2007年4月27日金曜日

ボリビア 新憲法制定に”戦争放棄”

大統領が見た「伝統の国」日本  

朝日新聞  2007年4月某日
                                                                 ボリビア                    石田博士(著)


 「私の人生の中で、あれほど素晴らしい部屋に宿泊できるなんて考えたこともなかった。本当に驚いた」
3月に訪日したボリビアのモラレス大統領(47)は、都心の高級ホテルのスイートルームに宿泊し、その豪華さともてなしに感嘆したという。
モラレス氏は昨年1月、先住民として初めてボリビアの大統領になった。訪日前に大統領公邸でインタービューした時は、半袖シャツ姿にサンダルという素朴な格好だった。
山岳地帯の貧しいリャマ飼いとして育ち、兄弟の多くを飢えで亡くした。干ばつを逃れてたどり着いたコカ栽培地域で軍の弾圧を受け、政治に目覚めた。
 モラレス氏は、天皇とも会見した。宮内庁によると、大統領はこうした自らの生い立ちを語り、「お目にかかれるとは、思ってもみなかった栄誉です」と何度も繰り返したという。
モラレス氏がアイマラ族出身であることを語ると、天皇は「太陽の門を作った民族ですね」と応じられた。歴史、文化について話は盛り上がり、会見予定の30分から10分ほどのびた。
南米を歩いていると、ときどき「日本はすごいな」と褒められることがある。「インカなど中南米の先住民は征服されたが、同じモンゴロイドである日本人は生き残った」というのだ。
ボリビアは16世紀にスペインに侵略された。それ以来、豊富な鉱物資源を輸出するものの国内産業は育たず、南米の最貧国に甘んじてきた。一方、日本は高い技術力と勤勉さで資源の乏しさを補い、欧米と並ぶ先進国として繁栄をつづけてきた。
モラレス氏の目に、天皇は「滅ぼされなかった民族の皇帝」と映ったのかもしれない。
16世紀のスペイン,ポルトガルによる大航海時代、そして18~19世紀の産業革命。欧米から起きたこの二つのグローバル化の波に,南米も日本も洗われた。
インカ帝国の最後の皇帝アタワルパが侵略者に処刑されたのは1533年だ。南米は植民地になり、先住民は鉱山や農場で酷使された。日本にも、1549年に宣教師ザビエルが訪れ、南蛮文化が流入した。アジアでも、フイリッピンはスペイン領になった。
黒船が来航し太19世紀、アジアが植民地化されるなかで、日本は明治維新により近代国家への道を歩んだ。南米諸国は同時期にスペインから独立したが、戦いを率いたのは現地生まれの白人で、先住民は支配され続けた。
そして21世紀。IT革命と米国一極支配の波に世界が洗われる中で、先住民大統領は登場した。
資源国有化などの政策から「急進左派」と表現されがちだが、発言を注意深く聞くと、欧米諸国によって破壊されてきた伝統的な共同体を回復するという色彩が濃い。
就任式前日には、「母なる大地の女神」への信仰を保つ先住民から、祝福の儀式を受けた。彼らの信仰は対象が自然であることなど、神道と共通する面もある。
その意味で、「美しい国」を掲げる安倍首相と同じ「保守主義者」ともいえる。
モラレス氏は安倍首相との会談で、両国の共通点を「人々が手に手を取って平和に生きる社会」と語った。8月制定の新憲法に、日本国憲法9条と同様の「戦争放棄」を盛り込む考えも示した。
欧米と異なる伝統を大事にしつつ、平和尊重や環境の面で世界の模範となる価値観を保つ国。日本をそう讃えるモラレス氏の言葉は、憲法改正をめざし対米依存外交を続ける首相に、どのように響いたのだろう。

2007年4月26日木曜日

俊輔、君の活躍が、俺を究極に刺激する

俊輔、凄いぞ。 心技体 チームの柱
 
スコットランド・プレミアリーグでセルティックのMF中村俊輔は、2年連続41度目の優勝を決めた22日のキルマーノック戦でも勝利の原動力になった。CKから先取点を演出し、同点で迎えた後半ロスタイムにFKを直接決め、敵地で2-1の勝利に貢献した。
 決勝ゴールを決め、ユニホームを脱いで、それを振り回して、喜びを表す中村の雄姿が、大きく新聞に取り扱われている。満面破顔、ぐちゃぐちゃな笑み。こんな顔をして、観衆の前を走りまくる中村を、私は初めて観た。このFKは値千金、すばらしかった。そのことが余程嬉しかったのだろう。
Jリーグ発足後、優秀な選手が育ち、海外の各チームで活躍している選手が増えてきた。工業先進国としての日本は、サッカーではまだまだ発展途上国だ。
サッカーにおいても、他国をアット驚かせる選手が、どんどん輩出してくれることを、願うばかりだ。そうなりゃ、サッカー好きなオジサンにとって、嬉しいかぎりだ。
この中村の活躍は,サッカー好きな子供にとっても、最大のプレゼントになろう。
ところがジャ、日本にはそんな賛辞とは全然関係なく、私のような感傷的な人間ではけっしてない、オシム監督が控えている。浮かれない。怖い顔して、中村のチェックを怠り無いですぞ。注意、注意。
 
中村は、プレミアリーグの全試合に先発して9得点。決勝トーナメント1回戦まで進んだ欧州チャンピオンズリーグでも、全8試合に先発して2得点。数字だけでもふさわしいが、印象的なプレーが今季の年間最優秀選手をさらに特別にした。
年間ベストゴールにも選ばれたのは12月26日のリーグ戦、ダンディー・ユナイテッド戦での同点ゴール。1-2とリードされ敗色濃厚だった試合の終盤に、相手GKの頭上を越すループシュートを決めた。



