2008年8月15日金曜日

炎熱ウォーキングだ

8月11日には、旅行会社の企画もので、同業者の仲間たちと磐梯山に登ることになっていたのですが、催行に必要な最少の参加者さえ集まらなくて、旅行会社から中止の知らせを、5日前に受けた。
11日は月曜日で、私の会社は毎週月曜日に早朝週例会を行っているのです。何かと理由をつけて断ることが多かった私は、いつも一緒する仲間から、今回は断らせないぞ、そんな無言の圧力を感じて、たまには皆と山に行きたい希望もあって、申し込んだ後は、もう本気で楽しみにしていたのです。
私の我が儘な都合で、今週だけ週例会を月曜日から火曜日に変更してもらった。
磐梯山に、本当に登りたかったのです。
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今から35年前、大学のサッカー部の後輩マサカツと、磐梯山に登ったことがあったのです。私は4年生、マサカツは2年生だった。当時、二人は余りにも無鉄砲だった。午後2時ごろから猪苗代湖の方の登り口から入った。登り口周辺は、冬はスキーのゲレンデになるようで、ジャンプ台もあった。頂上までは、どの位時間がかかって、何時ごろ何処に下りたらいいのか、は無確認のまま。天気の見通し、も無確認のまま。食料の量は、服装は、無頓着、無関心。
登り口で地元の農家の夫婦らしき人から、口を揃えて、こんな時間から登るのですか、と怪訝がられ、急ぎなさい、と注意された。急がなくてはならなかったのだ。体力に自信があった私達は、急ぎ足というよりも、ランニングだった。富士山登山マラソンが毎年行われるが、あんな調子で駆けたのです。想像してみてください、走っている最中も、いろんな話をした。ゲラゲラ笑った。幾らスピードを上げても、苦しくなかった。楽しかった。太陽がまだ陽がさしている間に登頂できた。山頂は、畳3畳ぐらいのスペースだった。そこで、夕日に向かって、二人揃って「キジを撃った」、関東名物連れションだ。裸になって両手挙げてのバンダイの記念写真を、互いに撮り合った。そこまでは、よかったのですが、下りには苦労した。最悪だった。頂上だから夕日に照らされていたものの、少し下山するだけで、もう谷間は薄闇に覆われていて、高度を下げていくたびにその闇がドンドン濃くなって、そのうち真夜中状態の真っ暗闇になってしまったのです。雨がポツリと顔に落ちた。コースの表示が見えない。町の灯りが、はるか遠くの方で、ポツンと見えるだけ。ただ遠くをぼんやりと見つめながら早足で歩いた。雨がポツリポツリと降り出した。街の灯りだけが頼りだった。望みの灯りだ。遠かった。
灯りに向かって歩いてはいるのだが、行き先が解らない。宿泊の予約は勿論、宿泊場所さえ決めていなかった。最悪の場合は野宿も覚悟していたのですが、雨に対する用意はしていなかった。
この二人は何かにつけていい加減だったのです。
なんとかなりますよ、大丈夫ですよ。そうか? それならエエけど、頼むぞ。こんな会話ぐらいの打ち合わせで、今まで何度も、思いつくままのことを実行してきた。信頼しきっている二人なのでした。
夜の9時過ぎになろうとしていた。平坦な山道に下りて樹木がまばらになっても、曇り空のため、依然として真っ暗闇だった。幸い、雨はやんだ。
ひたすら歩いた。そのうち舗装された道路に、やっとのことで出られた。裏磐梯何とかハイウエー?、とか言う新しくできた道路だった。車が来るのを待った。30分程して、若い女性の二人乗りの軽自動車がやってきた。私等はあたかも暴漢のように、必死で止めた。マサカツが、泊まるところがあればその近くまで乗せていただきたい、と懇願した。マサカツは無類の笑顔の持ち主で、どんな人にも好かれる、このときも必中必殺技(わざ)だった。私はこの車をもう絶対逃がさないぞ、とドアーに手をかけて放すまいとした。二人の女性は姉妹のように思われた。最初は随分と驚いたようだったが、やはりマサカツの笑顔は誰をも味方にするようでした。
ヤマオカさんは、やけにお姉さんに気に入られようとしていましたね、とヌかしやがった。そんなこと、いつものことよ。嫌われるより好かれた方がいいに決まっているやろ。それに、一般的には姉の方が何かにつけて主導するわけだから、先ずは、お姉さんに嫌われちゃいかんだろう、政略だよ、マサカツ。
その後のことは、憶えていないのです。何処まで連れて行ってもらい、何処に泊まったのか、記憶がない。
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そんな思い出多い磐梯山を、この時期に再び登れそうなのだ。同業の山仲間の先輩の配慮に感謝した。まさか35年前の再現にはならないだろうが、今回は非常に楽しみにしていたのです。あの時は、私は23歳だった。どんな社会人になるのか、皆目見当がついていなかった。社会にでたら、学校で勉強していなかった分は、きちんと早い目に取り戻して、世のため人のために働くことを誓っていた。
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そんなこんな日々から、楽しい磐梯山登山を前に、私は知らず知らずのうちに私の体に負荷の予告をしていたようです。私の体は、この類の負荷が好きで、組織細胞は、お祭り前モードになっていた。
