2010年1月30日土曜日

桜の森の満開の下

20100129〈金〉

19;30~

桜の森の満開の下

坂口安吾/作  広渡常敏/脚本・演出  池辺晋一郎/音楽

東京演劇アンサンブル

ブレヒトの芝居小屋

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職場のスタッフは、私が練馬の関町に行ってくるわ、と言えばもうそれで全て了解してくれるのです。一部には、私のことを飽きれた奴だ、と思っている人もいるかもしれない。早い目に上がるけど後は頼むわ、と言い置いてブレヒトの芝居小屋に向かった。

昨年、2009年4月の公演を楽しみにしていた。

だが、主演の公家義徳さんが舞台稽古の最中に怪我をして、突然中止になった。残念な思いを味わってからもう1年近く経ったのだ。光陰矢のごとし、とよく言うが、一日一日が飛ぶように過ぎていくのには驚く。

早く、19:00に着いた。ロビーでは焼酎を売っていた。なんと売り子さんが、6代目?7代目?の「銀河鉄道の夜」の現役ジョバンニさんではないか。昨年も一昨年も、舞台の上の彼女にはお会いした。今日は売店の店長さんだ。勇気を振り絞って焼酎1杯ください、と、声は引きつっていた。濃い目にしますか、淡(うす)い目にしますか、と問われ、なんと気の効いた店なこと!!、特別濃い目にお願いしますと迷わなかった。ジョバンニはお湯を入れてから、焼酎を入れますので、自分でストップと言ってください。どこの酒場でもこんな調子だったら、日本中がアル中ばかりになってしまうではないか。もう一人、この焼酎コーナーから離れようとしないオジサンがいた。このオジサン、少し酔っていた。ジョバンニの説明によると、このオジサンの娘さんがこの劇団の照明係だと言う。そんなことを話しているところに娘さんが来て、父に向かってこれ以上お酒を飲まないようにと苦言、怖い顔をして去って行った。酒飲みのオヤジはどこでも嫌がられるらしい、これって常識なの?

芝居は、舞台正面に置かれた屏風を破って、男と女が大きな音とともに飛び出して始まるのです。外国では、この初めのワンシーンだけで、劇場内が大混乱になるほど驚いてくれました、と龍氏。

1967年、檀一雄氏の進めによって広渡常敏が脚本して初演、その後演出を変えて再演し、現在に至る。90年のニューヨーク公演を皮切りに、91年ソウル、99年ロンドン、ウラン・ウデ、そして2005年のアイルランドの3都市で公演を行い、その都度高い評価を受けている、東京演劇アンサンブルの代表作だと、パンフレットには書いてあった。

原作を、よくここまでお芝居に仕上げたものだと感心させられた。脚本、演出を担当した広渡常敏さんの類まれな才能に驚嘆した。音楽、衣装、舞台演出、小物に至るまで奇抜だった。雪を模した紙吹雪をドンドン降らせた、そして風を吹かせた。宙吊りされた女、その下では男が女を背負っての動きか、見慣れぬ動きで、観客の目を瞠らせた。女房たち数人、生首たちの歌舞伎の手法を巧みに取り入れた不思議に絡み合った舞踊にも、私は興味をもった。

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お芝居が終わって、劇団が手作りの料理とお酒を用意してくれた。

舞台を担当した劇団の龍氏が、この舞台の装置や道具、セットの工夫や苦心したことを熱い思いを込めて話してくれた。昨年の暮れ、「銀河鉄道の夜」を観た後、必ずこの芝居を観に来て欲しいと強く誘われた。昨夜の彼は雄弁だった。あの屏風だって、タリさん(広渡常敏さんの愛称)と、いろんな屏風を検討したんですよ。海外で好評を博した話で盛り上がった頃は、もう興奮の絶頂だった。そりゃそうだろうな、地球の極東の国からこんな演出で乗り込まれたら、どこの国だって度肝を抜かれたであろうと、容易に納得できた。国毎に安全基準や消防の規制が違って、即応しながらこなしてきたのですが、それは大変でした、と言っていた。だから、此処、私たちの芝居小屋では好きなようにやれるので苦労なし、楽しいことばかりです。この仕事に就くまでは、「芸術は爆発ダ」の岡本太郎氏の処で働いていた。そこでの仕事のことも、もっと聞きたいと思ったが、時間がなかった。私との共通の友人の、ソニーの部品作りの会社経営者の昌氏、いわき市でスイミングのコーチをしている西氏のことにも話題が飛んだが、これもじっくり話せる時間がなかった。

ツムにも会えた。ツムは龍氏の姉で、かっての劇団員だった。「銀河鉄道の夜」の2代目のジョバンニだった。大学時代からの知り合いだから、かれこれ35年以上のお付き合いだ。今から20~25年前に、弊社のクリスマスの企画として横浜市中区関内のYMCAの最上階にある教会で、ツム一人による「銀河鉄道の夜」の朗読会を催したこともあるのです。社員は勿論、協力会社の人たち、サポーターに大変喜ばれた。今は、家事の傍ら軽自動車でお米を運んでいるとか、言っていた。彼女を前に懐かしさがドンドン湧いてきて、ツムの夫のこと、駆け込み出産のこと、仕事のこと、共通の友人のこと、それぞれの家族のことを、あれも話したい、これも聞きたいと思うことがいっぱいあったが、嗚呼、時間がないのが悔しかった。ツムの夫が彼女を迎えに来た。彼とは、先ほどのYMCAの朗読会以来だ。立派な体格だった。

ツムと龍氏の父=洋氏は、この劇団の代表者だ。大学時代、私がお世話になったテレビドラマの脚本家だった牛氏から洋氏を紹介され、この劇団のお芝居によく連れて来てもらったのです。今夜、洋氏の奥さんに初めてお会いした。ツムが来ると龍氏から聞かされていたので、カメラを持ってきた。この家族を纏めて撮ろうとしたら、洋氏の奥さんが家族揃って撮ることを、強く願ってくれたのです。奥さんは、家族が揃って撮った写真が、我が家には一枚もないのです、みんながバラバラなので、撮って、撮って。この写真を奥さんに、多い目に現像して贈ろうと思った。

車で来たのでお酒は遠慮したが、劇団員が作った料理に舌鼓を打ちながら、龍氏やツム、代表者の洋氏らとお芝居の話や身辺の出来事を話していると、此処が、この劇団が、独特な空気が漂う不思議な世界を作り出しているような気がしてくるのでした。富、金銀財宝とか、株や借金とか、身分や所属とかとは無縁の世界だ。劇団の出し物が、私と気脈が通じていることに、この快さの源があるのだろう。この酒盛りの誰の顔にも、無垢で、心の豊かさが滲み出ている。きっと、みんながこの劇団を愛しているのだろう。愛しながら、自分のことを確かめ合っているのかもしれない。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」風に言わしてもらえれば、自分の自分探しなのかもしれない。私も、此処では心穏やかに素(す)で居られる。みんなは同志なんだ。此処で、いつまでもいつまでも、時間を過ごしたいと思った。万一、此処のサロンならば、どんなトラブルが発生しようとも、民主的な手法で平和的に治まるだろう、と確信した。そんなことを洋氏一家に話したら、にっこりウンと頷いておられた。

一つの気球船に乗り合わせた、クルー仲間のようにも感じた。

大学時代は40年前、坂口安吾の本を真剣に読んだ。同時代の織田作から太宰、田中英光、檀一雄も好んで読んだ。どてらを羽織って酒を飲んでいる安吾、日本海の冬の海岸を寒風に吹かれながら歩く安吾、レンズのぶ厚い丸い黒縁メガネの安吾が布団の中で本を読んでいる、そんな写真が目に浮かぶ。

安吾の短編はどの作品も面白かった。探偵物や歴史物が面白かったと記憶に残っている。なかでも、今回の「桜の森の満開の下」は、民話からとった題材がいかにも安吾らしくて、ストーリーは簡単だったので、ほぼ確実に憶えていた。

が、長編は面白くなく、ただ、牛の涎(よだれ)のように楽しくもない話がこれでもか、これでもかと続くのです。男と女がああでもない、こうでもないと。私は、意地でも読み通してみせるとむきになって読んだが、結果、空しさと疲労だけを覚えた。作者と読者、お互いに意地を張り合っていたように思う。そんな面白くもない本を何故、そこまで我慢して読むんだと聞かれても、的確には返答できない。この苦しい本を読みこなさないと、俺の明日はないんだ、なんて自画自賛、いっぱしの安吾通を自任していたのです。

 

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(男と女)&(広渡常敏)

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(パンフレットより)

花というのはおそろしいもんだな。

花の下では風がないのにごうごう風がうなっているような気がしてくる。

花びらがぼそぼそ散ってくると、こっちの魂も散っていのちがだんだん衰えていくようだ。

 

桜の花が、間もなく咲く。

桜の花が咲くから、それを見てから旅立つことにしたい。

どうしてなの?

桜の森の満開の下へ行ってみなければならないからだ。

もう一度あの下へ行こうと約束したんだ。

だれに?

俺にだ。

なぜ行ってみなければならないの?

花が咲くからだ。

花が咲くから、なぜなの?

花の下には冷たい風がはりつめているからだ。

花の下にかえ?

花の下は涯しがないからだ。

花の下がかえ?

わたしも花の下に連れて行っておくれ。

だめだ、それはだめだ!

俺一人で行かなくてはだめだ!

桜の森の満開の下は俺一人で行くんだ!