ストラカン監督は「中村以外は勝負をあきらめたように見えた」と話していたそうだ。これをきっかけに、チームの精神的な主柱としても認められるようになった。
 日本人が今まで受賞したことのない欧州のリーグでの年間最優秀選手。
とかく経済的効果という付加価値付で日本選手を評価してきた欧州のクラブが,見方を変えるきっかけになるかもしれない。
 スコットランド・プレミアリーグは、イタリアやスペインの激しく「けずってくる」サッカーとはちょっと違う、が。フジィカル面で問題があると批評されている中村が、よくぞ、よくここまでやってくれたと思う。
 

2007年4月24日火曜日

今度で3回目の「罪と罰」だ

4回目の「カラマーゾフの兄弟」を読み終えた。そして、3回目の「罪と罰」の上巻を読み終えた。今、下巻半ば突入です。

カラマー親子のエネルギーには、ふらふらにさせられた。

次は、ラスコーリニコフとの戦いだ。こいつも難敵だ。

カラマー親子問題を読み終えたときは、しばらく本から遠ざかりたいと思ったが、間もなく「罪と罰」を手にしてしまった。少し休憩時間が必要だったかも。

余程、私はドスト親爺が好きなようです。

 

 

新潮文庫/「罪と罰」ドストエフスキーのカバーより。

鋭敏な頭脳をもつ貧しい大学生ラスコーリニコフは、一つの微細な罪悪は百の善行に償われるという理論のもとに、強欲非道な高利貸しの老婆を殺害し、その財産を有効に転用しよう企てるが、偶然その場に来合わせたその妹まで殺してしまう。この予期しなかった第二の殺害が、ラスコーリニコフの心に重くのしかかり、彼は罪の意識におびえるみじめな自分を発見しなければならなかった。

 

 

ドスト親爺はどこまでも、人間の心を描き続けることに精を出す。その精の出し方は、彼以上の人を知らない。

彼は、「魔物がつかないと、書けない」と言っていたそうです。魔物が彼をつき動かしているのでしょう。私も気を引き締めて、読み進みますぞ。

今、私は「ソーニャ」さんに泣かされている。

ラスコーリニコフは、所詮、陰湿な素浪人なんだろうが、人殺しの立場に身を置きながら、いろんなことに遭遇しては、真実を希求する。

殺人者としての自分は?

善良な人とは?

悪人は?

家族は?

神は?

愛は?

真は?

 

 

小説「罪と罰」は下巻の半ばを読書中です。

 

 

2007年4月19日木曜日

安倍さん、それでも、まだ、従軍慰安婦は狭義の強制性はなかった?

それでも、まだ、安倍首相、「従軍慰安婦は、狭義の強制性はなかった」と言い張りますか。日本国がサンフランシスコ平和条約で戦犯裁判を受諾したものを、総理は認めないのですか。
安倍首相たちは、従軍慰安婦について、当初定義されていた、強制性を裏づける証拠はなかった、なんて言い続ける意図は何なんですか。
強制性がなかった、ということになったら、何か都合のいいことでもあるのですか。
「美しい日本」にするために、日本がかって戦争で犯した行為を、薄めたり、なかった事にしようとしたりして、そんなことで、美しい日本は創れるのですか。
私は戦後生まれです。戦争を知らない世代から、何かが壊れ出しているのではないかと危惧する。
戦争で苦労された先輩たち、戦争の恐ろしさを戦争の知らない世代に、もっと激しく教えて欲しい。
戦争は二度と繰り返してはならないのです。
首相が、首相のお友達が、首相こそが危険な人間になろうとしているのではないのか?


 朝日新聞から一部転載した。
「従軍慰安婦」問題に関する米下院、韓国国会や台湾立法院でも、日本に明確な謝罪ときちんとした対応を促す同趣旨の決議が採択されている。安倍総理や麻生外相は「狭義の強制性はなかった」「事実誤認」と主張しているが、根拠は薄弱だ。
東京裁判に提出された各国検察団の証拠資料の中から、占領支配したアジアの女性が日本軍に強制的に慰安婦にされたことを示す尋問調書などを、林 博史・関東学院大学(現代史)が確認した。裁判で証拠として採用されたもので,東大社会科学研究所図書館に所蔵されている。
東京裁判には、日本軍によるアジア各地での住民・捕虜殺害など具体的な残虐行為を立証するために膨大な証拠資料が提出された。今回、林教授が確認したのは、オランダやフランス、中国など各国の検察団が提出した調書や陳述書など。
一連の資料について林教授は「これらは各国が作成した公文書であり、判決でも強制したことが事実認定されている。
サンフランシスコ平和条約で戦犯裁判を受諾した日本には、これらの文書の意味は無視できないだろう」と話している。
 東京裁判=極東軍事法廷 

2007年4月18日水曜日

島尾敏雄 「死の棘」 と ミホさん

朝日新聞の「惜別」に、島尾ミホさんの訃報とミホさんの人柄を紹介している記事を見つけた。島尾ミホさんと言ったって、私はミホさんのことは知らなかった。 が、島尾敏雄さんの最愛の妻で、私をがっつうんと打ちのめした「死の棘」のヒロイン?としてのミホさんだけしか知りませんでした。彼女が作家だったということも、知らなかった。
15年程前、友人に、映画「死の棘」を観に連れて行ってもらった。強烈なショックを受けました。
それから、友人は本「死の棘」を貸してくれました。またまた、強烈なショックを受けました。
ミホさんの訃報を知って、連想が、島尾敏雄に、「死の棘」につながって、強い感銘を受けたことが蘇り、みなさんも読まれてはいかがかな?と思いついたので、キーボードを叩き出したのです。
 昭和20年代の末。
夫で作家の敏雄の不倫が原因で、妻・ミホが狂った。狂って、狂って、狂う。
敏雄は、責められる。夜、昼おかまいなしに、来る日も来る日も、責められる。ミホは、心因性神経症だった。少し穏やかになったからと、一息はつけない。間もなく、以前よりも激しく、狂ったミホが、敏雄さんを責める。
ここで、私は実感する。私の筆力では、「死の棘」について、書く資格はない。
割と世間ではよくある話のようにしか表現できない。でも、この夫婦は、特別なのです。そのすさまじさは、本を読んでもらわないと、どうにもならん。
敏雄は、その全てを日記に書き込む。そしてそれは、後日「死の棘 日記」として05年に刊行された。私は、まだ読んではいない。
この至上の苦しみを、せめて日記に書き込むことで、島尾は精神の安定の維持を図ろうとしたのか、その日記を検証したいと思っている。
 演劇「死の棘」を演出した鐘下辰男氏の「上演にあたって」では~
妻の異常さのみが語られることが多いが、しかしこの夫婦が通常の夫婦と決定的に違うのは、妻の狂気に徹底的に行動を共にする敏雄の異常さにもある。
それは、最終的に精神病院へと入院する妻に、この夫は子供を親戚に預け、自らもその精神病院へ妻の付添い人として入院するのに現れている。
この夫婦の、こうした特異性は、夫が経験した戦争体験=特攻隊であり、そうした異常な時間の中で出会ったという出来事が影響していると思われる。
小説家・島尾敏雄氏が本来もっている人生観、世界観や、奄美という古来の日本の民族性を色濃く残している土地に育った妻ミホというこの二人が持っている特異性も重要に関与しているのではないだろうか。 


