2008年7月27日日曜日
日本サッカー、新たな時代が始まった。
日本サッカー協会は、今月12日、評議員会、理事会を開き、11代目の会長に犬飼基昭氏(66)の就任などを正式に決めた。3期6年を務めた川淵三郎前会長(71)が任期切れと定年で退任。また、犬飼新会長の推薦で、ラグビー神戸製鋼総監督の平尾誠二氏(45)、プロテニスのクルム伊達公子選手(37)ら理事26人と、元日本代表の北澤豪氏(39)ら特任理事7人が正式に決まった。
川淵前会長は名誉会長に就任。また岡野俊一郎・前名誉会長(76)が最高顧問に、釜本邦茂・前副会長(64)が名誉副会長になった。
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強いリーダーシップで、Jリーグの発足から今日まで川淵三郎氏を筆頭に、種々済済に貢献されてきた人たちに労をねぎらいたい。Jリーグ発足から日本サッカー協会の会長として、時には強引とも言えるリーダーぶりを発揮された。今回の後任人事においても、後任の選考を検討する会のようなものがあったにも拘らず、「犬飼さんで、いいんじゃないの」、川淵三郎氏の鶴の一声で決まったというではないか。
釜本邦茂氏を組織の機能から外したのは賢明だった。釜本氏の一部を知っている私は溜飲を下げた。
元会長は、新聞の記者のインタービューに次のような抱負を述べた。
川淵三郎前会長の話=サッカーを愛している全ての人にありがとうと言いたい。常に前を向いてやってきたから、今日も過去を振り返らないことにした。これからはアジア・サッカー連盟に託されたアジア・チャンピオンズリーグの改革でアジアの発展に寄与したい。こころのプロジェクトなど日本のサッカーを草の根レベルで支えていく。
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よくぞここまで、基礎固めをしっかりしていただいたことか!!。サッカーファンならずとも感謝する人は多い。
そこで、頑張ってこられた人たちに、私からの我が儘な顕彰を試みた。
サッカーの競技としてのレベルアップに本気に取り組みだしたのは、東京五輪あたりからではないだろうか。東京オリンピックを控えて、ドイツサッカー協会からデットマール・クラマー氏を招いた。クラマー氏は代表に徹底した基礎技術を習得させた。そして日本代表の能力の可能性が甚大であること、将来、必ずや世界に雄飛できると確信した、と仰っていた。クラマー氏は「日本サッカー生みの親」とも言われ、「日本サッカー殿堂」の第1回の受賞者になった。彼の指導で代表のメンバーは自信をつけた。そして、メキシコ五輪へ。そこで、銅メダルの獲得につながったのです。代表のメンバーやスタッフには確信はあったのだろうが、それ以外の人たちにはこの偉業は、とんでもないハプニングぐらいにしか、思えなかったのではないだろうか。
この両五輪にかかわったスタッフや選手たちの、その後の活動が、今の充実したサッカー界につながっているのです。その間に、日本サッカーリーグが発足した。そして、Jリーグとして姿を変えて、進化した。両五輪に出場した選手やスタッフとして参加した人たちの、名前を一人ひとり挙げて、その人たちのその後の仕事っぷりを辿ってみると、如何に彼等が偉大だったか、頷けます。でも、詳細にレポートしなければならない責任感は誰よりも、私は強いのですが、それには私の能力の限界があります。実業の世界から干上がった暁には、きちんと本が一冊できる位、健筆をふるってみせます。待ってください。そんな先輩達に、サッカーを愛してきた者にとって、脱帽、感謝しております。
ここから、両五輪に出場したメンバーの名前と、その後の彼等のサッカーに関った仕事を簡単に紹介する。手落ち、間違いがあればご指摘ください。
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その前にちょっと、追記。
現在サッカーの発展ぶりを綴ってきたのですが、過去にも、世界を相手に、目を見張る大活躍があったことを書き足しておこう。
1936年ベルリンオリンピック大会でのことです。当時ドイツとイタリアと肩を並べていた第1回戦で、強豪スウエーデンを、日本代表が破る大番狂わせを演じたのです。サッカー競技は、このベルリンオリンピックが初めての参加だったのです。体格の面では明らかに劣っていた。下馬評では、圧倒的にスウエーデンが有利だった。前半に2点を入れられたものの、後半に入って3点を奪い、試合はそのまま終了した。終盤のスウエーデンの猛攻を耐え忍んだ。このときのフルバックに当時早稲田大学の学生だった堀江忠男がいた。この大会に参加した日本代表のメンバーの半数は、早稲田大学の現役学生、卒業生、高等学院生で占めた。
