2010年12月30日木曜日

白瀬矗(のぶ)の名に、胸に高鳴りが

探検はロマンだ。未知の分野であればあるだけ、そのロマン度も高まる。

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20101221の朝日新聞・夕刊に「南極探検100年、白瀬の伝言」の記事が掲載されていた。題字は「苦難の道のり 世界が評価」で始まっていた。この白瀬陸軍中尉の名を、新聞の一コーナーと言えども、目にしてしまった以上、私の胸の高鳴りはどうしても抑えようがない。かって集中的に白瀬に関するものや、アムンゼン、スコットなどに関連する探検本を読み漁った時期があったのです。今から20年程前のこと、私が40歳頃のことでした。

新聞記事を読んで、私は探検モノにちょっとばかり知識があることを、密かに自負していることに赤恥したものの、この胸の高まりはどうにもおさまらない。新聞記事にはスペースに制限があるので、そんなにノタリクタリとは書けないのはよく解っているのですが、他にも知っていることが「私」にはいっぱいあるので、皆、聞いて、みんなもっと聞いて、状態になってしまっていた。またまた不遜、恥ずかしい限りだ。

とっかかりは本多勝一さんの本「アムンゼンとスコットー南極点への到達に賭ける」(出版社・教育者)だった。本多さんが所属していた京都大学探検部の指導者で精神的主柱の今西錦司さんを知り、この今西錦司氏の個性の魅力にはまった。その種を蒔いたのが西堀栄三郎、学問の分野は違えども生態学研究センターの井上民治、最後は国立民族博物館を創立した梅棹忠夫。この人たちの研究論文は読めないし理解できないが、エッセイや記者との会話を文章にしたものに触れて、一時期彼らに現(うつつ)を抜かした。東京を中心とした中央に対する在野の意地が感じられ、京都府出身の私には彼らの活躍が快く感じられた。勝手に親近感を持っていた。

それから、ここにたどり着くのです。共同通信の記者だった加納一郎さんの訳したスコット隊の生存者であるアスリー・チェリー・ガラードの探検記「世界最悪の旅」(出版社・中央公論新社)だ。戦中に発行された、この本を読んで尻に火が点いた。それから、アムンゼンの先輩ナンセンの「フラム号 漂流記」(加納一郎訳)。興奮しまくりの勢いのまま、これらをまとめた加納一郎著作集全5巻を手に入れた。そのときの感動は忘れない。探検に興味のある方は、どうか私にお申し出ください、貸し出します。探検とは何かを生涯説き続け、極地研究と啓蒙に尽くした加納一郎氏、この全5巻は私の脆弱な精神構造を強く支えてくれているのです。精神的に落ち込んだり、苦しくなったとき、引っ張り出してきて、端々をつまみ読みする習慣が身についてしまった。苦しい時の--------、神ならぬ、加納一郎氏であり、ドフトエフスキーさんだのみだ。1巻=極地の探検  2巻=フラム号漂流記  3巻北海道の山と雪  4巻=自然のなかで  5巻=世界最悪の旅(5巻のみが、我が書庫に見つからず)

これより下は、20101221の朝日新聞・夕刊による (中山由美)

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「3人の探検家に与えられた運命はそれぞれ栄光、死、そして苦難ーーーー」100年前に白瀬矗(のぶ)が南極点をめざして出航した東京・芝浦で、11月28日に開かれた記念式典。DVD「白瀬・開南の夢」のナレーションが流れると、白瀬の孫、潤さん(79)の表情が曇った。

同時に南極点をめざした探検家3人のうち、「栄光」が与えられたのは、1911年12月14日、世界初到達を果たしたのはノルウェーのアムンゼン。「死」は、1ヶ月遅れで南極点に立ったが、帰途に隊員全員が遭難死したイギリスのスコット。「苦難」は、12年1月28日、南緯80度5分の氷の上で南進を断念した白瀬だった。

国の威信をかけた国家事業に比べ、白瀬隊は資金や装備でははるかに劣った。スコット隊のテラノバ号は750トン、アムンゼン隊のフラム号は402トン、白瀬隊の開南丸はわずか204トンの木造船だった。

国は資金を出さず、民間支援に頼る探検だった。新聞社とのつながりもあった早稲田大創設者の大隈重信を会長に、南極探検後援会を創設。出発前、朝日新聞は5千円を出し、義捐金を呼びかけた。当時の記事には、約4万8千円が集まり、後援会に渡した、とある。だが、白瀬が帰国した時には後援会は消え、借金4万円が残されていた。今の1億~2億円相当という。白瀬が一人で背負った。

新聞で初めて見ることとなった他の親族には、複雑な感情が残された。救いの手を差し伸べなかったわけではない、との思いがあるからだ。白瀬は帰国後、ともに暮らしていた三男家族の元を離れ、秋田県の生家・浄運寺からも離れて疎遠になっていたという。孫の潤さんは「白瀬の晩年が不遇だったと語られると心が痛むのです」と言った。

今回の記念式典には、白瀬に関する文献をまとめた本を出版したチェット・ロスさん」(63)が米国から駆けつけた。(民間の支援を懸命に集め、諦めずに挑戦し、一人の犠牲者も出さずに帰った」。自らの力で夢をかなえ、責任を全うした魅力を語る。

出身地である秋田県にかほ市の白瀬南極探検隊記念館には、海外からの訪問客が絶えない。記念館職員だあった佐藤忠悦さん(70)は言う。「苦難の道だったが、白瀬は世界の名だたる探検家と並んで評価されている」

100年の時を経て、うねりは動き始めた。「故郷の秋田から全国へ発信しよう」

2010年12月29日水曜日

座間高校を応援する

MX-3500FN_20101227_083346_001 朝日新聞の記事より。間接照明で練習する座間高校

第89回全国高校サッカー選手権が30日から始まる。全国から48代表が決まった。神奈川県からは、県立座間高校が代表に決まった。かって、名門校と言われる学校が上位を占めてきたのだが、昨今、群雄割拠の時代に突入、どこから、栄冠を勝ち取る学校が出てくるのか、想像がつかない、と新聞では書かれていた。

栄えある代表チームでプレーする選手にとって、これほど意気の上がる大会はない。サッカーファンにとっては、正月の休みの、見逃せない重要な大会でもある。会場に足を伸ばすのもよし、コタツでミカンをむきながらの観戦は、堪らない魅力だ。勝ち進んでいくうちに、さなぎが脱皮するように、一人ひとりが、チームが、一皮、二皮むけながら成長していくのを、毎年、必ず見せ付けられる。外れがないのだ。だから、開幕が待ち遠しい。

此処で、県立座間高校のことを、触れたくなったのです。それは、私の息子が高校時代に座間高校と対戦した時のことを思い出したからです。私の息子・草が通っていた高校は権太坂にある県立光陵高校、自宅から歩いて十分もかからない距離にある。

光陵高校のグラウンドで、高校サッカー選手権の神奈川予選のベスト8進出を賭けた試合があったのです。この対戦相手が今回神奈川県代表の座間高校だったのです。今から約10年ほど前のことです。

前半は2-0で、光陵が優位にたった。光陵にはラッキーなゴールでもあった。光陵の選手たちの父兄と何とかこのままで終わってくれればいい、と本気でそう思っていた。その思いは、どの父兄の表情からも、読みとれた。青のお父さん、幼少の頃は保土ヶ谷のマラドーナと言われた川のお父さん。黒のお父さんとお母さん。私は、一抹の不安を抱いていた。それは、座間が劣勢ながら、攻撃の手を緩めなかったことです。ゲームの内容は点差はあっても、五分五分だった。

後半、光陵の選手は浮き足立ってきた。勝ちを意識したのだろう、体が強張って、へんてこなパスを出したり、つまらない反則を取られたり、黒の落ち着いていこう、という指示も弱弱しく聞こえた。私は、大きな声でしっかりせいと怒鳴っていた。前線にボールがつながらない。光陵持ち前のチームの一体感が崩れてきていた。そこで、相手チームにとっては会心のゴールが、光陵のネットを揺らした。

そうして2-1に迫られ、2-2に同点にされ、延長で逆転されたまま終了したのだ。この時の座間は、勝利することへの貪欲さが溢れ出ていた。しっかりした日常の練習が裏づけされていたのだろう。よく走った。よくボールを追い回した。光陵は、幸運なゴールを得た優位をキープできるほど逞しくはなかった。この時の試合は、私の息子にとっても、高校最後の公式戦だったのですが、悔しさは残ったろうが、考えさせられるところが多々あって、意味ある試合だった。大いに学習したことだろう。

今回の県代表までの座間高校の道のりは、厳しいものだったようだ。準決勝戦での逆転勝利はさどかし、圧巻だったことだろう。息子が高校生だった頃から、座間高校は最後まで諦めないチーム作りを心がけ、その積み重ねが今回の県代表に結びついた。

県立高校では優秀な選手を沢山集めるには無理がある。そんな条件の下に県代表になったことは、何はともあれ、凄いことだと思う。おめでとう。

本大会での活躍を期待したい。

2010年12月25日土曜日

今年も行ってきた、「銀河鉄道の夜」

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昨日(20101223 19:00~)、東京演劇アンサンブル、ブレヒトの芝居小屋に「銀河鉄道の夜」を観に行ってきた。ジョバンニ、カンパネルラ、ザネリ、お母さん、尼僧、車掌、博士、赤ひげ、信号手、青年、男の子、女の子、さそり、燈台守、影たち。

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作・宮沢賢治/脚本演出・広渡常敏/音楽・林光

多分、今回で10回近く見ていることになる。来年の今頃もきっと、同じことを言っていることだろう。今年は28回公演だ。共同代表者のお二人は元気だった。入江洋佑さんは、タメやん(これって、俺の学生時代からの仲間うちでの呼び名)九州公演を3ヶ月行ってきましたよと仰っていた、入江さんの息子・龍に聞いたら、主役をやってきたんだ、とオヤジを褒めていた。入江さんの年齢は確か80歳前後だ。志賀澤子さんは、この劇中の語り手をやられていた。志賀さんに、元気ですね、ますます磨きがかかっていますね、なんて生意気なことを言っても、優しく微笑み返しをしていただいた。永遠であって欲しいと思う、このブレヒトのコ・コ・ロを。

今回付き合ってくれたのは、伊君だ。彼に最初に会ったときは、3歳頃、保育園児だった。祖母の背中に背負われて、病院に向かう時に、偶然遭遇したこともあった。おばあちゃんは髪が真っ白だった。伊の母親が、我々の会社のスタッフだったので、会う機会は度々あった。そして、現在は弊社のコンピューター関連の保守管理とソフトのサービスのために、週に一度会社に来てくれている。この母・息子は極めて特殊な関係で、同じ一軒家に住みながら、会話がないのは勿論、食事も何もかも別々に暮らしている。かけがえのない親子だからこそ?このように変則的な家族の形が生まれたのか。機会があったら、二人によく聞いてみたい。

そんな彼が会社に顔を出したのを巧く捕まえることができて、一緒に行くことの同意を得た。私は、今までの付き合いがあって招待客なので、劇団には売り上げ面において協力できない分、有料客を連れていくことで、恩返しをしたかった。

今回の芝居の演出は、昨年とは余り変わっていなかった。ただ、私は、観る側として多少なりとも感じ方は変わってきている。台詞をよく聞き取れたことがよかった。そこで、思いついたのです。この広渡常敏さん演出のお芝居を、戯曲というのか、台本というのか、それとも小説として、原作の宮沢賢治モノとは違う、すばらしい文学作品になるように思ったのです。劇団の太田さんに話してみよう。龍にも聞いてみよう。

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下の文章は、1998年12月22日に広渡常敏さんが、なんらかの印刷物に寄稿された文章が劇団からいただいた資料のなかにあったので、ここにそのまま、転載させていただいた。

広渡常敏

早いもので『銀河鉄道の夜』をクリスマス公演としてやりはじめて、今年は16回になる。正直いってこんなこと考えてもみなかった。アンサンブルの俳優たち、そしてブレヒトの芝居小屋に足を運んでくださる見物の方々に支えられて、上演を重ねることができたのである。ぼくらはこれから先も、いつまでも、『銀河鉄道の夜』の舞台を上演しつづけることになるだろうと思っている。

ぼくがはじめて宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読んだのは1942年、中学3年の頃のことだった。たいへん感動したのだが、たしかに感動はしたのに、その実、なんのことやらわからなかった。友人と話したのだが、わからなくても感覚的に感動するのだから名作だというのだった。ところでこの童話を舞台にのせようということになって、上演台本を書くとなると、感動しただけではすまされない。困ってしまった。原稿用紙をニラんでいるばかり。1981年の11月、40年近くたっているのに、やはりわかっていない。

近くにある高輪美術館(軽井沢・千ヶ滝)に行ってみた。マルセル・デュシャンを展示していた。暗箱の覗き穴に眼を近づけると、自転車が吊り下げられていて、一条の光に照射されている。自転車の影が床面に投影されている。2次元(XY)の影の上に3次元(XYZ)の自転車、とすると3次元の上の4次元はーーーー?そこにはどうやら「自転車の自転車」があるらしい。その投影として3次元の「自転車」となり、その投影として2次元の「自転車の影」となる。ジョバンニの影が起ちあがると、、ジョバンニは3次元現実から4次元世界の銀河の夜へと旅たつ。デュシャンの暗箱に啓示されて、その夜からぼくは上演台本を書き始めた、というわけである。こうして「おかあさんのおかあさん」が「おばあさん」でないことが、ぼくもわかった。稚気あふれる賢治の”毒”’(あるいは”洒落”)に挑発されて、ぼくは一気に台本を書きあげた

2010年12月24日金曜日

モナリザの目に文字が

20101224 朝日新聞の朝刊、天声人語をここにそのままゲットさせていただいた。この記事に、最大の興味が惹いた。モナリザの目の中に文字が書き込まれていたそうだ。

天声人語

わが身が没するほどの愛を例えて、目に入れても痛くないという。砂粒ひとつ受け入れない急所なのに、かわいい子や孫なら中で転がして一体化したい。そんな思いだろう。

どんな溺愛と同化の痕跡か、レオナルド・ダビンチの代表作「モナリザ」の目の中に、微細な文字が書かれていることがわかった。右の目に画家のイニシャルとおぼしき「LV]、左にも「CE」か「B」と読める字が確認された。

外電によれば、ルーブル美術館に出向いて発見したのはイタリアの文化遺産委員会。50年前の本に〈モナリザの目は暗号に満ちている〉という記述を見つけ、高度の拡大鏡で調べてみたという。委員長は「500年前の筆致は不鮮明だが、さらに謎を掘り下げたい」と語る。

ルネサンスの巨匠は、フランス国王の招きで渡仏した晩年まで、この絵を手元に置いて筆を入れ続けたとされる。微笑むモデルは豪商の妻と伝わるが、「女装の自画像」とする説もある。

天才は科学にも通じていた。解剖学への興味から目の研究も怠りなく、角膜の表面にたっぷり水をつけると視力を矯正できる、と考えていたらしい。『人工臓器物語』(筏義人著)にある。今のコンタクトレンズにつながる発想だ。眼中に忍ばせたサインは、後世の発明を見越した「特許願」にも見えてくる。

ダビンチの時代、魔法のルーペがあったとは思えない。では、肉眼で見えない字をいかにして書き入れたのか。一部始終を見届けたはずの瞳は、防弾ガラスの向こうから謎めいたまなざしを返すばかりである。

2010年12月22日水曜日

故郷から、甥がやってきた

私の兄貴の長男・清が奥さんを連れて、20101219、横浜の我が家にやってきた。私の実家の頼(たの)もしい後継者だ。郷里は、京都府綴喜郡宇治田原町。大学で、私が私の故郷を紹介するときには、酒は美味いし姉ちゃんは奇麗な寒村貧村だと言ってきた。この甥は私が大学3年生の時に生まれたので、今年私が62歳、甥は40歳になる。甥の息子・リョウが東京の杉並で暮らしているようなのだが、金がなくなったら、不安な声で無心の電話があるだけで、どんな仕事をして、どんな処で暮らしているのか、心配になって、そんなことを確かめにやって来たそうだ。清ヨ、立派な親父をしているではないか。そんな甥っ子の行動が、叔父さんには嬉しいのです。

昨夜20101217、甥夫婦にリョウは、弊社が運営している相模原にあるパラデイス イン 相模原に泊まった。

時代が変われば、何もかもが面白いように変わるものだ。心配なのでやって来たという甥・清、この本人だって、若い頃は、父親である私の兄に随分心配やら苦労をかけたものだ。仕事が忙しい兄に代わって、私の父もよく面倒みた。尻を追いかけた。お前だって、随分兄貴に迷惑掛けたではないか、との私の詰問には、俺は金では迷惑掛けてヘンで、ときたもんだ。そう言えば、色んなことにキリキリ舞いをさせられたけれど、生活はきちんと自立していたことは確かだった。当時、久しぶりに実家に帰った時に驚かされたのは、古い農家の庭先に不似合いな大きなコンクリートミキサー車が、家屋の庇ぎりぎりに停まっていたことだ。

父は私達の家族の将来を考えて、昭和の30年代から40年代、聞いたことのない金融機関からお金を借りて、田畑を買っては耕作面積を増やしてきた。当時のその金融機関は、国策で田畑を購入する農家を資金的に援助していたようだ。食糧増産政策の一環だろう。そして現在の甥の時代は、離作する農家が増えて、その断念した田畑を借り受けて、耕作面積を増やしているのです。一団の茶畑があって、その一画の管理が放棄された時には、周辺の田畑に虫が飛び散ったり病気が広がったりで大変悪い影響を及ぼすことになる。耕作を放棄する農家は隣地の所有者に先ずは相談が持ち込むことになる。

今夏の異常な高温で、米の味は美味くならなかった、とぼやいていた。甥の嫁・泰ちゃんは味は、古米の方が美味しいですよ、と言っていた。あんなに暑い夏だったのに、人は直ぐに忘れて、今は冬の入口だ。お茶は、価額が大暴落やった。特に高級茶の値下がり率が顕著だったので、俺は茶の葉を伸ばすだけ伸ばして、量で勝負したんヤ、臨機応変、そしたら量は圧倒的に多く生産できたお陰で、売上げは昨年並みをキープしました、と少し自慢げに話していたのが、頼もしく思われた。農家によっては、去年よりも一千万円も売上げが少なかった家(うち)もあったそうだ。

農閑期の仕事として竹炭も作っている。数年前から仲間たちと取り組みだして、試験を繰り返してきたのですが、ここに来て、やっとビジネスとして成り立つように育ってきたと言っていた。昨年この炭焼き窯を見せてもらった。窯作りの工夫や数々の苦労の歴史を聞かされた。作業場には、空きの缶ビールが転がっていて、ビールを飲みながらの勉強会を繰り返していたのだろう、と羨ましく想像してみた。

このように、私の実家は、父、長兄、甥ときちんと専業農家を後継できた。これからは、この甥の息子次第だが、私には、ヤ・マ・オ・カのDNAが脈々と生き続けていくさまを、見られるのは至福の思い。故郷(ふるさと)は、まだまだ近場にあって、遠くにはいきそうにない。

故郷での出来事、私の兄弟のこと、親戚のこと、私の友人達のことの話に華が咲いた。つまらない些細な出来事でさえも楽しく聞けた。よく来てくれたぞ、甥っ子の清と嫁の泰ちゃん。甥の子供・リョウも我が家について来た。彼とは、新横浜マリノススタジアムでのトヨタカップの決勝戦以来だ。6~7年前のこと。彼は今、二十歳。青雲の士だ。私が学生時代、「二十歳の原点」とかいう本が売れていたことを、由(よし)もなく思い出した。私が東京の高田馬場の大学に入学したのが20歳だった。

私の育った、宇治田原の里のご紹介

未分類 窶鐀 山岡保 @ 2006/11/21 08:55

私の育った、宇治田原の里のご紹介。

宇治平等院の裏を流れる宇治川をさかのぼっていくと、天ケ瀬ダムがある。源流は琵琶湖だ。川に沿ってダムを見下ろすような道が蛇行している。この道こそ、その昔、ここで紹介している私のふるさとの、京都、大阪に通じる唯一の出入り口でした。高校には、マフラーをカットしたホンダのスーパーカブに乗って、レーサー気取りで、通った。もう少し川をさかのぼっていくと、宇治川は、瀬田川と田原川に分かれる。その支流である田原川に沿った道を進むと、我がふるさと、宇治田原町に入ります。河岸段丘の少しばかりの平地を、山々がぐるりと取り囲んでいる。

ここで私は生まれ、20歳まで過ごした。

(2006年10月14日 京都新聞の記事より)

和みのまち

大規模集団園を造成

京都府綴喜郡宇治田原町は今年町制50周年を迎えた。田原村と宇治田原村が合併で宇治田原町が誕生して半世紀。住宅や工業団地の開発が進む町はいま、茶文化をキ-ワードにした(和みのまち)を目指している。

府南部のほぼ中央東に位置し、人口1万249人(10月1日 現在)。南東部に修験の山・鷲峰山がそびえ、中心部を田原川が流れる。町内各地区には由緒ある寺社や史跡が多く、豊かな歴史を今に伝える。また、緑茶製法の発祥の地として、町挙げて茶を通した国際交流など茶文化の発展に力をいれてきた。

史跡・伝統 豊かな歴史 今に伝え

古くは奈良と京都、近江を結ぶ要所だった宇治田原町は、由緒ある寺社や史跡をもち、文化財が数多く残る。同町で国の重要文化財に指定されている八件のうち、禅定寺所有は七件を数える。本尊(木造十一面観音立像)、平安時代―江戸時代の同寺伝来の古文書「禅定寺文書」などで、藤原道長から頼道に伝えられた領地が同寺に寄進されたことなどが文書に残るという。正寿院(同町奥山田)の「木造不動明王坐像」も国の重要文化財で鎌倉初期の仏師、快慶の作とされる。

神社では、こぶとりの神で知られる猿丸神社(同町禅定寺)が有名で、緑茶製法を開発した同町出身者の永谷宗円を祭る茶宗明神社もある。

一方、各地区には今も古来の風習が伝わる。落ち武者の隠れ里とされてきた高尾地区に女人禁制の小正月行事「縁たたき」が残り、奥山田地区には、「ねりこみばやし」が代々受け継がれている。酒を飲ませたウナギを滝つぼに放流する一風変わった雨乞い行事は、湯屋谷地区で毎年開催される。

農林業

日本緑茶発祥の地である宇治田原町は、江戸時代に永谷宗円が「永谷式煎茶」を生み出して以来、茶作りの歴史を積み重ねてきた。町内に広がる茶園の総面積約二百三十ヘクタールで、生産農家は約五百七十戸。年間の生産量は約四百トンに上る。春の茶摘みの時期には茶園のあっちこっちで、青々とした茶の芽を摘み取る摘み子たちの姿が見られ、初夏の新茶作りの最盛期には、町内の製茶工場から茶の甘い香りが漂う。

緑茶と並ぶ同町の特産品が「古老柿」だ。皮をむいたつるのこ柿という渋柿を山里の寒風にさらし、甘く柔らかな「古老柿」に仕上げる。晩秋のころには稲刈りの済んだ田んぼに古老柿作りための柿屋が立ち並び、何万個ものつるのこ柿が干してある風景は、昔から続く宇治田原の風物詩だ。

町は本年度から、町内に大規模な集団茶園を造成する事業を始めた。移りゆく時代とともに、茶業を取り巻く環境も変わってきたなかで、緑茶発祥の地として茶文化を支え続けてきた町は、これからも茶の歴史に新しいページを付け加えていく。