 映画「死の棘」
原作・島尾敏雄  
監督・小栗康平
出演・松坂慶子 岸部一徳 平田 満
1990年度作品 同年カンヌ映画祭で「グランプリ・カンヌ」(国際批評家連盟賞)をダブル受賞、その他数々の賞を獲得した。松坂は終始ノーメイクで、話題になった。


 2007年4月13日 朝日 朝刊 
「惜別」よりダイジェスト           編集委員・白石明彦
2007年3月25日 作家 島尾ミホさんがなくなった。享年87歳
昨年「新潮」に「御跡慕いて」を発表した。敗戦の年の秋、復員した島尾(夫 島尾敏雄のこと)を追い、特攻艇を操縦して島を脱出しようとした話だ。《生きて島尾隊長さまにお目にかかりたい》戦後61年を隔てながら、若い恋の熱気が伝わってきた。
著書「海辺の生と死」「祭りの裏」には太古の自然と民族が残る南島での幼児体験が描かれている。その語り口に島尾は《対象をどこまでも見つめて厭くことのないひたむきな目なざし》を感じた。それは夫を語る時のまなざしでもあった。
神経に異常をきたした妻との極限の愛が描かれた島尾の代表作「死の棘」の元になる日記を刊行したのが05年。あの壮絶な記録を「島尾の愛妻日記」と呼ぶミホさんにまた身震いした覚えがある。本のゲラをファクスで送り終えたときは、島尾が横で正座しているのを幻視したという。
   


    

 

 

2007年4月16日月曜日

アーバンビルド ホテル物語(その1)

1179729195.jpg


アーバンビルド ホテル物語(その1)


