2010年9月29日水曜日

俺にとっては、怖い話です

スクラップしてあった新聞記事が赤茶けていた。それほど、切り抜いてから時間が経っているようだ。この記事をマイファイルする。昔から他人の言うことに耳を貸さない私だけれど、賢人からのアドバイスは、見ない振り、聞かない振りをいつまでもしているわけにはいかなくなった。ここにきて、やっと分別のつく年齢になったようだ。身を正して再読することにしました。

やっとのことで、長い長い暑い夏が終わった。真夏日が記録的に何日も続いて、また気温も異常に高くて日本中がウンザリした。ところが一週間前に気温が一気に下がって、急に涼しさを飛び越して、寒くなった。冬着が直ぐに出せない私は、夏服をを二枚、三枚と重ね着をしてしのいだ。油断一発、クシャミものだなあと気に掛けていたのに、案の定、今は風邪気味なのです。布団をがっぽりかぶって寝ている。夜のとばりが下りるのが早くなり、夜明けも少し遅くなった。秋の夜長の始まりだ。そんな時期、夕食には熱燗にお決まりだ。焼酎はお湯割りが楽しい。鍋物がいい。

毎晩、毎晩、酒を呷(あお)りながら時事放談、勝手にホザイテいる。嘆かわしい事件が多すぎるのだ。他人は私の飲酒に関しては、それぞれに有り難い忠言をしてくれるが、私は私なりに守らなくてはならない原則をちゃんと作っている。それは、翌日に酒の酔いを残さないようにすることだ。この加減が実に難しいのだが。日本酒を飲み過ぎたかな、と思ったときには水を多い目にとるようにしている。枕元に、水のペットボトルを忘れない。私は生まれながらに、臆病者で、小心者で、慎重派なのです。

でも、これからマイファイルする下の記事はよくよく理解して頭の隅っこにでも大切に仕舞っておきましょ。酒を飲んだら、「顔が真っ赤になる人タイプ」の私は、要注意らしいですゾ。クワバラクワバラです。

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毎日新聞の或る日の記事より

中川恵一・東京大付属病院准教授、緩和ケア診療部長

Dr 中川のがんから死生を見つめる

「赤くなる人」酒控えめに

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アルコールそのものに毒性はありませんが、アルコールが分解されてできる「アセトアルデヒド」に発がん性があります。これを解毒する酵素「ALDH2」を作る遺伝子は、両親から一つずつ受け継ぎます。そのうちの一つだけが分解力弱いタイプ(ALDH2部分欠損型)であっても、ある程度はお酒を飲むことができます。

しかし、部分欠損型の人は、アセトアルデヒドを完全には分解できません。この分解されずに体内に残ったアセトアルデヒドによって顔が赤くなるのです。つまり、顔が赤いということは、体内に発がん性物質が分解されずに残っていることを示しています。昔は飲むとすぐ真っ赤になったけれど、今はずいぶん飲めるようになった、という方も多いと思いますが、アセトアルデヒドに体が慣れただけですから、要注意です。

ALDH2欠損型はアジア人だけに見られ、酒で顔が赤くなる現象は「アジアン・フラッシュ」とも呼ばれます。世界の人口の約8%、5億4千万人が、このタイプと見られます。酒で顔が赤くなる人(部分欠損型)は、赤くならない人(正常型)よりも、同じだけ酒を飲んでも、がんになる危険性が高くなります。部分欠損型の人は、正常型の人より、食道がんのリスクが10倍近く高くなるといわれています。赤くなる人が1合程度に酒を抑えるだけで、日本人の食道がんが約半分に減るという計算もあります。

自分がどのタイプかは「遺伝子検査」をすれば分かります。しかし、全くの下戸(げこ)の人は完全欠損型、すぐ顔が赤くなったり、飲み始めて1~2年はビール1杯だけで顔が赤くなったりしていた方は、部分欠損型と考えて間違いありません。

東京・新橋あたりで真っ赤な顔で飲んでいるお父さんを見ると心配になります。小澤征爾さんも、桑田佳祐さんも酒をずいぶん飲んでいたそうです。2人が赤くなるタイプかどうかは分かりませんが、飲んで真っ赤になる人に、お酒を勧めることは慎むべきでしょう。

2010年9月27日月曜日

高校時代、養命酒の配達をしていた

高校時代、サッカー部の練習がないときは、宇治市にあった灰山急送(今もあるかどうか、知らない)で、アルバイトをした。私の当時の時間の過ごしかたの優先順位は、1にサッカー、2にアルバイト、3は勉強だった。サッカーが優先順位で1番だと言っても、いつもの練習には10人とは集まらない、貧困なクラブだった。そんなクラブに心血を注いでいたのです。

灰山急送は、一般的な荷物を全国ネットの運送会社から、委託を受けて、集配をしていた。当時、私よりも5,6歳年上の運転手が3人いて、私は年齢以上の働きをするものだから、どの運転手も私を助手にするのを快く思ってくれた。

その運送会社の定期的な収益の柱は、養命酒の配送だった。京都の何処か?伏見だったか?に養命酒の配送センターがあって、南京都や宇治、山科方面の小売店に独占的に配っていたのです。一つの箱には、6本が入っていた。赤い箱と、黄色い箱の2種類があって、黄色い箱は薬用養命酒、赤い箱は一般的な養命酒だ。センターでは、ベルトコンベアーで出てくる養命酒を、指定された伝票通りにトラックの荷台に配達しやすいように積み上げるのです。

養命酒とは、そのような縁があるものだから、養命酒の宣伝が目につけば、どうしても最後まで、気が済むまで読むことになるのです。そのアルバイトの最中に、養命酒を小さな盃に一杯だけ飲ましてもらったことがある。大人はどうしてこんな不味いものを飲むのだろうと不思議だった。体の弱い人にとっては重要な滋養になると聞かされていた。百姓育ちの私には、そんなもので滋養を取るなんてことが信じられなかった。

その養命酒がスポンサーで、敬老の日を意識した今朝の新聞広告が、いやがうえにも目に留まってしまった。だが、これはいい広告ではないか。人間が加齢していく各節目を意味する用語?をこのように整理してくれている。これは一つパクラせてもらおう。

後学のために、ここは新聞広告をそのまま、転載させていただく。

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60歳:還暦=60年で十干十二支の組み合わせがひと回りすることから

70歳:古稀=唐の詩人、杜甫の詩「人生七十古来稀なり」にちなんで

77歳:喜寿=喜の草体が七十七と読まれることから

80歳:傘寿(さんじゅ)=傘の略字が八十と読めることから

88歳:米寿=米の字が八、十、八に分解できることから

90歳:卒寿(そつじゅ)=卒の通用異体字が九十と読まれることから

99歳:白寿=百の字から一を引くと白になることから

108歳:茶寿(ちゃじゅ)=茶の字の草冠を二十、その下の部分を米という字に見立てて八十八、合わせると百八になるこ とから

111歳:皇寿(こうじゅ)=皇の字を白、一、十、一に分解。九十九を表す白に一、十、一を足すと百十一になることから

2010年9月26日日曜日

誕生日に思ったこと、それは感謝だ!!

