2008年6月28日土曜日

現在不動産業者事情/健全な投資を広めたい

我々の業界・不動産業が、今、景況は土砂降り状態なのです。安くしても買ってもらえない。同業者は各社、借入金の削減、在庫を減らすこと、赤字プロジェクトからの早期脱却が思うようにいかなくて、死にモノ狂いで頑張っているのです。
金融機関の担当者の方からは、「頑張ってください」、「8月から9月が山ですから」、「是非、勝ち組に残ってください」と言われ続け、又「プロジェクトの融資案件として、本社の審査部に資料を受取ってもらっているのは、御社の物件だけですよ」、とも言われている。
何故、こうなっちゃんだ?
前回、一回目の不動産バブル期も、我社はなんとか乗り越えて来た。相場は狂ったけれども、住宅を求める実需は必ずあって、それに細々ながら頑健に応(こた)えてきた。
住宅の需要度の高い地域で仕事をさせて貰っている利点は大きい。神奈川県は日本のなかでも、「住宅」に関しては、極めて仕事のしやすいエリアなのです。
今、確かに、買い換え層には出動しづらい時期にあるのですが、一次取得者にとってはいい物が安く買える時でもあるわけです。我社はこれを商機だと考えて活動することだ、と。
金融機関は、経済の動きに異常に反応し過ぎじゃないんですか? と金融機関の担当者に聞いても、「御社の状態が悪くて言っているのではないのですよ」、「不動産業界が、不況業種になっていて、融資する側からは臆病にならざるを得ないのです」、「世間では、不動産業界や建設業界のいい話は、ほとんど聞かないでしょ」、「御社の問題だけではないのですよ」、と何度説明を受ても納得できない。そんな話は聞きたくないわい、とスネてみてもしょうがないのですが、どうしても、担当者に向ける目つきには自然に(険)?が出てしまう。私は狂ってはいないので、(剣)は出しませんが。
とは言え、金融機関からの資金が命綱の我社では、財務担当者が融資金融機関の担当者にキメの細かい報告を緻密に行っている。
こんな時だからこそ、サボッてはいけないと肝に銘じています。報告する内容は、財務状態、商品の売れ行きと在庫状態、借入金の金融機関名とその増減、今までの営業の総括と今後の営業方針です。
きちんと正確に報告をすると、金融機関は金融機関ならではの都合というか現在おかれている状態をそれなりに、情報を提供して頂ける。
今年に入って不動産会社がバタバタ倒産した。6月24日にも東証2部上場のスルガコーポレーションが民事再生法を申請した。負債額は約620億だったように記憶する。
我社は創業時から、目先のことに眩(くら)むことなく、堅実に仕事をこなしてきた自負がある。顧客第一主義を貫いてきた。同業者からは、多少馬鹿げたことのように思われることでも、魯鈍に実行してきた。
そんな今日此の頃の不動産の成り行きを、世間はどう見ているのか?
そんな折、朝日新聞の社説に、今般の土地事情についての記事が出たので、読み留めるのも一考かなと思って、転載させていただいた。
不動産業界に、どっぷり(ずっぽり)はまり込んだ私達も、たまには頭を冷やして新聞記事を読んでみましょう。
聞屋(ぶんや=新聞屋さん)さんでも、彼等が掌握しているデーターは、スピードにおいて私達よりも遅い気がする。景況感の微妙な変化においても、私達の方が早く皮膚で感じ、身に沁みて理解している。それに感受性においても我々の方が鋭いと感じたのですが、~
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080624  朝日新聞 朝刊 社説
土地利用 健全な投資を広めたい
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大都市圏の一部で「地価バブルの再来」を心配する声が、昨年はあった。だが、地価の上昇は一つの峠を越え、杞憂に終わったようだ。
今年1~3月、3大都市圏の主要地点調査で上昇地点が減った。東京圏、名古屋圏では、昨年ゼロだった下落地点が、今回わずかに現れた。
地価の相場観も大きく変化した。主要企業が1年後の土地取引をどう予測しているのか
、ことし3月時点で調査したところ、東京の23区と大阪府で「不活発になる」とみる企業が「活発になる」を3~4年ぶりに上回った。
先に発表された08年版の土地白書の内容だ。昨年までは「活発」が圧倒的だったのだから、様変わりである。
これには米国のサブプライムローン問題が影響している。米住宅バブルの崩壊で痛手を負った投資ファンドが、不動産投資を縮小させているからだ。その余波で欧州の一部でも不動産バブルの崩壊が心配されている。
ただし、米欧にくらべ、日本がバブル崩壊という「いつか来た道」まで至らずに済みそうなのは幸運だった。白書はその要因を、企業と個人が「土地神話」を捨てて投資行動を変化させたため、と分析している。
いまは多くの企業が投機ではなく、実需や利用価値に基づいて土地を売買する。電器メーカーの東芝が東京・銀座の一等地にある旧本社ビルを売って、他社から半導体工場を買う「入れ替え」をしたのもその例だ。
住宅やマンションでも、住まいとしての利便性や環境が評価されなければ、なかなか買い手がつかなくなった。こうした健全な投資行動を今後も損なわないようにしたい。
もう一つ大事なことがある。地価が全般として下落しないような状態に日本経済を保つことだ。
買い手にとって地価は安い方がいい。バブル崩壊は住宅を手の届く価格にまで下げるプラス効果があった。
ただ、90年代から十数年も下落が続いたことは、企業経営と家計をむしばんだ。地価は経済状態を反映する。健全な成長と、それに見合う賃金と地価の伸び。そういうバランスのとれた経済を実現することが大切だ。
その点、日本が人口減少時代に突入したことは心配だ。国内の需要に頼っていたのでは、経済がしぼんでしまう。海外から人も資金もたくさん呼び込み、元気な市場にしないと健全な成長は期待できない。土地の利用や開発でも海外の力を活用したい。
長期低迷が続いたとはいえ、日本の不動産の総額は米国に次いで今も世界第2位だ。海外から日本への不動産投資が昨年は約3兆円となり、アジアで抜きん出たトップだった。
バブルではなく、経済の実力で日本列島の価値を向上させていきたい。

