私の黄金週間(ゴールデンウイーク)初日の5月2日、金さんの自宅を後にして、宇治田原に向かった。金さんの所へ来る時に気付いたのですが、京滋バイパスが整備されていて、名神高速道路の瀬田東インターから寝屋川までは、約20分ぐらいで来た。かってなら、宇治からでも1時間はかかった。今度はその逆行だ。寝屋川から宇治田原への道中を、車窓から懐かしい景色楽しもう。
同伴者の竹さんが、関西には関東で使っているパスモやスイカに代わるもので、「イコカ」というカードがあるらしいんです、とか何とか言っていたので、JRの何処かの駅に寄ってあげようと思っていたのですが、金さんとのビールでその思いつきは雲散霧消。この話を自宅に戻って、三女のソに話したら、福岡では「スゴカ」らしいよ、ときたもんだ。
母校である京都府立城南高校の前を通った。2、3年前に廃校になった。どこかの学校に吸収されてしまったのです。まさか、あの誉れ高く、美女は生まれたが天才だけは生まれたことのない、スポーツも全て弱かった、世にも稀少な学校だったのに。消極的には、校内での立ち食い弁当だけは、ちょっとばかり有名だったかも。
弁当の話題になったので、少し脱線させてもらう。翌日(3日)に43年ぶりに会った城南高校のサッカー部の後輩が、奥さんに私を紹介するのに、この人は元気な人で一人でもサッカーの練習をしていたんだよ、いっつも弁当を2個持ってきていましたよね、アレには驚きました、なんてことを言っていた。そんなことすっかり忘れていた。
実家に着いたのは午後の3時頃だった。甥の嫁・ヤが迎えてくれた。甥は畑仕事に出かけていた。
先ずは、建替えられた実家を軽くチェック。内装や設備はホテル並みだ。二世帯住宅なので間取りや部屋割りについてはヤの担当だったが、もう一つの世帯の奥方もなかなか手強くて調整には苦労したらしい。車を実家に置いたまま、垣・サ・アに会うために南区名村(在所の名前です。私の実家は南区切林亥子〈いね〉)に向かった。
途中、大辻百貨店に寄った。
いつもは、店番をしているハルエちゃんに見つけられて声を掛けられるのに、この日は店は閉まっていた。店主の善さんは糖尿病を患っていて今は留守ですと言われた、私はそれ以上のことを聞けなかった。以前から病気が悪化していることは聞かされていたのです。店主の娘さんもお店を手伝っているようだった。
私が小学生のときには、冬や春、夏休み、休日には必ずこの店の手伝いをした。少しだけれど、小遣い稼ぎをしていたのです。大人になって現在のような仕事に就いた、その商売心の源泉は、この大辻百貨店にある。仕事を終えてご飯をご馳走になって、テレビを1時間ほど観て自宅に帰るのでした。当時、我が家にはテレビがなかったのです。大辻百貨店と名前は大きく謳っているけれど、内容はどこにでもある雑貨屋さん。その後、こんな小さな町にも割と大きなスーパーが進出してきて、大辻百貨店のやり繰りは大変だろうなと心配する、それでも頑張っている善さん一家に熱いエールを送ろう。この店は、私の経済人としてのルーツでもあるのですから、これからも頑張って欲しい。
大辻家を辞して名村に向かったのですが、途中に岡の藪という処があって、そこに城南高校のサッカー部の1年後輩・原がサッカー部の卒業名簿に記載されていることを、もう何十年前から知っていたのですが、何故、宇治に居た原がこんな処にどうして居るのか、誰にも聞かなかったし、知ろうともしなかったのですが、この日はどういう風向きか、積極的に確かめたい欲望に駆られた。
時間的に余裕があったこと、酒の勢いが冷めていなかったせいかも。恐る恐る、出られた奥さんに私の素性を説明し、この家の主は、私の知っている原さんではないかと尋ねた。奥さんは、原とは竹馬の友で、そのまま夫婦になられたようで、高校で1年先輩の私のことは、よく聞かされていました、と言ってくれるではないか。でも、本人の原は外出中だった。明日、時間がとれれば、再度お寄りしますと言って、失礼した。
