの国々に拍手で迎えられたニュースをテレビが伝えていた。環境問題で世界をリードしていこうとする、首相の発言内容とその取り組み方を、鳩山イニシアティブ、と言われていた。オバマ米大統領との会談においては、日米同盟強化で一致しました、なんて報道もあった。
09:30、道路の向かい側に住んでいる次女と孫を起しに行った。
次女は昨日、ちょっとした交通事故を起した。大したことはなかったようだが、緊張して極度に疲れたのだろう。この時間になっても、まだ起きてこない。事故直後は気が張っていて痛くなくても、翌日になると痛みが激しくなることもある。そんな状態のようだ。次女の夫は、暗いうちに、昼には帰ってくると言って、サーフィンに出かけた。千葉の海岸らしい。
10:30、次女の息子、我輩の孫を連れて、狩場にある児童公園のプールに行った。
(プールでの遊びを終えて、次は公園や)
ここは、ゴミの焼却熱を利用している。我等、地元住民はゴミの焼却に伴う排気の影響やゴミ収集車の出入りで、多少迷惑を被っているとして、入場料を半額で利用できるのです。でも、この割引制度も今月で終了する。地元対策は終了したということだろうか。私達の子ども達は、ここのプールで家人の指導で、泳げるようになった。家人は、かってスイミングクラブの指導員だったのです。その影響もあって、私もなかなかのスイマーになりました。今、孫を教えるのは、私。幸せなことだ。孫は、スイミングクラブに週1で通っているから、もう2年も通ったから、その成果は目をみはるものがあった。すっかり水に慣れていて、私が遊んでやろうと思ったけれども、充分自分で工夫して遊んでいた。クロールをちょっと教えてあげたのだけれど、これも簡単に私が言った通りのことができた。ここまで水に慣れていれば、もう、オッケーだ。
公園でも遊んだ。滑り台と雲梯(うんてい)で遊んだ。うんていは、長い梯子を横にしたもので、懸垂やぶらさがりながら移動する遊具です。うんていを、こんな漢字(雲梯)を当てるのを知ったのは家に帰って調べてからのことだ。
(滑り台とうんてい)
12:30、「ごま出し」を使ってのうどんを食った。うどんの麺も九州長崎の地元で製造された乾麺でした。美味かった。
13:15、映画「闇の子供たち」を、次女の夫と観始めた。次女と孫も最初の1分間は見ていたのですが、これは見るなと言って、階下に行かせた。
原作:梁石日、監督:阪本順治、出演者:江口洋介、宮崎あおい、妻夫木聡ら。タイで行われている臓器移植を目的とした幼い子供たちの人身売買や幼児買売春。日本の新聞記者がタイにおける人身売買の情報を得て取材に動く。タイの身寄りのない子供たちをあずかる人権センターと、そこに日本から派遣されてきた女子大学生、タイ国内で活動するNGOたちが、闇に潜む組織を暴く物語だ。
親に売られる子供、買った子供たちを檻に収容、病気になった子供はゴミ収集車に捨てる、子供を保護する人権センターとスタッフ、人権センターを助けるNGOとボランティアの背信、男の外人の性行為を受ける男の子と女の子、病気で追い出されやっと生まれ故郷にたどり着いた果てに死んだ子供、生きたまま臓器を取り出される子供、子供の心臓が病んで新しい臓器を求める裕福な日本人の父親と母親、新しい心臓を求める日本人の仲介人、手術を担当する医師、見たままを見たままに報道しようとする記者とカメラマン、犯罪グループに通じた警察。
そして最後の最後に阪本順治らしい、仕掛けが、映画的には面白い話だが、観る者たちには辛いヒネリがあって苦しんだ。
15:40、イーハトーブの果樹園に、栗拾いに出かけた。
(栗拾いだぞ~い)
宮澤賢治さんが、命名してくださった、我等の”イーハトーブの果樹園”です。所有権は、家人のものだ。6年ほど前から少しづつ開墾してきた。開墾って、大げさ?そんなことない、私の血と汗の結晶だ。本日のメンバーは、私、長女の夫と孫、次女夫婦と孫の6人。長女は栗拾い後の宴会の準備。長男夫婦は、長男は仕事でその若妻は家に、二人揃ってでないと我が家に来ないという、何かが可笑しいぞ。若妻は11月の初旬が出産予定だ。安産を願う。俺の孫がもう一人増えるのだ。有り難いこっちゃ。
(イーハトーブの果樹園だぞう~)
15:00、大量の栗とそろそろ収穫時だけれども、もう少し様子見の柿を5個ほど採って、我が家に帰った。栗の一部は、隣地の玄関前に置いてきた。隣地の方は、この果樹園の草刈を時々やってくださるのです。私以外は、皆初めての経験らしく、イガの痛さにもめげず、栗の実をつまみ出したり、拾ったりしていた。蜜柑(ハッサク)の木にも、まだまだ緑で小さいけれど、たくさんの実をつけていた。昨年は9個採れた。今年は、30個ぐらい収穫できそうだ。豊作だ。収穫時には、みんなに声をかけよう。いやはや、豊穣じゃ。
16:00、幸せな栗拾いの時の様子を思い出しながら、ビールに手をつけた。長女の夫も、次女の夫も、私のサアサア呑もうか、の掛け声の前に、もう既に乾杯済みだった。見る見るうちに、ビールは進む。家人が、前回の栗よりも上等だと褒めてくれた。実際、前回よりも実は大きく、虫に食われているのが少なかった。
17:30、会社から東戸塚のマンションに帰ってきた長男と嫁を次女が車で迎えに行ってくれた。長男は明日の私の誕生日プレゼントとして焼酎「父の誇り」をくれた。父の誇りか、と独り言。頼りない自分に苦笑した。有り難くいただかなくちゃイカンな、と思いつつも、翌翌日にはなくなっていた。健康だからこそ飲めるんだ、健康に感謝しよう。
宴は、続いたらしい。というのは、私は酒量限界と感じて一人退場したからです。その後の楽しい飲み会は相変わらず盛り上がったようだ。
全身のすみずみまで、アルコールに浸(ひた)したまま、寝た。
この夜、巨人のセリーグ優勝が決まった、とのことだったが、我が家にはなあ~んにも関係ない。我が家で、一番嫌われている球団だ。
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