 「何故、御社がホテルなのですか?」 とこの頃よく聞かれるので、なんで、こんなことになっちゃったのかを、土地の取得の経緯から振り返って、文章を綴ってみたいと思った。
第1部
ことの発端は、弊社が町田市下小山田で8区画の土地分譲を行ったのですが、この土地情報を提供していただいたのが、不動産屋・金丸さんというオジサンで、どういうわけか小見取締役と異常(注意、非常にじゃないのですよ,異常なのです)に仲良くなってしまったのです。それはそれは、可笑しいほど親密で、熱い交流は百万ボルトの火花が炸裂するほどの過激さ。同時期に併行して、別の大型の開発現場のこともあったから、尚更だった。
金丸さんは、町田市下小山田の現場では、どうしても自分の友人でもある工務店・家建を少なくとも2棟は使ってやって欲しいと申し出があった。予算と仕様、精度が弊社基準に達してさえいればいいですよ、と了承した。
それからは、小見取締役と不動産・金丸さん、工務店・家建さんの三つ巴の交流になった。その三者の愛情ドロ沼状態の中から、この「ホテル用地」が産声を挙げたのです。
工務店・家建さんが以前に住宅を建てたお客さんが、所有している土地を、処分したいので相談にのってくださいと言われているんです、ということだった。その土地が、まさしく我々の「ホテル用地」になったのです。
その土地は、丁度北里大学病院の真っ正面にあって、交通量の非常に多い県道に面している。小見取締役と私は、具体的には何用の土地か?ずばっと言い切れないが、何かの可能性は秘めていると直感した。いこう、買おう、大丈夫だよ、やるしかない、ということになった。
購入資金は、とりあえず1棟売りの賃貸用マンションを建てて売却するという事業計画で、融資を受けた。買ってしまえば、なんとかなる、と堅く信じていた。
ところが、不安はなかったけれども、なかなか確固たる企画が立たないもどかしさは付き纏った。
そうこうしているうちに、数ヶ月が過ぎた。
現場には、「アーバンビルド管理地」の看板を出した。
時の経過と共に、小見取締役と私は、知らず知らずのうちに、誰でもいいから、早く買い手がついてくれたら、と思い始めてきた。
ここに、騎士・伊藤資郎さんの登場です。
その土地は、ホテルに向いているのではないだろうか?と提案してきたのだ。我々は、その提案を聞かされた時、そりゃなんのこっちゃ、と理解できなかった。
私は、神奈川県不動産のれん会の会員のワタヤ商事・加藤社長さんにも、こんな話があるんだけれども、と何気に漏らした。加藤さんは、相模原・町田をホームグラウンドに活躍している不動産屋さんだ。伊藤さんの提案を第三者にも確かめたかったのです。加藤社長は、その話は割りと当を得てるよ、面白い、俺にも親しいビジネスホテルをやっている会社の専務さんがいるので、その土地のことを話してもいいですか、ときた。そうしたら加藤社長の方に、びっびび、と感度を示してきたのが、あの有名なビジネスホテルの雄、西京インだった。ビジネスホテル業界では、文句なくチャンピオン会社だ。日本全国の駅前を中心に展開してきたのだが、土地代金の高騰、駅前開発の活況で出店が減速してきており、この現場を郊外進出の一発目にしよう、と専務さんは頑張って、社長を説得するという段階まで進んだ。
かたや、伊藤さんの方の話もどんどん進んでいる、という報告がある。
伊藤さんの方の話というのが、我々のホテル事業部を本格的に稼動するきっかけになった、ホテル1.2.3である。
ビジネスホテル、ロードサイドのホテル、などの宿泊特化ホテルは、色んな会社が、様々な形態で展開を急拡大させているのには、正直驚かされた。
そうこうしているうちに、西京インの建物が、あっちこっちで建築基準法違反、耐震強度不足が発覚して、当の社長さんが記者会見で馬鹿な発言をした。その発言に端を発し、西京インの経営理念と、社長さんの経営者としての人間性が、世間から強烈な批判を受けた。
西京インの社内は大混乱に陥った、よって、西京イン北里大学病院前は頓挫した。
伊藤さんの方のホテル1.2.3は,順調に企画が進んでいった。
このように、アーバンビルドのホテル事業はスタートした、ということです。
ここで、騎士・伊藤資郎さんの紹介をしておこう。
伊藤さんも、小見さんと私が学校を卒業して入った会社の同期入社の仲間です。“その会社”では、小見さんは本社での企画畑、私は前半は不動産部門の前線部隊、後半はホテルやレジャー施設の宣伝部・企画課、伊藤さんは上信越、箱根、伊豆地区のホテルのオープン屋として、大いに腕を振るった。
やがて、三人とも“その会社”を辞めた。辞めた時期はそれぞれ違ったが、波動が合う者同士なのか、人生観が似ているのか、ただの飲ん兵衛同士だったのかも知れないのですが、何か事あるごとに連絡し合う仲になっていた。この仲間には、あと2,3人、変な奴がいるのですが、今ここでは割愛させていただく。
“その会社”を辞めてからは、私はすっかり不動産屋さんになり、小見さんは不動産屋をやったり、健康食品のテレビ・コマーシャルづくりをやっていたのですが、尊い縁がありまして、我が社に入社してくれたのです。
伊藤さんは、“その会社“の伊豆の名門ホテルの支配人をしていたのですが、辞めてもらって、当時アーバンビルドの親会社が湘南海岸、江ノ島の近くで進めていたホテル(湘南ホテル)の支配人になってもらった。
「もらった」と記したのは、ホテルの企画は日を追って進んでいたのですが、現場を運営する責任者になってくれる人が見つからなくて、苦労していた。そこで、私、オーナー、青島さん(彼のことは、後で触れるとします)で、伊藤さんの勤務地の伊豆まで、”その会社”を辞めて、我々が計画しているホテルに来てくれないか、と誘いに行った。
時を同じくして、伊藤さんは、まさしくその同時期に、”その会社“の兄弟会社が、横浜みなとみらい地域で進めていた本格的大型ホテルの人材募集に応じようとしていた。これには、奇しくも小見さんが中に入って労をとっていた。
私は、「資郎さん、もう、でっかい会社のでっかいホテルは、もう懲り懲りやろう。ちっちゃくて可愛いい、プチホテルの方がええやろう」と説得を試みた。
結果的には、私たちの説得工作が功を奏し、伊藤さんは我々が企画して立ち上げた湘南ホテルの取締役支配人に就任してくれた。
湘南ホテルは、最終的には不幸にも、オーナーが経営を断念することに決めた。ホテルは解体され、跡地はマンションの敷地になった。それからの伊藤さんは、ホテル経営のコンサルティングやレストランの運営を受託、今までのキャリアを活かして頑張っていた。ホテルの運営形態や、運営会社の推移、経営環境の動向、利用者側からの視点、を常にチェックしていた。
そんな伊藤資郎さんなのであります。
北里大学病院のこと
北里大学には、大学と大学院、北里大学保健衛生専門学院。北里大学病院と北里大学東病院、北里生命科学研究所。83の各学会に指定された療養施設は、日本の病院では屈指。北里大学の全学部新入生の1年目は全員相模キャンパスで学ぶ。
隣には、国立病院機構=相模原病院がある。


麻溝台工業団地のこと
相模原市の工業の地位は、県内では、横浜市、川崎市に次ぐ規模を誇り、全国でも有数な内陸工業集積都市としての性格を有している。相模原市内に本社をもつ企業で、株式上場企業は7社、東証第二部が1社、ジャスダックが3社となっている。
麻溝台工業団地には、日産自動車(株)相模原部品センター、カヤバ工業(株)相模原工場、ニコン(株)その他有力な企業が多数ある。
私は、このホテル事業としてのプロジェクト融資を中小企業金融公庫に申込に行った。このプロジェクトが如何に優秀な企画であるかを、私は、窓口の担当者に熱弁を揮った。
公庫に着くまでに、私は、何を聞かれても答えられるように市場調査結果や、我が社の財務事情を克明に精査したことを、頭に叩き込んでおいた。
気合は満々だった。
北里大学病院の特徴、周辺ホテルの稼働率の高いことも、併せて一所懸命にうったえた。
聞き役の公庫の担当者は、私が必死に喋ることに、ことごとくうなずいてくれた。この人、本当に分かっているのかな、と疑いながら、油断大敵、自分自身に負けちゃいかんと励ましながら、このプロジェクトの良さを、真剣にうったえ続けた。
相手は、うなずいた。
相手は、にっこり笑った。
相手は、私の目を見て言葉を発した。
「そうなんですよ、この病院には患者さんが全国から送られてくるんですよ、色んな所から、色んな病気の人が来ていますよ」
ええ、なんで? なんで?
相手は、なんでそんなことを、知っているのだろう?
「実はね、私が広島に勤務中、胃ガンになって、この病院で手術をしたことがあるのです。命拾いをしましたわ。その病院に、大変お世話になったのです」、と仰るではないか。
「私の家族も、あの*ホテルに泊まりました。あそこしかないんですよ」
*ホテルとは、弊社が起工式をした場所から、100メートル程のところにあるホテルのことです。建物は随分古いのですが、よく頑張っていて、稼働率が高いのです。
そいう経験が、相手さんにはあったのです。
私の話すことに、ことごとくうなずいてくれた理由がはっきりした。
私は、このホテル計画が事業として優良であると確信した。が、中小企業金融公庫では、一社に融資できる限度額が4億5千万円までなので、どこかの金融機関と協調融資でないと無理ですね、との正式回答だった。
横浜を中心に活動しているY銀行から、全額を融資しましょうと、通知を受けたのは、協調融資の相手先を求めて苦労している時だったので、Y銀行からの融資承認は嬉しかった。担当部長さんには、電話で、涙ながらに感謝の気持ちを伝えた。
建築物の全体計画から詳細な部分までは、従来ホテル1.2.3でやってきた関係者でどんどん進められている。


