2007年8月4日土曜日

大きな人、小田 実さんが逝った。

私が、尊敬していた生身(なまみ)の人間の一人だった、小田 実が死んだ。

私が尊敬する人は多い。学校で、職場で、遊びの合い間に、私に実務を教えたり、処世のアドバイスを授けたり、新しい思想を教化してくれた人たちの中に、私が本気で尊敬する人は実に多い。でも、文筆活動家のなかで、本気で尊敬していたのは、30日に亡くなった小田 実と、元朝日新聞編集委員のⅩ氏だけだった。小田 実とX氏は、私に、殺される側の論理を教えてくれた。小田 実は亡くなり、X氏だけになってしまった。その二人以外に、尊敬している人はいない。本を読んで、感銘を受けたり、感動したりしたことは、あることはあっても、いきなり「尊敬」するということにはならない。言行一致な人でないと、相手に対して尊敬という観念は生まれない。

学生時代、ベ平連の正体が解らなかった。私は、学生時代ヘルメットをかぶって、角棒をもって機動隊と衝突していた。そんな私には、当初、女女(めめ)しい団体(けっして、女性を馬鹿にはしていません)だなあ、ぐらいの認識しかなかった。

ここで、私の脳髄から脳幹、足の先まで電流が走った。ベ平連は女々しいとかなんとか書いていた、その瞬間、小沢遼子さんの顔が浮かんだのです。まずかった。小沢さんは、ベ平連の発足当時のメンバーだったと思い出したのです。美しく凛凛しい女性で、激しい精神の持ち主で、女々しい人ではけっしてない。私の知人は、彼女のことを、チャーミングな猛者よ、と言っていた。全員が男性の団体で、全員が女々しければ、女々しいぞ、と言い張っても許されようが、一人でも女々しくない人が居たならば、まして女々しくない女性が居たならば、女々しいなんて言葉を、容易に使うものではないのだ。謹んで、自戒。当時は、創価学会の青年部や共産党の民主青年同盟と、どっちもどっちだ、と。私はよく分かっていなかった。その程度の認識しかなかった。

ところが、ベトナム戦争の最中、アメリカの脱走兵をかくまい、第三国への渡航を助けたことには、度肝を抜かされた。あんな、オッサンたちが、よくも大それたことをやってくれるじゃないか!心底驚いた。ただのオッサンの集団ではない。発足のメンバーだったか、ベ平連周辺の人だったか、柴田 翔や高橋和己の熱狂的な読者でもあったのです。社会人になって数年後、高橋和己作品集を買い揃えたときは嬉しかった。そんな私だから、いつもベ平連の活動は、いちいち気になっていた。両氏の本は、既刊されているものは当然、新刊は即買い求めた。小田 実のことは、本よりも、頭モジャモジャで、関西弁、大きい声、分かりやすい言葉、予備校の講師、そんなことが印象深かった。記者会見での声明発表や記者とのやりとりは、革命軍の闘士そのものだった。カッコウよかったでえ、と言えば、「そやな、まあ、ボチボチや」ぐらいには応えてくれただろう。

それから小田 実の本を読んだ。「何でも見てやろう」は、ベストセラーになった時とは、時期をずらして読んだせいか、他人が言う程には感動しなかった。売れている時は、読者もその本も、まさに旬なわけで、季節はずれになってしまった時には、もう関心が高まらないのか。当時の私は、バリバリの体育会系のサッカー部員だった。じっくり内容を吟味できていなかったことも原因の一つだろう。秀才が、何をごちゃごちゃ言っているんだ。青二歳だった私は、インテリと聞いただけで、全てを拒否してしまうほどの偏狭だった。そんなこと大したことないわ、と馬鹿にしていたのです。その後の評論、小説等については、私は読む機会が少なくなってしまったが、凄まじい勢いで執筆、発言された。死ぬ一歩手前まで、闘争的だった。やっぱり、カッコウよかった。

反戦、反核、平和、国家、政治、市民(運動)、戦争、アメリカ、民主主義、差別、天皇、民族、第三世界、弱者、される側、老人、災害について、間違いなく、日本の巨大な(小田流に言わしていただければ、ばかでかい)ご意見番だった。

