2007年8月31日金曜日

アーバンビルドの企業理念


アーバンビルド






横浜一元気な会社の企業理念



創意工夫で


クオリティを実現



誠意誠実をもって


社会の信頼に応える



利益はお客様に、社会に還元する




















                             070831

    我が社の企業理念の詳説         


                                  

我が社の「企業理念」を語る前に、弊社が経済社会において活躍するための大前提を設定したい。日本国憲法に前文があるように、我が社の企業理念を確立する前提には、横浜一元気な会社であらねばならない、と宣言したい。

そこで、横浜一元気な会社とは?


先ず社員が、『自由闊達に豊かに発想すること、チャレンジ精神旺盛であること、労を惜しまないこと、笑顔を絶やさないこと、女房、子供、家族を大事にする』者たちの参集した会社であることです。そのためには、会社として、職場環境の整備、雇用の諸条件の改善等について、最善を尽くさなければならないと心得ています。社員を育てて、守る。企業は人なりの原則を貫くこと。


そして、横浜一元気な会社になって、その社員一人ひとりが多彩な能力を発揮し、創意工夫をこらし、高いクオリティのモノやサービスの提供をする。お客様第一主義に徹すること。そのことだけが、唯一この経済社会において、生き残れる手段であって方法だと考えています。



モノ作りに徹底的こだわる。


弊社のモノ作りの理念として、〔U.Paradi.s House〕と英語書きをして ユー、パラディス、ハウスと呼称しています。これは、Urban Build Paradigm Shift Houseの略です。時代とともに変わり行く思考、認識、価値観を、時代に先んじて根源的に追求することです。弊社がかかわったモノが、時間の経過とともに価値を失うのではなく、時代の経過と共に存在感を増し、稟と存在し続ける。


提供を受けたあらゆる仕入情報に対して、秀逸な企画を練り上げ、多種多様な商品化を図る。私は、我々が働いている事務所を、工場に見立てているのです。事務所では、社員全員がなりふり構わず「モノ作り」にこだわる。企画者と制作従事者は、創作の過程においても緻密なコミュニケーションをとりながら作業を進める。結果、いいモノを作れば、必ずお客様に喜ばれるのだ、という信念はいつも、何時も忘れることなく行動すること。



我が社は、社会民主主義会社を目指します。


会社の運営形態は、「社会民主主義会社(私の造語です)」的に行いたい。株主、経営執行者、消費者(お客さん)、働き手(社員)、有識者、取引会社が積極的に会社経営に参加できるシステムを考えたい。民主主義的な会社運営を貫く。会計参与を含む四人の役員は、徹底的に意思の疎通を図る。会計参与は自分の職責を全うすること。三人の取締役は、それぞれの担当職務を負いながらも、一丸となった経営政策を作り、社員に一寸の迷いも与えない。組織は、どのセクションも風通しをよくして、上司に対して言いにくいことも胸張って言える風土を作る。



社員教育を広範な分野で行いたい。


姉歯問題が発生してから、建築に関わる者たちに対する社会の視線は厳しい。我々の業務には、関係する法令がいくつもあって、その一つひとつを厳正に遵守することが求められている。徹底した社員教育で、法令を遵守する。弁護士、司法書士、建築士、社労士、家屋調査士等による法令の学習会を定期的に催す。又、施工、内装仕上げの勉強会を、建築士、大工さん、デザイナー、インテリアコーディネーターを招いて行う。作るモノに、高いクオリティを確保するためには、高度な知識を獲得すること、スキルやセンスを磨くことの学習会を催す。直接的業務にも、専門分野に秀でたオーソリティーを社外から参加していただくことも大いに活用したい。社員の素養の底上げにもいい影響が出ると思われる。



立案するときは最大効果を念頭に置く。


土地や建物、遊休地、未利用地を取得して、あらゆる可能性を模索して商品化を図る。物件の調査をして、その物件を最大限に活かす企画を立案し、事業計画をたて、計画通りに進んでいるかを監理して、効率的な運営に至るまでを見届ける。



筋肉質的な指示系統を築く。


指示系統は極力簡素化する。社員は最少にして肝心要の考える部分を担当、周辺業務や補佐的業務については、アウトソーシングする。



絶対、笑顔の絶えない会社であること。


創業時から、社内には、笑顔が絶えない会社ですね、と評判を受けてきた。このことは、横浜一元気な会社であることの証左であろうと自負している。苦しいことも楽しいことも、全スタッフ「共働」して目的に向かってきた副産物です。



勝ち取った信頼は、我が社の宝。得た利益は、お客様と社会に還元する。


2007年8月27日月曜日

62年目の夏が逝く

1188195792.jpgポリチィカ

にっぽん 早野 透(本社コラムニスト) 

2007年8月20日 朝日朝刊 月曜コラム

さきの参院選のさなか、自民党の衆院議員の家に取材の電話をした。彼は応援演説に出かけて不在、彼の妻とひとしきり話をした。「私、こんどは自民党に投票したくない。何だか戦争のにおいがしていやだわ」。争点は、年金問題だけではなかった。果たして、安倍自民党は一敗地にまみれた。今回、書いておきたいのは安倍首相の「続投」政局のごたごたのことではない。敗戦から62年目のこの夏、「戦後」という時代を支えるのに大きな役割を果たした人々が次々と逝ってしまった。人は死に、時代は変わっていくとしても、あまりに悲しい夏である。

劇画家上村一夫は、若い男女の哀切な物語「同棲時代」で一世を風靡した。彼にもうひとつ「関東平野わが青春漂流記」という名作がある。そこに、1日に逝った作詞家阿久 悠が詩を寄せている。

ぼくらの八月十五日は 

白い光の夏祭り

オンボロラジオをとり囲み

天子様の声をきく

空は真青に晴れわたり

ジーッと音する あぶら蝉

スイッとかすめる赤とんぼ

子らはほっぺた紅らめる    (以下 略)

上村は千葉の疎開先で、阿久は淡路島で、10歳に満たぬ子供として敗戦を迎えた。上村は劇画「関東平野~」で、阿久は小説「瀬戸内少年野球団」で、少年の目で見たその時代をいきいきと描いた。それは「戦争のにおい」から解き放たれた「白い光の夏祭り」だった。

上村にとって、「戦後」は「性のめざめ」だった。阿久には「野球」と「民主主義」だった。2人はのちに東京の広告会社で席を並べ友情を結ぶ。「関東平野~」には若き日の阿久が登場する。上村は1986年、46歳で死に、阿久は美しい歌を残して70歳で死ぬ。ときあたかも、「戦後」を覆そうともくろむ若き首相が居座っている。

がんの病床にいた作家小田 実の75歳の死の知らせは、参院選の開票が進んで、安倍の敗北がはっきりした7月30日未明だった。小田にとって、「戦後」は「平和」だった。少年の日、小田は3回の大阪空襲を体験した。飛行機雲の暗闇、渦巻く火災、黒焦げの死体。敗戦1日前の8月14日の最後の空襲は、すでに日本の降伏が決まった後。地をはいずりながら死んだ人々は、虫けらの死、無用の死、「難死」だった。以後、小田がふつうの人々の視点から「平和」を考える原点となる。