2008年6月15日日曜日

いよ、北島。驚速7秒台、200平世界新

ジャパンオープン  記録ラッシュ
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東京辰巳国際水泳場で、男女計10種目があった最終日、北島康介が男子200メートル平泳ぎで2分7秒51の世界新記録を樹立した。
オリンピック開催まで、60日をきった。
オリンピック出場を前に、競泳陣の水着がここにきて、話題をさらっている。英スピード社製水着レーザー・レーサー(LR)を着た選手らの記録ラッシュが続いているのです。大会3日間で、32種目で世界新が1、日本新が16出た。
日本水連はミズノ、アシックス、デサントの国内3社と水着提供の契約を結んでおり、五輪代表は3社の水着を着ることになっていたのだが、これだけの新記録が続出する現実を踏まえて、どこのメーカーの水着を着てもいいことにした。これは、国内3社の水着メーカーの了解が得られたことで、このような結論を出せたのだと思う。
それにしても、この事実は驚天動地だ。
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日本では、オリンピック種目で世界新の記録をもっている者が不在だった。が、今大会のジャパンオープンで世界新記録保持者が出現したことが嬉しいのです。素晴らしいことだ。
数日前、日本新記録が続出するなかで、北島も、いまいち自分でも頭の中が整理できていない状態だった様に思われる。胸に、I am swimmer と書かれたTシャツを着てプールサイドに現れた。私が、泳ぐんだ。水着なんかに影響されるのでは、全くない、と言いたかったようだ。その北島が、06年にブレンダン・ハンセン(米)が出した2分8秒50を約1秒も塗り替えた。自身の日本記録も1秒33の大幅更新だった。
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(以下朝日新聞の記事による)
人差し指を突き上げた。前人未踏の2分7秒台。ハンセンの記録を0秒99更新する驚異の世界新だ。北島が大歓声に包まれた。「ジュニアのころから泳いだこのプールで、世界記録を出すのが夢だった。本当に自信になった。(北京五輪)は金メダルしかない」
50メートルごとのストローク数は自身最少の14,14、15,18。肩甲骨周りのパワーを生かして幅広く腕をかき、水の抵抗を避けた浅く鋭いキックを打ち込んだ。伸びる時間を少なくしながら泳ぎは大きい。繊細な技術が必要な高速レース。4輪駆動の泳ぎが、高性能水着の特性を最大限に生かした。

