2008年8月29日金曜日

敵こそ、我が友~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生

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(080815-17:30~)

監督・ケヴィン・マクドナルド

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銀座テアトルシネマの映画紹介よりーーーー。

元ナチスの男は、なぜ裁かれることなく、長年自由の身でいられたのか。その謎から戦後史の裏側を暴く、衝撃ドキュメンタリー!!。東京・銀座テアトルシネマクラウス・バルビーーーー先天の怪物か、戦時の産物か。彼は、1935年に22歳でナチス・ドイツの親衛隊に所属してから、1987年にフランスでの裁判で”終身刑”を宣告されるまでの50数年の間に”3つの人生”を生きた。それもとびきり残虐で欺瞞に満ちた人生を。

第1の人生は、ドイツ占領下のフランスで、レジスタアンス活動家やユダヤ人を迫害、〈リヨンの虐殺者〉の異名をもつ、ゲシュタボとして。

第2の人生は、戦後のヨーロッパでアメリカ陸軍情報部のためにスパイ活動をしていたエージェント・バルビーとして。

第3の人生は、南米ボリビアにおいて、軍事政権を支援、チェ・ゲバラの暗殺計画をも立案したクラウス・アルトマンとしてーー。

バルビーの一生は、政府や秘密組織との醜悪な関係なしには成り立たなかった。大戦後、ドイツとかっての敵国であったアメリカは、バルビーがナチス戦犯だと知りながらも、冷戦に勝ち抜くために対ソ連の諜報活動に利用した。しかし、間もなくバルビーの素性をフランス側に察知されると、”ラット・ライン”を使い、彼を秘密裏に南米へと逃亡させた。”ラット・ライン”とは、まさにねずみの抜け道の如く、国外への逃走ルートを意味し、その策動にはバチカン右派の神父たちが深く関わっていたのだ!多くのナチス残党が海を渡ったその陰で、カトリック右派の聖職者たちがうごめいていた。

1951年、”アルトマン”の偽名を使い、バルビーはボリビアへ到着。1964年、クーデターでボリビアに軍事独裁政権誕生、背景にはバルビーの暗躍があった。時を同じくして1966年にチェ・ゲバラがウルグアイ人に変装し、ボリビアに潜入、ゲリラ活動を開始する。反帝国主義を掲げるゲバラに対し、生涯懸けて反共主義を貫くバルビー。対極にある2人の数奇な運命がここで交錯する。

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本作は、バルビ本人の肉声はもちろんのこと、レジスタンスの英雄であるジャン・ムーラン、バルビー裁判の模様,チェ・ゲバラの演説風景や無造作に横たえられた彼の遺体などの貴重なアーカイブ映像と豊富なインタービューとで構成されている。これらの映像と新たな証言の数々は、どんなスパイ小説や劇映画をも凌駕し、我々に真実を訴える。

戦争が終結してから60年を経た今も尚、国家や政府は得体の知れない組織や個人と関わって、成果を上げているという監督の言葉に、本作の扱う現代社会に通ずる今日的なテーマが明示されている。

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(0808??)

朝日夕刊・文化欄

重層的な20世紀裏面史

評論家・秦 早穂子

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クラウス・バルビー(1913~91)。またの呼び名は〈リヨンの虐殺者(ブッチャー)〉。多くのフランス人にとっては、許しがたき存在だが、一体、彼は何者か?

ナチス・ドイツのゲシュタボとして、彼は43年、リヨンで抵抗運動の統一者ジャン・ムーランを逮捕、拷問。ムーランはドイツへ護送中死んだとされている。更に多くのユダヤ人っを収容所に送ったが、孤児院の子供たちの命まで奪い、生き残ったのは1人。戦後は米陸軍情報部(cic)に雇われ、冷戦下、反共政策の工作員として活躍した。

フランス側のバルビー引渡し要求をかわすため、cicは彼と一家を南米のボリビアに逃がす。51年から83年まで、バルビーはナチス残党の首謀として、第四帝国の建国を夢見た。ここまでは、他の優れたドキュメンタリーでも追及されてきた。

本作は、ムーラン、ユダヤ人、わけてもチェ・ゲバラ暗殺計画に彼が関与した新事実を縦糸に、出生から3度の変名、獄死までを横糸とし、20世紀の裏面史を重層的に抉(えぐ)り出す。

スコットランド出身のケビン・マクドナルド監督は、数多くの資料証言を土台に深い闇に迫る。問題はあまりに複雑で、理解できにくい点もあるが、世界の権力構造は今も決して変わるまい。歴史は長い年月をかけて検証するもの。それにしても事実は想像を絶し、真相は謎だ。

恐怖の弁護士と言われるヴェルジェスはバルビー裁判の法廷で、被害者であるフランス人は加害者でもあると指摘し、人間の責任を追及する。政治、歴史を超え、裏切り、密告、抵抗、協力と、人間の根本的問題にまで突っ込んだ重要な作品である。

新聞拾い読み、5話

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(080824)

朝日朝刊

① 偶然の贈りもの

論説委員・辻篤子

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月より400倍大きい太陽が、ちょうど400倍遠くにある。

月が太陽を完全に隠す皆既日食が見られるのは、この配置の妙のおかげだ。こんな偶然がよくあったものだと、東京・北の丸公園の科学技術館に今週完成した「シンラドーム」の立体映画を見ながら改めて思った。

このドームは、宇宙から細胞の内部まで、最新の研究成果を3次元画像にして見せてくれる。その一つ、国立天文台が作成した画像は、ある天体が地球に衝突し、飛び散った破片が集まって月ができるまでを描いている。月は、ほんの偶然の産物であることがよくわかる。