小田のベトナム反戦の行動と思索を小説化した最後の他大著「終わらない旅」(新潮社)には、なぜ反戦運動を始めたのかが書いてある。「まともな心をもつ人間なら黙って見ていられない戦争だったからだと思うね。あの戦争に反対するに、人は左翼である必要ないし、偉大な思想を抱く必要もない」。ふつうの人がふつうの感覚で、「戦争はいやだ」ということ。戦争になれば、ふつうの人も被害者になるばかりではなく、戦地に行って加害者になりうること。まともな心を失えば、「特攻」とか「玉砕」とかに突き進んでしまうこと。それを繰り返さぬ決意として憲法9条ができたこと。こんなふうに「平和」を説いた小田は「市民の巨人」だった。

小田は妻を「人生の同行者」と呼ぶ。その玄順恵(ヒョンスンヒエ)が小田の死後、「私の祖国は世界です」(岩波書店)という本を出した。神戸に育った在日の彼女が朝鮮半島の分裂に直面、小田とともに世界に目覚めていく。「国籍は個人に関係なく各国が勝手につくった目に見えない鉄条網」だった。

小田は「同行者」の本の後書きに「おおらかで懐の深かった日本が偏狭な愛国心に毒された「美しい国」になりつつあるようにみえる」と書き残した。小田はいまわのきわに、今度の選挙をどう思ったか。ふつうの人々の「まともな心」が若き首相の「美しい国」に「戦争のにおい」をかぎとった結果と信じて逝ったのではないか。

小田の葬儀の後、もう若いとはいえな反戦運動の仲間が炎天下、10分のデモをした。せみ時雨のなか、「We shall overcome someday」と歌った。歩きながら涙する人もいた。

この夏、「戦後」の日本政治の大きな存在だった二人も去った。6月28日、元首相宮沢喜一死去、87歳。7月18日、日本共産党の指導者宮本顕治が死去、98歳。宮沢は、吉田 茂、池田勇人の流れをくんで「戦後」をつくった人物だった。時代の波にゆさぶられながらも、「海外で再び武力行使はしない」という護憲の防波堤であり続けた。葬儀は献花だけ、弔辞もなく、娘さんが「父はにべもない人」とユーモラスなあいさつをした。

宮本は、政治犯獄中12年、戦前の天皇制国家の弾圧と戦い抜き、戦後は共産党を議会政治の中で発展させた人だった。暴力革命よりも「護憲」を選んだ。不破哲三の弔辞につづいて長男があいさつした。「父はまことに豪胆、明治生まれの気骨を示し続けた。大変な愛国者で、父の場合は日の丸君が代というわけにはいきませんので、愛国心のシンボルは富士山でした。いつも選挙ポスターの図柄を富士山にすることを主張したのを覚えています」

テレビから、阿久が愛した高校野球の歓声が聞こえてくる。この夏、民心の奥底で何かが動いた。(敬称略)

2007年8月26日日曜日

佐賀北、不屈の心。野球に、久々に感動した。

1188195996.jpgふつうの高校生たちの快挙

2007 8月23日  朝日朝刊 社説

息をのむような決勝のドラマは、8回に用意されていた。そこでつかんだ満塁のチャンス。押し出しの四球で1点を返すと、三番・副島浩史三塁手の打球は左翼席中段まで伸びた。全国高校野球選手権大会で、参加4081校の頂点には佐賀北が立った。公立高校が深紅の優勝旗を手にしたのは、96年の松山商以来になる。

超高校級と呼ばれるような選手はいない。地元佐賀の中学校から集まった選手ばかりだ。野球特待生の制度は設けてはいないという。学校側から出る部費も年60万円程度で、バットや球を買えばすぐ終わってしまう。そんなごく普通の高校生による快進撃が新鮮だった。7回までわずか1安打、10三振と抑え込まれ、スコアーは0-4.そのまま負けても不思議のない内容だった。8回は唯一のチャンスだったといっていい。

逆転満塁打は見事だったが、佐賀北の力を感じさせたのはむしろ守りだ。2回以降、毎回ピンチに立ちながら、チームの意志がブレることはなかった。どんな猛烈な打球も体に当て、後ろにそらさない。先を読んだプレーで余分な進塁を防ぐ。頭と体をフル回転させた守りが試合の決壊を防ぎ、土壇場での逆転を引き出すエネルギーになった。

チームの特徴は「ベンチ入りメンバー投票制度」だという。大会でユニホームを着る選手を、部員全員で推薦しあう。野球の技術だけでなく、ベンチワークや気配り、生活態度といったものまでが評価の対象になるそうだ。

テレビゲームや少子化のため人間関係をつくるのが苦手な子供が増えた現代では、組織を育てる一つの方法だろう。信頼と和を積み上げる努力の跡が、チームの総合力にうかがえた。敗れた光陵もいい野球を見せた。試合が劇的だったのも、このチームの攻撃と守りが素晴らしかったからだ。

とくにエースの野村祐輔投手は、狙い球を絞る余裕も与えずにストライクを投げ込み、追い込んでいった。魔が差したような8回以外、そのテンポの速さと攻撃的な配球が圧巻だった。そしてこのチームも、野村投手を含め突出した選手というのはいなかった。

高校野球の選手を取り巻く環境は、一般の社会と同じように一様ではない。極端な格差は是正していきたいが、完全な平等は難しい。専用球場や寮をもつような高校もあれば、狭いグラウンドを他の部活動と共用し、用具を買うのもままならないところもある。

しかし、格差を嘆くよりも、その差を埋める術はまだいくつもある。そんなことを考えさせた大会だった。球場に入り、いったんプレーボールがかかれば、私立も公立も伝統校も無名校もない。どのチームにも勝者になる可能性は与えられている。

日本中で最高気温が更新された暑い夏の終わりは、次の夏への始まりだ。

「悪霊」本日読了なり

本日 8月19日 「悪霊」を、新潮文庫で読み終えた。

作:ドストエフスキー  訳者:江川 卓 

読後の感想を著す前に、先ずは正直に、今回は疲れましたと述懐せざるを得ない。私も割りと読書には根性のある方なのですが、「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」、「白痴」には苦労させていただいたのですが、「悪霊」は全然違った。かって経験のない強烈さだった。ドストおじさんには、感謝しているんです。苦悩を嬉しくお受けしたい。下巻はともかく、上巻はきつかった。この苦労が堪らないのです。何回、文庫本を放り投げようと思ったことか。仕事が忙しかったこともあるが、何よりも気乗りがいまいち悪かった。気合を入れて読み出しても、たかだか2~3ページしか進まなかった日もありました。全く、本を手にしない日もあった。読み出してから足掛け4ヶ月、実質110日を要したことになる。

今のこの日本の政治の世界にも、社会にも、「悪霊」が秘かに闇の中を蠢(うごめ)いているように思われる。ドストエフスキーさんが、もしも今生きていたら、きっと何か物語を書いてくれるのではと思う。昨今のわが国において、親が子を、それも幼子をいとも簡単に殺す事件が多発している。又、子が親を殺す事件、直接何の関わりもないホームレスの人を殴り殺す、火をつけて焼死させる。多額の保険金をかけては、殺し、保険金をだましとる。殺した死体をバラバラに切りきざむ。このような忌まわしい事件が全国的に頻発しているのを思うに、何か、重要な部分?が狂っている、としか思えない。これは、「悪霊」じゃ、悪霊の仕業だ、と思われるのも自然な状態だ。それとも、神様の怒りにふれたのか。

