2010年7月30日金曜日

相鉄瀬谷駅から天王町まで、歩く

富士登山に備える。

20100727 連日の炎暑だ。東京では数日前に、神奈川県では海老名までは昨夜雨が降ったのですが、横浜まではなかなか雨らしい雨がやってこない。権太阪では、10分ほど降ったが、路面を濡らした程度だった。稲妻だけが異常に多く縦横無尽に走っていた。雷鳴は聞こえない。来月の7日(土)と8日(日)の両日で富士山に登るので、この二週間はなるべく車を使わないようにして、会社までの行き帰り、大いに歩いているのです。少しばかりの準備に入っているのです。

我が家の家人が、来月入院する。5日に手術してそれからリハビリをするので、約1ヶ月の入院になる。富士山登頂は手術の3日後だ。山頂にある浅間神社で無事に治癒することを祈願しようとも思っている。そのためにも、立派に登頂しなくちゃいかんのです。

この富士登山のための強化訓練の打ち上げに、厚木街道を約15~20キロを歩くことを思いついた。到着地点を弊社がある天王町にすると、出発地点は瀬谷駅だ。電車で瀬谷駅まで行って、それから厚木街道をひたすら歩いて戻ってくる。足腰の筋肉強化だけではなくて、この炎天に耐えることも訓練の目的の一つです。

それから1週間は、本番まで足腰を休ませようと思っている。

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そして、20100728。

瀬谷駅に9:42着く。即、スタートした。暑い暑いと思っていたのですが、今日は意外にも風は吹いていて、樹木が揺れていた。日陰は割りとヒンやりしていて気持ちがいい。

相沢、二ツ上橋、二ツ橋、三ツ境駅10:20。

私の携帯電話が鳴った。お世話になっている地元の有力な銀行から、打ち合わせをしたいとの連絡があった。休日と言えども、携帯電話は放せない。昨日弊社に来ていただいていたのですが、それでは足りなかったようだ。

三ツ境駅前で、厚木街道を急遽進行方向にむかって直角に方向を変えた。予定しなかったことだ。富士見通り商店街を歩き出したのです。今日は28日。八(はち)のつく日は、いつもの半額のラーメン屋さんのことを頭に浮かべてしまったのだ。どうしょうか、なんて考えることもなく足は自然にそっちに向いていた。三ツ境、阿久和東、希望が丘南、希望が丘高校、南希望が丘、善部町を通って、善部小学校のそばに出た。東海道新幹線に沿った道に、ラーメン屋がそれなりの距離を置いて三軒あるのを知っていたのです。一つは家系のラーメン屋、一つは全国的チェーン店、もう一つが本日の狙いのラーメン屋だ。

 

そんなことを考えながら、歩いていたら、長屋門公園(横浜市瀬谷区阿久和東)に出くわした。私は、初めて知った。この公園を管理している人たちが掃除をしていた。ボランティアの人たちだ。入場無料と書いてあったので、気を許し、安心して敷地内に入った。建物を写生している人たちが5~6人いた。子ども達が、敷地の中心地にある井戸の手押しポンプを使って、手足を洗っていた。近所でとれたカボチャ、ナス、インゲン、などの野菜が売られていた。荷物になるので、今回はウオッチングだけだ。カブトムシはつがいで200円だった。

(旧安西家主家)

横浜市泉区和泉町の安西家の主家(おもや)であったが、平成2年に横浜に寄贈された。解体・修理を行い平成4年6月に竣工した。

長屋門公園

(旧大岡家長屋門)

明治20年の建築。2階は養蚕室として使用されていた。近隣には製糸工場が存在した。

 

ところが三ツ境から横断して大きい通りに出たところは、目的のラーメン屋とはちょっと的が外れていた。狙いのラーメン屋は進行方向に向かって後ろの方だった。ちょうど全国チェーン店のラーメン屋の傍に出てしまった。この糞暑さ、店に入ったら思いっきり冷たい水をガブ飲みしたいとばかり考えていた私は、半額ラーメンのことはそっちのけにして、躊躇いなく直近の店に入った。味噌ラーメンの値段は予算以上だったけれど、ギョーザ100円は美味かった。

さちが丘から、二俣川駅前の東京三菱UFJ銀行。この銀行で弊社の預金通帳の記載を、管理の和さんから頼まれたのだ。クーラーがよくきいていて、気持ちがいい。いつものように少ない残高に、ニンマリ納得した。頑張らなくっちゃ。私の大学時代のサッカー部の同期の友人の金さんは常々言っている。ヤマオカ、お金はなあ通貨といって通過するもんなんや、澱(よど)んではイカンねん。澱むと腐ったり黴(かび)が生えてきて、持っている者に悪影響が出るんや、解ったかヤマオカ、間違っても、こっそり独り占めなんてことを、考えたら罰が当たるデ。

二俣川駅から厚木街道。いつも車で通っていて、見慣れた光景だ。

鶴ヶ峰駅入口で、お母さんの自転車の後ろに乗っていた男の子の帽子が風に吹き飛ばされた。私の目の前での出来事だ。飛ばされた帽子を私は追いかけたが、帽子は風にうまい具合にあおられグルグル回転した。帽子の行方を確認しながら、遠ざかる自転車の母親にも、オオ~と声を掛けた。子どもは、頭を手で掻いてはいるが、母親には伝えていないようだ。母親は気付かずに坂道を自転車のペダルをこく。ようやく帽子を拾って、大きな声で自転車の母親をオウ~だったか、アア~だったか、呼んだ。

気がついた母親に駆けつけて帽子を渡した。有難うございます、と感謝された。私は、この坊主の頭を撫ぜた。可愛い顔をしていた。可愛いねと言いながら、お前なあ、お母さんに教えなアカンでと言って頬っぺたを強く押した。

八王子街道、白根、白根不動、下白根、川島町。

大六天通りを歩いた。何故、こんな名前が通りについているのだろうか。八王子街道と相模鉄道に平行して、商店街が続いていた。暑いからなのだろうか、買い物客は一人もいなかった。人っ気のないパチンコ屋さんは悲惨だ。

再び八王子街道、羽沢入口、杉山神社、上星川駅入口、和田町駅入口、横浜新道の下、峰岡町。

八王子街道に面しているコンビニ店で赤城乳業のガリガリソーダ君を1個、63円で買った。私はこの季節、コンビニに入るのは、トイレを借りる時か、このガリガリ君を買うかのどちらかです。栄養がなさそうなのが、今どきの健康食だ。食べた後、口の中に甘さが少し残るのが、減点1かな。触感に歯応えはレベルの高い夏の冷菓だ。ショーケースを覗いてガリガリ君に兄弟か姉妹がいたことを初めて知った。私の好みはブルーなのですが、隣に黄色いガリガリ君が居た。きっとこれは同じ仲間なんだろうが、今、その違いを確認している場合ではない、レジの前で、早く馴染みのブルーのガリガリを口に入れたくて地団駄を踏んだ。急に冷たいものを口にしたので、後頭部が痛くなった。この痛みはなんでじゃと、冷たい物を口にする度に考えるのですが、理由を調べることもなく忘れてしまうのです。喉元過ぎれば、という奴だ。私は痛くなるのが後頭部だが、こめかみや眉間、鼻が痛くなるという人もいる、千差万別、面白いと思う。

保土ヶ谷警察署を右に回った。星川駅、保土ヶ谷市役所を右に見て、帷子川の川沿いに歩き出した。川の傍で、これも自転車にまたがった母親と後ろに乗った男の子が、桜の街路樹で鳴いているセミを見つけて、何やら話をしていた。この親子は、随分高いところにいるセミを眺めていた。

私は、彼女たちが佇む樹木の、数本隣の木の低いところに油セミがいるのを見つけた。私は注意深く、セミの背後から手を忍ばせた。そして、瞬間、つかまえることができた。つかまえたセミを、男の子の手につかまえさせた。子どもは躊躇っていた。怖かったのだろうか。母親は静かに私の行動を見ていた。少しつかまえて、ようく見てから放してやってよ、と男の子に言った。子どもは緊張して顔が強張っていた。私に返事は返ってこなかった。

今日は、自転車に乗る母と息子に縁がある。私には愛し合う親子のイメージとして一つの型が脳に埋め込まれているようだ。その型が自転車に乗った母親と後ろにちょこんと座る男の子なのだろうか。私は幼いころの遠い故郷での暮らしを思い出した。母は自転車に乗れなかったけれど、従姉妹には、よく乗せてもらって買い物に行ったことが、懐かしい。

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会社の近くの帷子川周辺

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帷子川の川沿いに近づくと、ホットするようになってしまった。この周辺に居ると安心するのだ。天王町二丁目を仕事の本拠地にすることになって、最早7年は経つ。じっくり、この地で仕事に励みたい、復活のスタートの地にしたいと願うのだ。天王町駅にも帷子川にも、親しみがわいてきている。

会社に着いたのが、13:45だった。会社では、営業の者が休みなので管理の和さんと古さんの二人っきりで、和やかに仕事をしていた。水曜日は静かで、仕事がはかどるんです、と言っていた。

ラーメンタイムと貯金通帳の記載、ガリガリタイムを入れて、約4時間の徒歩旅行だった。

ついでに、自宅までも歩いた。携帯電話についている歩数計によると、本日の全歩数は、36,569歩だった。歩行距離は、18キロ近いのではないだろうか。

2010年7月27日火曜日

今夜の夕刊は濃いぞ!!その①

20100720の夕刊の記事のことだ。今夜の夕刊は中身が濃かった。その①は『「障害者W杯」支援を』、その②は「殺すところを 撮って下さい」だった。

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(小沢通晴監督の指示を聞く選手たち=茨城県神栖市波崎、宮嶋氏写す)

先ずは、「もう一つのW杯」と呼ばれる知的障害者サッカーの世界選手権のことからだ。オヤジ、読んだかと新聞を目の前に突き出された。第4子で三女の苑が、私が帰宅して一番目の仕事、冷蔵庫のビールに手を付けたその時だった。缶ビールに口をつけたまま読まされた。記事の見出しは、『「障害者W杯」支援を、南アで来月開催、日本チーム資金足りず」だった。

W杯の場合は、日本サッカー協会(JFA)が渡航費や滞在費など、活動費用の全てを負担する。だが、この日本知的障がい者サッカー連盟は収益が少なく、選手は自分たちで資金を集める必要がある。選手たちは10万円の自己負担を決めたが、これ以上の負担は無理で、寄付集めにやっきだ。日本サッカー連盟や日本体育協会、その他公的な機関からの助成金などで選手たちに負担のかからないようにならないものか。内閣の機密費の一部でもまわしてくれませんか。

私は、200707にテアトル新宿で、この大会に出場した日本代表の試合や参加した各選手の紹介など、この大会に関することをまとめた映画「プライド in ブルー」を観た。三女・苑と一緒だった。彼女は、この映画にすごく気分のいい印象を受けたようだった。この映画を観るまでは、このような大会が実際に開催されていることなど知らなかった。映画は、2006年の「INAS-FID(国際知的障害者スポーツ連盟) サッカー選手権大会」ドイツ大会だった。4年ごとに開催されるサッカーのワールドカップに併せて、同じ国で開催される知的障がい者たちによるサッカー世界選手権のことだ。二人は素晴らしい感動を受け、幸せな気分で帰途についた。

この文章の作意とは、少しかけ離れているが、ここで脱線を許して貰いたい。三つの漢字が並んだ「障害者」が、昨今、この障害者という漢字を使わない運動が進んでいる。障と害と者を並べて、障害者ってことはないだろうということだ。余りにも人権を無視した、字並びだ。この三つの漢字の中で、何故「害」が使われているのか、これこそが、害だと。でも、まだまだ世間では漢字として「障害者」を一般的に使っている。この国際知的障害者スポーツ連盟も障害者だ。この大会に選手を送り込む日本知的障がいサッカー連盟は、さすが正式の団体名に害という字を使っていない。

話は、もうちょっと飛ぶが、神奈川県立は養護学校(施設)と呼び、横浜市立では支援学校(施設)と名付けている。養護という文字の代わりに、支援を使い出している。

映画を観た時に、この大会に参加するには費用が足りなくて、資金面での協力者を求めていることを知った。私は、早速、弊社の事務所の入り口に、信楽焼きの飲屋の店先に鎮座まします狸の形をした「徳利」を寄付(賽銭)箱代わりにして、寄付をお願いしますと書いた案内板とともに置いた。「プライド in ブルー」の映画の一シーンの写真も添えた。美術担当の木さんがセットしてくれた。千畳敷のキンタマを大いにぶら下げた、アノ狸だ。お世話になっている測量会社が、弊社の名を刻み込んだ特大の徳利に酒を一杯詰め込んで、我が社の引越し祝いに呉れた物だ。本物の信楽焼きで、目出度く、有り難い品物だったので、大事にしまっておいたのです。