この堀江選手のプレーを紹介しよう。サッカーでは、誰よりも早くボールに触れて自分のコントロール下に置くことが、次の攻撃の起点になるだけに、一番大事なことなのです。だから、誰もがそのことに各々工夫するのです。走力のある者はその走力を活かす。スライディングで早くボールにタッチする。身長の高い者はその背の高さを活かす。競って、自分の体で相手の体をブロックする。遅れても、相手の次の行動を予想して、網をかける。堀江選手は、足からボールに向かってスライディングするのではなく、相手のボールに向かって、頭から突っ込むのです。玉砕式です。我々に話してくれた理屈は明解だった。時には、頭からの方が早くボールに触ることができることもある、その時には、その方がいいと考えてそうしたまでよ。頭で相手の足元のボールにアタック、堀江選手の足は空中に浮いていた。そんな報道写真を見たことがある。
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この人こそが、私が入学した大学のサッカー部で、お世話になった監督・堀江教授でした。先生は常に、学生は学生らしく、強く戦うサッカーをやることだ、と仰っていた。私は堀江先生の教えを、多少曲解していたかもしれないが、「不恰好でも、ぶきっちょうでも、チームに役立つことならば、思いっきりやればいいのだ」、と理解して大学4年を過ごした。与えられた仕事をきっちりこなすことだ、と。華麗なプレーができないことは、解りきっていたので、役に立つプレーに徹した。工夫次第では、俺にもこの名門早稲田大学で役に立つ選手になれそうな気がしたのです。そうして、私の第一歩は始まったような気がします。堀江教授と巡り会わなかったら、果たして、私のサッカーは、あれほどまでに頑張れなかったのではないだろうか。お蔭様で、4年生の時に、我が大学は関東大学サッカーリーグで優勝、全国大学選手権で優勝の2冠の栄誉に輝いた。この栄誉に多少の貢献できたことが、私の密やかな誇りだ。受講した科目でも、先生は「ヤマオカ、お前なあ、あのレポートでは単位をあげられないよ。優も良もつけられないよ。可だ。可しかない」と、怖いだけではない、優しい先生でもあったのです。先生は、今は天国です。
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東京とメキシコの両方オリンピックに、日本代表として出場した方々を列挙してみた。地名のみの表記は、オリンピックの開催地です。そのオリンピクに全日本代表として予選等に出場したことを記した。下の内容は、私の記憶が半分、友人に教えられたのが半分で、正確性には欠けるが、活躍の華々しさは理解していただけると思う。この内容以外にも、表立った肩書きはなくても、目立たないところでの活躍は枚挙に遑(いとま)がない。ユニバーシアード日本代表のコーチや監督、U-23日本代表のコーチや監督に大勢のスタッフが、指導に関っている。往年のスタープレヤーが名を連ねていることに、感謝、感激。これらの皆さんの熱意が、今の日本サッカーの底辺を支えてきたのだと想います。
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*故・長沼健=メルボルン。監督として東京、メキシコ、モントリオール。日本サッカー協会会長 日本体育協会副会長
*岡野俊一郎=コーチとして東京、メキシコ。監督としてミュンヘン。日本サッカー協会会長
*平木隆三=メルボルン、ローマ、東京。コーチとしてとして、メキシコ、ミュンヘン、モントリオール。 古河電工監督 名古屋グランパスエイト初代監督
*横山謙三〈 三菱重工〉=東京、メキシコ、ミュンヘン。三菱重工監督、全日本代表監督 浦和レッズ監督とゼネラルマネージャー
*鎌田光夫〈古河電工〉=ローマ、東京、メキシコ。古河電工監督
*故・宮本征勝〈古河電工〉=ローマ、東京、メキシコ、ミュンヘン。古河電工監督 早稲田大学監督 本田技研監督 鹿島アントラーズ初代監督 清水エスパルス監督
*故・宮本輝紀〈八幡製鉄〉=ローマ、東京、メキシコ、ミュンヘン。新日本製鉄コーチと監督 九州共立大学監督
*鈴木良三〈日立建材〉=東京、メキシコ。
*山口芳忠〈日立製作所〉=東京、メキシコ、ミュンヘン。中央大学監督
*八重樫茂生〈古河電工〉=メルボルン、ローマ、東京。コーチとしてミュンヘン。古河電工選手兼監督 富士通監督 ジェフユナイテッド市原・千葉育成部長とスーパーバイザー グルージャ盛岡スーパーバイザー
*小城得達〈東洋工業〉=東京、メキシコ、ミュンヘン、モントリオール。東洋工業コーチと監督
*森孝滋〈三菱重工〉=東京、メキシコ、ミュンヘン、モントリオール。全日本代表のコーチと監督 三菱重工監督、浦和レッズコーチと監督とゼネラルマネージャー 横浜マリノス監督 アビスパ福岡監督とゼネラルマネージャー
*故・渡辺正〈八幡製鉄〉=ローマ、東京、メキシコ。八幡製鉄コーチと監督 全日本代表監督
*杉山隆一〈三菱重工〉=東京、メキシコ、ミュンヘン。ヤマハ発動機監督 ジュビロ磐田スーパーバイザー
*釜本邦茂〈ヤンマー〉=東京、メキシコ、ミュンヘン、モントリオール。ヤンマーディーゼル選手兼監督 松下電産監督 ガンバ大阪監督 衆議院議員 日本サッカー協会副会長
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(060713)朝日朝刊 /社説