 

お前は淋しいっていうことがどういうことだか、わからないんだね?

淋しいということばを知らないんだね?

山賊のことばでなければいえないこともあるぜ!

 

 

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               (ジョバンニと私)

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男と女 (公家義徳・原口久美子 )

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(ツム、龍氏と父母殿、志賀澤氏、私)

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パンフレットより

吹き抜ける安吾の風

岩波 剛(演劇評論家)

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奥行き深く 真骨頂舞台に

無頼派、異端、風狂とさまざまに呼ばれる坂口安吾は、日本の戦後文学といわず文化の歴史で、その名を逸することのできない異能の人である。「安吾の本質」の中には「激越な、求道的な、あるいは破壊的な狂気が宿って」いたと檀一雄はいうが、”狂気”のエネルギーでももってしなければ、あのすさまじい権威への抵抗はありえない、そんな戦中・戦後の混迷動乱期を生きたのだ。小説、エッセー、文化論から人生案内、巷談までその筆は奔放であり広範囲だったが、生誕百年を迎えてなお読み返され、論じ直されているのを見ても、いわゆる文化人などとは質の違うことは明らかだ。

その代表作ともいえる作品を舞台化したものが、東京演劇アンサンブルの「桜の森の満開の下」である。脚本・演出の広渡常敏は、2006年に亡くなったが、安吾の血をひく詩人であり、デカダンであり、反抗者であった。この劇は安吾の作品であり同時に自立した舞台芸術であって、安吾の風がときに嵐のごとく、ときに沈黙となって吹きぬけてゆく。

いきなり巨大な屏風を踏み破って、山賊が美しい人妻を引きずり出すというぎょっとする幕あき。宙を飛ぶ美女と山賊の道行き、女がもてあそぶ人間の生首、血しぶきはカラーテープとなって噴出し、歌舞伎の手法、モダンな舞踊もふくみ込みながら、美女が花びら闇に消えるまで、ごうごうと桜吹雪が舞い続ける。

「サクラ」は日本の象徴、しずこころなく花の散るらんーーーの静けさ平穏を日本的美意識と思い込んできた外国人が驚いたのも当然だろう。すでに海外五カ国へ遠征している。

ロンドンでは「美と残酷のコントラスト」が評価され、ニューヨーク紙には「身も凍る神秘的な芝居」と書かれたが、この華麗・過激な舞台は、これが主題だと一言で言えない謎、多義的な闇をはらんでいる。アイルラアンドではそのお国柄らしい寓話が読まれた。「自然・大地に根ざしていた男が、都の美女に目がくらみ、手に入れた末に喰い殺されそうになる。美女と見たものは鬼だった。つまり美女とは西欧文明ないし資本主義の隠喩なんじゃないか」と。広渡常敏は一言「これは詩だ」としか言わなかったが、どんな深読みも楽しみ方もこばまず許す奥行きの深さが、風圧の人安吾の真骨頂だろう。

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広渡常敏『青春無頼』より

「ぼくらが自分にとってよくわかった、既知の安全な場所に踏みとどまっていり限り、ぼくらはナイーブにはなれない。自分にもわからない未知のなにものかへむかって自身を投げ出していく時、はじめて”狂気”が発生して演劇空間が創り出される。サルトルはそれを自由と言ったのだった。」

2010年1月28日木曜日

日航経営破綻、更正法申請

以下の文章は、全て201020の朝日新聞の記事からより抜粋させていただきました。日本航空の経営破綻には、いろんな問題が含まれているので、この倒産劇はどうしてもマイファイルにして保存しておきたい。

政管業がもたれ合った結果、倒産は当然の結末だった。

潰れるべきして、潰れた国策企業の象徴的な大事件だ

1面

日本航空は19日、東京地裁に会社更生法の申請をした。これを受け、官民が出資する「企業再生機構」が同日、日航支援を正式に決め、政府が承認した。運航や営業は平常通り続ける。機構は日航を管理下に置き、3年以内の経営再建を目指す。グループの負債総額は2兆3221億円で、金融を主力事業としない企業としては、最大の経営破綻になった。

会社更生法を申請したのは、持ち株会社で東京証券所1部上場の日本航空、中核の航空事業を担う日本航空インターナショナル、金融会社ジャルキャピタルの3社。グループ連結での債務超過額は8676億円(2010年3月末見込み)に達する。東京地裁は同日、更生手続きの開始を決め、管財人に機構と片山英二弁護士を選んだ。

日航と企業再生機構がまとめた事業再生計画案によると、マイレージポイントや発行済みの株主優待券は今後も従来通り使える。燃料費など一般商取引の債権、航空機のリース債権などは保護される。一方、日航の株式は無価値になる。東京証券取引所は2月20日に日航株の上場を廃止する。

機構は、更正法申請前に日航の借金減額などで大手銀行と大筋合意。国内大企業では初の「事前調整型」の法的整理と位置づけている。今後、金融機関の債権放棄や企業年金の減額を実行。政府保証付きの日本政策投資銀行の融資も焦げ付き、少なくとも440億円の国民負担が生じる。

機構は日航に3千億円以上を融資し、日本政策投資銀行とともに6千億円の融資枠を設ける。1兆円近い公的資金枠を使って日航の財務体質を改善。グループで1万5千人超の人員削減など抜本的なリストラを進め、11年度の黒字化を目指す。こうした内容の更生計画を6月末までに決め、債権者の同意を得て8月に裁判所の認可を得たい考えだ。

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政官業もたれ合い響くーーーーーーー(野沢哲也)

国を代表する「ナショナル・フラッグ・キャリア」の日航が法的整理に至った背景には、政官業がもたれ合う「責任者不在」の構造があった。

自民党政権は地方空港を造り続け、完成すると航空会社に就航を迫った。全国97の空港と新幹線、高速道路が旅客を奪い合い、2009年度上半期、日航の国内線の7割近い路線が採算の目安とされる利用率60%を下回った。

旧運輸省・国土交通省は、空港建設と維持のために着陸料を高くし、航空会社の競争力をそいだ。01年の米同時多発テロ後、国際線需要の低迷から日航の体力が弱ると、抜本改革を先送りしながら日本政策投資銀行の増資引き受けや追加融資で延命を図った。

日航自体にも問題があった。05年に相次いだ運航トラブルや社内の派閥抗争などで会社の評判が下がり、客離れにつながった。リストラや機種を更新するスピードでも全日本空輸に後れをとった。

08年秋のリーマン・ショック、09年春の新型インフルエンザ流行という世界の航空業界を襲った大波にあらがう体力は、日航には残っていなかった。

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天声人語

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曇り空の下、技術陣の気がかりは離陸や巡航ではなく、着陸だった。ジャンボ機の初飛行である。あの巨体が無事地上に降りるのか、との疑念が航空専門化の間にあったからだ。

開発リーダーのジョー・サッター氏が自伝(堀千恵子訳)に記す。〈威風堂々とした外洋航路船ばりに滑走路に降下してきたかと思うと、静かに滑空し、それはそれは見事な着陸をやってのけたーーー

いまや真の飛行機が手に入り、成功もどうやら夢ではない〉

空の旅を大衆化した立役者は明日、就航40年を迎える。ロングセラーの最大の顧客が、法的整理に入った日本航空だった。リストラの一環として、効率の悪いジャンボ37機をすべて退役させるという。一つの時代の終わりを思う。

評論家の佐高信氏は「役所と民間の悪いところを合わせたような会社」と辛辣だ。政治に弱い体質に大企業病が宿っていた。ジャンボの大量購入も、対米配慮と無縁ではあるまい。空港を乱造した政治家、天下り官僚の責任は不問で、また税金が投入される。

日航でジャンボを長く操った田口美貴夫氏は、高度も速度もゼロから燃料満載の400トンが突き進む。整備から操縦まで、全てが完璧で初めて機体は舞い上がると、著書「機長の700万マイル」にある。

国家機関という空港に不時着し、会社更生法の格納庫で身軽になる日航。初めての着陸に固唾をのんだジャンボ開発陣のように、納税者は再びの離陸を厳しく見守りたい。天候がどうであれ、今度はしっかり飛んでもらう。

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社説/JAL法的整理

国民負担増やさぬ再生を

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政府の全面支援で日本航空を再生する取り組みが、正式に動き出した。日航がきのう会社更生法の適用を申請し、官民出資ファンドの企業再生支援機構が支援を決めた。

政府が関与しての「事前調整型」法的整理で、昨年6月に米政府が自動車大手のゼネラル・モーターズ(GM)の再建に適用した手法だ。日本では初めての試みである。

日航は巨額の債務超過に陥り、政府支援なしでは清算に追い込まれかねないほど経営が悪化していた。安全運航を確保っしつつ日航が担う国民の「空の足」の機能を再生するには、法的整理が避けられなかったといえる。

日航のマイレージや燃料などの商取引債権は、守られることになった。さもないと客離れを招き、燃料購入が滞ったり機体を差し押さえられたりすることも懸念された以上、やむを得ない措置だといえよう。

公表された再建計画では経営陣が総退陣し、社員を1万5千人削減する。現役・OBの企業年金は大幅カット、金融機関は債権の8割強を放棄。株券は無価値となる。

こうして利害関係者が痛みを分かち合うだけではなく、国民も巨額の負担を背負い込む。確定している分だけでも、日本政策投資銀行による政府保証つき融資の焦げ付きで440億円の国民負担が見込まれる。