この稿を投稿してから、あらためて信楽焼きの狸を見たら、狸ではなく普通の形の大型の徳利に変わっていた。こんなことって、あり?か。ナンチュウこっちゃ、サンタルチア。この狸の徳利と思い込んでいたものが狸ではなく、普通の徳利に変身?狸が、いつの間に普通の徳利に? 私は狸にだまされていたのだろうか。千畳敷きのキャンタマはどうしたんだ。徳利に尻のシッポを探してみたのですが、見つからなかった。私は自分の頬を指で抓(つま)みながら、この節の文章を追加したのです。

この賽銭箱に、サッカー好きの人は気付いてくれた。でも人前で、お金を入れることには、やはり躊躇いがあるようだ。私はこの企画者としての責任上、率先してコインを入れた。今まで貯めこんだコインを全部入れた。机の隅っこや、ポケットの中の小銭を入れ続けた。最初のうちは、大きいコインを入れていたが、そのうち赤や黄色いコインになり、白くて軽いコインが目立ちだした。それでも、それなりに貯まっているようだった。

そして、経済社会はリーマンショックの荒波に襲われた。日々の仕事に翻弄され、狸の中を覗くこともままならぬ日々だった。それでも寄付は少しは増えているようだ。今大会には間に合わなかったけれど、次回W杯ブラジル大会には、私の個人的な資金も上積みして寄付したいと思っている。どうか、弊社に来られた人は、少しでも構わないので、コインを入れてください。

選手たちは、お金のことも気になるだろうけれど、どうかいいプレーをしてきて欲しい。寄付を集める仕事は、これからは頑張る。

できるだけ多くの人からお金を預かって、必ずきちんとした手続きをとって、NPO法人日本知的障害者サッカー支援機構にお届けにあがることをお約束します。

2010年7月25日日曜日

メタボと腹囲は、無関係だって、ヨ

先日、(財)神奈川県労働衛生福祉協会で行なった健康診断の結果が届いた。

この年になると、何かの生活習慣病に罹っているか、メタボリックシンドロームは果たして、私の場合はどうなんだろうか、そのことが大きな関心ごとだった。身長が学校卒業してから丁度1センチ程低くなったことなんて、どうでもいいことだ。その延長線上で、腹囲のことも同程度に考えていた。

ところが、腹囲を測ったときに、測ってくれた美しい看護婦さんがニンマリと笑みを浮かべながら、90,3センチです、男性は85センチを超えると、メタボの仲間に入るんですよ、と鬼の首を取ったように嬉しそうに仰るではアリマセンカ。この瞬間、これは可笑しいと直感した。私は、私の腹を毎日見ている。それも日によって、多い時には5回ぐらい少ない時でも、2~3回は腹を眺め、さすっては、その加減をチェックしているのです。鼻毛や鼻糞、耳糞、目やににそんなに気を病むことはないが、腹の出っ張りのチェックは怠っていないのです。

私が学生だった時、体育会のサッカー部に所属していた。一日、9時間もグラウンドにいたことがあるほど、アホなサッカー部員だったのです。その時の体重は66.5キロ、卒業して40年後の今で68.5キロ。全身の筋肉が萎え、緩み、上体からは肉が落ち、結局腹の周りには太った分の2キロと上体からずり落ちてきた脂肪なのか何なのかが溜まって、その結果が腹囲90,3センチなのだ。それで、何でメタボなんじゃ、というのが第一の私の感想だったのです。

そのように、納得できないまま日々を過ごしていた。

そして、1週間前の毎日新聞の記事に目を瞠った。北里大学の前にある弊社直営のホテルで打ち合わせが終わって、コーヒーを飲みながら新聞を読んだ。

その新聞の見出しは、『メタボと腹囲 やはり無関係? 新潟の病院調査、男性でも裏づけ。特定検診の再検討必要』。私が、納得できないことが、この新潟の病院の調査で明らかになったようだ、図星だった。が、厚労省の対応はいかに。

私の直感が、極めて非科学的人間のこの私の納得できなかったことが、正しかったのだ。かって、厚労省研究班の大規模調査で、女性の腹囲と循環器疾患発症の関連性が低いとの傾向も明らかになり、腹囲を必須とする現在の特定健診のあり方も問われそうだ。

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「健康診断結果のお知らせ」には、検査項目とそれぞれの数値が書き込まれていて、その数値の段階別の検査判定が示されていた。

そこに書かれていたメタボリックシンドロームの診断基準をここに、コピーして貼り付けさせてもらった。この基準でも、先ずは腹囲から始まっているのです。男の場合は、「腹囲が85センチ以上」で、尚且つ下の①~③のうち2つ以上が該当すれば、メタボ君ですよ、と言うことになっている。

この診断基準は、早い目に見直すことが必要だろう。

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霊峰富士登山に備える

20100807、08に富士山に登ることになっている。

富士山

孫・晴の通っている幼稚園の夏の恒例行事として行なわれるのですが、ジジイも行かないかと娘・花に誘われた。

どうして私が断ることができよう。このような催しならば、私は絶対断らないことを、娘は十二分に承知の上なのだ。参加者の枠が必ずあるだろうから、早い目に申し込んでおいてくれ、と頼んだ。

我がチームは、孫とその父母にあたる娘夫婦、私の4人だ。以前に、確か8~9年前のことになるが、会社の仲間で登ったことがあるのですが、それからの私は、経済戦争に巻き込まれてしまって、運動不足が甚(はなは)だしく、筋肉も弛(ゆる)んできた。脳のどの部分の細胞もクタクタだ。そんなに、だらしなく、気弱になってきた矢先のこの企画、この私が乗らない筈がない。

7月28日までが、トレーニング期間だと覚悟して、頑張るぞう。

2010年7月24日土曜日

今夜の夕刊は濃いぞ。その②

20100720の朝日新聞の夕刊のことだ。今夜の夕刊は濃かった。その①は『「障害者のW杯」支援を』だ。そして、その②は、『殺すところを、撮ってください。「ゆきゆきて、神軍」』だった。その①は、自宅のPCで作成したのですが、そのPCが少し夏ばてのようで、私の言うことを聞いてくれない。よって、公開したのは②からになりました。お釈迦様ではないのですが、順序が逆になりました。

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〔原一男さん〕

なんで、この時期にこの記事が掲載されたのだろうか、私がこの映画を観たのは、約20年ほど前のことだ。映画好きの友人に誘われた。今はもうなくなったが、関内アカデミーという映画館だった。

当時、この映画を観た時の驚きは、相当深いものがあった。映画が終了しても席から立ち上がれなかったことを思い出す。恐かった。

映画の最初のうちは乗用車の上に、まるで選挙の宣伝カーのように看板を四方に組み上げて、その看板には、確か田中角栄を殺すとか書いてあって、その看板を掲げた車自体も、走っていく都会から農村までの光景も、私には何か牧歌的な雰囲気に思えて、なかなかいいんじゃないの、ぐらいにのんびり構えていたら、ところがどっこい、主人公の奥崎謙三さんが一度(ひとたび)「敵」に向かうと、彼は阿修羅に豹変する。周辺の空気は一変する。

家庭では、静かな夫なのに。戦争が終わって、30年以上も経っているのに、彼の天皇や軍に対する戦争責任追求の思惟はますます純粋を究(きわ)め、それに基づく抗議行動は、廃(すた)るどころか弱まるどころか、激化の一途をたどる。我等は、戦後、平和と言われる時代をのんびり過ごしていた。そんな平和な1983年、終戦何日後かに兵士仲間に処刑の命を下した上官、中隊長の命さえ、奪いかねない行動に駆られた奥崎兵士は、現実に発砲事件を起こした。何故だ、この時期になってまで。日本で一番過激な反軍、反帝、反天皇の烽火(のろし)を挙げた奥崎は、前進、前進していく。映画もそのように前に、前に進んだ。俺の肝は冷え、金玉(きんたま)は縮(ちぢ)み上がる。

奥崎さんは憑かれているぞ、と思った。

映画は今村昌平が企画して、監督は原一男、制作は原の奥さん小林佐智子だ。

奥崎さんは、独立工兵第36連隊に配属され、1943年当時大激戦地だったイギリス領ニューギニアに派遣される。部隊は敗走を重ねながら飢えとマラリアに苦しみ、千数百名のうち生き残ったのはわずか30数名だった。

1982年から、この映画の撮影が始まる。1983年西ニューギニアとパプアニューギニアへ慰霊に赴く。終戦直後に独立工兵第36連隊内で、戦病死した兵士の死の真相を追ううち、元中隊長や上官、他3名の殺害を決意する。戦病死でなく、上官による部下射殺事件だった。

殺害された二人の兵士の親族とともに、処刑に関与したとされる元隊員たちを訪ねて真相を追い求める。奥崎さんは暴力を振るいながら証言を引き出し、ある中隊長が処刑命令を下したと結論づけ、その中隊長殺しの行動に走る。

奥崎さんは元中隊長宅に銃を持って押しかけるが、たまたま応対に出た元中隊長の息子に向け発砲し、殺人未遂罪で逮捕され、懲役12年の実刑判決を受けた。

1969年1月2日、皇居で6年ぶりに行なわれた一般参賀で、昭和天皇に向かってパチンコ玉を発射した。昭和天皇がバルコニーにいたところ、15メートル先から手製のゴムパチンコでオアチンコ玉を3個発射。さらに「ヤマザキ、天皇をピストルで撃て」と声を挙げ、パチンコ玉をもう1個放った。

(映画を思い出しながら、wikipediaを参考に文章にした。)

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〔映画「ゆきゆきて、神軍」の一シーン。右が奥崎謙三さん=疾風プロ提供〕

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20100720

朝日夕刊

人・脈・記  毒に愛嬌あり

殺す場面、撮って下さい

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「私は中隊長を殺そうと思うんです。殺す場面を撮影していただきたいんです」

奥崎謙三が身を乗り出し、狂気に燃えた眼光で言い放った時、映画監督の原一男(65)は絶句し、すくみ上がった。

ドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」の撮影が進み、打ち合わせ中のことだ。

奥崎は原の目を見据え、たたみかけるように言った。

「そんなシーンは、今までの映画で絶対ありませんよ」

原の体は小刻みに震えた。様様なことが脳裏をかすめる。

おれはカメラを回せるだろうか。警察が駆けつけ、共犯で逮捕されるだろう。それはいいとしてフイルムは守りきれるか。

ハタと気付いてギョっとした。今、撮っている相手は犯罪者。それも確信犯だ。

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奥崎が主人公の映画を原が撮り始めたのは、1982年のことだ。奥崎、62歳。原、37歳。

その13年前、奥崎は皇居の新年参賀で昭和天皇めがけてパチンコ玉を撃ち、懲役1年6ヶ月の刑を受け、服役している。

戦時中、1等兵としてニューギニア戦線に送り込まれ、敗戦の1年前、捕虜に。所属していた独立工兵第36連隊の約千人のうち、戦闘と餓死者続出の地獄から生還できた数少ない一人。

戦友たちの慰霊には、天皇にパチンコ玉を撃つことこそがふさわしと決意し、皇居に向かったのだと、自著「ヤマザキ、天皇を撃て!」で書いている。

敗戦直後、第36連隊で不可解な兵士の処刑事件が起きていた。映画では、処刑を命じた中隊長ら元上官宅を訪ね歩き、真相を問い詰めていく奥崎の姿をカメラが追う。

迷惑そうに口を閉じる上官たち。「貴様、その態度は何だ!」と殴りかかる奥崎。そのうち、人々の重い口から語られ始める、飢餓地獄での人肉を食った話ーーー。

自ら16ミリカメラを回しながら原は不思議な思いに突き動かされた。「ニューギニアの死者たちがこの世に出たがっている」

原の妻で制作者の小林佐智子(64)も似たような思いを感じていた。毎朝6時になると、奥崎は神戸の自宅から長電話をかけてきて、取り憑かれたようにしゃべりまくった。

「あっ、奥崎さんは戦友の霊がさまようニューギニアから、いつも電話してきているんだ」

冒頭のシーンに戻ろう。

「私は怖いんです撮れる自信はありません」。原は小刻みに震えながら、その場は断った。

その後、ドキュメンタリーに携わる人間として、撮るべきではないか、と正直、迷っている。弁護士や映画監督の今村昌平にも相談した。

妻の小林は猛反対した。「考えるだけでもおぞましい。撮るんなら、映画から私は降りる」

結論が出ないまま時間が過ぎた、83年12月15日の昼過ぎ。中隊長宅を一人で訪れた奥崎は、応対に出た長男を改造拳銃で撃って重傷を負わせ、逮捕された。

「本当にやったんだ」。衝撃を受けた原は何も手につかなくなり、撮影済みの膨大なフイルムは2年近く、自宅の片隅でほこりをかぶったままとなる。

原が振り返る。

「戦争を忘れようとする日常の中で、見えない戦争を撮るにはどうすればいいか。罪を犯してまでも戦争責任を追及し続ける奥崎さんでないと、絶対撮れなかった。毒は人の嫌がるところに塩を塗りたくる作業。我々スタッフも、その猛毒を相当浴びたということです」

