大磯の吉田邸の隣接で、私達の会社が小さなプロジェクトを始めようとしていて、そのプロジェクト資金を金融機関から借りるために、その金融機関の担当者を大磯駅に車で迎えに来ていた。私と私の会社のスタッフは、約束の時間よりも早く着いた。私の会社の同僚・浅は、車の中で何本もタバコを吸って時間を潰ししていた。
私は、駅前にある大磯観光協会の案内所に、かって大磯ロングビーチで一緒に働いたことのある水さんが居ることを思い出し、顔を出してみた。最初、この案内所に来たのは3年前。大磯町の年間行事を知りたくて、この案内所に飛び込んだのです。何かのために、必要だったのでしょう。その時、水さんに会ったのは偶然だった。彼の顔を見て一挙に懐かしさが溢れ出た。彼は定年後の再就職でこの案内所で働いていたのでした。数年前、息子さんはバイク事故に遭い、亡くなったと言っていた。子供を交通事故で亡くした親父の悲惨さは、想像に難くない。私は、家人に子供にはバイクに興味を持たせないようにいろいろ仕向けさせた。私もオートバイクの事故で嫌な思いをした経験から、そのように思向したのだろう。
かっての職場だった大磯ロングビーチの関係者に会ったり、話をする機会があったりすると、その時の私の生活のあれこれを、どうしても懐かしく想い出してしまう。
大磯ロングビーチに勤務時代、今から35年前。私は学校を卒業して2年目から3年目にかけて、25~26歳だった。学校を卒業したのが、24歳だったのだ。働くことが、面白かった。仕事に関して、職場で教わること、仲間から聞くこと、先輩たちのすることを目の前にして、全てが興味津々だった。
盛夏、プールの営業中、アパートから職場まで、ゴム草履に海水パンツ一丁で出かけたこともしばしばあった。帰るときも海水パンツ一丁だったので、雨が降っても、土道の水溜りに足をとられてもジャブジャブ、平っちゃらだった。アパートは、広大な畑に隣接していた。酔っ払って、道から外れて畑に沈没したこともあった。転んだところがナス畑であったり、キューリ畑であったりで、その都度土産にナスやキューリを貰って帰った。濡れ手に粟だ、??。仕事中、体力が余っていて、縦300メートルの駐車場を皆で徒競争をした。腹筋大会もやった。二人一組になって、両手を地面についている者の両足をもう一人が持ち上げて、手押車の競争もした。エネルギーが有り余っていたのだ。誰もが真っ黒な顔に、白い歯が健康的だった。私は、どの遊戯にも競っては誰にも負けなかった。
敷地内は、道路交通法の適用外なのをいいことに、私は自動車免許証を持たないのですが、富士重工業のスバルサンバーを我が物のように独り占めした。丈夫な車だった。プール営業の準備から片づけまで、敷地が広いのでこのスバルサンバーは大活躍だった。会社の誰もが、その車のことは、ヤマオカのものだと諦めていた。そんな甲斐あって、自動車免許取得には、どこの自動車学校にも通わずに、二俣川の自動車試験場で、学科は一発、仮免は4回目、本試験は2回目で合格した。自動車免許取得に要した費用は、交通費込みで1万5千円までだった。一度でも試験に不合格になると、精神的に挫(くじ)けるものです。毎回付き合ってくれた妻の励ましで、踏ん張れたのです。絶対他人を褒めない支配人が、この件に関しては、こいつ割りとしっかりしているんですよ、と取引会社の担当者に言ってくれた。
大磯ロングビーチに配属されていた時は、売店とプールサイドのレストランの責任者をしていた。売店は、前年比1,5倍強の売上を達成した。レストランは対前年比1,3倍の売上を記録した。フジテレビの「夜のヒットスタジオ」の中継中にも、私はビールをドンドン売った。酔っ払いが発生してテレビの生放送に万が一のことが起こると、重大な事件になる可能性があるというので、支配人が私たちの売店をビニールシートで覆った。言うことを聞かない私らは、実力で阻止された。幾らでも売れたのです。
総支配人と支配人がいて、そのどちらの支配人からも可愛がられた。その一方の支配人から、酒を一晩中飲まされて、お前はどちらの言うことを聞くのか、と言われて困ったことがあった。もう一人の支配人も、同じことを言って、俺に迫った。あんたの方が嫌いだ、とは正直に言えなかった。
敷地内で松の小さな幼木を見つけては、それをあちこちに移植した。今、2009年、立派な這い松になっている。西湘バイパスから見える高さが3~5メートルの木は、当時私が植えた松だ。私の先輩も、後輩も誰もそんなことをする人はいなかった。皆からは馬鹿扱いされた。