1948年(昭和23年)9月24日生まれなので、今日で62歳になった。3日前から、女房の母親は、私らの長女夫婦(義母にとっては孫夫婦)が、我が家の近所に自宅を新築したのでそのお祝いに、京都から来ていたのです。義母と女房、長女とその二人の娘、長男の嫁とその娘、それに三女だ。権太坂地区の山岡家系婦人部の皆さんだ。長男は仕事。向かいに住んでいる次女が加われば、完璧なのだが、生憎次女は夫と息子を引き連れて何処かへ行っちゃった。

自宅のリビングのテーブルには赤飯に、蟹すき。蟹は、長女の旦那が貯めたマイレージによる持込み。皆から数々のプレゼントを頂いた。明日からの活力にとお酒と焼酎、犬の散歩時のための帽子、休日に寛ぐため?のシャツ。南区六ッ川のフランス菓子店に予約してあった特製ケーキのローソクの灯を、孫の楓と一緒に吹き消した。ケーキの上面には誕生日おめでとう、ジジーと書かれていた。「ハッピー、♯、バースデイ、♭、ジジー」の合唱には、涙が滲んだ。嬉しいのに、感謝の気持ちを上手く表現できない。情けないジジーだ。果たして、ローソクは何本立っていたのだろう?数えることもしなかった。このように皆が健康で、こういう機会を作ってくれて、そして和やかに談笑ができるとは、なんちゅうシアワセもんだろう。義母もいたって健康だ、女房の股関節も復調中。この一年間で、孫が二人増えて四人になった。みんな丸々と太っている。

三女から62歳の誕生日は、どんな感じっ?と聞かれて、私は感想を答えられなかった。そうだなあ、と一言発したものの、次の言葉が出てこない。

この年になって、今日の誕生日に思うことは感謝だ。他に何があると言うのだ。不動産業という生業を選んだものだからしょうがないと言えばしょうがないのだけれど、なにせ浮き沈みの激しい業界で、いっぱしの経営者を張っていくには、辛いことばかりだった。幸い、心身とも強靭なスタッフと賢明なアドバイザーに恵まれているので、なんとか撃沈せずにここまで来られたのですが、これまでの人生の中で、この25年間は、ジェットコースターのようだった。

資金繰りに親身に相談に乗って頂いたS信用金庫の皆さん、ノンバンクの担当者、担保も取らずに一時的に用立てしていただいた方、金融機関との付き合い方の指南をして頂いた大手地方銀行の融資担当者、大工さん、数々の職人さん、建材会社の担当者、リフォーム会社の方々、測量士さんに司法書士、弁護士の先生、大学時代の先輩後輩、同業の皆さん。我が社の疲弊した状態にもかかわらず、元気よく会社を盛り上げようとしてくれているスタッフたち。

実際には、人との付き合いにおいて嬉しいことばかりではなかった。心無い言辞に傷ついたこともあった。が、そんなことに構ってはいられない。支えてくれている人たち、励ましてくれる人たちに、何とか早い時期に安心してもらえるように、頑張りたい。この三年間ほど、人の温かみのありがたさを身に沁みたことはなかった。

ここに来て、この場に及んで、まだまだ感謝、そして感謝、もっともっと感謝の日々だ。有難うございました。今後ともお付き合いをお願いします。我々は、本分を全うすることを誓います。

2010年9月24日金曜日

この検事なら、小沢を無罪にできる

前代未聞、特捜主任検事が逮捕された

郵便割引制度を悪用した偽の証明書発行事件で、押収品のフロッピーディスク(FD)のデーターを改ざんしたとして、最高検は21日夜、この事件の主任を務めた大阪地検特捜部検事の前田恒彦(43)容疑者を証拠隠滅の疑いで逮捕したと発表した。また、大阪府枚方市内の前田検事の自宅を捜索した。(20100921 朝日夕刊より)

前田検事「以下、前田検事のことを『この検事』とした」は、7ヶ月も前にFDの書き換えた経緯を特捜幹部に報告していたという。最高検は、この検事のかっての上司で、この事件の捜査を指揮した大阪地検特捜部の前部長と前副部長を聴取した。

この報道を知って、このような検事が他の事件ではどのように捜査しているのだろうか、頭を廻(めぐ)らしてみた。家人に、この検事なら小沢一郎を無罪にすることだって可能だよと話した。そして新聞を読み続けていくと、この凡くらな私の想像が、図星だったのだ。この逮捕された検事が、陸山会の政治資金規正法違反事件で元秘書を取調べをしていたのだ。

小沢一郎の資金管理団体(陸山会)の大久保隆規・会計責任者兼公設第一秘書が政治資金規正法違反で逮捕された。元秘書の石川議員、元私設秘書の池田光智の二人も逮捕されたが、この資金管理団体の責任者である小沢一郎は、この事件に関ったのではないかとの疑いがもたれ、再三再四の東京地検特捜部の任意出頭に応じてきたが、立件されずに今にいたる。小沢一郎はこの取調べに対して、「不公正な国家権力、国家権力行使」と非難した。また国策による捜査とも言って抵抗している。検察審査会は、この事件が10月じゅうに強制起訴されるかの判断が下される。

検事は自分の描いたシナリオに沿って、それに都合のいい物証を集め、都合のいい証人や参考人を呼びつけて、取調べ調書を作成する。被告人に対して供述を誘導する。公判においては、検事が作成した被告の供述調書がものを言う。鬼に金棒か、金科玉条か。

今回の郵便割引制度を悪用した偽の証明書発行事件では、公判の中で検察の雑な強制捜査と無謀と思える取調べが明らかにされた。でも、明らかにされたことで幸運だったと喜んでいる場合ではない。怖い検察庁の仕業だ。

この段の文章は、20100911の朝日新聞の記事をそのまま転載させていただいた。検察の取調べに元局長の関与を認めた当時の上司や部下らは、自らの調書について「検事の作文」「検察から言われて認めた」などと説明。上村元係長は「検事に『自分の判断でやった』と言っても調書に書いてくれなかった」と涙を流して訴えた。検察幹部らによって、さらに衝撃的だったのは、取調べだけではなく、必要な裏付け捜査ができていなかったことが公判で明らかになったことだ。「凛の会」元会長が、証明書発行の「口添え」を厚労省側へ頼んだとされていた石井一・参院議員が、元会長と議員会館で面会したとされる当日、ゴルフ場にいたことが明らかにされた。この事件の決裁にかかわった在京の幹部の一人は「無から有を生んだのではない。なぜ、あんなあに捜査段階の調書と、公判での証言が違ってしまったのか、不思議で仕方がない」と強気の姿勢を崩さなかった。だが、捜査にかかわった現職幹部は「本来やるべき捜査をしなかった点は認めざるを得ない」と話した。

小沢一郎の元秘書、大久保隆規の取調べは、今回逮捕された検事が行なったが、小沢氏本人を誰が取調べたのか、その報道はないが、検察庁が立件するか?しないかは、取調べを行なった検事らのシナリオの匙(さじ)加減一つだとしたら、こんな恐ろしいことはない。社会の空気を意識して、三人の秘書は立件して、小沢氏には影響を少し及ぼす程度にして、シャンシャンと終わらせようと思えば、終わらせることができる、なんてーーーー。

今回の事件は、被告人の家宅捜査で得た証拠品にこの検事が改竄(かいざん)したのだ。今後の公判において捜査段階の供述調書の補強になると考えたのだろう、と新聞記事にあった。こんなことが実際に行なわれたのです。検察が信頼できないような事態になって、どうすれやいいんだ。嘆(なげ)かわしいノウ。

こんなことがあった後だから、今後、捜査の可視化を促す動きが増すだろう。

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郵便不正事件(20100921の朝日朝刊より)

障害者団体向けの郵便割引制度を悪用し、実体のない団体名義で企業広告が格安で大量発送された事件。大阪地検特捜部は昨年2月以降、郵便法違反容疑などで広告会社元取締役らを逮捕した。捜査の過程で、自称障害者団体を同制度の適用団体と認める偽の証明書が厚生労働省から発行されたことが発覚。特捜部は発行に関与したとして、同省元局長の村木厚子氏らを逮捕・再逮捕した。

村木氏の公判では、同氏の関与を捜査段階で認めたとされる元部下らの供述調書が大阪地裁に「検事が誘導して作成した」と判断され、村木氏は今月10日の判決で無罪を言い渡された。

2010年9月23日木曜日

「落雁」(らくがん)を初めて知る

弊社と取引のある生命保険会社の担当者、伊さんが、所要で軽井沢に行って来たのだと、お土産を持って来社した。そのような手土産はできるだけ早く開封しなくちゃと思う私は、その包みを我武者羅に急いで破いた。高級な菓子では、と直感したのでした。これあ、貧乏育ちの浅知恵かも。