ついでに、ベ平連創立のメンバーの一人である開高 健について一言申し上げたい。ベ平連の活動が活発だったころ、開高 健も頑張っていたように思う。が、その後の彼の堕落ぶりは、なんとも情けない限りだ。当初、「裸の王様」「日本三文オペラ」「輝ける闇」を読んだ。私の精神は高揚した。ベトナム戦争下、危険を顧みないレポ「報道」では、胸を打たれた。「何でも見てやろう」を読み返そうと本棚を探した。その時、気づいたのですが、開高 健の本を相当読んでいたことに改めて驚いた。エッセーは、珠玉。男の恥ずかしい部分を刺激するところなどは最高だった。面白かった。

でも、どうなっちゃったんだろう? 開高さんは。

「何でもみてやろう」を一部紹介する。  電子書店パピレスより

アメリカのもろもろのなかで、とりわけ私が見たいと心ひそかに憧れていたものが三つあった。話があんまり単純で子供っぽいもので、ここに書くのがいささか気がひけるくらいだが、それは、ニューヨークの摩天楼とミシシッピ河とテキサスの原野であった。というと、なるほど、おまえは要するに大きなものが好きなんだな、とうなずかれる向きもあろう。そのとおりだった。私は、自然であれ、人間がこしらえたものであれ、大きなもの、それもばかでかいものが大好きなのである。ばかでかいものを見ていると矢も楯もたまらなくなるといってよい。たぶん、それは、そのばかでかいもののなかに潜む(とあるいは勝手に私が想像する)わけのわからないエネルギーの塊のようなものが、私を故郷にひきつけるようにグイグイひきよせるのであろう。私は、友人のあいだで、ずいぶんと原始人、あるいは野蛮人の定評のある男であった。このばかでかさは、もちろん、摩天楼や大河や原野にかぎったことではない。人間についても同じことが言えるであろう。たとえば、ばかでかい理性、情熱、洞察力、想像力、空想力、ばかでかい好奇心、もの好き、陽気さ、のんきさ、あるいは途方もない怒り、悲しみ、笑い、あるいはまた野放図な食欲、咀嚼力、消化力ーそういったものの根底には、おそらく、ばかでかい人間エネルギーが存在し爆発しつづけているのであろう。わたしはそれを感じ、そしてシャニムニそれにひかれて行く。わたしのばかでかい好きを分析すれば、まあそういったところであろう。

30日、31日の朝日に載った新聞記事を転載した。社会面、文化面、社説などです。偉大な行動する作家だった。

2007 7 30  朝日朝刊 社会面より

小田 実さん死去  何でも見てやろう・ベ平連  75歳

反戦、反核など国際的な市民運動に取り組んだ作家で、「ベトナムに平和を!市民連合(べ平連)」元代表の小田 実さんが30日午前2時5分、胃がんのため東京都内の病院で死去した。75歳だった。自宅は公表していない。

1932年大阪市生まれ。45年の敗戦前日の8月14日に大阪大空襲を体験、そこで目の当たりにして後に、「難死」とよんだ「無意味な死」への怒りが言論活動や市民運動の源泉となった。

東京大文学部卒業後の58年、フルブライト留学生として米国ハーバード大学へ。このときの体験とそれに続く欧州・アジア巡りを綴った1日1ドルの貧乏旅行記「何でも見てやろう」(61年)がベスチセラーに。飾り気のない文体と世界の人々と同じ高さの目線で向き合う姿勢が共感を呼んだ。

65年、ベトナム戦争に反対して哲学者の鶴見俊輔さん、作家の開高 健さんらとベ平連を結成。ワシントン・ポスト紙に日本語で「殺すな」と大書した反戦広告を掲載するなど運動の支柱となった。*山岡が加筆=この「殺すな」は岡本太郎の筆による。

ベ平連解散後も、執筆の傍ら政治問題と正面から向き合い、市民の側から発言を続けた。76年には北朝鮮を訪問し当時の金日成主席と会見。87年の東京都知事選では当時の社会党から立候補を打診され、断った。

95年の阪神大震災は自宅で被災。公的支援の貧弱さを体験、被災者を支援するほうりつの成立に尽力した。

04年6月、作家大江健三郎さんや評論家加藤周一さんろと、憲法を守る会「九条の会」の呼びかけ人となった。

小説では、庶民の生活に根ざした素材と言葉で、心のひだへ分け入った。「HIROSIMA]で88年、第三世界最高の文学賞とされるロータス賞を受賞。97年に川端康成文学賞を受けた「『アボジ』を踏む」は演劇にもなった。07年春に末期ガンがわかり知人に手紙で病状を明らかにしていた。