教育・文化

宇治田原町は「地産地消」をキーワードに、地元産の食材を生かした食育に力を注いでいる。新茶のシーズンには、町立保育園や小学校の子供達が町内の茶園で茶摘を体験し給食には新茶を使ったかき揚げや茶の芽の炊き込みご飯など、郷土色豊かなメニューが出る。小学校では、茶やキュウリなどの生産農家を講師に招いた授業や休耕田を利用した米の栽培体験など、学校と地域が一体となって食の大切さを学んでいる。茶を通した国際交流も盛んで2004年から茶発祥の地といわれる中国雲南省との交流事業を進めている。04年からは町内の三小学校の児童が摘んだ茶を同省に贈り、友好を深めてきた。食を通してふるさとの文化に親しみ、茶を通して世界の文化を知る試みが続いている。

産業

緑豊かな茶畑に囲まれて、平屋の工場が立ち並ぶ宇治田原工業団地。1988年、府内初の民間開発による工業団地としてオープンした。総面積約80ヘクタールの広大な敷地の中に、約50の製作場や工場が立ち並び、府内有数の工場団地に発展してきた。オープン当時は金属プレスの工場が多かったが、時代とともに業種も移り変わり、今は紙加工や印刷技術、食品関係の工場が多く入居している。半導体部品や精密機械の組み立てなど、先端技術を支える企業の進出も目立つ。

同工業団地に隣接する緑苑坂地区にも、2002年に緑苑坂テクノパークがオープンした。約10ヘクタールの敷地には学校給食共同調理場や印刷工場などが入居し、現在も新たな企業が工場を建築中だ。

産業の発展が進む一方で、同町は環境保全の取り組みにも力を入れている。今年8月には、町内に生息する府の絶滅寸前種や絶滅危惧種などの野生動植物800種の生態をまとめた(宇治田原町レッドデータブック)を発行した。地域に残された豊かな自然という財産を町はこれからも守っていく。

2010年12月13日月曜日

金子光晴の詩に、「六十代」というのが

今日も、金子光晴さんの詩集を手にとった。私、62歳。

昨夜、加賀乙彦さんの「夕映えの人」を読み終えた。主人公の60歳前から70歳前後までの間、夫婦を中心に、子供たち、兄弟らの身の上に起こった数々のできごとが繰り広げられた。仕事上のトラブル、父母の残していったものの後始末を物語りにしたものだった。異母妹が突然現われたりもした。面白かった。そんな物語を読むと自然に、私自身に、62歳の男として、年相応の生活をきちんと生きているか、と問う。即答=ただただ、だらしない生活ぶりに恥じ入るのみだ。それでも、老後の生活が安らかでありたいと思う。身内に災厄が少ないことを願う。

加賀乙彦さんの「夕映えの人」のようには、なかなか、そうは巧くいかないものだ。

そんな、老境に入りつつある私は、この今、何を、どうすればいいのか?と考える。悔いのないように、生きて死ぬことだろうが。下の金子光晴さんの詩に今、私が生きていくためのヒントがあるように思えた。

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六十代   金子光晴

六十代ともなれば男も、女も、

生えてくる毛がどこも、白い。

染毛剤はよくなったろうが、

染めている姿が困る場所もある。

 

従って、万端、むさくるしく、

人目に立つのがひけ目になるので、

出合茶屋の入口をくぐる勇気もなく、

さあ、これからは何を頼りに生きるか、

 

ひとには言えないことではあるが、

娑婆気の残物(あら)は、どこへすてたものか。

亡くなった彼を偲ぶ

彼が突然死したのは、約2ヶ月前だ。あんなに元気だったのに、どうしたことだろう。彼は死んだのだ、と諦めようとしても、仕事の合間にどうしても思い出してしまう。どうしてなんだ、と虚しい問いかけを何度繰り返してきたことか。12歳年下だったので、私が62歳、彼は50歳で、十二支は同じ子(ね)だった。

彼のことを思い出す度に、私にとって彼はどういう存在だったのだろうか。彼にとって、私は何者だったのだろうか。何故、そこまで彼のことに関心を持つようになったのだろうか、友情?にしては少し違うような気がする。肉親的な繋がりとでもいうのか。

私は男ばかりの三人兄弟の末っ子だ。長兄は、私が気づいた頃には既に、中学生にして大人だった。我々の父は、家族の将来に備えて、銀行からお金を借りて、耕作面積をどんどん増やしていた。伊勢湾台風で貯水池が決壊して、我が家の水田は大木の根や人間ぐらいの大きさの岩でうずまった。それを復元するために、長兄は学校から帰ると父の作業を手伝っていた。次兄はといえば、これも負けず嫌いの性格で、長兄と父に交じって働いていた。兄二人は、私の世界からは遠くに行ってしまっていた。私は一人っきりだった。三人は兄弟らしい会話もしないまま、助けたり助けられたりすることもなく、余りにも淡い兄弟関係だった。学校で偶然会っても、私たち兄弟は他人同士の様だった。だから、兄弟喧嘩もなかった。

私は、その後小学校から大学まで、友人に恵まれた。先生にも、先輩にも後輩にも恵まれた。社会人になってからも、上司に恵まれ同僚にも恵まれた。経営者になってからも、スタッフに恵まれた。そして私には勿体ないほどの嫁をもらい、子供に恵まれた。子供たちは健やかに成長した。

そんな私が、23年前に彼に会って、彼と深い人間関係を持つようになったのは、私に欠けていた部分を彼は満たしてくれたからではないか、と思うことがある。その欠けていた部分と言うのは、私に弟が居なかったことだ。兄らとは、交じることができなかった不満があった。姉や妹では無理だったろう。

私に弟がいたら、ーーーー、そこが空洞だった。甘えてくれる弟、助けを求めてくる弟が欲しかった。

その弟役を、彼は担ってくれていたのではないか、と思う。きっと彼は、父や母違いの、私の弟だったのだ、とこの頃思うようにしている。できのいい弟に、何度も難題をぶつけてたものだ。彼は、短いフレーズで明快に返答した。時には禅問答もあった。齟齬することはしばしば。私の質問に、当ての外れた答えで、私を混乱させたこともあった。そんなことが走馬灯のように、頭の中を過(よ)ぎる。

二人は、本、映画、お芝居、絵画、ダンス、それらを大いに批評しながら会話を楽しんだものだ。二度と、目と目を合わせて語れない、笑い合えない、怒ったり、悲しんだりもできない。絶望した。

お~い、天国は酒が美味いというがどうだ? 奇麗なネエチャンが居るって言うけど、ホンマか?

2010年12月12日日曜日

父の寡黙な仕事を愛する

嫌われてもオレ流

朝日新聞で、毎週日曜日の朝刊に、功成り名を遂げた有名人や、話題の多い人が、自分の父親への思いを各氏、それぞれに語ったものを文章にしたシリーズ「おやじのせなか」がある。私の楽しみにしている企画の一つです。今日20101212は、画家の安野光雅さんが語っている。その一部分を紹介しよう。新聞記事のままです。『僕の周りにはギターやハーモニカを持っている子がいて蓄音機のある家があった。「金持ちっていいな」って言ったら「お金持ちなら偉いってことじゃないんだよ」って。誰もが劣等感を持っている。劣等感は自分がこしらえているもんだ、と。』。こんな感じで、子供が父親から影響を受けたことを、楽しく語るコーナーです。

果たして、私の子供らは私のことをどのように思っているのだろうか、と考えてみると唖然とする。

女房には、悲しい話を持ちかけては嘆かわしい思いをさせている。嫌な父親を目の前で見て、いい印象を抱こう筈がないだろう。子供の面倒は、一切女房に任せ放しだった。毎晩、酔っ払って帰っては、勝手なことを言い、それでも足りなくて酒やツマミを用意させた。仕事では、調子がいいときには調子に乗り、調子が悪くなると、家族の誰にも辛くあたることもあった。そんな親父をどのように思っているのだろうか。

そんな折、二日前の20101210朝日朝刊に中日ドラゴンズの監督・落合博満氏の息子さんが、何かと話題の多い父について書いている文章が載っていたので、ここにパクらせて頂いた。監督には、賢い猛妻が添われていることは、各メデイア等の報道で知っていたけれど、こんな立派な息子がいるなんてことは今回初めて知った。監督のことは、私が、球界で最も関心の高い人物の一人なのです。これは、先に述べたシリーズものではなく、特別に寄稿されたものです。息子は、父をよく理解している。自分のこともよく分かっている、好青年だ。微笑(ほほえ)ましい父子関係だワイと羨ましかった。こんなことを書く私だって、父子関係は最高ですよ。

息子さんはコラムニストで、名は落合福嗣(ふくし)さん。以下は、新聞に掲載された息子さんの文章です。

いつのころからだろう。「背中で語る男」や「寡黙な職人仕事」に世間が敬意を払わなくなったのは。

私は寡黙であるがゆえに批判を浴びる父の姿を見て、そんなことを考えている。

そう。私の父はプロ野球・中日監督の落合博満である。

選手としても監督としても実績は十分だ。なのに嫌われるのは、発現を曲解され、何を言っても無駄だという思いから多くを語らず、それがさらに誤解を招いているからではないだろうか。最近では今年の日本シリーズだ。敗戦後、「一番低い山でけつまずいた」と対戦相手のロッテを見下す発現をしたと批判的に書かれた。

しかし本当は違う。シーズンが最も高くクライマックスシリーズ、日本シリーズと続く「3番目に高い山」と言ったのだ。「低い」という表現ではない。むしろロッテを称賛していた。後日、父は自宅に訪ねた記者に真意を説明し、落合=悪役という「方程式」に沿って書いた記者の立場に理解もしめした。その記者は感激して泣いていた。

そんな姿を想像できないなら、正月に和歌山県太地町の落合博満記念館に来るといい。一般のファンに、シーズン中の采配やプレーについて何時間も語る父を目にするはずだ。プライベートでファンにここまで語る監督など、まずいないだろう。話を聴くための労をいとわない人には存分に語り、冗舌で気さくな本来の姿を見せるのだ。

かって私は父のことで、随分いじめられた。そのことで苦悩し、批判を浴びても流儀を変えない父に食ってかかった。最近は「ファンサービスしないと批判されているよ」と苦言を呈している。父は球団との契約書を見せて勝つことが自分の仕事だと書かれている」と反論する。父は勝利が最大のファンサービスだと考えている。

「おれは子どものころ、巨人ファンだった。強かったからだ。勝利ほどファンの心を震わせるものはない」と。そんなやり取りを通じ、私は父への理解を深めていった。

私自身も世間が抱くイメージに泣かされてきた。幼少時のやんちゃなエピソードから、あり得ない話が作られて「伝説」となって流布している。私は「手のつけられない悪童」と見られているだろう。でも最近、それでいいと思うようになった。実像は違っても、気まぐれな世間のイメージを全て変えるのは難しい。であれば50%の理解を目指そう、と。眉をひそめる人が半分いても、もう半分が「伝説」を楽しんでくれれば。最近、出版した「フクシ伝説」(集英社)には、そんな意図がある。

無愛想だとたたかれても勝利だけを目指す。勝利に心震わせるファンのために。分かるヤツだけ分かればいい。そんな父の寡黙な職人仕事を、私は愛し続けたい。

好い文章だった。今度は、母殿のことを書いて欲しいと思った。あのフクシ君の母で落合監督の妻をフクシ君の言葉で綴ってもらいたい。

天声人語、創作四文字熟語

毎年年末恒例の住友生命の四文字熟語だ。確か、去年もこの天声人語をこの私のブログに使わせてもらった。マル写しで。優秀な人がいて、よくぞよくも上手いこと考えたものだと、感心させられた。私にも一つと試みたけれど、愚かな私には何も思い浮かびませんでした。

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天声人語

ウィキリークスにやられた米政府が「公電泥棒」と叫んだかどうかはさておき、たいていのことは漢字四つで表せる.海老蔵さんの一件は「殴顔無値(おうがんむち)」か「親系酔弱(しんけいすいじゃく)」か。以下、住友生命が募った年末恒例の「創作四文字熟語」で今年を顧みる。

まずは森羅万象のはやり物。「辛辣万食(しんらーばんしょく)」とばかりに食卓を席巻したのは食べるラー油。見渡す限り萌え萌えの秋葉原で輝いた「四萌八萌(しほうはっぽう)」はAKB48。呟(つぶや)きを飛ばすツイッターは「流呟飛語(りゅうげんひご)」とまとめられた。

龍馬ブームは紀貫之にあやかって「土佐日記」。500メートルを超えた東京スカイツリーは、早くも「全人見塔(みとう)」の観光地になった。映像の奥行き、飛び出し、臨場感の三位(さんみ)一体で売る「三見立体(さんみ)」の3Dテレビも評判に。

グアム行きの構想は奇想天外だったのか。普天間放置の「棄想県外」に沖縄県民の怒りは募る。中国漁船が体当たりしてくる「船嚇諸島(せんかく)」の事件は検察も巻き込んだ。特捜には期待したいが、事件を作る「独創検事」は困る。

畜産宮崎を襲った口蹄疫で29万頭の牛豚が処分された、ああ「諸牛無情(しょぎゅう)」。古色蒼然のお役所仕事で「戸籍騒然」、所在不明の超高齢者が後を絶たない。花鳥風月も鳴く「夏長秋欠(かちょうしゅうけつ)」の猛暑に、八百屋の店頭は「市場菜高(さいこう)」。腹ぺこの野生動物が街をうろつく「群熊闊歩(ぐんゆうかっぽ)」も。

バンクーバーは「遠金五輪(とおきん)」だったが、南アフリカのW杯は盛り上がった。「芝地団結(ピッチ)」の日本代表に、われら「不眠蹴球」。過労か寿命か、勝敗を当てまくって昇天した「百発蛸中(たこちゅう)」のパウル君も忘れがたし。

2010年12月9日木曜日

夕映えとは、粋やなあ!

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私、62歳です。

今、加賀乙彦氏の「夕映えの人」(小学館)を読書、進行中です。何故、この本の題名が「夕映えの人」なのか、半ばまで読み進んで、やっと作者の意図が分かってきた。この本の作中の主人公は、男ばかりの4人兄弟の長男。家系を先祖から次代に引き継ぐ仕事を、例えば墓守などは、その時の代表者として行なわなければならない。年老いた父母の世話を最高責任者として全うしなければならない。これらは、長男として家長としての仕事でもあるが、それ以外にも何かと負うものが多い主人公だ。そんな主人公の日ごろの仕事は、私立の病院長なのですが、60歳台にのっかって、先ずは自分や夫婦の高齢化による心身、周辺環境の変化を本の中で考察し始める。考察する材料には事欠かない。余計なことかもしれないが、この本も、何とかオフの105円コーナーで買ったものです。念のために、一言添えさせてもらった。

主人公は60歳になって、それから、何かにつけて60歳の感慨に耽りだす。

1970年代には、「熟年」という言葉が生まれた。1985年に厚生省が、50代、60代の中高年に代わる言葉として「実年」という言葉を作ったが、今では余り使われていない。60代を「老年」とは呼ばないようにしているようだ。それでも、ぴったりした言葉が見つからないので、各氏がそれぞれに「時雨(しぐれ)族」、「夕暮れ族」とか「濡れ落ち葉族」なる言葉を発明した。

何年か前にできた後期高齢者医療制度では、65歳から74歳までを前期高齢者といい、75歳以上を後期高齢者だと名づけた。後期高齢者って、もうそろそろ人生終わりだってことか。そんな馬鹿な。この年齢区分名の無慈悲な役所仕事に国民から不評を大いにかった。

かって、この私のブログでも書いたが、作家・佐江衆一さんは老いさらばえていく父母のさまを「黄落」という題で本を書かれている。

そこで、この本の著者・加賀乙彦さんは、「老年」に代わる言葉として、命を大切に扱う医事従事者でもあるがゆえに、持ち出してきた言葉は静かで豊かな老いのイメージ、「夕映え」だった。夕映えと聞いて、私は心穏やかで幸せな気分になりました。同じお医者さんでも、ちょっとH(エッチ)な作家の渡辺淳一さんとは、出てくる言葉は違うんですね。

本のなかの文章をそのまま、ここに引用させていただく。

作家・加賀乙彦さんは、このように著した。《斜陽に照り映える物の姿は、立体的でもっとも美しく輝かしいんだ。調べてみると夕暮れ前の黄ばんだ日光に照らされた、夕映えの美を日本の古典はちゃんと表現している。色うるわしく、はなやかに、きよげなりとね。夕映え、いとめでたしともいう》

かくして、私も、色うるわしく、はなやかで、きよげで、いとめでたき「夕映え族」ってことかな。

20101210 夜、読了。加賀乙彦氏ご自身の夕映え時の、自叙伝ではあるまいかと察しながら読んだ。氏の立派な人格性が文字になっていて、エラク感動しました。最後の代々子さんのドラマチックな出来事は、感涙に咽(むせ)び泣きました、と言ったら大げさ過ぎるか。だから、読書は止められないんだ、と再認識した。

2010年12月8日水曜日

頑張れ、W大女子サッカー部

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毎週、日曜日の朝一番の仕事は、相模原の北里大学病院前にある、弊社が運営するホテルに行くことなんです。その名はパラディス イン 相模原です。ホテルの周りの落ち葉を箒で掃く、生垣の隙間に生えた雑草をとる、掲示物や表示物が、適当であるか、一通りグルっと周ってから、イートインコーナーでコーヒーを頂き、日経、毎日、スポーツ各紙を読む。それから予約状況をチェックする。そして、しばらく皆の働きを見ながら、何か相談ごとはないか、意見はないか、とスタッフに尋ねるのです。そして9時過ぎにはホテルを出て本来の業務のために、天王町に向かうのです。これが、最近の日曜日の午前中の行動です。

事務所に戻って、予約のチェックをしていたら、そこに予約の電話が入った。日曜日の朝、それも午前の08:30の予約。お客さんはどんな人なのだろうか、と私の耳はダンボになった。受け応えしている女子社員の関さんは、もうベテランのスタッフだ、任せて安心

ええ、? わ、、せ、だ、、だい、がく、あ、、し、き、しゅう、、、きゅう、ぶさんですね。お泊りになるのは、1月2日。ハイ。10名様以上だと団体割引がありますので、と言って部屋ごとの料金を説明していた。夕食はやっていないのですが、希望があれば弁当を用意させていただきます。1000円のものと1500円のものがあります。あ、そうですか1000円のものでいいんですね。それから、何やら案内を終えて、有難うございました、と電話を置いた。

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この応答を聞いていて、これは早稲田大学ア式蹴球部女子のことだと解った。受け応えをしている関さんに、このホテルの社長は昭和48年卒の早稲田のサッカー部だったのですよ、と言ってみてくれと傍から小声で耳うちした。

こんな、巡り合せに驚きながらも、嬉しかった。大学では、サッカーとそれに付随することしかやってこなかったこの俺には、サッカーが唯一の私の誇りで、その関係者が、ずうっと後輩だけれど、この私達が経営しているホテルに宿泊の予約を入れてくれたことに、偶然とは言え、二重にも三重にも、嬉しかった。

長岡義一監督は、私が入学した時(昭和44年)には日立製作所のセンターバックをやられていた。福島廣樹コーチは私が1年の時の4年生だった。

泊まってくれる日の夕食の時か、翌日の朝食時には顔を出してみようと思っている。当然、試合には、応援にかけつけなくてはいかん。大事な後輩たちだ、それに大事なお客さんだ。試合は、1月3日・全日本女子サッカー大学選手権・キックオフは10:30。準決勝戦で対戦相手は、武庫川女子大学だ。先日マネージャーの北さんに、勝負はどうですかと尋ねたら、心配御無用です、という感じで話してくれた。自信満々だった。

まいど、おおきに、や。

2010年12月7日火曜日

あなたのうんこになりました。

この夏、弊社で取得した住宅を解体する前に現場確認に行った。その時、部屋の隅っこに積まれていた何冊かの詩集に目が留まり、そのなかから5冊を頂いてきて、私の仕事場の机の斜め前のラックにしまっておいた。集英社、「日本の詩」全28巻のなかから5巻です。真っ赤な背表紙で格好いいのです。かっての住民が捨てていったものだ。中原中也、三好達治、高村光太郎、金子光晴、島崎藤村らのものだ。このラインナップは流石(さすが)でしょう。

昨日の夕方、仕事をそろそろ終わろうかと、缶ビールのプルタブをプシュッと空けながら、金子光晴集を手にとった。がっちり詩が詰まったその本を、適当にパラパラめっくていて、ハッと目に付いたのが、この詩だった。何も、今、私はこの詩の「僕」のような状況に居るわけではないが、この詩を非常に気に入った。この感覚は「うんこになった僕」に共鳴した、と言った方が近いかな。変にこの詩に惹き付けられた。ついには可笑しい、と笑ってしまった。この「僕」に私はほのかな親近感をもってしまい、友人になりたいと思った。そして「僕」と私が、この恋人とのよ・し・な・し・ごと(由無し事)を話し合って盛り上がっている様子を夢想した。

金子光晴「もう一つの詩編」より

恋人よ。たうとう僕は、あなたのうんこになりました。

そして狭い糞壷(くそつぼ)のなかで、ほかのうんこといっしょに、蠅がうみつけた幼虫どもに    くすぐられている。

あなたに残りなく消化され、あなたの滓(かす)になって、あなたからおし出されたことに、つゆほどの怨(うら)みもありません。

うきながら、しづみながら、あなたをみあげてよびかけても、恋人よ。あなたは、もはや   うんこになった僕に気づくよしなく、ぎい、ばたんと出ていってしまった。

彼女に振られたのだろうか。二人は何かで気まずくなった、彼氏のせいだろうか、彼女の気ままか、離(はな)れ離(ばな)れになった二人。彼氏はかっての恋人を慕(した)いながら、彼女の周辺から去りがたく留まり、未だ冷めやらぬ恋心を癒しつつもまだまだ想いは果てていない。

方(かた)や彼女の方はと言えば、そんな彼氏の心模様などに、ちょっとした思慮もなく、微妙な葛藤もなく、何もなかったように普段の生活に明け暮れている。彼と、かって恋愛していたことなど、きっと、嘘のような生活なのだろう。彼女は、「僕」をうんこにして捨てた。すっきりしたもんだ。

男は立ち直りが遅く、女は立ち直りが早い。これって、俺と「僕」の女性に対する共通の偏見かあ?