政府ぐるみの支援が国民負担をさらに増加させる危険もある。それを最小限にとどめる努力が政府と日航に求められる。その意味でも、肥大化した路線網やサービス体制を現状のまま維持することは許されない。経営の徹底したリストラが必要だ。

路線の一部を他社に譲り渡すこともためらるべきではない。一方、政府のてこ入れで競争相手の全日本空輸や新興航空会社が不利な立場に置かれるようなことがあってはならない。

日航の経営悪化は自民党の長期政権と霞ヶ関の官僚にも重い責任がある。過剰な国内空港建設を続け、不採算路線への就航を日航に求めた。そんな航空行政が「親方日の丸」の甘い経営を長年にわたり放置した。

日航会長には民主党に近い大物経済人の稲盛和夫京セラ名誉会長が就く。世界的企業に育てたカリスマ経営者とはいえ高齢でもあり、個人の手腕に寄りかかるわけにはいかない。

1985年のジャンボ機墜落事故の後、伊藤淳二元鐘紡会長は社内抗争や労使紛争に巻き込まれ、辞任に追い込まれた。日航の体質とも言われた派閥抗争や複雑な労使関係を一掃するにも、社内外から人材を抜擢することが求められる。

日航は国民に対する責任の重さと過去の教訓をかみしめ、出直し創業に挑んでほしい。

2010年1月24日日曜日

安保改定50年

1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約と同日に締結された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」を失効させ、新たに1960年(昭和35年)1月19日に締結したのが「日米安全保障条約」だ。日本からは岸信介首相、米側はアイゼンハワー大統領だった。

この17日で、米安全保障条約が締結されてから、50周年を迎えたのです。

60年の反安保闘争は、市民、学生、労働者を巻き込んで、凄まじい闘争が繰りひろげられた。東大生の樺美智子さんが機動隊とデモ隊の混乱の中で圧死した。60年安保は、私が中学生だった頃だ、新聞やテレビを見ては、聞いては、読んでは圧倒された。

70年は安保の自動延長阻止のための闘争だった。全学連が華々しく活動した。東大闘争、日大闘争、新宿騒乱、佐藤栄作訪米阻止、佐世保エンタープライズ寄港阻止、その闘争は安保粉砕から始まって、大学紛争に広がりを見せた。

当時の私は体育会のサッカー部に所属していて、不思議な胸騒ぎを感じても、静観するしかなかった。この不思議な胸騒ぎの正体が、その後の私の人格の形成と共にはっきりしてくるのですが、その時はまだ理解できていなかった。日米安全保障条約の中身が解らなかった。

だが20歳の学生だった私にも、大半の活動していた人には、政府の後ろめたそうな作為がなんとなく見破っていたような気がする。あの時の佐藤元首相の病的に人相の悪かったことから、何か裏がある、と直感で判っていたのだろう。

後に、佐藤栄作首相と米ニクソン大統領が沖縄返還にともない、核密約を交わしていた文書が佐藤元首相の次男が現物を保管していたことが、最近になって明らかにされた。日本に「重大な緊急事態」が発生した場合は、米国が再び核兵器を持ち込むことを認める、と約束していたのです。佐藤元首相は、国民には沖縄も本土並み非核三原則を日米の合意事項だと胸を張っていた。この元首相は日本人として不名誉なノーベル平和賞を受賞したのだ。受賞に最も不適格な人物が受賞してしまったのだ。

学生や市民、労働者の行動のエネルギーの源は何か、このエネルギーを羨(うらや)ましく思ったこともある。当時、私の大学では、安保粉砕から授業料値上げ反対、自治会館自主管理獲得に熱を上げていた。そして、入学して2年間はロックアウトされて、構内には入ることができなかった。私は、「団結」という言葉を嫌い、「連帯」という言葉に好感を持つようになっていた。アジダスのサッカーバッグには、「檄」と大きく書いていてはばからなかった。自分自身に対して、何もかも奮い立たせていた。

その後、80年は、90年はなんとなく過ぎ去っていった、、、、、、、。社会人になって仕事に終われ、アンポの関心は全く薄れていったようだ。それほど、企業戦士願望が強かったのだろうか。70年の胸騒ぎで動揺はしたが、当時、私は確実に怒っていた。その怒りの対象は何だったんだろうか。

今では、世論調査では日米安全保障条約を日本人の大半(7割)が是として容認している。

この安保50年を期して、朝日新聞では下の二つ記事を載せた。記念すべき時期の記事として転載して、マイファイルに納めた。

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20100119

朝日・朝刊

安保50年問われる変革

編集委員・加藤洋一

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日米安全保障条約は19日、署名50周年を迎える。半世紀も生き延びてきたのは、条約を基礎とする日米同盟関係が国際情勢の変化に応じて、その姿を変容させてきたからに他ならない。今後も有効性を失わず存続するかどうかは、どれだけ柔軟性を維持できるかにかかっている。

旧安保条約は1951年「占領を合法化する条約」(自衛隊将官)として生まれ、60年に米国の日本防衛義務を付け加えるなどの修正をへて新条約となった。基本的な構造は、日本が米国に守ってもらう(5条)代わりに、米軍に日本国内の基地を提供する(6条)という内容で、今も変わらない。

単に「占領の延長」を超えて、独自の戦略的意義を持ったのは冷戦期。日本列島がたまたま極東ソ連軍の太平洋への出口をふさぐ形になっているため、日本の守りを固めることが自動的に米国の対ソ封じ込め戦略に寄与することになった。

しかし、旧ソ連の崩壊でこうした意義は消え、同盟は一時、方向を失う。立て直すために行われたのが95年から96年にかけての「同盟の再定義」だった。

日米同盟はいま、日本防衛に加えて、中国の台頭がもたらす変化、特に海軍力の増強にどう対応するかという地域レベルの課題、さらにテロとの戦いに象徴される国境を超えた(トランスナショナルな)脅威への対処という三つの課題を抱えている。

さらに、条約の5条が想定する日本有事に蓋(がい)然性が一層低くなり、人道支援、災害救助、海賊対策など戦闘、抑止以外の任務の重要性が高まるという変化も起きている。

加えて近年、米側では「世界の警察官」の役割を軽減し、日本などの同盟国に肩代わりしてもらおうという「世界関与の合理化」の考えも浮上している。オバマ大統領はノーベル平和賞の受賞演説で「脅威が拡散し〈安全保障の〉任務が複雑化する今の世界では、米国一国だけでは行動できない」と強調した。

こうした一連の変化に対応するため、日米同盟はすでに「グローバル化」と「マルチタスク化(役割の多様化)」が進められ、「世界の中の日米同盟」(03年の日米首脳会談での合意)となりつつある。問題は今後も、その方向に進み続けるかどうかだ。

日本では鳩山由紀夫首相が地域の信頼醸成に向け、東アジア共同体構想を打ち上げた。米側も最近「日米豪」、「日米韓」、「日米印」など新たな多国間の枠組みに関心を示している。安全保障ネットワークの重層化だ。研究者の間では「日米関係という問題の設定そのものが時代遅れ」(入江昭ハーバード大名誉教授、『世界』2月号)という指摘すら出ている。

現行の枠内で同盟の強化・拡大を図るにしても、条約が規定する役割を「解釈改正」ですでに大きく踏み越えているという矛盾がある。

次の50年に向けては、トランスナショナル化が一層進む世界で、日米同盟をどう使うのか、そのためにどう変革するのかが問われる。

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20100119

社説/安保改定50年

「同盟も、9条も」の効用

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50年前のきょう、岸信介首相とアイゼンハワー大統領が出席して、米ホワイトハウスで現在の日米安全保障条約への署名が行われた。

これがやがて、60年安保闘争として歴史に残る騒乱につながる。5ヵ月後には、全学連の学生らが国会に突入。樺(かんば)美智子さんが命を落とした。

戦争が終わってから、まだ15年だった。しかも、当時は米ソ両国による冷戦のまっただ中だ。アジアでは朝鮮戦争は休戦したものの、間もなくベトナム戦争が始まるなど、身近に戦争が感じられる時代だった。

朝日新聞の世論調査では、安保改定で日本が戦争に巻き込まれるおそれが強くなったとの回答が38%もあった。日本の安全を守る方法として、中立国になることを挙げた人も35%いた。

A級戦犯だった岸首相の復古的なイメージや強引な政治手法への反感も強かった。占領以来の鬱屈したナショナリズムが噴出したとの見方もある。

それから50年、同盟の半世紀は日本社会にとって同盟受容の半世紀でもあった。今や朝日新聞の世論調査では、常に7割以上が日米安保を今後も維持することに賛成している。

冷戦終結後、アジア太平洋地域の安定装置として再定義された日米同盟の役割はすっかり定着した。核やミサイル開発を続ける北朝鮮の脅威や台頭する中国の存在を前に、安保体制の与える安心感は幅広く共有されているといえるだろう。

日本が基地を提供し、自衛隊と米軍が役割を分担して日本の防衛にあたる。憲法9条の下、日本の防衛力は抑制的なものにとどめ、日本が海外で武力行使することはない。在日米軍は日本の防衛だけでなく、抑止力としてアジア太平洋地域の安定に役立つ。

それが変わらぬ日米安保の骨格だ。9条とのセットがもたらす安心感こそ、日米同盟への日本国民の支持の背景にあるのではないか。

米国の軍事行動に日本はどこまで協力すべきか、おのずと限界がある。国論が二分する中でイラクに自衛隊を派遣したが、もし9条という歯止めがなかったら、その姿は復興支援とは異なるものになっていたかもしれない。