その様子を見ていた経理係の古さんは、冷静にラクガンらしいですよ、と言う。古さんの声は耳に入ってくるのですが、それが何を、どのようなものを意味するのか、私には解らなかった。

お菓子の一つの包みが一辺2センチの真っ角で、上品な和紙に包まれ、それらがきちんと小さな容器に納まっていた。何重にも包装されていた。

ラクガンは、落雁(らくがん)という漢字を用いるらしい。

(堅田の落雁 歌川広重)

Wikipediaより=落雁は、米などから作った澱粉質の粉に水飴や砂糖を混ぜて型に押して乾燥させた千菓子である。(千菓子=水分の少ない乾燥した和菓子の総称)。 型に押す際に、飴や小豆、栗などを入れて一緒に押し固めるものもある。また米ではなくて、大麦を加熱して粉にしたものや、大豆や栗の粉で作ったものがある。滋賀県大津市の琵琶湖の西岸。湖畔には浮御堂と出島灯台があり、浮御堂の「堅田の落雁」は近江八景の一つとされていて、この堅田の落雁がお菓子の落雁の名の由来だと記されていたが、私にはいまいち理解できていない。お菓子の落雁と堅田の落雁、漢字が同じだけってことでもない筈だがーーーー。湖水に浮かぶ雁の姿が、----何かお菓子の奥ゆかしさとも関係しているんですか?無粋な私に、言葉を噛み砕いて教えてくださいな。

包みを開けてみて、すぐ口にして、成る程これは馴染みのあるお菓子だワイと思った。仏事や神式による儀式の後、いつも土産にもらうお供物だ。茶の湯では薄茶点前に出される定番のお菓子だ。

それにしても、落雁=ラクガンとは、恐れ入谷の鬼子母神。

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(これは頂いた菓子の包装紙です。珍しい柄だったので、記念にここに保存しました)

2010年9月21日火曜日

寺山修司は時代を、どう見ていたのだろうか

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20100918 朝日新聞の日曜の特別版 be on sunday に寺山修司とカルメン・マキのことが取り上げられていた。その記事に関連して、東京都大田区で育ったカルメン・マキは、工業地帯(上の写真)の夜景を見るたび、別の世界にいるような不思議な感覚にとらわれたという。そのイメージを盛り上げるかのように、工場群の夜景が記事の上段に貼り付けられていた。

米国人の父と日本人の母の間に生まれたマキ・アネット・ラブレスが「奇優怪優巨人美少女鬼才天才英雄家出少年 きたれ」の演劇実験室「天井桟敷」の劇団研究生募集に応じてやってきた。後の歌手カルメン・マキであった。

高校中退をしてやってきたマキの面接に同席したかっての青春スター、寺山修司の妻九条映子は、「強烈な存在感でした。この子には負ける。女優をやめてよかったーーー。正直、そう思いました」。

同時期に天井桟敷が資金集めのために開いていた会員制のサロンで、会員が作った詩を一部書き換えて、題名を「時には母のない子のように」にして、レコード化を寺山は考えていた。

以下、この節は20100918の朝日新聞の記事の一部をそのまま転載させてもらった。-------歌には寺山の母(91年没)に対する個人的な思いがあった。父を敵地で亡くし、青森大空襲で焼けだされた寺山母子は戦後、青森県三沢市で食堂を営む父の兄の家に移る。派手好きな母は食堂の賄いを嫌い米軍将校のハウスメイドになる。真っ赤な口紅、厚化粧、ハイヒールで米軍基地に消えていく母を小学生の寺山は列車の引込み線から見送った。せっかんと親子喧嘩が続く。中学2年の時、母はこの将校を追って九州へ行ってしまう。母と子が一緒に生活するのはそれから8年後のことだった。

寺山が最も愛した母から、離れたい、でも離れられない。その愛情をこの歌に置き換えた。そして、その歌を「不機嫌な歌手」カルメン・マキが歌った。卓越したプロジューサー役を果たした寺山。

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〔時には母のない子のように〕

時には母のない子のように、 だまって海を見つめていたい。 時には母のない子のように、 ひとりで旅に出てみたい。 だけど心はすぐかわる。 母のない子になったなら、 だれにも愛を話せない。

時には母のない子のように、 長い手紙を書いてみたい。 時には母のない子のように、 大きな声で叫んでみたい。 だけど心はすぐかわる。 母のない子になったなら、 だれにも愛を話せない。

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そして今度は、私の娘の友人のことだ。私の三女が中学生だった頃からの友人で、学校では先生や級友とのコミュニケーションに慣れずに苦しんでいた生徒がいた。その子と我が娘は何故か気心が合って、中学生から高校生、アルバイト時代、結婚、出産してからも仲が良い。我が家にもよく遊びに来ていた。今でもその交流は続いている。

その娘さんを銀ちゃんということにして、話を進めたい。5年前、銀ちゃんが引越ししたがっているんだけど、お父さん、何処かいい所ないか、と聞かれた。父は不動産屋だ。何でよ、と聞き返すと娘は、銀ちゃんは工場群を見るのが好きで、仕事は何をやってもつまらないのはしょうがないとして、せめて行き帰りの電車内から、工場を見たいんだって。できたら、住まいから見えるのが、最高なんだけど。そんなことを聞かされてから、この銀ちゃんに興味を惹かれるようになったのです。

社会人になるまでの銀ちゃんは、自宅に引っ籠もりがちだった。登校拒否ではなく、学校へは行くものの、教室を抜け出してはつまらなそうに、一人っきりで、校庭の隅っこに座ったり、佇んだりしていた。高校を卒業して、仕事の関係で知り合った随分年上の人と結婚した。子どもに恵まれた。夫が仕事に出かけた昼間は、子どもと二人っきりの生活を楽しんでいる。子どもがお相手になってくれている。

その彼女は、未だに工場を見に行くという。工場を見ていると、何故だか心が落ち着くらしいのだ。

寺山が亡くなったのが1983年、もう27年以上前のことになる。あの時の寺山とマキは、それぞれ何を考え、何を思い、何を見つめ、時代をどのように感じていたのだろうか。今、マキは京浜工業地帯の工場群を見て、不思議な感覚にとらわれるのです、と言う。自分の置かれている環境と、工場群との余りにも異なる環境。私の友人の小田原の隣町に住んでいる秋ちゃんは、恋人にでも相談したのだろうか、若い人は近未来都市を感じるんじゃないのと聞き出してきた。

昼間の工場は見た目には静かだ。無機質だ。目に入る工場は、隙間なく、無駄なく、幾何学模様のパイプ、煙突、ボイラーのようなものが、機能的に連係されていて、その内部は、油や水や蒸気、化学薬品や電気やガス、そんなものが決められた公式で蠢(うごめ)いている。昼間は無機質に見えても、夜には有機質に変身、恰も生きているように活動の激しさを極めつける。心臓の鼓動が打つ、脈拍が踊る。血がどくどくと流れる。神経がそそり立つ。

私にはこの動きこそ胎動なのでは、と思うのです。カルメン・マキはこの世とはかけ離れた異空間を、異境を、近未来都市にでも思えたのだろう。さて、寺山の目にはこの工場群をどのように映ったのだろうか。

銀ちゃんは、この得体の知れない胎動ブツに、自分の子どもと同じような、何か不思議な親近感を感じたのではないだろうか、と私は思っている。

2010年9月18日土曜日

菅代表再選、改造内閣スタート

菅直人首相は17日夕、改造内閣を発足させた。代表選で支持を受けた議員グループから閣僚を起用して論功行賞色をにじませた。世論を意識してのことだろう、小沢一郎元代表の議員グループからは登用せず「脱小沢路線」を鮮明にした。党内からは不満も漏れており、今後の政権運営に不安を残した。民主党役員人事では、幹事長に前外務相岡田克也。彼は、外務大臣の仕事で実績をあげたい、と外相にこだわったのだが、藤井裕久元財務相などの説得を受け入れた。岡田氏は幹事長を受けるには、幹事長代理には反小沢派の枝野幸男前幹事長をどうしても指名したいと主張し、首相はその要求を呑んだ。官房長官には、反小沢バリバリの仙石由人氏が留任した。官邸主導の政治を狙っているのだろう。