第2部
泉川設計士と、マンションのプランの打ち合わせを終えて、お茶を飲んで寛いでいた。
一息入れてから、彼が「アーバンさん、沖縄で、マンションやらない?」ときた。
東証1部に上場しているアジア舗道が、買い付け書を出していて、売主さんが売り渡し書をだしているのですが、何か障害があったらしくて、うまく進んでないらしいのです。テナントや居住中の借家人の明け渡しは、私の父方の従兄と母方の従兄がやっているのです。ほぼ全員の了解が取れているようですよ。
私は、「沖縄じゃ、どこもお金を貸してくれないよ、無理だよ」と一刀両断に却下。
が、小見さんは、もともとしぶとい男で「場所は、どこだ?」と食らいついた。彼の事務所からファックスされてきた地図を見て、小見さんは電光石火の如く叫んだ。「こりゃ、マンションじゃねえよ、ホテルだよ」と。
地図には当該場所をサインペンで印をつけてある、その隣がホテルではないか。早速伊藤さんに携帯で電話した。「その辺は、ホテルとして十分通用するエリアだよ、ホテルがいっぱいあるところだ」
伊藤さんも、また直ぐにホテル1.2.3の麦畑さんに電話をしたら、「隣のホテルは、今はホテル シティコートといっているが、以前はホテル ホリディ インだったのです。その土地はよくわかりますよ、ホテルはばっちグウーです。 やりまひょ、大丈夫ですよ」との返答だった。
早速、契約を締結した。3月30日、残金の支払いをして、物件の引渡しを受けた。
今(2007年4月13日)建築計画進行中です。


今回の沖縄での仕事については、泉川さんの二人の従兄さんが、重要な役割を担っていただいた。地元の人たちには、東京あたりからやって来て、ああだ、こうだと引っ掻き回されちゃ堪んないわ、と思われたくなかった。付き合いの初めには、どうしても戸惑いがあるのは、何も沖縄だけではないけれども、やはり沖縄は小さな島だ。永く島だけで暮らしてきた人が、島以外の人に会って、直ぐには和やかにはなれないものです。
最初に、泉川さんが二人の従兄さんに、アーバンビルドという会社が、沖縄に交渉に行くことを告げた。従兄さんたちは、アーバンビルドのブログを読んで、この人たちの会社なら安心ですよ、と売主に伝えてくれたそうだ。
小見取締役が売主さんに最初に会った時、もう随分以前からの知り合いのように話しかけて頂いたそうだ。このとき、小見取締役は、この地での、ホテルビジネスの成功を確信した。


沖縄では、みんなよく酒を飲む。古式豊かな、地鎮祭『起工式)にしたい。(その2)は少し待ってください。

2007年4月15日日曜日

球界は、どこまで腐っちょるんじゃ

球界はどこまで腐っているんだ
 西武ライオンズ球団の太田秀和社長は、アマ2選手に不正の金銭の供与をしていたことを、3月の初旬に発表した。
内容は、東京ガスと早稲田大学の野球部員の2選手に対して、栄養費等の名目で金銭を渡していた。早稲田の学生の場合は、高校3年生の秋から接触が始まって、大学卒業後は西武に入る旨の合意書のようなものを作成していた。
そのときの太田社長の記者会見を思い出してみて欲しい。とんでもない大事件を、他人ごとのように、淡々と発表した。
その記者会見を、私は、西武グループの実質的なオーナーであった堤 義明氏が、証券取引法の違反で西武関連の全ての役職と公職からも引退すると発表した、あの記者会見と、全く同じじゃないか、と嘆息した。
記者会見をしたときの表情は、共に同じく異常?だった。表情は深刻ぶってはいたが、実に空々しかったのだ。事の深刻さとは裏腹に、両人には共通して真剣さが足りなさ過ぎるように思えた。
太田社長は、調査委員会をつくって洗いざらい調査をしていただきます、とか言っていた。なんちゅう馬鹿!!社長なんだろう。社長でありながら、自ら社内調査もできないのか。
ところが、西武の中核会社であるコクドを、よく知っている私には、こんな猿芝居がよく理解できるのです。私は、9年7ヶ月、話題の会社から給料をいただきました。
社員は、何も考えないように、させられるのです。
君らは何も考えなくていいのだ、と。
言われた事を、ただ実直にこなしてさえいれば、それでいいのだ、と。
責任は俺がとるのだ、と。
 堤 義明氏だけしか会社の運営の諸事を決めることができないのです。取締役も部長、課長もただのモルモットなのです。
社員は、そんな上司に誰が企画や相談をもちかけたりするものですか。まして、是正案や修正案なんかは絶対、上司に具申しません。
だから、太田社長にしても腹の中では、私は何も悪いことなどしていない、と悪びれない。言われた通りに、やってきたまでだ、と平気の平左衛門だ。
心底まずい事をしてしまった、と反省の心情が湧いてこないのは、至極当たり前のことなのです、この会社では。
だから、あんな記者会見が可能なのです。
法令順守なんて概念は、私が給料を貰っていた25年前は皆無だった。今でも、余り変ってなかったようだ。
堤 義明氏は、調整区域で風致地区内に、研修所と称して自宅をつくった。暗闇、大量の石を自宅の庭に持ち込む。風致地区内では、一定量の土砂等を移動するときには、当然許可が必要なのに無視しての工事。
「山岡、明日、大磯の固定資産税課の担当者が、研修所(実は自宅)を見に来るんだけれど、どうしょうか? 研修所の壁が大理石ちゅうのは、大丈夫かな? 新聞紙でも張って工事中です、と言っちゃえば、平気か。」と、私が尊敬していた当時の担当支配人は心配していた。
また、箱根でのホテル建設においては、国立公園内だから、木を一本も切らずに工事を行いましたなんて、マスコミに真っ赤な嘘。
こんなことが、まかり通る会社なのでした。
 堤氏が引退した後、みずほファイナンシャルグループが西武グループの再編成を行っている中で、この件が発露したのだろう。
 そして、調査委員会の調査報告があった。
やはり、太田社長の先日の記者会見が、いかに上滑りのその場しのぎの、内容の乏しいものだったか、が窺がわせる。アマ2選手に不正の金銭の供与があった、それどころか、それを大幅に越す金額やたくさんの人に渡していたことが判明した。
太田社長さん、君は、本気か。気でも狂っているんじゃないの。アホか。
2選手以外にも5選手に6千万円。高校、大学、社会人野球の指導者ら延べ170人に最高で1千万円の現金や商品券が渡されていた。合計は1億円を超えるといわれている。
これが、西武の真骨頂なのです。
 入団する際の、上限金額を越しての契約違反もあるのではないか。プリンスホテル野球関係者にも、いろいろあるのではないか、と私は疑っている。ホッケー、スケートも同じように金や、金に代るもので、選手を漁りまくったのでしょう。
想像には、きりが無い。冬季長野オリンピックでは、公費の多額の使途不明金があやふやに処理されている。西武のレジャー施設への交通のアクセスなどが、公費でまかなわれ、裏では、招致から開催に至るまでの四方山に、西武の金や国の金や協賛で集められた金が、あっちこっちに飛び交ったのであろう、と思われる。