新世代を結集し飛躍を
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日本のサッカーを引っ張ってきた東京五輪世代からその次の世代へ、指導者のバトンタッチが実現した。
3期6年にわたって務めた71歳の川淵三郎氏から、Jリーグ専務理事で66歳の犬飼基昭氏へ、日本サッカー協会の会長が代わった。
名誉会長となる川淵氏は、東京五輪で日本代表の中心選手だった。そのチームで監督、コーチを務めたのが、その後ともに日本サッカー協会会長となる故長沼健氏と岡野俊一郎氏だ。
ドイツから招かれ、戦後の日本サッカーの土台を築いたクラマーさんから直接教えを受けた仲間だった。
当時の名フォワードだった釜本邦茂副会長も名誉副会長へ退く。今回の役員改選は、一つの時代の終わりを象徴しているといえるだろう。
犬飼氏は三菱自動車の欧州現地法人社長を務めたビジネス経験に加え、Jリーグでも浦和レッズ社長として敏腕ぶりを発揮したことで知られる。
振り返れば日本サッカーの変化は劇的だった。93年のJリーグ誕生以来、W杯への連続出場や日韓W杯開催をへて力をつけてきた。
技量が高まり、選手層が厚くなっただけではない。「スポーツで、もっとも、幸せな国へ」と訴えるJリーグの百年構想をはじめ、地域密着によるスポーツの新しい姿を提案してきた。
Jリーグはクラブとしての自立を求め、企業名をチーム名から外した。企業丸抱えの従来のやり方とは違って、地域に根付いた新たな道を探るのが狙いだった。
学校のグラウンドを芝生化するための支援事業や、スポーツを通してリーダー養成を図る教育施設「アカデミー」の創設も新鮮だった。他の競技や自治体、教育界とも広く連携していく。そうしたアイデアや手法を高く評価したい。
しかし、こうした新しい構想や計画はスケールが大きいだけに、多くが道半ばである。これからが正念場だ。そこに犬飼新体制の力量が問われる。
どの取り組みも、協会に総資産185億円ともいわれる財政的な裏づけあるからこそだ。にもかかわらず、その財源はW杯や五輪の日本代表の人気に頼りすぎの印象は否めない。
その一方で、Jリーグの経営は不安定で、06年度は31クラブのうち半数近くが赤字だった。ビジネスモデルの確立を急ぐ必要がある。
アジア全体の底上げを図ることも日本の課題だ。欧州などのサッカー先進国ばかりに目をむけるのではなく、アジアで互いの選手が活躍できる場を広げたい。それには各国リーグの上位チームで争うアジア・チャンピオンズリーグへの参加数を増やしたらいい。
新会長は自らの経験を生かし、若い世代の力を結集していくことだ。
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惜別 元日本サッカー協会会長
長沼 健さん
6月2日死去 享年77歳
20080808 朝日朝刊より
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日韓共催となったW杯では、その真摯なあ人柄に韓国側の関係者も心を開いていった
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「お別れの会」では献花に1千人もの人々が列を作った。相手を優しく包み込む温厚さと私心を厳しくいさめた潔癖さと。老若を問わず、誰もが「健さん」と慕い、周囲に自然に人の輪ができる人だった。300人を超える一般のサッカーーファンたちが参列したことが、その人柄を物語る。
選手、監督、日本サッカー協会の裏方、そして幹部として、常に日本サッカーの先頭に立ってきた。メルボルン五輪でプレーし、代表選手としてワールドカップ(W杯)予選初得点を記録。東京五輪と、銅メダルを獲得したメキシコ五輪で監督を務めた。プロ化に奔走する後輩たちを支えて、Jリーグを設立。会長時代には02年W杯の招致とW杯初出場を成し遂げた。その歩みは、日本サッカーの歴史と重なる。
なかでも印象深いのは、協会会長として大きな決断を迫られる場面との巡り合わせと、その時に自身の責任から決して逃げなかったことだ。
95年11月、代表監督の交代を巡る騒動で加茂周監督の続投を決めると、「これでフランスW杯に出場できなかったら、責任を取って私が辞める」。
96年5月にW杯の日韓共催が決まると、15自治体から10に減らした会場候補地を気遣い、頭を下げて回った。97年10月、加茂監督をW杯予選途中で初めてとなる更迭に踏み切り、自身の責任問題と進退を協会理事会に委ねた。
このとき、コーチから昇格させられた岡田武史監督は「矢面に立って、男だなと感じたのを覚えている。生き方を勉強させられた。一番腹が据わっていた人だった」と話した。
「志」という言葉を好んで使った。
「よく見ると、十一の心と書くでしょう。まさにイレブンのスピリットなんです」。サッカーに無償の愛をささげ続けた生涯だった。
(編集委員・潮智史)
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