再選された直後は、内閣と党の人事には挙党態勢で臨むと言っていたけれど、仕上がった人事は小沢グループを完全に排除した。

首相は、この組閣を「有言実行内閣」だとか、民主党全議員による「412人内閣」だとか自画自賛しているけれど、兎に角私を含めて多くの国民は、「これじゃ、何も変わらないよなあ」なんてことにならないように、頑張ってもらいたい。対抗馬だった小沢一郎元幹事長が、本当に政策面において噂ほどには豪腕を発揮できるとはどうしても思えないが、首相にも少しばかりは、気を引き締めて辣腕を揮ってもらいたいものだ。

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20100915

朝日・朝刊

社説

政権交代の初心にかえれ

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民意をおおむね反映した選択が示された。まっとうな結果といえる。

民主党代表選で、菅直人首相が再選を決めた。小沢一郎前幹事長は党員・サポータ票で水をあけられ、頼みの国会議員票も菅首相を下回った。

仮に小沢氏が勝ち首相になったら、民主党政権は衆参のねじれに加えて、民意との大きなずれに苦しむことになったに違いない。

就任わずか3ヶ月の現職の首相を、総選挙も経ずに党の事情だけで交代させることには、やはり大義はなかったというほかない。

民主主義深化に向け

歴史的な政権交代から、明日でちょうど1年。鳩山政権の挫折、参院選での手痛い敗北を経て、民主党政権は実質ここからが再スタートとなる。

「政権を交代させたのは間違いではなかった」と国民が実感できるよう、菅首相をはじめ全国会議員が、1年の反省を踏まえ、政権交代の初心にかえり、もう一度やり直すくらいの気構えで政権運営に臨まなければならない。

今回の代表選に向けられた海外の視線には、極めて厳しいものがあった。ここ数年の異様なまでの短命政権の連続には、日本の政党政治の機能不全、民主主義の未成熟を指摘されてもやむをえない面がある。

20年来の政治改革の営みがやっと実を結び、政権交代は実現したものの、民主党政権のやっていることは自民党政権とたいして違わないではないか。

そんな政治への幻滅や冷笑が国民の間に広がり、取り返しのつかないところまで深刻化しかねない。代表選前の日本を覆う空気だったといっていい。

菅氏の再選を、国民の政治離れに歯止めをかけ、民主主義のさらなる深化に向けた一歩としなければならない。菅氏の責任は重大である。

「二重権力」にさらば

敗れたといえ、小沢氏は国会議員の半数近い支持を集めた。「豪腕」とも評される小沢氏の実行力への期待もあろう。今後も一定の影響力を維持することになるかもしれない。

しかし、一般国民の意識に近いとみられる、党員・サポートの間では支持が広がらなかった。小沢氏には、この事実をかみしめてもらいたい。

その要因は、政治とカネの問題だけではない。

数の論理を追い求め、説明責任には後向きで、ばらまき的手法をいとわない選挙至上主義といった小沢氏の「古い政治文化」への拒否感が、根底にあるに違いない。

これからは「一兵卒として頑張る」と小沢氏は明言した。ここは、その言葉通りに身を処すべきだろう。検察審査会による2度目の判断を待つ身でもある。

今後の人事では、小沢氏が舞台裏から党や政権に大きな影響力を及ぼし、実権を振るう「二重権力」構造は、くれぐれも避けなければならない。

むろん菅氏が小沢氏を支持した議員を排除していいということではない。党を二分した熾烈な選挙戦のしこりを最小限に抑え、文字通りノーサイドで、党が一丸となれる体制を菅首相はつくらなければいけない。

「壊し屋」の異名をとる小沢氏には、選挙で負ければ、仲間を引き連れ、いずれ党を割るのではないかという見方がつきまとう。

小沢氏は自民党離党以来、一貫して政権交代可能な二大政党制の確立を掲げてきた。政権交代を実現させた今、党を分裂させ政界再編をしかけることが、その目標に沿うとは思えない。

小沢氏自身、選挙結果がどうあれ、党を割ることはしないと繰り返し言明してきた。もはや永田町的な「政局」に血道をあげる時代ではない。

政策を実行してこそ

今回の代表選には、徹底した政策論争を通じて、党内の異なる政策路線に黒白をつける意味合いがあった。

総選挙マニフェストは国民との約束だが、財源との兼ね合いで実現が難しければ、柔軟に修正し、国民には丁寧に説明して理解を求める。

消費増税を含む税制抜本改革の議論からも逃げるわけにはいかない。

そうした菅首相の主張は、極めて妥当な内容だろう。

代表選で軍配があがった以上、民主党は菅首相が掲げた方針と政策路線のもとに一致結束しなければならない。

菅首相に注文がある。

新成長戦略の策定など、日本経済と国民生活を立て直すメニューは、それなりに示されたが、問われるのは今後の実行いかんである。安心できる社会保障の将来像や、経済成長と財政再建を両立させる具体的な道筋についても、できるだけ早く示してほしい。

国民世論の菅首相に対する評価は、消極的な支持というべきものである。

国のトップリーダーが短期間で代わるのは好ましくないという思いや、「小沢首相」に対する拒否感が強く作用していることは否めない。それを積極的に支持に変え、政権の推進力とするには結果を出すしかない。

代表選で訴えた「オープンでクリーンな政治」「新しい政治文化」を早く目に見える形にすることも必須だ。

頻繁な首相交代による「政治の不在」はもう許されない。今度こそ、内外の政策課題に腰を据えて取り組む。民主党全体が、国民に対する重い責任を自覚しなければいけない。

2010年9月15日水曜日

宗教って一体なんだ?

20100918の朝日新聞の朝刊の記事をダイジェストした。宗教が、こんなに人を狂わせてどうするんだ。

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(パキスタン中部のムルタンで9日、コーラン焼却計画に対し、星条旗を燃やして抗議する人たち。=ロイター)

米同時多発テロから9年になる今月11日に合わせ、米国フロリダ州ゲーンズビルの小さなキリスト教会が、イスラム教の聖典『コーラン』を燃やすと宣言した。イスラム世界からは猛烈な反発が広がっている。オバマ米大統領や、国連の潘基文(バンギムン)事務総長、各国の首脳、著名人らは、この運動を批判、火消しに躍起になっている。

人びとの幸福、精神の安寧に、それ以上に重要な役を担う宗教が、何ゆえに、こんな馬鹿なことをしでかそうとするのか。人間の罪を償うために神からつかわされた救いの主であるキリストを信じるキリスト教が、そのキリスト教の教会の牧師が何んでまた、こんなことを主張しはじめたのだろう。宗教戦争じゃあるまいし。

私が親近感を持つ仏教は、チベットのラマ教は、ヒンズー教は?それじゃものみの塔は? 宗教、それも宗教家が人間を、人間の苦しから救うどころか、揉め事に火を点け油を注ごうとしているのだ。

人口12万人の街で日ごろ、教会の集会に参加するのは50人足らずの小さな教会だ。

この教会の牧師は、「イスラム教は、ウソの塊である」「イスラム教は悪魔の教えだ」と言ってはばからない。インターネットを通じてコーランを持ち寄るよう訴え、これまで約200冊以上が集まったという。

米国のあちこっちでイスラム教の施設に焼夷弾やレンガが投げ込まれたり、イスラム教徒が多いニューヨークのタクシー運転手が襲われた。

これらの事件のきっかけは、同時多発テロの現場の一つ、ニューヨークの「グラウンド・ゼロ」の近くに持ち上がったイスラム系施設の建設計画だ。完成時期の見通しはたっていないが、約100億円の資金でモスクのほか、講堂、プール、展覧会場を兼ね備えた13階建てのビルを建てる予定だ。