87年、原はやっとのことで映画を完成させた。上映時間2時間2分。

映画の題名かを考えた小林は「こんな暗い内容の映画、観てくれる人がいるんだろうか」と心配だった。ところが、映画はヒットし、ベルリン映画祭カリガリ映画賞をはじめ、日本の映画賞も総なめにした。

2年後、昭和が終わる。

「ぎりぎりのタイミングで、この映画は世に出た感じがする。昭和の日本人はまだ、奥崎さんという猛毒を理解することができた。10年遅れたら、受け入れられることはなかった」

原も、小林も、今でもそう思っている。

奥崎は出所後、95年に85歳で亡くなっている。

(加藤明)

2010年7月18日日曜日

W杯南アフリカ。スペインがオランダを倒す

 

2010年のW杯南ア大会は、スペインがオランダに延長戦の末勝った。この記念すべき勝負を、ここは、マイファイルに徹した。下の文章は、20100713の朝日朝刊の新聞から全てを転載させていただいた。写真も新聞のものを拝借した。

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無敵艦隊 華麗なる覇者

縦横無尽パスは踊る

スペインが通したパスは542本で、オランダは294本。決勝でも圧倒し、パスサッカーの真骨頂を見せた。

パスを通すには相手やコースがなければいけない。両チームの選手で動いた距離が14キロを超えたのは、スペインの中盤の要、シャビ、イニエスタの2人だけ。パスを出しては動いている。

2人をはじめ、スペイン代表には、バルセロナ所属の選手が7人おり、オランダ戦は6人が先発した。スペイン代表のサッカーはバルセロナのやり方で機能している、とされるゆえんだ。バルセロナのあるカタルーニャ州サッカー連盟技術部長のジョアン・ビライボスクさんも「いまの代表はバルサを見るようだ」と言う。

その神髄は攻守の動きにある。バルサで18年間ユース指導に携わったビライボスクさんはスポンジに例える「ボールを奪われた時はスポンジが縮むようにボールに向かって集まり、ボールを運ぶ時は広がる」。守る時には相手のパスコースを限定し、運ぶ時は自分たちの選択肢を多くするという発想の上での動きだ。「守る時には前に出る」という動きも含めて、普通は逆を考えるものだが発想をあえて逆転させている。

これらの考え方は選手、監督としてバルサを率いた元オランダ代表主将クライフがもたらしたという。それが決勝でオランダを倒す原動力になるとは歴史の皮肉だ。

オランダ発バルセロナ経由がスペイン全土に歓喜をもたらした。フランコ独裁時代に深まった地域対立を念頭に、デルボスケ監督は「スポーツは多くのものをもたらす。我々が地域の関係にも良い影響を及ぼすことができればうれしい」と連帯感が強くなることを期待した。バルサの宿敵レアル・マドリードで成功した監督の言葉だから重みがある。

オランダの荒っぽいプレーにパス回しで向かい続けたデルボスケ監督「優勝は美しいサッカーへのご褒美だ」。アパルトヘイト後の人種融和、国家建設もテーマだった今W杯。ピッチの内も外も進歩に意欲的なスペインが初優勝を飾るにふさわしい場所だった。

イニエスタ=「言葉にならない。W杯で優勝できるなんて、本当に驚きだ。まだ信じられないよ。しかもその大切なゴールを決められるなんて、ただただ幸せだ。早く家に帰って喜びたい」

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カシリャス救世主の手(中川文如)

危機にも表情を変えない。GKの落ち着き払った振る舞いが、どんなにチームを安心させることか。スペインのカシリャスは知っていた。

後半17分。オランダのロッベンがフリーでゴール前に突進してきた。間合いを詰められた。ぎりぎりまで見極めた。左に跳ぶ。逆をとられた。あきらめない。右足でシュートに触れ、はじき出した。プジョルがシャビアロンソが駆け寄って握手を求めてきた。笑顔は見せない。

38分、再びロッベン。プジョルが競り負け、また1対1になった。今度は思い切って前に出た。シュートを打たれる前に、体全体で包み込むように球を押さえた。

「彼がチームを最悪の結果から救った」とデルボスケ監督。2度の決定機を防いで勝利を引き寄せた。試合が終わり、ほとんどの選手がカシリャスに抱きついた。主将は表情を崩した。顔を覆った。「スペインのサッカー界ににとって歴史的な瞬間だ」

W杯で悔恨の記憶を重ねてきた。21歳で初出場した2002年日韓大会。準々決勝で韓国にPK戦負けを喫した。5人のPKを1本も止められず「運が悪かった」と立ち尽くした。06年ドイツ大会は決勝トーナメント1回戦でフランスに完敗。08年欧州選手権を制し、迎えた南アフリカ大会。「欧州選手権の優勝は、もちろん素晴らしい。でも、それより大事なのがW杯」。決勝トーナメントは無失点だった。

表彰式。主将はトロフィーを手渡され、キスをして、夜空に掲げた。「僕らがどれほどの偉業を成し遂げたのか。まだ実感できない」。再び、顔を覆った。涙は止めようがなかった。

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オランダ 勇敢なる敗者(編集委員・忠鉢信一)

耐えた守備、最後に決壊

勝つためには守備が重要だとわかっていた。しかしオランダの弱点はその守備だった。

欧州予選から無配を続けた今大会のオランダは「勝利」にこだわり、守備の意識を高めた。選手暦は地味だが理論と実践で現在の地位についてファンマルウェイク監督が「美しい攻撃サッカーを追って尊大になれば負ける」と選手達に教えた。

意識改革の土台は欧州選手権で苦戦した2007~08年ににあったと言われる。選手が話し合い、伝統の4・3・3を守備強化に微調整した現在の4・5・1に変えた。

勝利を優先する考え方は育成にまで浸透しつつあると聞く。だが、成果がでるのは次の世代か。

オランダは大会直前の親善試合3試合でも毎試合失点していた。今大会も1次リーグ第2戦の日本戦を無失点で切り抜けた後、第3戦のカメルーン戦以後、決勝まで4試合連続で失点。センターバックの弱さが難題で、それをカバーしていたのが、能力の高い守備的MF、デヨングとファンボメルの2人だった。

振り切られた相手を反則で止めたセンターバックのハイティンハが退場になり、ファンボメルがセンターバックに入っていた延長後半、右から攻められたとき、ゴール前にいたイニエスタをマークする選手はいなかった。

ファンボメルを含め、DFたちは球に気を取られていた。なんとか食らいついたのが攻撃力が持ち味で途中出場したMFファンデルファールト。「10人になったがもう少しでPK戦に持ち込めた。最高のチームが勝ったと思うが、W杯決勝での敗戦を受け入れるのは難しい」とファンマルウェイク監督。世界一との差を分けた最後のピンチは、防げなかった。

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オシム(前日本代表監督)の目

攻め抜いた優勝 喜ばしい

美しく華麗なサッカーだったとは言えない内容だったが、一つの勝負のあり方としては、見るべきところの多い決勝戦だった。スペインは今まで通り、パスサッカーをやろうとした。一方のオランダは「ゲームを壊す」というやり方で主導権を握ろうとした。あえて戦術的ファウルを繰り返しボールを持っている選手をつぶすことでスペインのゲームのリズムを寸断しようと試みた。

オランダは、スペインを初戦で破ったスイスのように、極端に守備的な戦術をしようと思えばできたはずだが、そうしなかった。また、互角に正面から対決するやり方では準決勝のドイツのように、スペインンのパス回しに圧倒される可能性があると考えたのか、それもやらなかった。「ゲームを壊す」ことで乱戦に持ち込む手法は、美しくないし、本来のオランダらしくもないが、現実的なアプローチだ。オランダの見事な点は、さまざまな戦術的選択肢を持っており、どれもうまく実行できる能力の高さだ。

前半はオランダに好機が訪れた。オランダが壊した試合を自分で拾い上げ、ポケットに入れてワールドカップとともに持ち帰るのか、という予感も頭をよぎった。それほど、オランダの戦術は途中まではうまくいっていた。スペインの清らかな泉を、オランダがかき混ぜて泥水にした。あるいは甘いデザートに、ワサビを大量にかけようとしたと表現すべきか。ただ、それは90分は機能したが、120分は続かなかった。

もしも相手が今大会のブラジルやアルゼンチンだったらこの戦術は成功し、優勝していたかもしれない。しかし、スペインは自分たちのリズムを寸断され、壊されながらも、我慢強くプレーし、集中力を切らさなかった。

スペインの攻撃は相変わらず、自己本位なドリブルやシュートが目立った。チームとして機能しない個人技は、ただのエゴイズムでしかない。意外に響くかもしれないが、スペイン優勝の一番の要因を挙げるとすれば、守備が安定していたことだ。本来は攻撃的なスタイルだが、今大会は2失点。センターバックを務めるピケとプジョルのバルセロナコンビが磐石だった。GKカシリャスは経験があり決勝終了前に涙していた最後の数分間を除き、冷静だった。

スペインは、大会前にイメージしていたスタイルから言えば物足りなかった。あまり大声では言いたくないけれども、それでも「優勝おめでとう」と申し上げる。今大会は守備的サッカーの流行を心配していたが、スペインが優勝したことは、向こう数年間の世界のサッカーにとって、喜ばしい結果になったと思う。W杯は良くも悪くも、世界のトレンドを示す博覧会、見本市の役割があるからだ。

W杯南アフリカ大会に、感謝

やはり、いつも、どこの、どのW杯も、人の心に深い感動を残して、幕を閉じる。今回のW杯南アフリカ大会もその例外ではなかった。この感動が嬉しくて、終わったというのに、最早、4年後の次回のブラジル大会に思いを馳せてしまう。観衆はいいかげんな、もんだ。歓喜と落胆、悲喜こもごも、国ごとに異なる感情が世界に渦巻いた。

サッカーは、国や民族、人種の違いや、政治も宗教も貧富の層の壁さえも乗り越えての交流に、何ものにも代えがたい役割を演じて見せた。サッカーの魔力とも言っていいのだろう。だからこそ、サッカーは素晴らしいのだ。サッカーは素晴らしい、でも友情はもっと素晴らしい、とペレーさんが言ったのか、誰かさんが言ったのか、兎に角素晴らしいのだ。

このW杯に関しての微笑ましい出来事を、記者は拾って、新聞記事に残しておいてくれた。それを読むだけでは勿体ない。マイファイルにして、記事も楽しみたい。一部の日経新聞を除き、全て20100713の朝日新聞からのもです。

 

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南アW杯国造りの力に

ナイロビ支局長・古谷祐伸

南アフリカの国旗 (南アフリカの国旗)

アフリカで初めて開催されたサッカー・ワールドカップ(W杯)が11日、事前の様ざまな不安をよそに1ヶ月間の日程を無事に終えた。開催国・南アフリカのズマ大統領は9日、一足早く「大会は大成功だ」と喜んだ。

AP通信によると、全64試合を318万人が競技場で観戦し、1994年のアメリカ大会、06年のドイツ大会に次ぐ入場者数を記録。地元紙によると、外国からの客は推計45万人で、南アに落としたお金は120億ランド(約1440億円)と見積もられている。いずれも想定外の高い数字だ。

成功の大きな理由は、予想された凶悪犯罪が大会期間中はなりを潜めたことにある。1日平均で50人が殺される危険な国でのW杯には、世界中が不安を抱いていた。

南ア政府は、警官18万8千人をW杯警備にあて、時にはストライキをおこした会場警備員の代役まで警官が買って出た。起きた事件についても、全国に設置したW杯特別裁判所がすばやい手続きで対応した。

その結果、盗難や強盗事件はあったものの、外国人が狙われた深刻な犯罪は、米国人バックパッカーが銃撃で負傷した事件ぐらいだった。大手警備会社によると、ヨハネスブルクでの犯罪は6月、前年比で60%も減った。大会が進むにつれ、外国人が続々と南アを目指した。

成果が表れるにつれ、南アの人たちは大会への自信と誇りを見せ始める。アフリカ出場国が次々に負けても、ブブゼラを懸命に吹き、大会を盛り上げ続けた。

この機をとらえ、アフリカの諸問題に取り組む動きも活発化した。ズマ大統領は11日にケニアやジンバブエなどアフリカ各国の首脳を招いて教育サミットを開き、「将来への最も大切な投資は教育」だと訴えた。アフリカで深刻なエイズウイルス[HIV]感染への支援を訴えようと、感染者自らによるサッカー大会も開かれた。