うんこになってしまった「僕」よ、うんこの身になり果てた自分に甘えるな。

糞壷から勇気をもって蘇れ。

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2010年12月5日日曜日

渡部良三、「小さな抵抗」

詩人の石井逸子氏が「息を殺して読んだ」歌集があると語ったその歌集は渡部良三の「小さな抵抗」だ。その記事が載っている新聞の切れ端を手に入れた。包み紙に使われていた朝日新聞の切れ端だ。いつの新聞か解らないが、夕刊のようだ。この新聞記事を読んで、この渡部良三という詩人に興味をもった。先ずは、その新聞記事マル写しから始めよう。それから渡部良三をもっと知りたくてネットを探ったら、この「小さな抵抗」の一部が「Shirasagikaraの日記」にあって、これもそのまま頂戴した。有難うございました。

渡部は44年、中国・河北省の戦線で、生きている捕虜5人を銃剣で刺し殺す訓練を拒否した。歌集はその折の心境や戦場の現実を鋭くえぐりだす。

〈纏足(てんそく)の女(おみな)は捕虜のいのち乞えり母ごなるらし地にひれふして〉

〈鳴りとよむ大いなる大いなる者の声きこゆ「虐殺こばめ生命を賭けよ」〉

キリスト者の渡部は「大いなる者の声」を聞き、命令を拒んだ。すさまじいリンチ。

〈血を吐くも呑むもならざり殴られて口に溜まるを耐えて直立不動〉

渡部はこれらの短歌をありあわせの紙片に記し、軍服に縫い込めて46年に持ち帰った。

「あの時、---銃剣を大地に叩きつけ、ましぐらに走り、刑台に縛されている捕虜の前に双手(もろて)を広げて殺すなと叫び、立ち塞(ふさ)がるべきであったのだ」

虐殺命令を拒否してなお、渡部は、心に深い悔恨を刻んでいた。渡部と会いたいと思い、10月に手紙を出した。ほどなく届いた返事には「年齢も満88歳と8ヶ月」であり、一昨年秋に「胆のう炎をわずらい全摘オペ(手術)」を受けた、「ご容赦を」と書かれていた。(編集員・上丸洋一)

渡部良三は1943年、学徒動員で入隊。1944年4月、当時22歳。彼ら新兵(48人)の前に中国兵捕虜5人(共産八路軍)が引き出され、訓練と称して彼らを刺銃剣で刺し殺すことを上官から命令された。度胸試しの刺殺だ。これに不服従。「敵前抗命」(処罰は銃殺刑に相当する)だ。以後、渡部は「赤付箋付きの兵隊、要注意人物」とされ徹底した差別とリンチを受けることになった。

渡部の父渡部弥一郎は、基督教独立学園の創設者でもある鈴木弼美とともに、1944年治安維持法のかどで逮捕され、獄中生活を余儀なくされている。この父の言葉「信仰も思想も良心も行動が伴わなければ先細りになってしまう。沈黙が信仰を守ってくれると考えることはおごりだぞ」。そんな言葉を胸に出征したのだろう。

苦難の中にあった彼らを支えるべき、当時のキリスト教会は何をしていたのか。大半の教会は、日本の戦時体制に協力していた。主だったプロテスタント教会は「日本基督教会団」に統合され、神宮を遥拝し、日本の戦争勝利を祈っていた。日本の過ちをとりなす、預言者的な性格を忘れ、偶像崇拝の罪を犯し続けた。

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「Shirasagikaraの日記」より

1992年 渡部良三『小さな抵抗』

「刺突の模範俺が示す」と結びたる訓示に息をのみぬ兵らは

深ぶかと胸に刺されし剣の痛み八路(パロ)はうめかず身を屈(ま)げて耐ゆ

屍(しかばね)は素掘りの穴に蹴込まれぬ血のあと暗し祈る者なく

虐殺(ころ)されし八路と共にこの穴に果つるともよし殺すものかや

新兵(へい)ひとり刺突拒めば戦友ら息をのみたり吐くものもあり

鳴りとよむ大いなる者の声聞こゆ「虐殺拒め生命を賭けよ」

「捕虜殺すは天皇の命令(めい)」の大音声眼(まなこ)するどき教官は立つ

信仰(しん)ゆえに殺人〈ころし〉拒むと分かりいてなおその冠を脱げとせまり来

酷(むご)き殺しこばみて五日露営の夜初のリンチに呻(うめ)くもならず

かかげ持つ古洗面器の小さな穴ゆしずくのリンチ頭(ず)に小止みなし

炊事苦力(クーリー)行き交いざまに殺さぬは大人(たいじん)なりとぞ声細め言う

2010年12月4日土曜日

普天間は、県外移設しかない

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沖縄知事選が、20101128に投開票され、現職の仲井真弘多氏(71)が前宜野湾市長の伊波洋一氏(58)らを破り、再選を果たした。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設問題に関しては、仲井真氏は「県内にはない。日本全国で普天間の解決策を見出していただきたい」と語った、と朝日新聞は報じていた。

かっては、仲井真氏は辺野古への移設を条件付で容認していた。が、今回の選挙では、一転「県外移設」に路線変更した。伊波氏は一貫して「国外移設」を訴えた。両者とも「県外移設」については同じ。ただ、仲井真氏には変節の経緯が胡散臭い、先の衆議院選挙を見て、県内には受け入れられないとする民意が多いと判断したのだろう。知事に留(とど)まるには、路線変更しかないと。このズルそうな胡散臭い人間に民主党はすがろうとしている節がある。民主党は、この知事は使えるとでも思っているのだろうか。でも、民意はそれを決して許さないだろう。

民主党の鳩山由紀夫氏は、日米合意を知りながら、まさか知らなかったってことはないだろうが、移転先は国外、最低でも県外と言って衆議院選挙に勝って、民主党政権の初代の首相になった。日本の安全保障や抑止力としての沖縄の存在、その基地による被害の甚大さを考えたことはあったのだろうか。結果的に、沖縄県民の心を弄(もてあそ)んだ。数々の鳩山首相の失政の締めくくりは、この沖縄の人々の心を馬鹿にしたことだ。新聞記事では遠慮がちに沖縄の人々の心を軽視したなんて表現していたけれど、軽視じゃない、馬鹿にしたのだ。沖縄の人たちを大いに怒らせることになった。

ところがどっこい、やはり民主党の新政権に早々と米国が突きつけたのは、日米合意の実施だった。こんなことは、解っていた筈だよね日本の首相の鳩山さん、菅さん、ときたもんだ。菅首相は難しい顔で本当に納得したのか、しなかったのか、オバマ大統領と日米合意に基づいて行動することを確認し合った。

そして、今回の沖縄知事選挙に政権与党の民主党からは、公認でも推薦でも、候補者を立てることはできなかった。立てられなかった。政権与党の候補者が立てられなかったことに、何か党としてのコメントがあったのだろうか。民主党が、党として発したのは、党員に対して地元候補者への応援に規制をしたことぐらいだ。この選挙についての、党としての考え方は、最後まで聞けずじまいだった。

沖縄にも、普天間基地移設反対の人々はいる、日米合意を尊重しようとする人々はいる。政権与党として日米合意を尊重しようとするならば、当然党の考えを持つ候補者を、自党の公認もしくは推薦候補として、民の声を聞くべきではなかったのか。今回の選挙が盛り上がりに欠けたのは、普天間基地移設反対の人たちが、声を上げるチャンスがなかったからではないか。

そして、昨日20101202、仲井真知事が菅首相に会って、この知事選で公約に掲げた「県外移設」を主張した。首相は、米軍普天間飛行場を名護市の辺野古湾一帯に移設するのは日米合意なので、理解をして欲しい、と意見交換がなされたと朝日新聞は報じている。

投票者のほぼ全員の意見は、普天間飛行場の移設は、国外か県外かのどちらかなのだ。移設反対、日米合意に従うべきだと投票した人の数は把握できていない。政権与党の考え方「日米合意を基づく移設を行う」を民意に諮(はか)らなかったことをどう考えているのだろうか。かって、辺野古への条件付で容認していた人たちも、仲井真知事もかってそうだったが、こぞって県外移設になびいていった。

もう、日米合意の見直しをやるしかない、絶対県内移設はありえない。民意が許さないだろう。

それともかってのように琉球国として、独立しましょうか。

2010年12月1日水曜日

北朝鮮、韓国に砲撃

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写真は読売新聞より。23日、北朝鮮の攻撃を受けた延坪島。島内の港では島民たちが立ち上がる煙を見つめていた=聯合AP

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日本から海を越えた一番近い国、韓国。北朝鮮が韓国に砲撃した。戦争だ。こんなことが、身の回りで現実に起こった、私には初めての経験だ。哨戒艦撃沈とか飛行機爆破とかは以前にもあったことだが、民間人が住んでいる住宅街を爆撃するなんて、私には到底考えられないことだ。大変なことをしでかしてくれたものだ。

私が大学4年の時、24歳、1972年に韓国に行った。その時のことを思い出したので、少し触れてみたい。韓国に行ったのは、日本に一番近い外国で、当時、私は大学のバリバリの体育会のサッカー部に所属していたのですが、サッカーでは韓国代表に日本代表がいっつも負けていて、我々と同じ世代の韓国の大学のサッカーがどんなものなのか、実際に自分の目で確かめたかった。日本が勝ったことも引き分けたこともあったのですが、私の分析では韓国が体力的、戦術的にもいつも勝っていた。試合に賭ける執念でも韓国は勝っていた。私が所属していた大学のサッカー部は、高麗大学と毎年親善試合をしていて、こっちも勝ったり負けたりだったのですが、日常の練習がどのようになされているのかを見たかった。旅程は10日間、使える費用は総額3万5千円。翌春、就職したのですが、初めてもらった給料の手取りが5万円だったので、3万5千円はさほど少ないということではなかった。東京から下関までの往復は、キセルが絶対条件だった。下関から関釜フエリーに乗って釜山に入った。韓国のオバチャンが、日本からの荷物をいっぱい背に担ぎ、両手にいっぱいぶら下げて乗り込んできた。ペチャクチャペチャクチャ強烈にうるさかった。商売熱心で気丈夫なオバチャンたちだった。キムチのせいか、ニンニクのせいか。渡航費は往復だと1万円。往復券を買うと1割引で9千円だった。早朝釜山港に着いた。

釜山からは日本の対馬が見えた。釜山の何とか公園には、日本からやってきた豊臣秀吉の軍を追い払った李氏朝鮮軍の大将の銅像が日本に向かって建っていた。釜山港や釜山駅が見下ろせた。この何とか大将と伊藤博文を撃ち殺した安重根(アン・ジュングン)は、憎っくき日本との抗戦の歴史に残る韓国の英雄なんだろう。その公園は釜山市民の憩いの場だった。教科書で習った文禄、慶長の役がこれだ。釜山からソウルまでは、列車・統一号に乗った。釜山の駅長さんが鳥取の出身者で、私に日本語で釜山の町の事情やソウルへの行き方、ソウルの町のことを話してくれた。それも駅長室で。ソウルのミョンドン(明洞、このような字を当てるのではなかったか)で、当時の反抗詩人、キムジハ〈金芝河)がよく酒を飲んでいたと謂われていた酒場で、彼の血、反軍、民主化の血は俺にも流れているんだ、そんな気障なことを口走りながら、マッカリー(濁酒)をあおるように飲んだ。店では、韓国の大学生とも話ができた。梨花女子大だったか、奇麗な女学生もいた。キムジハの長編詩「五賊」を読んで、私はイカレてしまっていたのです。反共法で逮捕されたが、その後も度々逮捕されたが、軍事政権下において言論弾圧には屈しなかった。韓国の学生からは、キムジハの話は聞き出せなかった。感心が薄いことに、何だか、肩透かしを食わされた思いだった。

午後だったか午前だったか、ソウルの町の上空に飛行機が現われ、ウ~ウというサイレンが鳴って、歩道を歩いている人は物陰に隠れ、車は路肩に止めて黄色い旗を揚げていた。往来には人っ子一人もいなくなるのです。飛行機は新聞社のもので、敵機に擬(なぞら)えた。建物にも、一番高い位置に黄色い旗が取り付けられていた。何しろ記憶は薄れているのですが、思い出せるだけ思い出してみよう。私も皆と同じようにビルとビルの間に隠れた。そうすること20分ほどで、敵機もどきは去っていった。人はぞろぞろと物陰から出てきて、車は旗を下げて走り出すのです。

その時に初めて、韓国は戦・争・状・態にあるのだということを知った。まだ戒厳令が出ていたのです。高麗大学のサッカー部のなかにも、徴兵を終えた人もいた。夜も外へ出るのには、時間制限があったように思う。10時か、11時以降は外出はできなかった。マッカリーが飲みたくて、薬缶で酒屋に買いに出て、旅館のおばさんに叱られた。

飯を食いに食堂に入ったら、女の子が私のオーダーを聞きながら、私の髪の長い頭を見ながら不機嫌な表情をするので、どうしたんだ?というような顔をしたら、その彼女が言うには、長髪はナンバーテンだと言うのです。男として、ナンバーテン。男として私の姿が、最悪だと言うのです。長髪は格好悪いのだ。韓国人なら、もう立派な国賊モン扱いだ。

朝、ホテルをチェックアウトして、これから何処へ行こうかと考えながら、うろちょろ道路を歩いていたら、警官が私の傍に寄ってきて、確か「パルリー」と言いながら、本気で怒っているのです。怖くなって、警察の目から逃げるように、その場から離れました。それは、急げと言うことなんだよ、と帰国後友人に教えてもらった。ゆっくり歩くことも許されない国だったのです。少し前、横浜でAPECが開かれ、横浜には警察官がそこらじゅうにいて、横断歩道で立ち話でもしようものなら、走ってきて早く通り過ぎてくださいと言っていた、あれと一緒だ。

バスで板門店に向かって高速道路を走っていた。軍隊か警察によってバスは止められ、乗り込んできた兵隊か警察官に取調べを受けた。身体検査をされた。銃器を持っていた。表情は怖くなかったが、それでもこのようなことに慣れない日本人にとっては、クワバラだった。板門店は異様な警戒感に包まれていた。盗むようにカメラを北に向けて撮った。北朝鮮の兵隊が銃をこちらに向けて立っているのが小さく見えた。その後、板門店は観光の名所になり、今は、今回の北朝鮮の韓国への砲撃事件で、板門店には近づき難くなっているようだ。

高麗大学の本校があるグラウンドに着いたら、此処はサッカー部が使っているグラウンドではないと言われ、事務局へ行って、サッカー部が毎日練習しているグラウンドを教えてもらったのですが、肝腎のサッカー部は今、地方に遠征中と言われてしまった。韓国語が喋れないために、事前にそのような情報を得ることをしなかったのです。

それから、数日ソウルの町を徘徊した。いろんなことがあったが、ここまでにしておこう。又の機会があるだろう。

私の大学時代の友人・金さんの叔父さんは横浜市の石川町に住んでいて、金と私がそのお宅にお邪魔をした時のことです。今から15年ほど前のこと。叔父さんが金に話しているのを聞いて、驚いたのです。「イサオ〈金のこと〉、来月ポサン団(墓参)として韓国へ行くんだが、怖くて、恐ろしくて心配しているんだよ。殺されるんじゃないか。帰って来れないんじゃないか」、とそんな話を真顔で金に話していた。この会話を私はその時は理解できなかった。墓参団で韓国に行って、何故、そんなに怖がることがあるのかと。後で、金の説明してくれたことによると、叔父さんは朝鮮総連の仕事の一部を手伝っていたので、韓国政府からは、注意人物と見られていないかと言うことだった。1948年、私が生まれた年だ、朝鮮半島が二つの国に分かれて、東西冷戦で、政治的にも対立する羽目になってしまった。市民生活のレベルでもこのような不幸が生まれていることを、初めて知った。祖国の分裂がこのような家庭内にも不幸の影をさしていたのだ。東西冷戦の犠牲だ。韓国系の民団(在日本大韓民国民団)と北朝鮮系の朝鮮総連(在日朝鮮人総連合会)は対立していた。金は叔父さんに、建物の角を回るときには少し注意した方がええですよ、大きく回れば大丈夫ですよ、と半ば冗談の心算で言った言葉を、叔父さんは真剣に聞いていた。

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韓国大延坪島で24日、北朝鮮の砲撃によって被害を受けた海兵隊官舎の前で報道陣を制止する韓国軍の兵隊=ロイター

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20101124、25の朝日新聞・朝刊1面の記事をそのまま転載させていただいた。

2兵士死亡、住民も負傷

大延坪島(テヨンピョン) 陸地砲撃は休戦以来

【ソウル=牧野愛博】韓国国防省によると、北朝鮮南西部の黄海南道に駐屯する北朝鮮軍が23日午後2時半過ぎから、韓国の大延坪島やその周辺海域を断続的に砲撃した。同日午後3時40分ごろまでに数十発の砲弾が撃ち込まれ、韓国軍に死者2人、重軽傷者16人の被害が出たほか、民間人が少なくとも3人負傷した。韓国軍も応援措置として対岸の北朝鮮軍陣地に砲撃80発を加えた。

1953年に朝鮮戦争が休戦した後、北朝鮮軍が韓国領土の陸地を直接砲撃したのは、今回が初めて。今秋、南北離散家族の面会事業などで緊張が緩和しかけていた南北関係は再び緊張し、北朝鮮核開発を巡る6者協議の行方にも大きな影響が出そうだ。

大延坪島は、海上の軍事境界線に相当する北方限界線(NLL)挟み、北朝鮮から南に十数キロ。北朝鮮の海岸砲による砲撃で市街地など島内数ヶ所で火災が起き、民間家屋60~70軒も破壊された。島内には民間人1100人以上が住み、韓国軍約500人が駐屯しており、民間人は島内の施設や本土へ退避した。

現場海域では韓国軍が22日から演習をしていた。北朝鮮は国連軍の設定したNLLの有効性を認めていない。朝鮮中央通信によると、北朝鮮軍最高司令部は、砲撃は韓国軍演習への対抗措置だとして「我々の領土を侵犯すれば、無慈悲な軍事対応打撃を加え続ける」と警告。先に砲撃したのは韓国だと主張した。

韓国の李明博(イミョンバク)大統領は23日午後、緊急の外交・安全保障関係閣僚会議などを開き、「状況が悪化しないよう万全を期せ」と指示。同夜には韓国運合同参謀本部を訪れ、「民間を無差別に攻撃した重大な事態だ」と強調。北朝鮮が再び挑発した場合、通常の対応の枠を超えて応戦する考えを示した。

韓国統一省は同日、25日に予定された南北赤十字協議の無期限延期を発表した。

韓国軍は、砲撃が朝鮮戦争の休戦協定などに違反すると判断、北朝鮮軍の砲撃陣地に集中的な反撃を加え、「相当な被害を与えた」とした。周辺海域一帯に、局地挑発に備えた軍の防衛準備態勢を最高基準に格上げして発令。空軍機も現場海域に待機させた。

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「村全体が萌えている」

【ソウル=箱田哲也】「村全体が燃えている。真っ黒な煙で何も見えない」---。北朝鮮から砲撃を受けた韓国・大延坪島の島民たちは23日、韓国YTNテレビの取材に当時の生々しい状況を語った。

「船に乗り込もうとしたところで砲弾が落ちてくるのを直接見て、逃げた。まだ目の前に真っ赤な火柱が立っている。今は橋の下に約20人の住民と避難している。道路にはだれ一人としていない」

島の生まれと言う40代の男性は、電話口で話した。「子供が学校にいる。心配だ」「村が廃墟になった。震えている。早く島を出たい」

砲撃は白昼、何の予兆もなしに始まった。50代の男性は「『これは訓練ではない、実戦だ。すぐに避難しなさい』という放送を聞き、近くの学校に逃げてきた。ここから見えるだけで10軒以上の家が燃えている」と話した。

「みんな『戦争が起きた』と言い合っている」。被弾した集落に住むイ・ジョンシクさんは、「一発落ちるたび、すごい衝撃だった」。

ソウル中心部から100キロ以上西の黄海に浮かぶ大延坪島は、「住民千数百人の大半が漁業か農業で生計を立て、ふだんは静寂に包まれている。

付近海域で交戦があるなど、いったん南北が衝突すると緊張が走る「海の火薬庫」のような地域ではあった。だが40代の男性は「これまでとは全く違う」と語った。

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20101128の朝日の社説より

朝鮮半島

米中、そして日本の役割

北朝鮮が砲撃した韓国領の島から遠くない黄海で、きょうから、米国と韓国の合同軍事演習が始まる。北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。

北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

緊張の緩和と危機の管理へ、米国と中国が果たす役割が大きい。

北朝鮮が砲撃した韓国領の島から遠くない黄海で、きょうから、米国と韓国の合同軍事演習が始まる。北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。

北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

だが、これだけでは、中国に集まる国際社会の厳しいまなざしを満足させるものではあるまい。

北朝鮮が砲撃した韓国領の島から遠くない黄海で、きょうから、米国と韓国の合同軍事演習が始まる。北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。

北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

今年は朝鮮戦争が開戦してから60年だ。北朝鮮は砲撃の後、朝鮮戦争で戦死した中国の故毛沢東主席の長男の生涯を描いた中国のテレビドラマを放映したり、墓前に閣僚らが献花したりして、中国の歓心を買うような行動を見せた。

とはいえ、北朝鮮の今後の暴挙中国は強くいら立っているに違いない。演習名目とはいえ、ひざ元の黄海に米軍の原子力空母まで来させることになり、心穏やかではなかろう。

中国は今年、金正日総書記の訪問を2回も受け入れ、友好を演出した。経済やエネルギー、そして食糧の面で気や朝鮮の生命線を握ってもいる。

そんな中国も、北朝鮮の核実験やウラン濃縮の開始を防げなかった。その影響力に限界があるが、世界で急速に存在感を高める中国は、それに伴う責任も果たすべき大国である。より強い説得に当たってもらわねばならない。

米国も今回の事件による危機を押さえ込むために、中国との高官協議の実現を探り、これまで以上に中国の影響力行使を求めている。近く、日米韓の外相会談も開きたい考えだ。

米国は中国とともに朝鮮戦争の当事者でもある。それだけに、東アジア地域の平和と安定の確保にとりわけ重い役割がある。米中の首脳同士をはじめ、あらゆるチャンネルを使って緊張緩和に努めてほしい。

そして、日本は「中国頼み」「米国任せ」にとどまってはならない。

日本は、国連安全保障理事会の非常任理事国だ。北朝鮮情勢は、東アジアで最大の安全保障問題であり続けている。安保理などの場で、北朝鮮に国際社会の一致したメッセージを出すよう積極的に動くべきだ。

韓国では、北朝鮮への強硬論と戦争の不安が交じり合い、社会が揺れている。日本は韓国に思いを致し、安定回復に向けて連係を強めたい。

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20101130 朝日朝刊・社説

朝鮮半島  米中が対話の環境作りを

「対話と協力を通じて努力し、人道支援mp惜しまなかったのに、返ってきたのは、核開発と哨戒艦爆沈に続いて島への砲撃だった」

韓国の李明博大統領が昨日、国民向け演説でそう憤ったのも無理ない。

哨戒艦事件で兵士46人が犠牲になった。今回の砲撃は民間人を含む4人の命を奪い、多くの民家を焼いた。

いま最も大切なのは、更なる衝突を回避し、緊張を和らげることだ。当事者はむろん、関係国はそのための知恵を絞らねばならない。

中国政府が、6者協議の代表による緊急の会合を呼びかけた。

6者協議は本来、南北朝鮮と日米中ロが参加し、北朝鮮の非核化、米朝や日朝の関係正常化をめざすものだ。中国が提案したのは、核問題を扱う正式な会議ではない。「最近半島情勢に複雑な要素が現われている」といい、6者で意見交換をしたいという。

北朝鮮に影響力を及ぼすよう求められている中国が、真剣に動いていることを世界に示す。対話を提案しているとき、北朝鮮は新たな挑発をしづらくなるだろうーーー。6者協議の議長国である中国が、そう期待しての提案かもしれない。

事態好転の糸口を探ろうという狙いはわかる。だが、今いきなり6者代表が集まって、現実的な成果をあげられようか。

韓国は「まだその時期ではない」と反応している。米国も、北朝鮮が「態度の変化」をはっきり示すことが先決だとする立場を明らかにした。

韓国は「まだその時期ではない」と反応している。米国も、北朝鮮が「態度の変化」をはっきり示すことが先決だとする立場を明らかにした。

日本もそれに同調している。北朝鮮は行為の責任を認めるなど、先にすべきことがある、という姿勢だ。

北朝鮮は、韓国の挑発が砲撃の原因だと反論している。新たな核開発につながるウラン濃縮施設の公表や軽水炉の開発のほか、核実験の準備ととられかねない動きも見せている。

これでは、6者が顔を合わせたところで平行線に終わる。だが、何もしないままでは、緊張と膠着状態が続く。北朝鮮の核をどうするかも、いずれ本格的に打開する必要がある。

局面を転換させる大きな力を持っているのは、やはり米国と中国だ。

一昨日、クリントン米国務長官と、中国外交を統括する戴耒国国務委員が電話で話し合った。戴氏は「重要なときに中米が建設的役割を積極的に果たさねばならない」と語った。

その通りである。両国が対話の環境づくりに協力して努めてもらいたい。

米国は日韓との外相会談を開く意向だ。中国は近く高官を訪朝させると観測されている。北朝鮮を説得し、各国を調整する。米中のそんな取り組みがあってこそ、6社が会える素地ができる。この戦略に沿って日本も、朝鮮半島の緊張緩和に貢献すべきである。

2010年11月28日日曜日

寂しさをまぎらすには、タンゴだ!!