自然が私たち地球人に「黒い太陽」を見せる粋な計らいをしてくれたのか。中国西域のゴビ砂漠まではるばる出かけて見た今月1日の皆既日食が脳裏に浮かんだ。真珠色のコロナと、プロミネンスと呼ばれる紅色の炎に縁(ふち)取られた黒い太陽は、同行した日食観測歴20回近いベテランもうなる美しさだった。

もっとも、この幸運も永遠には続かない。月は毎年3センチほど、地球から遠ざかっているからだ。いずれ皆既日食は見られなくなる。せめてそれまでは、自然の贈りものを、たっぷり楽しみたい。

幸い、来年7月22日にはトカラ列島など南の島々で見られる。

その後もほぼ3年に2回、地球のどこかで起きる。遠くまで旅するのが面倒という方は、関東地方などで見られる2035年まで長生きを。

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(080820)

朝日朝刊

②離島の決断/物価高でも、自然守る新税

今村尚徳

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沖縄の離島、伊平屋村で7月、「環境協力税」の徴収が始まった。沖縄本島からなら2380円のフェリー代に100円上乗せし税収を島の環境保全に使う。観光客だけではなく村民も負担する。

隣の離島、伊是名村も05年に同様の税を導入しており、伊平屋村は全国で2例目。村によると7月の税収は22万4600円だった。

同じ7月、増田総務相の視察に同行し、沖縄の石垣市を訪れた。住民との会合で、石垣島への渡航費が往復3千円を超すという西表島の女性は「子供を通院させるのは負担が重く、軽い風邪でも入院せざるを得ない」と訴えた。

原油高で渡航費が上がり、離島の暮らしは厳しさを増す。伊平屋村も、100円の負担でさえ重く感じるはずだ。それでも村は、サンゴ礁に囲まれた島の自然を守ろうと、新税導入の道を選んだ。

地方の交通手段の確保は当然必要だ。一方で、便利さだけではなく、歴史や文化、自然を大切にしなければ地域の豊かさは生まれない。負担を受け入れた離島の決断を、都市に住む一人として重く受け止めたい。

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(080827)

朝日朝刊

③ワンバウンドが駄目なら/MLB

イチロー怒りのストライク返球

シアトル=山田佳毅

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「あれって僕のエラーなんですか。解せないですね」。味方の劇的なサヨナアラ本塁打で延長戦を制した後も、イチローは不服そうだった。

3回2死二塁、ツインッズのカシーヤが右前に転がした打球をつかむと、イチローは本塁へ低いワンバウンド送球。これを捕手のバークが捕球し損なう。二塁走者は生還し、打者走者は一気に三塁へ。イチローの送球に「失策」が記録されたのだ。4回、同じ場面がきた。2死二塁で右前安打。ならば、ということだろう。猛然とダッシュして捕球したイチローは、捕手のミットっをめがけてノーバウンドのストライク送球。ミットが高い音を立てて球を吸い込み、今度は走者を悠々とタッチアウトにした。

チーム内に存在する野手としてのレベルの差は、イチローの悩みの一つだった。捕ってくれないのはつらいか、との問いに「聞くまでもないよね」。ただ、2度目の有無を言わさぬプレーで、少しだけ溜飲を下げたように見えた。

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(080826)

朝日朝刊

④ウシやシカ、方位磁針と同じ向き

グーグル・アースで発見/ドイツ・チェコのチーム調査

香取啓介

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哺乳類の「弟六感」は地磁気を感じる力---。ウシやシカのこんな隠れた能力が、ドイツとチェコのチームの調査で明らかになった。草をはんだり休んだりしているとき、体は方位磁石の針のように、おおむね地磁気の南北を向いている。米科学アカデミー紀要(電子版)に発表する。

ネット上で無料公開されている衛星写真「グーグル・アース」で、欧州、アフリカ、アジア、南・北アメリカ、オーストラリアの計308の牧場を調べた。草をはんだり休んだりしている計8510頭の牛を選び出し、体の向きを調べたら、多くの牛が地磁気の南北を向いていた。

チェコ国内で野生のシカ計2974頭の生態や雪に残った「寝床」の跡を調べた結果も、同様だった。シカの場合、大半が頭を地磁気の北極(磁北極)に向けていた。

ウシやシカが体を同じ方向に向けることは以前から知られていたが、風や太陽の向きの影響だと考えられていた。地磁気を感じる力は、渡り鳥やサケなどが身につけて移動に使っているが、哺乳類ではネズミの仲間やコウモリなどで報告があるだけだった。

チームは「何千年もの間、牧童や狩人が気づかなかったことに驚いている。人間も、座る向きが南北と東西とでは、脳波が明らかに異なる。こうした研究の端緒になるだろう」としている。

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(080822)

朝日朝刊

⑤食の安全/牛レバーの生食、危険伝えよ

九州大准教授〈細菌学〉・藤井 潤

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牛の生レバーやユッケなどを食べて、O157など腸管出血性大腸菌に感染する人が目立つ。きわめて危険で死亡することもあるのに、飲食店では幼児や児童、老人までもが平気で生肉を口にしている。これは、私のように細菌学を専門とする立場からは自殺行為に映る。国や自治体は十分な啓発や防止措置を講じてほしい。

