1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約と同日に締結された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」を失効させ、新たに1960年(昭和35年)1月19日に締結したのが「日米安全保障条約」だ。日本からは岸信介首相、米側はアイゼンハワー大統領だった。
この17日で、米安全保障条約が締結されてから、50周年を迎えたのです。
60年の反安保闘争は、市民、学生、労働者を巻き込んで、凄まじい闘争が繰りひろげられた。東大生の樺美智子さんが機動隊とデモ隊の混乱の中で圧死した。60年安保は、私が中学生だった頃だ、新聞やテレビを見ては、聞いては、読んでは圧倒された。
70年は安保の自動延長阻止のための闘争だった。全学連が華々しく活動した。東大闘争、日大闘争、新宿騒乱、佐藤栄作訪米阻止、佐世保エンタープライズ寄港阻止、その闘争は安保粉砕から始まって、大学紛争に広がりを見せた。
当時の私は体育会のサッカー部に所属していて、不思議な胸騒ぎを感じても、静観するしかなかった。この不思議な胸騒ぎの正体が、その後の私の人格の形成と共にはっきりしてくるのですが、その時はまだ理解できていなかった。日米安全保障条約の中身が解らなかった。
だが20歳の学生だった私にも、大半の活動していた人には、政府の後ろめたそうな作為がなんとなく見破っていたような気がする。あの時の佐藤元首相の病的に人相の悪かったことから、何か裏がある、と直感で判っていたのだろう。
後に、佐藤栄作首相と米ニクソン大統領が沖縄返還にともない、核密約を交わしていた文書が佐藤元首相の次男が現物を保管していたことが、最近になって明らかにされた。日本に「重大な緊急事態」が発生した場合は、米国が再び核兵器を持ち込むことを認める、と約束していたのです。佐藤元首相は、国民には沖縄も本土並み非核三原則を日米の合意事項だと胸を張っていた。この元首相は日本人として不名誉なノーベル平和賞を受賞したのだ。受賞に最も不適格な人物が受賞してしまったのだ。
学生や市民、労働者の行動のエネルギーの源は何か、このエネルギーを羨(うらや)ましく思ったこともある。当時、私の大学では、安保粉砕から授業料値上げ反対、自治会館自主管理獲得に熱を上げていた。そして、入学して2年間はロックアウトされて、構内には入ることができなかった。私は、「団結」という言葉を嫌い、「連帯」という言葉に好感を持つようになっていた。アジダスのサッカーバッグには、「檄」と大きく書いていてはばからなかった。自分自身に対して、何もかも奮い立たせていた。
その後、80年は、90年はなんとなく過ぎ去っていった、、、、、、、。社会人になって仕事に終われ、アンポの関心は全く薄れていったようだ。それほど、企業戦士願望が強かったのだろうか。70年の胸騒ぎで動揺はしたが、当時、私は確実に怒っていた。その怒りの対象は何だったんだろうか。
今では、世論調査では日米安全保障条約を日本人の大半(7割)が是として容認している。
この安保50年を期して、朝日新聞では下の二つ記事を載せた。記念すべき時期の記事として転載して、マイファイルに納めた。
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20100119
朝日・朝刊
安保50年問われる変革
編集委員・加藤洋一
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日米安全保障条約は19日、署名50周年を迎える。半世紀も生き延びてきたのは、条約を基礎とする日米同盟関係が国際情勢の変化に応じて、その姿を変容させてきたからに他ならない。今後も有効性を失わず存続するかどうかは、どれだけ柔軟性を維持できるかにかかっている。
旧安保条約は1951年「占領を合法化する条約」(自衛隊将官)として生まれ、60年に米国の日本防衛義務を付け加えるなどの修正をへて新条約となった。基本的な構造は、日本が米国に守ってもらう(5条)代わりに、米軍に日本国内の基地を提供する(6条)という内容で、今も変わらない。
単に「占領の延長」を超えて、独自の戦略的意義を持ったのは冷戦期。日本列島がたまたま極東ソ連軍の太平洋への出口をふさぐ形になっているため、日本の守りを固めることが自動的に米国の対ソ封じ込め戦略に寄与することになった。
しかし、旧ソ連の崩壊でこうした意義は消え、同盟は一時、方向を失う。立て直すために行われたのが95年から96年にかけての「同盟の再定義」だった。