友人を一週間前に亡くした。公私にわたって付き合ってきた友人だ。

私が40歳になったころに知り合ったので、ほぼ23年の付き合いになる。突然死だった、ショックだ。怪我や病気ならば、症状の程度にもよるが、傍にいて話をすることができる。介護の手を差し伸べることだってできる。だが、死には絶望しかない。寂しさに、苦しんでいてもしょうがないじゃないか、死んだ人は生き返ってこないのだから、と何度も自分に言い聞かせた。

この彼からは、読書の味わい方、映画や演劇の見方、ダンスを観る楽しさを教えてくれた。読書は母親の影響だと言っていた。小津安二郎の命日にお墓参りした。ゴッホは横浜美術館、フェルメールは上野の美術館。私は井上揚水、彼は中島みゆきとマドンマ、舞踊はピナ・ヴァウシュ。クラシック音楽を楽しんでいた。ピアノは子供の頃から弾いていた。だから、学校も音楽系だったが、スポーツセンスはレベルが高いのだと言っていた。ユダヤ、ホロコーストには感心が深くて、互いにこのジャンルの本を競って読んだ。文章の綴り方を勉強していた。使用する話し言葉や書き言葉にうるさかった。社会問題については、お互いに真面目に話し合った。差別に関しての彼の言辞は厳しかった。私があの人と言って人差し指を差すことをひどく嫌った。色や形には独特の反応をした。臭いには敏感だった。煙草の煙、車の排気ガスを異常に避けた。器用貧乏なところがあって、それを指摘するとムキになって否定した。子供は好きじゃない。神経が繊細なところがあるかと思いきや、今度は破天荒に大胆な行動をとったり、私にはいつも刺激を与えてくれる変な奴でもあった。職歴は、私には到底真似のできない内容ばかりだった。仕事を変える度に、求められる資格をいとも簡単に取得した。血液型は0型だった。気性が激しかった。お互いに意地っ張り、妥協を許さなかった。讃岐ウドンをよく食った、ビールも飲んだ。でも彼はワインが好きだった。自宅では酒は飲まない主義だった。パンが好きだった。冷たい飲み物や食べ物は極力避けていた。私は肉を食ったが、彼は菜食主義者だった。魚は少し食った。喉が渇いても飲む水の量は少ないことに驚かされた。私は犬派、彼は猫派だった。動物愛護の人で、動物実験反対や革製品などをボイコットしていた。盲導犬、介助犬は人間の犬に対する虐待だと怒っていた。野良猫を保護しては、里親を探す活動をしていた。ちっちゃな虫さえ殺さなかった。レストランでお膳に乗っかっていた小さな虫を私は潰してやろうと手を伸ばしたら、その手を払いのけて、箸袋に入れて館外に逃がした。ちっぽけな命も大切にしていた。花や樹木を愛(め)でた。

話題ごとに口角泡を吹かしての談論風発、愉快だった。彼の吐くフレーズは短くて、私に反論の余地を与えなかった。彼とは一生の友人付き合いができるものだと決め込んでいた。だが、早くに、突然亡くなってしまった。もうこの世には生きていない。彼を友人にもったことを誇りに思っている。

そして今日は水曜日、弊社の営業部の定休日だ。

いつもと同じように会社に出社したものの、工事会社に支払予定の連絡を4社にしたら、後は頭の中がポカ~ンとして、何かに取り組もうとする気が起こらない。休日はこうだから、嫌なんだ。頭の中に隙間が生まれ、そしてその隙間に風が吹く。体がしゃんとしない。本を読もうと開いてみても、目が字を捉(とら)えない。読む気が起こらない。こういう時には、よく無茶苦茶散歩することで気を紛らしたものだが、今日はどうしても体を張る気力が湧かない。

ならば、映画でも観るかと思いついて、株主優待券が使えるテアトル系のキネカ大森の上映作品とスケジュールを調べてみたら、「アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロ」というのが上映されていて、その作品のオフィシャルサイトを見ると、これがとんでもなく楽しそうな映画に思えて、12:40の上映開始に間に合うように会社を出た。入場チケットを受け取る際、係員からフイルムが古くて一部見苦しい箇所がありますが、予(あらかじ)め了承してください、と言われたが、私にはそんなことどうでもいいことだった。忘我自失の心境になりたかった。私は洋画を観る時には用意周到に準備をしておかないと、見終わって、何が何だかさっぱり判らないことが多いのです。誰よりも、瞬間的に状況を判断する能力が欠けているようです。だから、今日はブッ突けなので、ややこしい複雑な映画は観たくなかったのです。

映画は予想通りだった。一夜限りのコンサートで往年の大スター、マエストロが一堂に集まることになった。マエストロがタンゴをこれでもか、これでもかと体現する。映画の始まりから終わりまで、ただただタンゴの曲が流れっ放し。目がくらむほどのタンゴの名曲集だ。コンサートに向けて思い想いに個人的に演奏に耽る。友人と再会しては共演を楽しむ。準備に夢中なのだ。映画の中では会話はそれなりにあるのですが、それは画面だけのこと、耳に入ってくるのは、激情に駈られたタンゴだけ。私は夢中になっていた。

音感の悪い私の体なのに自然にスウイングしていた。靴底で床を叩いていた。膝に置いた手は、鍵盤を叩くようにリズムを打っていた。ストーリなどで頭を悩ますことはない。全身、タンゴで痺(しび)れまくり。

このときばかりは、彼のことを忘れることができた。

写真(以下の文章は、館内でいただいたパンフレットから)

「アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロ」

タンゴとは、愛、祖国への誇り、そして人生全てを捧げた音楽(ムジカ)。

総勢22名のタンゴマエストロが結集。伝説の一夜(ステージ)限りのコンサートが鮮やかに甦(よみが)る。

監督 :ミゲル・コアン

出演者:カルロス・ガルシーア/オラシオ・サルガン/ホセ・リベルテーラ/レオポルド・フェデリコ/マリアーノ・モーレス/ヴィルヒニア・ルーケ

2006年ブェノスアイレスのもっとも古いレコーディングスタジオで、1940年代から50年代に活躍し、アルゼンチンタンゴの黄金時代を築いたスターたちが感動的な再会を果たした。彼らはアルバムに収録する名曲を歌うためにこの場所に集まってきたのだ。60~70年もの演奏歴をもち、いまなお現役で輝き続ける、まさに国宝級とも言えるマエストロたち。時を重ね、人生の深みを増した歌声が響く中、彼らは激動の歴史と共にアルゼンチンに脈々と生き続けてきた、タンゴの魅力と自らの思い出を語り始める。なけなしの金で父が買ってくれたバンドネオン、街角のカフェから成功の階段を共に上った仲間たち。亡き師への変わらぬ熱い思い。彼らの人生のすべてがタンゴという3分間のドラマに刻まれていく。

「ブロークバック・マウンテン」「バベル」でアカデミー作曲賞を受賞した音楽家グスタボ・サンタオラージャがプロデュースするアルゼンチンの伝統音楽タンゴのドキュメンタリー。

タンゴの偉大なる巨匠たちがミラノ・スカラ座、パリ・オペラ座と並ぶ世界最大劇場の一つであるコロン劇場で一堂に会した夜、二度とは観ることのできない、奇跡のコンサートの始まりだ。すでに惜しまれつつこの世を去ったカルロス・ラサリ、オスカル・フェラーリなど、二度とは見ることのできないアーテイストたちの共演は、近年屈指の希少性をもち、音楽史に永遠に伝えられることだろう

2010年11月25日木曜日

APEC特需、有難うございました

APEC(Asia Pacific Economic Cooperation)。アジア太平洋経済協力会議。

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こんな難しい会議が横浜みなとみらい地区を中心に開催されたのですが、この会議開催のおかげで弊社が運営している相模原、北里大学病院前にあるホテル、パラディス イン 相模原が8日間に亘って、警備関係の人たちの宿泊で連日、高稼働。宿泊の期間は開催前の準備から、会議が終了、後片付けまで。おかげさまで、少しは儲けさせていただいたのです、感謝です。地方の警察と地元神奈川県警の一部の警察官がお客様でした。宿泊の取り扱い旅行会社は、さすがJTBでした。

私も警察官が大勢泊まってくれている状態はどんなものかと、朝の食事が終わる前に行ってみた。ホテルへと保土ヶ谷バイパスを相模原に向かって車を走らせていた。道すがら、反対車線の横浜方面へは警察の車両が、何台も何台も走っていた。護送車あり、パトカーあり。車のナンバーはどれも地方のものだった。30分間ぐらいの間に、見かけた警察関係の車両は20台を越していたでしょう。

ホテルの社員は、警察の人たちはまとまって来て、サッと食って、サッと居なくなるので、仕事をしやすく、行儀の悪い人も居ませんし、お客さんとしては上客です、と言っていた。ただ、宿泊料の支払いが遅いのがちょっと気になりますが。

時は同じくして、場所は変わる。三浦海岸に土地の売却の紹介があって、現地で長いお付き合いの不動産屋さんと打ち合わせて、私は缶コーヒー、不動産屋さんは煙草を一服した。そして彼が言い出したことは、そこにあるホテルなんですがね、私の友人が経営しているのですが、今、満杯なんですって、エイペックで、と。ええっと、驚いた。ここまで、そうなんだ、と肯いた。

横浜銀行の横浜駅前支店で打ち合わせがあって、担当者に横浜駅周辺は警察がいっぱいいますねと尋ねたら、横浜駅周辺は岐阜県警が多いですねと仰っていた。地域ごとに、担当する警察を決めているようだ。このように、全国から警備のために警察官が集められた。

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折角だから、会議の内容のことを少しばかり書いておこう。20101114の朝日新聞の記事のダイジェストに、私が加筆したものです。余り理解していない私のことだから、不完全なものとなっていることを免じてもらいたい。今月の7日から14日まで、環太平洋の21カ国・地域の間で、ヒト、モノ、カネの移動が自由に行なわれているかを話し合う会議だった。会議に参加する21カ国・地域を合わせると、2008年時点で国内総生産(GDP)は世界全体の53%、人口は43%を占めるという。

会議の主な内容は、アジア太平洋地域の経済統合の未来図をどう描くかということらしい。APECは、将来域内全域で貿易の自由化を進める「アジア太平洋自由貿易圏」(FTAAP)の実現を掲げる。その道筋に米国が主導する環太平洋パートナーシップ協定(TPP)や、東南アジア諸国連合(ASEAN)プラス3国〈日中韓〉がある。国ごとに事情は違うのだろうが、日本では農作物の自由化には、そう簡単に受け入れられないと関係者は述べていた。これをどのようにすればいいのか、新たな国の農業政策が望まれる。

また、日本は昨今の領土問題でロシアや中国との関係修復にはいい機会だったのだが、どの程度話し合いがもてたのだろうか。ロシアの大統領は聞き耳を持っているようにも思えなかったし、中国の主席との対談は、当方最高責任者の菅首相は官僚の作ったメモを見ながら、顔も見ないで、話し合った。果たして日本側の意向は如何に伝わったことでしょうか。

2010年11月23日火曜日

「はやぶさ」 大金星

はやぶさが持ち帰った物質は、正にイトカワで採取したものだった。これに関する朝日新聞の20101116の夕刊と17日の朝刊の記事をここに転載させていただいた。社説も転載した。記事の内容に重複することがあるが、それは、それ。記事を保存することに専念した。

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(豪州の砂漠地帯に落ちていた回収カプセル=宇宙機構提供)

小宇宙探査機「はやぶさ」は、20030509に打ち上げられ、2005の夏イトカワに到着、60億キロの旅を終えて、今年20100613に地球に還ってきた。イトカワでは移動しながら、岩石質のものを採取してくる予定だったのですが、故障があって、十分な採取はできなかったようだが、それでも1500個の微粒子を持ち還ってきた。一時は通信が途絶えたり、イオンエンジンにトラブルが発生したりしながらも、堂々と帰還した。大気圏に再突入の際、はやぶさは赤く燃えて消滅したが、回収カプセルはオーストラリアにパラシュートで落下、回収された。一仕事を終えたはやぶさが赤く燃えて消滅した光景は多くの人を感動させた。

今の世の中、リストラにもめげず、不況風にも耐えながら頑張っている、ちょうど私の年頃の人たちには、このはやぶさの健闘に涙ながらに声援を送り、その奮闘する姿が我がごとのように思われた。まるで、同志だと。元気をもらい、どれほど勇気付けられたことか。

これから書き込もうとしている内容は、不確かな情報によるもので、客観的に調べたわけではないので、注意して読んで欲しい。間違っていたならば、即訂正したいのでお気づきの方は早い目に教えてください。それはこんなことです。二つのエンジンがあって、もしかどちらかのエンジンが壊れたならばと心配した研究員は二つのエンジンに連結する導線を配線しておいたらしい。そこで、案の定二つのエンジンが停止したのですが、その導線が二つのエンジンの壊れていないところを稼動させ、一つのエンジンとして発動させることができたらしい。この導線を結びつけたのは、当初からの設計に基づいて行なわれたのではなく、研究員がその場で思いついたらしい。それも故障して初めてそのように仕組んでいたことが判明したらしい。このことも、運がいいだけではすまされない。研究員のすばらしい叡智だった。このことは、何かで聞き取ったような気がするのです。

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はやぶさ 大金星

イトカワ粒子、太陽系の起源照らす

数々のトラブルを克服して60億キロの旅を成し遂げた探査機「はやぶさ」が持ち帰ったカプセルに、小惑星「イトカワ」の微粒子が入っていた。初の成果に世界の研究者も分析結果に注目する。はやぶさが使った新型のイオンエンジンは燃費がよく、耐久性も裏づけされた。さらに応用が期待され開発したNECは新たな市場開拓をねらう。

カプセル内から見つかった約1500個の微粒子。イトカワのものと判断できたのは、多くを占めたかんらん石と輝石の成分だった。

これらの鉱物に含まれる鉄の割合は、地球上にある同種の鉱物の5倍もあった。差が大きく、地球で混入した可能性が否定された。はやぶさが観測したイトカワの表面物質の成分とも一致した。

最終的な決め手となったのは、微粒子の中に硫化鉄の一種が見つかったこと。隕石(いんせき)は普通にあるが、地表には珍しい。彗星(すいせい)や隕石に詳しく分析に加わった東北大の中村智樹准教授は「この結晶が見えたとき、心の中でガッツポーズした」と話す。

微粒子は今後、兵庫県にある大型放射光施設「スプリング8」や米航空宇宙局(NASA)など、国内外の機関に配られ、詳しく分析に入る。

わずか0,01ミリほどの粒子を薄くスライスして結晶構造を顕微鏡で観察したり、スプリング8で3次元構造を調べたり、宇宙線などによって結晶が変化する「宇宙線化」も見えそうで、宇宙線にさらされた期間、つまりイトカワの年齢が推定できる。小天体の衝突など、衝撃を受けた経歴などもわかる可能性がある。微粒子を蒸発させたガスなどを分析すれば、イトカワはどれだけ熱を受けたかがわかる。

イトカワは太陽が誕生したころにできた姿をとどめている「太陽系の化石」のような存在。イトカワがどんな時期にどうやってできたか。太陽系の成り立ちの解明にもつながると期待されている。(東山正宜)

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日の丸エンジンに脚光

NEC米大手と新型開発

はやぶさは、新型のイオンエンジンの性能や、内臓のコンピューターで状況を判断して着陸する技術などの確認のために打ち上げられた。

イオンエンジンは、ロケットのように燃料を燃やすのではなく、電気の力で進む高効率のエンジン。NECが開発した。推進力は弱いが、燃費がいい。大型の太陽電池と組み合わせることで、原子力電池を持たない日本でも、木星など遠い場所の探査ができるようになると期待されている。

耐久性に難があった。宇宙機構宇宙科学研究所の国中均教授らが新たなエンジンを開発。小惑星を往復して技術を裏付けることになったが、はやぶさにトラブルが相次ぎ、帰還が3年延びたことで、逆にイオンエンジンの耐久性が示された。

NECは16日、人工衛星のエンジン製造で世界首位の米エアロジェットと提携し、新エンジンの共同開発に着手したことを明らかにした。はやぶさ用に開発したイオンエンジンを、ほかの人工衛星でも使えるように見直すとともに、推進力も20%向上させる。衛星ビジネスは実績が次の受注を大きく左右する。エアロジェットはNECへの納入で高い実績がある。NECは今年度からの3年間で累計20億円の売上をめざす方針だ。

はやぶさの微粒子がイトカワのものだったことを受け、NECの遠藤信博社長は「日本の技術力の高さが示された」とコメントした。(野村周)

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はやぶさ 挑戦の系譜

探査機「はやぶさ」が持ち帰った微粒子は、小惑星「イトカワ」のものだった。地球外の天体に着陸して試料を採取したのは米アポロ計画や旧ソ連のルナ計画以来、微粒子は国内外の研究機関に配られ、詳細な分析に入る。一方、宇宙航空研究開発機構は今回の成功を追い風に、後継機「はやぶさ2」の予算化に期待をかける。

はやぶさ計画で、日本は科学的成果だけでなく、新型エンジンや探査機が自ら考えて航行する技術も得られた。カプセルを大気圏に再突入させた耐熱カバーの技術は、国際宇宙ステーションから試料を持ち帰る補給船や、将来の有人宇宙船の開発につながると期待される。

成果を踏まえ、宇宙機構は、後継計画の「はやぶさ2」で、生命の起源につながる炭素など有機物の多い小惑星を目指す、表面の砂の採取だけでなく、はやぶさができなかった内部の試料の採取にも挑む。もしアミノ酸が見つかれば、生命の起源にも迫れそうだ。

打ち上げ目標は2014年。目標としている小惑星の軌道から、15年までに打ち上げられないと、地球に近づく次のチャンスは10年後になる、と宇宙機構は訴える。

文部科学省は来年度予算の概算要求で、開発費148億円の一部を「元気な日本復活特別枠」で要望した。現在、政策コンテストで審議の渦中だ。18日には、事業仕分け第3弾で宇宙開発予算も取り上げられる。

そんなさなかとあって、成果を高木義明文科相みずから記者発表した。宇宙機構の研究者らは「この時期になったのはたまたま」と強調するが、パフォーマンスではないかとの質問が相次いだ。国民的人気と世界初の成果を背景に「はやぶさ2」の優先順位は来月初めに決まる (東山正宜)

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はやぶさ試料

生命の卵あるかな

アミノ酸の分析が可能 大粒子50~60個

電子顕微鏡を使った測定はまだだが、イトカワの粒子の可能性が高い。すでに見つかった約1500個の微粒子の10倍の大きさで、わずかしか入っていない成分も検出しやすく、アミノ酸を作る炭素や有機物を調べるのに、十分な大きさという。

アミノ酸は、地球に落ちた隕石や米航空宇宙局(NASA)の探査機が接近した彗星でも検出された。イトカワで見つかれば、太陽系の至る所に生命の卵があることになり、火星の地下や、地底に海がある木星の衛星に微生物がいる期待が広がる。宇宙機構の藤村彰夫教授は「大きいものは貴重で人類の宝。どう分析するか、1500個の微粒子とは別に検討した」と話した、〈東山正宜)

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20101118 朝日新聞の社説

イトカワの砂

あっぱれを、次の宇宙に

日本の小宇宙探査機「はやぶさ」が持ち帰った微粒子が、小惑星イトカワのものであることが確認された。

月より遠い天体に着陸し、採取した物質を人類が手にするのは初めてのことだ。宇宙探査の歴史に残る快挙といっていい。

イトカワまでの距離は、地球から太陽までの距離の2倍に当たる約3億キロもあった。はるか遠来の使者は何を語ってくれるだろうか。

小惑星は45億年前に太陽系が誕生したときの名残をとどめているとされ、太陽系の化石ともいわれる天体だ。

微粒子はこれから、日本国内だけでなく世界中の研究者に分配されて詳しく分析される。イトカワの生い立ちはもちろん、それを通して太陽系の起源に迫る成果を期待したい。

今回、はやぶさのカプセルから見つかったのは細かな砂のようなもので、0,01ミリ以下の微粒子約1500個に加え、やや大きいものもあった。

弾丸を発射してイトカワの表面の物質を飛ばす装置は動かなかったが、着陸の衝撃で舞い上がった砂粒がカプセルにうまく入ってくれたようだ。

目には見えない物質を分析チームの研究者がていねいに集めて分析した。鉱物の組成は地球の物質と異なって隕石に似ており、イトカワの観測から予想された成分とも一致することを確かめた。量はごくわずかだが、最新の装置を使えば、ほぼ予定通りの分析ができそうという。

道のり60億キロに及ぶ旅の途中で交信が途切れ、エンジンも故障した。南天を赤く燃やした、この6月のはやぶさの奇跡的な帰還は記憶に新しい。

プロジェクトを率いた宇宙航空研究開発機構の川口淳一郎教授が「帰ってきただけでも夢のようだったのに、さらにその上」というように、ちっぽけな「はやぶさ君」は今度もまた、うれしい方へ予想を裏切ってくれた。「あっぱれ」というしかない。

はやぶさの構想は四半世紀前、若い研究者の挑戦から始まった。計画の着手から15年かかった。川口さんは更に「宇宙科学研究所として40年以上に及ぶ積み重ねがあってこそです」という。加えて、野心的な目標と、高い技術力、研究者たちの献身的な努力が「オンリーワン」の成果を生んだ。

野心的な計画は、若者たちにとって多くを学ぶ場にもなったことだろう。だが、アジア諸国が研究に力を入れる今、日本の科学は陰りも言われる。

私たちはなぜ、自然科学の探求を続けるのか。すぐに実利に結びつくわけではないが、知を求める不断の情熱が人類を進歩させてきたことは疑いない。時代に応じた予算のバランスをとりつつ、若者が研究に打ち込み、存分に独創性を発揮できるような研究環境を整えていく必要がある。

2010年11月21日日曜日

今年も、銀河鉄道の夜がやってきた

20101119 東京演劇アンサンブルから、第28回クリスマス公演として、毎年恒例の「銀河鉄道の夜」の案内書をいただいた。招待状も入っていた。今年も、ジョバンニやカムパネルラは不思議な旅をする。決して引き返すことのない軽便鉄道に乗って、本当のさ・い・わ・いを見つけ出す旅に出る。お母さんの愛の愛が、人間の愛の愛が、三次元から四次元の世界へと誘(いざわな)われていく。今年は12月23日か24日に行くことになるのでしょう。誰かを誘わなくてはならん、と思っていたら或る友人がひっかかってくれた。グッドタイミング。友人がふらっと会社に寄ってくれたのです。私は招待を受けているので、有料客を首に紐をつけてでも連れて行かなくてはならないのです。これは私の劇団に対する義務です。友人に感謝。美味い物でもご馳走しなくっちゃ。

その案内書に同封されていたNO95 a Letter From  the Ensemble に劇団員の羽鳥 桂さんの文章が掲載されていた。その中に、羽鳥さんが引越しのための片づけで、『銀河鉄道の夜』の広渡常敏の脚本の初稿が出てきて、それと1999年の「稽古場の手帖」の原稿も見つかって、その原稿を紹介していた。初稿は一字一字いとおしむように丁寧に書かれた広渡の原稿からは、この戯曲への思い入れがそのまま伝わってきたと記述していた。

「宮沢賢治の詩的小宇宙”銀河鉄道の夜”における作品行為を辿る」と題された文章に広渡は書いている。以下はその文章のまま(手を加えていません)転載させていただいた。

作家は自分じしんにむかって書いている。書くという行為が文学であり、その作品行為の痕跡として文学作品があるのだ。作家の作品行為における精神のはたらき、心の動きを読者であるぼくらが追体験しようとする。追体験しながら(当然のことながら)ああ、いいなとか、これはどうかな?などと共感し批評しながら、さらに作品の内奥に分け入ってゆくーーーーー読むという行為はこういうことではないだろうか。

このように考えてくると、読むという行為も書くという行為と同じように、自分にむかって読むといえるようだ。そしてまた芝居することも自分にむかって行為するのだ。こうして読むことも演技することも、その行為を通して自らの想像力の変化に賭けることになる。想像力が変化するということは自分の生き方が変わることだ。宮沢賢治は生き方を求めて行為を書き続けた。ぼくらも生き方を求めて賢治の作品にむかい、ブレヒトに、チェーホフにむかいあうのである。