だから、頭にきてイスラム教の聖典「コーラン」を焼こうというのか。

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コーランとは

イスラム教の聖典。預言者ムハンマドが610年から亡くなる632年までの間に神から受けた啓示をまとめたもの。114章からなり、啓示の時代順ではなく、長い章から先に配置されている。天地創造や終末などの世界観、道徳や倫理などの規範から相続や刑罰など法的な規定まで含む。もともと、声に出して読まれるものを意味し、アラビアア語の韻律の美しさが人間業を超えるものとされる。このため、ほかの言語に訳したものは聖典と認められない。

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20100918

朝日

天声人語

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ハリウッド映画にテロリスト役で出た中東出身の俳優を、同僚記者がかって取材した。この俳優は撮影中、ある場面の削除を製作側に申し入れたことがあった。旅客機の乗っ取りに成功して朗々とコーランを読み上げるシーンだった。9・11のテロが起きる前の話である。

人権団体の助力もあって台本は変更され、完成した映画にそのシーンはない。「なぜ悪人とイスラム教をすぐに結びつけるのか」と、俳優は憤っていたそうだ。米社会のイスラム教への偏見はかねて根深い。テロの後、憎悪ともいえる感情となって渦巻いたのはご承知の通りである。

それでも聖典のコーランを集めて燃やす話は、聞いたことがない。フロリダ州のキリスト教会が、テロから9年になる11日に計画し、波紋が世界を駆けている。イスラム世界には激しい抗議が広がり出した。

信者は50家族ほどの小教会だが、世界に向けて「コーランを燃やせ」と呼びかけてもいる。「書物が焼かれる所では、ついには人間も焼き払われる」。ドイツの詩人ハイネの言葉を引くなどして欧州からも非難が上がっている、

テロの」のあと、米国でイスラム系住民は不穏な空気にさらされた。ニューヨーク大の教授は、「社会が自由や寛容を失ったら、それこそテロリストを勝利させることになる」と案じていた。憎悪が憎悪をあおる愚挙は、まさに思うつぼだろう。

『悪魔の辞典』のピアスによれば、宗教とは希望と恐怖を両親とする娘だっそうだ。不寛容という乳母の手で醜く育った娘は、いずれであれ世界を不幸にする。

2010年9月12日日曜日

一皮むけそうだ、ザッケローニジャパン

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(グアテマラ戦、前半12分、ヘデイングで先制点を決める森本)

(朝日朝刊・20100908・スポーツより写真拝借)

サッカー日本代表が、南アフリカW杯大会を経て、ここにきて、やっと、一皮むけそうな気配が感じられた。先日のキリンチャレンジカップで、4日にはパラグアイと7日にはグアテマラと戦った。親善試合と言えどもともに勝ったことは有意義なことだ。若い選手が溌剌としたプレーを見せてくれた。

南アW杯大会に現地入りしてからも、岡田監督が悩み抜いたのは、攻撃力をこの場に臨んでどう生かせばいいのか、その策はいかなるものか、全てはそのことばっかりではなかったかと想像できる。

その時に、思いついたのが本田のトップでの起用と阿部のボランチ起用だった。本田は慣れないポジションではあったが、ボールをキープできた。タメができたお陰で、その間に、他の選手が何らかの動きができたのだ。遠藤、長谷部、阿部、松井がボトムアップ。これを「日本の形」と新聞では言っていたが、誰がどこのポジションにと言うことではなく、ゴールが奪える形のイメージを、誰もが頭に刻み込んだようだ。朝日新聞の潮智史編集委員はこの「日本の形」を支えていたのは、速い攻守の切り替え、ハードワーク、積極性、球際の激しさだとまとめていた。その通りだと思う。

そして、今回のキリンチャレンジカップでの2戦においては、原博実技術委員長が監督代行の形で采配を揮った。次期日本代表監督に決まったザッケローニ氏が就労ビザの遅れで指揮がとれないなか、委員長は多くの選手を試した。次期監督にも、色んな選手を見てもらいたかったのだろう。若い選手が育っていて、若い彼らの技術とイマジネーションを加えて、「日本の形」の進化を究めていくことだろう。

数的優位。

勝つためには、敵を欺く奇抜なアイデアや、ファンタスティックな技術はそりゃ、あればそれに越したことはないのは当たり前だが、それよりも先ずは、数的優位を作り出すことから、始めるのが、定石だ。この定石が、今まではできていなかったのだ。

そのためには、ボールを保持している選手は敵をかわして抜く、ボールを保持してない選手はマークを外すことだ。風変わりなフェントで抜く松井に内田、スピードの変化と突出力では香川、長い距離をタフに持ち込める長友、駒野、テクニックも備えた彼らが数的優位を作り出した。中盤でカットできる阿部や細貝が、相手が守備を固める前に攻撃をしかける。これは数的優位の考えから言えば、滅茶苦茶大いなるチャンスが生まれる。

数的優位のなかで、他の選手が前、横、斜めに動き、相手守備をかく乱する、それと同時にフリーのスペースを確保するための動きを、重層的にする。狭いエリアでの素早い、一次攻撃、二次攻撃、三次攻撃を仕掛ける。このような動きに頭脳的に反応する中村憲と遠藤。冷静に勇敢な長谷部。一所懸命な岡崎。この攻撃陣を後ろで支えるために、全員が上がって層を厚く、こぼれてきたボールをキープする、ボトムアップ作戦だ。

タメが作れてキープ力がり、体力的にも外人相手に絶対負けない本田と森本。ゴール前でのボールのコースを読める森本。今回の試合のように、森本のワントップが、今では一番いい形だろう。

若者が育ちつつある。

中澤と闘莉王に代わる選手を私は待ち望んでいた。今回は、彼らに代わって槙野と岩政が元気の良さを見せ付けてくれた。岩政は以前から注目していたのですが、槙野のことは今回のプレーを初めて見たが、旬だ、若さなんだろう、楽しそうにプレーしていたのが印象的だった。中澤と闘莉王もそう簡単には、ポジションを手放さないだろう。私にとっては、安心だし楽しみだ。

育ちつつある多士済々なプレーヤーが、やっと「日本の形」、点が取れる形のイメージを共有し出した。タメと数的優位、これしかない。

ここまで、サッカーの日本代表は成長してきた、次に期待したいのはザッケローニ監督のヨーロッパ基準の指導力だ。

避暑に訪れた人びと

9月11日、東京演劇アンサンブル、「ブレヒトの芝居小屋」に芝居を見に行ってきた。「避暑に訪れた人びと」だ。

私にとっては、初めて聞く題名だ。劇団の事務局が前もってお知らせをくれるのだ。このお知らせは、7月の始めにもらった。それから今日までの間に、原作か戯曲が市販されているのなら、読んでおこうと思っていたのですが、忙しさにかまけてできなかった。

聞いたことのない題名のお芝居を観に行く気力が湧いたのは、劇団から郵送された芝居の紹介のパンフレットに、代表者である入江洋佑さんの文章が寄稿されていて、その文章に触発されたからなのです。入江さんの心情が吐露されていて、胸がキュンとなったのです。この人は、どこまでも理想を追い求めている。もう40年も前に、この入江洋祐さんを紹介してくれた恩人が、その時に話してくれた、そのままの考えで、その理念を貫いている。この小文は、この最後の方に、そっくりそのまま転載させていただいた。

予備の下調べをして行かなかったことを芝居が始まって5分で悔いた。

確かにチェーホフ的なドラマ仕掛けと進め方だな、と理解できたのですが、職業も性格も異なる幾組かの男女のカップルが互いに、別荘の中で入れ替わり立ち代り、生い立ちから、職業、労働、価値観、精神論を批判、詮索、中傷、説得、激励し合い、また恋愛を差し挟み、肉親、貧富、社会の制度なども重層的に会話で持って掘り下げる。時には、避暑に訪れた者全員での討論にもある。