厚生労働省によると、腸管出血性大腸菌が原因で07年に発生した食中毒事件は25件。このうちの10件は牛の生レバーやユッケ、焼肉料理が原因だった可能性があると判断された。06年は24件のうち17件で生レバーなどが関係していたとみられ、原因の多くを占めている。

腸管出血性大腸菌は牛の腸内に存在し、わずかな量がヒトの体内に入るだけで下痢や発熱、激しい腹痛や血便を引き起こす。幼児や老人は重症化しやすく、老人ホームなどで発症者の1割前後が死亡した例もある。

96年にレバーの生食で食中毒が発生したため、厚労省は98年に牛と馬の生食に関する衛生基準を定めた。それによれば、とちく場や食肉処理場、飲食店での肝臓処理は専用のまな板や包丁を使い、販売時は「生食用」と表示することなどとされた。

しかし、強制力はないので、多くの飲食店はいまも加熱用の肉を生で客に出している。事実、埼玉県が6月、119店の飲食店を調べた結果でも83,2%にあたる99店が「生食用」の表示がないまま肉を生で提供していた。それどころか、驚くべきことに厚労省の調査では、07年度に全国のとちく場から出荷された生食用の生レバーはゼロだった。牛レバーに限れば、市場には厚労省基準を満たす食材はそもそも存在しないことになる。

厚労省はまた、若齢者や高齢者らが生肉を口にしないようにという注意喚起をしている。しかし、ほとんどの国民はいまだレバ刺しなどの危険を認識せず、「生食用」と表示された牛肉や馬肉が存在することさえ知らないのではないか。

最近の知見では、牛の肝臓には、一定の割合で食中毒原因菌のカンピロバクターが存在することもわかってきた。厚労省は通知を出してよしとせず、特に牛レバーの危険についてより積極的に国民に周知してほしい。

衛星基準のあり方も再検討すべきであろう。多くの店で基準が守られていない以上、メニューに生食用の肉を使っていることの記載を義務づけるなど、より強い措置が必要ではないか。

私たちも、牛の生肉は時にヒトを死に至らしめることをよく認識し、飲食店は少なくとも加熱用牛レバーを生食用として提供することをやめ、消費者も口にすることを避けてほしい。

ヒャクニチソウ(百日草)とサルスベリ(百日紅)

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先日、横須賀の武に、司法書士の銀子正美さんと不動産の登記のことでお客様の家にお邪魔した。客間には仏壇があって、花瓶にヒャクニチソウが挿してあった。花についての知識は乏しいのですが、見た瞬間、懐かしさがこみ上げてきた。無粋な私の目にも快かった。ヒャクニチソウが久しぶりだったのです。子供の頃、祖母が畑の隅っこで花壇を作っていた。春に種を蒔いて、夏の早い時期に花を咲かせるのでした。祖母は、この花はヒャクニチソウと言って、百日は無理だけれど、それ程長く咲いているので、このような名前がついたんだ、と教えてくれた。子供心に、花の名前もそのようにして付けられるものなのだと、感心した。祖母は、咲いた花を切って仏壇にお供えしていた。几帳面な人だった。仏壇には、祖母の夫と私の父の兄(祖母にとっては、長男)が祀られていた。祖母が言うように、真夏の炎天下、花は長く咲いていた。切花にした花も、日持ちした。その祖母は、私が社会人2年生のとき亡くなった。父や母には厳しかったけれど、私には優しく、よく可愛がってくれた。

そして、場面は変わります。

私は、今でも毎朝犬の散歩をしています。もう15年程の習慣になっている。雨の日も、風の日も、雪が降っている日も、決して欠かしたことはありません。一年半前に逝ったゴンとは13年間、ポンタとツバサとは今から4年程前から。約4年間は、犬3頭との散歩だった。この犬との毎日の散歩は、とても楽しいのです。睡眠時間をたっぷりとった後なので、精神状態は、とても穏やかな時間帯なのです。夏も冬も、朝5時に家を出るのです。大型犬だったゴンとは、どんどん遠くまで散歩した。

犬との散歩で、私はそれぞれの家の庭に咲いている花や、樹木や花木を観賞するのも楽しみの一つにしているのです。管理が行き届いている庭や、人の手をあまりかけていない野放図な庭、草花の寄せ植え、野菜に重きをおいている庭、そんな他所の家の庭を見て回るのです。又、コンクリートの縁石のちょっとした隙間から、名も知らぬ草花が咲いていたりするのです。近所の誰かが作った割り箸のような柵でその小さな花を守っている。にっこり、微笑まずにはおれません。U字溝の枡の底から生えて、鉄の格子から首を出している草。ガンバレ。春夏秋冬と、それぞれの季節の変わりようも楽しい。景色はきちんと変わるのです。

夏、今頃のことです。夏の草花は多種だけれども、花の咲く花木が割と少ないように感じるのです。その少ない花木のなかで、一番目につくのがサルスベリです。紅い花、白、紫に近い赤、白に少しピンクがかった色、微妙に違った花をつけるサルスベリが今、盛りなのです。散歩中、遠くに色モノの花を見つけると、私は犬の都合など無視して、その花に向かっていくのです。そして、確認するのです。名前は知らないが、かなりの花を見ています。それが、今はサルスベリなのです。大木にならないので、家庭の庭木や街路樹に使われているのが多いように思う。枝に小さな花が群れて咲き、その枝の先に次から次と蕾ができて、それが開花し、いつまでも枝に花が咲いているように見えるのです。当然、咲いた花は、時間が経つと散り、地面にはジュウタンが敷き詰められたように、紅だったり、白だったり、ピンクだったり、あまり性急に掃かなくてもいいに、と私は惜しむ。