ーー中略ーー”銀河鉄道の夜”はその祈りも生き方も童話的発想そのものの中で発酵し醸成された作品である。童話という形式の中に宮沢賢治の祈りや思想が盛り込まれたなどと考えないでほしい。童話だけが到着できる地点、童話でなければ表現できない祈りと思想、それが”銀河鉄道の夜”の作品世界である。

そして、今回も羽鳥さんは語り手を担当なさる。稽古の中で先ず演出家から言われたのは「語り手の余計な感情を出すな」だったそうです。賢治の物語を語っていくだけ、目の前に見える景色を、今起こっていることをそのまま観客に伝えるのだ、と羽鳥さんは書いていた。

今年の銀河鉄道の夜はどのように演出されるのだろうか。毎年観に行くのですが、演出の変化も楽しみの一つです。

話は、午後の授業。活版所、家、ケンタウルの祭りの夜、天気輪の柱、銀河ステーション、北十字とプリオシン海岸、鳥を捕る人、ジョバンニの切符、と続く。

2010年11月20日土曜日

ルネッサンス

私の就寝の時間は早い。夕方から飲みだした酒の酔いがほどほどに回ってきた頃が、私が布団に入る時間なのです。それが大体、8時から9時頃の間です。そして、最初に目が覚めるのが夜中の1時頃。1時頃に目が覚めて、暫く本を読んでまた寝て、今度は3時半頃にはきっちり目を覚ますのです。また本を読んで、5時の犬の散歩に備えるのです。

目が覚めても、考えごとを仕出すには暫く時間が必要だと、世間ではよく耳にするのですが、私の場合はそんなことはなく、覚めた瞬間に考えごとが可能なのです。本も直ぐに読める。昨日の反省と復習、今日の予定を確認する、作戦を練る。

そんな諸々の考えごとの隙間に、フッと頭に浮かんだ言葉が「ルネッサンス」という言葉だった。学校で習ったルネッサンスは文芸復興だ。日本語訳では、今では文芸という言葉を外して、復興、再生と言っている。ウィキペディアによると、14~15世紀にイタリアを中心に、西欧で興った古典古代の文化の復興のことだ。文芸だけではなくあらゆる芸術、産業、精神を復興しようとする歴史的文化革命、あるいはその運動をさす、と説明を受けた(一部、山岡が加筆した)。

そうだ、俺にもルネッサンスが必要なんだ、と想い起こして興奮してしまった。賢者は常にこういうことを意識して時を過ごしているんだろう。

洗脳された先入観に縛られて実(じつ)の生まれぬ作業を続けてはいないだろうか。旧式、旧弊に拘っていないか。悪習慣による無駄はないか。旧態依然とした不合理な手順、計略で作業をしていないか。革新を怖れていないか。

イタリアのルネッサンスの時代も決して明るい時代ではなかったらしい。今、日本では戦争はないものの、不況の嵐が吹きすさび、精神は暗く閉ざされがちだ。そんな現実において、私が夢想したルネッサンスを、私の精神世界の中から、何かを導き出せるのだろうか。今日からの日常業務の中で意識を澄ましてみたい。

兎に角、いい言葉を想起させてくれたもんだ。

2010年11月17日水曜日

水曜日の私の喜び

水曜日は、弊社の営業部の定休日です。私は会社に出社するもののできるだけ午前中に仕事を片付けて、午後は読書、ブログの書き込み、イーハトーブ果樹園の手入れ、時には映画やお芝居を観に行くことで、定休日を大いに活用しているのです。

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ところが、半年前から水曜日の夕方5時には、孫・晴を保育園に迎えに行くようになった。晴は幼稚園の年長組さんなのですが、幼稚園の時間が終われば保育園に移動して、そこで私の迎えを待って居るのです。晴の両親は共稼ぎなのです。幼稚園と保育園が道を挟んでいて、一体で運営されている。一度、何か晴の父親・竹チャンの都合がつかなくて、代わりに迎えに行くように頼まれて、そしたら晴が非常に喜んでくれて、私も有頂天になって、そのまま水曜日には私が迎えに行く習慣になってしまった。

私が迎えに行くと、保母さんが晴の名前を呼んで、おじいちゃんが迎えに来てくれたよと声を掛ける。ニタッと微笑みながら帰りの準備に入るのです。私は、保母さんに向かって深深(ふかぶか)と頭を下げて日頃のお世話に感謝の言葉を述べる。

それからが楽しいのです。晴は徐(おもむろ)に、帰宅の準備を整えながら何かを考えているような顔つきで私のところにやって来る。帰り荷物を保母さんが確認する。靴を履いて、ランドセルを背負う。私は、晴が友人や先生達にきちんと挨拶することを見届ける。挨拶にはうるさいジジイなのです。

保育室を出た晴は、遊び道具入れの所へ入って、サッカーボールを持ってくる。それからが私と晴のサッカー練習なのです。一番最初の時は、否応なし、相談なし、意向、都合は聞かないで付き合わされた。でも、やりだしたら、これが結構楽しいのです。私が制限時間を決める。時間制限しないと限りないのです。自分からは、絶対やめようと言わないから。ジジイと晴が、キーパー役とシューター役を交代して、それを何回も何回も繰り返すのです。時には激しく晴のキープするボールに強くタックルすると、これが嬉しいらしくて喜んでくれるのです。時には、本気になることも必要らしい。晴は、右足に確実にボールをとらえてインステップキックが上手にできるようになった。体が大きいので、蹴ったボールはそれなりに威力がある。左足も何とか意識しながら蹴っているので、上手く蹴れるようになるのは時間の問題だ。

ジジイとのサッカー練習の最中(さなか)に、保育園の子供達が園庭に遊びに来て、私は怖い思いをしながらボールを蹴っているのですが、晴が蹴ったボールがどういうわけか、上手いこと子供達の頭に当たるのです。度々当たった。ボールが柔らかいから、そう心配はいらないんだが。その度に肝を冷やして、晴にやめようと声を掛けるのですが、その意味をのみ込めない晴を納得させるのは至難の業なのです。顔馴染みになった保母さんたちが、二人の戯れに優しい眼差しで微笑んでくれる。

それでも何とか納得させて自宅に連れて帰っても、晴の頭のサッカー熱はそう簡単には冷めやらぬ。今度は近くの公園まで行って、同じことを繰り返すのです。遊び足りないのだ。体力が余り過ぎ。お陰でジジイにも、昔のサッカー気違いだった頃の、40年から45年前の感覚がささやかながらも蘇ってくるのが不思議だった。これって快感、我ながら凄いと思う。

そんな水曜日の夕方が、私には至福のひとときなのです。この頃、11月のお迎えは4時です。

2010年11月16日火曜日

さすが、野茂さん

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20101109 朝日・朝刊のオピニオン/耕論・「企業スポーツの冬」に野茂英雄さんが昨今の企業スポーツについて、記者に語っていたことが文章として掲載されていた。その記事は下の方に丸々転載させていただいた。

これからの文中、野茂さんを敬称なしで進めさせて貰う。下の新聞記事をを読んで感じたことなのだが、野茂の考えにはこれまでのキャリアが大きく影響しているんだろう、その発言の内容は、ただ野球を愛する者だけではなく、スポーツを愛する者には、神さま仏様の言葉のように聞こえてくる。器の大きい人だ。その一言一言に心が洗われていく。さすが野茂と尊敬してしまう。

そんな野茂のキャリアをたどってみた。

メジャーリーグでの活躍は我々日本人には、海の彼方で凄腕の外国人バッター相手にバッサバッサと三振にうちとっているニュースが映像とともに報じられ、気分のいい思いをさせてもらった。その後、日本人大リーガーが続々と野茂の後を追うようにアメリカに渡った。彼は先駆者だ。その昔、メジャーで活躍した日本人投手に、マーシーと呼ばれた村上雅?を憶えている。南海ホークスではそれほど目立った成績はあげられなかったのですが、子どもの私には彼の活躍が嬉しかった。野茂はメジャーでノーヒットノーランを2度も成し遂げた。が、そんな栄光に輝いていた野茂ではなくて、メジャーに行くまでと、メジャーからお呼びがかからなくなってからの野茂を探ってみた。

父とキャッチボールをするときに、父から「ボールを体を使って投げろ」とは言われていた。その言葉は野茂の頭脳と体に沁み込んだ。小、中学生時代は目立った選手ではなかったが、各名門高校のセレクションは受けたものの、どこの学校からも声がかからず、公立高校の成城工業高校に入学した。高校の恩師は、野茂の投法が体をひねって投げるので、つむじ風投法と呼んでいた。このころから、トルネード投法の、原型が出来上がったのだろう。

高校卒業時には近鉄からの誘いはあったものの、社会人野球の新日鉄堺に入団した。

新日鉄堺の監督さんは言っていた。入団当時、球速が130キロちょろちょろ、140キロにははるか及ばなかった。ローテーションに加わる為には、1種類でいいから変化球を身に付けろと言って、スライダーを徹底して練習させた。フォークボールをものにしたのは、このあたりなのだろう。だから、なのか2年目にはエースになった。都市対抗での活躍が評価され、アマチュア日本代表に選ばれ、1988年のソウルオリンピックで銀メダルに貢献した。

1989年のドラフト会議では8球団から1位指名をを受け、抽選で近鉄が交渉権を獲得した。近鉄への入団の契約内容に、投球ホームを変更しないという条項を入れた。契約内容にこんな条文を書き加えたなんて、前代未聞だ。野茂は自由な裁量で指揮を執る仰木監督の下で、才能を伸ばしていった。監督は、野茂のフォームに対する批判を一切聞き入れず、野茂自身にトレーニングを調整させた。この仰木監督という人も、珍しい名指揮官だ。鈴木イチローを育て上げたのも仰木監督だった。野茂は自分で考え出した投法にこだわり続けた。

その後、後任の鈴木啓示監督が、野茂の制球難を克服するには、フオームの変更が必要だと迫った。そんなことがあって、きっと自分の投法に口出しするような監督のもとではやってられないと思い出したのだろう。誇り高い野茂のことだ、メジャーへの挑戦に切り替えた。代理人は団 野村だ。

ここでも、野茂の野茂らしい近鉄退団だった。野茂は近鉄との契約更改で複数年契約と代理人制度を希望したが、1994年には肩をこわして投げることができなかったことで複数年契約には応じられないとのことだったので、近鉄を追い払われるように任意引退選手として、代理人にメジャー入りを委(ゆだ)ねた。これまでこのようなやり方で退団して、メジャーをめざすのは初めてのことだった。野茂は、揺るぎなく自分の意志を貫いた。

それからのメジャーでの活躍は、私がここでとやかく言うまでもない。ネットその他で資料はいくらでも手に入る。私には、そんなことよりも、メジャー時代のことで注目することが二つある。その1は、2002年に同じくメジャーリーグでプレーする伊良部秀輝、鈴木誠とアメリカの独立リーグの球団を買収したことに注目したい。エルマイラ・パイオニアーズだ。下の新聞記事にもあるように、日本でプレーの場がなくなった選手にチャンスを与えたいとの思いだったようだ。自分は無名高校から社会人野球を経て、順調にプロの選手に歩むことはできたが、そうでもない選手を沢山見てきたのだろう。チャンスを作ってやりたいと真剣に考えた結果だった。その2は、1995年にドジャースに入団してから、2008年7月にロイヤルズを退団するまでに7球団に籍をおいたことになる。アメリカではよくあることなのだろうが、それにしても多くの球団を巡ってきたものだ。これも飽くなきチャレンジャーとしての野茂の真骨頂だ。探求し続ける、それは粘り強い野茂だ。

メジャーリーグからは、戦力的に見放された野茂は、それでもそう簡単には諦めなかった。2007年ドミニカ共和国のウインターリーグに参加を試みたのですが、右ひじの回復が思うようにいかず断念した。そして、次にはベネズエラのカラカス・ライオンズに入団するものの成果は出せなかった。このように、かってはメジャーの大投手だったそんな誇りも糞も投げ捨てて、ボロボロになるまで、少しでも可能性があると見極めたならば、どこまでも挑戦を繰り返した。

現役選手としてプレーできないと判断したら、大阪府堺市に「NOMO ベースボールクラブ」を設立した。今度は選手を育てる立場で頑張りだした。これも、野茂らしい。社会人野球が低迷して、アマチュアから優秀な選手が生まれなくなったことに気を揉んでいた野茂は自ら球団を立ち上げた。野球を目指す者たちに、活躍の場を提供したいと想ったのだろう。都市対抗野球にも出場するまでになった。日本の野球界の将来の発展を見据えて、身を挺している。

野茂の野球人生から、我々が学ぶものが多い。

野茂英雄

〈以下は新聞記事です)

大リーグ・ドジャースにいた2002年、米国でプレーする他の日本人選手と共に米独立リーグの球団を買収しました。日本では社会人野球から撤退する企業が増えていました。プレーの場がなくなった選手を米国の自分の球団へ送りたいと思ったのです。

投手の入団テストをしたら驚きました。1人で練習している選手ばかりなのに、いい球を投げる。3人採用しました。素質ある選手は野手にもいるはずで、もったいないと思いました。プロになる機会をもっと与えたいと、僕が資金を出して03年春にクラブチームを堺市に作りました。

クラブは翌年、NPO法人となり、地元企業や全国の個人会員などから年会費の支援を受けて運営しています。すでに6人がプロ野球に入りました。地域の理解を広めるため、小中学生の野球教室や大会を開催しています。応援してくれる人がいて何とか続けていますが、支援先を見つけるのはずっと苦しいです。

野茂の名前があっても、です。例えば毎月1万円お願いしますと言われて、あなたなら出しますか?企業だって売上は、まずは会社や社員のために使いたい。クラブ支援にはメリットも欲しいですよね。記者さんの前では言うのは何ですが、口で言ったり、書いたりするのは簡単です。実際に行動に移すことは非常に難しいです。

企業がスポーツ界に貢献してきたことは間違いないです。僕がいた高校の野球部は全国で無名でした。僕は1987年から3年間、新日鉄堺でプレーして都市対抗やソウル五輪に出たことでプロになりました。今の時代なら、なれなかったかもしれない。

都市対抗の試合では全国から社員が集まります。「野球部のおかげで昔の同僚に会えた」「同じ会社でも知らない者同士で応援できた」と声をかけてもらいました。会社の一体感づくりに貢献していると思うと、野球、仕事への張りも違います。福利厚生としてのスポーツが、会社の利益として還元されていると感じました。

でも、今は企業スポーツはもう限界です。不況でリストラしたり、事業統合したり。会社の存続が第一です。スポーツを見捨てるな、と言っても誰が拾ってくれるのですか。朝日新聞がチームを持ってくれますか。

国に言いたいです。スポーツ振興のために頑張っている団体を救うシステムを作れないですかね。スポーツ支援のため寄付しても、国が認定した一部のNPO法人に対するものでないない限り、税金控除はないのが現状です。様々な団体への無駄なお金が流れている状況を事業仕分けで変えようとしているのはわかりますが、そうしたところにも目を向けてください。

プロ野球選手を夢見ている子どもたちは本当に多いです。うちのクラブのように夕方まで働きながらでも野球をしたい選手は大勢います。そういう彼らにチャンスの場を広く提供したいと、僕たちと同じ志で取り組んでいる人たちもたくさんいます。

野球に限らずスポーツによって世界中の人々が感動を共有できます。一人でも多くにスポーツの大切さを知ってもらい、実際に行動してもらいたい。そのために、僕が言わなければいけないと思っています。

(聞き手・金重秀幸)

2010年11月14日日曜日

友人んの納骨の日に思ったこと

たった5年の間に、これだけの病魔に襲われた人に、今まで遭ったことはない。亡くなって1年半後の昨日(20101113)、多摩霊園に納骨された。森さんのことだ。

森さんと知り合ったのは、30年前のことだ。私が学校を卒業して、某電鉄系の観光会社に就職したのち、不動産会社に転籍した。昭和51年の初夏。職場は、横浜の天理ビル20階。当時横浜駅の周りには天理ビルが一番背が高かった。私が勤めた不動産会社は分譲を主たる業務としていた。当時、横浜、鎌倉、逗子、横須賀では他社を圧倒する量の建売住宅やマンションを分譲をしていて、私はその建売住宅やマンションを今まで住んでいた住宅を売却して購入するお客さんの、その売却物件の売却を担当する仲介部に所属していた。

私が不動産の業務についた頃のその不動産会社は、分譲住宅を買ってくれるのだから、そのお客さんの所有する物件を売って手数料をもらうなんて、そんなことをしていて・・・・・いいのですか????そんな雰囲気がまだ残っていた時代だったのです。同じ電鉄系でも東急系は、この仲介手数料の売上げを本気で収益の柱にしようと取り組んでいました。

そんな会社のそんな体質だったので、私の所属した仲介部は、のんびりしていた。そののんびり、ゆったりした時間の中で仕事しながらも、秘かに知識を豊かに深めること、と広く同業の人と知り合いになって情報を交換することを怠(おこた)りなかった。情報と言っても、不動産の情報だけではなく、各会社の仕事の仕方や、営業の極意や、失敗をした例や失敗しないための予防策、土地利用の仕方、宣伝方法、宅造法などの不動産に関する法律の内容からそれの手続き、などなどを酒を飲みながらの談笑、そして交流を深めた。痛飲したこともしばしばだった。

そんな仲間の一人が森さんだった。森さんが勤めていた会社は、桜木町の駅前のビルのなかにあった。昭和23年生まれで同(おな)い年。森さんは、東京都は木場の材木屋の長男として生まれた。家業の方はお父さんの代で仕事をやめることを、既に早くから決めておられたようだ。森さんは、日本でも授業料が指折りに高い学校を卒業していた。金銭的には恵まれていたのでしょう。

そんな付き合いが35年程続いた。

そして、6年前のこと、一発目の病、心筋梗塞だった。カテーテルを入れて、それが不具合で、再再度の入れ直しを行なった。それでも、この病気は最初の一発目だったことで、それほど深刻にならないで、療養していた。そして徐々に回復した。

それから1年後のある日、私と鎌倉の極楽寺に一緒に仕事に行っての帰り、私の会社で少し休憩してから森さんは駅に向かった。それから、20分後東戸塚の改札口の向かいのコーヒーコーナーから私に電話がかかってきて、気持ち悪いから来てくれと言われて行った。カウンターに頭を伏せていた。頭から顔にかけて玉の汗が噴き出していた。私は、尋常じゃないことを瞬時に察し、駅員に救急車の手配をお願いした。心筋梗塞のときからお世話になっている鎌倉・大船にある鎌倉湘南病院へ行くようにしてもらった。その病院には、森さんの体の状態が判る全てのデーターがあるからです。私は付き添いで乗り込んだ。救急車の走行は緊急車両なので、交通法規は全て無視して走るものだから、私は怖くなってそのうち気分が悪くなって吐きそうになった。

二発目は脳梗塞だった。病院に着いたときはまだ意識も手足も緩慢だけれども作用していたが、病室に入ってから3,4日は意識は朦朧、大変苦しんだそうだ。1年前に心筋梗塞を患いながらもここまで復活してきたのに、ここにきて何で、脳梗塞なんだ、と私と森さんの奥さんとは共に悲しみ、嘆いた。

手足の運動と言語に障害が残った森さんは、リハビリに励んだ。鶴巻温泉にあるリハビリセンターだ。それでも、車椅子から、松葉杖から、何も頼らないで歩行できるようになった。でも、長時間の歩行は無理だった。奥さんは働きに出かけられるようになって、森さんは留守番をしながら簡単な食事は自分で作れるようになった。気分転換のために、家の周りの散歩を楽しみにしていた。

それから、今度は食道ガンに襲われた。三発目はガンだった。手術をして摘出した。そして1年後、四発目もガン。転移したのだろうか、今度は肝臓のガンにかかった。さすが、この段階にきて森さんは弱音を吐き出した。私の友人と二人っきりのときに、俺はそろそろ駄目らしい、と吐露したらしい。彼の気持ちを推し量ることはできないけれど、さどかし辛かったのだろう。

6年前に最初の心筋梗塞、それから5年の間に、脳梗塞、食道ガンに肝臓ガン、こんなにも強烈な病魔に襲われた人を他に知らない。不幸と言えば、これほど不幸なことはない。でもいつも傍には親身になって介護していた奥さんが、悩み事をいくつも抱えながらも、献身的に働かれていたのが印象的だった。

森さんの病歴を奥さんの了解の下に詳(つまび)らかにしたのは、今、この世で恰(あたか)も健康そうにお過ごしの方にも、45歳を過ぎたら、真剣に自分の体の具合をチェック、内容を把握、対処を速やかに的確に行なってください、と言いたかったのです。慢心はイカンですよ、45歳を過ぎたら要注意ですぞ。

森さん、ご冥福をお祈りいたします。

確(しっか)り、生きたいと思う

遠藤周作氏のエッセイ集を読んでいたら、終戦直後、氏が学生だった頃の友人で詩人だった野村英夫の詩を2作その本の中で紹介していた。

詩人は31歳で昭和23年に死んでいる。私が生まれた年だ。遠藤氏の友人だから、きっとキリスト教つながりの人だったのか。この2作の詩は、死を予感しながら病床で書いたのかもしれない。清澄で、力強い詩だ。

詩のなかで、キリスト教の施設を有効的に使っている。

昨今の経済状況の中で、自分の立ち位置を見失いがちになっている此の頃の私だから、特にこの詩に惹かれたのだろう。一段一段、確りした足取りで進みなさい、そうすればあなたの生涯は満たされたものになる、と。ふらふらしていたら、アカンってことだ。

そして日々の生活のささやかなことにも、丁寧に、慈(いつく)しみ、優しく接していきたい。苦難にも正しく辛抱強く対処したい。感謝すること、素直に謝ることも忘れないようにしたい。友人を果てしなく愛したい。

私に自分の人生を熟すことができるだろうか、と自問した。できますかね?と再度自問した。

神様は、それァできるよ、できますとも、と私に自答を促した。

幸いなことに、私は健康に恵まれている。そして誰からも愛されている。

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陽を受けた果実が熟されてゆくように

心のなかで人生が熟されてくれるといい。

さうして街かどをゆく人達の

花のやうな姿が

それぞれの屋根の下に折り込まれる

人生のからくりと祝福とが

一つ残らず正しく読み取れてくれるといい。

さうして今まで微かだったものの形が

教会の塔のやうに

空を切ってはっきり見えてくれるといい。

さうして淀んでゐた繰り言が

歌のやうに明るく

金のやうに重たくなってくれるといい。〈仮名づかい、原詩のまま〉

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心の石段を一段一段昇ってゆこう。

丁度、あの中世の偉大な石工達が

築き上げた美しい聖堂を

一段一段、塔高く昇ってゆくように、

私達の心のなかの石段を

一段一段、空高く昇ってゆこう

さうしてもう一度だけその頂から

曠野(あれの)の果ての荘厳な落日に

僧院の庭に音立てる秋の落葉に

人びとの群がった街かどに

また愛するものの佇(たたず)む窓辺に

別離の眼(ま)なざしを向けよう。

さうしていつか私達の生涯が

このやうに荘厳に終えて呉れるといい。〈( )内は山岡が書き入れました〉

2010年11月11日木曜日

今日のポン太の足取りは軽い

昨日(20101109)の朝、ポン太が退院したのです。

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(我が家のポン太さまです。ちょっと可笑しいのが魅力なのです)

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(三女が作った作品です。ポン太〈シーズ)、ツバサ(ピーシャ)、ゴン(ラブラドール))

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(ポン太はぶさいくですが、ツバサは男っ前です。三女のデッサン途中です)