この芝居の休憩時間15分を入れて3時間半のボリュウムは、十分観応えがあった。が、再び反省している、勉強をして来るべきだった。それでなくても、私は誰よりも、瞬間的に理解する能力が低いと言うか、理解するのに他人よりも少しばかり時間がかかるのです。

この芝居も、大団円はチェーホフ的に何かの示唆を残したままの、余韻の中で告げられていく。

内容の理解できてない部分は、早速、芝居小屋で頂いたプログラムを、読んでおこうと思っている。

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西 

20100911

19:00~22:20

東京演劇アンサンブル(ブレヒトの芝居小屋)公演

原作=マクシム・ゴーリキー

改作=ペーター・シュタイン

  ボートー・シュトラウス

翻訳、ドラマトゥルク=大塚直

演出=入江洋祐

助成=平成22年度芸術創造活動特別支援事業

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劇団が作成したパンフレットの文章を紹介する。

ゴーリキーの原作を、黄金期のベルリン・シャウビューネが改作。自分たち自身と小市民たちを重ね合わせながらチェーホフ劇として1974年に上演した。2010年、浮遊する観客を探し求めながら東京演劇アンサンブルが今の自分自身と向き合い、格闘する。チェーホフ生誕150年の今年、新たなチェーホフ劇が誕生する。

弁護士パーソフの別荘につどう人びと。人の悪口や恋愛ゲームで退屈を紛らしている。そこに人気作家のシャリーモフがやって来る。パーソフの妻ヴァルヴァーラは長年シャリーモフに憧れていたのだが、通俗的な彼に幻滅する。一方、開業医のマーリヤ・リヴォーヴナは未来へのヴィジョンを持つ女性だった。マーリヤの発言は男たちを不愉快にさせ、ヴァルヴァーラとヴラース、引退した実業家ドッペルプンクトの心を動かしていく。

13人の男女の織りなす小市民の日常。ザムイスロフとの冷めた恋愛で夫スースロフから逃避するユーリア、医師のドゥダコーフとの生活に愚痴ばかりのオーリガ、ヴァルヴァーラとの恋に疲れ、現実からも逃避するリューミン、人をとらえる感覚は鋭いが社会には無知な芸術家のカレーリヤなど多彩な登場人物が絡み合い、交錯する。別荘で働く人びとの視線に晒されながら、女達は目覚め、男たちは日常の惰眠に戻るーーーー。

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通底するもの

代表者=入江洋祐

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『避暑に訪れた人びと』はステキな戯曲だ。ブレヒトの『アンティゴネ』の稽古の時に、「こんな戯曲があります」と今回のドラマトゥルクの大塚直さんに紹介され、企画室でも、総会でも全員一致で上演を決定した。この戯曲にはアンサンブルの創立からの想い、そして現代演劇の果てでもあるチェーホフの精神が息づいているからだ。

チラシに「チェーホフ生誕150年」とあるのを何故と思われた方もいるだろう。ゴーリキ原作(ロシア)、改作ペーター・シュタインとボートー・シュトラウス(ドイツ)であって、チェーホフは全く関係がない。でも戯曲を読み、また舞台を観てくださればどなたも、「ああ、チェーホフだ」と感じられることだろう。ぼくはさきほどチェーホフは現代演劇の果てだと書いたが、プロット、物語を廃して人間だけを描く、その群像は、理想であり現実でありまた批評でも讃歌でもあるという重層性、そしてあたたかく、冷静でもあるチェーホフのまなざし。文学を愛し、芝居を志すものの原点はチェーホフにあるといっても間違いはないだろう。

ゴーリキーもそうだった。チェーホフを読んで「抽象にまで高められた日常性」と感嘆し、ヤルタのチェーホフの別荘を訪れ、チェーホフに教えを乞うたというのは有名な話だ。そしてこの『別荘の人びと』が『どん底』が生まれる。ゴーリキーはチェーホフから学んだ人間を描くことともうひとつ、未来社会をもう少し具体的に想定してみた。その社会主義社会はどうなったのか。

ベルリン・シャウビューネの『避暑に訪れた人びと』は憧れのチェーホフを、ゴーリキーを通過して、組織を拒否し、個人でしかありえない現代、頽落してしまったいまを見つめている。

《世界は劇場》といったのはシェイクスピアだが、演劇は常に世界と対峙しなければならないとぼくたちは考えてきた。そんなアンサンブルとシャウビューネとはやけに似ているところがある。劇団創立の両者ともチェーホフの芝居を演りたいということだ。だが、なにかチェーホフは近寄りがたく、不遜な気がして上演するのにそれぞれ20年以上もかかっている。そして、左翼系の劇団として当時60年代にゴーリキー作ブレヒトの『母』を上演している。小さな劇場をもち、経済的にひどく貧しい。そう、二つの劇団には脈々と通底するなにかがある。チェ-ホフーゴーリキーーブレヒトー小集団ー。現代演劇の最良の部分を追っている筈だ。

でも、いま演劇は、ぼくたちは何処にいるのか、何処に行こうとしているのか。『避暑に訪れた人びと』の劇中で、作家のシャリーモフがこう語る。「この連中はぼくの作品を読みはしないだろう。彼らは興味ないだろう。彼らはぼくを必要としていないのさ」。また別のひとりは「芝居をやるお偉方は、みんなまともじゃあねえ格好をして、おかしな声でしゃべってやがるさ。他にやることがねえからじゃないかな? あいつら満ち足りてんだよ」。

この言葉は辛くぼくたちにあたる。この大量情報社会の操作の中で、ぼくたちは何を行為(やる)んだーーーーどうして。

少数にて 常に少数にてありしかば

ひとつ心を 保ち来にけり (土屋文明)

このことばを噛みしめるいまだ。

(20100713)

2010年9月9日木曜日

小さくて大きな、幸せ見つけた

社員の誰もが、それぞれに小さくて大きな幸せを大事に、大事にしていることを知って、私もまた幸せな気分になりました。

そんなことを感じる機会がひょんなことで、生まれたのでした。

朝陽?生命が、弊社に関係する損保、生保を一手に引き受けてくれている。半年前、たまたま、私の会社のかっての社員だった人が、今度朝陽?生命に入社することになったので、何か仕事があったらご用命ください、と連絡をもらった。火災保険なら仕事の関係でいくらかは発生するので、頼むわ、ということになって、付き合いが復活した。

そんな付き合いの中で、元同僚から、何か写真を用意してもらえば、その写真を利用したオリジナルのカレンダーを会社で作らせて頂きますので、こぞって、写真を持ってきて欲しい、と言われた。

早速、社員の皆にそのことを話した。

中社長はイの一番に、父親である自分の腕や腰に三人の子どもが縋(すが)り付いて、ふざけ合っている写真を持ってきた。写真から、あっあとか、う、う、うとか、わあ~とかそんな子どもたちの声が聞こえてきそうだ。この日、中社長は休日で、この日を待ちくたびれた子どもたちが、今日はお父さんを絶対放さないぞ、一日ガッチリ遊んでもらうからね、そんな子どもたちの声も聞こえてきそうだ。仕事では、八面六臂の活躍。自宅でも、仕事の勢い、そのままで頑張っているんだろう。シャッターを切ったのは、きっと奥さんだろう。私には、奥さんの笑顔が頭に浮かぶ、子どもと同じようにはしゃぐ楽しそうな声も聞こえる。

