私の机を移動することにしたので、この際とばかりに本棚、引き出しを整理していたら、黄色染みた新聞が出てきた。私は、これはという記事を見つけたときは、取り敢えず切り取って(どこか)に仕舞って置くようにしている。でも、きちんとファイルをしてないので、今回のように、思わぬときに、飛び出してくる。毎年プロ野球のシーズンが終わると、その年度に活躍した選手の表彰が行われる。そこで投手部門に沢村栄治賞というのがある。私は、出身が京都だから、沢村栄治のことは、よく知っている。でもその人と、なりについては何も知らない。そういうわけで、私は新聞を切り取っておいたのだろう。その記事を此処に転載したので、読んで欲しい。
1997年 朝日新聞 月日不詳
戦争が奪った「160キロ」の速球
容赦なく3度出征・最後は代打だった
宇治山田の小学校から旧制京都商業まで、沢村とずっとバッテリーを組んだ山口千万石さん(80)は、元気に故郷で少年野球の世話をしている。
「栄ちゃんは、そりゃ、すごかったよ。中3(京商3年)の時、急に速よなって、ひざの高さの球がきゅーん伸びる。ドロップは肩からひざまでストーンやった、サイン間違ったら絶対に捕れへん。練習で受けるときも命がけやった」
「毎日三百球は投げていた。天才いうけど努力家や。ふだんはおとなしい。やさ男で、ピアニストみたいに長い、細い指してた。それが試合になるとものすごい強気で、追い込んで変化球のサイン出すと、怒って、『三振とるのは直球や、頭に入れといてな、千ちゃん』
やった」
千ちゃんの手は突き指だらけで、第一関節はどれも曲がったり節くれ立ったままだ。千ちゃんの宝物である。「ようけ三振とったなあ。野球の醍醐味、味わわせてもろた。戦争なかったら四百勝は楽にしてたやろ」
沢村の伝統的快投は昭和9年〈1934年〉秋、来日したベーブ・ルースら「史上最強」の全米軍相手に投げた静岡草薙球場の試合。0-1で負けたものの、ゲーリックの本塁打1本に抑えた。この時の全米軍は十八戦全勝。前の三試合だけで五十得点をあげていた。十七歳の沢村はこの猛打線をわずか五安打に抑え、四連続を含む九個の三振を奪った。
千ちゃんと夏の甲子園大会に出場した三ヶ月後である。「トライキ(ストライク9!)。千ちゃんが小学校から叫び続けてきた快速球に、ルースもゲーリックも三振した。四番ゲーリックは三球で。巨人軍の故・青田 昇さんは「百六十キロは出ていた。落合や清原、イチローでもバットにかすりもしなかっただろう。」と書いている。
沢村はこの日からちょうど十年、終戦の前年に、三度目の出征で台湾にに向う途上、輸送船が米潜水艦に撃沈され、戦死した。
戦後五十年の記念の年、米大リーグのオールスター戦のマウンドにドジャースの野茂投手が立った。試合開始前、センターの大スクリーンに、真珠湾攻撃と、戦場に向う大リーガーたちの記録フイルムが流され、白髪のジョー・ディマジオがグラウンドに現れた。
=一部、焼き鳥のタレのため読解不可能=
沢村は「快投」の翌年、誕生直後の巨人軍のエースで渡米、若きディマジオとも対戦した。本塁打を打たれたが、大リーグから何度も誘いを受けた。迷いつつ、「こんなでっかい国と戦争したらあかん」と沢村。
「大リーグの主力選手は危険な戦線には送られなかったんだよ」と、元ニューヨーク・タイムズ紙のD・ハルバースタム記者に後日、聞かされた。沢村らには容赦なかった**?〈刺身用の醤油のシミと、思われる、読めない〉中国戦線へ。
その前の*(ソースの零れと思われる、読めない)年秋、プロ野球公式戦がスタート。沢村は二度のノーヒット・ノーランなど、その秋と春で通算三十七勝六敗。柔らかいフォームからの抜群のスピードと制球力。が、二年の兵役で手投げ弾を投げすぎて肩を痛め、左手には銃弾を受けた。帰国後、スピードを失う。
二度目は初恋をやっと実らせた新婚五ヶ月で、フィリッピンのジャングルへ。一年余りでげっそりして帰国。今度は制球力も失う。四十年十月、六番青田の代打出場が最後だった。巨人軍をくびになり、失意のなか、出征。生まれた長女の顔を見ることもなく戦死した。二十七歳だった。
「最後はくやしかったやろなあ。あの気の強い栄ちゃんがノックアウトならあきらめたやろけど、代打やったんや」
千ちゃんと育った伊勢市の。近鉄・宇治山田駅のすぐ近くに一誉坊墓地。お墓は近所の石屋さんがひと肌脱いだ。遺骨はない。大切にしていたベーブ・ルースのサイン入りボールなどが葬られた。
日米戦での快投で、日本のプロ野球誕生の原動力になった。
(大リーグからの誘いに)「わし、行ってみたいが、怖いわ」
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