W杯が終わり、熱狂は遠からず冷めるだろう。日常に戻った南アが直面するのは相変わらずの貧困や犯罪、エイズなどの社会問題だ。W杯で思ったほどの恩恵が得られなかったとの不満も、貧困層には根強い。

南アが今後、W杯閉幕までのような集中力で社会問題に取り組んでいけるのか世界は注目する。だが、南アがW杯から、今後の国造りへの自信とヒントを勝ち得たのは確かだ。

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ゴール 亡き友へ 

イニエスタ選手

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W杯は11日、スペインがMFアンドレス・イニエスタ(26)の決勝ゴールで初優勝を飾り、幕を閉じた。イニエスタはユニホームの下に、亡き友へのメッセージを潜ませていた。0-0で迎えた延長後半11分。右足でゴールにたたき込むとイニエスタは警告覚悟でユニホームを脱いだ写真、ロイター。アンダーシャツには「ダニ・ハルケはいつもわれわれとともに」の文字。ダニエル・ハルキは昨年8月、心不全のために急死した親友で、スペインリーグのエスパニョール元主将。試合後は「勝利を彼にささげたかった」と語った。

イニエスタは、自らゴールを決めてユニホームを脱ぎ、観衆に亡き友人をアピールする好機を得た果報者だが、W杯に参加した選手の中には、何らかの思い入れを秘めて、勝負に臨んでいた選手は、きっと他にも何人もいたのではないだろうか。両親のこと、友人、先輩後輩、恋人たちへの思いを、いいプレーを見せることで伝えたいと。

このメッセージを書いたイニエスタのアンダーシャツを見て、以前、私が見たドラガン・ストイコビッチのことを思い出した。ユーゴスラビア(現在のセルビア共和国)出身のストイコビッチは、7年間、名古屋グランパスエイトに籍を置いた。1999年のNATOのセルビア空爆に対して、3月27日のヴィッセル神戸戦の試合終了間際にユニホームを脱いだ。

そのアンダーシャツには、[NATO Stop Strikes]〔NATOは空爆を中止せよ〕と銘記されていた。メッセージを伝えるパフォーマンスを行なったのだ。政治とスポーツは互いにくみしないことにはなってはいたのだが。

彼の生まれはユーゴスラビア。冬季オリンピックがかって行なわれた、平和だったサラエボの町の教会や住宅、全ての建物が雨のように降る爆弾や銃弾によって廃虚化されてしまった、その悲しみを、そんな悲惨な現状と、二度とこんな戦争を繰り返さないでくれ、と彼は訴えたかったのだろう。戦渦とは遠く離れたところで、平和ボケの私には、強烈なパンチだった。

ここまで、ストイコビッチのことを書くと、もう少し付け加えたくなった。ユーゴスラビア代表チームは、1990年のW杯イタリア大会、私の大好きな元日本代表監督のイビチャ・オシムが監督で、ストイコビッチが主力のメンバーだった。戦前の不安をもろともせず、快進撃を続けベスト8に進出した。この大会では、ストイコビッチは世界に名を知られるようになった。当然、この監督さんもだ。

その後、サラエボが戦火にまみれ、オシム家は奥さん一人がこの町に閉じ込められ、家族が無事に揃うのは、その後数年経ってからのことだ。

今から丁度20年前のことだ。私は大学のサッカー部の同期の友人たちと、生まれて初めてW杯イタリア大会を観に行ったのでした。その時には、これほどまで心酔させられてしまうことになるオシムのオジサンのことは、知らなかった。その後のW杯には行くことができなくて、悔しい思いをいている。次回のブラジル大会には是非、行きたいものだ。

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南ア 融和進んだ

人種超え みんな笑顔

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「白人がこれほど国旗を振る姿を見たことがない」--。西ケープ州ワイナリーで働くビクター・タイタス(60)は、W杯期間中、南アを応援する白人達を見て胸を熱くした。

現在の国旗は、アパルトヘイト(人種隔離)政策が終わり、民主選挙が実現した1994年に制定された。6色の旗は人種の融合を象徴する。南アでは長い間、「サッカーは黒人、ラグビーは白人のスポーツだった」

南アフリカの国旗

しかし、今回、多くの白人もサッカーに熱狂した。スタンドで、街角で、車の上で、レインボーフラッグがはためいた。

教師だったタイタスさんは、カラード〔混血〕として黒人と同様に差別されて育った。民主化後、南アで初めて黒人によるワイナリーが立ち上がった際、字が読めない黒人農夫の指導を担った。ワインづくりや経営を学び、98年に非白人による初のワインを誕生させた。

決勝戦があったヨハネスブルクのサッカーシティー競技場。露店でソーセージを焼いていた黒人女性は、国旗を掲げて行き交う南アの黒人や白人たちを見渡しながら両手を広げた。「見て、みんな笑顔。この国にW杯が必要だったことを、世界の人たちにも分ってもらえたと思う」

片側2~4車線の高速道路が各都市を縦横に結び、携帯電話は喜望峰まで通じる。

W杯を機に、南アのインフラは大きく向上した。政府が投じた整備費は総額1兆円以上。ヨハネスブルクの都市部と空港を15分で結ぶ高速鉄道もできた。ズマ大統領は、2020年の五輪招致を目指す考えを表明した。

今回の大会の会場建設にかかわった約13万人の次の雇用先も不透明で、貧富の格差やエイズといった社会問題も未解決のままだ。

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20100711

日経朝刊

スペイン地域主義変化

代表に熱狂、高まる一体感

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サッカーの南ア大会でスペイン代表が初の決勝進出を決めたことが、同国社会に地殻変動をもたらしている。バルセロナを州都とするカタルーニャ自治州など地域主義が強く、これまでスペイン代表に関心を示してこなかった地域で「ロハ」(赤の意味。ユニホームの色にちなんだ代表の愛称)フアンが急増、国内にかってない一体感をもたらしている。

カタルーニャや北部バスクなどの地域は、独自の言語や文化を持ち、政治的にも自治政府を有してマドリードの中央政府から距離を置いてきた。サッカーでもスペイン1部リーグの強豪バルセロナなど地元チームを熱烈に応援、スペイン代表に熱狂することはなかった。

だが、W杯準決勝が行なわれた7日、バルセロナでは代表のユニホームを着た数千人が街に繰り出し勝利を祝った。「驚いた。スペイン国旗を振ることは、ここではタブーなのに。これまでに見たことのない光景だった」とバルセロナに住むサンチェスさん(35)。

地域主義政党が支配する市当局は市内に観戦用の大スクリーンを設置していない。だが、バルセロナの選手が先発の半数以上を占める代表への関心は高まるばかり。自治政府はブログに「決勝の日は、カタルーニャ旗より多くのスペイン国旗が翻るかもしれない」と不満げに書き込んだ。

分離独立派のテロが続くバスクでも状況は同じだ。中心都市ビルバオでは準決勝の日、数百人が街に出てスペイン代表の勝利を祝い「ビバ、エスパーニャ(スペイン)」を叫んだ。

スペイン代表ノデルボスケ監督は準決勝後の会見で「スペイン代表は、バルセロナでもなければ、(スペイン1部リーグ強豪の)レアル・マドリードでもない。スペイン・サッカー全体の勝利なのだ」と一体感を強調した。

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社説/W杯閉幕

スポーツが結ぶ人と社会

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サッカーのワールドカップ(W杯)南ア大会は、スペインが初の栄冠を手にして幕を閉じた。

1次リーグ初戦を落としながらも、攻めの姿勢を貫いたスペイン。研ぎ澄まされた美しさを感じさせる戦いぶりは、南アの民族楽器ブブゼラの音と共に、長く記憶されるだろう。

日本代表の躍進で人々が勇気づけられたように、今大会はスポーツと、人々や社会との豊かな関係をかいま見る場面が数多くあった。スペインの優勝も、その一つである。

これまでスペインがW杯で優勝できない原因の一つに挙げられてきたのが、独立意識の強い地域の存在だった。たとえばカタルーニャ自治州には、歴史的ないきさつから中央への反発が強い。サッカーでも、クラブのFCバルセロナは応援するが、スペイン代表チームを支える雰囲気は乏しい地域だった。

だが、2年前に代表が欧州選手権を制したころから、社会の受け止めが変わってきたという。選手にも国代表としての意識が育まれてきた。W杯決勝後、バルセロナでは、州旗だけでなく、国旗を振る人々も目立った。

スポーツは人々の心を溶かし、つなぎ合わせる力を秘めている。

南アの国づくりにもスポーツが一役買った歴史がある。自国開催した1995年ラグビーW杯で初優勝し、アパルトヘイト(人種隔離)政策撤廃後の民族融和を進めるきっかけとなった。

ズマ大統領は今大会の終盤、夏季五輪招致への意欲も示した。南アは高い失業率やエイズ問題などを今も抱えるが、サッカーW杯の成功もまた、社会の新たな活力を引き出すだろう。

アフリカ初の4強を逃したガーナ代表を南アのマンデラ元大統領がねぎらったのもすてきな光景だった。スポーツは人種、国境を超えて人を結ぶ。

一方で、代表チームが政治に翻弄される場面も目についた。前回準優勝のフランスが今回、監督と選手との確執で揺れ、1次リーグで敗退すると、チームの立て直しに、サルコジ大統領や議会まで介入し始めた。

また、ナイジェリアのジョナサン大統領は決勝トーナメントに進めなかった代表チームに怒り、2年間、国際大会参加を禁じると言明した。数日後に撤回したが、政治家の身勝手にはあぜんとする。

スポーツは人々を熱狂させ一体感を与える。それだけに政治家の目には、利用したい道具と映り、ときに介入へと暴走させるのだろう。

W杯は次回14年、ブラジルで開かれる。同国は16年に南米初となるリオデジャネイロ五輪の開催も控える。

政治の思惑を軽々と超えて、人々の心を結びつける競技の数々を、今から楽しみにしたい。

2010年7月15日木曜日

日本サッカー、よくやった!!

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日本代表はよく闘った。帰国した岡田ジャパンに、認識不足のマスコミは凱旋だと持ち上げた、が、ちょっと可笑しいんじゃないの。繰り返す、よく闘ったけれど凱旋ではなかった。

マスコミ、とくにテレビ報道は深い思慮もなく、試合内容の詳細な分析もせずに、パッと気楽に表現してしまう。一例をあげるならば、みのもんたが司会する朝の番組「朝、ズバ」だった。偶然、この番組を見てしまったのだ。こんな軽い報道では、視聴者に試合の巧稚を見極める力を削ぐ。反面、新聞の目は、沈着冷静かつ理性的だ。文章は軽はずみな表現を許さない。何が凱旋だったんだ? 凱旋ではなかったことを各代表選手は認めている。各選手のそれぞれのコメントを聞けば、もう十分だ。国民の大多数も凱旋なんて思ってもいないのに、テレビ関係者は何を考えているんだ。よく頑張ったのだ、そして、今後の飛躍の可能性をも、感じさせてくれたのです。これに、皆は感動したのです。

岡田ジャパンの頑張りを、このテレビ番組は馬鹿にしている、と私は怒っているのです。

ベスト4入りを目標にしていた岡田監督は、このチームでもう1試合させてやりたかった、と悔いた。この試合で終わりたくなかったのだ。監督にしてみれば、こんなところで敗退するわけにはいかなかった。私は、1次予選リーグ全敗だってありうると思っただけに、この結果はちょっとは良かったかもしれないが、凱旋だと胸を張れるものではない。遠藤は「サッカーで泣いたのは、高校生の時以来かな。もっと、世界相手にしびれるような試合をしたかった」と。物足りなさを露骨に表現した。本田は、1次予選リーグでデンマーク戦に勝って決勝トーナメント進出が決まった時にも「予想していたほど嬉しくないんです」と、優勝を狙うと言っていた男は、まだまだ先の激突に備えていたのだろう。彼にとっては、決勝トーナメント2回戦に進出できなかったことが、よっぽどショックだったのだ。

日本代表は決勝トーナメント1回戦は引き分けだったのです。敗退ではない。堂々の引き分けだったのです。トーナメント方式なので、引き分けでストップするわけにはいかない。駒を進めるために考え出されたのがPK戦で、そのPK戦で負けただけのことです。