私は、私と生まれて6ヶ月の孫とのツーショットの写真を用意した。私にとっては、3番目の孫だ。昨年結婚した長男夫婦の初めての子どもだ。女の子です。愛称は「そらまめ」です。写真の隅っこには、長男の体の一部が写っていた。この部分を削り取ろうとしたが、写真のできばえよりも、そこに長男が居たということにもなるので、何も削ることはないだろう、と結論した。この「そらまめ」の顔の貌(なり)は、どこか長男の奥さんにも、長男にも似ているが、肌の白さは母譲りだ。父親の肌は浅黒い。腹はけっして黒くない。写っている私の顔は、酒が回りだして赤鬼のようだ。孫は、不思議なものを見るような顔でカメラを睨(にら)みつけている。孫を抱く赤鬼の腕、指先には力がみなぎっている。8月の初旬から9月の中まで、孫と嫁は五島列島の宇久島に里帰り中だ。早く帰ってきて欲しいと思っている。私は先天的に欲張りなのだろうか、独り占めしたいわけではないけれど、近くに居て欲しいと思うのだ。

建築担当の桜は、広い草原での愛犬とのツーショットだ。草原をバックに、二人?仲良く揃ってカメラに向かって座っている。鎮座。カメラマンはきっと奥さんのKさんだ。Kさんからは、以前に会社が豊かになるようにと、招き猫をもらった。神棚に祀(まつ)ってある。その節は有難うございました。草原は広くなだらかに傾斜しているので、スキー場のゲレンデのように見える。この夫婦は何とも穏やかなカップルで、イヌの表情もどこか、この夫婦独特の穏やかさに似ている。イヌは飼い主に似るとよく言われるが、全くその通りだ。犬種はミニチュアシュナイダー。朝晩の散歩の様子などは、私には容易に想像がつく。仕事を終えて帰宅、自宅の玄関のチャイムを押すと、どのようにこのイヌが主を迎えるのか、これも用意に想像がつく。主の作った家で、どんな顔して惰眠を貪っているのか、その様子も私には想像がつく。

海さんは、初孫の写真だ。海さんに似ていて、目に力がある。将来、眼力のある人間に育つことだろう。顔全体にも、シッカリモンというイメージがする。海家の優先遺伝子のせいだろう。ちょっと濃い目?は、海家のジジイ系だろうか。シッカリモンで地道に、堅くコツコツと慎重に仕事をする人になるのだろう。海さんに初孫が生まれたときの、幸せそうな顔は今でも私は忘れない。山さん、男の子は元気ですね、片時もじっとしてないのです。海さんは女の子を育てたのだが、男の子の様子によっぽど驚いたのだろう。子ども思い、孫思いの海さん。失敬、妻思いの夫でもあることは言うまでもない。携帯電話の待ち受け画面は、当然、この写真だ。

古さんは初孫、一本勝負だ。元同僚にこれらの資料を渡すための整理を自宅でしていたら、私の三女が横から覗き見しながら、この子可愛いね、と口走るではないか。当たり前やろ、これはあの古さんの孫やから、と言うと、三女は頭を傾(かし)げていた。古さんの孫が可愛くて、なんか文句あるか、と言いたくなったけれど、口を噤(つぐ)んだ。コツコツ仕事に励む古さんは、余りプライベイトなことを言うことは少ない。こんなに可愛い孫がいることに不思議な気もした。写真を持ってきてよ、と最初に言った時、一番気乗りのしないような表情をしたけれど、どうしてどうして、私が写真を集めだすのを待っていてくれたのだ。孫を抱きかかえた古さんの顔が見たくなったのは、私一人だけではなくて、会社のスタッフの全員の思いだ。古さんのその世界を、今度酒を飲んだときに聞き出さなければイカンなあ。

細は、二人の娘さんが写っている写真だ。この5月に生まれた妹が、もたれかかるように座れる椅子に身を沈めて、その後ろから姉が見守っている。お姉ちゃんはぽっちゃりしていて、表情が可愛い。美人だ。眼差しが優しい。私の長女にも、今春次女が生まれた。上の女の子は、何かと下の子の面倒を見たがる。この細家でも、きっとこのお姉ちゃんは何かと妹の面倒を見ていることだろう。奥さんがハラハラし通しだ。お姉ちゃんはおしゃまだ。細の実家は富山県で奥さんの実家は九州だ。次女誕生の際には、富山のお母さん、それから九州のお母さんの協力を仰いでいた。奥さんにはまだ会ったことがないので、軽率なことは厳に慎まなくてはならないのは、当ったり前だが、きっと奥さんは美形だろうなあと思う。間違いなしだ。細と奥さんの実家、両家の関係は実に上手くいっていることは、細の人間性から、十分首肯できる。きっとお利口な夫婦なのだろう。

和の一人息子は、今は中学生の一年生だけれども、小学生の時にミニバスケットボールを始め、中学生になって、今度は本格的なバスケにはまってしまった。13歳だ。写真はバスケのプレー中のものだ。ミニバスケをやる前には、母親に会社に連れられてよくきた。漫画とゲームばかりやっていたアイツが、今はすっかりバスケットボールプレーヤーになってしまった。スポーツをこよなく愛する私にとっても、嬉しい限りだ。私もスポーツを通して身につけたモノで、何とか世の中を切り抜けてきた。スポーツから得たモノは偉大だ。充分、母の期待に応えて頑張っている。

ここで飛び入りです。私の次女もその企画に乗ったと言っては、写真を持ってきた。次女の子どもが通っている幼稚園で、希望する園児と父兄、サポート隊の皆さんとでこの夏休みに富士山に登ったのです。ジジイである、私も参加させてもらったのです。我がチームは孫にその父親と母親、そしてジジイの私。年長さんなので、6歳だ。よく頑張って登ったものだ。寧ろ、母親の方が大変だったのだろうが、子どもの前では、気丈夫な母を立派に演じて見せなければナラン。写真は、8合目の宿泊した山小屋の前で、ご来光を仰いだ直後の園友のショウマとキヨと我が孫、その母親たちです。

こんな作業をしていて、ある一人に声をかけることをうっかり見落としていたことに気づいた。その人の名は、弊社の宴会の名幹事、長さんだった。長さんは、気恥ずかしそうに、私は愛が欲しい、と言った。成る程、この頃の長さんは、仕事の方では乗りまくっているのに、私生活の方では少し実りが少ないようだ。今後の幸運を願っている。

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これらの写真を使って出来上がったカレンダーは、後日紹介したいと思います。

乞うご期待。11月ごろなんでしょうね。

2010年9月5日日曜日

「私もあなたの数多くの作品のひとつです」、とタモリ

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「密室芸」で売り出した

漫画家、天才バカボンの生みの親、赤塚不二夫の葬儀でのタモリの弔辞が、かって文芸春秋に全文掲載された。余り買わない雑誌だけれども、この弔辞をじっくり読んでみたくて買ったのでした。

弔辞を読んでいるタモリの姿がテレビで映し出されていたが、どこにも白紙の弔辞を読んでいるように思える箇所はなかった。原稿になかった言葉を、途中の何処かのアドリブで、文章にない文章を読み上げたのでしょうか。このことについて、真相を詳しく報道されていない。彼の能力からして、その程度のアドリブぐらいならお茶の子サイサイだったことだろう。

■赤塚不二夫■朝日ソノラマ■おそ松くん■ソノシート付き■現状

タモリが朗々と述べた弔辞を文芸春秋で読み、二人の馴れ初めから、本格的な付き合いへ、タモリが有名になって、赤塚不二夫が漫画家として、それから闘病、死に至るまで、その文章は私には一つのドラマを聞いているようで、二人の仄々(ほのぼの)としたお付き合いに、なんとも心地良い気分にさせられたのでした。

それから日が経って、先月の中頃、私の女房が入院中に、その病床の枕元にあった週刊誌で、下の記事を見つけた。週刊文春の2010の8月12日号だった。週文のかっての連載「ギャグゲリラ」の担当者が語ったものらしい。余りにも私の心をガク~ンと打つイイ話だったので、ここに保存させていただいた。ここに至って、あの弔辞の不思議な心地よさの源流の一部を見せてもらったような気がしました。なるほど、と二人を納得したのです。