アジアの近隣諸国にも、「9条つきの日米同盟」であったがゆえに安心され、地域の安定装置として受け入れられるようになった。

アジアの姿はさらに変わっていく。日米両政府が始めた「同盟深化」の議論では、新しい協力ぼ可能性や役割分担について、日本が主体的に提示する必要がある。米軍基地が集中する沖縄の負担軽減や密約の解明問題も避けて通れない。

しかし、「9条も安保も」という基本的な枠組みは、国際的にも有用であり続けるだろう。

2010年1月23日土曜日

ゴーストレストラン

1月20日(水)の夜、我が家の居間は、ゴーストレストランになっていた。

仕事を終えて、自宅に着いた。いつものように自宅の玄関のドアーチャイムのボタンを押そうとしたら、玄関扉につたない字で何やら書いた紙が張られていた。私の二女の息子・晴の見慣れた字だ。晴はこの春6歳になる。

張り紙には、ゴーストレストランへようこそ、いろいろなメニューがあります、とあった。

私は、ドアーが開くなり、ビールをください、特別に美味しいビールをください、早く早く、と晴に急かした。え、えっ、晴は頭を掻いていた。ビールは彼にとっては想定外のオーダーだったようだ。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、テーブルに投げるように出してくれた。私の長女の娘・楓は、晴のお尻を追いかけていた。可愛い3歳のアシスタントです。

夕方、急に居間の照明が切れて、家人が蛍光灯を新しいものに代えても点かなくて、代わりに私の布団の枕元にいつもある電気スタンドをテーブルに置いていた。その弱い照明のなかに決して贅沢ではない、家人の手作りの料理が並んでいた。食材の質を活かし、愛情と技で練り上げたものだ。照明器具の心臓部分が壊れたようだ。

そこで、晴は、幽霊食堂を思いついたのです。こんな機会を捉えてでも、ちゃんと遊びに結びつけるなんて、なかなか、洒落者だと感心させられた。さすが、二女の息子だ。

私の長女・実が幽霊食堂じゃつまんないから、ゴーストレストランと呼ぶことにしたようだ。そして張り紙を晴に書かせたようだ。

毎週水曜日の昼間は、長女とその子どもと二女の息子らが我が家に集まって遊ぶのです。夕食は、その参加家族らが家人の作った料理に舌鼓を打つ。全員で食事することにしているのです。それから風呂に入って、各々の家庭に帰っていく。水曜日は平日なので、長女の夫は仕事で欠席。私は、我が社の営業部門が休みなので、早く家に帰って孫の顔が見られる。私の楽しみの一つです。

私がテーブルにつくと、晴はそのスタンド以外の照明を全部消した。なんじゃ、そんなスタンドの灯りでは風流さに欠けるぞ、無粋やなあ、ローソクでも灯そうよ、と言うと、やっぱりお父さんは、そう言うだろうなと思った、とは家人の言葉です。テーブルの周りだけは少し明るいが、少し離れると薄暗くなって、もう少し離れるとそこは闇だ。雰囲気は上々だ。料理にスポットライトが当たっている。お互いの顔が浮き出て、その表情の濃淡が鮮明になって、なかなか面白かった。私にとっても久しぶりの光景だ。

交わす言葉も、幽霊のように怪しい声で、弱弱しく、空気を撫ぜるような声音(こわね)で話し合った。時には、ゴツイ声になって、幽霊はそんな声を出さないよ、と笑い合った。

晴に、ボーイさんと呼びかけると、違うよ違う、私は社長さんです、社長と呼んでください、ときた。

遅れて、仕事帰りの晴のお父さん、お母さんも食事に加わった。私はみんなの顔を眺めながら、ひたすら、お酒をご馳走になりました。

2010年1月17日日曜日

性同一性障害夫婦の「非嫡出子」

性同一性障害で女性から男性に戸籍上の性別を変えた夫が、第三者の精子を使って、妻との間に人工授精でもうけた子を法務省が「嫡出子」として認めなかった。このことを報じた新聞記事が、朝日新聞でも第一面で扱われていて、私も、こりゃどういうことだ? 何を法務省はヌかしているんだ!! と腑に落ちない気分でいた。

以前から性同一性障害のない健常な夫婦においては、第三者の精子を貰い受けた妻が産んだ子どもは、嫡出子と認められてきた。

法務省は、このような事例「性同一性障害の非嫡出子問題」は全国で6件あるが、「生物学的な父子関係がないのは明らか」として、嫡出子と認めない見解を示してきた、と新聞記事にあったが、生物学的な父子関係っていったい、どういうことなんだろう。

今回の法務省の判断に、性同一性障害者の団体からは、障害をもつ者に対する差別だと、法の下の平等に反するものだと猛烈な抗議が法務省に寄せられた。私の脳波も、この手の問題には、過剰に反応するのです。こりゃ差別ではないか、と直感で激怒した。

そして、数日(2~3日)後、千葉景子法務相は、今までの法務省の認定を見直す方針を明らかにした。

私は、この段になるまで放置しておいた法務省は批判されて当然だが、まあ、報道されてからと言えども、即、反応した千葉法相を認めたい。見直しのあり方には、「運用でできるか、解釈で可能か、法的措置が必要なのかも含めて検討しなければならない」と話した。

別件ですが、千葉法相には死刑執行の判こを押さないで欲しい。

私は、死刑執行廃止派なのです。

もう一つ別件ですがーーーー。

私は、保土ヶ谷区の権太坂に約30年前から住んでいるのです。ここは、神奈川選挙区。千葉景子法務相は、1986年、日本社会党から立候補して初当選した。私の住んでいる界隈で、選挙の度に建てられる立候補者のポスター掲示板でお会いする顔馴染みの政治家さんだ。今でこそ法務大臣ですからテレビや新聞でよくお見かけするのですが、それまでは、選挙用ポスターでしか知らなかった。私の息子が小学生だった頃、友達たちとその並んだ立候補者のポスターの一人ひとりに、この人には悪(あく)がある、この人には悪がないとか言って、遊んでいたのです。私が日頃、茶の間で政治家の悪口を言っているのを聞いて、知らず知らずのうちに、政治家を悪い奴と悪くない奴とに区別することを覚えてしまったようです。このことは、良かったことなのか、良くなかったことなのか。

千葉法相のことは、私の息子からはいつも高得点でした。「在日韓国人政治犯釈放署名」にて汚点があったにせよ、少年法の厳罰化反対、従軍慰安婦問題での取り組み、夫婦別姓制度推進、死刑廃止運動、永住外国人住民の法的地位向上推進、などの活動を私は頼もしく思っている。

だが、千葉法相が所属する民主党の幹事長が、自分の政治資金管理団体「陸山会」の政治資金規正法違反事件で元秘書3人が逮捕され、東京地検からの任意の事情聴取に、忙しいからとか、囲碁とか、カラオケとか、理由にならない理由で応じていない。この強面(こわもて)幹事長に、いいかげんにして、検察庁に行きなさい、と発破をかけてくださいな。逮捕された3人の中には、現職の国会議員も含まれているのです。

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早速朝日新聞は反応した、社説でこの上の件を取り上げたのです。

20100114

朝日朝刊・社説

性同一性障害/千葉法相の妥当な判断

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結婚している男女が、第三者の精子を使って人工授精で子をもうけたら一般的には嫡出子だが、性同一性障害のため性を変えた夫と妻の場合は非嫡出子とする。こうした法務省の認定に、兵庫県宍粟(しそう)市に住む夫と妻は納得がいかなかった。

夫婦の強い思いを知った千葉景子法相は、現行の扱いを改善し、そうした子を夫婦の嫡出子として認める方向で検討することを表明した。

法相の判断を高く評価したい。

心と体の性が一致しない性同一性障害の人たちが、望む性別を社会的に選べるようにと2004年、性同一性障害特例法が施行された。

夫は手術を受け、特例法に基づいて戸籍上も男性となった。妻と法律上の婚姻関係を結んだ。

だが、第三者から精子提供を受けて妻が人工授精で産んだ子を、嫡出子として届けようとして待ったがかかった。夫がもとは女性なので、「遺伝的に父子関係がないのは明らか」として法務省が認めなかった。同様の例が特例法施行以来5件あるという。

法律上の婚姻関係にある男女を父母として生まれた子を嫡出子と呼ぶ。その例外とされたわけだ。

第三者の精子を使い人工授精で子をもうける夫婦は年100件以上。無精子症など夫側が原因の不妊症の治療として日本では60年前から行われ、1万人以上の子が生まれたという。

夫婦の間にできたこれらの子は通常、嫡出子として出生届けが受け付けられている。

特例法は、性を変更した後は新たな性別で民法の適用を受けるとしている。親子関係について差別を受けるのは不合理だ。法相もそうした判断したのだろう。

障壁を乗り越えて心と社会的性別を一致させ、結婚した夫と妻が子どもを持ちたいと思うのは自然だ。性同一性障害で戸籍上の性を変えた男女は1400人以上いる。

同じ障害に悩む人はさらに多い。これからも宍粟市の事例のような夫婦は増えるだろう。

千葉法相が示した見直しの表現には運用の変更、法改正などいくつか方策があろう。早急に詰め、他の5例についても調査し、救済してほしい。

法務省が性同一性障害の夫を別扱いしようとしたのは、民法が子どもは生来の男女の自然生殖で生まれるものだという前提に立っているからだ。だが現実には、民法が制定された明治には想定されなかったような状況で生まれる子が増えている。