2008年6月14日土曜日

民主党が失ったもの

6月11日、参院では福田首相の問責決議が賛成多数で可決された。そして、12日衆院で、内閣信任を賛成多数で可決したのだ。そして奇怪なことに、民主党は今国会では、衆参両院で審議に応じない方針だと聞く。21日まで、会期を延長されるのに、審議に応じない〈怒り〉、なんてどういうこっちゃ。小沢党首、将来の内閣総理大臣殿。
参院には政権の存否を決める権限はない。問責決議には法的な拘束力はない。民主党は、問責決議をもって、福田内閣の不信任を決議したとでも思っているのだろうか?衆院の内閣不信任決議こそが、内閣総辞職か、衆院解散のいずれかの選択を義務付けられているのだ。
そっけない福田内閣に審議には応じません、と宣言するそのココロは何が根拠なのですか。菅さん、民主党代表代行殿。
政権を取りたい気持ちは良く分かる。後期高齢者医療制度に対する批判が、与党に対して日に日に高まっている。最近実施された2回の国会議員の補選では2回とも自民党に勝った。ねじれ国会の恩恵か、社会保険庁の年金事務処理が間違っていたり、入力されていなかったり、国土交通省の遊興費の無駄な使い方や官僚の”居酒屋タクシー”が露見した。タクシー券を利用してくれる官僚にビール、つまみ、金品等が渡されていた。こんな今こそ、与野党逆転の環境を作っておくいいチャンスなのだ。ここでこそ、戦後長く続いてきた高級官僚から窓口業務の担当者まで、徹底的に腐敗や規律の乱れを正して欲しいのです。それができるのは、自民党ではなくて、民主党なのです。
今こそ国会の舞台で、火花のはじける審議をして貰いたい、と国民は願っているのに、国会では党首対決を避けようとする民主党。私は、口ベタなので、なんて言っている場合ではない。
ここは、民主党は徹底的に自民党を批判し、そして独自の対案を用意して、貪欲に闘ってくださいな。そうすれば民主党の支持率は、必ずウナギ昇りだ、とは誰もが思っているのに。このままでは、自民党は駄目、民主党も駄目、みんな駄目になっちゃいそうだ。公明党も見ちゃおれんわ。
なんとかしてくれ、と願うばかりです。
上の文章を綴っていたら、膠着状態の日朝関係に動きが出てきた。
この問題についても、国会のなかで、討論しなければならないのではないのか、民主党さん。
政府は13日、北京で11,12の両日行われた日朝の外務省実務者公式協議で、北朝鮮側が日本人拉致問題の再調査を約束し、日航機「よど号」ハイジャック事件関係者の日本への引渡しに向けて調整することで合意したと発表したのだ。
福田首相は記者団に力を込めて次のように語った。「交渉しなければ解決しない。交渉しないで、解決しなければ良いのか。そうはいかない」
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民主党が失ったもの
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20080611 朝日夕刊 論説委員室から
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どうにも胸にすとんと落ちない。
日本銀行審議委員に慶大の池尾和人教授を充(あ)てる国会同意人事について、採決を見送った民主党の判断のことだ。
民主党はこの人事に賛成することで党内手続きを終えていた。これに横やりを入れたのが、参院で統一会派を組む国民新党である。池尾氏が郵政民営化推進論者であることを理由に「賛成なら会派解散だ」と申し入れたのだ。
小政党の国民新党が参院第1党である民主党の勢力をテコに自説を通そうとする試みをすべて否定する気はない。
問題はその行動に説得力があるかどうかだが、日銀審議委員は郵政民営化に批判的でなければならないという理屈に納得できる人がどれほどいようか。
「同意人事は適任かどうかで判断すべきだ。政党の多数派工作や会派の維持という政局的な判断で決めるべきでない」と与党がかみついたのは当然だろう。
福田首相は問責決議をぶつけようという時期に、国民新党にヘソを曲げられては困る。
来るべき衆院解散・総選挙に向けても国民新党との協力関係は重要だ。
民主党にすれば、政権交代という「大事の前の小事」ということなのだろう。
それも分からなくはないが、だからといって、採決見送りでお茶を濁すというのは場当たり的にすぎる。
まるで、政権維持のためになれ合う自民党と公明党のようである。有権者にそう思われたとしたら、民主党が失ったものは小さいとは言えない。〈恵村順一郎〉

