数日前のブログで記した茨木のり子さんだ。
その茨木のり子さんの詩を一編、ここに紹介させていただく。何故、又、ここで茨木のり子さんなのかは、詩の後方の文章で、私の意図を解ってください。
恥ずかしいことなのですが、茨木のり子さんが、記した(人ベンに奇をくっつけた字)がPCでは、綴れなくて、止むを得ず『寄』の字を使わせてもらおうと思った。
そんなことしちゃ、私の詩?想はどうなっちゃうの、とあの世から降臨、怒りまくっていただけたら、私、この上なき幸せちゅうもんですが。
ところが、数日後、弊社の賢明なスタッフの小沢雅子から、「倚」の字を見つけ出す方法を教授された。教えてもらった。きちんと、茨木のり子さんの原文通りに綴れました。
倚りかからず
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問に倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
私が、茨木のり子さんを尊敬しても、尊敬しきれない、神々しい茨木のり子さんの毅然とした醍醐味を、皆さんも楽しんで?欲しいのです。「私の詩想を甘くみるんじゃ、ねーぞ」と、茨木のり子さん。
今、報道されている官製談合事件から、茨木のり子さんの詩を彷彿させたのかもしれない。知事の椅子に倚りかかり、いや、どっぷり椅子に埋まって、離れようとしない。逮捕されるまで、天地神明に誓ってそのような、天の声など発したことなどありません。福島、和歌山、宮崎の三県の知事は皆全く同じ様な発言を繰り返した。逮捕されるや、舌の根も乾きもしないうちに、ゲロちゃった。こんな知事に票を投じてきた県民の失望は計り知れないものがある。地方権力の象徴である知事の椅子はよっぽど居心地が良さそうだ。茨木のり子さんにとって、必要だったのは、背もたれだけだって、ヨウ
倚りかかる、と言えば権力以外にもあるのです。
言葉、文字に倚りかかった例です。著名な人が「冒険者」ぶった言辞をしたとする。ただの普通の人なのに、もうその人は冒険者になってしまうのです。1962年、堀江謙一さんが単独無寄港で太平洋をヨットでアメリカまでたどり着いた快挙を、あの東京都の現知事石原慎太郎が、この快挙に水を差した発言をしたことを、私は憶えている。余りの快挙に、石原は疑問視した。勇気の無い奴が余りの快挙に嫉視したようだ。その知事さんと言えば、日本の近海をうろうろ浮遊しているだけじゃないか、冒険を語るなんて資格が、「あいつ」のどこにあるんだ、と中学生時代に感じた。
知事の息子が、東京都から特別任務を委嘱されたが、実の無い成果の割りに、派手に公費をつかってくれた報道があったものだから、ついつい文章が長くなってしまった。
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