医療の進歩によって、これまで子どもを持てなかったようなカップルが子どもを持てる時代になった。それによりそった法律の考え方がもっと論じられていい。

ずっとあなたを愛してる

 

年の瀬の30日、三女の苑に一緒に映画を観に行かないかと誘っても、乗ってこなかった。この時期に誘う相手が思い付かなくて、午前中は会社でビールを飲んで、新聞読んで、インスタントラーメンを食って、一人で出かけた。

銀座テアトルシネマ、上映は13:20からだった。

切符の売り場がやけに混んでいて、ロビーにも人が溢れていた。最前列しか空席はありませんが、どうしますか?と問われ、そのことにはしょうがないとは思ったのでが、それよりも、何故、大晦日の一日前だというのに、この混雑振りは!!。東京は、私の常識が通用しないのか、と嘆息した。初老の女性たちが目立った。正月の準備はしなくてもいいのですか?掃除は、終わったのですか?そんなことを考えた。そんなことを考えている私だって、こんな処で映画なんか観ていていいの、と聞かれそうだ。

私の隣のオジサンは、予告編は真剣に観ていたのですが、この本番が始まったときから居眠りを始めた。黙って目を瞑っていてくれれば、何も文句はないのですが、このオヤジの鼾(いびき)の大きさには悩まされた。

この映画の感想を、泣いた、優しかった、愛は強かった、そんなことを文章にまとめなくちゃイカンなあと思いつつ正月の宴会シリーズに突入したものですから、手付かずにしていたら、朝日新聞・文化欄でこの映画の講評が掲載されていた。沢木耕太郎さんの文章はさすがに当を得ていて、こんな文章を読んでしまうと、私は文字を綴ることはできない。

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映画の内容(ストーリー)を紹介するのに、銀座テアトルシネマの映画案内の文章を転載させていただいた。

刑期を終えたジュリエットは、妹のレアー家に身を寄せる。長い空白期間を経て再会した姉妹はぎこちなく、ジュリエットはレアの夫や娘たちとも距離を置く。しかし、献身的な妹、無垢な姪に触れ、次第に自分の真実をレアに明かす瞬間が訪れる。--なぜ愛する息子を手に掛けねばならなかったのか?

ジュリエットには、これまでのキャリアを遥かに凌ぐ渾身の演技を見せたスコット・トーマス。監督・脚本は、30カ国以上で出版される著書を持つフィリップ・クローデル。刑務所で教鞭を執った経験やベトナムから迎えた自身の養女の起用など、本作に自己を投影させたクローデルは、心に闇を抱える者の再生を繊細に、時に力強く捉え、緊張感あふれる上質なドラマを作り上げた。悲劇的なスタートながらも、この物語の根底にあるのは、愛の強さ。罪は決して消えないが、差し伸べられた手を携え、再び本来の自分を取り戻す一人の女性の崇高な姿は、観る者の心を揺さぶるだろう。

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20100113

朝日・朝刊

銀の街から/沢木耕太郎

「ずっとあなたを愛してる」

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重く、息苦しいが、見はじめると目をそらせなくなる。

それは、なにより、主役のクリスティン・スコット・トーマスが、内部に深い虚無をたたえた元受刑者の女性を見事に演じているからである。同時に、作家であり、脚本も書いている監督のフィリップ・クローデルが、元受刑者の出所後の日常を、極めてリアルな細部によって描いているからでもある。

フランスの地方空港の待合室で、中年の女性が放心したようにタバコをくゆらしている。誰かを待っているようだが、その表情は恐ろしく暗い。

しばらくして、慌てて駆け込んできた若い女性が、その中年の女性を見つけ、ぎこちない抱擁をかわす。二人は、車に乗り込み、若い女性の家に向かう。

やがて、二人が齢(よわい)の離れた姉妹であること、長く会わずにいたらしいことがわかってくる。だが、二人の間にあるぎこちなさは、単に長く会わなかったというだけでないものがあるように現れてくる。

そして、実際、それが姉の過去に起因するものであることが明らかになる。姉のジュリエットは、長い刑期を務めたあと、刑務所から出てきた元受刑者であり、その「長い旅」から戻った姉を、結婚している妹のレアの一家が引き受けることになっていたのだ。

レアの家には、夫と、幼い養女と、養父がいる。「今までどこにいたの?」と遠慮のない質問を発し続ける養女と、声が出なくなったため、いつも静かに本を読んでいる義父。ジュリエットは、そんな存在に、むしろ救いと安らぎを覚えるようになる。だが、それでも、外界への関心と自身への興味を失ったかのような孤立の気配は消えようとしないーーーー。

この「ずっとあなたを愛している」という映画は、例えば「BOY A]のように、主人公がいったい何をやったのかということと、やったことが周囲に露見しないかということをサスペンスの軸にして展開される物語なのかと思っていると、意外なほどあっさりと、殺人を犯したことが明らかにされてしまう。その罪によって十五年間も服役していたということと共に。

殺人には恐らく二つの側面がある。死者をはさんで、人を殺したものが覚える苦しみと、人を殺されたものが味わう悲しみが背中合わせになっているのだ。しかし、かりに殺した苦しみと殺された悲しみを同時に抱え込まざるを得なかったとしたらどうなるのか。ジュリエットがまさにその困難を背負った女性だった。彼女は、殺した苦しみだけでなく、殺された悲しみをも抱え込んでいたのだ。

凍死寸前の遭難者が、小さな火にあたることで、徐徐に生気を取り戻していくかのように、ジュリエットは、妹とその家族を取り巻くコミュニティーに触れることで、少しずつ凍りついた心を溶かしていく。

その意味では、これを元受刑者の「再生」の物語と言ってしまうこともできなくはない。しかし、そう簡単に片付けてしまうと、大事なものが抜け落ちてしまうように思われる。

最後に、ある男性の階下からの呼びかけに応じて、二階にいるジュリエットがこう答える。「私はここにいるわ」

この映画は、殺人を犯して以来ほとんど生きていないも同然だったジュリエットが、この台詞を口に出すに至るまでの物語だったということになる。彼女は、「再び生きる」前に、まず「ここにいる」自分を認めなくてはならなかったのだ。

そのとき、気がつくと、それまで蒼白だった彼女の頬に、薄く血の色がさすようになっている。ジュリエットは、ようやく「長い旅」を終える契機を掴むことになったのだ。

2010年1月16日土曜日

あっと驚き、水天宮だった

20100114(木)、中央区日本橋にある某会社での打ち合わせのために、地下鉄半蔵門線の水天宮駅で14:30に不動産屋の大さんと造成設計屋の柳さんとで待ち合わせをした。

某会社は、昨年民事再生法による手続きに入り、保有資産の売却を進めていて、弊社では神奈川県のとある物件を建売用地にしたいと思って買い受け希望を伝えに行ったのです。

誰も信用してくれないのですが私には生来の几帳面なところがあって、不動産屋さんからネクタイをして来てくださいねとプレッシャーをかけられてたので、異常に神経質になっていたのでしょう、約束の時間より30分も早い目に着いた。

駅が水天宮なら、水天宮という神社がある筈だ、と待ち合わせ場所である地下の6番出口から地上に出て、うろちょろ周囲を見回すと、丁度道路の真向かいに水天宮さんがあった。

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時間に余裕があったこと、こんなデフレ不況で神にもすがりたい気持ちもあって、是非お祈りしてこようと向かった。四つ角には交番があって、その横には神社の境内に上がるエレベーターがあった。境内には、年の始まりだからか参拝者が多かった。ところが、参拝者をよく見ると、妊娠中の新婦を伴った新郎、若いカップル、宮参りなのか、産まれて少ししか経っていないと思われる赤ちゃんを抱いた若夫婦が目立って多いことに気付いた。

先ずは、社殿に向かって二拝二拍手一拝して、社員の健康、社業がなんとか立ち直れますようにと、全社員の顔、取引会社の担当者、お世話になっている金融機関の担当者、各ジャンルのサポーターの方々の顔顔を頭の中でグルグル巡らし、なんとかこの難局を乗り切りたい、その健闘振りを陰で支えてください、と祈願した。

お祈りをして水天宮の案内書でもあれば貰いたいと思って御札を扱っている処へ行った。そこで、案内書を手にして、私は始めて水天宮さんは、安産、子授けの神社であることを知ったのです。

へえ!!、ならば私の長女・実がこの6月に出産予定なのだ、いい塩梅だ!!、会社人としてのお祈りの他に、もう一つ長女の安産祈願をしようと、再び社殿の前で頭を垂れた。欲の深い参拝者だと、神さまはお思いになられたかもしれないが、山岡という男は、こんな奴なのです。お賽銭箱には少ない小銭しか投げ込めなかった。私に暫しのお時間をください、ここの地にやってきた仕事が上手くいったら、長女が目出度く出産したら、必ずもう一度お賽銭箱にもう少しのお金を準備して来ますから、それまではお待ちくださいな。

長女に水天宮さんに安産の祈願をしてきた、と電話すると長女・実はありがとうと感謝してくれた。長女は水天宮のことをよく知っていた。

造成設計屋さんが駅に着きましたと、私の携帯に電話をくれた。駅に戻りながら、水天宮にお参りしてきたことを彼に話すと、自分も17年前に娘が産まれるときに、ここまでお参りに来ましたと言っていた。有名な神社なんですよと教えてくれた。この神社のことを知らないのは、私だけだったようです。