評伝  焼け跡原点、行動の作家    白石憲二

瀬戸内の海をのぞむ自宅で見せられた1枚の写真。アメリカの爆撃機が大阪の上空で撮影したもので、市街地を黒い雲が覆っている。「私は、この雲の底にいたんだ」。1945年6月、13歳だった「行動する作家」は生涯、「焼け跡」にこだわり続けた。

それは「『される』側に立ってみる」視点だ。「ベ平連」時代にかかわった脱走兵支援。「人殺しが正義、とする社会のなかで生きてきた兵士を、人殺しはあかんというふつうの社会の、ふつうの人間にすることや」と話し、「育児」に例えた。「ふつうの人のつながり」「市民」という言葉を大切にして、こう解説した。

デモ行進の時、だれも名刺交換はしない。隣を歩く者の正体を知らず、ある問題への怒り、その解決への思いと志だけを共有して歩く老若男女、それが「市民」だ。

文学者の「反核署名」をめぐる取材で会ってから、もう四半世紀の歳月が流れる。「チマタの人」「人間ちょぼちょぼ」「あまた」「まとめ上げていえば」「大づかみ」~独特の言い回しが耳に残る。みかけはこわもてだが、「小さな人間」へのやさしいまなざしと繊細な感情も併せ持っていた。

時には集会などで声を荒げることもあった。「自分で考えろ」。そう若者に突き放すことも。「言い出しっぺ」がやるという行動原理を重んじてきた者にとって、「傍観者」や「評論家」は受け入れがたかったのだろう。

7年前、ある頼みごとをした。「新聞社からは誰もついて行かない。写真も自分で撮って欲しい。肝心の行き先ーそれも自分で決めて欲しい」。それは後に、「小田 実のアジア紀行」という本になった。「これは随分型破り、破天荒、そして何よりも自由な企画である」と、「根っからの自由人」にも気に入ってもらえたようだ。

4月に届いた病状を告げる手紙には、フィリピンの近年における人権抑圧についての民衆法廷(オランダ)のことにふれ、「自分の無知を恥じる、と言いました」とあった。「事実調査のため、現地に行きたいが、それもかなわぬことになってしまっています」

信念のために立ち上がる勇気をもった作家は、その気概を最後まで持ち続けて逝った。

朝日社説

田 実氏死去 市民参加の道を示した

「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の活動で一時代を築いた作家の小田 実さんが亡くなった。常に市民の側から戦後政治を問い続けた人生だった。

二度と戦争をしてはいけない。その原点は少年時代、大阪の街が米軍機に焼かれ、腐った死体ののおいを忘れられなくなった空襲体験にあった。「やられる側」に立たないと真実は見えない。この信念がその後も貫かれていく。

戦後は、フルブライチ留学生として米ハーバード大に学び、世界各地を歩いた。その体験記「何でもみてやろう」がベストセラーになった。

ベトナムに介入した米軍が65年に北ベトナムへの爆撃を始めると、ベ平連をつくった。泥沼化するベトナム戦争に反対する市民の声を、デモや集会のかたちで表していった。

政治運動は、ひとつの世界観を持って主義主張を通すためにやるもの。それが従来の政治活動家の常識だった。これに対してベ平連は、政治には素人の市民が、ベトナム反戦という目的で集まり、それぞれができる範囲で行動するという市民運動のあり方を確立した。

勤め帰りのサラリーマンや主婦が加わるデモは、ヘルメットをかぶり警官隊と衝突する学生とは一線を画した。その一方で、日本で脱走した米兵をかくまうというユニークさも併せ持っていた。

こうした市民運動のやり方は、さまざまな住民運動のほか、のちの非営利組織(NPO)や非政府組織(NGO)の活動にも影響を与えた。その原点をたどれば、組織よりも個人の自由な発想を大事にする小田さんの個性があった。

小田さんはその後も、阪神大震災の被災者救援や、憲法を守る「九条の会」などで、いつも社会にかかわっていくという姿勢を貫いてきた。

いま、イラク戦争に反対する声が世界に満ち、反戦デモもあちこちで見られるが、にほんでは大勢の人々が加わる反戦デモは影をひそめた。ベ平連が活発に動いていた時代の熱気は失われた。

しかし、福祉や教育、海外援助、スポーツなどさまざまな分野で、活動する市民は少なくない。ボランティアで参加する人も、専従で活動する人も、そのかかわりかたはまちまちだ。

