2007年9月10日月曜日
精進「相撲物理学」 一ノ矢
今から、7年と4ヶ月前。2000年5月20日の日本経済新聞夕刊に、「一ノ矢」の特集記事が載っていた。その記事を、机の前の壁に1年間ほど張っておいた。その後張りたいものが増えたので、クリアーファイルに挟んでしまっておいた。そのファイルは、会社の引越しとともに、東戸塚から保土ヶ谷の天王町に移された。当時、凄い相撲取りもいるもんだと感心した。社員のいない夏休み、正月前後の冬休み、机の周りの整理の合間に、何回も読み返した。日経新聞は、茶色を越えてコゲ茶色に焼けた。保存用にコピーもとっておいた。私には、このような競技者に対して、異常に反応する性癖?があるようです。彼の部屋のホームページも見続けている。いつか機会があったら、部屋を訪ねてみたいと思っている。彼を招いて、社員に何かを喋ってもらえたらいいなあ、とも考えている。必ず、近い将来に実現したい。
当然のことながら、一ノ矢さんは、私のこんな心情を何もお知りになってはいらしゃらない。お会いすることができたときには、礼を尽くして自己紹介させていただきます。それまでは、勝手に思わせておいてくださいな。
そして、2007年9月5日、朝日新聞の夕刊にまた、彼のことを大きく扱った記事が載った。ううぅん、やっぱり、誰もが彼には感心をもつものなのだ。まして、新聞記者にとっては尚更だ。今回の記事と、以前の記事を読み比べて、内容はそれほど変わってはいない。が、7年間の時間の経過がある。この厳しい相撲の世界で、現役を張り続けている7年間は実に長い期間だ。何か、彼だけの秘密の作戦、奥の手があるのだろう。きっと、極意が。出身が、琉球大学理学部物理学科だけあって、相撲を物理学的に分析する。その成果が7年前よりも進化したように思われる。記事はそのあたりを前回よりも詳しい内容になっている。7年前には、分析の内容には少ししか触れていなかった。そんな彼のことを、彼の体のこと、心の深奥部をさぐってみたい、と思った者には、絶好の読み物です。よって、ここに二つの記事を紹介しました。
ハンマー投げの室伏広治も、古武術的な身体技法に注目して、練習に取り入れていると聞いた。アスリートはどこまでも研究を怠らないのだ。
先ずは直近の記事より=07 09 05 朝日夕刊
精進「相撲物理学」 (別宮潤一)
理系力士 最年長46歳の一ノ矢さん
琉球大学で物理学を学んだ異色の理系力士、一ノ矢充さん(46)が、現役最年長力士として24年間、土俵に立ち続けている。高砂部屋、序二段。目下の研究課題は、筋力だけに頼らないで勝つ古武術流の相撲理論だ。立会いをどう制するか、相手をどう押すか。自分の理論通り勝つ日もあれば、全く通用しない日もある。土俵という「研究室」でつかんだ理論をいつか本にまとめるつもりだ。
筋力いらない古武術流理論
「まだ勝つのは偶然」
8月上旬の午前7時半、墨田区の高砂部屋。弟弟子8人を率いるように一ノ矢さんが四股を踏み始めた。上げた右足をぴたりと止め「シッ」という短い気合とともに下ろす。黙々と20分で200回。汗が噴き出す。「単純な動きに奥深さがある」(一ノ矢さん)という四股は研究課題の一つ。太ももの筋力強化だと思っていたある時、昔の映像を見て今の四股の動作との違いに気付いた。「足よりも腰や腹のバランス感覚を意識するようになった」。以来、四股は何千回やっても飽きない、という。公称では170センチ、100キロだが、本当の身長は165.5センチ。新弟子検査では頭にシリコンを入れて合格ラインに必要な身長を補った。若い頃は「大柄な相手に力負けできない」とがむしゃらに体を鍛えたが、29歳の時、稽古中に股関節脱臼の大ケガをして年齢による限界も感じ始めた。治療中、踏ん張らず、力をためないという不思議な体の使い方を記した古武術の本に出会った。「自分の相撲に生かせないか」。大学時代、アインシュタインにあこがれ、一時は物理学者を目指した一ノ矢さんの研究魂に火がついた。この世界では小兵の一ノ矢さんにとって、どう相手の懐に飛び込むかが長年の課題だった。「立会いで自分の体重を前にかけ、重力を使って落ちるように動く。早く動く瞬発力より、相手より先に動く反射力が大切」というのが今の理想だ。相手の懐に入れれば、自身の体重を使って相手を押す。自分の体重と力が相手に直線的に伝わるよう全身の骨格を固めることを意識する。逆に相手の押しは腰の力を抜き、上半身と下半身を分けて柳のような感覚で受け流すという。「理論上では200キロの相手だって倒せる」と一ノ矢さん。ただし意識するほど体が動かない悩みもあり、「理論通りに勝てるのはまだ全くの偶然」と打ち明ける。年齢による衰えは隠せず、稽古では若手にふっとばされることもある。29歳から書き続けているノートは100冊を超えた。日々の練習ノートとともに「足のかかとを土俵に着けないと力が逃げる」「(体重を相手に預けるには)ひざの力を抜いて無重力を作る」などと気付いたことを記してきた。骨の構造を書いた医学書やトレーニング雑誌、栄養学の本なども読み込んだ。鹿児島県の離島、徳之島の出身。相撲一筋で生きてきて独身だ。83年の初土俵以来、通算成績は481勝511敗6休。引退はそう遠くないとも感じられる。「序二段の立場で『相撲理論』を語るのは恥ずかしい。でも、少しでも相撲界に貢献して一生相撲とかかわっていたい」