岡田監督に大阪市が顕彰しょうとしている新聞記事を読んだが、顕彰するにはまだ早いと私は思う。この大会における働きぶりに対する顕彰ならば、それはちょっと間違っているのではないか。同じ大学の同じクラブの後輩だ。先輩は唯、早く生まれただけなので偉そうなことを言える資格はないが、岡田監督は日本のサッカー界において重要な役割を担ってくれたし、これからも有用な人材であることは誰もが認めるところだ。日本のサッカーを間違いなく前に進めてくれたが、まだまだ発展途上なのです。まだまだ、もっともっと働いてもらわないといけない。日本が頑張っている間にも、先進国は一段と進歩のギアーを上げていく。これから、総括、分析してたゆまぬ努力、研鑽のイバラの道中まっしぐら、そしてよりよい試合結果を出す。前途多難、困難な道のりだからこそ我々は感動するのだ。夢は果てしなく続く。ますますの発展を望むばかりだ。

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これより下の文章は、は20100530前後の朝日新聞の記事から身勝手に抜粋して転載させてもらった。写真も全て紙上のものを使わせていただいた。

記念すべき日本代表の決勝トーナメント1回戦、PK戦による敗退だったけれど、感動を受けた。その試合に関する記事を借りてマイファイルした。

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サッカーのW杯南アフリカ大会は29日、プレトリアのロフタス・バースフェルド競技場で、決勝トーナメント1回戦の日本(世界ランク45位)-パラグアイ(同31位)があり、0-0のまま延長戦でも決着がつかず、今大会初のPK戦になり、3-5で日本が敗れ、初めての準々決勝進出はならなかった。

日本は、本田を1トップにおく1次リーグ3試合と同じ先発メンバーで臨んだ。

初シュートは大久保。前半1分、ペナルティエリアの外から狙った。最初のピンチは20分。至近距離でシュートを浴びたが、川島が好セーブを見せた。22分には松井がミドルシュート。40分には本田もミドルなどを狙うなどしたが、パラグアイのペースだった。

後半も球を支配された。6、11分とゴール前へ迫られたが、闘莉王と中澤がそれぞれ体を投げ出して防いだ。

15分ハーフの延長戦。前半を無得点で折り返すと、後半1分に玉田を投入した。0-0で、PK戦へ突入した。PK戦で後攻の日本は1人目遠藤、2人目長谷部、4人目本田が成功したが、3人目の駒野が失敗。パラグアイの5人全員に決められ、3-5で敗れた。

 

★守り貫徹、8強の壁 (中川文如)

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開始20秒。夕日を浴びながらMF大久保が放ったシュートは、猫だましのようなものだったか。

日本はいつにも増して慎重に試合に入っていた。パラグアイが球を持つと、1トップの本田を除いて素早く自陣に引く。ペナルティエリア手前に守備組織を築き、待ち構える。攻め手を見出せない相手は、あてどもない縦パスに終始した。前半、ひやりとしたのは2度だけ。20分のバリオスのシュートはGK川島が右ひざで防いだ。CKから招いた28分のピンチはシュートが枠を外れた。

試合前日の記者会見。岡田監督はパラグアイ対策を尋ねられ、思わせぶりに答えていた。「相手との力関係を考えた時、日本は対等に打ち合っても、そこそこやれるでしょう。でも、負ける可能性は高い。その中で、どう戦うかは秘密」。ミーティングでは、選手にこう伝えていた。「パラグアイは、自分たちが球を保持して主導権を握ると、逆にうまくいかない傾向があるぞ」

前線からの積極的な守備でリズムをつくるパラグアイ。だから中盤で球を持たせる時間を長くすれば、手持ち無沙汰で微妙に調子が狂っていくという読み。あえて主導権を渡すような試合運びは、肉を切らせて骨を断つ戦略だ。双方の力量差をぎりぎりまで測っての選択だった。

0-0のままハーフタイム。選手はうなずくように控え室へ戻った。「後半勝負」とMF遠藤が話していた通り。相手を攻めあぐねさせる展開に持ち込んでいた。

後半、修正をかけてきたパラグアイのサイド攻撃に、日本はゴールを脅かされた。DFの闘莉王が、中澤が体を投げ出して最後の一線を割らせない。90分間を耐え抜いた。「最後は気力の勝負」とMF大久保が意を決していた延長30分間を迎えた。

劣勢は続く。延長前半7分。ゴール正面で相手をフリーにした。川島が阻止。押し込まれても、逆襲を繰り出す姿勢は忘れない。2分後に本田のFKが相手ゴールを襲う。途中出場の玉田がドリブルで左を突き進んだ。

もう日は暮れていた。延長終了の笛が響いた。選手はひざに手をつき、ピッチに大の字に倒れこんだ。

試合巧者の南米勢に対し、流れを見極めながら、球際でひるまず渡り合いながら、力を出し尽くした。この経験は間違いなく日本サッカーの血肉になる。かけがえのない120分間だった。

★中村憲、満を持して

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中村憲が後半36分、疲れのみえる阿部に代わり、初めてW杯のピッチに立った。直後、ボールを託されると速いリズムで、左サイドを駆け上がる長友にボールをはたき、シュートチャンスを演出。単調になりかけていた攻撃にアクセントをつけた。42分にも右サイドで鋭いドリブル突破から前線にパスを通すなど、攻撃のタクトを振った。

★松井、仕掛け続けた(編集委員・忠鉢信一)

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松井の目はゴールをとらえていた。前半21分、大久保が仕掛けたドリブルが止められたが、こぼれた球が目の前に転がってきた。山なりに蹴ったシュートは狙い通りGKの頭上を越えたが、ゴールのクロスバーに当たって跳ね返った。

フランスの小さなクラブからたたき上げて6年。「少ないチャンスを生かすのが僕のサッカー」という松井は日本躍進の立役者の一人。岡田監督が自陣を固める守備重視へと戦い方を変えた時、選んだのは松井だった。監督が求め続けた速い好守の切り替えを忠実にやり続けていた。「控えの時は頭にきたけど、そういう気持ちがわからないようじゃダメ。その気持ちを球に込めた」

戦い方が変わったことで、選手同士のミーティングで「攻撃の形が見えない」「新しい形を作るには時間が足りない」という戸惑う声もあった。松井は反論をためらわなかった。「形よりチャンスをものにできるかどうか。形がなくてもシュート一本で勝てることもある。最後の最後を気持ちで持っていけばいい」

2008年、フランスで松井が運転する車に乗せてもらった。路地を走る松井が「フランスは不便。でも、やり方と交渉次第でたいてい可能になる。いい加減だけど、そこが面白い」とつぶやいた。「日本では繊細さがいいとされるけれど、目的を果たせば細かくやる必要ない時もある」

フランスに染まっているのかもしれない。だからこそ自分が日本人だと強く意識するという。

苦境に力を発揮し、勝ち取った世界16強の舞台。後半20分に攻めの切り札の岡崎と交代したが、息が詰まる接戦の中で好守で存在感があった。

★パラグアイ堅い守り

パラグアイ伝統の堅守は、やはり確かだった。前後半で日本が放ったシュートは10本。GKビジャルの好守もあるが、DFの体の寄せが実に巧みだ。なかなかフリーでのシュートは打たせなかった。

守備陣に比べ動きが悪かった攻撃陣。1次リーグの3試合をみれば、中盤での奪取率が高く、そこからの速攻を得意としていた。それが日本戦ではうまく機能しない。

前半20分、バリオスがゴール左から抜け出し、右アウトで技ありのシュートを放つがGK正面。その後も「接戦になるだろうが、体力的にはこちらが上」と話していたサンタクルスを中心に攻め立てるが、ゴールを割れない。

4大会連続8回目の出場で初の8強入りをかけた戦い。延長戦に入っても決着をつけることはできなかった。

★サムライ一丸集中切らさず(編集委員・潮智史)

120分を終えて、0-0。勝負は1対1の神経戦に持ち込まれた。PK戦。ぎりぎりの競り合いを続けた。この試合を象徴する結末を迎えた。パラグアイは5人が決めて幕は下りた。

120分を通して、岡田監督が送り続けたのは失点は避けながらも攻めの姿勢は忘れるなというメッセージだった。チームはそれを貫いた。

前半。互いにゆっくりとしたパス回しで試合は緩やかに滑りだした。ともに初めてとなるベスト8という高みがかかっている緊張感。前半のボール支配率はパラグアイの61%に対して、日本は39%に落ち込んでいる。納得ずくめの手堅い滑り出しは、逆にカウンターという鋭利なナイフを仕込んでいることを意味していた。前半のシュートは5本。圧倒的にボールを持ったパラグアイの3本を上回った。

そして、後半、試合は加速するように動きだした。日本は前半で手応えを感じていた。同時に、4年に一度の舞台でさほど力量差のない相手と争う巡り合わせと重圧。勝負はどちらが先に点を取るか。パラグアイがFW、MFと攻めの交代カードを切った。

まずFWを代えた岡田監督も、「勝負に出ろ」と、次の交代に出る。36分、DFラインの前で守りを締めていた阿部を下げる。満を持して送り出したのは中村憲。本田の後方にサポート役を置く布陣は、積極的に攻める手立てとして過去に試していたやり方だ。

綱渡りのような延長が始まる前、腕組みして歩き回る岡田監督は残された3枚目の交代カードをいつ、どう切るかを考えていた。互いに1点勝負であることは肌で感じ取っている。チャンスとピンチは背中合わせだ。激しい球際の戦いに打ち勝ち、最後まで走りきれるか。ぎりぎりのせめぎあいが待っていた。

延長前半9分。左寄りで得たFKを本田が強振する。相手GKが辛うじてセーブ、CKに逃れた。その直後、場面は一気に日本のゴール前に移る。闘莉王と競った相手のシュートがわずかにゴールを越えていく。やるか、やられるか。まさに死力を尽くした試合になった。延長後半開始まで待って、3枚目の交代カードを切った。玉田だ。しかし、得点は生まれなかった。

スタミナで勝る日本は最後まで攻めきった。相手に走り勝つという取り組みは間違ってはいなかった。「我々にはベストを尽くすことしかできない」と岡田監督は繰り返してきた。それを実践し続けた120分と非情なPK戦をしっかり頭に刻んでおきたい。

セーブ連発川島ほえた

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1次リーグで好セーブを連発したGK川島が、ベスト8入りをかけたパラグアイ戦でもみせた。前半20分、スルーパスに抜け出したパラグアイ・バリオスの強烈なシュートに鋭く反応。倒れこみながら右ひざで跳ね返し、得点を許さなかった。「チームが危ないときに後から支えるのが、自分の役目」。後半14分にもヘディングシュートに飛びつきキャッチ。決定的なピンチを脱すると、大きくほえた。

★長友、エース封じ

長友はこの日も左サイドで精力的に上下動を繰り返し、パラグアイのエース、サンタクルスのドリブル突破を封じた。「パラグアイの選手は運動量はあるし、速いし、うまい」と警戒していたが、守るだけでなく、スペースがあれば臆することなく走りこんで好機を作った。しかし、後半27分、勢い余ってファウルを犯し警告を受ける。通算2枚目で、勝ち進んでも次戦は出場できない。背番号5は悔しそうな表情で天を仰いだ。

★遠藤「このチームでもっと試合したかった」 / 長谷部「PK戦は時の運」 (中川文如)

「相手の癖などの情報はなかった。読みだけの勝負だった」。PK戦、先攻パラグアイの5人目。左に跳んだGK川島は逆を突かれた。首を振り、体勢を崩しながら右手を伸ばした。届かなかった。

「チームは助けられなかった」と川島。怒ったような表情で夜空を見上げた。後攻の5人目で蹴る予定だったDF闘莉王がピッチ中央で肩を落とした。FW本田は額を芝にこすりつけた。その隣にいたゲームキャップテン長谷部が立ち上がり、手をたたいた。「PK戦は時の運。全力でやった結果。受け入れよう」

一戦づつ成長を重ね、それでも初の準々決勝進出には届かなかった。日本のW杯が終わった。

大会前の強化試合で4連敗。岡田監督は守備の戦術を変えた。相手を深追いせず、自陣で網を張る作戦への方針転換。「まず守りから」という意思統一が選手を束ねた。

カメルーンとの1次リーグ初戦。前半のうちに先制し、力ずくで攻めくる相手をいなした。オランダ戦。密な守備網を敷いて優勝候補に食い下がった。引き分けでも1次リーグ突破が決まるデンマーク戦。2本のFKを決め、あとは前がかりな相手の裏を取った。

迎えたパラグアイ戦。また新たな舞台設定がなされた。攻守に果敢な相手に対し、失点の危険を減らしつつ、得点を奪いに前に出なければならない展開。攻撃力が真っ向から問われた。前線の本田、松井、大久保が奮闘しても二の矢、三の矢が続かない。そこまで手が回りきらなかった現実があらわになる。「連係して攻めてに厚みを生むことができなかった」。中盤を支えたMF遠藤の言葉がすべてだった。PK戦にもつれ込んだ時点で、「90分間、あるいは延長でゴールを挙げて、決着をつける」(岡田監督)という筋書きは狂っていた。