私が自宅に戻ると、エリザベスカラーをつけたポン太が玄関で迎えてくれた。しばらくの入院生活で、我が家が恋しかったのだろう、家の中をすごく嬉しそうに歩き回っていた。6日に手術して、9日に退院。入院するまでのポン太は、居眠りをしているのか、夢想に耽っているのか、ただぼんやりしていただけだったのか、この元気はどうしたんだ、オレは嬉しいじゃないか。

手術の内容は、臍(へそ)ヘルニア整復、右眼マイボーム腺腫除去、去勢手術を一度におこなったのです。臍ヘルニアは、そんなに悪化はしていなかったのですが、着実に肥大して硬化してきていたので、ここらでストップをかけなくてはと思った。

右眼の目蓋(まぶた)の裏にいくつものイボができて眼球の表面を傷つけだしたのです。時には血が滲(にじ)んでいたのです。これはさすがのポン太も気分が悪そうだった。

早朝(10日)の散歩のために、エリザベスカラーを外すと、ポン太は俄然元気が出てきて、早く外に出たがった。いつもは、ツバサが先頭をきって歩くのですが、今日はポン太が先頭を歩いた。入院中の宿便があったのだろうか、早足で歩いて、今朝は4回もウンコをした。食事も、元気いっぱいだ。

この犬たちのご主人さまも、オレのことだが、出物(でもの)、腫れ物が多いのです。かって背中にできた脂肪瑠がいくつもできて、それがすくすく育つものだから、怖くなってきて病院で切って貰ったことがあります。私が把握してない物まで医師が見つけてくれて除去した。それでも現在、右脇下に小指の爪ほどのイボが成長中です。孫からは気持ちワルがられています。どうしたもんだろうか。

1週間後に抜糸だ。

初代横綱若乃花が亡くなった

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「土俵の鬼」といわれた初代若乃花幹士(かんじ)、本名花田勝治氏は、2010年9月1日亡くなった。伝説の人になった。

世間では、栃若時代と言われていたようだが、少年だった私には、そんなことは分らず、父の尋常高等小学校の同期が営(や)っている近所の木下自転車屋さんのテレビを、大人の頭越しに見ていたことを思い出す。

このように、何もすることがなく、フラっとよそのテレビなどを見ていたのは、私が8歳ぐらいまでの時期だったと思う。10歳くらいからは、学校から帰ると大辻商店で店番をしていたからです。横綱になったのは、1958年だとすると、私が10歳の時だ。中学校から高校は、クラブ活動にどっぷりの生活を優先したので、テレビ、まして夕方などは観たことがない。

栃錦も強かったが、後の朝潮との試合の方が印象に残っている。成長するにつれて記憶は濃く残っている。

その日の取り組みは、冬場所だったのだろう、夜は早くやってきた。野良仕事を終えた大人たちがヤケに騒いでいて、みんなの目は真剣、全身に力が入っていた。一番五月蝿(うるさ)かったのは、サブやんだった。サブやんは町民運動会で土嚢を背負って走るレースでは、断トツに強かった。名物男だ。それが、朝潮との優勝決定戦だったように思う。どちらが勝ったのかは憶えていない。

その後、若乃花は勝ち星を重ねた。でも特別関心を寄せることもなかったのですが、小学校だったのか、中学校だったのか、講堂で若乃花の映画を鑑賞した時の感動は大変なものだった。感受性の高い少年だったのでしょう。

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その映画で強烈に印象的だったのは、花田家の稼ぎ手としての後の若乃花の奮闘振りが胸を打った。北海道のある港で、船に乗せていたのか下ろしていたのか、天秤棒の前後のざるに鉄鉱石か石炭をてんこ盛りにして、岩壁と船にかけた板の上を担いで渡っていたシーンが、何故か記憶に残っている。このシーンが長かったように思う。

筋肉隆々の男たちに紛(まぎ)れて奮闘する。灼熱の太陽。玉の汗。板を数枚繋ぎ合わせた幅1メートルほどの桟橋(さんばし)を、バランスを崩さないように歩む。

私は田舎育ちで、野良仕事や土木工事では今のように建設重機はなく、仕事は何でも人力によるしかない、そんな作業を日々目にしていた私は、強烈な印象を受けたのです。

その後の若乃花の活躍、弟・貴乃花の活躍、若乃花の子どもがちゃんこ鍋に落ちて亡くなったこと、韓国の愛人がいてその人との間に生まれた子が相撲取りになったが大成しなかったこと、若乃花系からは立派な相撲取りが続々輩出したこと、など、など、もっと若乃花のことを書きたかったのですが、--野暮用が入りまして---ちょっと未完成のまま、ここは終幕。

諸君、初代若乃花のことは、今後話す機会があるだろう。

友人に感謝

友人は、有り難きかな。

他人には決して口外できない重ッ苦しい難題を背負ってしまった。この難題についての私の結論は出ていた。でも、私の出した結論が、如何ように周りに影響を及ぼすのか、そしてそれは今後、どう推移するのだろうか、と第三者に判断してもらいたかった。そのために私は、大阪は寝屋川宝町の金の家に向かった。金だけには話さざるを得なかった。

私の結論は出ているものの、実際にどのように踏み込めるか、まだまだ心の整理ができてない部分も抱えていた。

前日、交通費を安く上げるために夜行バスを会社のスタッフに予約してもらった。横浜から新大阪。4000円也。途中トイレ休憩が2回あった。新大阪から慣れぬ駅名を数えながら上ってくるよりも、京都で下りて慣れた駅を近鉄、京阪を乗り継いで寝屋川に向かう方を選んだ。京都駅には早朝の6時ころ、寝屋川には7時。ヤマオカ、寝屋川駅は南口で下りるんやデ。寝屋川から、金の自宅まで歩いてみようと思いついた。心配したほど迷わなく、しっかりと金の家の前に自力で着いた。

彼は大学時代のサッカー部の同輩です。私は2浪してやっと大学の入口に辿り着いたのですが、彼は現役で入学したので、2歳下だ。金は一軍のフォワードのトップ、私はそのトップを何が何でも殺さなければならない二軍のセンターバック。紅白ゲームは激烈だった。私が率いる二軍は、一軍に負けたことはない。

私は今62歳、彼は還暦の祝いを少し前にしてもらった、と言っていた。

相談の内容については何も言わないまま、訪問する日を前もって報せておいた。40年の間に、二人にはあうんの呼吸で相手の悩みのふり幅や深度までが自然に理解できるほどの付き合いになっている。いちいち、相談の内容をああだ、こうだと言わなくても、私らには相手の状況を最大限に考えて、最良のアドバイスを出し合えるのです。

今回も、私が相談があるので会ってくれと、たったそれだけを言っただけなのに、彼の直感は鋭敏に反応したのだろう。「待ってるわ」のその一言のイントネーションで、私は私の悩みを見抜いてしまわれたのではないか、と恥ずかしくなった。照れ隠しに、カネの相談やないよ、と付け加えることを忘れなかった。

でも今回は違った。私は既に結論を出していた。今回の訪問は、結論に従って実行する場合に発生するだろう諸事に立ち向かう俺を、見捨てずにフォローしてくれ、ケアしてくれと一方的にお願いするだけだったのです。

金の自宅に着いて、即、厚かましくも友人のよしみで、ビールを奥さんに所望した。金は、私が道に迷っているのではないかと、家の周りから大きな道路まで見てくると言って出て行ったそうだ。金の帰りが待ちきれなかった。朝の8時のビールは旨かった。奥さんと何かを話したのだろうが、憶えていない。一睡もしていないので、頭が重い、血が昇っている。

金が帰ってきて、開口一番私に話した内容で、私のこの重ッ苦しい難題は瞬時に晴れた。金に事情を説明するまでもなかった。実は、この顛末をどのような手順で話せばいいのか、苦慮していたところだった。ところが、いきなり私が出していた結論の実行を踏みとどまらせる一報が金の携帯電話に入っていた。晴れたことが、将来私にとってハッピーなのかハッピーでないのか、それはわからない。

それと引換えに激しい胃痛に襲われた。金に余り心配しないようにと気を使った心算なのですが、この痛さはどうしょうもなかった。用意してくれた朝食を思う存分いただけなかったことが、奥さんに悪かったなあと思う。難題は私から離れて、私抜きで別のステージに移ったのです。この場で、金さんに相談することは何もなくなった、晴れたのです。

この胃の痛さは、そう易々とは治まってくれそうにはなかったので、帰るしかない。

滞在1時間で帰ることにした。金は、分っていた。そうか、それなら、そうしたらええわ、金のやさしい言葉だ。金の家に入った一報で、金は何もかも察したようだ。私の気落ちした様子、私が意を決して晴れたと言ったことに、金は何やらホットしたようでもあった。金さんの事務所に顔を出して金の弟に会ってから帰ることにした。

帰りも夜行バスの予約をしてあったのですが、急遽新幹線のぞみに乗って横浜に戻った。胃が痛くて、座席に座っていても海老のように反り返ったり、真ん丸くなったり、惨めな気持ちだった。会社には6時頃着いた。

そこで思う。大事なときに居てくれる友人を私は持っている。そのことに感謝したいと強く思った。

2010年11月6日土曜日

我が第3号の孫、初めての誕生日

 

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(鵠沼海岸の浜に寝っころがって見上げた空は、青空だった)

20101103、私の長男・草の第一子、そらの初誕生会を鵠沼のドッグ・デプトの宴会室で行なった。愛称、ソラマメの第一回目の誕生日を祝おうってことです。

本当の誕生日は、11月8日なのですが、この3日は水曜日で文化の日だったのと、ジジイである私の会社の定休日が水曜日なので、その日に決めてくれたようだ。一年の中でも、数少ない水曜日が休日の日だったのです。

3日は、朝から晴天なり。私はこの何年間海で泳ぐ機会に恵まれなかった。よし、今日は泳ぐぞ、と思いついたものの、今の海の水温は果たしてどの位のものなのか、想像がつかなかった。かって、真冬以外は平気で素っ裸で泳いだものです。自然をなめてはイカン年頃に入ってきている。我が老体の各部にボロが出てきている。用心することに越したことはない。寒いと困るので、次女の夫・タケさんのウエットスーツを借りることにした。臆病になってしまったワイ。これさえあれば、鬼に金棒だ。そのことを、耳ざとく察知した次女の息子・晴は、自分も泳ぐのだと言い張った。寒いからやめなさい、と言っても、こんな話を聞いた段には絶対妥協しない、晴君でした。

次女の車に、我が家族(私、愚妻、三女・苑)と次女家族(次女・花、タケ、晴)、花の運転で権太坂から鵠沼に向かった。

ドッグ・デプトには、犬の遊び場があってそこで方々から集まってきた犬たちが、勝手に犬たち同士で自由に遊べるようになっている。入場料は、犬一匹につき500円。食事を1000円以上摂った人には、犬1匹までは無料。この店には我が苑がアルバイトをしている関係で、ちょくちょく犬を連れて遊びに来ていたのです。花とタケちゃんの結婚報告会もここで行なった。鵠沼の付近は、海岸を背に立派な屋敷が続く住宅街で、連れてきてもらっているどの犬も、行儀がよく手慣らされていた。しっかり飼い主に愛されていない犬は、このようなところに放されると、必ず問題を起すそうです。名前の知らない高価そうな犬も多かった。お金持ちが多いのだろう。すぐに、ひねくれてしまう心が情けない。

会場に着くと、本日の主役の姫が白いドレスに身をまとって、鎮座されていた。この姫こそ名前は「そら」、愛称ソラマメです。その周りで、準備にいそしむソラマメの父・草と母・元。会場の隅っこには、大きな白と赤の直径15センチほどの御餅、正月に神棚に飾る鏡餅と同じ格好のもの2個と、藁で作った赤い布の鼻緒のついた草履一足、長さ5センチほどのものがビニールシートに置かれていた。どちらも、ソラマメの五島列島は宇久島に住む祖母が用意してくれた。

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(なかなか海から上がろうとしなかった晴、最後まで付き合うタケちゃん)

私はウエットスーツに着替えて、晴の手を引いて海に向かった。水は温(ぬる)んでいた。冷たくはなかった。サーフインをしている人たちの後ろの方で小さな波を最初は踏みつけていたのですが、そのうち腰までどっぷりつかって、大波の来るのを待つ。波にのまれて体が踊るように舞う。ジジイの手をしっかり握っている。それが面白いらしい。深いところへ行って放り投げても、スイミングクラブに通っている彼は、へっちゃらだった。晴が波に慣れてきて、自分で遊べるようになったので、それに海岸には保護者が監視中なので、私は晴の手を払って、沖の方に向かって泳ぎ進んだ。

沖に出た。波に揺られた。この数日間、我が身に降りかかった難題も忘れていた。今日のこれからは、幸せな時間を過ごすことになるのだろう。ウエットスーツが必要なほど水は冷たくなかった。沖合いからはるか海岸線を見ると、蟻の巣のようにごちゃごちゃしたところで、若い人たちがサーフインをしているのが、滑稽に思えた。晴とタケちゃんが、何やら話してる。波に乗れても5、6メートル、せいぜい20メートルの波乗りなんて、そんなことでいいの?といいたくなってしまう。ここで基本を身に付けて、どこか大海原の波に乗る夢を持っている人もいるんだろう。映画やテレビでしか見られないが、大きい波に乗ったアクロバチィックなサーフインを、誰もが頭に描いているのだろう。若者はそうでなくっちゃ。

少し泳いだだけだったけれど、満足度は高かった。かって、海の近くに行く時には、必ず泳ぐことを念頭においていたではないか。この時期に、この俺が泳ぐなんて言うと、どうしてみんなに笑われちゃうんだろう。

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(バースデイケーキを前にした、ソラマメと晴。いつまでも仲良くしてくれよ)

午後0時半、ソラマメの父・草の、参加していただいた方々へのお礼の挨拶の後、乾杯で宴会は始まった。料理は洋風のコースになっていた。今回は会費制なのですが、ジジイとバ~バはいりませんと言われた。温かい配慮だ。折角オリジナルのメニューを用意していただいたので、ここに料理人に敬意を表して内容の紹介です。巣篭もりのサラダ/カボチャのポタージュ/メルルッツオのクリームクレープ包み/ローストビーフ/サーモンリゾット/チーズフロマージュ

今日の出席者は、ソラマメの家族以外には、我が家と長女家族に次女家族。それにソラマメの父の大学時代の友人たち、東京何とか大学の泣く子も黙るド・ボ・クの仲間たちだ。草以外、今は東京都職員だ。ソラマメの母の大学時代の友人で看護婦をめざしている女性も参加してくれた。

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(餅を風呂敷に入れて担ぎ、藁草履を履かされようとするのですが、本人にはその意志まるで無し)

一升餅を背負い、藁草履に足をおいた。食に恵まれるように、体が丈夫でありますように、との願いからこのような風習が生まれたのだろうか、これは我流による解釈ですですから保証は効きません。私ら夫婦の郷里、京都界隈ではこのようなことはしなかった。上の写真がその時の写真なんですが、カメラマンの私が酒に酔っていたのか、写真からは、状況がよくわかりません。スマン。

2010年11月4日木曜日

「梅棹忠夫 語る」を読む

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20101031 朝日・朝刊に幾つかの本の書評が掲載されていた。その中に、梅棹忠夫(話し手)さんと同じく国立民族博物館の現在は名誉教授の小山修二(聞き手)さんとの対話本の書評が出ていた。人文科学の京都学派と呼ばれる流れのなかの重鎮だった梅棹忠夫さん。

先輩の今西錦司さんの山登りや学問以外の本は痛快丸かぶりで楽しかった。こんな面白い、偉い人が居るなんて、初めての経験だった。梅棹忠夫さんの秘境の探検は胸をゾクゾクさせられたものです。その後、京大のずうっと後輩の本多勝一さんの本では、私は本多さんの鼻息に呼応するかのように、世事のこと如くを嘆き、怒ったり、似非(えせ)知識人や文化人らを批判したりして、勝手に本多派を任じさせてもらっていた。

そんな三人のうちの梅棹忠夫さんの人柄が滲みでる対話形式の本なら、梅棹忠夫の正体〈考え方・生き方〉が窺(うかが)えるいいチャンスだと思った。新聞の書評の(評)が、横尾忠則さんだったので、これまた楽しく読ましてもらった。この書評を下で転載させていただいた。

私はこの書評を読んだ午前中に、最寄の本屋さんに取り寄せて貰うように依頼した。現在読書中です。こんなにして、新刊書を予約したのは何年ぶりのことだろうか。不景気で、私の可処分所得は減る一方で、本を買うのはもっぱら何とかオフの中古本オンリー、それも105円もので何とか満足しているのです。これはこれで、なかなか興味深い世界なんですぞ。

梅棹忠夫さんは、京都大学の人文科学研究所教授を経て、1974年に創設された国立民俗学博物館の初代館長を務められた。本年7月死去された。

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「梅棹忠夫 語る」  梅棹忠夫〈著〉

聞き手・小山修三/評・横尾忠則〈美術家)                           日経プレミアンシリーズ

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生前、今西錦司さんと対談した際、「あんたは学者と違うさかいに今日は遺言のつもりで何でもしゃべるでえ」と言って今西弁の放談が始まったが、本書を読みながら梅棹さんと今西さんがダブってならなかった。というのはこの書が出る前に梅棹さんが亡くなられたので、最後の言葉が現在の日本人に対する遺言に聞こえるのだった。だとすれば心して拝聴せなあかん。

梅棹さんの底の抜け方は今西さん同様、尋常ではない。痛快の一言に尽きる。冒頭から全編、日本のインテリに対する批判が炸裂する。「インテリというものはサムライの後継者」で「オレたちが知識人だ」と町人民衆をバカにしているとーー。

例えばこんな調子だ、「こんなあほらしいもん、ただのマルクスの亜流やないか、----何の独創性もない」と著名な学者の実名を挙げて痛烈にこき下ろす。他人の本を読んでいるだけでは独創性は認められない、独創は思いつきから生まれるもので、「悔しかったら、思いついてみ」と、頭で学問をする人間への舌尖(ぜっせん)はとどまるところを知らない。

学問からは思想は生まれないので自分の足で歩き、自分の目で見たものを自分の頭で考えた文章を書くべきで、他人の本を引用する文章家を「虚飾や」と一刀両断に切り捨てる。

そして自分の人生を究極的に決定したのは「遊びや」と主張し、ついでに思想も遊びにしてしまう。このことはまさに芸術にも一脈通じ、人生の無目的性へと昇華していくが、こんな発想を裏づけるように自らを老荘の徒と呼び、無為、自然の道を重んじた老荘思想の実践者であった。

未練も物欲も享楽に溺れることも捨てた「痛快なる無所有」者は齢(よわい)90という長命のせいではなく、元来がニヒリストで「明るいペシミスト」(本人弁)として、人類全体の一個体として消えていく存在と自覚しておられたようだ。かって今西錦司さんをリーダーとして学術探検に出かけるなど、すべて自前の足と目で学んだ梅棹さんの人生観に触れてみたら如何やろ。

2010年10月28日木曜日

落合監督*西村監督

20101026朝日朝刊・スポーツ欄に下の記事を見つけた。

こんな記事を書いてくれるから、読者は新聞を支持するのだろう。朝食を摂りながらのひと時が豊かなものになる。今回の記事はクライマックスシリーズを制したパ・リーグのロッテとセ・リーグの中日が30日から始まる日本シリーズを前にしての、両監督の紹介が、面白い。

両者の選手としてのキャリアの内容に興味をそそられた。こんな記事を読ませてもらうと、その両監督の采配の方も注意深く見守りたい。

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「偉大な先輩」と頂上決戦

落合監督*西村監督

2月27日、ナゴヤドームでのオープン戦だった。ロッテの新監督・西村徳文(50)は試合前、打撃練習を見ていた中日監督の落合博満(56)のもとへあいさつに出向いた。

2人はそれから延々30分ほど話し込んだ。

「いろいろな話を聞かせてもらった。野球のこと、昔のこと、監督としてのこと。いい時間になった」と西村。

2人はロッテで5年間、一緒にプレーした。西村の入団は1982年。前年にプロ3年目で初めて首位打者を獲得した落合は、この年、最初の三冠王に輝いている。当時の本拠、川崎球場の室内練習場は2人も入ればいっぱいになる狭さだった。落合が入ると2時間は出てこなかったと西村は振り返る。「僕ら後輩はそれを外で待っていた」

西村はその背中に学んだ。

「努力しなければいけない。あれだけの偉大な打者でも練習をしていた。あの姿を見ていなかったら、間違いなく今の自分はいない」

出場6試合に終わった1年目のオフ、西村はスイッチヒッター転向に取り組む。球場近くに泊り込み、来る日も来る日もバットを振った。打撃コーチだった故・高畠導宏が当時を振り返ったことがある。「練習が終わってメシを食うやろ。西村の手は筋肉がこわばって、バットを握った形のまま開かないんや。それくらいバットを振っていた」

秋田工高から東洋大を中退し、社会人の東芝府中からドラフト3位でプロ入りした落合と、宮崎・福島高から鹿児島鉄道管理局を経てドラフト5位入団の西村。当時からぶっきらぼうだった「オレ流」は口こそ出さなかったが、自身と同じく、エリートとは言えない立場から努力ではい上がろうとする後輩を認めていたのかもしれない。

西村が一本立ちしかけていた春先のある朝オープン戦を前に声をかけた。「山内さんとこに行くぞ」。向かったのは故・山内一弘(元監督)の自宅。打撃練習ができる庭先のスペースで、2人でバットを振った。「何で誘ってもらえたのか分からないけど、うれしかった」と西村。

3年目にレギュラーに定着した西村は、落合と内野陣を形成した。落合が3度目の三冠王に輝いた86年、西村も最初の盗塁王を手にしている。

あれから四半世紀。西村にとって、「偉大な人」と尊敬してやまない先輩に挑む頂上決戦。「いろんな思いがあるけど、言いたくない。僕は監督1年目で向こうは何年も実績がある大先輩。どうこう言うのは失礼です」。後輩が勝てば、落合が04年になし得なかった監督就任1年目での日本一になる。=敬称略(金島淑華)

タラの幼木を買った

猫の額よりも狭い、イートハーブの果樹園の園主は、昨日20101013の水曜日に近所のホームセンターでタラの幼木を買った。

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この店にあったたった1本のタラの木は、この夏この店で見つけておいたのです。このたった1本のタラの木を、果樹や花木の幼木を売っているコーナーの隅っこの、またその隅っこに他人の目に触れないように隠しておいたのです。会社から急用の知らせが携帯電話に入って、その日は諦めた7月頃のことです。誰かに見つけられて、買われてもしょうがないと思っていた。

この数年、ふとしたことからタラの木が、急に気になりだして店を幾つか回ってみたのですが、なかなか見つけることはできなかった。店の人に聞いても、うちでは取り扱ったことがないと、どの店でも言われた。友人にも相談したら、山にでも行って、探してくるしかないんじゃないの、と言われ半ば諦めていた。

だが、タラの木を隠したものの、買いに行くまで、随分日が経った。昨日、そのタラの木は紅葉しながらも、誰に買われることもなく、私の来るのを待ってくれていた、ようだった。いいかげんで頼りない買主だ、とでも思ったことだろう。店員さんに4ヶ月も売れなかったのだから、ちょっとぐらいオマケしてよ、と頼んだが、それはできませんの一言だった。

今から35年前、某電鉄系の観光会社の宣伝部にいた時、毎年、越後地区のスキー場の次年度の宣伝計画の打ち合わせのために、ゴールデンウィーク明けに現地に行った。昼間の打ち合わせの後、夜は豪勢な酒宴が控えていた。地元のスタッフは、気合を入れて待っていて呉れた。宴会は事務所のテーブルに用意された一升瓶の酒数本と山盛りのタラの芽の天ぷらだったのです。私は、それまで食べたことがなかったのですが、初めて食べたその瞬間に、苦味の混じったタラの芽の虜(とりこ)になってしまったのです。大人の味だった。