スイミングクラブを発足することになった。、当然、お前のカカアもやるんだと言われ、社員でもない妻も否応なしに参加させられた。妻は、河合関係の会社に勤めていたのですが、止むなくその会社を辞めざるを得なかった。スイミングクラブでの子供の教え方は、私の奥さんの知恵に、全てを委ねた。我々には、持ち合わせているノウハウは何もなかったのです。私も、一人前のコーチになるために、泳いだ、泳いだ。一日3時間、5千キロをノルマにした。素人の駆け出しには、きつかった。お陰で、3ヵ月後には、他人様の前でも恥をかかないですむ程度には泳げるようになった。
冬は、ゴルフ場の支配人役だった。辞令を受けた本物の支配人は、仕事大嫌いで役に立たなかった。仕事に本気で取り組んでいなかった。社員の全てが、そんな感じだった。上司からは、社員の知り合いだからとか、あの人にはいつも仕事上お世話になっているからとかで、フィーを安くしてやってくれと頼まれたこともあったが、私は絶対きちんと定価を頂いた。又、小さなゴルフ場だったので、一日にプレーできる人数が決まっているので、上司が特別な配慮をしてやってくれと言われても、これも絶対受けつけなかった。この類のことは、私が一番嫌うことだった。そんなことを、私に連絡してくる上司を、アホだと卑下した。
敷地内の西友の中にあったレストラン「アゼリア」で、私たち夫婦の結婚のお披露目をした。大磯地区の人々にも、新妻を紹介したかったのです。友人達のなかには長髪族がいて、お世辞にも行儀がよいとは言えない連中が多かったのです。その友人達の態度が気に食わないと言って、キッチンでふて腐れて、会場には顔を出さないと言っては拗(す)ねた支配人。この男は元W大の競泳部のOBだった。本当に大人気ない上司だったが、私を非常に可愛がってくれた一人だ。
その案内所は、相変わらず水さんのコミュニティそのものだった。久しぶりだったけれど、水さんは見かけはさほど変わっていなかった。ここに顔を出す人は、観光案内所の役割とは関係のない人たちばかりで、何気なく入ってきて、なにやかや話をしては、挨拶をしながら出て行くのです。私がその場に居る間、そのなかでも、何度も来ては出て行くオジサンがいた。元IBMの社員で写真が趣味の人だった。何かで情報を得て、大磯にやってくる芸能人をことごとく写真に撮っていることを自負していた。その写真を持ってきて、私に説明してくれたが、私が知っている芸能人はいなかった。
そのオジサンに水さんが、私のことを紹介しだしたのです。水さんは、私のことをこの人と呼んで、話し始めた。
この人が結婚1年目を記念して、トラック島に行ったんだけど、羽田の飛行場の小荷物検査で、バッグの中の大磯ロングビーチのゴムボートをチェックされ、私が総務の責任者だったので、私の所に警察か公安か、どちらかから電話があって、この荷物を持つ青年はそこの会社の社員だと名乗っているのですが、本当ですか---------、とそんなことがあったらしい。思い出しても、その時に長い時間をかけて検査された記憶はなく、気がつかない間に、裏側でそんなやりとりがあったらしい。そのゴムボートは、通常営業で使われているものではなく、もう少し小さめのボートなら、どんな具合になるのかメーカーに試作品を作ってもらったものでした。そんな出来事が35年前にあったのだ。当時、そういうことがあったことを話してくれていれば、今ここで、さほど、驚くこともなかったのですが、久しぶり会って、唐突に、こんな内容のことを聞かされれば、誰だって驚くにきまっている。
水さんが話したラック島は、間違いで、本当はグアムだったのです。当時、本気でトラック島を色々学習していた。トラック島には、家人の友人の夫(現在藤沢にお住まいの相さんです)が、かって大学を卒業してから長年トラック島に住んでいて、その島の好さをいろいろ聞かされていたのですっかりその気になっていたのですが、仕事の関係で、そんなに長く休みがとれなくて、手っ取り早いグアムに変更していたのです。当時のトラック島の、何人もいた酋長ををまとめる一番偉い酋長さんが相さんの叔父さんだったのです。その叔父さんのお父さんは、かってプロ野球のピッチャー(昔の大毎オリオンズの前身のチームだった。未確認)をしていた人で、その人が漁業の関係で住みついたと聞いている。
この小文の作成のためにキーを叩きだしたのは、以前に務めていたときの先輩に会って、私のことを可笑しいと言ってくれるものだから、ひょっとして本当に可笑しい話なのか、と思いながらキーを叩いてみたのですが、読み返してみて、さほど可笑しいと感じられなくて、恥ずかしくなった。
でも、昔を思い出すいい機会にはなったので、これをこのまま投稿することにしました。
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