2008年10月4日土曜日

「ええ、意味はありません」

kagawa

(081001)

朝日朝刊

俳優・香川照之

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この俳優さん、香川照之の演技は、映画「ゆれる」で知った。私のこのブログでも、この映画を観た感想を書いたことがある。女性監督の繊細な感性を、俳優として微妙な演技でこなしていた。監督さんの思いには充分応えていたように感じた。

心が微妙に揺れる、吊り橋が文字通り揺れる、考えが静かにそれから激しく揺れる。揺れることの表現を、顔の表情、目、眉、頬、額、アゴ、特に真正面を向ける表情に、後姿の演技に魅入った。

私の心も揺れた。映画を観終わって、駐車場に向かっているときに、映画通の三女から、いい映画だったね、と言われて、私は我に戻った。それまで、アイツ、香川という奴にウツツを抜かされていたようだった。不思議な俳優だ、と頭の中はそのことで一杯だった。

その後、映画のよく知っている友人らにあの香川照之という俳優さんって、知ってる?と聞きまくった。それゃ、知っているよ、と言う人ばかりだったので、私は驚いた。彼の出生までも説明してくれた奴までいた。

そうして今回、香川氏が自分の出演した映画の紹介と、初期の頃影響を受けた黒澤清監督とのことを自ら筆をとった記事を見つけた。なんとまあ、よくもこんなに濃く、影響を受けた監督さんのことやら、自分が出演した映画のことを、述べられるもんだ、と感心した。記事を読んだ私まで、熱くなった。その文章を確保した。

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一九九七年の九月は、私にとって不思議な転換期となった。

「蛇(へび)の道」という小さな映画で、私は黒沢清という男が監督する映画への出演を受けた。黒澤明の親族だと勝手に思った外国人記者も当時何人かいたようだが、残念ながら何の縁故関係もない。

男は同年、「CURE」というホラー作品のヒットで一躍時の人になる。しかし当時の私は、俳優がある演技をする時に「意味」などを監督にいちいち尋ねて「俺は考えているぞ」的姿勢を過度に示す、若者の誰もが迷い込む落とし穴に深く陥っていて、脂がのり、映画の手法を知り尽くしていた黒沢清にとってはひどく厄介な存在に映ったに違いない。

黒沢清はそんな私に実に具体的に指示を出した。いや、出さざるを得なかったと言った方が妥当だろう。

「ええと、ここで三秒経ったらあのドアまで歩いて、そこでしばらくじっとして下さい。で、おもむろにですね、こちらに歩いてきて下さいますか。あ、こっちに来る意味は全然ありません」

この、「意味は全然ない」という言葉を、そのとき私は何度聞いたことか。俳優の動きは「意味」を伴って初めて存在すると信じていたささやかな私の孤塁を、男はものの見事に破壊した。私は言葉を失った。

しかし、である。一つの意味を理屈で懇々と説明されるよりも、「意味はない」と先手を打って言われた方が、俳優という生き物は、非常事態発生とばかりに自分自身の中に自らの行動原理のようなものを急いで探し出し、理屈では到達し得ない直感的動きに瞬時にシフトする場合があることに次第に私は気づき出した。目から鱗(うろこ)だった。私は、今度こそ本当に言葉を失った。

この作品以来、私は、事前に計算した「意味」を、あるいは計算そのものを演技の中に求めることを辞める決心をした。少なくともそう努めようとした。それが、私が黒沢清から貰った宝だ。

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あれから十一年が経つ。私はその間、どうしても黒沢監督に恩返しがしたいと思っていた。この十一年で私が培(つちか)ったものがあるとすれば、すなわち俳優として、下らない「意味」を頭から少しでも追い出した自分を確立し得ていたならば、それを黒沢に不断に示し、広げ、その雄姿をぜひ確認してもらいたいと思っていた。

九月二十七日に封切られた「トウキョウソナタ」という映画は、そんな私が、実に十一年ぶりに黒沢清の演出を受けた作品である。

ああ、この十一年を私はどれだけ待ったことか。現場の私はまるで子供だった。黒沢清という先生に、自分の全てを見ていて欲しいと願う幼稚園児のようだった。感情が、直感が、無意識に横溢した。

「トウキョウソナタ」は、ホラーの名手としてその後揺ぎ無い地位を築いた黒沢清が、初めて普通の家族の物語を描いた意欲作品だ。

黒沢清は、これまでもそのホラー作品の中に、日本の社会性や政治性を陰画(ネガ)のようにひたひたと染み込ませてきた。今回、より分かりやすい「家族」というテーマに、東京の、日本の、いや世界の抱える社会問題を強烈なメッセージとして織り込んだ「トウキョウソナタ」は、その意味では、これまでの黒沢作品の集大成とも言えるだろう。

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果たして、私は黒沢清に恩返しが出来たのだろうか?

十一年を経ても男の「ええ、意味はありません」は健在だった。それを聞いて、私の心は嬉しさのあまり千里の丘を駆け抜けた。今作で家族の父親を演じた私がラストシーンで溢れさせるある感情は、黒沢清という男がこれまで作品の中で貫いてきた映画人としての姿勢に私が心から捧げたオマージュである。あるいはこの男と出会い、再会し、今の私がある十一年という歳月に対する全霊の感謝である。一人でも多くの人に、それを見届けて頂ければ幸いである。

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余談ですが

先日、日曜日の朝、香川照之、本木雅広、小泉今日子さんの三人が対談している番組を観た。そこでの一場面のことだった。俳優さんは、自分の演技に自分流の工夫をこらすことに努力を惜しまない。その努力は、各人個性的なようだ。香川氏は自分の演技についてのこだわりを、ひと通り話し終えた後で、無名塾の仲代達矢さんのことを話したのが面白かったので、ここに追記した。

30人ほどが真っ裸での入浴シーンだった。身につけているのは一本のタオルだけ。陰部?を隠す人もいれば頭に巻きつけて下半身は丸出しの人もいた。演技の最中で、仲代氏が演技論か、何かを話し出したそうだ。ここは、こうなって、あれは、ああなって、と話すこと20分。当の仲代氏は話に夢中になって、自分の下半身が晒(さら)されていることに全然意に介することなく、講釈は続いたそうです。その間、カメラは仲代氏のチンチンを撮り続けていた。演技にこだわる香川氏も、このチン大将には参った、と話していた。香川氏は面白可笑しく話されていたのだが、私の表現ではその面白さが半減したかな。やはり、無名塾を主宰してこられ人だけあって、仲代氏もスゴイ人のようだ。今後も活躍の場を大いに拡げていただきたい。

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