又、小説「悪霊」に見立てて、日本の政界にも、悪霊がいるのではと思うことがある。戦後62年が過ぎ、戦争の悲惨さを訴え、反戦運動に命を投じた先輩たちが亡くなっていくのと裏腹に、私の目にはどうしても悪霊にしか思えない者たちが跋扈しているように思うのです。

岸 信介の亡霊か。孫の安倍が首相になってから、「戦後レジームからの脱却」とか言い出した。憲法を改正するとか,言っちゃって、えらく威勢がいい。教育基本法を60年ぶりに改正。2世、3世議員がどうもクサイ。

自民党有志議員でつくる「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」は南京事件を「南京攻略戦が、通常の戦場以上でも以下でもないとの判断をするに至った」と発表した。そして慰安婦問題では、「旧日本軍によって、強制的に慰安婦にされたことを示す文書は見つかっていない」と。沖縄の人々にとっては常識になっていることなのだが、沖縄戦において、沖縄の人々が集団自殺に追い込まれたことについて、「軍の指示があったことを証明するものはなかった」と言い切る。

かたや、防衛庁を省に昇格させた。集団自衛権を考える委員会(名称は定かではない)を発足させて、集団自衛権の行使の事例を審議し出した。どこまでなら認めてもいいのか、認められるのかを審議するそうなのだが、なし崩し的に、集団自衛権を完全に認めるように意図しているのは、見え見えだ。

これは、やはり日本版「悪霊」だ。この世から戦争がなくなって欲しいと望む私には、どうしても彼たちの動きが悪霊に見えてしょうがないのです。

ドストエフスキーさん、やっぱり日本にも悪霊は居ましたわ。

読後の「悪霊」を総括しておくには、こんな難解な物語を、かくも見事に訳した江川さんの力をお借りするのが一番賢明な策と心得た。

よって、

江川 卓さんの巻末の「解釈」の文章を拝借

させていただきました。江川さんは、何もかもお分かりだからです。では、~

ドストエフスキーが生きた時代のロシアは、1861年の農奴解放を間にはさんで、作家自身の言葉をかりれば、「ロシア国民の全歴史のなかでも、おそらく最も混沌とした、最も過渡的な、最も宿命的な時代」であった。しかもドストエフスキーは、その生活のうえでも、みずからこの過渡期的な矛盾と混沌のただなかに身を置き、自身がその矛盾に引き裂かれつづけた作家であった。彼の作品世界が、トルストイにおけるような調和とはほど遠く、多声性(ポリフォニー)と呼ばれる特質を色濃くもっているのもそのためであり、それがまた彼の文学の現代性の一要素をなしているともいえる。

ドストエフスキーは、空想的社会主義を奉ずる革命思想家ペトラシェフスキーに接近し、その最左翼の領袖であったスペシネフの強い影響下に、秘密印刷所設置の計画などにもかなり積極的な役割を果たした。結局1849年4月、ドストエフスキーを含むペトラシェフスキー会のメンバーは全員逮捕され、ドストエフスキーは4年間の懲役、その後は兵卒勤務であったが、死と間近に対決させられたこのときの恐怖の体験は、作家の精神を根底から震撼するような衝撃となった。

1869年11月に「ネチャーエフ事件」が起こり、ドストエフスキーはこの事件を素材に時事的なテーマの小説を書きたい誘惑にかられた。ネチェーエフというのは、当時スイスにいた世界革命運動の大立て物バクーニンに取り入って(このバクーニンがスタヴォーギンのモデルであるという説もある)、1870年2月までにロシアに大暴動を起こし、専制国家を殲滅せよという、いわゆる(ジュネーブ指令)をたずさえて帰国した狂信的な青年革命家で、事件は、彼がモスクワのペトロフスカヤ大学の学生の間に組織した(五人組)別名(斧の会)のメンバーであった学生イワノフが、転向者として他のメンバーに惨殺されたことに端を発した。ドストエフスキーは、ある種の偶然も手伝って、この事件に並々ならぬ感心を寄せ、ベトラシェフスキー会に参加していた当時の自身の体験から、40年代の自由主義者、急進主義者の思想とこの事件の背後にある思想とのつながりを直感した。彼はさっそく40年代の自由思想化の代表者で、モスクワ大学で中世史を講じていたグラノフスキーに狙いをつけ、彼(小説ではステパン氏)がネチャーエフ(小説ではピョートル)を生み出す必然性を骨子にした小説の構想を組み上げた。

西欧から移入された無神論革命思想を聖書に言われている「悪霊」に見立て、それに憑かれたネチャーエフその他は湖に溺れ死に、悪霊がはなれて病癒えた男、すなわちロシアは、イエスの足元に座しているというのである。

「悪霊」はドストエフスキーの多くの作品のなかでも、最も複雑な、謎めいた作品であり、それだけに各時代を通じて評価もさまざまに分かれた。ソ連には、この作品を「革命運動への誹謗書」であるとする根強い見解があり、他方では、スタヴォローギンを目して、世界文学が生んだ最も深刻な人間像であり、この書を現代への予言書と見る評価もある。

2007年8月16日木曜日

善き人のためのソナタ

1187573606.jpg

8月8日  19:00   テアトル大森で、映画「善き人のためのソナタ」を観てきた。

監督・脚本ーフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマクル

音楽ーガブリエル・ヤレド

出演ーウルリッヒ・ミューエ(ヴィースラー大尉)

    マルチィナ・ゲデック(女優=クリスタ)

    セバスチャン・コッホ(劇作家=ドライマン)

    ウルリッヒ・トゥクール(文化部長=グルビッツ)

1989年、ベルリンの壁が崩壊。その3年後にソビエト連邦は解体して、東西冷戦時代が終焉した。共産圏のなかでは、もっとも経済的な発展を遂げたのが、旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)だった。その強固な共産主義体制維持の中枢をなしていたのが、国家保安省(シュタージ)、秘密警察だった。かってナチス時代には、ゲシュタボという監視システムがあった。

撮影には、今は博物館になっている元シュタージの本部が使われた。館内は、当時のまま保存されている。ヴィースラー大尉とグルビッツ文化部長のシーンはここで撮られた。撮影に使われた小物や書類は、一部当時の物で、映画史上このようなことは他に比類ないそうだ。

この映画の面白さとか、何を私たちに語ろうとしているのかは、ストーリーを読んでもらえば十分、理解できます。後の方でプログラムの文章をそのまま転載させていただいたので、確認してください。

私にとっての関心事は、ちょっと違うところから、この映画に興味を持ちました。ヴィースラーは劇作家・ドライマンのアパートから秘かにブレヒトの本を持ち出す。そして、屋根裏部屋でドライマンらの生活の様子を盗聴しながら、ブレヒトの詩集を読む、ヴィースラーの目から一筋の涙が溢れ、頬を伝って零れる。ヴィースラーの視線ははるか遠くをぼんやりと、何に思いを馳せているのか。このシーンから、私が気になっていながら、着手していなかったことを恥じた。