世の中がおかしいと感じれば、選挙で「風」や「うねり」となって政治を大きく動かす。無党派層のなかには、そんな人たちもたくさんいる。

安部首相への信任選挙といわれた今回の参院選で、かれらは「ノー」を突きつけた。憲法改正で「戦後レジームからの脱却」をめざす首相への異議申し立ての意味もあっただろう。

何でもみてやろうという好奇心、そして、普通の人々の生活や生命への共感、それをないがしろにする戦争や権力に抵抗する姿勢。小田さんの精神と生き方は、これからの時代にも通用するひとつの指針であるに違いない。

共同の旅はつづく

作家・小田 実さんを悼む    鶴見俊輔(哲学者)

作家の小田 実さんが30日、死去した。ベトナム戦争に反対する「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)を小田さんらと結成し、歩みを共にした哲学者の鶴見俊輔さんに追悼の思いを寄稿してもらった。

ながいあいだ、一緒に歩いてきた。その共同の旅が、ここで終わることはない。小田 実の死を聞いてそう思う。1965年にベ平連をはじめてから、共同の旅は、すでに42年。小田 実と共に歩き続けた道を、彼は、明るいものにした。そういう力をもつ人は、私の記憶では、多くはいない。そういう人だった。

高校生のころから小説を書き始め、米国留学、その帰りに、ひとりで見たものについて、「何でも見てやろう」の腹案を得て、この本を書いた。それは、戦後の日本に新しいスタイルの文学をもたらした。

紀行文として、鴎外、漱石、荷風ともちがい、むしろ、幕末の越境者万次郎に通じる風格をもっていた。万次郎が米国に対した時、米国は大きい。小田 実にとって、ベトナム戦争に反対した時、米国は大きい。しかし、彼は、その米国の大きさにひるまない姿勢をもっていた。この独特の姿勢が、当時の日本人に共感をもたらした。米国の軍艦から離脱した十代の米国人が,それぞれ、米国の軍事力を内部から知っていて、それに対抗する道をひらいた時、彼らは、米国の力にひるまず、離脱者の目的に協力する日本人の仲間を見いだした。両者の間に、互いによく知らないままに、よく似た仲間がいた。その協力の姿勢はすでに四十年を越えて、お互いのなかにひびき合う力をもっている。

小田 実は、高校生のころ、中村真一郎らの影響を受けた。ハーバード大学に留学してから、トマス・ウルフの文体の影響を受ける。自分を今この一瞬取りまく、ばらばらのものを同時、無差別に感じ取り、心にきざみつける文体を、彼は、トマス・ウルフから受け取った。

過去の文学から、洗練された技法をうけつぐのとはちがう。若いとき東大で学んだギリシャ語を自分の中に保ち、病気に気づいてからも、自分でホメロスを訳し続けた。もっとも古い西洋の古典と合流する身構えは、人生の終わりに立って、この時代全体を見渡し、人間の文明を広く見て何かを言おうとする、彼の文学の特色、彼の人間の特色である。

最後の小説「終わらない旅」には、世界に対する彼の姿勢があらわれている。「何でもみてやろう」と肩を並べる名作である。彼と旅をしたことは私の光栄である。これからも共同の旅は続く。

「大きな人」に別れ   朝日社会

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小田 実さん追悼デモ

先月30日に亡くなった作家小田 実さんの葬儀が4日午後、東京都港区の青山葬儀所であり、作家の大江健三郎さんや井上ひさしさん、評論家の加藤周一さん、元衆議院議長の土井たか子さんら約800人が別れをつげた。

葬儀のあと青山一丁目駅近くまで、有志が追悼のデモをした。「反戦の遺志をついで」と書かれた幕と遺影を先頭に、葬儀委員長の哲学者鶴見俊輔さんら約500人が、ベトナム戦争以来、反戦歌として知られる「ウィ・シャル・オーバーカム」を歌って歩いた。

葬儀で、鶴見さんは、「黒船到着以来の日本の150年のなかで、ジョン万次郎と肩を並べる大きな人」、加藤さんは、「彼の呼びかけは格別の説得力をもっていた。今も私たちに呼びかけているし、その呼びかけに応えるところに、我々の希望は開けている」と述べた。このほか日本文学者のドナルド・キーンさんらが、文学でも市民活動でも国際的なスケールだった小田さんをしのんだ。

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