仕事のことは、ちょっと、----。

ここで某会社の担当部長さんとは、縁がありそうなことばかりだったので、ここの会社を訪ねたことの目的は、必ず達成できるような予感がして、幸せな気分になったのです。

その「縁」というのはですねーーーーー。

先ずその部長さんの名前、苗字が私たちの仕事場がある地域の名称と同じだったことです。この苗字は地名から来ていましてネ、青森のどこかと福井の敦賀にある町の名前と同じでして、私は、敦賀出身なんですよ、と仰った。でも、一番有名なのは山岡さんの会社がある地域の名前ですけどネ。この部長さんの苗字は、--市、--港、--ベイブリッジとかで使われるーーの部分でした。

私が持ってきた弊社の会社案内をしげしげと眺めながら、御社はこの地図の処(保土ヶ谷区天王町)ですか、ときたもんだ。会社の位置に指を差していた。そうです、と応えると部長さんは実は私がこの会社にお世話になるまでは、このビジネスパークの中で働いていたのです、と。以前はビール瓶の工場だったのですよね。何でもご存知だった。そうなんです、弊社の今の事務所はそのビール瓶会社の試験場だったのです、と言うと驚かれた。ビール工場の試験場は、ビジネスパークとは道を隔てていたので、何かと便利だったようで壊さないで残されていたのです。

それから、自宅は町田の成瀬台なんですよ、と聞くと私以外の二人は町田を根城に仕事をしていて、ギョっと身を乗り出した。親近感が一気に湧いてきたようだ。造成設計屋は、上溝が自宅兼仕事場なのですと言うと、いや私は何とかゴルフ場の会員なので、一週間に一度は、北里大学病院の前を通って、上溝を通っているんですよ、ときた。北里大学病院の前には、弊社で運営しているホテルがあるんですよ、と言うと、我がホテルの近くにある古いホテルのことは見たことがある、と仰っていた。

部長に挨拶してその会社のビルを出るや、私は二人に、これは縁があるサカイにまとまります、確信したヨと言うと、ぜんざいを頬張っていた三人は、同時に頭(こうべ)を縦に振った。考えていることは三人とも同じだったのでしょう。

ジョナサン水天宮駅前店のぜんざい 1セット¥462を三人分、¥1386は楽しく美味かった。

 

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水天宮が発行しているオフィシャルガイドブック

『安産・子授かりの水天宮へようこそ』から、抜粋させていただいた。

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水天宮の由来

水天宮の発祥は、今から七百年前に、さかのぼります。平清盛の血をひく安徳天皇は、源氏の厳しい追及に京都から西へ西へと逃げていきました。しかし、ついに壇ノ浦(山口県下関市)の合戦で、源氏の軍船に取り囲まれ、祖母の二位の尼に抱かれ、母の建礼門院と共に波間に身を躍らせた。時に1185年、安徳天皇八歳の時のことでした。

お仕えしていた官女の按察使局(あぜちのつぼね)は、ひとり源氏の追っ手を逃れ、九州は筑後川に辿り着きました。局も壇ノ浦で共に入水しようとしたのですが、二位の尼に止められ、お前は生きて、我らの霊を慰めよ、との命を受けたのでした。

局は川のほとりに小さな祠を建て、安徳天皇とその一族の霊を慰める日々を送りました。これが今に続く水天宮の起源と伝えられています。

その後、有馬忠頼公により、現在の久留米市瀬下町に七千坪の敷地が寄進され、豪壮な社殿が造られました。

安徳天皇は御年わずか八歳で、犠牲となって海中に沈まれましたが、万民を救う尊い神慮によるとされ、大きな信仰を集めました。

 

今も昔も、「情けありまの水天宮」

江戸時代、大名には参勤交代が義務づけられていました。藩主は、領地を離れ、江戸詰めをしなくてはなりません。その間は、水天宮にお参りができないので、第九代頼徳公は、久留米から分霊をして、江戸屋敷内(現在の港区にあった)に、水天宮を祀りました。1818〈文政元)年、東京水天宮のはじまりです。

本来、お殿様の屋敷神として祀られたもので、一般の人がお参りすることができなかったのですが、江戸っ子たちの信仰は次第に高まり、塀越しに賽銭を投げ込む人が後を絶ちませんでした。遂に毎月五日に限り屋敷が開放され、参拝が許されました。

人々は、「情け深い」ことを感謝する際に、有馬家と水天宮を洒落て、「情けありまの水天宮」と口癖のように言いました。「恐れ入りやの鬼子母神」という言葉と共に、江戸の一種の流行語だったのです。

1871(明治4)年、水天宮は屋敷の移転と共に赤坂に移り、さらに翌年、現在の日本橋蛎殻町に移転しました。

日本橋蛎殻町界隈は、人影もまばらな寂しい場所でしたが、水天宮が移ると共に、商店が増え始め、大変な賑わいを見せるようになりました。

2010年1月12日火曜日

清水=ご苦労さん、岡崎=アッパレ、高木=これからや

去年の年の瀬に、今年2月のバンクーバー冬季五輪に向けたスピードスケートの代表選考会が、長野市のエムウエーブで開催された。

今回は、ビッグな三人が注目された。清水、岡崎、高木の三名です。

この三人の誰もが強烈な印象を我々に与えた。そのことを報じた朝日新聞の12月29、30、31日の朝刊の記事から抜粋させてもらった。こんな大事な記事こそ、古新聞の回収前に私のファイルにしまい込まないといけないのに、年末年始の宴会続きでサボっていた。

その一人は☆岡崎朋美(38)=富士急

38歳、朋美スマイル集大成へ。

女子500メートルで2位に入り、5大会連続の五輪出場を決めた。冬季五輪への5回の出場は日本女子史上最多となる。0秒05差で銅メダルを逃したトリノ五輪から4年。スケート人生28年の集大成に向かう。

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女子500メートルで2位になった。

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もう一人は、☆清水宏保(35)=コジマ

完全燃焼のラストランだった。

小さな巨人がリンクを去って行く。

1998年長野五輪で日本のスピードスケート史上初の金メダルを獲得、世界記録も4度塗り替えた選手だ。今大会では、500メートルで7位、1000メートルで9位に終わり、代表落ちは確実になった。続けてもバンクーバーまでと以前から発言していたから、第一線から去ることになろう。ラストラン。この日の1000メートルを滑り終わった清水は、観客席の母を見つめた。母の津江子さん(71)が投げ込んだ花束を拾って、穏やか笑顔で滑った。

津江子さんは、「長い間、感動をいただき、感謝しているし、長野五輪を見た時も、今日のレースも、もらった感動は同じ。こんな幸せな親はいません」。目を潤ませながら見守った。

 

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男子1000メートルで9位に終わった。

軌跡

1989、白樺学園入学

1992、日大に入学

1993、W杯に18歳で初出場し、初優勝

     世界スプリント選手権に初出場で総合3位

1996、W杯500メートルで35秒39の世界新

1997、W杯500メートルで1995年に続いて2度目の総合優勝

1998、長野五輪500メートルで金メダル、1000メートルで銅メダル

1998、世界種目別選手権500メートルで1回目に35秒36、2回目には34秒82の世界新

     日本スピードスケート界初のプロ宣言

2001、世界種目別選手権500メートルで34秒32の世界新

2002、ソルトレーク五輪500メートルで銀メダル

2006、トリノ五輪500メートル18位

2007、腰を手術

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最後の一人は、☆高木美帆(北海道・札内中)

速い15歳、実力で大舞台

高木Ⅴ「びっくりしすぎです」

15歳の中学3年生がまたも快挙を達成した。前日まで2種目で3位だったが、今度は1000メートルで優勝した。高木と同じオールラウンドの大先輩、橋本聖子・日本連盟会長は「コーナリングは世界の一流選手に近い。遠心力をもらってコーナーの出口で加速する理想の滑りができている」と絶賛する。

163センチ、57キロの均整のとれた体。

中学3年生の高木は2014年のソチ五輪の星だったはず。3000メートルで3位に入っても、「実感がわかない」と夢心地だった。安定したラップを刻み、五輪参加標準記録の4分15秒00を大きく上回った。高木の4分13秒90を、その後に滑った名取、大津、石野のW杯組は超えられなかった。

30日には1500メートルでも1分59秒47で優勝した。

幼稚園でスケート、小学2年でサッカーとヒップポップダンスを始めた。ずっと”二束のわらじ”で、中学のサッカー部ではFWとして男子に交じって練習し、スケートは冬限定。全日本ジュニア選手権で3種目制覇し、世界ジュニア選手権では総合4位に入り、「スーパー中学生」と呼ばれた。でも「そんなんじゃないのに」と肩をすくめ、どこかひとごとだった。

女子の代表枠は計10人。3000メートルの出場枠は「3」あり、他種目の結果と合わせて総合的に判断される。ただ、日本スケート連盟の橋本聖子会長は「個人的には、ソチ五輪を考えるとここで経験しておいたほうがいいと思う。伸び盛りだし」と推す。(金島淑華)

バンクーバー五輪では、1000メートル、1500メートル、団体追い抜きの3種目に出る。

 

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女子1000メートルで優勝

2010年1月10日日曜日

スポーツは人を育てる!!