公民館の前を通った。
この公民館で私たち夫婦は38年前、結婚披露宴をしたのです、と竹さんに説明した。結婚式は、一の宮神社でユニークな神主さんが神事を執り行ってくれた。誓詞もあった。私たちよりもう少し先輩たちの時代には、結婚披露宴のために多額のお金を遣わないように、公民館を利用する運動が、農協の青年部で起こったのです。私は、それを真似たわけではないのですが、少しの費用でできるだけたくさんの人に来てもらいたかったのです。百五十畳ぐらいの畳敷き込みの部屋なので、詰込めば幾らでも人員は収容できた。宴席は丸いテーブルを数箇所配置、そのテーブル毎に父の尋常高等小学校の同級生の魚屋〈屋号は魚留(うおとめ)〉が、煮焼きした海老や鯛を並べ、それ以外の料理といえば、親戚の方々の協賛品でそれはそれは豪勢な盛付けだった。畳なので、招待客は、酔っ払っては寝っ転び、目が覚めたら料理に口鼓を打つ、宴会は牛の涎のように続いた。大学の友人のマサなどは、ごちゃごちゃ言っているかと思いきや、気がついたら鼾をかいてのご就寝、起きだしては歌を歌った。舞台つきだったので、歌を歌うときは歌手になったつもりで、義妹の琴演奏も見栄えがして好評だった。
コバの家にも寄ってみた。
トントンと玄関扉を遠慮なく叩いた。オーという返事と共に懐かしい顔で私たちを迎えてくれた。中学校時代はバレー部だった。コバの家は貧乏だった。父親は早くに亡くなり、母は子育てで精一杯、田畑や財産があったわけではない、田舎では現金収入を得る働き場もないのだ。そんな環境の中で、コバと姉はよく育ったものだと思う。コバは、中学校を卒業して京阪宇治交通というバス会社に就職した。コバの母は、その時ホッと一息ついたことだろう、その実感は幼い私にも痛いほど理解できた。コバが車掌をしているときに偶然に乗り合わせた時は、ラッキー、目配せだけで無銭乗車だ。それほど、彼と私の間には強固な友情関係があった。私が2年間の浪人から脱け出して、東京に向かって実家を発つ朝、餞別の品として万年筆を持って来てくれた。少ない給料のなかから、私好みの品選びをしてくれたのだろう。母とコバの前で憚ることなく万年筆を握って泣いた。立派にはなれなくても、強く生きて母やコバを落胆させまいと決意した。
私が、大学を卒業して入った電鉄系の観光会社を足掛け10年勤めて、心に吹いた隙間風と共に退社した。その時気休めのために帰省して最初に訪ねたのは、私の父と母がいた実家ではなく、コバの家だった。
垣さんサっちゃんご夫妻のお宅に着いた。
垣さんは少し前に網膜はく離の手術をして、今日は外泊許可をとって一時的に帰宅されていた。でも、根っからの仕事人の垣さんは、野菜に水を掛けていた。今夜は酒が飲めないので、妹のアの処での宴会には行けない、すまん、と仰っていた。この垣さんの家というのは、私の母の実家なのです。
かって、この家には私の母のお姉さん(伯母)や母の母(祖母)がいて、垣さんは垣家の家長で、伯母の子どもだから私の従兄弟です。郵便局を定年まで勤め上げ、今は農業一本だ。私の父は病気になるまではこの垣さんに、事あるごとに何かと相談にのって貰っていた。先見性があり、常識派でもあるのだ。
私の田舎では、毎年夏のお盆の時期に、薮入りで、母と私たち兄弟3人は、この垣家に泊りに来ていた。
薮入りは嫁が実家に里帰りして、日頃のご無沙汰を詫び疲れを癒すためでした。広くは、薮入りといえば1月16日と7月16日の閻魔様の縁日に、商家の主人が奉公人に小遣いを持たせて家に帰し、休みをとらせたのです。私たちの家と垣家は歩いて10分ぐらいの距離の処なので、何もお泊りコースでなくてもいいのではと事情を知らない人は思うだろうが、この薮入りには深い意味があるのです。