それは、ブレヒトのことだったのです。

学生だった頃、脚本家の牛島さんと知り合い、知り合ったその夜から(サッカーとお酒に費やした時間以外)、四六時中べったり密着の1年半だった。卒業後も、バブル崩壊で会社がピンチに陥るまでは、熱い交流を重ねた。スポーツのことや、その時々に社会で起こった出来事、作家、小説、詩、評論、劇(お芝居)を話し合った。話し合ったと言うほど対等ではなかった。一方的に、私の知らない世界をいっぱい教えてもらっていたのです。その延長戦上に、ブレヒトが出てきていたのです。が、当時ブレヒトという名の人物には、感心が沸かなかった。

牛島さんというのは、牛島孝之さんのことです。かって、脚本の人気作家だった。何らかの理由があってのことだと思うのですが、私と巡り会った時には、半(反)社会人?風な生活ぶりだった。牛島さんの生活上の問題が、いろいろあったのですが、まあマア、なんとか一見穏やかに、治まりをつけることができました。このことについて語るのが、本旨ではない。このことについては、稿をあらためたい。そのときに、牛島さんからブレヒトのことだけは教えてもらわずじまいだった。

今、そのブレヒトが、今回の映画のなかで「詩集」として現れた。

何度も、東京演劇アンサンブルの「ブレヒトの芝居小屋」へ、芝居の打ち合わせやリハーサルに連れて行ってもらったのです。私が不用意に、芝居のことを評したとき、牛島さんは顔を真っ赤にして、私を罵倒した。私を叱り付けたのは、そのときのたった1回きりでした。きっと彼には私の」言辞に許せないものがあったのだろう。芝居人の誇りがそうさせたのだろう。

ブレヒトのことを彼から教えてもらわずじまいのまま、彼は亡くなり、今年の1月に13回忌を娘さんのK子と西田英生(水球)、飯尾昌克(サッカー)、佐藤隆善(ラグビー)、私(サッカー)でおこなった。K子が、「お坊さんから言われているんだ、13回忌までやれば、後はもういいんだって~」、と聞かされて、それならばと有志4人が集まった。昌克が、お金、いっぱいありますから、と言ってくれたので、後半は牛島さんとK子を話のタネにして大いに盛り上がった。

話を元に戻します。そんなに、ブレヒトが身近だったのに、ブレヒトさんが何者で、何をした人なのか、知りたいとも思わないまま、今まで生きてきました。

東京演劇アンサンブルの発足時のこと、広渡常敏さんのこと、入江洋佑さんのこと、洋佑さんの奥さんのこと、若い頃トラックで地方巡演について行ったときのこと、を話してくれました。でも、牛島さんがその劇団で何をしていたのか?役割はなんだったのか?については、聞いたことありませんでした。 牛島さんと知り合って、35年後。牛島さんが亡くなって、まる12年。

別の回路を経て、ブレヒトとお付き合いすることにもなってしまった。というのは、私の会社は、東京T株式会社と不動産事業において共同事業を続けさせていただいているのですが、この東京T株式会社の親会社か関連会社かが、かって東京演劇アンサンブル、「ブレヒトの芝居小屋」を応援していた時期があったそうです。

ここで、ブレヒトがまた登場したのです。

偶然、ブレヒトの芝居小屋のサポート隊長のT氏と私が、酒の席でご対面ということになったのです。そのT社のかってエライ人だったT氏と、現在我が社と進めている共同事業の総括責任者で、今度代表専務取締役になられたM氏とは、水魚の交わり関係だ。M氏は、私のこと、我が社のことをいつも気を使っていただいている。酒の席で何気なくT氏が、東京演劇アンサンブルの話をちょこっと洩らされてから、もうお互いの置かれている立場などはそっちのけで、仕事も何も投げ打って、互いの劇団に関わる思い出話に花が咲いた。この状況をM氏も快く喜んでいただいた。それから、それから、と興がそそるままに、T氏、M氏と私は親密度を高める結果になりました。 そして、「ブレヒト」がこの映画のなかで現れ、かって牛島さんに連れられて行った東京演劇アンサンブルの自前の劇場の名前が「ブレヒトの芝居小屋」で。そのブレヒトさんのことを、何も知らない私がここにいる。これでは、アカンのです。

ブレヒトのことを何も知らないことを恥入らなければならない、のだ。

10月 広渡常敏追悼 ゴーリキー小説による ブルトルト・ブレヒト/作 入江洋佑/演出 林光/音楽  母 が公演される。

に行く予定です。

それまでに、ブレヒトを学習しておこうと決心しました。

STORY(映画「善き人のためのソナタ」のプログラムより)=1984年の東ベルリン、壁が崩壊する前、DDR(東ドイツ国家)は国民の統制と監視のシステムを強化しようとしていた。劇作家ドライマンの舞台初日。上演後のパーティで国家保安省(ジュタージ)のヘムプフ大臣は、主演女優でドライマンの恋人でもある魅力的なクリスタから目が離せなくなる。党に忠実なヴィースラー大尉は、シュタージ文化部部長グルビッツからドライマンとクリスタの監視および反体制的であることの証拠をつかむよう命じられる。この任務が成功すれば、出世が待っていた。早速ヴィースラーは彼らのアパートに向かい、隣人を脅かして黙認させ、屋根裏に監視室を作り盗聴を始めた。

ある夜、ドライマンの誕生パーティーが開かれ、多くの文化関係者が集まった。DDRから職業活動が禁止されていた演出家イェルスカは、ドライマンに「善き人のためのソナタ」の楽譜を贈る。ヴィースラーは屋根裏部屋で”パーティーは早朝に終わり、ドライマンとクリスタはプレゼントを開けた後セックスした”とその日の報告書を書き終えた。

舞台初日のパーティー以来、その権力で既にクリスタと関係をもっていたヘムプフ大臣は、「君のためだ」と脅かし関係を続けるよう迫っていた。ヴィースラーはアパートのベルを鳴らして自分の恋人が大臣の車から出てくるところを目撃させ、ドライマンを痛めつける。その一方で、毎日の監視を終えて自分の生活に戻る度に混乱していく自分を感じていた。孤独で惨めな生活。思わず灰色のプレハブアパートに娼婦を呼び寄せる。数日後、ヴィースラーはドライマンのアパートから本を持ち出した。そして人生で初めて、ブレヒトを読んだ。

イェルスカが自殺した。彼を偲び、ドライマンは贈られた”善き人のためのソナタ”を弾く。その哀しく美しいピアノの旋律は、屋根裏で盗聴を続けるヴィースラーの心を強く揺すぶり、彼の目から一筋の涙がこぼれる。イェルスカの死にショックを受けたドライマンは、DDRが公表しない、東ドイツの恐ろしく高い自殺率のことを西ドイツのメヂィアに報道させようと雑誌シュビーゲルの記者に連絡を取った。この計画は絶対厳守で進めなくてはならず、クリスタにも知らされなかった。ある日、「クラスメイトと会う」と嘘をついて大臣との密会に向かおうとするクリスタをドライマンが止める。彼女が大臣と関係を持っていること、また秘かに薬中毒に陥っていることを彼は知っていたのだ。追い込まれ逃げるように家を出るクリスタ。ヴィースラーはそんな彼女の前に思わず姿を現し「今のあなたはあなたじゃない」と伝える。クリスタはこの”見知らぬ人間”に不思議と心を動かされ、大臣との約束の場所に行くのを止める。