 スポーツは常に、フェアーでなければならない。

 朝日 社説
ドラフト裏金  球界は過去もさらけ出せ
プロ野球の西武がアマチュア選手2人に裏金を渡していたのは、やはり氷山の一角でしかなかった。
ドラフトで新人を獲得するための裏金は、ほかの5選手に合わせて6千万円余りが支払われていた。
それだけではない。選手入団の謝礼として、高校、大学、社会人野球の指導者ら延べ170人に最高で1千万円の現金や商品券が渡されていた。合計は1億円を超えるとみられる。
こうした事実は、第三者による球団の調査委員会から公表された。不正な金の支払いは、球団創設の1978年から27年間にわたって続いていたという。ルールに従って実力を競い合うスポーツの世界で、最初からルールを破っていたというのだから、あきれるほかない。
裏金を渡した理由としてスカウトたちは調査委員会にたいして、「他球団もやっているのではないか。だから仕方なく自分もやっていた」と話している。
ルール違反を他球団のせいにするのは子供の言い訳のようで情けない。とはいえ、裏金は西武に限らず球界全体に横行していたとみるのが自然だろう。そもそも裏金問題が明るみに出たのは、巨人と横浜、阪神が明大の投手に渡していたのがきっかけだ。それを受けて、09年6月、球界は「倫理行動宣言」を出して、一切裏金を使わないことを誓った。ところが、その後も西武がやめていなかったのだ。
この際、球界は第三者による調査委員会を立ち上げ、これまでの実態を明らかにすべきだ。過去のことだといって、ふたをするのでは、ファンの信頼をますます失うだろう。
コミッショナー代行である根来泰周氏は早急に調査組織をつくり、各球団は率先して過去をさらけだす出すべきだ。
裏金を受け取ったアマチュア側も責任は大きい。今回の調査では、監督らアマチュアの方から金銭を要求例もあったことが明らかにされている。
高校野球連盟や学生野球協会は「驚いた」「正規の報告がないと~」とひとごとのように言うだけではいけない。プロからの裏金がアマチュアにどこまで広がり、むしばんできたか。この際、きちんと調べるべきだ。
高校の場合、甲子園人気を背景に、全国からの選手集めが野放図に拡大している問題もある。高校も大学も優秀な選手を集めたいあまりのひずみだ。そうしたことにも目を向ける必要がある。
プロ野球界は、ドラフトの希望入団枠の廃止に加え、裏金などに対する処罰もルール化する流れになっている。ルール違反は厳しく罰するべきだ。
中間報告をまとめた池井優委員長は「野球界全体を覆う金の問題が、談合とか天下りとかのように日本社会の構造に深く根ざしている」と述べた。
構造的な金の問題に決着をつける。それなしには、改革案も信用されない。

2007年4月10日火曜日

ホテル第1弾 起工式 (直会)って?

直会(なおらい)って、知ってました?
今日は、北里大学病院前(相模原市麻溝台)の、ホテル建設の起工式を11:00から行ってきた。70室のコンビニストアー併設のビジネスホテルです。
完成は、今年の11月、冬休みには間に合わせる。
施主はアーバンビルド、施工会社はジョーコーポレーション,設計管理はシーエムディー。
祭主は、亀ヶ池八幡宮(北相模総守護社)。
式の中ほどで、雨がぽつぽつ降ってきたけれど、テントを用意してくれていたので、一切心配はなかった。
アーバンビルドの男子社員は全員参加した。この業務に携わっていない社員にも、アーバンビルドが大大的に展開を繰り出そうとしているホテル事業の一端を、見ておいてもらおうと思ったのです。