以下はこの週刊文春の記事をそのまま転載させてもらった。週文の編集者殿、私は善良な読者です。許せ。

昭和五十年、山下洋輔らに見いだされて博多からタモリが上京。タモリの才能に惚れこんだ赤塚は自らテレビに売り込んだ。意気投合した二人は、連日酒席でギャグにのめり込む。「赤塚先生は、毎晩、編集者たちを引きつれ、飲み歩いては、新宿の『アイララ』というバーでタモリと合流する。キャバレーの噴水から、裸のタモリがイグアナの真似で出てきたり、新しい遊びを考えるのが日課でした」。

そんなある晩、赤塚がタモリに絡み始めた。「お前、売れ出したと思っていい気になるなよ」タモリも色をなし、「そんな言い方ないだろ、売れない漫画家に言われたくないよ」とやり返す。周りが必死に止めるが、手にした水割りをぶっかけ、ついには取っ組み合いに。

タモリを羽交い絞めにして鼻の穴に落花生を詰め込む赤塚。すると今度は、タモリがグリーンアスパラにマヨネーズをつけて赤塚の鼻に突っ込むーーー。

「ようやく我々も『あれ?おかしいな』と気づく。要は、二人で綿密に仕組んだギャグだったわけです。先生の持論は『バカなことは本気でやらないとダメ』。遊びの時に気を抜くと、『ふざけるな!真面目にやれよ』と叱られる。(笑)」。

上京して間もないタモリに、赤塚は自分が住んでいた目白の高級マンションを明け渡し、自分は木造二階建ての仕事場で寝泊りした。理由を聞くと、「タモリは今まで会ったことのない、もの凄い才能だ。ああいう都会的で洒落たギャグをやる奴は、贅沢させないと。貧しい下積みなんかさせちゃダメだ」

タモリは絶大な恩を感じただろう。それから十年後。仕事場を訪ねた担当者に、赤塚は一通の通帳を見せた。「『タモリがさあ、自分の会社の顧問になってくれって言うんだよ』。そこには毎月三十万円ほどの決まった額が振り込まれていました。当時、先生は連載がひとつもなくなって、不遇の時期だったのです。またタモリは『先生、あのベンツ乗らないでしょ。一千万円で譲ってよ』『キャンピングカー、五百万で譲って』と言っては、代金を払ったといいます。先生のプライドを傷つけない気遣いなんです」

むろん赤塚もその思いを察していた。「『タモリの会社なんてホントはあるのかどうかもわからないしさ、ああやって俺のこと助けてくれてるんだろうな』と言っていました。いい話だなと思って、通帳をよく見ると、一銭も使っていない。『そりゃそうだよ。芸人なんて二年で飽きられるだろう。そうなったらこの金で俺がタモリを喰わせてやるんだ』と。赤塚先生が一枚上手だった」。

そんな師弟の信頼関係があってこそ、冒頭の名弔辞が生まれたのかも知れない。「あの弔辞はアドリブでは、と言われますが、私は違うと思う。練りに練った文章ですよ。でも、それを普通に読んだら先生が許さない。赤塚・タモリの最後の”大真面目な遊び”だったのでしょうか」

2010年9月4日土曜日

女房が退院した

8月31日、お昼に横浜市民病院を退院した。入院して、丁度1ヶ月後の退院だ。

大腿骨と骨盤の連結部が擦り切れて、関節がスムーズに作用しなくなったので、手術によってその部分に当たるところを25センチ程切開、連結部分を人工股関節で置換するという治療を受けたのです。約3時間の手術だった。三女が付き添ってくれた。

3年前から腰に痛みを感じて、腰が伸びなくなって、最近では歩行が困難になってきたのでした。東戸塚の整形外科の診療所では、大きな病院で前の方で述べた人工股関節の置換手術をするしかないと言われていたのでした。そんなダイソレタ治療方法を聞かされた私は、その入口の話だけで腰を抜かしそうになった。この治療に才長(た)けた医師がいるという病院を見つけて、今年の暮れに手術をする予約までいれていたのです。が、彼女の腰が間間ならなくなって、急遽、横浜市民病院に駆けつけた。この病院で、診断してくれた若い医師は、この治療方法は整形外科では確立されているので、心配は要りません、安心してくださいと言われ、また運よく空きベッドもあって、即、入院することになったのでした。

手術後の2日間は、身動きできない状態を強制されたので大変だったようですが、それでも4日後から軽いリハビリに入った。当初、リハビリの訓練は痛みがあって苦しそうだったが、日を追うごとに彼女は元気になっていった。我が夫婦はともに体育会。彼女は、訓練が楽しいと言い出した。また、私、トレーニングと名のつくものは好きなんです、とも。私は、仕事の関係で、この訓練風景を見ることはできなかったのですが、さぞかし彼女は額に汗して、頑張っていたことでしょう。

1週間後、腰が真っ直ぐに伸ばせるようになりました、と杖を突きながらも上機嫌に歩いて見せてくれた。この年になって、3センチも背が伸びましたと言っていた。

方や、留守当番の私は、彼女の退院後の生活のための環境づくりに務めた。居間と彼女のベッドを置く予定の場所には段差があって、その段差をなくすための工事を知り合いの坂さんに頼んだ。気心の知れた坂さんと井さんが、大工さんと共に腕を揮い、汗を流してくれた。古い床を全部剥がして、新たなレベルで床を張り直したのです。元々、この部屋は和室なのですが、何となく床は洋室用のフローリングを考えていたのですが、坂さんがこんなものもあるよ、と見せてくれた床材の見本は、琉球畳を模したもので、塩ビで作られたようなものだったが、躊躇いなくそれに決めた。基礎も、土台などの木部もしっかりしていた。ただ、風呂の入口のサッシュの床部分から、水が浸透してその下部の土台が一部腐っていた。その部分も補修してくれた。布団を乾したり、洗濯物を干すためのベランダも発注した。

ベッドや、風呂の洗い場で使う椅子などの手配は、次女の仕事柄得意とする分野だ。お任せした。

女房が入院中の我々の生活の切り盛りを三女が一手に引き受けてくれた。食事の用意と片付け、洗濯、掃除、犬の世話、何かと不慣れな三女だけれど、試しながら、母のアドバイスで家事をこなしてくれた。若い料理人だけあって、私には食えそうもない大盛りが連日続いたことには、苦笑させられた。うどん、そうめん、スパゲッテイ、ステーキ、チャーハン、焼き魚、色々作ってくれたけれど、忘れてしまった。スマン、恩知らずを許せ。向かいの次女からの差し入れもあった。

三女に用事があった時は、代わりに長男もちょこちょこと手伝ってくれていた。

このように、留守組みの生活が、一見普通の生活が営まれているように見えても、家族の一人が、それも当家の大黒柱が、当然居るべき人が居ない状態では、やはり私の日常生活の瑣末なことに少なからず影響が出たのでした。

得意の「何とかオフの100円本」の読書量が極端に減った。通常のペースのように読書が進まない。新聞を長く読まなくなった。毎日の新聞を隅々まで読みきる習慣が崩れ、読み残すことが多くなった。読み足りないまま。会社の皆で飲んだ暑気払いの宴でも、いつものように酔えなかった。酒の量が減ったのだ。もっと、もっと飲みたいという気持ちが盛り上がってこないのです。ほろ酔い以上の酔いを求めなくなって、中途半端な気分で布団につくのでした。

女房の北海道にいる大学時代の友人以外、誰にも話さなかったのですが、どういう訳か大勢の友人や、近所の人、知人からお見舞いのお言葉をいただいた。私のブログだけには、女房の状態に触れた。会社の仲間には、時々病院に行くことがあったので、話しておいた。そんなことから、仕事の関係者の方からも、気に留めていただいた。

ご心配をおかけしましたが、彼女は非常のペースで回復に向かっています。お見舞いの数々に感謝しています。有難うございます。