終戦。ベンチ前でスタッフと肩を組んでいた岡田監督が選手に歩み寄った「私は選手に何をしてやれたのか」。そう自問自答しながら、そして何かをこらえるように表情を抑え、選手に手を差し伸べていく。肩を抱かれた遠藤の涙腺が決壊した。「サッカーで泣いたのは小学生、いや高校生の時以来かな。このチームで、もっと、世界相手にしびれる試合をしたかった」。PKを外したDF駒野は最後まで立ち上がれなかった。同年代の松井が肩を叩いた。「オレが蹴っても外していたよ」。

実力は8強に届かなかった。でも、逆境で育まれた結束力は誇っていい。戦術変更の影響で先発落ちし、一度は腐りそうになった22歳のDF内田が、水やタオルをせわしなく出場選手に届けていた。出番のなかったW杯を終え、泣いた理由はこうだった。「ずっと最終ラインを組んできた中澤さんの涙を見たら、こらえきれなくなってーー。みんなで一つになれた。もっと上にいきたかった」。経験は4年後のブラジル大会へと引き継がれていく。

2010年6月の南アフリカを駆け抜けた日本は、そんなチームだった。

★選手たち素晴らしい、誇りを感じる

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「悔いは残っていない。選手たちは素晴らしく、素晴らしく日本人としての、アジア代表としての誇りを持って最後までプレーしてくれた。そのことに誇りを感じている。彼らに何をしてやれたんだと考えると、私自身がもっと勝つことに執着心を持たなければいけなかった。W杯が終わったという非常にさみしい気持ちでいっぱいです」

★決定力磨け(編集委員・潮智史)

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120分を終えて、勝敗の行方はPK戦に託された。どちらが先に失敗するか。欧州ではPK戦でを「ロシアンルーレット」に例える。心理戦であり、多分に運という不確定要素が入り込む。無得点に終わった時点で、日本は負けも覚悟しなければならなかった。この2年半の間、克服に取り組んできた得点力不足。目の前にあるゴールは遠かった。

「リスクを冒してでも1点を取ることしか、考えていなかった」。「試合後の記者会見で岡田監督が明かしている。立ち上がり20分で、MF遠藤により前めにポジションを取るように指示した。自ら攻めに出て行って手繰り寄せなければ、勝機は見えてこない。

納得づくの0-0で前半を折り返すと、選手交代のカードを次々と切った。まずは後半20分に疲れて動きの鈍った松井に代えて、岡崎。同36分には、それまで最終ラインの前で防波堤の役割を担っていた阿部を外して、トップ下に中村憲を加えた。タッチライン際まで出た岡田監督、大きな身振りで相手陣にもっと入っていけと訴える。

攻めを急ぐあまり、プレーの精度は落ちた。両サイドまではボールを運んでも、フィニッシュの場面では相手に体を寄せられてはつぶされた。最後は無理な姿勢を強いられる分、力ないシュートになった。「もうちょっと厚みのある攻撃をしたかった。パスを回して、攻撃に絡む人数を増やさなければならなかった」。遠藤の反省である。

ゴールには届かなかったが、後半の終盤から延長にかけて日本は走り勝っていた。傑出した個人がいないのなら、組織戦術を高めて勝負するしかない。その図式は不変だ。

攻め合いの中でゴールを目指した点で、守って逆襲の好機を待った1次リーグの3戦とは違った色合いの試合だった。120分の攻防から、4年後に向けて何を導き出すのか。PK戦は次ぎに進むチームを決める手段に過ぎない。引き分けとして記録に残る4戦目を意味あるものにしたい。

★大久保「一つになれた」(編集委員・忠鉢信一)

試合開始1分でシュートを放った大久保。無回転の低く速い弾道は左に外れたが、立ち上がりの緊張を解き、リズムを良くするシュートだった。

それまでの試合通り、左の攻守を担った。「サイドの選手は体力的にきつい。下がって守らないといけないし、前に出て攻撃にも加わっていかないといけないから」

大久保の持ち味の攻撃力を十二分には発揮しきれない戦い方をした今大会の日本代表。この試合、大久保のシュートは結局、この1本だけだった。チームも無得点に終わってPK戦になった。

「攻撃はあまりできなかった。攻めにいく人数も少なかった。普段のJリーグだったらイライラしたと思う。でも開き直って、おれたちはこれでいいんだと団結した。だからこのチームはバラバラにならずにすんだ」

自陣の守備を固めたこの戦い方を練り上げても、これ以上の試合ができたとは思わない。だが、1次リーグで勝利という結果を得たことでチームをまとめる柱になったという。

試合終了後、涙を見せた大久保は「最後は一つのチームになれた。代表でこんな気持ちになったのは初めて。このチームでもっとやりたかった」と語った。

初めて出場したW杯には発見があった。「自分にここまで体力があったということを、今まで知らなかった。Jリーグだったらこれは無理だっていうところまで走れた。『出来るんだ』っていう気持ちになれた。今まで出なかった一歩が出た。限界はないんだって思った」

★ 本田「批判した人にも感謝」

「16強も予選敗退も同じ。だからなにがなんでも勝ちたかった」と本田。決勝トーナメント1回戦はまだひのき舞台ではないという気持ちを「僕が、日本人かパラグアイ人でなかったら、今日の試合は見ていない」と独特の表現で語った。

大会中に24歳を迎えた。初めてのW杯で2得点。本来はMFだがワントップのFWとして攻撃の柱になった。「サッカー人生はまだ続く。今大会はこういう守備的な戦い方をしたが、もっと内容にこだわって勝ちに行くことを、次のW杯ではしたい」

試合が終わると一人でスタンドのサポーターにあいさつして控え室に消えた。「批判する人がいなかったら、ここまでこれたかどうかわからない。応援してくれた人だけでなく、批判してくれた人にも感謝したい」と語った。

★松井「五分の戦い」

1次リーグで好調だった松井が精力的な攻撃を見せた。前半21分にバーを直撃するシュート。39分には逆襲から本田にパスをつないで好機を演出し、後半20分にピッチを退いた。「五分五分の戦いだったと思う。悔しいけれどPK(での敗戦)は仕方ない」。さばさばと試合を振り返った。

★駒野まさかPK失敗

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駒野が痛恨のPK失敗。3人目に蹴り、シュートはバーを直撃した。のけぞるように両手で頭を抱えた。

練習でのPK成功率は高く、オシム前監督時代もPK戦のキッカーに指名されていた。しかし、大舞台でその技術を見せられず、試合後の取材後エリアでも涙は止まらなかった。何を聞かれても、うなずくだけで会場を後にした。

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★消極+粗さ=無得点 (小田邦彦) 

つながり悪くバックパス多用

パラグアイ戦日本代表分析

攻撃が消極的。パスもつながらないーーー。決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦で日本の戦いぶりに、そういう印象を抱いた人も多かったはずだ。実際、スカウティングデーターを提供する「プロゾーン」の分析を見ても、そんな状況が浮かび上がってくる。

日本が戦った4試合の中で、前方へのパスの割合が最も低かったのがパラグアイ戦だ。成功したパスの48,8%。一方的に押し込まれたオランダ戦ですら50,4%だった。逆に後方へのパスは23,5%で最も割合が高かった。パラグアイの堅守に、攻め手をなかなか見つけられなかったことが推測できる。

パスのつながりも悪かった。パスが3本以上つながった回数は、31回で4試合中最少。4本以上パスがつながった回数も18回で、デンマーク戦と並んで最も少なく、カメルーン戦の3分の2しかなかった。パスを回しながら、攻撃の形をつくることができなかったことになる。

この試合について、前日本代表監督のオシム氏は「ワン、ツーの次のスリーで、パラグアイにパスしてしまう場面が100万回もあったような気がする」と語っていた。まさにオシム氏の印象を裏付けるデーターになっている。

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★21世紀のサムライ論 (敬称略、編集委員・忠鉢信一)

日本の力を問う 

強化の道多彩でいい

日本は決勝トーナメントでの初勝利は得られなかった。前日本代表監督のイビチャ・オシムが「日本化」を提言して4年。結末を見て、「自分らしさ」を過剰に意識した現代の若者や日本社会を研究している筑波大学教授・土井隆義の話を思い出した。

日本社会で価値が多様化したが故に、日本人は「らしさ」を求める。しかし自らの内面を探っただけの「らしさ」は思い込みに過ぎない。現実とのかかわりを通じ、肯定されたり否定されたりする経験によって、実体のある「らしさ」ができあがる。その過程こそが「成長」だと土井は説いた。

オシムの後を受けて岡田武史が掲げた「日本の良さを生かしたサッカー」は、世界の大勢であるブロックと呼ばれる守備網は作らず、前線で相手の球を追って攻めにつなげる戦い方を基軸とした。「思い込みのらしさ」と「現実」の違いに向き合ったのがW杯直前の戦い方の変更。ブロックを整備した守備から逆襲を狙い、勝ち進んだ。

チームの大変身は、はからずも日本サッカーの多様な可能性を証明した。個人が弱いから組織?ストライカーがいない?それも決めつけを捨てれば、変化を起せるだろう。

何がうまくいき、何がいかなかったのか。分析が次への出発点になる。東京大教授(メディア論)の水越伸は、パラグアイ戦後の世論の動きに「PK負けで終わった16強という微妙な結果を、ハッピーエンドのストーリーにまとめあげようとする強い力を感じる」という。国内経済の低迷で失った自信を埋め合わせるように、「日本もやればできる」という物語の鋳型にはめ込もうとする現象だ。

「大相撲への信頼を崩壊させる事件がほぼ同時期に起きたことで、仲の良さそうな日本代表が余計に美しく魅力的に見える。メディアと視聴者・読者の相互作用によって、大衆に受け入れられやすい物語が作られている」

その流れにあらがってでも事実に基づいた検証をしなければならない。大会後、日本サッカー協会は技術委員長・強化担当の原博実を中心にW杯を総括する。ただ日本サッカー協会の見解が、進むべき唯一無二の方向とは受け止めないほうがいい。旧通商産業省の元官僚で日本サッカー協会専務理事の経験もある早大大学院教授(スポーツビジネス)の平田竹男の指摘はそこに気付かせてくれる。「かって日本サッカー協会が持つ情報や人材は、国内で突出していたので中央集権型になった。だが今は情報も人材も日本中に広がり、多様な知見が存在する。各地でそれぞれの方針で選手を育てれば、幅広く切れ目ない選手層ができる。そういう育成と強化を模索してもいいころだ」

多彩であることの強靭さ。新しい「日本の力」がそこに見出せる。

 

★日本の情熱 永遠

代表に重ねた人生

南アフリカ、ロフタス・バースフェルド競技場の上空は曇り空が広がっていた。横浜市の無職酒さんは、熱戦の余韻が残る客席で感慨に浸った。「サッカーの神様は、ベスト8入りを4年後に取っておけと言ってくれたんですね」

W杯に臨む日本代表は、なでか自分の人生を映す鏡のような存在だ。

1993年10月の米国大会アジア地区予選。その最終戦で引き分け、初出場を目前にして本大会行きを逃した「ドーハの悲劇」。バブル景気が終わりを迎え、勤務先の不動産会社の業績も急降下し始めていた。「世の中、そんなに甘いもんじゃないって教えられた時期です」

日本代表がW杯に初出場98年に役員に昇格。日韓大会で16強に入った92年、一人娘に双子の孫が生まれた。「ご祝儀をいただいたような気分でした」そして、1次リーグで未勝利に終わったドイツ大会の06年、34年間連れ添った妻に先立たれた。

昨年末に勤務先を退職。長年の夢だったW杯の現地観戦に一人で訪れると、日本が意外な快進撃を見せてくれた。「僕への退職祝いですな」。4年後、日本代表がまた活躍してくれれば、自分にもきっといいことがあると思う。

社員8人のIT関係会社を経営する東京都練馬区の下さんは、選手が去ったピッチを見つめながら決めた。「部下の失敗を責めるのはやめる。社員全員でやり直そう」

5月に大口の契約を失った。部下が取引先との連絡を怠ったのが原因だ。しかりつけたが、心に引っかかるものがあった。社内は今も、居心地の悪い空気が流れている。

この日の試合を見て思った。「駒野(友一選手)のPK失敗は責められない。その前に全員で1点取っていればPKにはならなかった」

  • 自分や社員が、もっとコミュニケーションを取っていれば、部下もミスを犯すことはなかったかもしれない。帰国後、失敗した部下に大きな仕事を与えてみようと思っている。

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20100630

朝日・朝刊・スポーツ

福西崇史の目

反省と自信 引き継いで

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日本代表は今までやってきたことを出せた試合だった。初戦に勝って得た大きな自信を、そのまま最後まで貫けたことは、次につながるはずだ。