小さい会社だけれども、夢は大きく、だ。
参加者のうち、この現場に直接関わるスタッフとその責任者で、昼食会をもったのですが、これが、業界では、直会(なおらい)というのです、と言われて、早速インターネットで直会を調べてみた。
「直会」
直会とは、神さまに供えたお神酒や神饌を祭典終了後に下げて、これを祭典に関わった者たちで共にいただくことを言います。神さまに供えたものをいただくことは、つまり神さまの御霊のこもったものをいただくことになるのです。祭典の奉仕をする者は、その準備段階として、まず潔斎をして心身の清浄につとめます。したがって、この間(準備段階から祭典終了時まで)は、平常とは違った特別の状態になります。そこで、その特別な状態を解きほぐし、平常の状態に戻すための手だてとして、祭典終了後の直会が必要となるわけです。直会の語源は「直り合い」をつづめたものと言われていますが、この場合の「直る」とは、平常の状態に戻ることを意味すると考えられます。このように、直会とは祭典の締めくくりとして、大切な意義を有する事柄なのです。
*神社オンラインネットワーク連盟より転載させていただきました。


1179729195.jpg

2007年4月4日水曜日

教科書検定、集団自決『軍強制』を修正

文部科学省の教科書検定で、沖縄戦の『集団自決「軍強制」を修正』を求めた。

 私は、「南京大虐殺」「従軍慰安婦」の次は、「朝鮮人強制連行」問題で、政府・与党議員とその一派たちが、何かを仕掛けてくるのではないかと、思っていた。
今度は、文部科学省が高校の教科書検定で、沖縄戦の『集団自決は「軍強制」を修正』を求めたことを、2007年3月31日の朝日新聞の朝刊が報じた。
なんだ、今度は「集団自決」か! と私は納得した。
私は、国旗・国歌問題から、イラク侵攻、南京大虐殺、従軍慰安婦問題に至る過程で、政府・与党議員とその一派の言動がどうにもこうにも、気に障ってしょうがなかったのです。
(南京大虐殺はなかったのです。いや、あったことはあったのですが、そんな馬鹿げた数の人を殺したわけではないのです。
従軍慰安婦問題については、軍の強制的な働きを示すものは何もないのですよ。)
こんな具合に、殺した人数を過少に表現することや、軍は強制的な役目をしなかったと表現することで、あたかも軍には責任がなかったかのように、日本国家は、そんなに大して悪いことは行っていない、とでも言いたいのだろうか。
今回の教科書検定において、従軍慰安婦については、安倍首相のアメリカでの記者会見で「従軍慰安婦においては、定義されていた強制性を裏付ける証拠はなかった」と発言して、アメリカの政府高官・親日議員から、中韓両国の政府から批判を受け、安倍首相はその後、河野官房長官談話を政府方針であると認め、火の種を消すのに必死だ。そんな状況下、教科書においては、無風だったようです。


私は、知人に「なんで、過去の日本軍や当時の政府のやったことを、過少に、また責任がなかったかのように、今になって言い出すんだろう」と聞いてみたら、知人は「政府はそのためにあるんですよ」と答えた。
ますます、私の頭は混乱するばかりだ。


 30日に文部科学省が教科書検定の結果を発表した。「軍の強制」を否定するトーンで沖縄戦の記述が修正されていた。
「日本軍に強いられた」という趣旨を書いた7点すべてが、「命令したかどうか明らかと言えない。誤解の恐れがある」と指摘され、各社は「集団自決に追い込まれた」などと修正した。
他には、イラク戦争では、「米英軍のイラク侵攻」が「イラク攻撃」に、自衛隊が派遣された時期は、「戦時中」から「主要な戦闘終結後も武力衝突がつづく」に変わった。かって、中国侵略とか、大陸侵略を中国侵攻に書き換えたこともありましたね。


戦争をしけた側には、きっと後ろめたさがあるのだろう。だから「侵略ではない」と頑なに言い張りたがるのか。悪かったと反省すれば、それで一件落着なのに侵攻と言い換えて、核心をずらしたり、ぼやかしたり。いいかげんにしろう。
  


以下、2007年3月31日の朝日新聞 朝刊の記事を転載させていただきました。 

沖縄国際大名誉教授の安仁屋政昭さん(72)は60年代から沖縄戦の住民犠牲について聞き取り調査を進め、沖縄県史の編集に携わった経験から、軍による強制・誘導があったと考えている。渡嘉敷では、軍との連絡役を務める村職員が手投げ弾を住民に配ったとの証言がある。「玉砕以外で住民に配ることはない。『命じていない』と強弁したところで、軍隊が自死を強いた事実に変りはない」
座間味での集団自決をめぐっては、沖縄の女性史研究家、宮城晴美さん(57)=那覇市=が00年に出した著作「母の遺したもの」が注目された。
母親の初枝さん(故人)が、村民たちが部隊に自決用の弾薬の提供を求めに行ったときに同行した。隊長は、「お帰りください」と言ったという。だが、戦後に発表した手記で命令があったと書き、苦悩の末、事実関係をつづったノートを宮城さんに託した。
著作は、原告の主張の根拠の一つになったが、兵隊に「日本女性として立派な死に方をしなさい」と手投げ弾を渡されたことも書かれている。
宮城さんは、軍の方針の「共生共死の一体化」と、米軍への恐怖心を植えつけられたことが背景にあり、「『国家』による『死の強要』以外の何ものでもなかったと」と記す。