相模鉄道の駅「万騎が原」の駅前の通りの街路樹は、立派ですよ。

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そして、サルスベリのことを調べようと、インターネットで、「さるすべり」と、キーを叩いた。猿滑り、だろうか。植物学名なら、カタカナだな。それで、変換していたら、「猿滑り」は出てこなくて、「百日紅」と出た。はっは~ん、なるほど、と納得したのです。

田舎で祖母から教えてもらった百日草(ヒャクニチソウ)と、この頃のこの百日紅(サルスベリ)が、私の頭の中で連なった、ということです。

私が家人に、百日草やサルスベリの話をしたら、彼女が庭の花を指差し、あの花が日日草です、と言うではないか。私にとって一番身近な、自分の庭の花を見てはいながら、その名を知ろうとしなかった、そのうかつさを恥じた。日日草は、梅雨の頃から秋まで咲き続け、日々新しい花が咲き変わることからこの名前がついたそうだ。それぞれの花は1日花ではなく、3~5日はもつ。

私も、昨日(080829)、女性スタッフに花屋さんから買ってきてもらって、会社の前にプランタン3個に12株の日日草を植えた。社員の目に、お客さんの目に留まれば、嬉しいのだが。

千日草って花もあるらしい。これは後日なんかで、縁があろう。

2008年8月25日月曜日

カッコつけかた「団塊」に学べ

私は昭和23年9月の生まれです。ネズミ歳です。団塊世代の後半部です。経済活動のなかで、色んな人に巡り合って、仕事や仕事以外の局面局面で、あなたはどのように考えたり 、思ったりしているのですか、と尋ねられることが多い。その折、真面目には答えてきた心算だ。

お前は、何のために会社を運営してるの?私はその質問に、金持ちになりたいわけではありません、と答える。と、質問者はその真意を確かめたがった。それじゃ、お前は何故そんなに苦労して、何が目的なんだ、と質問は段々厳しくなってくる。私は、迷うことなく言い切ります。私の人生の証明のためです。それって、どういうことや。私は、それは評価です。私の実績を、人はどのように私のことを評価するのか、それを確かめたいのです。果たして「私は何者なんじゃ」を知りたいのです。

そのように私は考えながら生きてきた。後の文章を読んで、私が生きてきた道程のなかで、自分の今までの言辞に対しても、なるほどと思わせる答えがあって、後日のためにも保存したい文章だと思って転載させていただいた。

私の生き方と言っても、そんなに大した原理原則があるわけではないのですが、でも、だ、ちっぽけな私にだって、誰にも侵されたくないささやかな原理があるのだ。それは、知らず知らずのうちに、自分の中に秘め育てているようですね。

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カッコつけかた「団塊」に学べ

(080821)

朝日朝刊

プロデューサー・残間里江子

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戦後最長といっても、良くも悪くもないふつうの時間がずっと続いてきたような景気拡大期だったが、その終わりにさしかかって、吹く風がいきなり冷たく感じられるようになった。

とはいっても、団塊の多くの人たちは、まだ風の冷たさを実感していない。私一人だけじゃない、みんながいるから大丈夫と、のんきに構えている。幼い頃から多くの仲間とひしめき合って生きてきた団塊世代にとって、自然に身についたコミューン(共同体)的な感覚が冷たい風にも吹き飛ばされないという自信を支えている。

奇妙な自信のもう一つの支えは、貧乏の体験だ。高度経済成長を担った団塊世代には、経済の谷底にずっとうごめいてきたという記憶はない。だが、物心つくころは、戦後の貧しい光景があちこちに広がっていた。飢餓も含めて、貧乏や困窮の味は、疑似体験にせよ誰もが知っている。団塊の人たちにとって、これから吹き付けるだろう冷たい風も、人生のスタート時の大変さに比べれば物の数に入らないと思えてしまうのだ。

団塊の世代は、後に続く現役世代からは「ハッピーリタイヤー(幸福な引退)」などと揶揄される。一方で上の世代を見れば、後期高齢者医療制度の冷たさが、やがて自分たちも襲うのではないかという不安にとらわれもする。そんな中で、定年退職後に始めて迎える不況。その風を肌身に感じながら、彼等はうろたえるだろうか。

「お金がないなら、高い酒を飲むのはカッコ悪い」。それが団塊世代の選択だろう。いっそ昔たしなんだ安酒で若い頃の思い出に浸る方がカッコいい。

あるいは「最近、野菜が高いから、自家菜園をはじめた」と、友達にカッコつけるだろう。「都会でカツカツに暮らすのもなんだから、地方で町づくりプランナーの募集に応募したよ」と、移住の理由をカッコよく説明するかも知れない。

団塊世代の価値観の軸は、カッコいいか悪いか、分かれ目は知的(に見える)かどうかさ。自分の感性や考え方に共鳴してくれるはずの友人が、カッコいいと評価してくれるか、どうか。

この(単純な)価値観が、冷たい風に抗するのに意外と力を発揮するのではないか。こんな経済情勢下で「富裕層の皆様に」などというささやきかけに乗るのは、まことにカッコ悪い。みんなが生活に苦労しているのに、自分だけいい目にあっていると感じるのは、本当にカッコ悪い。そう思うのはまさに、暮らしを身の丈サイズに合わせる団塊の知恵だと思う。