ドライマンはアパートが監視されていないか確認するため、友人の亡命を装って車で国境を越える計画を立てる。その会話を盗聴したヴィースラーは国境検問所に通報するが「今回だけだ」と見逃す。車は無事に国境を越え、アパートが監視されていないと確信したドライマンはシュピーゲル誌の記者を家に呼ぶ。記者は小さな秘密のタイプライターをケーキの箱に隠して持ち込んだ。ドライマンはそれを玄関の敷居の下に隠す。クリスタは偶然それを目にするが、あえて何も聞こうとしなかった。。匿名の記事がシューピーゲル誌に載ると、緊張が走った。監視の甘さを指摘されたグルビッツは、気まずい立場におかれた。すべてを知りながら、今や偽の報告書を作成しているヴィースラーは、その件について何も知らないし、ドライマンは新しい演劇の準備をしているだけだと伝える。グルビッツはドライマンのアパートを家宅捜索するが、すべての家財をひっくり返しても何も見つけることはできなかった。

クリスタに約束を破られた大臣は、薬物の不正購入を理由に彼女を逮捕させ、刑務所へ連行する。そこでヴィースラーが担当官として尋問にあたることになった。複雑な再会に戸惑いながらもシュピーゲル誌の記事はドライマンによるものであると認めなければ二度と舞台に立つことはできないだろう、と脅かす。クリスタは尋問に屈し、証拠となるタイプライターの隠し場所を教えてしまう。そしてグルビッツは、今度は確信を持ってドライマンのアパートに踏み込み、ドアの敷居を持ち上げさせる。しかしそこには何もなかった。シュタージが到着する直前に、誰か誰かがタイプライターを持ち去ったのだ。しかし罪の意識から部屋を飛び出したクリスタは突進してきたトラックに轢かれ、ドライマンの腕の中で息を引き取る。作戦は中止、そしてヴィースラーはシュタージの郵便部に左遷された。退役するまで蒸気で手紙を開封するだけの無機質な日々。それから4年半後、ヴィースラーはラジオから流れるベルリンの壁崩壊のニュースを耳にする。

1991年ドライマンは自分が完全監視されていたことを知る。アパートの壁紙の裏に張り巡らされたケーブル線やマイクに呆然としたドライマンは、ドイツ統一後、ようやく閲覧できるようになった山積みのシュタージ・ファイルから自分の人生を調査し始めた。報告書の最後には必ずHGWXX/7という署名と赤い指紋が押してあった。そして初めは監視していたのに、最後には自分を守ってくれた男の存在を知る。その日もヴィスラーは道端で黙々と郵便配達をしていた。声をかけようとするドライマン。しかし監視者から反逆分子へと変わったこの男に感謝する。別の方法で~。

1187573695.jpg

ここからは、私が追記した。

この別の方法とは、シュタージ・ファイルから知りえた内容を一冊の本にまとめた。その本の巻頭に、「善き人に感謝を込めて」と銘記し、「ヴィスラーさん、ありがとう」と本人を前にして言えないまま、「善き人ヴィスラー」に感謝の気持ちを込めたのです。

DDR(1949~1989年の旧ドイツ政権)の背景知識=プログラムより。SED(ドイツ社会主義統一党)支配はマルクス=レーニン主義の世界観を基に、ヨーロッパの階級闘争によって確立された。国家保安省(シュタージ)は特定の個人というものを概念的に抹消し、”Others(あちら側の人間)”というカテゴリーの人間を作り、尋問や監視を通じて彼らを国民の憎悪の対象に仕立てあげた。それゆえ逮捕されるということは、敵や敵国などの危険分子と関係をもっていることの証となる。シュタージは自分たちの任務を”Others”たちの生活の隅々まで入り込み、党の要望に応えなくなった者たちを抜本的に変えることだと理解していた。シュタージの若手幹部はポツダム市の秘密警察大学で養成され、諜報がシュタージの任務の中で最も重要度の高いものとされていた。”国家に背く罪”には最大2年間の禁固刑が課されていたが、それは例えば”非合法で国境を行き来した”程度のものだった。”ドイツ民主共和国逃亡”はその計画や試みだけでも罪とされた。東西国境地帯の警備が厳しくなりベルリンの壁が作られると、西側からの逃亡斡旋者が増えたため、DDRは彼らの活動も刑罰対象とし、逃亡援助に関わった者は最大8年間の禁固刑に処した。監視国家DDRにはシュタージ正規局員9万1千人のうち、上級局員1万3千人、加えて13万人が社会全体を監視下に置いていたといわれる。

1187573714.jpg

2007年8月12日日曜日

かってのどぶ川に、魚を発見。

私が大磯から権太坂に引っ越してきたのは、28歳の時、今から30年前のことです。

その年に我が家の第一子である長女Mが生まれたのです。長女のボンレスハム化した手をとって、よく散歩をしたところに疎水があった。疎水というよりも、どぶ川と言ったほうが正しいような川でした。その疎水は泡がぶくぶく浮いていて、川底はヌメヌメしていて、流れている水は汚水そのものだったのです。嫌な臭いもしていた。当時、完全に排水施設が整備されていなかったので、生活用水が家庭から溝を通って疎水に集まってきていたのだろう。洗剤の影響もあったようだ。疎水に直接生活用水を流している家もあったぐらいです。

我が家を含めた住宅団地が北傾斜になっていて、その斜面を下がっていくと、JRの東海道線と横須賀線の線路に突き当たる。線路と平行にその疎水があるのです。線路の反対側は南傾斜の住宅街が広がっていて、まさに線路と疎水は両斜面に挟まれた、谷底部分にあるのです。だから、両方の傾斜地から発生する雨水は、当然、疎水にあつまってくる。集中的な大雨の時などは、それは物凄い水の量と勢いです。怖くなるほどの状態になるのです。

引っ越してきた時はそんな状態だった。眺める疎水の不潔さに顔を歪めざるをえなかった。いい川、きれいな川、みんなが川辺や水に入って遊べる川になって欲しいと願った。

疎水沿いの小道は、子供が大きくなって、仕事が忙しくなって、犬と私の早朝散歩の道になった。パートナーの名犬ゴンは、私以上に川面を覗いた。何を思って覗いていたのだろうか。(質実剛健、サムライだった)ゴンが老いて、家の周辺ぐらいしか散歩ができなくなるまでのほぼ10年間は、この疎水沿いの小道を散歩した。早朝、5時に自宅を出る。この小道でリードを首輪からはずして、(聞き役上手だった)ゴンを自由に放つのです。(眉目秀麗、スタイルもよかった)ゴンは欣喜雀躍。私は二日酔いの体を草むらに投げやる。(神さまのようで、仏さまのようだった)ゴンは今年の正月明けに死んだ。頭がよくて、男っ前で、強くて、やさしかった。多くの人間どもや犬仲間から慕われていた。今でも、遺骨の前には届けられる花束の欠くことが無い。