2008年6月9日月曜日

出塁率が示す哲学 福留

福留孝介は、名門大阪PL学園から日本生命を経て、98年にドラフト2位で中日ドラゴンズに入団した。打撃で守備で、数々のタイトルを手中におさめてきた。96年、04年の2度のオリンピックにおいても大活躍した。だが、昨シーズンはヒジ痛のため81試合にしか出場することができなかった。そんな福留がオフにFA宣言して、カブスに入団した。
私は、不安だった。いくら福留と言えども、戦列から遠ざかっていたのだ。そんなに大リーグは甘くないはずだ、と心配していた。
が、私の心配なんて、雲散霧消。開幕早々からの大活躍に、さすがに大物だと感嘆した。今シーズンの始まりの頃、社内の野球ファンの誰にも、アイツは凄いな、と感心ばかりしていた。その勢いが止まりそうにない。
4年の契約で、4800万ドル、日本円にして53億2800万円。球団はきちんと算段していたのだ。
そんな彼の成績を,イチローと比較しながら、数字をもって分析した記事には驚いた。すごい評論家だ。
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(2008060?)朝日朝刊 スポーツ
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カブスのルー・ピネラ監督は、福留に絶大なる信頼を寄せている。「彼は大リーグ最高の右翼手だ」。
かって指揮を執ったマリナーズでもイチローに同じ賛辞を送った。守備範囲の広さ、肩の強さ、送球の正確さ。2人の守備能力は確かに両リーグの双璧と言っていい。
ただ、打者としての2人には決定的な違いがある。
それは野球に対する哲学の相違と言ってもいいだろう。「ファンは僕の四球を見るために球場に来るのではない」と話すイチローは、安打を放ち続け先人の記録を塗り替えることに意義を見出す。
一方の福留は「いかにアウトにならずにチームの攻撃を長く続けさせられるかを考える」と語る。
イチローが大リーグ入りした01年の年間四球数は30、福留は5日現在(61試合目)で既にチームトップの38を記録している。イチローが首位打者に輝いた同年の出塁率は3割8分1厘。福留は5日時点で4割8厘と上回る。
優勝争いの厳しさを経験した中日時代、主軸でありながら、常につなぎ役の意識も持ち続けたからだろう。結果は凡退でも、打球を右方向へ飛ばし、走者を前の塁に進める打撃は、チームの得点力を陰で支える。
近年のカブスは、98年に66本塁打を放ったサミー・ソーサーに代表されるように、大味さと背中合わせの豪快さがチームカラーだった。
福留の獲得を強く希望したピネラ監督は「シーズンを通して粘り強く我慢できる打者がいれば、このチームは変わる」と予言していた。62年間、リーグ優勝から遠ざかっているカブスは今、ナ・リーグ中地区で首位を快走している。 『畑中謙一郎』
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復活オシム”舌”好調

2010年FIFAワールドカップ南アフリカ、アジア3次予選の第4戦で、日本代表はオマーン代表と戦って1-1で引き分けた。試合は前半12分,FKからゴールを先制された。後半、日本は玉田のペナルティーエリア内でのプレーでPKを得た。遠藤が冷静に決めて同点に追いついた。ヒィヤーとする危機もあった。その後、闘莉王のプレーでPKを取られたが、キーパー楢崎の好セーブで得点をまぬがれ、結局、ドローで終わった。猛暑の敵地でのドローを私は、素直によくやったと、どうしても思えない。
チャンスを掴みながら、逆転できなかった。好機をいかせられない弱点が、いつまでも、このチームにはつきまとっている。冷や冷やする戦いをいつまで続けるのか。
「予選のことだけを考えるのではなく、本当に強い相手と互角にやれるようしないと」と中村俊輔はコメントした。中村俊輔は、解っているのだ。
私は、この試合が不満だった。
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この試合の約一週間前、日本代表は第3戦としてオマーン代表との試合が名古屋トヨタスタジアムであった。スコアーは3-0の日本の勝ちだったのですが、私には面白くなかった。
スコアーは3点のひらきだったのですが、日本の攻撃にスピードがなく、オマーンのデフェンスが弱すぎた。こんな調子で試合をしていたら、日本のサッカーの将来が開けない、それ程、私はあの試合に絶望したのです。みんなが日本の勝利に喜んでいるのに、私の心は沈む一方でした。中澤の思い切りのよいヘディングよりも、オマーンのデフェンスが甘過ぎた。闘莉王のヘディングの折り返しを、大久保がシュートを決めたのですが、なんとオマーンの守備の悪いこと、あれだけ大久保に時間をかけさせてはいかんのですよねえ、オマーンさん。大久保にはもっとスリリングなシュートを見せて欲しかった。
それに、中村俊輔の左から右へのフェントに、オマーンの守備が振られ過ぎだ。2,3秒も中村を守備なしでフリーにさせたら、中村はゴールを狙いすますに決まっているではないか、オマーンさんそうでしょう。日本はこんな甘いゲームをしていてはイカンのです。日本代表チーム殿、勝って兜の緒を締めろ、だ。
そんな沈鬱な気持ちでいたら、オシムさんが、満を持して帰ってきたのです。赤鬼がグラウンドに戻ってきたのです。
オシムさんは的確に日本チームに文句をつけていたのだ。その内容が新聞記事になった、あのインタービューだ。サッカーを愛する者共よ、耳の垢をほじくって、赤鬼の話に聞き耳をたてよう。下の新聞記事を読んでください。
オシムのおじさん、頼みます。日本チームが間違った方向に進まないように、絶えないオジサンの忠言をお願いします。
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ニッポンよ、走れ