無理にカッコつけているわけではない。バブル以降に買いためて消費しきれなかった物が、たんすの中にいくらでもある。おごってしまった舌も、昔はご飯と漬物で満足していたと思い出せば、ここ何十年間かが食べ過ぎだったんだと思い直せる。退職記念に買った高価なギターだって、手に入れた日の感激をいちど個人史に書き加えたなら、ちゅうちょなく手放せる。

明日は檜になろうとずっと思い続けてきた団塊世代は、同時に「ダメでもともと」の潔さももっている。団塊にとって、ともに座右の銘である「あすなろ」と「ダメもと」は、格差に苦しむ若い世代にとっても希望の言葉となるのではないか。

残間理江子(ざんまりえこ)=50年生まれ。アナウンサーや雑誌編集者を経て独立。生活・地域振興やマーケティングなどに詳しい。著書に「それでいいのか蕎麦打ち男」など。

2008年8月23日土曜日

今からでも遅くない!!岡田ジャパン

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080820。サッカーの日本代表は、9月6日のW杯アジア予選のバーレーン戦に向けてウルグアイと、札幌ドームで親善試合をおこなった。仮想、対バーレーン戦です。試合結果は1-3で日本は完敗した。

試合後、テクニシャン小野伸二は記者に、相手チームのことを「よく走りますね、このチームは。近代サッカーでは走らないとダメですね」、と同じ内容のコメントを二度も繰り返したそうだ。そこでだ、小野君、君は高度な能力をもち、ヨーロッパの名門チームに所属している君ならではの、ゲーム分析評なのだ。君はちゃんと、試合の内容を詳細に把握し、プレー中も理解している。それなら、試合中に、走って相手チームを、何故崩そうと試みないのか。君のように冷静に判断できる者こそ、いやな試合の流れを修正できる、と私は思っている。その修正能力が高かった中田英寿は、やったぜ。中村俊輔もできる。でも、その中田はもういない。君にこそその役割をやってもらうしかないのだ。それができないようであれば、チームにとって君は邪魔なのかもしれないのです。今後の日本について問われれば、主戦場をドイツに置く男として「相手にかわされようと90分間のハードワークすること」と説いた。だが、それは自身の耳にも痛い、と紙上にはある。ここで、又、私は吼える。そんなに解っているなら、何故、試合中に小野君、君は自分のパフォーマンスを見せられないのだ?

オシム前監督は、言っていた。日本には、うまくなったら走らなくてもいいのだ、というような風潮がある、と。そこで、岡田監督、私が信頼している監督さん、ガツガツ走る選手を率先して使ってみてはどうだろう。走ることは、考えることです。走りながら、相手を動かし、陣営を崩して、チャンスを作る。ほころびが生まれたら、そこにこそ攻撃のすべての動きを連動させる。強い意志をもって、果敢に闘うのだ。それが、勝負というものだ。

小野伸二にしても、この程度なのだから、考えて行動する、は難しいのかもしれない。そしたら、考えなくても意識しなくても走れる選手、頑張れる選手、シュートまでどんなにしてでも持ち込もうとする選手、俺が、俺が必ず入れてやると意気込む選手、そんな選手を本番では使って欲しい。小野にはオーラがあると紙上に書かれている、だから、私は小野が怖いのだ。上手すぎる、それがアカンのだ。影響力があり過ぎて危険なのです。

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大胆な選手の起用を考えてくれ。
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試合内容を、スポーツニッポン紙の記事を借りて記しておこう。ウルグアイが、長いパスを早いタイミングで入れてくるアジアの強豪と似た攻め方をしたので、いいテストができた。バーレーンはボールを奪ってから速攻を得意としている。後半3分、中村憲は右サイドをゴールライン付近まで駆け上がり、小野からのパスを受けて右足で蹴ったボールが相手チームのプレヤーにあたって、オウンゴールを誘った。これが、先制点になり、それから5,6分間の日本の攻撃はよかった。阿部が中盤を押し上げ、攻撃に厚みができた。が、日本の攻撃はその後、中盤は間延びし、相手を崩すまではいかなかった。トップの玉田、下がりめの田中達、玉田に代わった大黒も、佐藤秀も山瀬も空回り。日本代表には、ボールに絡む積極性がみられない。球際の激しさを貫いたのは、ウルグアイだった。

守備が肝心要だ。私も学生時代、守備を任されていた。絶対、相手にゴールをわらせせない、と我武者羅に守りきった。狂ったように守った。猛者が必要だ。ケガで出場できなかった選手もいたと聞いている。敢えてあの選手がいいんじゃないの、と安易なことは言えないが、岡田監督には解っているはずだ。走れる選手と狂ったように守れる選手による布陣を整えて欲しい。

ウンザリした試合運びに、焼酎のお湯割りを飲むピッチがあがり、お湯を注ぐのも忘れてストレートに。もうこれで私のW杯の夢がもてなくなるのでは、と悲嘆にくれたまま布団の上に転がった。こんな試合を繰り返していたら、なんの進歩もあらへんぞ。夢は儚(はかな)く消える、そんな悲しいことにはならないように、祈る。駒はある、駒はいるのだから、岡田監督に、メンバ一の組み直しをして欲しい。北京五輪でのなでしこジャパン(女子日本代表)は、アメリカにもドイツにも負けたけれど、ゴールを狙う攻撃の積極性は大したものだった。サッカーの試合を初めて見たという私の友人は、なでしこファンになりました、と言って興奮していた。

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犬飼新会長もこのゲーム内容を酷評した。「FWがペナルティーエリアの中でパスを出しているようではダメだ。監督も頭が痛いだろう」。