その疎水に真っ白なサギを15年程前から、度々見かけるようになった。少ない時はつがいと思われる2羽、多い時には5~6羽がやってきた。カモも3~4羽でやってきた。鳥がやってくるのは、川の中や川辺に、虫やら魚などの餌になるものを漁りにきているのだ。ひょっとしてそれは魚だ、と思って、この15年期待に胸ふくらまして、覗きつづけたのです。

私の生まれ故郷の川はきれいだった。フナ、ウグイが泳いでいた。川底をザルですくうと、ドジョウやゴリがとれた。沢蟹、タニシ、ゲンゴロウ、シジミがとれた。川辺ではセリを摘んだ。農作業の昼休み、川の水で弁当箱を洗った後、父は少し深くなったところでよく水遊びをしてくれた。ご飯粒をパラパラと水面にまくと、魚が寄ってきた。のどが渇いた時は、川の水をそのまま腹いっぱい飲んだ。夏休みには、お父さんたちが、川を横切って石を積み上げ、にわかのプールを作ってくれた。朝早くから夜遅くまで、カッパ天国だった。

その疎水は、年々日に日に、水がきれいになってきた。川底のヌルヌルもなくなってきた。生活排水の本下水化が進んだおかげだ。もうそろそろ魚の姿が見られるかも、と思いながら覗きつづけたが、いつまでも魚は視界には現れなかった。

約3年前、私の会社は、東戸塚駅のそばから、相鉄線の天王町駅のそばに引っ越した。今度は、出勤でこの疎水のそばの小道を歩いて通うことになった。私には、どうも縁深い道と疎水だ。1週間7日の通勤で片道14回。そのうち4~5回は徒歩で通勤している。帰り道は地獄です。会社で酒を飲んだ後、ふらふらと、時には命がけの場合もある。酔っ払って、転んで転んで、ズボンを泥泥に汚して家に着いたこともあります。歩いて帰ると、翌日の朝の出勤は否応なしに徒歩になる。夜は真っ暗です、街灯らしきものが何もないのです。所要時間は、5キロの距離を朝は50分、帰りは1時間30分。

朝の出勤時には、疎水のそばの小道を通る時、必ず身を乗り上げて川を覗いた。

ところが、やっと、昨日(8月7日 火曜日)、朝6時45分、魚影発見。  大願成就。

魚の種類は分からないが、10匹ほど群れをなして泳いでいた。びっくりした。長い間、まさかまさかと、いや、もうそろそろと思いながら、覗いては失望を繰り返してきたのだ。今、ここで魚の存在を確認したことは、私にとって30年来の悲願だったのです。このことは、みんなには内緒にしておこう。重要度の高い秘密事項だ。

25年前、大池公園でクチボソを一匹、長男のSと釣ったことを思い出した。児童公園では同じ時期に一人でクチボソを釣った。

その時以来の、釣りを計画している。誰も知らない、私だけの秘境の釣り場だ。10匹ほどいたのだから、1匹だけなら釣っても、魚の仲間たちからは嫌われないだろう。釣った魚を自宅の池で飼ってみよう。

今度の水曜日(15日)の午前中に決行だ。重要度の高い秘密事項ですぞ。興味のおありな方は、静かにそうっとやって来てください。秘密だからといって、覆面などしてこないでください、目立ちますから。普段のまま、あやしげな挙動は絶対避けてください。ただし、一匹までですぞ。一匹釣ったら、脱兎のごとく、韋駄天、疾走してお帰りください。大事に飼うことも、参加の必須条件ですぞ。スポットは、私の文章にヒントがある。お近くの人なら、大体の位置は推定できるでしよう。

昨日(8月11日)のこと。

この釣りのことを友人に話したら、「そんな貴重な魚を、どうして? なんで? 釣ったりするんだ。やめろ、くだらん!!ことするな」と一蹴されてしまった。「子供じゃあるまいし」と追い討ち。友人の意見は正しいように思われたので、よって、釣りはもっと魚が増えてきたらすることにした

2007年8月4日土曜日

大きな人、小田 実さんが逝った。

私が、尊敬していた生身(なまみ)の人間の一人だった、小田 実が死んだ。

私が尊敬する人は多い。学校で、職場で、遊びの合い間に、私に実務を教えたり、処世のアドバイスを授けたり、新しい思想を教化してくれた人たちの中に、私が本気で尊敬する人は実に多い。でも、文筆活動家のなかで、本気で尊敬していたのは、30日に亡くなった小田 実と、元朝日新聞編集委員のⅩ氏だけだった。小田 実とX氏は、私に、殺される側の論理を教えてくれた。小田 実は亡くなり、X氏だけになってしまった。その二人以外に、尊敬している人はいない。本を読んで、感銘を受けたり、感動したりしたことは、あることはあっても、いきなり「尊敬」するということにはならない。言行一致な人でないと、相手に対して尊敬という観念は生まれない。

学生時代、ベ平連の正体が解らなかった。私は、学生時代ヘルメットをかぶって、角棒をもって機動隊と衝突していた。そんな私には、当初、女女(めめ)しい団体(けっして、女性を馬鹿にはしていません)だなあ、ぐらいの認識しかなかった。

ここで、私の脳髄から脳幹、足の先まで電流が走った。ベ平連は女々しいとかなんとか書いていた、その瞬間、小沢遼子さんの顔が浮かんだのです。まずかった。小沢さんは、ベ平連の発足当時のメンバーだったと思い出したのです。美しく凛凛しい女性で、激しい精神の持ち主で、女々しい人ではけっしてない。私の知人は、彼女のことを、チャーミングな猛者よ、と言っていた。全員が男性の団体で、全員が女々しければ、女々しいぞ、と言い張っても許されようが、一人でも女々しくない人が居たならば、まして女々しくない女性が居たならば、女々しいなんて言葉を、容易に使うものではないのだ。謹んで、自戒。当時は、創価学会の青年部や共産党の民主青年同盟と、どっちもどっちだ、と。私はよく分かっていなかった。その程度の認識しかなかった。

ところが、ベトナム戦争の最中、アメリカの脱走兵をかくまい、第三国への渡航を助けたことには、度肝を抜かされた。あんな、オッサンたちが、よくも大それたことをやってくれるじゃないか!心底驚いた。ただのオッサンの集団ではない。発足のメンバーだったか、ベ平連周辺の人だったか、柴田 翔や高橋和己の熱狂的な読者でもあったのです。社会人になって数年後、高橋和己作品集を買い揃えたときは嬉しかった。そんな私だから、いつもベ平連の活動は、いちいち気になっていた。両氏の本は、既刊されているものは当然、新刊は即買い求めた。小田 実のことは、本よりも、頭モジャモジャで、関西弁、大きい声、分かりやすい言葉、予備校の講師、そんなことが印象深かった。記者会見での声明発表や記者とのやりとりは、革命軍の闘士そのものだった。カッコウよかったでえ、と言えば、「そやな、まあ、ボチボチや」ぐらいには応えてくれただろう。