下のような新聞記事を読んでしまったら、もうスポーツをこよなく愛してきた私には、忘れてしまうことが怖くなって、急いでマイファイルしておかないと気がすまなくなった。

黒木君は今年の正月に行われた全国高校ラグビー(花園)で優勝した東福岡高校のロックだ。彼が優勝の歓喜の輪の中で、「幸せ」だと言っていた。

作家玄佑宗久(げんゆうそうきゅう)さんが、この「幸せ」ってことについて著している書物=『しあわせる力』の新聞広告から、その本の一部と思われる文章の紹介があった。その文章をここに転記させてもらうことにした。

ーーー、かって日本人は幸せのことを「仕合わせ」と書いた。「しあわせ」は豊かになることで得られるものではなく、人と人との関係性でしか得られないものだ。ーーー

黒木君の「幸せ」って言葉が、まさに玄佑さんが仰っている「仕合わせ」なんではないか、と納得した。

私もスポーツで、人と人との関係性で育てられ、「仕合わせ」を感じたことは何度もある。私には、この文章が痛いほど理解できます。

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朝日朝刊

全国高校ラグビー大会で優勝した東福岡の19歳のフォワード

黒木東星(とうせい)さん

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一度は、高校を辞め、花園はあきらめた。「回り道なんかじゃなかった。幸せ」。19歳の高校3年生が、優勝の歓喜の輪に加わった。

ポジションはスクラムの核を担うロック。仲間のために密集で壁となり、ひたむきに体を張って球を守った。「トライは決めなくても、陰で支えるって格好いいでしょ」

宮崎県日向市から、ラグビーの強豪で知られる大分の進学校へ。アパートでの慣れない一人暮らし、苦手な勉強、厳しい練習。「寂しくて、何もかもつらくなって」。ラグビーまで怖くなり、8ヶ月で退学した。

受験し直した故郷の高校には、落ちた。父の貢さん(56)が営む設計会社を手伝えばいい、と割り切った。だが、186センチ、86キロ、50メートルを6秒2で走る逸材は放っておかれない。東福岡の願書締め切り1日前、コーチから誘われた。「投げ出した自分を必要としてくれて、うれしい」。年上のプライドを捨て飛び込むと、同級生は受け入れてくれた。

みんなで話し合って、戦略を立てる。勝つことよりも、考えることの大切さを学んだ。「そうしたら、何でもちゃんとやらなきゃって」。授業中の居眠りもなくなった。

中退した時、男手一つで育てた父は、怒らなかった。「つらいけど、いつか夢が見つかる」と待ってくれた。高校日本代表候補にも選ばれ、早大に進む。「父さんや仲間のおかげで道が開けた。もう逃げない。恩返ししたい」。夢には続きがある。

文・木村健一  写真・伊藤恵理奈

2010年1月9日土曜日

二人の来訪者に、乾杯!!

1月7日朝08:30、近くの神明社に社員全員で、初詣に出かけた。何もかも経費節約で、祈祷料も控えめ。各自お賽銭箱の前で、お祈りしました。貧乏会社だからこそ、お祈りしたい内容はヤマヤマある。神様は度量があって、太っ腹。図う図うしい参拝者とお思いになられたのではないだろうか。祈祷料ですか? 来年にご期待してください、と独り言。

その後は、中村社長から新年の訓示を受けて、通常の仕事に入った。

夕方に新年会を会社内で行った。これも経費節約のあおりを受けて、少ない予算で思いっきり酒を飲んだ。スタッフもそこらへんの事情はよく解ってくれていて、感謝している。

この宴席には二人の目出度い来訪者がいて、私にとっては嬉しい限りでした。一人は金融機関に勤めている山さん、もう一人は開発設計や土木工事を請け負う会社の柳さんでした。山さんは女性です。

山さんは、以前に勤めていた金融機関の時の弊社の担当者だったのです。その会社は、プロジェクト資金の融資をしてくれていたのですが、会社の都合でその業務をやらなくなったために退社を命じられた。3年間の在任中、弊社には78件の中古の戸建やマンションの購入資金を融資していただいていたのです。彼女から、退社する羽目になったことを聞かされた私は、即、君の身柄を俺に預けてくれ、と頼んだ。それは、彼女の能力を私の会社は勿論、勤務先でも高く評価されていたことを熟知していたからです。彼女を、弊社の仕事の領域内に、私の目の届く処に留めて置かなければいけない、そんな使命感に燃えたのです。身勝手な私の思いつきに彼女は、迷惑だとは思わなかったらしい。むしろ、今までの仕事が面白かったので、できるものならば、同じ仕事の転職先があれば嬉しい、と答えは返ってきた。私には思惑があった、秘策があったのです。早速、弊社のことをいつも表裏でサポートしていただいている金融機関Dの取締役の鈴さんに、連絡をとって、話を聞いてもらいたいことが発生したので、面会の時間をとってください、と依頼した。

取締役の鈴さんに、彼女の人柄、頭の良さ、気配り、仕事の的確さとスピードの速さ、それらを必死で訴えて、兎に角会ってみてください、と平身低頭お願いした。スタッフを採用中でもなかったのです。社長や専務に会わせる前に、会いましょうと言って頂き、山さんにその会社の沿革と取締役の鈴さんの電話番号を教えた。その後は、トントン拍子で入社が決まった。最初のうちは本社で、何かと教育を受けることになったようだ。入社後、1週間目あたりに会った時には、もう充分本来の、いつもの山さんらしく絶好調だった。よかったなあ、と安心した。私も大満足でした。

ところが、年が明けて山さんに横浜支店に転勤の辞令が出たのです。戦士は修業を重ねて、本丸に戻ってきたのです、なんて内心はほくそ笑んだ。その挨拶のために弊社に寄ってくれたのです。前任者の担当していた会社は、他のスタッフに振り分けて、山さんは新規開拓に専念しなさい、でも、アーバンビルド・パラディスハウスは貴女が担当しなさい、ということだそうだ。山さんの上司の弊社に対する配慮に感謝している。きっと取締役の鈴さんの気配りだ。宴会の席に彼女が居てくれると、急に華やかさが増し、元気を振りまいて、私たちにパワーを吹き込んでくれた。

もう一人は変な柳さんだ。彼とは4~5年前にはよく仕事をしたものですが、彼と私は仕事のことで大いトラブって、お互いに連絡を取らない状態が続いていたのです。弊社はその間、開発設計や土木工事を担ってくれる会社が数社あったものですから、何も柳さんに連絡をとらなくても、用は済んでいたのです。連絡を取らない間中も、彼のことだから、ひっちゃかめっちゃか頑張っていたのでしょう、私には、その辺りのことについては、興味ない。他人の会社のあれこれを推察したってしょうがない。

そんな彼が、何を思うたのか、何を考えてのことか、突然弊社にやってきたのです。数年前とは、変わらぬ表情で、変わらぬ服装で。魂胆はなにか、そんなことに私は斟酌しない。昔の喧嘩仲間が、ふらっと顔を出してくれたことに私は、面白いと思うのです。仕事をしたい、仕事をしましょうよう、そればっかりだ。以前と全然変わっていない。

そんな二人が、この弊社の新年会の宴席にいてくれるのが、私には非常に嬉しかったのです。

2010年1月4日月曜日

新年を大宴会で祝う

そら、と関係者 013

大晦日の21:00、次女の婿・竹さんと寒川神社に歩いて向かう。初詣です。私の家人、次女と孫に,頑張って! と見送られる。今回は往復、歩き通す心算でスタートした。今年一年の健康、商売繁盛、家内安全、交通安全、出産に住宅建築、などの祈願に行くのだから、苦労して行かなくてはイカンのではないかと考えた。その願い事も、参拝する二人だけの家族だけではない、社員やその家族、仕事でお世話になっている人たちのことも考えれば、尚更のことだ。

夜空の中天には、満月と星、星。二人の影は濃かった。

昨年は、戸塚の下倉田に住んでいる出さんが参加したので、今はもうない西友戸塚店の前で合流、そのまま長後街道を進んだのですが、今回は不参加だったので、権太坂に住んでいる二人は、権太坂から東戸塚駅、川上団地の横を通って名瀬街道に出た。栄橋から通称チロリン峠、瀬谷柏尾道路に出た。阿久和川に沿って、岡津、レストラン藍屋から瀬谷柏尾道路をはずれて国際親善病院、弥生台駅前を過ぎて、かまくらみちを横切って、泉警察署を左に見て進行方向のまま進む。ここでは、濃紺の夜空に、富士山の山容が薄っすらと浮き出ていた。富士山にも頭(こうべ)を垂れた。泉区役所、いずみ中央駅に出て右折、長後街道をまっしぐら。上飯田を過ぎると、そこからは藤沢市。境川を跨いで、高倉バイパス,467号線を横切って小田急江ノ島線の線下、戸谷、下土棚、東山田、宮腰、用田に。用田からは直角に曲がって45号線をひたすら、一直線。寒川神社を2キロ程を前に、竹さんの携帯電話によるナビで、畑の中、民家の路地、農業用水路を跨ぎ、また畑の中から、神社を目指す。車が多くなってきた。初詣帰りの若いカップルや家族連れが目につきだした。有料駐車場になんとか駐車させようと必死で赤いライトの点いた棒を振り回していた。そうして寒川神社に目出度く、無事に着きました。