ところが、意に反して中止になった。がっかり。この火照った体を優しく慰撫するには、それ相当の代替ストレスをかけるしかなかった。そこで、今回のためではないのですが、私は以前から秘かに練り上げていた企画があったのです。
権太坂から鎌倉まで歩くことだったのです。この企画を実行することにした。
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(080811)のことでした。
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 0730 自宅を出た。/境木地蔵、やきもち坂、品濃一里塚、赤関橋、上柏尾、不動坂、舞岡、桜堂
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毎年、正月に恒例で行われる箱根駅伝の花の2区の権太坂です。この駅伝のために、権太坂(ごんたさか)の知名度は、全国版です。どのチームも、実力者を配して、勝負をかける区間です。
出発地の権太坂のことを、横浜市教育委員会が「横浜市地域史跡」で著しているので紹介しておこう。
=この辺りは権太坂と呼ばれる。江戸から西へ向かう旅人が初めて経験するきつい坂でした。日本橋から4番目の宿場であった保土ヶ谷宿まではほぼ江戸内湾沿いの平坦地でしたが、宿の西にある元町橋を渡ったあたりより、長く続く険しい登り坂になる。
「新編武蔵風土記稿」に名前の由来は、道ばたの老齢の農民に旅人が坂の名を聞いたところ、耳の悪いこの老人は、自分の名前を聞かれたと思い、「権太(ごんた)」と答えた、とあります。坂の上から神奈川の海は大変美しかった、とあります。旅人にとって、印象深い場所となり浮世絵などに描かれ、保土ヶ谷の名所ともなりました。 (以上)
武州の国と相州の国の境だから境木なのです。ここは東海道の保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置する。
境木地蔵のことは、私の地元のことなので詳しく紹介しよう。権太坂小学校の生徒なら、誰もが授業で先生から教わっています。
昔、鎌倉由比ガ浜に漂着したお地蔵さんを漁師が浜に祀った。ところが、大雨で流されてしまった。数年後そのお地蔵さんは腰越に流れ着いた。夢でお地蔵さんから、江戸の方へ行きたいと告げられた漁師は、お地蔵さんを牛車に乗せて運んだら、途中で車が動かなくなり、漁師から託された村民は地蔵堂を作り安置したところ、村が繁盛したということだそうだ。
どのコースを歩けばいいのかと考えながら歩いていたら、鎌倉まで車で行くときによく通る道を、自然に選んでいた。
歩くのと、車を使うのとは、本来選ぶべき道は違うはずだったのに。
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 0900 舞岡公園を通過。/下倉田、小菅ヶ谷、本郷台中央公園、本郷台駅、栄区法務局、横浜栄共済病院、公田、桂町、鎌倉女子大、岩瀬、砂押橋、大船警察署、常楽寺
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舞岡地区は、歴史的には白地図のように思われる。近くには日限山地蔵はあるだけで、他に歴史上由緒あるポイントを知らない。人間の営みからは置き去りにされていた地域だったのだろう。少し鎌倉寄りには、何かを彷彿とさせる地名の、公田がある。
その残された自然を、そのまま整備してできた公園が舞岡公園で、中には、田んぼや茶畑、炭火焼き、池、広場があり、タヌキ、野うさぎ、キジ、ホタルが生息している。公田は後日、調べる必要がありそうだ。
私が尊敬している同業者のスーさんが、以前舞岡に住んでいたことがあって、自宅にお邪魔したときに、ヤマオカなあ、舞岡は横浜唯一の文教区として独立するのだ、と息巻いていたことがあった。人間的にはすばらしい人なので、かねがね尊敬はしていたのですが、そのときは妙なことを言うもんだと思った。いや、舞岡には彼以外にも立派な人がいることは十二分に解ってはいるのですが。単なる彼一流の悪ふざけかな。
私のリュックには、おにぎり2個と新聞2日分と今読みかけの本が入っている。おにぎりは昼飯用、新聞と本は道中涼しい所で休みをとりながら読む心算でした。
ところが、本郷台駅近くまできた辺りから、足が重たくなってきたのです。まだまだ、先が長いことを思うとのんびりしていたら、バテてしまうのではないかと不安になってきたのです。炎天下、長く時間をかけると、ヤバイと思い始めたのです。
コンビニで62円の氷菓を買った。この安くて栄養の無い氷菓は、後味が悪くなくて、好きなのです。
大船警察署の前で、おにぎりに手をつけた。10年程前、この警察には我が社の社員がお世話になって、専務が引き取りにきた。仕事熱心過ぎて、ちょっとやり過ぎたようでした。電柱に捨て看を張った罪です。
おにぎりを1っ個食ったら、もう1っ個あることに気がとられ、気になって気になって、やっぱり食うことにした。