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〈20080605 朝日朝刊スポーツ〉

4日、都内で日本サッカー協会アドバイザー就任の記者会見に出た前日本代表監督のオシム氏は早速、サッカー界に厳しい注文をつけた。
記者会見の内容は次の通り。
ーーーーー代表監督に戻る気は
日本に痕跡を残したいと思っている。予想外の病気で監督は続けられなくなったが、別の仕事で貢献したい。ベンチに座りたい気持ちはある。でも、ベンチで死にたくない気持ちもある。
ーーーーー日本選手は何が不足しているのか
たくさんあるが、まず走る量を増やすことだ。考えるスピード、走るスピードを上げて、より高いレベルの技術を身につけるべきだ。皆さんは難しく考え過ぎてはいないか。強国を分析し、まねするのはいい方法ではない。コンプレックスから解放されて、日本の長所を磨くことだ

ーーーーー岡田監督とどんなことを話しているのか
ここで話すべきことではない。話したいことがあれば、直接本人と話せばいいことだ。
---ーー観戦を続けるJリーグの印象を
残念なことは、日本には、うまい選手は少ししか走らなくてもいい、という傾向があることだ。まず、そこから直しましょう。
ーーーーー
こんなに、はっきりと忠言してくれている人は、オシムさんだけだ。

2008年6月7日土曜日

最後の晩餐

ゴールデンウィーク前に、ふと立ち寄った古本屋さんの店頭の棚で、売っていた1冊100円の本を、吟味しないで5冊買った。その中の1冊は、全学連から全共闘、連合赤軍、連合赤軍の山岳拠点での軍としての活動と総括、その果てのあさま山荘事件までを、裁判に関係した書類をもとにした立松和平のノンフィクッション小説「光の雨」だった。同時期に若松孝二監督による「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」が上映されていていたのを、運よく観賞した。
もう1冊は飯島 愛さんの「プラトニック・セックス」だ。朝の目覚めに、布団の中で3日程で読み終えた。飯島さんの実生活が赤裸々に述懐されていて、娘3人育てたオヤジは、娘の子育てについて、今になって、遅ればせながら勉強させていただいた。飯島さん、がんばれ。
吉本ばなな氏の「白河夜船」も、なかなか楽しかった。女性ならではのお話ばかりで一つひとつの話が興味深かった。
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4冊目は、辻 仁成さんの「冷静と情熱のあいだ」だ。作家・辻 仁成、今まで彼の本を一度も読んだことはない。辻さんは、きっと気障な人に違いないと、先入観があって本能的に、近寄りたがらなかったのだろう。百円だったから、辻さんの本を手にしました、なんて言ったら、烈火のごとく怒られるだろうな。
ところが、あに図「はか」らんや、面白いのです。この小説は男と女の愛のドラマなのですが、その恋愛劇が面白いのではなく、私の目下の興味は主人公の職業から、「最後の晩餐」が創作されて、その後、現在に至るまでの受難と修復作業だった。
男と女、男の昔の女と今の女、修道院と教会と名画、父母の代わりに男を育てた絵描きの祖父、子育てを放棄した女の父親、イタリアのミラノと日本の東京、修復士が繰り広げる恋愛と肉親の愛のドラマなのですが、主人公がイタリヤの工房で修復士として活躍しながら、ドラマは進んでいくのです。目の前の女を抱きながら、昔の女を思い出したり、先生に熱い視線を向けられたり、元気な絵描きの祖父が突然イタリアに現れたり、物語にいろいろ要素が込められていく。
作家には大変失礼なのですが、文芸作品を文学としてよりも、私を、私の未知の世界へ誘「いざな」ってくれることに、面白味を感じるのです。かって味わったことのない感性、見たことのない事物と事象、夢とロマン、見知らぬ町と歴史、新しい思想、奇抜なアイデア、そんなことに目から鱗「ウロコ」が、私は楽しいのです。
それが、私が本を読む醍醐味なのです。文学? 「学」とつくと、私は急にシュンとなるのです。