攻めに関しては、お互いに4試合目でコンデションが良くなかった。前線でのミスが多かったし、パスがつながる回数も少なかった。守備の意識がどちらも強かったが、リスクを負うことの怖さがあった。ミスが命とりになる、トーナメント1回戦だからこそかもしれない。

PK負けは仕方がない。緊張感のある中で、ここまでやった選手は素晴らしい。W杯で延長戦からPKまで経験できた。やりたくても、できないことを今回はできた。前回のドイツの経験が生きたように、反省と自信を、将来に引き継いでもらいたい。

守るということに関しては、うまくいったが、攻撃への切り替えの部分で、出遅れが目立った。これからの課題は攻撃的な守備。相手を自分たちのポイントに誘い込んで、そこでボールを奪えば、全員の意識が統一されていて、すぐに攻撃に移れるような、そんな形が欲しい。

それから、交代選手をもっと効率的に生かすやり方も考えなくてはいけない。中村憲が非常に効いていたけれど、玉田、岡崎は使い切れていなかった。試合途中でいかにリズムを変えられるかは、これからの課題になる。

スタンドには、日本のユニホームや日の丸をペイントした外国人の姿も目立った。こういうのもW杯ならでは。日本の頑張りが認められたわけだから、誇りに思っていい。

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2010年7月14日水曜日

参院選、民主敗北衆参ねじれ

20100711 日曜日の朝。選挙に行くようにと、市役所から届けられた封書を、家人がテーブルの上に朝食の納豆と梅干の横に並べて置いといてくれた。実は、この日、投票日だということは、昨夜も一昨夜も確認していたし、意識もしていたのですが、どうにも頭の中が整理できないでいた。

昨年(2009)の9月、多くの人が望んだように、私もその一人だったのですが、長年の自民党政権(後には公明党との連立)に嫌気がさして、何が何でも政権交代だと訴えた民主党に、花盛りのマニフェストの検証もせずに、一票を投じたのです。政権交代という言葉に乗せられてしまった。期待を込めて投票した。が、その後の鳩山由紀夫首相、小沢一郎幹事長の「政治とカネ」から始まって普天間移設問題まで失政続き、何もかもシッチャかめっちゃかの挙句、首相を菅直人に挿げ替えて、この参議院選挙を迎えたのでした。この何もかもシッチャかめっちゃかの内容については、開いた口が塞がらないままだ。

こんなことがあって、私には一票の重みを、身に沁みて理解したというか、痛感させられた。そこで、今日の投票が恐かったのです。会社に出て仕事をしていても落ち着かない。昼過ぎ、なんとか意を決して、投票所に向かった。受付には、自宅の近所の親しくしている高校生・シュンが居て、少しは気が解(ほぐ)れたものの、投票用紙に書き込みをするブーツに行って、再び凍ってしまった。鉛筆を握った指は、文字を書くことを拒否した。選挙区も比例区も、投票用紙には何も書かずに白紙のまま、投票箱に入れた。

選挙の結果は、誰もが予想していた通り、民主党にとっては惨憺たるものだった。

参議院定数は242人。民主党は改選54議席を大きく下回って44議席に、国民新党は0で、与党系の新勢力は110になって半数の121人を割り込んだ。衆参で多数派は異なるねじれ状態になった。衆院の民主党と国民新党の連立政権の議員数が3分の2以上ならば、法案が衆院から参院に回って否決されても、衆院で再び可決されれば法案は成立するのだが、現在ではその3分の2に満たない。民主党は、難しい国会運営になる。一番切実な問題は、このままならば、予算関連の法案が通らないことだ。

政治家さん、汗を流そうよ。

前の首相は、母親から何年も前から月に1500万円も貰っていて、それを知らなかったなんて言って憚らない、浮世離れしたお人だった。今度の菅首相は、今年の1月には消費増税は「逆立ちしても鼻血が出ないほど完全に無駄をなくしてから」と言っていた。ところが、参院戦が始まって、何の党内論議もなしに、唐突に消費税を10%にするなんて言い出した。その後、年収200万から300万、400万の人には、増税にならないように還付します、とか、果てには、今すぐにでも増税が実施されるのではないかと思われてしまって、私の事前の説明が足りなかった、などと火消しに走った。この党が如何に、いい加減かということを露呈してしまった。これが政権党とは情けない限りだ。

どこかで読んだフレーズを思い出した。「政治家は、国の将来を考えるが、政治屋は、選挙のことだけ考えている」。このような文章だったけれど、本気で政治に取り組んでくれよ、いい加減にしてくれないと、俺、本気で一揆を起こすぞ。

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20100712

朝日・社説

参院選 、民主敗北

2大政党にさらなる責任

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菅直人首相と民主党にとっては、極めて厳しい審判となった。参院選で民主党は改選議席の54を大幅に下回り、自民党の獲得議席にも及ばなかった。民主、国民新の連立与党としても過半数を維持できなかった。

政権交代に大きな期待を寄せた民意が、わずか10ヶ月でこれほど離れてしまった。菅首相と民主党は深刻に受け止めなければならない。

鳩山前政権の度重なる失政が影を落とし、消費増税での菅首相の説明不足や発言の揺れが大きく響いた。

短命続きもう卒業を

民意は、菅首相率いる民主党政権に退場を促すレッドカードを突きつけたのだろうか。

政権交代そのものが間違いだったという判断をくだしたのだろうか。

そうではないと私たちは考える。

2大政党の主な公約が似通う中で、何を選ぶのかが難しい選挙だった。

とはいえ比例区の得票では民主党が自民党を上回り、非改選議席を加えれば、なお第一党だ。有権者は民主党に猛省を迫ったが、政権を手放すよう求めたとまではいえまい。

民意は一方で自民党を復調させた。ようやく実現した「2大政党による政権交代のある政治」をさらに前に進め、鍛え上げるよう背中を押したととらえるべきだろう。

菅首相は選挙結果を受け、続投を表明した。一層の緊張感を持って重責を果たしてもらいたい。日本では、「第二院」である参院選の敗北により首相が交代させられる事態がしばしば起こってきた。

よほどの惨敗ならやむを得ないとしても、短命政権が相次いだ大きな要因だ。それは腰を据えた政策の遂行を妨げ、国際社会での存在感を著しく損なってきた。もう卒業すべきだろう。

そもそも参院選は「政権選択選挙」ではない。

自民党一党支配の時代、有権者は総選挙で自民党を支えつつ参院選では時の政権の失政を厳しく裁いた。両院の選挙を使い分け「永久与党」を巧妙に牽制してきたともいえる。

政権交代時代を迎えた今、参院選のそのような機能は見直していいはずである。政権の枠組みの変更や首相交代はあくまで総選挙を通じて、という原則に立ち返るべきだろう。

「ねじれ」乗り越えて

参院選の結果、衆参で多数派が異なる「ねじれ国会」が再現する。

自公政権とは異なり、与党は参院で3分の2以上の議席を持たないから、参院で否決された法案を衆院で再可決できない。「真性ねじれ」である。国会運営は困難を極めるに違いない。

菅首相は政策課題ごとに野党に協力を求め、合意形成を探るパーシャル(部分)連合を目指す考えを示した。

自民党の谷垣禎一総裁は早期の解散総選挙を求めており、実現は難しいかもしれないが、方向性は正しい。

新たな連立相手を探す動きがでてくる可能性もある。安易な連立組み替えに右往左往すべきでない。

野党を話し合いの場に引き出すためには、鳩山前政権での強引な国会運営を反省することが欠かせない。

民主党内には多数決偏重を戒め、議論を練り上げるプロセスを重くみる「熟議の民主主義」を唱える向きがある。それを実践する好機である。

ねじれ国会を頭から否定する必要はない。賢く妥協し、納得度の高い結論を導く。そんな可能性も秘めていることを銘記したい。

自民党にも注文がある。

昨夏までのねじれ国会で民主党など野党は「『直近の民意』は参院にある」と主張し、自公政権を徹底的に追いつめようとした。当時、民主党の対応を政局優先と厳しく批判した自民党が今度は逆の立場に立つ。

反対ありきではなく、適切なチェック機能を果たす「責任野党」の見本を示して欲しい。

消費税から逃げるな

民主党の大勢が「消費税が敗因」と受け止めれば、今後、税制改革論議への消極論が強まるかもしれない。

しかし、「消費税10%」を掲げた自民党を有権者は勝たせた。菅首相も「議論そのものが否定されたとは思っていない」と述べた。

膨大な財政赤字を放置できないことは明らかだ。議論は早急に始めなければならない。それが、2大政党があえてそろって負担増を訴えた今回の意義を生かす道でもある。

もちろん行政の無駄に切り込む。政治家が率先して身を切る姿を示す。何より、持続可能な社会保障の全体像を描く作業が欠かせない。

菅首相は日本の将来のために増税が必要だと信じるのなら、逃げずに正面から自民党に協議を呼びかけ、有権者の説得にもあたるべきだ。

民主党内では今後、菅首相の求心力が低下することは避けられまい。菅首相を支える勢力と小沢一郎前幹事長グループとの確執が深まれば、9月に予定される党代表選に向け大荒れの展開となる可能性もある。

しかし党内抗争にかまけることを許すような余裕は今の日本にはない。

全党挙げて参院選敗北を総括し、政権運営の基本方針を定め直す。それが政権をあずかる与党の責任だ。

政権交代を実現させた日本政治の前進を後戻りをさせてはならない。

2010年7月8日木曜日

老人と犬 RED

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作品=老人と犬 -RED-

著者=ジャック・ケチャップ

発行=扶桑社

訳者=金子浩

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友人が、君は確か犬好きだったよな、これを読んでごらんよ、恐いよ、と言われてこの本を手渡された。こんなに新しい本に最近触れたことがない。表紙が白くて、清潔で綺麗だ。これを、買ったの?と聞いたら、君が得意な何とかオフの105円コーナーでは売ってないよ、買うしかなかったんだ。

あなたは犬好きらしいね。好きなら、好きで、どのぐらい好きですか?

唐突に変な質問してすみません。何でそんなことを聞くのかと言うと、この本の主人公のジジイほど犬を愛する人間を、私は今まで会ったことがないので、これは単に本の中だけの話か、それとも、あなたの傍に、これ以上の人が実在するならば、お聞かせ願いたいと思う。あなたも犬好きを任じるならば、先ずはこの本を読んでみてください。

物語は、老人と犬が不幸で悲惨な出来事に襲われるところから始まる。

ここからは、中原昌也氏の本のカバーに書かれている文章を紹介させてもらう。ーーーーーーー老人が愛犬と共に川釣りを楽しんでいる。そこへ少年三人が近づいて来た。中の一人は真新しいショットガンを担いでいる。その少年が老人に二言三言話しかけたかと思うと、いきなり銃口を老人に向け金を出せと脅かした。老人がはした金しか持っていないと判るや、その少年は突然、銃を犬に向けて発砲し、頭を吹き飛ばした。愛犬の亡骸を前に呆然と立ち尽くす老人。笑いながらその場を立ち去っていく少年たち。あまりにも理不尽な暴力!老人は”然るべき裁き”を求めて行動を開始するーーーーーー。

少年らの父は、なり上がりの不動産屋だ。少年の家族らによるジジイの店への攻撃は過激になる、果ては放火によって焼失させられる。物語はだんだんと、あなたの眠っている狂気を目覚めさせる。その狂気、始めは快感を伴って、そして修羅の場へ、生死の狭間、そして凄惨な結末だ

クライマックスはやはり最終幕だ。大団円、ジジイは深傷を負って血だらけになった高倉健が一人で敵の本丸にドス一丁で切り込む、こんな幕引きの主人公のように。仁侠映画か?。西部劇での荒野の決闘風か。ダイハードシリーズ?か。今なら、この最後の残酷なシーンは、香港映画が得意とするもののような気もする。

愛犬の恨みを晴らすまでは、ジジイはどこまでも不滅だ。

ジジイの悲しみを、作者はかくも巨大に爆発させてみせた。そのジジイの生き様を、この本では息もつかせぬ迫力で、読者を読むことに疾走させる。私は一気に読んでしまった。

2010年7月7日水曜日

暑気払いだ

 

20100706 昨日、火曜日の夜は弊社の暑気払いだった。

18:30から20:00までの、1時間30分の1本勝負。暑い暑いと言っても、梅雨の最中、まだまだ序の口だ。今月の中頃からお盆の頃までは、気を引き締めないと体はガタガタになってしまう。社員の健康をいの一番に案じた私は、バテる前にがっちり体のお手入れをしておかなくてはイカンと思って、単独でこの催しを企画した。みんなは、嬉しく賛同してくれた。