日米同盟はいま、日本防衛に加えて、中国の台頭がもたらす変化、特に海軍力の増強にどう対応するかという地域レベルの課題、さらにテロとの戦いに象徴される国境を超えた(トランスナショナルな)脅威への対処という三つの課題を抱えている。
さらに、条約の5条が想定する日本有事に蓋(がい)然性が一層低くなり、人道支援、災害救助、海賊対策など戦闘、抑止以外の任務の重要性が高まるという変化も起きている。
加えて近年、米側では「世界の警察官」の役割を軽減し、日本などの同盟国に肩代わりしてもらおうという「世界関与の合理化」の考えも浮上している。オバマ大統領はノーベル平和賞の受賞演説で「脅威が拡散し〈安全保障の〉任務が複雑化する今の世界では、米国一国だけでは行動できない」と強調した。
こうした一連の変化に対応するため、日米同盟はすでに「グローバル化」と「マルチタスク化(役割の多様化)」が進められ、「世界の中の日米同盟」(03年の日米首脳会談での合意)となりつつある。問題は今後も、その方向に進み続けるかどうかだ。
日本では鳩山由紀夫首相が地域の信頼醸成に向け、東アジア共同体構想を打ち上げた。米側も最近「日米豪」、「日米韓」、「日米印」など新たな多国間の枠組みに関心を示している。安全保障ネットワークの重層化だ。研究者の間では「日米関係という問題の設定そのものが時代遅れ」(入江昭ハーバード大名誉教授、『世界』2月号)という指摘すら出ている。
現行の枠内で同盟の強化・拡大を図るにしても、条約が規定する役割を「解釈改正」ですでに大きく踏み越えているという矛盾がある。
次の50年に向けては、トランスナショナル化が一層進む世界で、日米同盟をどう使うのか、そのためにどう変革するのかが問われる。
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20100119
社説/安保改定50年
「同盟も、9条も」の効用
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50年前のきょう、岸信介首相とアイゼンハワー大統領が出席して、米ホワイトハウスで現在の日米安全保障条約への署名が行われた。
これがやがて、60年安保闘争として歴史に残る騒乱につながる。5ヵ月後には、全学連の学生らが国会に突入。樺(かんば)美智子さんが命を落とした。
戦争が終わってから、まだ15年だった。しかも、当時は米ソ両国による冷戦のまっただ中だ。アジアでは朝鮮戦争は休戦したものの、間もなくベトナム戦争が始まるなど、身近に戦争が感じられる時代だった。
朝日新聞の世論調査では、安保改定で日本が戦争に巻き込まれるおそれが強くなったとの回答が38%もあった。日本の安全を守る方法として、中立国になることを挙げた人も35%いた。
A級戦犯だった岸首相の復古的なイメージや強引な政治手法への反感も強かった。占領以来の鬱屈したナショナリズムが噴出したとの見方もある。
それから50年、同盟の半世紀は日本社会にとって同盟受容の半世紀でもあった。今や朝日新聞の世論調査では、常に7割以上が日米安保を今後も維持することに賛成している。
冷戦終結後、アジア太平洋地域の安定装置として再定義された日米同盟の役割はすっかり定着した。核やミサイル開発を続ける北朝鮮の脅威や台頭する中国の存在を前に、安保体制の与える安心感は幅広く共有されているといえるだろう。
日本が基地を提供し、自衛隊と米軍が役割を分担して日本の防衛にあたる。憲法9条の下、日本の防衛力は抑制的なものにとどめ、日本が海外で武力行使することはない。在日米軍は日本の防衛だけでなく、抑止力としてアジア太平洋地域の安定に役立つ。
それが変わらぬ日米安保の骨格だ。9条とのセットがもたらす安心感こそ、日米同盟への日本国民の支持の背景にあるのではないか。
米国の軍事行動に日本はどこまで協力すべきか、おのずと限界がある。国論が二分する中でイラクに自衛隊を派遣したが、もし9条という歯止めがなかったら、その姿は復興支援とは異なるものになっていたかもしれない。
アジアの近隣諸国にも、「9条つきの日米同盟」であったがゆえに安心され、地域の安定装置として受け入れられるようになった。
アジアの姿はさらに変わっていく。日米両政府が始めた「同盟深化」の議論では、新しい協力ぼ可能性や役割分担について、日本が主体的に提示する必要がある。米軍基地が集中する沖縄の負担軽減や密約の解明問題も避けて通れない。
しかし、「9条も安保も」という基本的な枠組みは、国際的にも有用であり続けるだろう。
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