ここで、本の内容や感想について、どうのこうのと、述べる心算はありません。
愛のドラマは、筋書き通りに、作家の思うまま進んでいくのです。
この稿の最初の方で触れたのですが、この本で私の興味を引いた「目からウロコ」は、名画は、修復士という職人がいて、何度も何度も修復して、できるだけ創作時に近い状態に、保存、維持されていることだった。
名画の修復のことです。
そりゃ、そういう仕事もあるだろうな、とは思ったのですが、私がことさら関心を持ったのは、その中でも、とりわけ、レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」のことだった。あの超有名な「最後の晩餐」の、受難と修復の歴史のことです。
小説の中では、このように書かれている。
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「小説の一部」より~
見事な透視図法による、中世の景色が横たわっていた。このルネッサンス期に発明された描法はまさにこの絵のためにできたものだ、と一人勝手に確信し、レオナルド・ダ・ビンチの才能に今更ながら大きな溜息をつかずにはおれなかった。
絵画の両側には、第二次大戦後から今もって続けられているという修復作業用の櫓「やぐら」がくまれていた。
「なんか、教科書で見て知っていたあの最後の晩餐とは随分違うのね」
僕に追いついた芽実がそう零した。確かに素人が見るとそういう印象は否めないのだろう。絵の色味は落ち、まるで消えかかった水彩画のようなものだからだ。
しかし、これは僕にとっては魔法のような出来事だった。ダ・ビンチが当時この絵に使用した絵の具はテンペラ・フォルテと呼ばれる一種の油彩で、当時としては画期的な新手法だったが、これは絵の保存に関しては全く不向きなもので、すでにダ・ビンチが生きていた頃から画面の剥落が始まっていた。
加えて十七世紀には、絵の中央部を切除して台所へ通じる扉ができ、フランス占領下の1800年にはこの食堂がフランス軍の、なんと糧秣置き場に使われていたというのだ。しかも第二次世界大戦中には建物自体が爆撃にあっている。ーーー「小説はここまで」
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じゃ、その「最後の晩餐」を、創作時から今に至るまでの保存の歴史を、修復を含めてインターネットで調べてみた。まさしく、「目にウロコ」だった。インターネットは、我々に知識を与えてくれる。
ここで私の読書は、休憩した。今、ここで大事なことは、愛の物語、決して男と女の問題ではない。きちんと、この「修復士」と「最後の晩餐」を調べ上げることだ。その作業を終えないと、物語を読み続けるわけには、どうしてもいかないのだ。
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以下は、インターネットからの転載です。
レオナルド・ダ・ビンチは、彼のパトロンであったルドヴィーコ・スフォルツァ公の要望で描いた。これは、キリスト教の聖書に登場するイエス・キリストの最後の日に描かれている最後の晩餐の情景を描いている。ヨハネの福音書より、キリストが12弟子の中の一人が私を裏切る、と予言した時の情景である。
絵はミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グランツィエ修道院の食堂の壁画として描かれた。
420*910cmの巨大なものである。
1495年から制作にとりかかり1498年に完成。数少ない完成した作品の一つであるが、最も損傷の激しい絵画として知られている。テンペラ画の技法で描いた。テンペラは、卵、ニカワ、植物性油などを溶剤として顔料を溶き、キャンバスや木の板などに描く技法であるが、温度や湿度の変化に弱いため、壁画には向いていなかった。
また、レオナルドは壁面からの湿度などによる浸食を防ぐために、乾いた漆喰の上に薄い膜を作りその上に絵を描いた。しかし、この方法も湿度の高い気候も手伝い、激しい浸食と損傷を受ける結果になった。