金子達仁のコメントより。北京で1勝もあげられなかった五輪代表が露呈した弱点は、この日戦ったA代表にもはっきりと表れていた。端的に言えば「チャンス恐怖症」。攻撃参加するDFについては当てはまらないのだが、本来攻撃を主たる仕事とするはずの選手たちはなぜか決定的な場面になると手柄を味方に譲りたがってしまう。そうでなくても多くはないチャンスを譲り合っているのだから、得点など奪えるはずもない。

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「勝負強さ」研究を
(080822)
朝日朝刊・忠鉢信一

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「勝負どころで相手が上だった」。球技の負けた試合の日本選手を取材している時に、こんなコメントを何度も聞いた。
男女のサッカー。男女のビーチバレー。女子のホッケー。男子のバレーボール。
日本の球技の選手は「勝負弱い」のだろうか。だとしたら、どうやって克服したらいいのか。勝負強さの強化法というものは聞いたことがない。まず勝負強さの正体を解明することが、具体的な強化の第一歩になる。
ソフトボールの斉藤監督は「集中力」と言っていた。きっとそれも関係がある。
サッカー女子のFW大野は「マークが外れてここだと思っても、走れないことがあった」と反省していた。単純な体力だけでなく、体力をどう配分するかも大事だ。
サッカー男子のDF内田は「いつでも自分の力を出せると思うのは甘い」と話していた。自分が不十分な状態をどうしのぎ、相手が不十分なところをどう攻めるか。それも勝負強さだろう。
闘争心のような精神力だけでなく、状況判断や駆け引きのスキルが絡んでいそうだ。
かって日本選手は「プレッシャーに弱い」と言われていた。日本体育協会が85年に「スポーツ選手のメンタルマネジメント研究」を始め、今ではプレッシャーを克服するための具体的なノウハウやスキルがある。
同じように勝負強さについての研究に取り組めば、対策が見えてくるかもしれない。

2008年8月19日火曜日

新聞拾い読み 5話

①長嶋さんが似合う場所
(080729)

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高層ホテルから眺める東京ドームは、まるで宇宙の果てから地球に降り立った巨大宇宙船である。居心地が悪そうであり、場違いであり、そこに存在していることに戸惑っている。
「プロ野球」と「場違い」からの連想で頭に浮かんだのは、10年ほど前の取材で訪れた東大総長室での一場面だった。
当時総長で、サッカーのACミラン(イタリア)大好き「少年」蓮実重彦さんと、巨人大嫌い長嶋大好きの文芸評論家、渡部直己さんが、長嶋について「意気投合」していた。テーマは「ラテン系・長嶋茂雄」。
蓮見さんが話す。
「野球はアングロサクソンのスポーツ。サッカーはラテンのスポーツ。長嶋の最大の功績は、ラテンのノリを野球に持ち込んだことですよ」
渡部さんの応じる。
「長嶋以前に「長嶋」はいないし、長嶋以後に「長嶋」はいない。彼は、天から舞い降りた神のプレゼントです」
新人の58年、東京ドームの前身・後楽園球場で4打席連続三振でデビューしながら、打点、本塁打の2冠王。簡単なゴロも猛ダッシュでさばき、空振りのときのヘルメットの落ち方まで「絵になる」ように研究した。
監督になってからも、彼自身が「東京ドームでの一番の思い出」と振り返る96年シーズン(11.5ゲーム差を逆転してリーグ優勝)のように、数々の「メークドラマ」を披露した。

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②親離れ、あとは山下先生に任せよう
(080726)
柔道家 井上康生のおやじ・明さん

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4 
シドニー五輪の表彰台。金メダルの康生は、かず子の遺影を掲げた

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1996年、くも膜下出血で急死した妻かず子(享年51歳)の通夜・葬儀じは3日3晩続けて執り行われた。火葬場から自宅に戻った明(62)は康生(30)の雰囲気がおかしいことに気づいた。庭に出るときトイレに行くときも、ずっと後をついてくる。
明は最初、康生が父親の自殺を心配しているのでは?と思った。そして、こんな会話が始まった。
「康生、おれは子供3人おいて、お母さんの後を追うような馬鹿なまねはしない。安心しろ」
「いや、実はーー。おやじ、今日これから、東京に帰らせて欲しい」
「なに、帰る?」
「全日本の大学柔道大会があるのだ」。絶句した明は、怒鳴りつけた。
「母親の葬儀の日に、なにを言い出すんだ。そんな大会やめろ。そんな大学も、いますぐやめろ」

康生は当時、3年生ながら東海大学のエースである。監督として康生を育てた山下泰裕(51)も葬儀に出席し、一足先に空港に向かっていた。山下が康生をそそのかしたと考え、明は激高した。
なだめたのは、長男将明(6年後に32歳で急逝)だった。
「上手に言うわけです。康生がここで嘆き悲しんでいるのと、大会に出場して勝つのと、母親はどっちが喜ぶかと」
最後に別れた明は康生を空港に送っていく。車を降りた康生が横断歩道を渡り空港ビルに入る。すると、康生の大きな背中に突然もう一つの大きな背中が近づき、肩を抱くではないか。山下である。
「抱き合う二つの背中を見て思いました。山下先生には負けたと。康生を信じて、先生はずっと空港で待っていた」
明が康生の親離れを確信し、いっさいを山下に任せようと決めた瞬間だった。
それ以降の活躍は改めて述べるまでもない。アジア大会の金、シドニー五輪で金、世界選手権3連覇ーー。
「私と康生の師弟関係は、かず子の葬儀の日まで。そのあとは全部、康生自身の努力、努力。私はなーんにもしてません」
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③8月と五輪/時の肖像
(080811) 朝日 朝刊
高橋郁男(論説顧問)