18:20 仕事中の者にも時間が迫っていることを告げ、事務所内の照明を消した。こんな時に仕事をしている奴は、昼間、仕事をサボっているに決まっているんや、そうやろう、と憎まれ口を叩いて退室を急かせた。皆で、揃って飲み始めたかったのだ。

幹事は長君だ。長君は今日一日中、宅建取引主任の試験のための講習会に行っていた。隣に座っていた女の子は大手の仲介会社の社員のようだった、この講習会に臨む心がけがどうも私とは随分違うなあと感じました、彼女に較べて、なんと私の甘いこと、そんなことを痛感されました、と自戒していた。それが、分っただけで有意義だったのではないか。この長君、夜の宴会が気になって講習会はうわの空、案の定、昼飯抜きでこの宴会にやってきた。幹事役が重荷だったのだろうか。それでも、本日の全費用の管理と豪華メニューのチョイスについて、彼に責任と権利を全て委ねた。この幹事、昼間のことは10年も前のことのように、すっかりお忘れのように、飲みっぷりは一番だった。

豪華な飲み物に、豪華な食べ物だった。食彩、鮮やかだった。私は、飲みました。前半は食っちゃ飲み、食っちゃ飲み。後半は、話をしながらの焼酎だ。お湯割りを8杯飲んだ。小田原の隣町に住んでいる秋さんが、店の係員を呼ぶ時に押すボタンをマイクのように扱って、ビールを持ってきてくれとかホルモンを持ってきてくれとか言っては、笑わしてくれた。愛すべき人だ。

社長の中さんが、頑張ろうと檄を飛ばした。売上げを毎年50%づつ増やしていく。今期は23億円、来年は35億円だ。この会社を良くするのは、君たちの協力なしではどうにもならんのだ、いい会社にして、みんなで楽しもうよ、そしてみんなで豊かになろうと発破、聞いているスタッフの目はウルウルしていた。潔癖で辛抱強く、理知的で優しい、純情な社長だ。社長の中さんの言葉に日頃の仕事に疲れた心と体を慰撫されたのだろう。みんなの心の導火線にも火を点けた。ダイナマイトな心にだ。触発され、再び決意を新たにした人もいた。私は、好(い)い仲間に恵まれたことを嬉しく思った。私の目もウルウルだ。

たまの宴会もいいもんだ。幸せな夜だった。

全国的チェーン店の焼き肉屋が企画した商品なのですが、これが我々の事情をよくよく配慮し尽くしたもので、優れものだった。この商品にこの夜は身を委ねた。

「暑気払い」ということを調べるのに、ネットwikipediaの知恵を借りた。それによると、夏に薬や酒を飲んで体に溜まった熱気を取り除こうとすること。「暑さをうち払う」という意味である。漢方などの考え方に基づき、「体を冷やす効果の有る物」を摂るということで、冷たい物とは限らない。むしろ薬湯のような物が飲まれていた。江戸期から明治にかけては、枇杷や桃の葉を煎じたものを暑気払いとして江戸や大坂で辻売りされていた。江戸の川柳に「枇杷と桃 葉ばかりながら 暑気払い」というものがある。これは「葉ばかり」と「憚りながら」をかけて、「(本来は実を食べるはずの)ビワとモモの葉っぱばかりですみませんが、ひとつ暑気払いでもーーー」という句だ。

2010年7月5日月曜日

医療費の算定って、どうなの?

右脇の下あたりに瘤ができて、以前にお世話になった天王町駅前の整形外科の病院に行って、症状を訴えると、これは整形外科ではなくて皮膚科に行ってくださいと言われ、紹介された診療所に行った。土曜日だったので混んでいた。予約だけして、会社に戻って昼飯を食ってから再度指定された時間に行った。

私の体質なのですが、脂肪瑠だとか、黒子(ほくろ)だとか、なにせその類のものができやすいのです。以前には、背中に脂肪瑠が4個もできて、4個以外にも小さなものが幾つか見つかってそれも切除してもらった。黒子は、右の首にできたものを、自分の指で、爪で苛(いじ)めて、ちぎり取った。足首にできたものは、自分でカッターで切り取った。

医者は上品な女医さんでした。折角長く待っていただいたのですが、当院では手術をしないのです、紹介書を書きますので、そこの病院に行ってください、と言われた。五分の出来事でした。貧乏という衣を着て歩いているような私だから、いったい、いくら請求されるのだろうか、恐る恐る胸算用した。紹介書を書いてもらうのにも金が必要なのだろうか。

ただ、それだけのことだった。そして、渡されたのが下の領収書を兼ねた請求書です。

点数で表示されているけど、初診料が2700円?これって、何だ。何をしたと言うのだ?5分の診察で2500円。合計5200円のうち自己負担率は30%なので、1560円をお支払いはいたしましたが、どうも腑に落ちないので、見識ある方からのご意見を聞いてみたくなった。

こんなものが普通で、当たり前なのですか。

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2010年7月2日金曜日

漂流青年 ゴンザ

「望郷の海」    著者・徳永健生

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この本も、古本屋チェーン店の何とかオフの105円コーナーでゲットした。

大黒屋光太夫の名前は知っていたのですが、このゴンザの話は全く知らなかった。大黒屋がロシアから帰国する50年も前のことだ。本の帯の文章を読んで、読みたくなって、もう買うしかなかった。

ゴンザは、ロシアで「新スラヴ日本語辞典」を完成させ、21歳の若さで彼の地で夭折(ようせつ)したのだ。この辞典は、和訳の文章は薩摩の言葉で綴られていて、言語学者らにとっては貴重な資料になっているそうです。ネットで調べたら、地元鹿児島市にはゴンザファンクラブ(会長さんは吉村治道さん)があったり、ゴンザ通りがあることも知った。もうちょっと深くゴンザさんに触れる機会を作りたいものだ。

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日本史の授業で習った八代将軍徳川吉宗の、目安箱でお馴染みの享保の改革の時代のことだった。若潮丸は、薩摩藩主の島津継豊(つぐとよ)の命を受けて、大坂(今は大阪)の蔵屋敷に勤務する藩士たちの扶持(ふち)米を搬送するために、稲荷川河口の祇園之洲(ぎおんのす)を享保13年(1728年)10月に出帆した。

若潮丸は、沖に出て間もなく嵐に遭遇、帆柱が壊れ、自力では操縦が不能、波の赴(おもむ)くままの6ヶ月の漂流の末カムチャッカ半島に辿り着いた。船に乗り込んだのは17人だった。大黒屋たちも、乗組員17人で出航した。乗組員の17人という数字は、操舵の任務に人をあてがっていくとこの数字になるのだろうか。

嵐に遭難した際の事故や、その後の病気や衰弱で数人が死亡した。やっと辿り着いた海岸の村で、この物語の主人公の二人以外は、全員が警備役のコサック隊に殺された。この難を逃れた二人こそ、11歳の権左衛門(ゴンザ)と瀬戸物屋の35歳の宗左衛門(ソウザ)だった。二人の若者は、森に猟か何かで出かけていたのです。

当時、シベリアは人を寄せ付けない流刑の地だった。ここに流されてきた罪人は二度と生きては帰れなかった。極寒の冬は地獄同然。最悪の地の果てだった。二人っきりになったゴンザとソウザは、ロシア帝国に手厚くもてなされながらも、カムチャッカから各所の吏員や軍人に付き添われ、付き添い人は幾度と変わることはあったが、過酷な旅はやっとのことでサンクト・ぺテルブルグに到着して、終わった。享保18年のこと、薩摩を出てから5年経っていた。ゴンザは付き添いの者からロシアの言葉を教えてもらった。簡単な通辞はこなせる程度にはなっていた。ソウザはこの地のことに馴染むことが、祖国薩摩を裏切ることになり、それは自分が祖国から遠ざけてしまうことになるのではと、ロシアなるものには頑なに心を閉ざした。

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シベリア庁の長官や将軍の手はずで、二人はロシア帝国のイヴァノヴナ女帝に拝謁した。この将軍は女帝の側近で、科学、文化学術振興の強烈な推進論者であった。ピョートル皇帝の遺業となったロシア帝室科学アカデミーの設立に奔走した人物だった。拝謁においては、女帝から、二人の関係、ここに至るまでの出来ごと、日本の町の様子、中心地は、国の皇帝は、鎖国は未だに続いているのかと聞かれた。

ソウザは、女帝から両名は何か奏上したいことはないか?と問われる機会を得ながら、用が済んだら早く帰国させていただきたい、と言うことが言えなかった悔しさに、その後も心がさいなまれ、気分も塞ぎがちになった。それからソウザは病に冒され床に伏した。

人類学民族博物館に併置したのがロシア帝室科学アカデミーで、その一環として日本語学校が設立されたのです。健康を取り戻した元瀬戸物商のソウザは教授になった。ゴンザはアシストだ。ゴンザは、ロシアの言葉を今まで旅をしながら十分学んできたが、日本語の教育は受けたことがなかった。漢字はおろか仮名一字さえ、ソウザがカムチャッカで教えるまで書けなかった。11歳で船に乗りこんで、まだまだ見聞の少ない少年ゴンザには、難しい作業だった。

ロシア帝国は、極東地域の探索や広く海外との交流を考えていた。とりわけ、日本には強い関心を示していた。交易を考えていたのだろう。そのためには、ロシア語と日本語の対照単語集と対照文例集が必要で、皇帝官房からその作成の指示を受けた。ロシア語はゴンザが、日本語はソウザが担当すればなんとかなる、と考えたのだろう。ソウザは、健康を取り戻したかと思われたのですが、「項目別露日単語集」「日本語会話入門」の原稿の仕上がりに合わせるように、亡くなった。享年43歳。

一人っきりになったゴンザは、シベリア庁では日本へ調査隊か使節団を送り込む準備をしているとの情報を得て、この機会には必ず自分が必要とされるに決まっている、そのためにはもっと学習しておかなければならんと強い決意をもって、皇帝官房からの指示である「新スラヴ日本語辞典」の編纂に埋没した。ゴンザは教授として、仕事仲間にも恵まれた。辞典に続いて、「友好会話手本集」『簡略日本文法」も作成した。

知らない間に、ロシア海軍による日本航路調査は艦隊を連ねて出奔(しゅっぽん)した。そのことを知ったゴンザは、狂人のように動揺した。願いが叶わなかったのだ。

生活の面倒は、知人や親友に暖かく見守られていたが、冬の寒さに疲労が重なり体力の衰えが急に進む。冬の寒さは過酷だった。故郷の薩摩の山河を夢枕に静かに息を引き取ったのは、享年21歳の時だった。余りにも若過ぎる死だった。

★この辞典では、どのように露日の対訳をどのように表記されているのか、本文中のまま紹介しておこう。------

〈クルミ〉を〈椎〉、〈林檎〉を〈柿〉、〈オリーブ〉を〈カタシ〉〈椿〉、などと充てたのは、実物を知らないゆえの苦しまぎれであり、〈平和〉を〈仲直り〉とやり、〈賄賂〉も〈贈物〉も同列に〈雑 飼(ざつしよう)〉とやったのも、概念と実態の差異をもうひとつ、突き詰めれられなかったせいだった。〈専制君主制〉を〈一つ頭〉、〈独裁の〉を〈わが自由の〉と置いたのも結果として概念の把握に苦しんだせいだった。〈神の国〉は、以前のまま〈仏の国〉とした。宗左衛衛門が教えてくれさえすれば、と悔やまれたが、それを言うのは愚痴だった。

☆ネットでは、青年=ニセ、私の=オイガト、近い=チケ、少し=チット、翻訳する=コトバウツシ、知らぬ=シタン、友人=ネンゴロ、だった。

山岡 保様って、なんですか?

弊社の関連会社が、生命保険会社が法人の社員福利厚生用に作っている生命保険に加入した。社員が全員加入する。その支払い金額の2分の1が経費に算入できる、そんなに珍しくもない保険です。が、会社側の者にとっては、この時期に、このような経済環境下、このような保険に入ることの喜びを噛みしめている。積み立てになっていて、退職金や弔意金にも使える。働いてくれている人たちにとっても、会社の経営者にも喜びは同じだ。主たる会社を任じている弊社は、食っていくことだけで必死だけれども、この関連会社は成長の盛りにある。

働いてくれている人たちに感謝。会社が元気なことに感謝。金融機関やあらゆる分野でのサポートの方々に感謝。

その生命保険会社の担当者が下のような文章を、手土産にくれた。面白く思ったので、ここに公開した。こういう販促の仕方には驚いた。お客さんをときめかそうと、営業に携わる人はよくよく考えているのだ、感心させられた。私の本音は、この書類のこと余り理解できてないのです。

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お酒も頂いたのですが、その酒瓶には下のような私の名入りのラベルが張ってあった。

今度、何かで自分の名前を書くときには、この書体を教本に試してみようと思っている。

早慶戦