最後の晩餐 Leonardo da Vinci (1498)
「最後の晩餐  (1948) 壁画、テンペラ420*910cm」
描かれた当時からこの部屋は食堂として利用され、食べ物の湿気、湯気などが始めにこの絵を浸食する原因になった。
16世紀から19世紀にかけて損傷や剥離部分の修復および剥離部分の書き足しが行われた。修復者のレベルにばらつきがあって、あまり良い結果を生んでいない。
17世紀には、絵の下部中央部分に食堂と台所の間を出入りするための扉がもうけられ、その部分は完全に失われてしまった。
17世紀末には、ナポレオンの時代、食堂ではなく馬小屋として使用されており、動物の呼気、排泄物によるガスなどで浸食がさらに進んだ。この間、ミラノは2度大洪水に見舞われ、壁画全体が水浸しになった。
1943年8月、ファシスト政権ムッソリーニに対抗したアメリカ軍がミラノを空爆し、スカラ座を含むミラノ全体の約43%の建造物が全壊する。その際にこの食堂に向かって右側の屋根が半壊するなど破壊されたが、壁画のある壁は爆撃を案じた修道士たちの要請で土嚢と組まれた足場で保護されたが、この期間激しく損傷を受けた。
保存上の悪条件に加え、過去の修復が逆に剥離を進ませてしまったり、元々無かったものが書き足されるなどしたため、レオナルドが描いた絵がどの程度残っているのか20世紀後半まで不明であった。
1977年から1999年5月28日にかけて大規模な修復作業が行われた。これは、ミラノ芸術財、歴史財保存監督局によるもので、修復作業は修復家のピニン・ブランビッラが一人で20年以上の歳月をかけて行った。
この修復は洗浄作業のみで、表面に付着した汚れなどの除去と、レオナルドの時代以降に行われた修復による顔料の除去が行われた。その結果、後世の修復家の加筆は取り除かれ、レオナルドのオリジナルの線と色彩が蘇ったが、オリジナルが全く残っていない箇所もかなりある。ーーーーーーーーーーーーー「インターネット情報はここまで」
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制作当時に奇跡の絵画と呼ばれたが、以上のような経緯から、現在では存在自体が奇跡的だと言われている。
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ーー「再び小説の内容に戻る。」
成城大学時代、恋人のあおいの22歳の誕生日を祝った時までは、幸せだった。この22歳の誕生日に、2000年の5月25日のあおいの30歳の誕生日に、フィレンチェのドゥオモのクーポラで、会えたらいいなあと、あおいに言われた。
二人にとって、幸せな時間が永遠に続くはずだったのに。主人公の修復士の父が、恋人との間にできた子供を脅迫まがいに堕胎させ、二人を別れさせたのである。
不幸な別れ
をした後幾年経っても、その2000年5月25日のことが、主人公の頭から抜けない。そうこうしているうちに、イタリアでは新しい彼女ができ、職場では修復の依頼を受けた名画を誰かが切り裂いた事件が起こり、東京では祖父を取り巻く肉親の愛憎が繰り広げられた。イタリアでの修復工房の閉鎖にともないその職場を離れた。今の女とも別れた。今後、何をどうやっていけばいいのか、悩んだあげく、東京に戻る。
頭からは、どうしても、2000年5月25日が消えない。
まさか、彼女には会えそうもないが、再びイタリアへ、フィレンチェのドゥオモに向かった。
小説だから、面白くなくてはイカンのだ。
会えそうもないと思っていたあおいが、やってきたのだ。変だと思ってはイケンのだ。小説なんだ。久しぶりに会った二人は3日間、愛し続けた。何をした?か、愛した?は、賢明な読者はそんなことに拘らないでさらりと、読み過ごすことだ。愛し合った後、帰りの駅まで送ってくれた主人公の修復士を、その場に残して、恋人の元に戻った。あおいは背を向け、一度も振り返らなかった。
主人公の修復士は、彼女の冷静と情熱の間で、浮雲のようにぼんやりと、駅の周辺を漂うのである。
小説の内容は、こんなものだ。
私には、男と女の愛のドラマをきちんと理解できないのです。
映画を観終わって、一緒に見た女性と私には、内容において随分感性にズレがあると思ったことはしばしばです。だから、この小説についても私には感想を述べる資格はないのです。
この本の本意である男女の恋愛問題ではなく、調べた「最後の晩餐」の歴史を纏めておきたかったのです。作者にとって、我輩はどこまでも嫌な読者だ。

2008年6月1日日曜日

中曽根さん、それでも日本は単一民族ですか

アイヌの人々は先住民族
今国会で決議採択へ
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「朝日新聞 5月末のある日の朝刊」より
政府は96年の有識者懇談会報告書でアイヌ民族の先住性・民族性は認めたが、先住民族とは明確に認めていない。
認めれば、土地補償などの権利問題が起き、財政負担が生じるとの懸念があるためだ。
しかし、昨年の国連の総会では、先住民族に幅広い権利を認める「先住民族に関する宣言」が日本も賛成して採択された。7月の北海道洞爺湖サミットを前に、先住民族と認める国会決議を採択する機運が高まった。
その後の調整で、「アイヌの人々が労働力として拘束、収奪されたため、その社会や文化の破壊が進み、『同化政策』により伝統的な生活が制限、禁止された」などの記述は削除したが、アイヌの人々を「独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族として認める。「高いレベルで有識者の意見を聞きながら、これまでのアイヌ政策をさらに推進」することを政府に求めるーーーとの部分を残す方向で各党が一致した。
が、政府は、国会決議が採択されても従来の見解を変更する姿勢は示していないが、有識者会議の設置などの取り組みを強化する方針だ。