 2007年3月31日 朝日 社説
集団自決   軍は無関係というのか


高校生が使う日本史教科書の検定で、沖縄戦の「集団自殺」が軒並み修正を求められた。
「日本軍に強いられた」という趣旨の記述に対し、文部科学省が「軍が命令したかどうか、明らかとはいえない」と待ったをかけたのだ。
教科書の内容は次のように変った。日本軍に「集団自決」を強いられたー追い詰められて「集団自決」した
日本軍に集団自決を強制された人もいたー集団自決に追い込まれた人々もいた
肉親が殺しあう集団自決が主に起きたのは、米軍が最初に上陸した慶良間諸島だ。犠牲者は数百人にのぼる。
軍の関与が削られた結果、住民にも捕虜になることを許さず、自決を強いた軍国主義の異常さが消えてしまう。それは歴史をゆがめることにはならないか。
この検定には大きな疑問がある。
ひとつは、なぜ、今になって日本軍の関与を削らせたのか、ということだ。前回の05年度検定までは、同じ様な表現があったのに問題にしてこなかった。
文化省は検定基準を変えた理由として「状況の変化」を挙げる。だが、具体的な変化で目立つのは、自決を命じたとされてきた元守備隊長らが、05年、命令していないとして起こした訴訟ぐらいだ。
その程度の変化をよりどころに、教科書を書きかえさせたとしたら、あまりにも乱暴ではないか。
そもそも教科書の執筆者らは「集団自決はすべて軍に強いられた」と言っているわけではない。そうした事例もある、と書いているにすぎない。
「沖縄県史」をひもとけば、自決用の手投げ弾を渡されるなど、自決を強いられたとしか読めない数々の住民の体験が紹介されている。その生生しい体験を文科省は否定するのか。それが二つ目の疑問だ。
当時、渡嘉敷村役場で兵事主任を務めていた富山真順(故人)は88年、朝日新聞に対し、自決命令の実態を次のように語っている。
富山さんは軍の命令で、非戦闘員の少年と役場職員の20人余りを集めた。下士
官が1人に2個づつ手投げ弾を配り、「敵に遭遇したら、1個で攻撃せよ。捕虜
となる恐れがあるときは、残る1個で自決せよ」と命じた。集団自決が起きた
のは、その1週間後だった。
沖縄キリスト教短大の学長を務めた金城重明さん(78)は生き証人だ。手投げ弾が配られる現場に居合わせた。金城さんまで手投げ弾が回ってこず、母と妹、弟に手をかけて命を奪った。「軍隊が非戦闘員に武器を渡すのは、自決命令を現実化したものだ」と語る。
旧日本軍の慰安婦について、安倍政権には、軍とのかかわりを極力少なく見せようという動きがある。今回の文科省の検定方針も軌を一にしていないか。
国民にとってつらい歴史でも、目をそむけない。将来を担う子供たちにきちんと教えるのが教育である。
  

2007年4月1日日曜日

リノベーションだ、マンションだ、ホテルだ。

今期も半期が終わった。

予算 : 売上80億円 / 経常利益 5億円     (年間)

8月末が決算の〆なので、2月で半期が終わり、そのスコアーが残高試算表としてできあがってきた。

100%、思うようにはいってないが、当初立てていた予算にはなんとかクリアーした。スタッフ全員の頑張りがあってのことだ。感謝したい。

そんなこんなで、今年は、アーバンビルドの大躍進突入の初年度にしたい。

今年中に2棟のマンションと、2棟のホテルを建築することになった。売り上げとして立つのは、期を外すことにはなるのですが、将来の売り上げを見込めることができるわけで、有難いこっちゃ、と喜んでいます。

マンションは、1棟は現在根掘り中の伊勢原・桜台、もう1棟はコーポラティブ方式による分譲を検討中の葉山長者ヶ崎です。

リノベーション事業も順調だ。この事業部には、まだまだ未熟なスタッフもいるので、彼らのスキルアップに努めたい。

付加価値を高める為の、建築と不動産に関する法令等の理解、工法・仕様の選択や工夫の練磨、センスのある手法、を高め熟達させることで、会社の生産性を高めたい。取りも直さず、スタッフ一人ひとりの、人間のレベルアップにつながることになるのです。仕事は、身を助けるって、ことか。

昨日(2007年3月30日)、沖縄県那覇市で、ホテル用地を購入してきた。  

 

ホテル第1弾

相模原の北里大学病院前の第1弾目のホテルの建設工事が、4月9日の地鎮祭を皮切りに始まる。建築確認は来週中におりそうです。

弊社が、土地を取得して、企画・立案・建築して、できあがったホテルを運営会社である株式会社ホテルシステムズ(親会社は、株式会社レイコフ。ヘラクレスに上場)に賃貸する。

70室のビジネスホテルです。

北里大学病院には、数多の学会の事務局があって、全国からお医者さんがやって来る。患者さんの家族などのお見舞い客も、日本全国からやってくる。その宿泊に利用してもらおう、との算段だ。受験生もやって来る。近隣には、工業団地があって、社用族も見込める。近隣のホテルの稼働率は、通年、ほぼマンタンだ。

所在地 :神奈川県相模原市麻溝台1丁目 

仮称  :ホテル1・2・3(コンビニエンスストアー併設)、ビジネスホテル

建物構造:7階建 鉄筋コンクリート造 

床面積 :1774,37㎡

室数  ;70室

 

 

ホテル第2弾

沖縄県観光商工部の発表によれば、年々増え続け、平成18年の入域観光客数は過去最高の5,636,900人だった。ちなみに、平成14年は483万、15年は508万、16年は515万、17年は550万人だった。 

国内客については、日本の各地の新空港の開港に伴う新規路線開設による輸送能力の増加、宿泊施設の増加、官民一体となった誘客キャンペーン、修学旅行の増加、沖縄の自然風土、独自の音楽、芸能文化、食材などに引き続き関心が集まっていることを背景に、年々入域観光客数は増加している。

我々は、マンションだとか、リノベーションだとか、日々の繁忙に明け暮れていた。まして、沖縄が、こういうことになっているとは露ほども知らなかった。

沖縄出身の泉川設計士と、マンションの企画会議を終えて、彼が言うには、「沖縄に、マンション用地があるんですがね?大手デベが、ちょっかい出してるんだけれども、アーバンさんはどう?」と。

その物件の場所を聞いて、小見取締役は、電光石火 叫んだ!

「ホテルだ。これはホテルだ! これは、ホテルしかない!!」

ここから、沖縄ホテル計画が始まったのです。

所在地 ;沖縄県那覇市前島3丁目16番1及び2 

仮称  :ホテル1・2・3 那覇前島 (コンビニエンスストアー併設)

建物構造:9階建 鉄筋コンクリート造

床面積 :3394,29㎡

室数  :計画段階では、124室