それから小田 実の本を読んだ。「何でも見てやろう」は、ベストセラーになった時とは、時期をずらして読んだせいか、他人が言う程には感動しなかった。売れている時は、読者もその本も、まさに旬なわけで、季節はずれになってしまった時には、もう関心が高まらないのか。当時の私は、バリバリの体育会系のサッカー部員だった。じっくり内容を吟味できていなかったことも原因の一つだろう。秀才が、何をごちゃごちゃ言っているんだ。青二歳だった私は、インテリと聞いただけで、全てを拒否してしまうほどの偏狭だった。そんなこと大したことないわ、と馬鹿にしていたのです。その後の評論、小説等については、私は読む機会が少なくなってしまったが、凄まじい勢いで執筆、発言された。死ぬ一歩手前まで、闘争的だった。やっぱり、カッコウよかった。

反戦、反核、平和、国家、政治、市民(運動)、戦争、アメリカ、民主主義、差別、天皇、民族、第三世界、弱者、される側、老人、災害について、間違いなく、日本の巨大な(小田流に言わしていただければ、ばかでかい)ご意見番だった。

ついでに、ベ平連創立のメンバーの一人である開高 健について一言申し上げたい。ベ平連の活動が活発だったころ、開高 健も頑張っていたように思う。が、その後の彼の堕落ぶりは、なんとも情けない限りだ。当初、「裸の王様」「日本三文オペラ」「輝ける闇」を読んだ。私の精神は高揚した。ベトナム戦争下、危険を顧みないレポ「報道」では、胸を打たれた。「何でも見てやろう」を読み返そうと本棚を探した。その時、気づいたのですが、開高 健の本を相当読んでいたことに改めて驚いた。エッセーは、珠玉。男の恥ずかしい部分を刺激するところなどは最高だった。面白かった。

でも、どうなっちゃったんだろう? 開高さんは。

「何でもみてやろう」を一部紹介する。  電子書店パピレスより

アメリカのもろもろのなかで、とりわけ私が見たいと心ひそかに憧れていたものが三つあった。話があんまり単純で子供っぽいもので、ここに書くのがいささか気がひけるくらいだが、それは、ニューヨークの摩天楼とミシシッピ河とテキサスの原野であった。というと、なるほど、おまえは要するに大きなものが好きなんだな、とうなずかれる向きもあろう。そのとおりだった。私は、自然であれ、人間がこしらえたものであれ、大きなもの、それもばかでかいものが大好きなのである。ばかでかいものを見ていると矢も楯もたまらなくなるといってよい。たぶん、それは、そのばかでかいもののなかに潜む(とあるいは勝手に私が想像する)わけのわからないエネルギーの塊のようなものが、私を故郷にひきつけるようにグイグイひきよせるのであろう。私は、友人のあいだで、ずいぶんと原始人、あるいは野蛮人の定評のある男であった。このばかでかさは、もちろん、摩天楼や大河や原野にかぎったことではない。人間についても同じことが言えるであろう。たとえば、ばかでかい理性、情熱、洞察力、想像力、空想力、ばかでかい好奇心、もの好き、陽気さ、のんきさ、あるいは途方もない怒り、悲しみ、笑い、あるいはまた野放図な食欲、咀嚼力、消化力ーそういったものの根底には、おそらく、ばかでかい人間エネルギーが存在し爆発しつづけているのであろう。わたしはそれを感じ、そしてシャニムニそれにひかれて行く。わたしのばかでかい好きを分析すれば、まあそういったところであろう。

30日、31日の朝日に載った新聞記事を転載した。社会面、文化面、社説などです。偉大な行動する作家だった。

2007 7 30  朝日朝刊 社会面より

小田 実さん死去  何でも見てやろう・ベ平連  75歳

反戦、反核など国際的な市民運動に取り組んだ作家で、「ベトナムに平和を!市民連合(べ平連)」元代表の小田 実さんが30日午前2時5分、胃がんのため東京都内の病院で死去した。75歳だった。自宅は公表していない。

1932年大阪市生まれ。45年の敗戦前日の8月14日に大阪大空襲を体験、そこで目の当たりにして後に、「難死」とよんだ「無意味な死」への怒りが言論活動や市民運動の源泉となった。

東京大文学部卒業後の58年、フルブライト留学生として米国ハーバード大学へ。このときの体験とそれに続く欧州・アジア巡りを綴った1日1ドルの貧乏旅行記「何でも見てやろう」(61年)がベスチセラーに。飾り気のない文体と世界の人々と同じ高さの目線で向き合う姿勢が共感を呼んだ。

65年、ベトナム戦争に反対して哲学者の鶴見俊輔さん、作家の開高 健さんらとベ平連を結成。ワシントン・ポスト紙に日本語で「殺すな」と大書した反戦広告を掲載するなど運動の支柱となった。*山岡が加筆=この「殺すな」は岡本太郎の筆による。

ベ平連解散後も、執筆の傍ら政治問題と正面から向き合い、市民の側から発言を続けた。76年には北朝鮮を訪問し当時の金日成主席と会見。87年の東京都知事選では当時の社会党から立候補を打診され、断った。

95年の阪神大震災は自宅で被災。公的支援の貧弱さを体験、被災者を支援するほうりつの成立に尽力した。

04年6月、作家大江健三郎さんや評論家加藤周一さんろと、憲法を守る会「九条の会」の呼びかけ人となった。

小説では、庶民の生活に根ざした素材と言葉で、心のひだへ分け入った。「HIROSIMA]で88年、第三世界最高の文学賞とされるロータス賞を受賞。97年に川端康成文学賞を受けた「『アボジ』を踏む」は演劇にもなった。07年春に末期ガンがわかり知人に手紙で病状を明らかにしていた。

評伝  焼け跡原点、行動の作家    白石憲二

瀬戸内の海をのぞむ自宅で見せられた1枚の写真。アメリカの爆撃機が大阪の上空で撮影したもので、市街地を黒い雲が覆っている。「私は、この雲の底にいたんだ」。1945年6月、13歳だった「行動する作家」は生涯、「焼け跡」にこだわり続けた。

それは「『される』側に立ってみる」視点だ。「ベ平連」時代にかかわった脱走兵支援。「人殺しが正義、とする社会のなかで生きてきた兵士を、人殺しはあかんというふつうの社会の、ふつうの人間にすることや」と話し、「育児」に例えた。「ふつうの人のつながり」「市民」という言葉を大切にして、こう解説した。

デモ行進の時、だれも名刺交換はしない。隣を歩く者の正体を知らず、ある問題への怒り、その解決への思いと志だけを共有して歩く老若男女、それが「市民」だ。

文学者の「反核署名」をめぐる取材で会ってから、もう四半世紀の歳月が流れる。「チマタの人」「人間ちょぼちょぼ」「あまた」「まとめ上げていえば」「大づかみ」~独特の言い回しが耳に残る。みかけはこわもてだが、「小さな人間」へのやさしいまなざしと繊細な感情も併せ持っていた。

時には集会などで声を荒げることもあった。「自分で考えろ」。そう若者に突き放すことも。「言い出しっぺ」がやるという行動原理を重んじてきた者にとって、「傍観者」や「評論家」は受け入れがたかったのだろう。

