日本の女子柔道界は、初期の頃山口 香さんが女(姿)三四郎として頭角を現し、その冠はヤワラちゃんこと谷 亮子(旧姓・田村)さんに引き継がれ、それからは百花繚乱、多士済々、優秀な選手が次から次と現われて、現在はどの階級にも選手は充実している。観る者を楽しませてくれている。ところが、現在は世界大会にしてもオリンピックにしても、当たり前のように男女同じように行われているのですが、かってはそうではなかったのです。
女子柔道を今日のように、国際大会として男女同じ形式で同じルールで開催できるように、関係者を説伏する運動を始めたのは、一人のアメリカ人だった。その頑張りがあったことを、今回の新聞記事は紹介していた。彼女は大好きになった柔道を国際級の大会として開催されてもいいのでは、と思い出した。そして、第1回目の世界大会を、自らの費用で開催した。彼女の並々ならぬ気概だ。柔道の草創は明治時代、創始者の嘉納治五郎さんには、女子柔道の発展までには気が行き届かなかったようだ。柔道の本家本元の日本こそ、彼女の起した運動に感謝しなければならない。柔道を愛する者は当然、スポーツを愛する者は彼女の存在を肝に銘じよう。
嘉納治五郎は、1882年(明治15年)講道館柔道を創始した。「柔道の父」と言われている。正式な名称は、日本伝講道館柔道と言うらしいが、外国人にはこのフルネームに馴染みがないだろう。海外では、JUDOだ。1964年の東京オリンピックで初めて正式種目に採用された。それからの、海外での普及振りには目を瞠るものがある。欧州、ロシア、ブラジルでは多くの優秀な競技者が続々と輩出した。特にフランスでは、柔道は礼儀を重んじることから、子供の教育に熱心な親の感心が高く、多くの柔道教室が開かれている。登録競技者が50万人に達した。日本のそれは20万人ですから、フランスにおける人気の程が想像できます。また国際柔道連盟の本部は、本家日本ではなくて韓国ソウルにある。このことからも、元々日本から生まれた競技だが、今や全く国際的になって、勝負においても本家といえども、甘くはない。苦戦を強いられているのが現状だ。JUDOは、ルール改正をドンドンやってくる。柔道着のカラー化、今はランキング制の導入だ。
下の記事は、この嘉納治五郎が「柔道の父」なら、「女子柔道の母」はラスティ・カノコギさんだ、という内容です。
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20090214
朝日朝刊
文・写真 村上尚史
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米国人女性で最高の7段を持つ。「柔道は人生の教科書。他人を尊敬し、自ら磨くことで成長できた。一生『柔道家』でいたい」。この人なしに、女子柔道の隆盛も、ヤワラちゃんの五輪メダルもなかった。
ニューヨーク出身、10代の頃は不良少女だった。家庭は貧しく、やり場のない不満と怒りを路上で殴り合うことで発散した。19歳で柔道に出会う。小よく大を制する場面が「魔法のようだった」。夢中になった。
1950年代、柔道は女子の試合を認めていなかった。髪を短く刈り上げ男装して畳に立った。59年、州大会の団体戦で優勝した。だが女性だとわかると、1人だけメダルを剥奪された。「屈辱だった。これからの人にこんな思いをさせたくない」
柔道界に女性への門戸開放を求めて立ち上がる。ニューヨークで自力で開いた80年の第一回世界女子柔道選手権は、家を抵当に入れ、手製のTシャツを売って資金を集めた。国際オリンピック委員会相手に論争を挑み、92年のバルセロナ五輪での女子柔道の正式種目採用を実現した。
長年の功績が認められ昨秋、旭日小綬章を受賞した、60年代半ば、米国に来ていた鹿子木という姓の日本人柔道指導者と結婚している。
07年秋、骨髄腫で余命3年と宣告された。それでも柔道について語るとき、力強い笑顔を失わない。「米国に日本女子のトップコーチを招いて教室を開くのが夢。たとえ私が死んでも後に続く人に道を残したい」
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