ツꀀツꀀツꀀツꀀツꀀアメリカの野球ファンを驚かせたトルネード投法
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日米通算201勝 /開拓者、去る /トルネード、日米席巻 /フォーク決め球
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「野球人生、悔い残る」
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上記はいずれも新聞記事の見出しだ。
「引退する時には悔いのない野球人生だったという人もいるが、僕の場合は悔いが残る。自分の中ではまだまだやりたい気持ちが強いが、自分の気持ちだけで中途半端にしていても周りに迷惑をかけるだけだと思った」
野茂が引退を決意したとき、このようにインタービューに答えた。「悔いが残る」という野茂のコメントを聞いて、なんとも野茂らしい、と感心した。よくぞ、野茂らしい言葉を残してくれた、と嬉しかった。
野茂、そりゃそうだよな。野茂の気持ちが痛いように理解できた。
その後、清原をはじめ、野茂とゆかりのある人々は、口を合わせて、野茂の引退の弁「悔いが残る」には、感動したと述べている。
去年メジャー入りして不覚にも主審とぶつかって転倒、その怪我を乗り越えて、再びメジャーに復帰したが、ダメージは深く、今春引退した元巨人の選手と比較せざるをえなかった。彼は、引退の弁で、「野球の神様に感謝したい」とコメントしていた。神様に感謝するのもいいけど、もう少し彼ならではの発言を聞きたかった。巨人に入団した際の、江川卓のドラフト制度の魔の1日問題、桑田真澄と清原?と巨人の三角関係の果ての桑田指名問題、この人たちの言葉には、人を感動させる力がない。
でも、だ、昨日(7月29日)、某テレビ番組で、桑田が、野茂の引退の言葉を聞いて感動した、と言っていたそうだ。優秀なアスリート同士には、厳しいスポーツの世界を生き抜いてきた者同士には、判り切っていることなのだろう。ならば、桑田氏も自分の言葉で引退の言葉を使えばよかったのだ。今シーズン、メジャーに復帰できる報をアメリカの飛行場で知らされた桑田投手は、言葉を発することができず、記者を背にして泣いた。このシーンをテレビで見ていて、私も泣いた。桑田投手の、メジャーに賭ける情熱がいかばかりのものか、私の想像を絶する域なのだろう。その泣き顔は少年のようだった。
02年のキャンプーーーー
朝日新聞に掲載された記事を、勝手に拾い出して転載させていただいた。この偉大な投手に対して、私が個人的な見解を述べれるほど、私は人格者ではない。又、許されるものではない。記事のどの内容も楽しくキーを叩けた。
記憶が風化するのを恐れての、準備です。
ドジャースに入って1年目で地区優勝
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多くの日本選手が大リーグで活躍する先駆者的な役割を果たし、日米通算201勝を挙げた野茂英雄投手(39)が今月17日、現役引退を表明した。
今季、ロイヤルズとマイナー契約を結び、4月5日に3季ぶりにメジャーへ昇格。千日ぶりのマウンドに上がるなど3試合に登板したが、球威の衰えは目立ち、同20日に戦力外通告を受けていた。本人が現在、米国にいるという。
野茂投手は89年、新日鉄堺からドラフト1位で近鉄(現オリックス)に入団。「トルネード〈竜巻〉」と名付けられた独特の投球動作から繰り出される直球とフォークボールを武器に、4年連続で最多勝と奪三振王に輝くなど通算76勝46敗1セーブを挙げた。
95年、国内で反発もあった中、ドジャース入団。村上雅則投手(64,65年ジャイアンツ)に次ぐ2人目の日本選手大リーガーになると、オールスター戦で先発、新人王と奪三振王を獲得するなど活躍。「ノモマニア」と呼ばれる熱狂的なファンを生み、前年のストライキで失われかけた大リーグ人気を取り戻す救世主にもなった。メジャーでは計7球団に所属し通算123勝109敗。96年と01年、ナショナル、アメリカン両リーグで無安打無得点試合をマークする史上4人目の快挙を達成した。
98年には日本選手初めての本塁打も記録している。
また、出身の社会人野球で休部が続くことに危機感を抱き、03年に「NOMOベースボールクラブ」を立ち上げ、野球を続けられる環境づくりにも貢献した。
01年4月、レッドソックス時代に2度目のノーヒット・ノーラン
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今年の春は招待選手としてロイヤルズのキャンプに参加したが、開幕枠には入れずにマイナーでのスタートとなった。
それでもプロ19年目はあきらめなかった。中継ぎ陣が手薄になったチーム事情もあったが、日本選手をよく知るヒルマン監督(前日本ハム監督)の強い推薦により、メジャー昇格を果たした。
4月10日。本拠カウフマンスタジアムの右翼にあるブルペンで、野茂は待ちきれないようにキャッチボールを繰り返した。メジャーで千日ぶりとなるマウンド。2本塁打を浴び「特にいつもと気持ちは変わらなかった」と、いつもの無表情だったが「やっぱりうれしい」と本音ももらした。
とはいえ、現実は厳しかった。3試合に登板して、防御率は18点台。2週間あまりで球団から解雇された。プレーしたメジャー球団数は「7」だった。
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「世界に目を向けていた」・「ひとつの時代終わった」
近鉄時代の同僚、功績をたたえる
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近鉄時代 野茂と籍を同じくした人々はその功績をたたえた。
ロッテの立花ヘッドコンディショニングコーチは、野茂の入団当時の仰木監督から、トルネード投法について「1年で壊れるかもしれない。しっかりと鍛えてやれ」と言われたという。野茂は、ストレッチをしながら自分で編集したライアンやクレメンスのビデオを熱心に見入っていた。「ぼくなんて、彼等にくらべれば、へみたいなものですね」と語ったという。「常に上を見て、世界に目を向けていた」