00 05 20 日本経済新聞 夕刊より
栄光なき相撲好き
記録より「しこ」にこだわり
現役最年長力士 一ノ矢 (序二段65枚目)
一度も幕下に上がれないまま、四十近くまで相撲を取り続けている力士がいる。若松部屋の一ノ矢(本名松田哲博)は、現在39歳5ヶ月で、もちろん現役最年長だ。序二段と三段を行ったり来たりで、最高位は1991年7月の三段目6枚目。相撲に対する純粋な探究心が、現役の土俵にこだわらせる。
寺尾や水戸泉(ともに、37)のように、長寿の人気関取が最後の一花を咲かせたくて、相撲を取り続けるケースは珍しくない。しかし、一ノ矢が位置するのは華やかさとは無縁の世界。十両はおろか幕下にも上がったことがないのに、人のまばらな午前中の館内で現役に固執してきた。
出身は鹿児島県徳之島。「大阪太郎」の愛称で親しまれた高砂親方(元横綱朝潮)や、「南海のハブ}と呼ばれた旭道山らを輩出した相撲どころで、小学校には土俵があった。「相撲は、山でクワガタを捕るのと同じ感覚でした。楽しい遊びだった」。中学、高校では相撲部がないため柔道部、琉球大で仲間を集めて自ら相撲部を作った。土俵作りから部員の勧誘まですべてやり、四年生の時には西日本選手権二部リーグの3位に導いた。角界入りを志すようになったのは大学三年生の時。高砂親方が実施した沖縄合宿に参加してプロの迫力に触れ、「どうせやるならプロで」と決意を固めたという。167センチの身長を自分で自分の作ったコブで6センチ伸ばし、新弟子検査をパスした。「一ノ矢」は明治時代の大関がつけていた由緒あるしこ名。初土俵は83年11月で、16年半での通算成績は343勝350敗(5月19日現在)で、序二段優勝が二度ある。星自体は平凡だが、故障にはめっぽう強く、休場はたったの三日だけ。「それだって親方に言われて仕方なく休んだもの。今でも悔しい」という。場所の一週間前に、股関節を脱臼していたのに、5勝2敗と勝ち越したこともある。股関節、腰、首、手首に持病があるが、今では自分である程度、治療ができるようになった。「疲れは取れにくくなっているが、体調は若いときよりいい」と強調する。
これほど現役にこだわっている理由は単純明解で、「相撲の奥深さにひかれているから」。理学部物理学科を卒業しているだけあって、相撲の動きを物理学的に分析することが多い。しかし、一瞬にして入れ替わる相撲の攻と防には「意識の持ち方が大きく作用することがある」と感じている。へその下のつぼである「丹田」に意識を集中すると、余計な力を入れなくても重い相手を押せる、というのが持論だ。「でもそれがなかなかできない。だからこそ面白い」
現在は部屋のマネジャーと食事係りのちゃんこ番、現役力士の三足のわらじをはいている。三十九歳のちゃんこ番が作るちゃんこの味の評判はきわめて高い。
一ノ矢が制作、管理する若松部屋のホームページは、多いときで二千人がアクセスする人気サイトになっている。引退後はマネージャーとして部屋に残ることが決まっている。若松親方(元大関朝潮)は「本当に相撲が好きな奴ですよ。今のように、ひたむきさがあるうちは続ければいい」と話す。本人の意思を尊重して、現役続行を見守る構えだ。どうやら引退を勧告される危険性はない。記録に残っている力士の最年長は江戸時代の岩木野と玉ノ井の六十一歳。昭和に入ってからだと、戦前の藤ノ里(出羽海部屋)の四十一歳九ヶ月。近年では牧本(時津風部屋)の四十一歳三ヶ月、大潮(時津風部屋)の四十歳、高見山(高砂部屋)の三十九歳十一ヶ月がある。
最近になってこだわっているのは、しこの踏み方。「無理やりやらされていた若いころとは違って、今はしこの意味が多少分かるようになってきた。しっくりきたと思っても『もっといい踏み方があるのでは』と次から次へと浮かんでくる。最近いいな、と思うのは明治時代のしこかな。試行錯誤の連続です」だからこそ、当分現役を退くつもりはない。
母校琉球大 部員は2人
1917年5月、関大出身の山錦(出羽海部屋)が学生相撲出身として初めて大相撲の土俵を踏んだ。以来、計98人の学生出身の力士が角界入りをしている。一番多いのが日大出身で34人。うち幕下付け出しデビューが31人。関取になったのは26人と圧倒的な強さを誇っている。一方で一人だけ輩出しているのが琉球大、日体大、国士舘大の3校。一ノ矢の出身校、琉球大の相撲部は、創設者の一ノ矢が卒業して3年後に消滅する憂き目にあった。[部員が集まらないのだから仕方がない。あきらめていた」と一ノ矢。しかし、98年、東京出身の庄司史彦さんが相撲部を12年ぶりに復活させた。「相撲経験はないけれど、面白そうだな、という思いつきで」
現在、部員は二名だが、一人がけがをしているため、けいこも十分できない。それでも十月には他部から人を借りて、全国学生選手権に出場する予定だという。一ノ矢も夏場所後、沖縄に行ってけいこをつける。「相撲はやればやるだけはまっていく感じ。勝ち負けにはこだわらず、自分を鍛えるために続けていきたい」と庄司さんは話している。
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