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1986年、当時の首相だった中曽根康弘氏が、アメリカで「日本は単一民族」と発言した。それを聞いたアイヌの人たちは、一斉に抗議した。私も、怒った。元々、氏とは人間的要素において、何もかも違う私は、居酒屋で徳利片手に楯突いたのが精一杯の抗議で、それまでだった。
当時、私は朝日新聞のある編集者の著作物に入れ込んでいたので、ことさら、中曽根氏の発言は許しがたいものでした。その前にも、中曽根氏の世界観が私とは随分違う人だな、と感じていた。この問題は、今後大きな社会問題に発展するだろうと予感した。
でも当時は、政府もアイヌについてはその程度の認識だったのです。
だが、5年後の91年には、国連への報告ではアイヌ民族を少数民族と認めた。
そして、95年には、人種差別撤廃条約を批准した。少数民族に対する考え方が、がらっと変わってきたかに思えた。
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でも、悲しいかな。その後にも、政治家のアイヌ民族に対する誤った発言が繰り返されたので、下記にその内容①②も付け加えた。
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2001年7月2日
①北海道選出のムネオハウスで有名な鈴木宗男自民党代議士が、2日、東京・有楽町の日本外国特派員協会での講演で、「(日本は)一国家、一言語、一民族。アイヌ民族は今は全く同化された」などと発言した。
北海道ウタリ協会は、「情けない、アイヌを一番知るはずの地元の鈴木代議士が正気で発言したとは思えない。中曽根首相の単一民族発言から15年たつのに、相変わらずの認識だ」と。
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②同日、平沼赳夫経済産業相も、札幌市内のホテルで開いた自民党の中川義雄参院議員のセミナーで、「小さな国土に一億一千六百万人のレベルの高い単一民族でぴちっと詰まっている。この人的資源があったからこそ、あの大東亜戦争に負けて原爆まで落とされて、いまだにアメリカに次いで世界第2位の経済大国の座を守っている」などと述べた。
この発言に対しても、平沼経済産業相はアイヌの人たちから批判を受けた。
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アイヌ民族最大の団体「北海道ウタリ協会」は5月16日、協会の名称を設立当時の「北海道アイヌ教会」に変更することを決めた。
アイヌ語で「アイヌ」は「人間」、「ウタリ」は「同胞」の意味。
アイヌという言葉が差別的な意味で使われていたことがあり、入会時などの心理的な抵抗を軽減させる、ということで「ウタリ」を使ってきたが、97年のアイヌ文化振興法制定などに伴って民族や文化への理解が進んできた社会的背景の変化などから、民族の本来の呼称であるアイヌにもどすべきだという声が高まった。
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20080607 朝日朝刊 天声人語より~
《その昔この広い北海道は、私達の先祖の自由の天地でありました》。85年前に初版が出た『アイヌ神謡集』の序は、そう始まる。編訳者の智里幸恵「ちりゆきえ」は自分達を「滅びゆくもの」と呼び、文化の一端でも残そうと病身にむち打った
彼女は母語と和語を自由に操る天才少女だった。見出し、導いたのはは言語学者の金田一京助だ。南の文明に脅かされる同胞が「進みゆく世と歩をならべる日」を夢みて、幸恵は19歳で逝く。本は間に合わなかった。
アイヌを列島北部の先住民族と認める国会決議が、全会一致で採択された。〈多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされた〉。その権利を守る政策をさらに進めるよう、政府に求めている。
つ11年前まで、アイヌを旧土人と呼ぶ法律があった。土着の史実を認めていたも同じだ。先住民族の権利を尊ぶ国際的な流れにならえば、「歩をならべる」べきは世の中の方で、決議もその一歩となる。
異なる文化や習慣が出会うことで、社会は厚みを増す。反対に「単一民族」の虚構は、妙な思い上がりに化けかねない。すべては多様性を認め合うことから始まる。
『銀の滴(しずく)降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに』。フクロウの神は、そう歌いながら飛ぶ。「神謡集」冒頭の一編だ。神は金持ちの子らが放つ金の矢をよけ、貧しい子の木の矢にわざと射られる。大自然と折り合い、漁猟や耕作にいそしむ心優しき民。幸恵が伝えようとした、先住民族の生活や精神に学びたい。