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「もし輪廻というものが実際に存在し、再びこの世に生まれてきたら、わたしは自分が作ったものを全部こわしてしまうであろう」
近代五輪を創設したクーベルタンが、そう語ったと伝えられる。
人の世が美しいことだけで成り立っていない以上、五輪もまた、美しいだけのものではありえない。
それは認めるとしても、やみくもな商品化や、国威発揚のたくらみに流され続けていいはずもない。
企業、国家からの過剰な支援や、人体を改造するかのような動きからは自由になるべきだろう。主役はあくまでも選手であり、そのひとりひとりが全力を尽くす姿を、時には勝ち負けや国籍を超えて讃え合う五輪をめざしたい。
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北京五輪
中村礼子
④200背泳ぎで銅メダル

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北京五輪第9日の16日、競泳の女子200メートル背泳ぎで、中村礼子(東京SC)が04年アテネに続く2大会連続の銅メダルを2分7秒13の日本新記録で獲得した。日本女子の個人種目の2大会連続メダルは、200平泳ぎの前畑秀子(32年ロサンゼルス銀、36年ベルリン金)以来だ。
この中村礼子の話だ。
今回の北京五輪で、100メートル背泳ぎ予選で日本記録を0秒46更新する泳ぎを見せた。だが、体力を使い果たした。6位に終わった。平井コーチの前で大泣きした。
「頑張るということは、もうだめと思ったときが始まり」
座右の銘にしている。どこで見つけた言葉か、覚えていない。逃げたくなった時、必ずこの言葉を思い出し、乗り越えて来た。

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④死に至る病 (四知)
朝日(080814)

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「死に至る病」が、日本列島に蔓延している。この病は別名を絶望という。その病根には、劣化する現在日本の経済・社会がある。
この世は危険に満ちており、人は一人では生きられないので、血縁による大家族制や地縁による共同体を形成し、濃密な人間関係を築くことで、脅威を防御してきた。
明治維新後の政府は共同体を崩壊させた。戦後の高度成長は大家族制を解体し、核家族を主流にした。バブル後は核家族すら解体しつつある。
橋本政権以降は、市場原理主義が格差社会を拡大させる一方、自己責任の下に、企業、国家は国民の生存・自由・幸福の追求を保証する安全網を取り外す仕組みづくりを進めてきた。
この結果、格差の進行によって、貧困層は孤立化を深めている。かろうじて保たれている核家族の中でも、ひとたび齟齬をきたせば、残酷な親子・兄妹殺人事件が起こる。
「誰でもよかった」という通り魔事件の容疑者の発言は、孤立化した核家族や個人が、無機質の社会と直接向き合うしかなくなった絶望の声に聞こえる。
濃密な人間関係の記憶が残る老人たちは、振込み詐欺のような悪質業者の格好の餌食となる。貧困に取り残される老人たちには、孤独死に加え、老老介護の果ての心中、殺人が増える。
欧米の「罪の文化」に対し、我が国は「恥の文化」といわれ、廉恥・善意が行動様式であったが、人間性の希薄な社会では恥の文化は意味を失う。
今必要なのは、官僚による対症療法的な制度設計ではなく、坂本龍馬のように、この国を「いま一度センタク」しようとする志である。

2008年8月18日月曜日

なぜ巨象は後塵を拝するか

京五輪の光と影。虚と実。

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北京五輪の開会式が、2008年8月8日に行われた。中国国民は8という数字が、すこぶる好きらしい。日本流には末広がり、だ。古代五輪は「平和の祭典」と言われていた。それでは、今回の北京五輪は果たして、真の「平和の祭典」と言えるのだろうか。
中国産ギョーザ事件があった。これは中国の工場で作ったギョーザが日本のお店に並び、それを食べた人が食中毒を起こしたのです。日中双方でその原因を究明した。が、中国からの返答は、自国工場では何ら原因らしきものは見つかりませんでした、との一辺倒だった。中国側にとっては、かなりグレーだったにも拘わらず、そんな処理の仕方でいいのかな、と頭をひねっていた。それからが、滑稽だった。中国で先に問題があったギョーザが回収され、その回収されたギョーザが中国国内に出回り、それを食した人が食中毒に罹って重体に陥った。そのことを中国は、洞爺湖サミットの際、日本に報告したそうだ。ただし、北京五輪開幕までは秘めておいてもらいたい、との申し出を日本政府は、ヤスヤスと承諾した、と言うことらしい。なんだか、国民そっちのけの政治は、どちらの国も似たり寄ったりだ。失望した。
そして、北京五輪が開幕した。