二人が首に巻いているのは、大阪の北陽高校が15年程前に正月の高校サッカー選手権に出場した時、千葉であった試合に応援に行って私と息子の草がもらった記念のマフラーだ。先生は、中学3年生だった草に、何処にも行くところがなかったら、北陽高校においで、入れてやるから、と言っていた。北陽高校の野先生は、大阪の金ちゃんと一緒にイタリアのW杯に行ったときに知り合いになったのです。野先生の風貌から、草は恐れをなしたのだろう。絶対、北陽高校には行きたくないと決心したようだ。北陽高校は、早大卒の岡田彰布、のちの阪神の元監督を輩出した、名門校なのに。2日に福島喜多方からやってきた塚さんは、ヤマオカ、今年のラッキーカラーは、えんじ色だよ。そのマフラーもジャンパーも初詣にはピッタリやったな、と喜んでくれた。

到着01:40。所要時間4時間40分、休憩なし。竹さんの足に異常発生。先日、あざみの駅から徒歩での帰途で膝を痛めたようだ。それに、3日前にスキーに行ってきてダメージを深めたようだ。私には、決して弱音を吐かない竹さんだが、余程痛かったようで、到着後、私に訴えた。臨機応変、心配するなと慰めた。神前で、家族、社員、友人、取り引き会社の人たちの顔を思い巡らして、昨年一年を無事で過ごせたことに感謝し、今年も健康で過ごせるようにと祈った。お休みどころで、私は日本酒3本(200cc*3)、おでん、もつの煮込みを食って、バスで海老名、相鉄線で横浜へ。東戸塚の自宅に戻ったのは、07:00頃でした。帰途、境木地蔵さんにもお参りしておいた。

そら、と関係者 014

帰宅後、3時間寝た。

1日、元旦。午後は、山岡フアミリーの大宴会だ。この日だけは水入らずに、山岡家の血族だけによる宴会に決めていたようだ。

ホスト役は、私、家人、苑、ポン太、翼。お客さんは、お隣の竹さん家族(竹、花、晴)、草家族(草、元、ソ)、森さん家族(哲、実、楓)。大人9人、子供2人、赤ちゃん1人、犬2頭。仕事があった花は遅れて参加。この集まりの中で、やはり一番もてもてなのは、去年11月に生まれた草夫婦の長女ソだった。我々のしょっちゅう行う宴会に初めての参加者だ。

生まれた時は、2448グラムで、今までの我々の感覚では小さくて、退院後もお乳の関係で2400グラムまで下がって、そのときはみんなで気を揉んだものだが、今は3500グラムまで育ち、動きも活発で、あくびをしたり、くしゃみをしたり、顔もシッカリしていて、成長は順調で安心している。そのソをみんなで、抱き廻し、ホッペをつまんだり、唇触ったり舐めたり、笑ったといっては、みんなで喜び合った。

今年は、森さん宅にも第2子が6月に誕生予定で、長女が幼稚園に入園する。自宅は6月に完成予定だ。忙しい年になりそうだ。家のことは、弊社の桜と設計士の関口がきちんとやってくれそうだが、子供のことについては、私には協力してやりたくてもどうしょうもない、問題だ。

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正月2日目

09:40、箱根駅伝往路、権太坂を早稲田大学が2位で通過した。先頭は、明治大学だ。

軽くお酒を一杯あおった後、隣の竹さんを誘って、犬のポン太と翼をつれて出かけたのです。沿道の応援に駆けつけた人は、例年より多いように思えた。私はこの地に住みついて約30年、沿道に出て必ず声援を送り続けてきた。この不況時、自宅、親類宅など近場で過ごしている人も多いのだろう。どのチームにも手が痛くなるほど拍手して、ガンバレ、ガンバレと走者に向かって声を掛けた。とりわけ、母校には、はっきり走者に聞き取れるように、母校の名を、両手をラッパにして連呼した。早稲田大学には、やはり特別の思いがある。母校の名を連呼する度に、私の、いつもは静かに潜んでいるワセダの虫が、急に体中を駆け巡るのです。いつになったら、この虫は鎮まるのでしょうか。薄毛の翼は寒くて帰途早足、ポン太は歩けば歩くほど糞をした。

東京・大手町の読売新聞社の本社前をスタートして箱根の芦ノ湖畔がゴールになるのですが、何とこの距離が、往路は108キロメートルと聞いて、昨夜の除夜の鐘を叩く回数も、ひょっとして108回ではなかったかと思いついた。復路は109,9キロメートル。どこかで一部コースが変わるのだろう。そこで、除夜の鐘を広辞苑で調べてみたら=除夜の夜半(正十二時)、に諸方の寺てらで、百八煩悩を除去する意を寓して撞く百八回の鐘の音とある。選手達は何も百八の煩悩を除去する為に走っているわけではないだろう。偶然の一致を見つけただけだろうと、思い込もうとしているのですが、何かその「ココロ」を見つけた人は、私にそっと教えてくださいな。

自宅に戻って、箱根駅伝のテレビ中継に首ったけ。酒を飲みながらの観戦はきつかった。

16:00.本日の宴会のメンバーは、大学の先輩、福島喜多方の塚さんと葉山の田さん、福島いわきのスイミングクラブに勤務している同輩の西だ。

塚さんの奥さんの実家は大和市内にあって、奥さんは数年前から主人の家業である魚屋を辞めて、元はMRIの検査技師だったので、その腕を買われて病院勤めを始めたのです。夫が正月の最後の仕事をしているのに目もくれず、先に実家の大和に来てしまったので、塚原さんは、一人猛吹雪の中で魚屋の後片付けを終えてから、やってきた。磐越西線は、ダイヤより大幅に遅れていた。田舎の魚屋は大変だ。10年程前に、近所にイトーヨーカドーができてからさっぱりや、と嘆きだしてから久しい。そろそろ、商売を止めようと思うんだ、と以前も今回も口走っていた。私の住んでいる近所の商店街を見ても、彼の店の様子は想像がつく。私の今年の運勢は強運だよ、頑張れば難局を抜け出せるよ、勇気をもってがんばれよ、と励ましてくれた。

田さんは、アクサ生命の営業マンだ。学校を卒業してからも仲間とサッカーを続けている。60歳以上の大会に出場するので、今でも練習は絶やしていない。よく頑張るといつも感心させられている。今年は奥さんが、自分の母親の面倒をみなければいけないので、来られなかった。我が家の催事には必ず来てくれて、酔っ払っては私たちの4人の子供を追い回しては、泣かせていた。彼は、我が家にとって欠けがえのない人なのです。

西は水球部だった。私とは大学同期だった。しかも同じ学部だったのですが、一度も校内で会ったことはなかった。3年生からは全日本の代表選手だった。高校は熊本の済々コウで2、3年では高校チャンピオンになっている。当時、水球をやっていた学校は少なかったけれど、それにしても輝くスポーツ学生だった。今はいわき市でイトマンスイミングで水泳指導やらバスの運転手やら、雑事を受け持っているようだ。来年で定年になるのだが、何をどうすりゃいいのや、と悩んでいた。スイミングクラブ一途でやってきたので、先行き不安なのだろう。そんなことないよ、何でもええやないか、遊びながら何かを楽しめばいいじゃないか、と慰めてみたものの、儚(はかな)い助言だったようだ。私には、西の境遇を羨ましく思うこともある。睡眠薬を飲まないと眠れないという、神経が細かい奴なんだろう。

話題は、大学時代の思い出話、かっての部友の近況をそれぞれ情報を交換して確かめ合った。健康のこと。自分達が取り組んでいる仕事の今後の見通し、家族のこと、いつもと変わらぬ話題ばかりで新鮮味はないが、やはり久しぶりに顔を合わした喜びはひとしおだ。懐かしさがこみ上げてくるのです。いつもはくだらないと思う話でも、この時ばかりは笑いが絶えない。居眠りを始めた田さんを起して、東戸塚まで次女が送ってくれたらしいが、皆は、無事に着いたか心配だったようだ。私は、酔い度が沸点に達し、酔っ払い天国から離脱、布団にもぐり込んだから、後のことは解らないのです。

この仲間に我が家の3人、森さん家族3人、草家族3人、竹さん家族3人が合流した。合計14人。飲んだ飲みました。深夜、尿意を感じて目を覚ましたら、3人が川の字になっていた。狭い部屋に家人が布団を並べておいてくれたのだ。二人の寝顔は、大学時代と全然変わってないなあ、と思った。

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正月3日目。

朝飯の後、塚さんが橋本に住んでいる同期の北さんの所へ行くというので、いわきまで車で帰る西に頼んで、塚さんを送ってもらった。

12:30。我社所有のアパートに住んでいるナイジェリア人・シチを、鶴見のアパートに案内した。ナイジェリア人には何かと相談に乗ってもらっているキリスト教の牧師が付き添った。ワンルームのアパートに夫婦と子供2人が住んでいて、それに奥さんが妊娠中だと聞くと、古くてももう少し広い部屋をあてがってやらなければならない、と思い続けていたのだ。

今日の宴会のメインゲストは河だ。河は私の長男草と高校、大学が一緒だった。その河が、恋人を連れてきたのだ。こりゃ春から縁起がいいね、と家族全員で、このカップルの行く末がハッピーになりますようにと願った。河は、我が家にとっても重要な人物なのです。家族の一員の位置づけです。

酒盛りのツマミは、おせち料理の残り物。そこに、竹さん家族がカレーを作ってきてくれた。竹さんの弟で、昨年結婚したノリさん夫婦も加わった。我が家3人、竹さん家族3人、草家族3人、河とその恋人、合計13人。

私は、連日の深酒のため、19:00降参して寝床直行。

 

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