私の母はこの薮入りを非常に楽しみにしていた。我が家は父母と祖母、兄弟3人の6人家族だったのですが、父と母は夫婦喧嘩が絶えなかったのと、祖母は厳しい人だったのです。私には特別優しかったのですが。父は金融機関から資金を借り受け耕作面積をどんどん増やしていたことと、機械好きで次から次に新発売される農業用の機械を購入するので、家計は火の車でした。そんな状況下で母は過酷な農作業の手助けと家事を一手に引き受けていたので、心身ともその疲労は大変なものだった。でも、性格は生まれながら暢気なところもあって、なんとか緊張と疲労をうまい具合に調整していたのだろう。そんな母が一年のうちで最高にリラックスできるのが、この薮入りだったのです。
母は3人姉妹の真ん中だった。お姉さんや妹に囲まれて、会話に花が咲いていたかと思うと、今度は嘘のようにグーグーと惰眠を貪(むさぼ)っていたのが印象的だった。その寝顔を見て、皆で大笑いしものです。 薮入りに行った時には、垣さんは近所の池に鮒を釣りに連れて行ってくれた。クチボソやハヤ(ウグイ)、鯉も釣れました。伯母さんの、今日はすき焼きにしよう、の号令と同時に、アちゃんの自転車の後ろに乗せてもらって肉屋さんに、飛びっきり上等の肉を買いに行った。アちゃんの腰に両手を添えて、ちょっと恥ずかしい気持ちになったのでした。アっちゃんは垣さんの妹で、その頃は中学生だった。二番目の兄は、伯母さんの料理に文句を言っては嫌われていた。特に豆ご飯が大嫌いで、お茶碗の中のご飯を掻き雑ぜて豆を一つ一つを摘まみ出し、お膳の上に並べた時は、非常に拙(まず)かった、伯母さんはカンカンに怒っていた。伯母は相当頭にきたのだろう、その後、何度も伯母の口からこの話を聞かされた。二人の兄は、すぐに自宅に戻ったけれど、私はいつまでも帰らずに、垣さんの家から学校に通っていた。
この垣とアっちゃんの二人は私のことを弟のように可愛がってくれました。私には、情熱的に百姓に燃える一番上の兄と、気難しい理系の二番目の兄がいたのですが、兄弟三人揃って仲良く何かをしたとか、遊んだとかは不思議なことに一度もなかったのです。だからと言って、いがみ合っていたわけでもなく、他人のように三人三様独立して行動していたのです。まるでライバル同士のように。前の方で書いたように、私の父と母の関係、祖母の存在、それに殺伐?ではないが、淡々とした、味気のない兄弟関係。誰もが家族の雰囲気を和やかにする役目を果たそうとしない、親愛の情に溢れた気の利いた台詞が飛び交うこともなかった。そんなことに敏感だった私と疲弊していた母にとって、この垣さんの底抜けに明るい家庭の雰囲気は、私には楽しさを、母には癒しを与えてくれたのです。
実家では、百姓に真剣に取り組む家族の姿を見たが、垣さんの家では、生活の楽しみ方の知恵を学んだ。
本日の最後の訪問先は、アちゃん宅だ。
アっちゃんは、垣さんの妹で私の従姉弟だ。この家は、アっちゃんが結婚する時に、夫の実家が提供した土地に夫婦が建てたものだ。私の母の若い頃の顔や体型が似てきたように思って、再三そのように言うと、アちゃんは嫌な顔をした。でも、似てきたんだからしょうがないじゃないか。殊更親近感が湧いてくるのです。この日もアちゃんの手作りの料理がテーブル狭しと並べられた。メインはアちゃんご自慢の鯖寿司だ。何回ご馳走になっても、変わらぬ美味しさだ。宇治田原で採れた米に肉厚の鯖。この鯖寿司と、私とアっちゃんの三角関係は長い歴史があり、今後も廃れることはないだろう。
枚方に住んでいるアちゃんの娘さん夫婦も子連れで来ていた。ご主人さんは測量士さんだ。山岡家からは、甥夫婦も参加してくれた。私の強い味方だ。私の、今置かれている、経済人としての状況を説明した。皆から励まされた。また、一緒にお邪魔した竹さんの紹介も皆にした。
最後の最後は、今晩寝床のお世話になる実家、建替えられた新築の家に戻ってきた。体中アルコール漬けで、何を話したか分らない。豚のような鼾をかいて、迷惑をかけたようだが、あしからず、スマン。
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