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10:47 小袋谷交差点そばの公園で一息.。/北鎌倉女子学園
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車が排出するガスが、臭く感じる。私の吸気の量が増えてきたのだろうか、車の排気に顔を逸(そ)らした。どうしても車を使わなくてはならないときはしょうがないが、できるものなら排気ガスを出す車以外の手段を選びたいものだ、と痛感した。
家庭のゴミ収集車の作業中、狭い道路のために、後続の車が並ぶ。作業員は、その車の通行の邪魔にならないようにと、猛烈な働きぶりで頑張っていた。運転手はゴミ集めと運転で、テンテコマイだ。このご苦労に感謝。
旧民家を模した郵便局がある。郵政民営化の前に建てたのだろう、何か意図があったのだろう。
小袋谷一帯は、地下の水位の低い所で、あっちこっちで湧き水がでているのです。この地域で、我が社が建売住宅の分譲をしたことがあった。その敷地の一部から水が湧き出ていた。ということは、敷地の地下部分が水でゴチャゴチャになっているのでは、と心配したのですがそうでもなかったのです。水路がきちんとできていて、水はそこだけを通っているだけで、水路を壊すことなく出口を確保さえしておけば、恐れることはない。井戸は、ほんの少し掘るだけで、水が豊かに溢れ出すのです。湧き水を近所の人たちは、洗濯や野菜を洗ったり、庭や道路の水撒きに使っている。
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11:00 北鎌倉駅到着。/円覚寺、明月院、建長寺、鎌倉学園、巨福品坂(こぶくろさか)、切通し、近代美術館
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やっと、この道中の先に目安がついた。円覚寺でもゆっくり見学してみるかと、入場門に近づいた。入場料、大人300円とある。躊躇うことなく拝門しなかった。でも、俺には知恵があった。以前に映画好きの友人に誘われて、円覚寺の墓地にある小津安二郎の墓をお参りにきたことがあった。その時に知った、墓地のための入り口ならスルーできるのではないか、と思って脇の方に廻ってみたのですが、案に反してそこにも検問所があった。
歩き出した。
行儀の悪いドライバーは、未だに減らない。ノロノロ走る車の横を歩いていたら、ドアーが開いて、そこからティッシュを路上に投げ捨てるではないか。それも、私が歩いている、目の前にだ。車内でのゴミは、ゴミ箱に貯めて置いて、車から降りるときに処分するのではないのか。こんな馬鹿に誰が育てなのか。世なのか、親なのか。
建長寺を過ぎた辺りで、巨福品坂、という字を見つけたが、読めないので誰かに聞こうと、メモして帰った。鎌倉が発行しているパンフレットで「こぶくろさか」と読むことを知った。コブクロト読んで、その文字が巨福品?、それに小袋谷もあったなあ。なんだかよく解らないが、文字を較べて、自分なりに理解した。
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11:30 鎌倉鶴岡八幡宮到着。/源氏池、平家池、雪の下、政子と段葛(だんかずら)、静御前(静の舞)、源頼朝
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参拝者が手水するところで、200ミリリットルのペットボトル1本分ぐらい、水を飲んだ。手水には作法があって、柄杓(ひしゃく)で水をすくい両手を清める、そして柄杓をふところに抱き寄せるようにしてから口をすすぐのです。この際、柄杓には口を触れないようにすること、と注意書きがあったが、私は柄杓に水を一杯にして口をつけて6杯も7杯も飲んだ。喉が渇ききっていたのです。今回に限って、許してタモレ。
何とか鎌倉まで歩き通せたことを、自宅にいる家人に報告の電話をした。数回の着信音の後、電話に出た彼女は、私の報告を聞くまでもなく、今、北島が世界新で金メダルよ、と興奮シマクラ千代子で言ったまま、ガチャンと一方的に電話を切るではないか。北京五輪で、北島康介が100メートル平泳ぎで世界新で1位になったのです。後日、200メートル平泳ぎにおいても1位で金メダルを獲得した。この200では世界新には及ばなかった。これで、北島はアテネと北京の2大会で、100,200の平泳ぎで4個の金メダルをとったことになる。彼女にとって、私が元気ゆえに、私のことなんてどうでもよかったようだ。
静御前の悲劇をメモしておいたから、それを書き加えます。
=平安時代に末期、源義経に愛された「静」は平家滅亡後、兄・頼朝との確執から奥州に落ち延びた義経の悲運を憂い、大槻の里(現;郡山市大槻町)の池に身を投じたと言い伝えが今に残る。
源頼朝が政子の安産を祈願して作った段葛(だんかずら)を、ゆっくり歩いた。クールダウンです。
ーーーーーーーーーーーーツꀀ
12:00 鎌倉駅到着。夕方、鎌倉の浜で花火大会があるようで、浴衣姿の若者が目立った。

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