7年前、ある頼みごとをした。「新聞社からは誰もついて行かない。写真も自分で撮って欲しい。肝心の行き先ーそれも自分で決めて欲しい」。それは後に、「小田 実のアジア紀行」という本になった。「これは随分型破り、破天荒、そして何よりも自由な企画である」と、「根っからの自由人」にも気に入ってもらえたようだ。

4月に届いた病状を告げる手紙には、フィリピンの近年における人権抑圧についての民衆法廷(オランダ)のことにふれ、「自分の無知を恥じる、と言いました」とあった。「事実調査のため、現地に行きたいが、それもかなわぬことになってしまっています」

信念のために立ち上がる勇気をもった作家は、その気概を最後まで持ち続けて逝った。

朝日社説

田 実氏死去 市民参加の道を示した

「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の活動で一時代を築いた作家の小田 実さんが亡くなった。常に市民の側から戦後政治を問い続けた人生だった。

二度と戦争をしてはいけない。その原点は少年時代、大阪の街が米軍機に焼かれ、腐った死体ののおいを忘れられなくなった空襲体験にあった。「やられる側」に立たないと真実は見えない。この信念がその後も貫かれていく。

戦後は、フルブライチ留学生として米ハーバード大に学び、世界各地を歩いた。その体験記「何でもみてやろう」がベストセラーになった。

ベトナムに介入した米軍が65年に北ベトナムへの爆撃を始めると、ベ平連をつくった。泥沼化するベトナム戦争に反対する市民の声を、デモや集会のかたちで表していった。

政治運動は、ひとつの世界観を持って主義主張を通すためにやるもの。それが従来の政治活動家の常識だった。これに対してベ平連は、政治には素人の市民が、ベトナム反戦という目的で集まり、それぞれができる範囲で行動するという市民運動のあり方を確立した。

勤め帰りのサラリーマンや主婦が加わるデモは、ヘルメットをかぶり警官隊と衝突する学生とは一線を画した。その一方で、日本で脱走した米兵をかくまうというユニークさも併せ持っていた。

こうした市民運動のやり方は、さまざまな住民運動のほか、のちの非営利組織(NPO)や非政府組織(NGO)の活動にも影響を与えた。その原点をたどれば、組織よりも個人の自由な発想を大事にする小田さんの個性があった。

小田さんはその後も、阪神大震災の被災者救援や、憲法を守る「九条の会」などで、いつも社会にかかわっていくという姿勢を貫いてきた。

いま、イラク戦争に反対する声が世界に満ち、反戦デモもあちこちで見られるが、にほんでは大勢の人々が加わる反戦デモは影をひそめた。ベ平連が活発に動いていた時代の熱気は失われた。

しかし、福祉や教育、海外援助、スポーツなどさまざまな分野で、活動する市民は少なくない。ボランティアで参加する人も、専従で活動する人も、そのかかわりかたはまちまちだ。

世の中がおかしいと感じれば、選挙で「風」や「うねり」となって政治を大きく動かす。無党派層のなかには、そんな人たちもたくさんいる。

安部首相への信任選挙といわれた今回の参院選で、かれらは「ノー」を突きつけた。憲法改正で「戦後レジームからの脱却」をめざす首相への異議申し立ての意味もあっただろう。

何でもみてやろうという好奇心、そして、普通の人々の生活や生命への共感、それをないがしろにする戦争や権力に抵抗する姿勢。小田さんの精神と生き方は、これからの時代にも通用するひとつの指針であるに違いない。

共同の旅はつづく

作家・小田 実さんを悼む    鶴見俊輔(哲学者)

作家の小田 実さんが30日、死去した。ベトナム戦争に反対する「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)を小田さんらと結成し、歩みを共にした哲学者の鶴見俊輔さんに追悼の思いを寄稿してもらった。

ながいあいだ、一緒に歩いてきた。その共同の旅が、ここで終わることはない。小田 実の死を聞いてそう思う。1965年にベ平連をはじめてから、共同の旅は、すでに42年。小田 実と共に歩き続けた道を、彼は、明るいものにした。そういう力をもつ人は、私の記憶では、多くはいない。そういう人だった。

高校生のころから小説を書き始め、米国留学、その帰りに、ひとりで見たものについて、「何でも見てやろう」の腹案を得て、この本を書いた。それは、戦後の日本に新しいスタイルの文学をもたらした。

紀行文として、鴎外、漱石、荷風ともちがい、むしろ、幕末の越境者万次郎に通じる風格をもっていた。万次郎が米国に対した時、米国は大きい。小田 実にとって、ベトナム戦争に反対した時、米国は大きい。しかし、彼は、その米国の大きさにひるまない姿勢をもっていた。この独特の姿勢が、当時の日本人に共感をもたらした。米国の軍艦から離脱した十代の米国人が,それぞれ、米国の軍事力を内部から知っていて、それに対抗する道をひらいた時、彼らは、米国の力にひるまず、離脱者の目的に協力する日本人の仲間を見いだした。両者の間に、互いによく知らないままに、よく似た仲間がいた。その協力の姿勢はすでに四十年を越えて、お互いのなかにひびき合う力をもっている。

小田 実は、高校生のころ、中村真一郎らの影響を受けた。ハーバード大学に留学してから、トマス・ウルフの文体の影響を受ける。自分を今この一瞬取りまく、ばらばらのものを同時、無差別に感じ取り、心にきざみつける文体を、彼は、トマス・ウルフから受け取った。

過去の文学から、洗練された技法をうけつぐのとはちがう。若いとき東大で学んだギリシャ語を自分の中に保ち、病気に気づいてからも、自分でホメロスを訳し続けた。もっとも古い西洋の古典と合流する身構えは、人生の終わりに立って、この時代全体を見渡し、人間の文明を広く見て何かを言おうとする、彼の文学の特色、彼の人間の特色である。

最後の小説「終わらない旅」には、世界に対する彼の姿勢があらわれている。「何でもみてやろう」と肩を並べる名作である。彼と旅をしたことは私の光栄である。これからも共同の旅は続く。

「大きな人」に別れ   朝日社会

1186371924.jpg

小田 実さん追悼デモ

先月30日に亡くなった作家小田 実さんの葬儀が4日午後、東京都港区の青山葬儀所であり、作家の大江健三郎さんや井上ひさしさん、評論家の加藤周一さん、元衆議院議長の土井たか子さんら約800人が別れをつげた。

葬儀のあと青山一丁目駅近くまで、有志が追悼のデモをした。「反戦の遺志をついで」と書かれた幕と遺影を先頭に、葬儀委員長の哲学者鶴見俊輔さんら約500人が、ベトナム戦争以来、反戦歌として知られる「ウィ・シャル・オーバーカム」を歌って歩いた。

葬儀で、鶴見さんは、「黒船到着以来の日本の150年のなかで、ジョン万次郎と肩を並べる大きな人」、加藤さんは、「彼の呼びかけは格別の説得力をもっていた。今も私たちに呼びかけているし、その呼びかけに応えるところに、我々の希望は開けている」と述べた。このほか日本文学者のドナルド・キーンさんらが、文学でも市民活動でも国際的なスケールだった小田さんをしのんだ。