野茂が残した功績について、「投手といえば、シーズン中は走るだけだったのが、しっかりウエートトレをやった。野茂の成功で、選手生命を延ばした選手は多い。太く長くやりたいと言っていたことを実践してくれたことが、一番の誇り」と話した。
オリックスの大石監督「すごい功績を残したことは尊敬する」とねぎらい、「野手(二塁手)としては三振か四球で守りにくい投手だったね」と笑いを誘った。
近鉄時代の5季をともにした赤堀投手コーチは「ひとつの時代が終わり、さびしい感じ」
金村義明氏は「日本の球団のオーナーになって、そのチームのマウンドに立ちたいというのが彼の夢やった。今後は日本野球のために尽くして」と話す。日本ハムの吉井投手コーチは「野球ファンとして、すごい力をもらった。引退するのなら、おめでとうと言いたい。あれだけ成功したのだから」と言った。
89年11月、ドラフト1位指名のあいさつに訪れた近鉄・仰木彬監督
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トルネード
「トルネード」の愛称は近鉄(現オリックス)入団1年目の90年、球団が公募し、6千通近い中から選ばれた
95年7月、大リーグオールスターゲームに日本人選手として初出場
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大リーグ挑戦、無理を現実に
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決して平坦ではなかった野茂の挑戦が、のちに日本の大リーガーを次々に生む大きな流れを作った。当時、日米間にはポスティングシステム(入札制度)のような制度はなかった。
94年のシーズン後、野茂は複数年契約や代理人交渉を要求し、近鉄との契約交渉がこじれた。今では任意引退選手としてメジャー入りは不可能だが、野茂は特例のような形でドジャースへ移籍を勝ち取った。日本の球団からフリーエージェント(FA)権取得前の大リーグ移籍は、想定外とも言える時代だった。
続いて96年オフには伊良部秀輝(当時ロッテ)問題が持ち上がった。球団が業務提携を結んでいたパドレスを経てヤンキースに入団するという「三角トレード」が起こり、日米間の選手契約が本格的に見直された。98年、入札制度が生まれ、FA権取得前でも球団の許可があれば大リーグへの道が開かれた。野茂の成功も大きかった。日本選手の実力が見直されるようになった。00年オフ、イチロー(当時オリックス)が日本選手としては初めて入札制度を使い、マリナーズへ。石井一久、松坂大輔ら日本の主力級が後を追った。
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帰ってきたら抱きしめたい
高校時代の恩師
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大阪・成城工高(現成城高)で野茂投手を指導した宮崎彰夫さん(65)は「ご苦労様とひとこと言いたい。あきらめないで頑張って欲しい気持ちと、もう十分だという気持ちがあった」と、ねぎらった。
4月下旬に野茂投手はロイヤルズを解雇されたが、「その後も彼が練習していることは知っていた。95年に米国に渡ったときの気持ちを最後まで忘れなかったのだと思う」。
「トルネード投法」は、小さい頃から自分で工夫して編み出したものだ。当時の常識からは外れていたが、宮崎さんはフォームの矯正をしなかった。社会人野球の新日鉄堺へ進む際も、フォームをいじらないことを条件にした。自由な発想を尊重したことが、大リーガー・NOMOが生まれた下地になったといえる。
宮崎さんは「彼が日本のプロ野球界に与えた影響は本当に大きい。帰ってきたら歓迎会を開いてやりたい。ご苦労様と言って抱きしめてやりたい」と語った。
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彼の後ろに道はできた
西村欣也(編集委員)
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野茂らしい引退だと思った。最後の最後まであきらめず、彼はメジャーリーグにこだわり続けた。
日米通算201勝をあげている。海を渡った95年のシーズン、新人王と奪三振王となった。日米両国で新人王を獲得したのは野茂1人だ。2度のノーヒット・ノーランも達成した。「ノモマニア」という社会現象を引き起こした。富も、名誉も、手に入れた。しかし、彼は最後まで立ち止まることをしなかった。それがパイオニア(開拓者)としての誇りだったのだろう。
道なき道を切り開いてきた。渡米自体、当時の日本野球関係者から非難の目でみられた。彼はそのとき、代理人の団野村氏に言った。「団さん、僕達は間違ったことをしていない。進みましょう」。彼の後ろに道はできた。その道をイチローが松井秀喜が、松坂大輔が歩んでいった。
近年はひじの故障に苦しんだ。06年6月手術を受けた。07年はどこのチームにも属すことができなかった。それでも、現役にピリオドを打たないのが、野茂の生き方だった。ベネズエラのカラカス・ライオンズに入団した。08年、カンザスシティー・ロイヤルズとマイナー契約を結んだ。そして4月5日にメジャー昇格を勝ち取るのだ。10日、05年7月15日以来、千日ぶりにメジャー登板を果たした。
しかし、故障が完治したわけではなかった。ひじへの負担を減らすために、彼は生命線ともいえるトルネード投法を封印する。セットポジションからの投球は、直球のスピードを奪ってしまった。4月20日にロイヤルズから戦力外通告を受けた。
野球とベースボールの間に大きな橋をかけた野茂英雄の名は、日米のプロ野球ファンの脳裏から消えることはない。燃え尽きるまで投げ続けた野茂の生き方をたたえたい。彼と同じ時代に野球とベースボールを取材できたことを心から幸せに思う。
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