詩人の石井逸子氏が「息を殺して読んだ」歌集があると語ったその歌集は渡部良三の「小さな抵抗」だ。その記事が載っている新聞の切れ端を手に入れた。包み紙に使われていた朝日新聞の切れ端だ。いつの新聞か解らないが、夕刊のようだ。この新聞記事を読んで、この渡部良三という詩人に興味をもった。先ずは、その新聞記事マル写しから始めよう。それから渡部良三をもっと知りたくてネットを探ったら、この「小さな抵抗」の一部が「Shirasagikaraの日記」にあって、これもそのまま頂戴した。有難うございました。
渡部は44年、中国・河北省の戦線で、生きている捕虜5人を銃剣で刺し殺す訓練を拒否した。歌集はその折の心境や戦場の現実を鋭くえぐりだす。
〈纏足(てんそく)の女(おみな)は捕虜のいのち乞えり母ごなるらし地にひれふして〉
〈鳴りとよむ大いなる大いなる者の声きこゆ「虐殺こばめ生命を賭けよ」〉
キリスト者の渡部は「大いなる者の声」を聞き、命令を拒んだ。すさまじいリンチ。
〈血を吐くも呑むもならざり殴られて口に溜まるを耐えて直立不動〉
渡部はこれらの短歌をありあわせの紙片に記し、軍服に縫い込めて46年に持ち帰った。
「あの時、---銃剣を大地に叩きつけ、ましぐらに走り、刑台に縛されている捕虜の前に双手(もろて)を広げて殺すなと叫び、立ち塞(ふさ)がるべきであったのだ」
虐殺命令を拒否してなお、渡部は、心に深い悔恨を刻んでいた。渡部と会いたいと思い、10月に手紙を出した。ほどなく届いた返事には「年齢も満88歳と8ヶ月」であり、一昨年秋に「胆のう炎をわずらい全摘オペ(手術)」を受けた、「ご容赦を」と書かれていた。(編集員・上丸洋一)
渡部良三は1943年、学徒動員で入隊。1944年4月、当時22歳。彼ら新兵(48人)の前に中国兵捕虜5人(共産八路軍)が引き出され、訓練と称して彼らを刺銃剣で刺し殺すことを上官から命令された。度胸試しの刺殺だ。これに不服従。「敵前抗命」(処罰は銃殺刑に相当する)だ。以後、渡部は「赤付箋付きの兵隊、要注意人物」とされ徹底した差別とリンチを受けることになった。
渡部の父渡部弥一郎は、基督教独立学園の創設者でもある鈴木弼美とともに、1944年治安維持法のかどで逮捕され、獄中生活を余儀なくされている。この父の言葉「信仰も思想も良心も行動が伴わなければ先細りになってしまう。沈黙が信仰を守ってくれると考えることはおごりだぞ」。そんな言葉を胸に出征したのだろう。
苦難の中にあった彼らを支えるべき、当時のキリスト教会は何をしていたのか。大半の教会は、日本の戦時体制に協力していた。主だったプロテスタント教会は「日本基督教会団」に統合され、神宮を遥拝し、日本の戦争勝利を祈っていた。日本の過ちをとりなす、預言者的な性格を忘れ、偶像崇拝の罪を犯し続けた。
ーーーーーーーーーーーーー「Shirasagikaraの日記」より
1992年 渡部良三『小さな抵抗』
「刺突の模範俺が示す」と結びたる訓示に息をのみぬ兵らは
深ぶかと胸に刺されし剣の痛み八路(パロ)はうめかず身を屈(ま)げて耐ゆ
屍(しかばね)は素掘りの穴に蹴込まれぬ血のあと暗し祈る者なく
虐殺(ころ)されし八路と共にこの穴に果つるともよし殺すものかや
新兵(へい)ひとり刺突拒めば戦友ら息をのみたり吐くものもあり
鳴りとよむ大いなる者の声聞こゆ「虐殺拒め生命を賭けよ」
「捕虜殺すは天皇の命令(めい)」の大音声眼(まなこ)するどき教官は立つ
信仰(しん)ゆえに殺人〈ころし〉拒むと分かりいてなおその冠を脱げとせまり来
酷(むご)き殺しこばみて五日露営の夜初のリンチに呻(うめ)くもならず
かかげ持つ古洗面器の小さな穴ゆしずくのリンチ頭(ず)に小止みなし
炊事苦力(クーリー)行き交いざまに殺さぬは大人(たいじん)なりとぞ声細め言う
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