2007年8月26日日曜日

「悪霊」本日読了なり

本日 8月19日 「悪霊」を、新潮文庫で読み終えた。

作:ドストエフスキー  訳者:江川 卓 

読後の感想を著す前に、先ずは正直に、今回は疲れましたと述懐せざるを得ない。私も割りと読書には根性のある方なのですが、「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」、「白痴」には苦労させていただいたのですが、「悪霊」は全然違った。かって経験のない強烈さだった。ドストおじさんには、感謝しているんです。苦悩を嬉しくお受けしたい。下巻はともかく、上巻はきつかった。この苦労が堪らないのです。何回、文庫本を放り投げようと思ったことか。仕事が忙しかったこともあるが、何よりも気乗りがいまいち悪かった。気合を入れて読み出しても、たかだか2~3ページしか進まなかった日もありました。全く、本を手にしない日もあった。読み出してから足掛け4ヶ月、実質110日を要したことになる。

今のこの日本の政治の世界にも、社会にも、「悪霊」が秘かに闇の中を蠢(うごめ)いているように思われる。ドストエフスキーさんが、もしも今生きていたら、きっと何か物語を書いてくれるのではと思う。昨今のわが国において、親が子を、それも幼子をいとも簡単に殺す事件が多発している。又、子が親を殺す事件、直接何の関わりもないホームレスの人を殴り殺す、火をつけて焼死させる。多額の保険金をかけては、殺し、保険金をだましとる。殺した死体をバラバラに切りきざむ。このような忌まわしい事件が全国的に頻発しているのを思うに、何か、重要な部分?が狂っている、としか思えない。これは、「悪霊」じゃ、悪霊の仕業だ、と思われるのも自然な状態だ。それとも、神様の怒りにふれたのか。

又、小説「悪霊」に見立てて、日本の政界にも、悪霊がいるのではと思うことがある。戦後62年が過ぎ、戦争の悲惨さを訴え、反戦運動に命を投じた先輩たちが亡くなっていくのと裏腹に、私の目にはどうしても悪霊にしか思えない者たちが跋扈しているように思うのです。

岸 信介の亡霊か。孫の安倍が首相になってから、「戦後レジームからの脱却」とか言い出した。憲法を改正するとか,言っちゃって、えらく威勢がいい。教育基本法を60年ぶりに改正。2世、3世議員がどうもクサイ。

自民党有志議員でつくる「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」は南京事件を「南京攻略戦が、通常の戦場以上でも以下でもないとの判断をするに至った」と発表した。そして慰安婦問題では、「旧日本軍によって、強制的に慰安婦にされたことを示す文書は見つかっていない」と。沖縄の人々にとっては常識になっていることなのだが、沖縄戦において、沖縄の人々が集団自殺に追い込まれたことについて、「軍の指示があったことを証明するものはなかった」と言い切る。

かたや、防衛庁を省に昇格させた。集団自衛権を考える委員会(名称は定かではない)を発足させて、集団自衛権の行使の事例を審議し出した。どこまでなら認めてもいいのか、認められるのかを審議するそうなのだが、なし崩し的に、集団自衛権を完全に認めるように意図しているのは、見え見えだ。

これは、やはり日本版「悪霊」だ。この世から戦争がなくなって欲しいと望む私には、どうしても彼たちの動きが悪霊に見えてしょうがないのです。

ドストエフスキーさん、やっぱり日本にも悪霊は居ましたわ。

読後の「悪霊」を総括しておくには、こんな難解な物語を、かくも見事に訳した江川さんの力をお借りするのが一番賢明な策と心得た。

よって、

江川 卓さんの巻末の「解釈」の文章を拝借

させていただきました。江川さんは、何もかもお分かりだからです。では、~

ドストエフスキーが生きた時代のロシアは、1861年の農奴解放を間にはさんで、作家自身の言葉をかりれば、「ロシア国民の全歴史のなかでも、おそらく最も混沌とした、最も過渡的な、最も宿命的な時代」であった。しかもドストエフスキーは、その生活のうえでも、みずからこの過渡期的な矛盾と混沌のただなかに身を置き、自身がその矛盾に引き裂かれつづけた作家であった。彼の作品世界が、トルストイにおけるような調和とはほど遠く、多声性(ポリフォニー)と呼ばれる特質を色濃くもっているのもそのためであり、それがまた彼の文学の現代性の一要素をなしているともいえる。

ドストエフスキーは、空想的社会主義を奉ずる革命思想家ペトラシェフスキーに接近し、その最左翼の領袖であったスペシネフの強い影響下に、秘密印刷所設置の計画などにもかなり積極的な役割を果たした。結局1849年4月、ドストエフスキーを含むペトラシェフスキー会のメンバーは全員逮捕され、ドストエフスキーは4年間の懲役、その後は兵卒勤務であったが、死と間近に対決させられたこのときの恐怖の体験は、作家の精神を根底から震撼するような衝撃となった。

1869年11月に「ネチャーエフ事件」が起こり、ドストエフスキーはこの事件を素材に時事的なテーマの小説を書きたい誘惑にかられた。ネチェーエフというのは、当時スイスにいた世界革命運動の大立て物バクーニンに取り入って(このバクーニンがスタヴォーギンのモデルであるという説もある)、1870年2月までにロシアに大暴動を起こし、専制国家を殲滅せよという、いわゆる(ジュネーブ指令)をたずさえて帰国した狂信的な青年革命家で、事件は、彼がモスクワのペトロフスカヤ大学の学生の間に組織した(五人組)別名(斧の会)のメンバーであった学生イワノフが、転向者として他のメンバーに惨殺されたことに端を発した。ドストエフスキーは、ある種の偶然も手伝って、この事件に並々ならぬ感心を寄せ、ベトラシェフスキー会に参加していた当時の自身の体験から、40年代の自由主義者、急進主義者の思想とこの事件の背後にある思想とのつながりを直感した。彼はさっそく40年代の自由思想化の代表者で、モスクワ大学で中世史を講じていたグラノフスキーに狙いをつけ、彼(小説ではステパン氏)がネチャーエフ(小説ではピョートル)を生み出す必然性を骨子にした小説の構想を組み上げた。

西欧から移入された無神論革命思想を聖書に言われている「悪霊」に見立て、それに憑かれたネチャーエフその他は湖に溺れ死に、悪霊がはなれて病癒えた男、すなわちロシアは、イエスの足元に座しているというのである。

「悪霊」はドストエフスキーの多くの作品のなかでも、最も複雑な、謎めいた作品であり、それだけに各時代を通じて評価もさまざまに分かれた。ソ連には、この作品を「革命運動への誹謗書」であるとする根強い見解があり、他方では、スタヴォローギンを目して、世界文学が生んだ最も深刻な人間像であり、この書を現代への予言書と見る評価もある。

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