2010年9月12日日曜日

避暑に訪れた人びと

9月11日、東京演劇アンサンブル、「ブレヒトの芝居小屋」に芝居を見に行ってきた。「避暑に訪れた人びと」だ。

私にとっては、初めて聞く題名だ。劇団の事務局が前もってお知らせをくれるのだ。このお知らせは、7月の始めにもらった。それから今日までの間に、原作か戯曲が市販されているのなら、読んでおこうと思っていたのですが、忙しさにかまけてできなかった。

聞いたことのない題名のお芝居を観に行く気力が湧いたのは、劇団から郵送された芝居の紹介のパンフレットに、代表者である入江洋佑さんの文章が寄稿されていて、その文章に触発されたからなのです。入江さんの心情が吐露されていて、胸がキュンとなったのです。この人は、どこまでも理想を追い求めている。もう40年も前に、この入江洋祐さんを紹介してくれた恩人が、その時に話してくれた、そのままの考えで、その理念を貫いている。この小文は、この最後の方に、そっくりそのまま転載させていただいた。

予備の下調べをして行かなかったことを芝居が始まって5分で悔いた。

確かにチェーホフ的なドラマ仕掛けと進め方だな、と理解できたのですが、職業も性格も異なる幾組かの男女のカップルが互いに、別荘の中で入れ替わり立ち代り、生い立ちから、職業、労働、価値観、精神論を批判、詮索、中傷、説得、激励し合い、また恋愛を差し挟み、肉親、貧富、社会の制度なども重層的に会話で持って掘り下げる。時には、避暑に訪れた者全員での討論にもある。

この芝居の休憩時間15分を入れて3時間半のボリュウムは、十分観応えがあった。が、再び反省している、勉強をして来るべきだった。それでなくても、私は誰よりも、瞬間的に理解する能力が低いと言うか、理解するのに他人よりも少しばかり時間がかかるのです。

この芝居も、大団円はチェーホフ的に何かの示唆を残したままの、余韻の中で告げられていく。

内容の理解できてない部分は、早速、芝居小屋で頂いたプログラムを、読んでおこうと思っている。

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西 

20100911

19:00~22:20

東京演劇アンサンブル(ブレヒトの芝居小屋)公演

原作=マクシム・ゴーリキー

改作=ペーター・シュタイン

  ボートー・シュトラウス

翻訳、ドラマトゥルク=大塚直

演出=入江洋祐

助成=平成22年度芸術創造活動特別支援事業

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劇団が作成したパンフレットの文章を紹介する。

ゴーリキーの原作を、黄金期のベルリン・シャウビューネが改作。自分たち自身と小市民たちを重ね合わせながらチェーホフ劇として1974年に上演した。2010年、浮遊する観客を探し求めながら東京演劇アンサンブルが今の自分自身と向き合い、格闘する。チェーホフ生誕150年の今年、新たなチェーホフ劇が誕生する。

弁護士パーソフの別荘につどう人びと。人の悪口や恋愛ゲームで退屈を紛らしている。そこに人気作家のシャリーモフがやって来る。パーソフの妻ヴァルヴァーラは長年シャリーモフに憧れていたのだが、通俗的な彼に幻滅する。一方、開業医のマーリヤ・リヴォーヴナは未来へのヴィジョンを持つ女性だった。マーリヤの発言は男たちを不愉快にさせ、ヴァルヴァーラとヴラース、引退した実業家ドッペルプンクトの心を動かしていく。

13人の男女の織りなす小市民の日常。ザムイスロフとの冷めた恋愛で夫スースロフから逃避するユーリア、医師のドゥダコーフとの生活に愚痴ばかりのオーリガ、ヴァルヴァーラとの恋に疲れ、現実からも逃避するリューミン、人をとらえる感覚は鋭いが社会には無知な芸術家のカレーリヤなど多彩な登場人物が絡み合い、交錯する。別荘で働く人びとの視線に晒されながら、女達は目覚め、男たちは日常の惰眠に戻るーーーー。

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通底するもの

代表者=入江洋祐

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『避暑に訪れた人びと』はステキな戯曲だ。ブレヒトの『アンティゴネ』の稽古の時に、「こんな戯曲があります」と今回のドラマトゥルクの大塚直さんに紹介され、企画室でも、総会でも全員一致で上演を決定した。この戯曲にはアンサンブルの創立からの想い、そして現代演劇の果てでもあるチェーホフの精神が息づいているからだ。

チラシに「チェーホフ生誕150年」とあるのを何故と思われた方もいるだろう。ゴーリキ原作(ロシア)、改作ペーター・シュタインとボートー・シュトラウス(ドイツ)であって、チェーホフは全く関係がない。でも戯曲を読み、また舞台を観てくださればどなたも、「ああ、チェーホフだ」と感じられることだろう。ぼくはさきほどチェーホフは現代演劇の果てだと書いたが、プロット、物語を廃して人間だけを描く、その群像は、理想であり現実でありまた批評でも讃歌でもあるという重層性、そしてあたたかく、冷静でもあるチェーホフのまなざし。文学を愛し、芝居を志すものの原点はチェーホフにあるといっても間違いはないだろう。

ゴーリキーもそうだった。チェーホフを読んで「抽象にまで高められた日常性」と感嘆し、ヤルタのチェーホフの別荘を訪れ、チェーホフに教えを乞うたというのは有名な話だ。そしてこの『別荘の人びと』が『どん底』が生まれる。ゴーリキーはチェーホフから学んだ人間を描くことともうひとつ、未来社会をもう少し具体的に想定してみた。その社会主義社会はどうなったのか。

ベルリン・シャウビューネの『避暑に訪れた人びと』は憧れのチェーホフを、ゴーリキーを通過して、組織を拒否し、個人でしかありえない現代、頽落してしまったいまを見つめている。

《世界は劇場》といったのはシェイクスピアだが、演劇は常に世界と対峙しなければならないとぼくたちは考えてきた。そんなアンサンブルとシャウビューネとはやけに似ているところがある。劇団創立の両者ともチェーホフの芝居を演りたいということだ。だが、なにかチェーホフは近寄りがたく、不遜な気がして上演するのにそれぞれ20年以上もかかっている。そして、左翼系の劇団として当時60年代にゴーリキー作ブレヒトの『母』を上演している。小さな劇場をもち、経済的にひどく貧しい。そう、二つの劇団には脈々と通底するなにかがある。チェ-ホフーゴーリキーーブレヒトー小集団ー。現代演劇の最良の部分を追っている筈だ。

でも、いま演劇は、ぼくたちは何処にいるのか、何処に行こうとしているのか。『避暑に訪れた人びと』の劇中で、作家のシャリーモフがこう語る。「この連中はぼくの作品を読みはしないだろう。彼らは興味ないだろう。彼らはぼくを必要としていないのさ」。また別のひとりは「芝居をやるお偉方は、みんなまともじゃあねえ格好をして、おかしな声でしゃべってやがるさ。他にやることがねえからじゃないかな? あいつら満ち足りてんだよ」。

この言葉は辛くぼくたちにあたる。この大量情報社会の操作の中で、ぼくたちは何を行為(やる)んだーーーーどうして。

少数にて 常に少数にてありしかば

ひとつ心を 保ち来にけり (土屋文明)

このことばを噛みしめるいまだ。

(20100713)

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