それから、今、手に入れることになったのです。

誰か、タラの木の今後のことに、助言をくださいな。

2010年10月25日月曜日

「告白」って、いやな感じ

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私の職場の同僚が、これ面白いンですよと文庫本を見せてくれた。私は、何とかオフという古本屋を見習って、その本を廉く買わせてもらった。本に対する占有欲が強くて、借りるよりも所有を求める性向なのです。好きになれない本は、人にあげるか捨てて、好きな本は身の回りに置いておきたいのです。

その本は半年ほど前から話題になっていた湊かなえ氏の「告白」だった。映画化もされた。第6回の本屋大賞にも選ばれたのです。面白いことは面白いのですが、残念ながら、私が喜ぶ類の本ではなかった。実は、今この本の物語の終盤まで読み進んできたのですが、ここら辺で少し疲れてきたのです。

女教師の娘が自分の勤める学校の敷地内にあるプールで溺死体として発見された。だが、これは事故ではなくてこのクラスの生徒によって殺されたのです、と教師はホームルームの時間に生徒に向かってこの顛末の告白を始めた。

それから級友の女生徒の告白が続く。女生徒と級友たちと先生の関係や新任のクラス担当の新米教師の様子が述べられていく。

犯人の下村少年の告白は、父母のこと、姉たち、母との関係が続く。それから犯人の渡辺少年の告白だ。父と実母のこと、実母から電子工学の知識を授かったこと、それから継母との関係、下村少年との共同作業から、そして離反。

ーーーーーーーー、ここまで、読み進んできた。

そして仕事の関係で一週間、この「告白」が読めなかった。その間に、下のような記事に遭遇する羽目になったのです。

この本は、確かにストーリーテーラーとしての著者の才は抜群に冴えている。題材や物語の展開が奇抜で、好きな人には好まれたでしょうが、私はそれらがが好きになれなくて、正直読むスピードが上がらなかった。映画化された理由も分る気がするのですが。仕事の関係で、読み進めなかったとか言い訳しているが、どうしても好きになれないのが大きな原因だったのだろう。

この本を早く読み上げて、宮沢賢治の童話の一話でも読まないと、元の自分に戻れないなどと考えていたところだったのです。頭の中は靄(もや)がかかったままだ。

ー - - -

「告白」について、読了もしないうちに、気乗りしないことの文章を綴っていた。その最中に、愛知県立の商業高校で、担当教諭が馬鹿げた問題を作成して生徒に回答させていたというニュースがあった。

今読んでいる「告白」とは、何の関係もなく、似ていると言えば学校内で起こった、先生と生徒との出来事ぐらいなのだが、本を読んで気分が暗くなっていた矢先だったから、異常にこのニュースが気になったのだろう。

その事件はネット上に、題字〈見出し〉=「校長暗殺犯は誰」、として紹介されていた。その事件を間違いなく把握するために新聞記事をさぐった。結果、20101023の中日新聞の夕刊の中にその関係した記事を見つけた。

★愛知県立東海商業高校(同県東海市大田町)で19日行なわれた中間試験で、校長を暗殺した犯人を当てるというクイズのような問題が出され、選択肢の中に同校教員の実名が使われていたことが分った。校長が「教育現場にあってはならない」と問題を作った担当教諭を厳重注意した。

試験に出た問題は、職員室で暗殺された校長が残した血で書いた文字を手がかりに、選択肢に実名であげられた教員7人の中から犯人を選ぶという内容。校長が書き残した「41124」と横に書いた数字を逆から見ると「カていカ」と読めるため、答えは「家庭科の教員」というわけだ。

総合ビジネス科の総合実践の試験で貸借対照表やビジネスマナーの問題とともに、「頭の柔軟さをはかる問題」として出題された。作ったのは20代の男性教諭で、3年生の2クラス77人が回答。同校によると「柔軟な思考を育て人間力をつける趣旨」として、クイズ的に思考を試す問題はこれまでにも出題している。

それから20101024の朝日新聞の朝刊には、前の愛知県立の高校での記事ともう一つ東京都の小学校での授業の内容の記事が掲載されていた。この記事も、何やら憂鬱な気分にさせられた。こんな変な内容の事件が、何故この時期、こんなに起こるのだろうか、後日のためにここに転載させてもらう。

★これって授業?

小学校教諭がクイズ 答えは「三女を殺す」

東京都杉並区浜田山小学校の女性教諭(23)が、授業中に自殺や殺人を題材にしたクイズを出題していたことがわかった。同校は23日に臨時保護者会を開き、岩崎義宣校長が「不適切な指導だった」と謝罪した。

同校によると、問題となっているのは、10日の2時間目、3年生の算数の授業中に出したクイズ。「3姉妹の長女が自殺し、葬式があった。その葬式に来たかっこういい男性に、次女がもう一度会うためにはどうすればよいか」という趣旨の質問で、答えは「三女を殺す(また葬式をする)」だったという。

教諭は「授業を楽しくしたいと考えてのことだったが、軽率だった」と話しているという。

くだらない教師が、くだらないことをしでかしてくれるなあ。

上の2件のそれぞれの教師には、校長が厳重に注意したとか言っているが、こんな教師は教師の資格どころか、教室、学校なる施設内で働く資格がない。愛知県の高校の場合だけれど、中間テストなどの問題を、管理者である校長や教頭は目を通さないものなのですか、民間の会社ではそんなこと有り得ない。自らの行為を深く反省して、早々と神聖なる学び舎から立ち去ってもらいたいものだ。

気分を取り直して、これから、「告白」の残りの部分を読むことにしよう。

2010年10月24日日曜日

私の昼めし狂・騒・曲

私たちの会社は、中古の戸建やマンションを仕入れ、リノベーションを施し、新たな付加価値を付けて市場に提供することを主たるな業務にしている。社員全員、日々、精励奮闘。他にも建売住宅、未利用地を造成して宅地分譲をしている。今年は、注文住宅を数棟、建てさせて貰った。センスの良さ、原価公開主義を貫きお客さんからは感謝され放しです。作品は、アーバンビルドのホームページをご覧ください。

住宅や宅地に関することの仕事ばかりなので、社員の誰もが会社に居る時間は少なく、外回りが多くなるのです。お客さんのお家や、設計事務所や工務店、役所、同業者さんの事務所を訪れる。また、建築や造成の現場にも行く。

そのような外回りにも楽しみがあるのです。それは、一人の時も連れで居る時も、仕事の合間を縫って、昼飯を何処で何を食うのかを考えて、それを実行することです。私が店を決める優先順位は、一に値段と量、二にメニュー、最後は諸々だ。私は営業のスタッフに比して外出する機会が少ないから、尚更非日常的な外食の時こそ楽しみたいのです。行き先と時間を見計らって、前もって店を決めてから外回りの仕事に出ることもあります。外食で、行動にはずみをつけたい。車の運転中にも、行きたい店、食いたいメニューを突然思いつくこともあります。飯を食わないと死んじゃいますからね、と。

牛丼一つにしても、選択肢は幾つもある、吉さんにスキヤはん、松っちゃんに卯さん。戦国時代だ。牛丼がメインだけれども、メニューの豊富さは流石(さすが)だ。研究されている。それに華々しい値下げ合戦。それにしても、吉さんの起死回生の決めダマだと最近新発売した牛鍋丼は、私には吉さんの気合の入れようほど、素晴らしいメニューだとは思えない。コストパフォーマンスをこの時とばかりに発揮したかったのだろう、牛丼ほど肉を使わないようにして、その代わりに糸コンニャクや豆腐を入れて、いかにもすき焼き風にした心算だろうが、値段の割には物寂しい。もっと廉くないと、このメニューはそのうち消滅するだろう。

それに焼肉安さんや、何だかよくわからないがたったそれだけのドンさんには、飯食い放題のランチがある。どちらにも、500円定食で飯食い放題、我が社の社員には熱い支持がある。どんぶり飯、5杯も食う猛者もいるのです。ところがどっこい、同じチェーン店でも店によっては、この得出しの飯食い放題でない店があるのです。このような店に入ったとき、ショックを受けてがっかりした人を見るのは耐えられない。慰めの声の掛けようがなかった。

各区役所、県庁、各市役所の食堂も侮(あなど)ってはいけない。

蕎麦屋のみなとさんにはアルプス盛りというメニューがあって、これは超難関だった。ざる蕎麦の巨大盛りです。値段を忘れたのですが量の割りには廉かった記憶がある。ご一緒した司法書士の銀子さんは、腰を抜かした。相当ショックだったようだ。私は食い残したことを平身低頭の態で、店員さんに謝った。大失態だった。勿体ないことをしてはいけない、これは亡き母からの唯一の教え、私の金科玉条だった。自分の胃袋を過信し過ぎてしまった、我が一生の不覚です。

社内で仕事があるときは、時間が許す時にはインスタントラーメンなどを作るのですが、それができない時は、最寄の駅の立ち食い蕎麦やうどんだ。かけ蕎麦なら280円。折角節約しているのですから、これ以上のものを食うわけにはいきません。讃岐うどんのうまい店も増えました。この店では、ネギと天カスが自由に取って食えるので、これは儲けモンですゾ。

そして、ちゃんぽんです。シーボルトやオランダ屋敷や、日本で二番目に原爆の被害を受けた、その地方の名前をつけたチャンポン屋さんがある。店の名前は、なんとか帽子を英訳にしたものだ。麺がレギュラーサイズ200gでも、大盛り(1,5倍)300gでも、ダブル(2倍)の400gでも、値段は同じの500円。私は、この大盛り(1,5倍)で十分なのですが、我が社の同僚は、ダブルをいただいて、けっこうな量でございました、とお店にお礼を言っていた。

そして、ここでちょっと待てよ、「ちゃんぽん」とは何じゃいな、と思って一緒にちゃんぽんを食っていた知人に尋ねた。知人は、それはお前、日本酒やウイスキー、紹興酒、泡盛にテキーラーやウォッカ、ビールなどをゴチャゴチャにして飲んだときに使うでしょ。ちゃんぽんして飲み過ぎたので、頭が割れるように痛い、とお前がしょっちゅう言ってるやろ、あれや。ごちゃごちゃ混ぜることを言うんや。

以下は、東京大学名誉教授の柴田 武さんの「常識として知っておきたい日本語」(玄冬舎)による「ちゃんぽん」の説明です。この本は私の寝床の枕元にいっつもありますす。本書122Pより。

鉦(かね)を鳴らせば、チャンという音がする。鼓(つづみ)を叩けばポンだが、この鉦と鼓を”チャン、ポン”と合奏することを「ちゃんぽん」と言ったのがはじまりだ。そこから、違う種類のものを混ぜ合わせることを「ちゃんぽん」と言うことになった。酒の「ちゃんぽん」はいただけないが、「長崎ちゃんぽん」は、肉や野菜、魚介類など、たくさんの材料が「ちゃんぽん」に使われていて、なかなか美味しい。

2010年10月16日土曜日

アンプティサッカー

20101013の朝日・夕刊12面に載っていた写真を見て、ありふれた表現だけれど、ガ~ンと頭をバットで殴られたような衝撃を受けた。これは、何じゃ、片足でサッカーをしている!! 目が紙面に釘付けになった。体の血が騒いだ。目が充血してくるのを感じた。

サッカーは、人間をこんなにも勇敢にさせるものだと、改めて感動させられた。サッカーという競技には、先天的にどこまでもチャレンジという因子が埋め込まれているいるようだ。

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(ボールを追う主将の新井誠治さん(左)とエンヒキ・松茂良・ジアスさん=埼玉県朝霞市溝沼、福岡亜純氏撮影)

私は、高校1年の時から、素浪人時代の2年間の休みはあるものの、大学の4年間、卒業後も同好の仲間とサッカーを楽しみ、また地元自治会に請われて子どもサッカー教室で指導した。そのように、私のサッカーは繁忙だった。サッカーだけなんです、唯一の趣味として愛して止まなかったのは。62歳になった今でも、プレーはできないものの、サッカーの話題は、いつでも、何でもウエルカムちゃんだ。

そんなサッカー狂の私が、その都度恥ずかしい思いをしてきたことがある。体の状態に応じて、趣向を凝らし、工夫して、「新作サッカー」を幾種類も編み出して、各地でそれぞれに勤(いそ)しんでいる人がいることに、余りにも無知だった。ハンディを乗り越えるなんて、そんな甘いもんじゃない。新作サッカーを作り上げ、これを究(極)〈きわ〉めようと努力する多くの人たちがいることを。

本質的に面白いサッカーだからこそ、どんなに、姿や形を変えても興味は果てしない。競技ごとに考え出されたルールは厳然と守る。手を使わない、手を使えない、この原則のもどかしさの中で、技を競う。競って進化する。

先ずは女子サッカーだ。私が大学の現役の頃、今から42~3年前、女子サッカーなど誰もやっている人はいなかった。当時、誰が今日の女子サッカーの人気の高まりを想像し得ただろうか。約20年前、地元自治会の体育部の中にできた子どもサッカー教室には、女の子もちらほら混ざっていた。私の娘も男の子に混じってプレーした。そうこうしているうちに女子サッカーがますます盛んになって、今、なでしこジャパンと呼ばれる日本代表チームの戦績は立派だ。世界のトップクラスに位置する。海外のプロチームに籍を置いているプレーヤーもいる

それから、映画「プライド in ブルー」で初めて知った、知的障害者たちによるもう一つのW杯。2006年のドイツW杯に合わせて行なわれた大会の記録映画を観るまでは、このような大会があることを知らなかった。娘と一緒に映画を観たのは2007年の夏、テアトル新宿だった。この映画を観て直ぐに、私の勤める会社の入口付近に、寄付をお願いするための募金壷を用意した。少しでもこの大会に協力したいと思ったのです。

そして、視覚障害者たちによる、もう一つのW杯なんて言わせないぞの「ブラインドサッカー」にも驚かされた。アイマスクを付けて音の鳴るボールでプレーするフットサルだ。今では、健常者も混ざってプレーを楽しんでいる。健常者だって、アイマスクを付ければ条件は同じだ。テレビで放映されたのを偶然見たことがあるのですが、どうしてあんなに上手くボールを運べるか、不思議でもあった。

そして、今回のこの新聞記事だ。読む前に、写真を見て吃驚した。

なんと、「アンプティサッカー」というやつだ。

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これからは新聞記事そのままです。

片足片手 勇気くれたサッカー

「アンプティサッカー」日本代表19人W杯へ

つえをつきながら片足の選手がピッチを走り、片腕のキーパーがゴールを守る。「アンプティサッカー」は病気や事故で片足、片手を失った人たちがプレーする。アルゼンチンで開かれるワールドカップ(W杯)に初出場するため、「日本代表」10人が13日午後、成田空港から出発する。(牧内昇平)

10日、埼玉県朝霞市のフットサル場。チームを二つに分けたミニゲームがあった。ゴール前。ジャパンブルーのユニホームを着たDFで主将の新井誠治さん(40)は、右足でジャンプして体の向きを変えた。MFの日系三世、エンヒキ・松茂良(まつもら)・ジアスさん(21)は2本のつえで体を支えながらドリブル。左足を振り抜くとボールはゴール右上に突き刺さった。新井さんは悔しそうに大の字になって倒れ込み、一息つくと笑顔で言った。「一対一の緊張感。柔道をしていたころを思い出します」

新井さんは埼玉県川口市に住み、損害保険関連会社に勤める。30代前半まで実業団の柔道選手だった。左足を失ったのは2005年3月、ひざに腫瘍ができ、付け根から切断した。原因は血液のがん、悪性リンパ腫。がんは内臓に転移し、同年夏、臍帯血移植が成功し一命を取り留めた。

再発の可能性がほぼなくなって数年。リハビリを兼ねた水泳やアーチェリーでは満足できなくなり、「もっと激しいスポーツがしたい」という思いが膨らんだ。

新井さんが義足を外し、恐る恐るボールを蹴り始めたのは4月。知人から、アンプテイサッカーの元ブラジル代表選手の松茂良さんを紹介されたのがきっかけだ。

最初はつえを握る手の皮がぺろんとむけたが、「全身を思い切り使う感覚がよかった」と新井さん。試合に出るにはキーパーを含めて7人が必要だ。メンバーを探し、関東などに住む20~49歳の10人が集まった。国内にはほかにチームが見当たらず、そのままW杯代表になった。

16歳の時、骨肉腫で右足を失ったDFの上中進太郎さん(36)=東京都府中市=は「サッカーがめちゃめちゃ好き。できないとあきらめていた」。キーパーの前田和哉さん(24)=茨城県神栖市=は昨年6月、労災事故で右ひじから下を切断した。「プレーしていると、勇気をもらえるんです」と話す。

W杯は17日(日本時間)開幕。ブラジル、イングランド、ガーナなど18カ国が参加する。日本の初戦は開幕試合で相手は強豪アルゼンチン。新井さんは「心を奮い立たせるものに出会えた喜びを、障害ある人に伝えたい」と健闘を誓う。

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アンプティサッカー

「アンプティ」は英語で「切断で手足失った人」の意味。義足を外した選手がつえ2本を使って片足でプレー。つえでボールをコントロールすると反則になる。キーパーは片腕の人が務める。ピッチは通常のサッカーの約3分の2の広さ。試合は25分ハーフ。1980年代に米国で始まった。国際アンプティサッカー連盟が開催するW杯は今回で8回目。パラリンピックの正式種目を目指している。

2010年10月14日木曜日

ノーベル平和賞は獄中の劉氏

以下の文章は、20101009(土)の朝日新聞の1,2,3面をダイジェスト、社説は全文を転載させてもらったものです。新聞記事そのままです。

10月7日の新聞には、ノーベル化学賞を根岸英一・米バデュー大特別教授(75)、鈴木章北海道名誉教授(80)、リチャード・ヘック・米デラウェア大名誉教授(79)に授与するという記事が大きく取り扱われていた。3人は金属のパラジウムを触媒として、炭素同士を効率よくつなげる画期的な合成法を編み出し、プラスチィックや医薬品といった様様な有機化合物の製造を可能にした、という功績だ。

日本の化学者の受賞の知らせの次にきたのが、劉暁波(リュウシアオボー)氏のノーベル平和賞受賞の知らせだった。民主化とか反権力との闘いとかに関しては、どういう訳か、私には力が入るのです。血が騒ぐのです。

劉氏の名前は候補者として以前から呼び声が高く、関係者の間では予想通りだったようだ。私は劉氏のことを、今回まで知らなかった。新聞の記事を読めば読むほど、これは大いに考えなければならない問題だと思った。私にできることは、せめて新聞記事からでも劉氏の現状をできるだけ深く理解したいと思った。

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ノルウェーのノーベル賞委員会は8日、2010年のノーベル平和賞を、中国共産党による一党独裁の見直しや言論・宗教の自由などを求めた08憲章を起草した中国人人権活動家で作家・詩人の劉暁波(リュウシアオポー)氏(54)に授与すると発表した。「中国での基本的人権を求める非暴力の闘い」を評価した。中国外務省は8日夜、「(授与は)平和賞を汚すものさ」と激しく反発する談話を発表した。

中国在住の中国人がノーベル賞を受けるのは、自然科学系を含めて劉氏が初めて。劉氏は08憲章を起草したことで今年2月、「国家政権転覆扇動罪」で有罪となり、懲役11年の実刑判決を受けて服役中。今回の受賞決定は、経済大国として国際社会での存在感を増す中国に対し、民主化と人権改善を強く求めたものだ。国際社会に対しても、依然抑圧が続く中国の人権状況への監視を促す意味がある。

同委員会は授賞理由の中で「中国は世界第2位の経済大国になったが、その新しい地位には増大する責任が伴わなければならない」と指摘。劉氏について「20年以上にわたり、中国での基本的人権の適用を訴えるスポークスマンとなってきた」と評価し、国内にとどまって活動を続け、厳罰に処せられたことで、「中国での人権を求める幅広い闘いの最大の象徴になった」とした。

さらに、「中国の憲法には言論、報道、集会、デモなどの自由が定められているにもかかわらず、中国市民の自由は明らかに制限されている」と、人権活動家らの自由な表現活動を認めない中国政府の姿勢を批判した。

これに対し、中国外務省の馬朝旭報道局長は、「劉暁波は中国の法律を犯し、中国の司法機関が懲役刑を科した罪人である」と非難した上で、「同賞を与えることは、賞の趣旨に背き、これを汚すものだ」とする談話を発表した。また、「中国とノルウェーとの関係も損なわれることになる」とし、同委員会のあるノルウェーへの対抗措置を示唆した。

ノルウェーの外務省は8日、中国政府が抗議のためノルウェーの駐中国大使を呼び出したことを明らかにした。

ノルウェーでの報道によると、中国政府は劉氏ら反体制派に授与しないよう委員会側に事前に圧力をかけていたとされる。一方、受賞者発表の様子を生中継していた米CNNテレビが、中国各地で午後5時「日本時間6時」4分から12分まで中断。同時刻のNHKのニュース番組も放映できなかった。中国当局が神経をとがらせているための措置とみられる。

授賞式は12月10日にオスロである。

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米大統領 釈放を要求

オバマ米大統領は8日、劉暁波氏のノーベル平和賞受賞を歓迎する声明を発表し、劉氏を即時釈放するよう中国政府に求めた。中国の政治改革の遅れにも言及し、「すべての男女、子どもの基本的人権が尊重されなければならない」と強調した。

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「中国人権闘争の象徴」 授賞理由

ノーベル賞委員会は2010年のノーベル賞を、中国の基本的人権のために長く、非暴力で活動してきた劉暁波氏に授与すると決めた。ノーベル賞委員会は基本的人権と平和の間に密接な関係があると長く信じてきた。基本的人権は、アルフレッド・ノーベルが彼の遺言に書いた「国家間の友愛」に必須のものである。

過去数十年にわたって、中国は歴史がほとんど同じような例を示すことができない経済的進歩を達成した。中国は今や世界2位の経済大国だ。何億もの人びとが貧困から引き上げられた。政治に参加できる範囲も同じく広がった。

中国の新しい地位は、増加した責任を含むものでなければならない。中国は、政治的権利に関する中国自身の法規と同様に、自ら署名したいくつかの国際協定にも違反している。中国の憲法第35条は「中国人民共和国の公民は、言論、出版、集会、結社、行進及び示威の自由を有する」と定めている。だが、実際は、これらの自由は明らかに制限されていると証明されてきた。

20年以上の間、劉氏は中国でも基本的人権を採り入れようと権力に提唱してきた。彼は1989年に天安門での抗議に参加。2008年12月10日、国連の世界人権宣言60周年を記念して発行された、中国の人権に関する宣言書「08憲章」の主な起草者でもある。翌年、劉氏は「国家権力の転覆を促した」として、懲役11年と2年間の政治的権利剥奪の判決を受けた。劉氏はその判決が中国の憲法と基本的人権の両方に違反するものだと一貫して主張してきた。

中国でも普遍的人権を確立するという政治活動は、中国国内と国外の両方で多くの中国人により営まれている。厳罰を与えられたがゆえに、劉氏は、中国での人権を求める幅広い闘争の抜きんでた象徴になっている。

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(劉夫婦)

「08憲章」の要約

一、前置き

執政集団が権威主義支配を続け、政治の変革を拒むことで、官僚の腐敗や道徳の喪失、社会の二極分化を招き、社会の矛盾と不満が高まり、現体制の立ち遅れは改めなければならない段階に至った。

二、我々の基本理念

自由、人権、平等、共和、民主、憲政

中国では皇帝の時代は過ぎ去った。公民が真の国家の主人公になるべきだ。臣民意識を払いのけよう。

三、我々の基本的主張

①憲法の改正②分権による牽制③立法による民主④司法の独立⑤公器の公用⑥人権の保障⑦公職の選挙⑧都市と農村の平等⑨結社の自由⑩集会の自由⑪言論の自由⑫宗教の自由⑬公民教育⑭財産の保護⑮財政・税制改革⑯社会保障⑰環境保護⑱連邦共和⑲正義の回復

四、結語

中国は大国として、人類の平和と人権の進歩に貢献すべきである。一日も早く自由、民主、憲政の国家をつくり、わが国の先人が求め続けた夢を実現しよう。

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「沈黙したら人権の基準下げる」

ノーベル賞委 決断貫く

「中国は大国として基本的な人権を守る責任がある。目をそらしてはいけない」。オスロのノーベル研究所で8日開かれた発表会見で、ノーベル賞委員会のヤーグラン委員長はそう説いた。

委員会メンバーは元首相のヤーグラン氏ら、ノルウエー国会が選んだ超党派の5人。選考過程は50年間経たないと公開されないが、今年の決定が一筋縄でいかない性質のものだったことは確かだ。

同委員会のルンデスタッド事務局長はこの夏、中国の外務次官から「反体制派への授与は非友好的行為とみなされ中国・ノルウェー関係に影響を及ぼす」と警告されたことを明らかにしていた。

しかしヤーグラン氏は朝日新聞に「劉氏は人権改善を長年求めてきた最も重要な活動家。彼に賞を出さないわけにはいかない」と強調した。

平和賞選考に対する圧力は「毎年のようにあること」と一蹴。委員会が超大国としての米国の役割を折りに触れて批判してきたことも挙げ「我々には大国になった中国を批評し、どうあるべきか問う権利がある」と断じた。

人権活動家らを支援する「後押し型」の平和賞は今回が初めてではない。チベット仏教の指導者ダライ・ラマ14世(89年)や、ミャンマー(ビルマ)の民主化指導者アウン・サン・スー・チーさん(91年)がその典型例だ。

中国の人権活動家も長年有力と目されながら、受賞が見送られてきた。最適なタイミングを待った結果、今年になった可能性もある。

ただ、中国の対応にどう影響するかは未知数だ。ダライ・ラマの受賞後も中国はチベット問題で強硬姿勢を変えていない。平和賞は「単なる声明に過ぎない」(オスロ国際平和研究所のトネソン前所長)との指摘も聞かれる。

ノルウェーと中国は現在、自由貿易協定(FTA)の交渉中で、授賞式のある12月は9回目の二国間会合がある。「委員会は完全にノルウェー政府や議会から独立した存在」(ヤーグラン氏)のはずだが、中国が厳しい対応をとる可能性もある。

それでも、ヤーグラン氏は強調した。「もし我々が皆、経済など自己の利害から沈黙してしまえば、国際社会に受け入れられてきた(人権)の基準を下げてしまう」

平和賞授賞式の12月10日は48年に世界人権宣言が採択された世界人権デーだ。劉氏らの「08憲章」も60年後の08年、この日付で出された。その12月10日の式に、獄中の劉氏も家族も出られない可能性を問われたヤーグラン氏は、皮肉を込めて答えた。「素晴らしい式典になるだろう」。

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社説

平和賞・中国は背を向けるな

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驚異的な経済発展とは裏腹に、民主主義や人権を大切にしてこなかった中国の指導者に、痛烈なメッセージが突きつけられた。

中国の民主活動家で作家の劉暁波氏に、ノーベル平和賞が授与されることになった。1989年の天安門民主化運動にかかわり、それ以来暴力など過激な手段を使わず、言論活動一筋に民主化を求めてきた人物だ。

ノルウェーのノーベル賞委員会は、こうした活動を高く評価した。

北京五輪のあった2008年暮れ、劉氏は共産党独裁の廃止など根本的な民主化を訴える「08憲章」を起草した。そのことと党や指導者に対する批判が、「国家政権転覆扇動罪」に問われて懲役11年の判決を受けた。今は東北部の遼南省で獄中にある。

劉氏が平和賞の知らせを聞くことができたかは定かでない。少なからぬ国民も、当局による報道規制のために知らずにいるかもしれない。しかし、早晩、授賞の知らせは中国で広がり、劉氏らとともに民主化につとめてきた人びとへの大きな励ましになるだろう。

ノーベル賞委員会によれば、中国当局は「反体制派への授与は非友好的な行為とみなされる」と警告していたという。だとすれば、急成長する経済や軍事力の増強による「大国意識」を背景にした強権的な一面が、ここでも表れたといえる。

しかし委員会は中国側の圧力に屈しなかった。高く評価したい。

中国当局は、政治的信条の平和的な表現を認める、自らも署名した国際規約に反し、言論の自由などをうたった中国憲法にも反している。委員会はそう厳しく批判し、中国の責任の大きさを指摘した。

尖閣諸島沖の衝突事件や南シナ海での行動は、中国がルールに従わない国という警戒感を国際社会に与えた。

経済の相互依存が強まるなかで、国際社会は中国による普遍的価値の侵害に目をつぶりがちだった。人権問題を重視してきた欧米諸国も、最近は中国との関係維持を優先させていた。先のアジア欧州会議(ASEM)首脳会合でも厳しい注文はつけなかった。

そうした風潮の中でのンーベル賞委員会の決定は、とりわけ先進国への警鐘として重く受け止めた。

中国外務省は「劉暁波は中国の法律を犯しており、その行為は平和賞の趣旨に背いている」と批判し、ノルウェーとの関係悪化も示唆した。民主活動家らへの国内での締め付けが厳しくなることも心配だ。

内外での強硬な姿勢をとることは、長い目で見て中国の利益にならないだろう。経済発展を続けても、普遍的な価値を大切にしなければ真の大国として認められないことに、中国当局は早く気づかねばならない。

2010年10月11日月曜日

小沢氏強制起訴へ

小沢さん、民意を甘くみない方がいいですよ。まして、貴殿には神の声なんて聞きとれないでしょうが。

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(佐々木順一撮影)

小沢一郎・民主党元代表の資金管理団体「陸山会」の土地購入を巡る政治資金規正法違反事件で、東京第5検察審査会は4日、小沢氏を04年、05年分の政治資金収支報告書の虚偽記載罪で起訴すべきだとする「起訴議決」を公表した。これにより、小沢氏は強制起訴されることが決まった。審査会は関与を否定する小沢氏の供述を「信用できない」と判断した。小沢氏の進退を問う声が高まることは確実で、政権に大きな打撃を与えるとみられる。(20101005 毎日朝刊、一面より)

 

東京第5検察審査会は、小沢氏を起訴すべきだと「起訴議決」をしたと公表した。国民は裁判所によって無罪なのか有罪なのかを判断してもらう権利があって、検察官が起訴をちゅうちょした場合、国民の責任において刑事裁判で黒白をつけようとする制度である、よって、真相を法廷で明らかにすべきだ、とした。

議決の骨子(読売新聞20101005、一面より) ★虚偽記入した政治資金収支報告書の提出について小沢氏に相談し、了承を得たとする元秘書2人の供述は信用できる。 ★土地購入資金4億円の出所についての小沢氏の説明は著しく不合理で到底信用できず、虚偽記入の動機があったことを示している。

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ここにきて大物政治家・小沢氏の強制起訴になったことを機に、この検察検査会の制度設計に問題があるのではないか、と政治家、とくに与党の間で話題になってきた。かって、2004年の検察審査法の改正法案に賛成した民主党の議員からも批判が噴出。確かに問題は抱えているようだが、今、ここで見直しを迫るのは性急だ。この新制度の理念は、後ろの方の立花氏の寄稿文を読めば十分だ。先ずはその理念を再確認することだろう。

障害者用郵便不正事件においては大阪地検特捜部の主任検事が証拠隠滅容疑で逮捕された。最高検が、地検の特捜部の検事を取り調べるなんて、到底普通の感覚では考えられないことが起こり、検察に対する不信に火が点いた。検察の信用が地に落ちた。そんな検察を長年、裁判所は厳しくチェックするどころか増長させてきたのだ。検察にはおごりがあり、裁判所にも重い責任がある。

そこで、市民が声を上げた。民意が、検察審査会が起訴議決したのだ。

私は、小沢氏を信用してないし、検察も信用できない。起訴するもしないも、検事のサジ加減一つということもある。事件の真実を知りたい、小沢氏からきちんと説明をしてもらいたい。

今回のこの強制起訴では、有罪、無罪を決めることになるのでしょうが、その過程で私は真相が明らかになること望む。小沢氏の資金の出どころの供述が余りにも転々として、それが腑に落ちない。巨額な資金を、どのように調達したぐらいは、本人なら分りきっているではないか。私の記憶にあるのは、当初、相続したお金を現金のまま自宅に何年もしまってあったとか、紙袋に入れて秘書に渡したとか、市民の日常生活では、想像もつかない話ばかりが伝わっていた。一転、いや、あれは銀行で借りたお金だ、と言い出した。ところで、某ゼネコンから頂いたのは、何処にしまったっけ。秘書が勝手に収支報告書に虚偽記載したというが、責任者である小沢氏は報告も受けてないし、まして了承もしていないなんて、本当にアリか?常識的には、小沢氏の指示、もしくは承認の上で虚偽記載をしたのだと思うけど、どうだろう?小沢氏と秘書らが、鳩首、大いに打ち合わせをしていたと考える方が自然だ。小沢氏は自分の秘書に、そんなに裁量を与えていたとは思えない。

そんなことを考えながら、スッキリしない日々を過ごしていたーーーら、今回の検察審査会の議決が公表された。検察審査会の仕組みとあり方について、私にもよく理解できる文章を日経新聞と朝日新聞で見つけた。

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その1は、日経新聞20101005 「春秋」よりーーーー暗闇の中に、突然リンの火のような青い光がぼうっと浮かび上がる。黄金色の葉の樹木がずらりと並び、一斉にこずえを鳴らし始めるーーーー。宮沢賢治が「学者アラムハラドの見た着物」という小品で、こんな幻想的な情況を描いている。

教師である主人公は、森で11人の子どもを教えていた。火や水の性質を説き、小鳥の特徴を学ばせる。火は熱く、水は冷たく、鳥は飛ぶ。では人間の特質とはなんだろう。「人は本当のいいことが何だかを考えないではいられないと思います」。一人の生徒がそう答えたとき、感動した教師は遠くに美しい光を見る。

検察審査会が、民主党の小沢一郎氏の強制起訴を決めた。11人いる審査員の心境は、ただ素朴に真理を知りたいと思う森の子どもに似ているかもしれない。法律家ならば、起訴する理由も、起訴しない理由も挙げられるだろう。だが専門家の判断は、時に「本当のことを知りたい」という国民の原点からかけ離れる。

うん。そうだ。人は善を愛し、道を求めないではいられない。それが人の性質だーーー。小説の中で、教師は自分に言い聞かせるように語る。原稿はこの後、天気が急変した場面で空白となり、未完のまま終わる。作者が願う通りに、物語が進まなかったのだろうか。結末を想像しつつ、事件に光が差すことを願う。

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その2は、朝日新聞20101009の「耕論、強制起訴」立花隆さんの文章だ。立花氏は評論家でジャーナリストだ。検察審査会のことを述べていた。

題は、民意は検察権力の上に立つ。

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小沢一郎の強制起訴で、日本の司法制度は大きく変わる。日本では起訴の権限を検察官が独占していた(起訴独占主義)。しかも検察官はその権限を恣意的に行使してよかった(起訴便宜主義)。そこに検察官の絶大な権力の源泉があった。それがつぶされ、検察の恣意的な検察権行使に市民がノーといえることになった。

これは、裁判員制度によって裁判に民意が導入されたのと、同じくらい大きな変革だ。裁判員制度は、英米の陪審員制度を日本風にしたものといってよいが、検察審査会による強制起訴の導入は、アメリカの大陪審制度を取り入れたものといえる。ある事件を起訴するかどうかは、抽選で選ばれた陪審員たちが犯罪の輪郭を示す証拠を検察官から教示された上で、議論して決める。要するに、今回の検察審査会と同じだ。

今回の強制起訴に対し、プロの検察官が二度も「起訴せず」と決めたことを、ド素人の集団がひっくり返すのはおかしいという意見がある。これは前時代的な考え方だ。いま世界の司法制度は、こうこうとより多く民意を取り入れる方向に向かいつつある。公訴提起の主人公は誰か、国民主権国家では当然ながら国民だ。

かって検察官は天皇の直属の官吏だった。天皇の名の下に国家を代表して公訴を独占した。しかし、国民主権国家では検察官は国民意思の代行者になる。公訴提起に国民の意思が反映するのは当然だ。

国民主権主義なら起訴の是非も裁判も、検察側と弁護側が陪審員の面前で甲論乙駁(こうろんおつばく)を繰り広げ、陪審員が判定を下す当事者主義こそ本流。日本もそちらに向かいつつある。民意が多数で示されればそこに神意が宿って公正な裁きとなる。VOX POPULI VOX DEI(民の声は神の声)が民主主義の基本原理なのだ。

この事件の前半は、捜査現場の検事たちと検察上層部の検事たちとの間で、小沢起訴をめぐって、激しい論争があった。「絶対勝てるという120%の証拠が必要」とする検察上層部と、この程度で証拠は十分、あとは法廷で争い裁判所の判断を仰ぐべきだとする現場の検事たちの主張が正面からぶつかり合った。

最終的に検察上層部の意見が勝ち「不起訴」になった。今回の検察審査会の議決は、捜査現場の検察官たちの主張とほぼ同じ。彼らの逆転勝利ともいえる。

検察官がなぜこれまで検察審査会の「起訴すべし」の議決を受けて再捜査しても結論を変えなかったのか。検察には「同一体の原則」があり、一度決定を下すと他の者がそれを変えられないのだ。再捜査は形式に終始し、形式的結論を出さざるを得なかった。検察審査会の強制起訴によって事件はようやく原点に戻った。

事件のポイントはただ次の一点にかかわる。政治資金収支報告書の不実記載は全部小沢の秘書たちが勝手にやったことで、小沢は何も知らなかったのか否かである。強制起訴の議決がいうように、小沢が何も知らなかったはずがないという証拠と傍証は山のようにある。これは起訴しないほうがおかしい。あとは本気でやる気がある弁護士たちが検察官を代行し、補充捜査たっぷりしたうえで裁判にのぞむことだ。(寄稿、敬称略)

2010年10月9日土曜日

タジン鍋

昨日の夕方、サッカーの日本代表とアルゼンチン代表の試合が19:00から始まるので、そのキックオフの時間が気になってしょうがなかった。私は伊勢原からの帰り。東名高速道路が一斉工事中で込み合っていたので、246号線も避けて、用田を通って戸塚方面へ、そして栄区飯島町に向かった。会社に寄る時間はなかった。

住宅地の開発を計画しているのです。16区画の宅地分譲です。

家に着いたのはすっかり夜の18:30頃になった。キックオフのホイッスルが吹かれるまでに、食事を済ましておきたかった。女房と三女が、なんだかんだと騒ぎながら夕飯の用意をしていたのですが、そこで初めて目にしたのが、タジン鍋だった。「タジン」が憶えられなくて、何度も聞き直して娘から嫌がられた。モロッコの国では、一般的な家庭料理に使われている土鍋だそうだ。

上の写真に写っているのが、タジン鍋です。

我が家では、温野菜をするのを目的に購入したようです。我が家の物と写真とはそんなに形は変わっていません。ネットのWikipediaから拝借しました。

受け皿状の鍋に野菜や肉類を載せて、トンガリ帽子のような円錐状の蓋をかぶせて、コンロなどに乗せるのです。モロッコでは水が貴重で、水なしで料理ができるように工夫を凝らしたのでしょう。食材から上がる水蒸気や香料やハーブななどに含まれる香りの成分が、冷たい蓋の部分で冷やされて、再び水滴になって食材に戻ってくる。

昨夜、我が家で初めて使ったのですが、野菜を山盛りにして蓋をしました。最初のうちに少しの水を入れた方がいいようでした。

昨夜は野菜だけで何も味付けをしなかったのです。それが好かった。それぞれの野菜の本来の味や風味を楽しむことができました。南瓜(カボチャ)、玉葱(タマネギ)、舞茸(マイタケ)、他にも何やら入っていたけど、喉元を過ぎれば、まして昨夜のことだ、な~んにも憶えてない。私には確実に老化が進んでいるようだ。ウインナーソーセージはあった。これは、ちゃんと憶えている。タレは醤油風にしたものでいただきました。女性陣は、ゴマ風味で食していた。

ところでモロッコという国は、どこにあって、どんな国だったっけ?正式にはモロッコ王国と言うらしい、通称はモロッコだ。今でこそ性の転換手術はタイあたりが有名だけれど、かってカルーセル麻紀さんがこの国で手術なされたそうだ。その方面では先駆的な医師がいたようです。

地図の説明

2010年10月7日木曜日

休日は、長閑(のどか)に

今日は水曜日、弊社の営業部は全員休日だ。できるものなら、長閑に過ごしたいものだ。

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09:00から、相模原の北里大学病院前で運営しているバジェットホテル=パラデイス イン 相模原の敷地内のサツキの生垣の間に生えている雑草取りをした。気分転換としては、最高の方法だ。

休日だからこそ、時間を気にしないでのんびり作業ができる。休日と言っても、何かをしないと気がすまないのです。腰を屈(かが)めて、下を向いて、雑草を根こそぎ引き抜くのですが、少し作業をしただけでも、すぐに腰が痛くなる。腰を伸ばして空を仰ぎ、汗を拭(ぬぐ)う、それの繰り返しだ。

私の生家は農家だ。今でこそ農業は機械化が進んでいるけれど、私が小学校に入る前までは野良仕事の何でもかんでもが手仕事だった。田植え、田畑の除草、種や肥料を撒いて、稲を刈って日干しをして、それ以外の肉体労働も過酷だったろう。傾斜地の茶畑の世話から収穫、これも大変な重労働だったろう、と偲ばれる。

生垣の根元からは、むうっとする熱気を帯びた空気が、時々頬を撫ぜる。樹木や雑草の生気か?呼吸熱なのだろう、生ぬるい空気の塊が移動しているようだ。雑草やサツキも健気(けなげ)に生きている。建物の陰になっている所は、地面が湿っぽい。この部分にはシダ系の草が多く、生えている草の種類は少なく、シダ系以外のどの草もひ弱だ。地表からは窺(うかが)い知れないが、地中の生物や微生物も、陽の射している部分と陰の部分では、違うのだろうか。ミミズは湿った地面の方が好きなんだろうな。

徒然(つれづれ)なるままに、ミミズに係わる四方山事でも書いてみますか。のんびりした休日でありたいものです。クッキーと紅茶でもあれば、尚更寛(くつろ)げるのに、周りには誰も居ない、何もない。パラディス イン 相模原のミミズは実にのんびりしていました。羨ましいぐらいに。

子供の頃、ミミズにオシッコをかけるとチンチンが腫れるよ、と言われたことを思い出した。これは、畑の土に養分をもたらしてくれるミミズに、オシッコをかけるようなことをしてはイカンということだったのだろう。父は、畑でミミズを見つけると、必ず私に言ったものです。

生家の田んぼに引き込まれていた用水路の上流にため池があった。池と言えるほど十分広いものだった。用水路でも、田螺(タニシ)、泥鰌(ドジョウ)、蜆(シジミ)が取れた。たまには鮒も泳いでいた。そのため池に、私は従姉弟に連れられて鮒つりによく行った。その時の釣りの餌が、ミミズだった。野菜の屑の捨ててあるところとか、牛の糞や稲の藁などの腐ったところで大小いろんなミミズを捕まえてマッチ箱に詰めた。そのミミズを釣り針に引っ掛けるのが難しかった。

毎朝、05:00から二匹の犬と散歩を楽しんでいるのですが、ミニチュア・ピーシャの方が道路に干からびたミミズを見つけてはしゃがみこみ、その干からびたミミズに自分の首の辺りをこすりつけるのです。恰(あたか)も、女性が首に香水を吹き付けるように。この謎は、未解決のままです。

今から30年ほど前、私の次兄が誰に唆(そそのか)されたのか、長兄から借りた畑でミミズの養殖をしたことがあった。この次兄は真面目一方の立派な人で?思いつめたら誰もが仰天するほどのことを、いとも平気にやり遂げるという一途(いちず)さは、他の兄弟にはない天賦の恵みを一人占めしていた。サラリーマンだったのですが、休日を利用して一攫千金の夢を見たようです。ミミズの卵か、幼虫を買って成育させ、成虫になったら卵か幼虫を買ったところに売ることになっていたのです。売値も決まっていた。ところが、2年経ち、3年経ちミミズは立派に成育したものの、買ってくれる会社は倒産して、そのままのチョン切りになったのです。いったい、成長したミミズを何にすることになっていたのだろうか、この話はいつの間にか親族間では禁句になった。30年前、幾らほど投資したのだろうか。

引き抜いた草はそのままにして、陽に晒しておいた。1週間もすれば草の水っ気はすっかり蒸発して嵩(かさ)が減って、処理するのに都合がいいのだ。田舎育ちの知恵だ。この処理はホテルのスタッフに頼んできた。

11:30。自宅に戻ってシャワーをして着替えた。三女が作ってくれたラーメンを食って出勤。

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17:20。孫・晴を保育園に迎えに行った。孫は、私が迎えに行くと大層喜んでくれるので、此の頃水曜日のお迎えは、ジジイである私の仕事になった。サッカーで遊んでくれるのが嬉しいらしい。私にとっても、週に一度の30分ばかりのサッカーは楽しい。体も嬉しいようなのです。

公園に着いてジャンケンをした。勝った方がシュートをして、負けた方がキーパー役、それを交互に交代するのです。キーパーの背にはコンクリートの壁があり、適当な間隔にある樹木がゴールポストだ。

ジャンケンに勝った私はシュート側だ。ボールはいつものように柔らかくない、しっかりと空気が詰まっていて、子どもにはちょっと硬めかもしれないが、私には丁度の硬さだった。一発目、右からの20メートルのシュートは壁に強く当たって戻ってきた。孫は、ボールの強さに目を丸くして驚いた。2発目、左のキックも強烈に壁に当たって跳ね返ってきた。孫は、ジジイ、強過ぎるよと、言った。今日、私はボールの感触が異常にいいことに有頂天になっていた。身も心も軽い。浮かれていた。

こんなにむきになって、ボールを蹴ったのはこの20年間では、一度もなかった。軽く孫と蹴り合うことはあっても、今日はどうかしている。体が自然に動くのです。

その次がいけなかった。壁から戻ってきたボールは、適当な高さで弾んで戻ってきた。ここで、やってしまったのだ。ボールは左のボレーキックにはピッタリの高さと強さ、絶好球だった。地面から1メートルほどの腰の高さだ。軸足の膝を少し曲げて弾力を保ち、上体を右に倒し、左足を横から幾分下に抑え込むように、足の甲にぴったりボールを受け、フルスイングで振り切った。距離は25メートル、イメージ通りのキックだった。

ボールを蹴った瞬間に、蹴り足の脹脛(ふくらはぎ)の筋肉なのか腱なのかバリっと裂ける感覚があった。蹴り足に地面に着けないほどの激痛が走った。ボールは理想的な弾道でコンクリートに激突した。

なんちゅうことだ。62歳がむきになって、体の老化も省みず、よくもそこまで力強く蹴れたものだと喜びながらも、その喜びの代償は、大変な痛手を被ることになった。

それにしても、よく蹴れたと嬉しく思っている。痛い足を引きずりながら、芋虫状態で、それでも孫との遊びは最後まで付き合った。孫は、不具の私をかばってよく動いた。遠くに飛び去ったボールも嬉々として追いかけた。

18:00 帰宅した。女房や子ども達に笑われた。

この出来事を本気で悔やんだのは、今週末、孫の幼稚園の運動会で、孫の父親とジジイの私とで障害物競走で競い合う約束をしていたことを思い出した時だった。昨年は負けたのです。今年こそ雪辱を晴らしておかないと、これからの私の老後に悪影響が出そうだ、と懸念した。そのうち、絶望的に負けるのだろうが。でも、まだ若い奴等にナメラレてはたまらんのだ。

脹脛(ふくらはぎ)に経皮吸収型鎮痛消炎剤?入りの湿布をぐるぐる巻きにして寝ました。痛みや腫れを抑える有効成分(フエルビナク)を含有しています、と説明書が添えられていました。

休日は長閑でのんびりしたいものです。