その開会式に度肝を抜かれた

私は開幕のセレモニーを見て、これは、これは嘘だらけではないのか、嘘っぽいと直感した。その後報道で、やはり出し物に多彩な嘘が盛りだくさんだったことを知った。千発もの「消雨弾」が雲に撃ち込まれ、花火の映像は一部CG,美少女の独唱は口パクだった。裏で歌ったのは、見た目は及ばぬが声は一番とされた別の少女である。音楽監督は「国益を考えた」と明かした。前の文章は朝日新聞の天声人語の一部を流用させていただいた。平和の祭典というものとは、ちょっと違うぞ。中国の文字文明の歴史が、絵巻物のなかに文字を書くことで、表現していた。ダンサーが体につけた墨で字をなぞったり、人間が印字に模して、リズムをとって踊るのです。印字役をはじめ、膨大な数の人間が出演した。演出は、中国の広大な大地を思わせる壮大さだった。
そこで、この大勢の出演者は、誰なんだろうか、どこに所属しているのだろうか。希望者、公務員、体育大学の学生、いろいろと思い巡らせて、ひょっとして軍隊なのでは、と思いついた。
頭の中で、勝手に出演者に軍服に着換えさせてみて、ぎょっ、とした。これらは、私の妄想です。その妄想の先は、私が生まれる12年前の1936年に開催された、ベルリン五輪とヒットラーに行き当たるのでした。その光景を写真でしか見てないので、安易なことは言えないのですが、国威発揚に五輪を大いに利用したことについては同じだろう。が、私は、時代が変わり、人類が進化していることを確信しています。
次には金だ。この開幕セレモニーで費やした総額はきっと莫大な筈だ。この莫大な費用をどこからどうして捻出したのだろうか?。どこから聞き込んできたのか、友人は、4兆円だってよ! と言うのだ。へえ、ホンマか?
中国政府の人権抑圧は、チベット自治区、新彊ウイグル自治区など少数民族支配に象徴的にあらわれている。都市部とくに沿海部と内陸の農村部との巨大な経済格差、異常な環境汚染問題をかかえている。
開幕してから、北京からは貧困層が都市部から追い払われ、外国記者に対しては開かれた報道を謳い、地元メディアには厳しい規制をしている。指導に従わなかった者は、廃業させるぞ、と圧力をかける。現実に、何人もの記者が拘束され、表現の自由が保証されていると言われている香港への入境を拒否されている。街頭での過剰な警備。こんな、中国で北京五輪が、ただいま進行中だ。加油、なんと読むのか知らないのだけれど、ガンバレということらしい。加油が連発され、中国勢は大活躍だ。
何か可笑しいぞ、と思いながらもテレビ中継で競技を楽しんでいる。私は、スポーツが大好きだ。そんな時に、この記事に出くわした。



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なぜ巨象は後塵を拝するか
(080810)
朝日朝刊 編集委員・加藤千洋


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グローバル経済では主役級に躍り出たインドだが、オリンピックの舞台ではなんとも影が薄い。アテネのメダルはクレー射撃での銀が1個だけ。過去にはお家芸の男子ホッケーで8個の金をとっているが、近年は不振続きだった。
一方、中国はアテネで金32個と米国に次ぐメダル大国へと台頭した。
「巨竜」の後塵を拝し続ける「巨象」。その訳は奈辺にありやと北京大学博士課程で研究中の若手インド人学者に問うと、「国民的スポーツは五輪種目にないクリケット。ノーベル賞やIT分野で人材が輩出するインド人は『考える人』、中国人は『行動する人』。この違いでしょうか」という答えが返ってきた。
その北京大で講演した在中国インド大使館の幹部は中国人学生を前に、こんな話を披露したそうだ。
「我が国には選手を商品に、スポーツをビジネスとする米国式資本主義もないし、他方で中国のように優秀選手を武器とし、国威発揚を目指す社会主義的発想もない」
なるほどインド人は自国の民主主義に誇りを持ち、「すべて五輪のために」という挙国体制をとりにくいお国柄なのは確かだろう。
このほかカースト制度や、スポーツに向かない女性の服装などの影響もありそうだが、「それに加えて」と中国メディが異口同音に指摘するのは経済的要因だ。
「インドのスポーツ振興関係予算は中国の8分の1以下。プロ化が遅れて優秀な成績を上げても収入に結びつかない。競技選手を目指す青少年はなかなか生まれないだろう」
そのインドに11日、待望の金メダルがもたらされた。アビナブ・ビンドラ選手が男子エアライフルで優勝した。インドにとって、個人では史上初の金だ。これがインドスポーツ台頭の起点になるかどうか。

2008年8月15日金曜日

北京五輪(080808)の新聞から

(080808)朝日朝刊
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五輪中国(北京オリンピック)に望むこと
「精力善用 自他共栄」
本社主筆/舟橋洋一
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天安門広場から北へ車で30分。「鳥の巣」がスモッグ状曇り空の中、ようやく姿をあらわした。8日、五輪開会式が開かれる北京のオリンピック・スタジアム(国家体育場)の愛称である。
そのぬくもりのあるイメージと語感に、人々のそこに託する気持ちを思う。これをつくったスイス人の建築家も「アンチ・モニュメントを心がけた」と言った。国家ではなく市民をたたえる記念碑を目指したということのようだが、そこはすでに中国の国威発揚の記念碑的構築物になりつつある。紫禁城、天安門広場、そして、「鳥の巣」スタジアムという新たな政治権力空間の登場である。伝統(王朝)と近代(主権国家)とポスト・モダン(グローバル化)をない交ぜにしつつ、「中国の世紀」への跳躍を演出する壮大な国家イベントが幕を開けようとしている。
ホテルで『五輪お天気ニュース』なるフリーペーパーを手にした。協議開催地の気象状態が載っている。中国政府が今一番気をもんでいるのはテロもさることながら天気ではないか。スモッグを晴らすため、あの手この手の「気候操作」を政府は図っているようだが。
開催にあたって、中国政府は「緑色五輪」、つまり環境に優しい五輪にすると大見得を切ったが、北京市の汚染データー改ざん事件も明るみに出た。中国は、環境ではメダルは取り損なったようだ。中国政府はまた、五輪は中国の人権改善に役立つと対外的に説明してきたが、世界の人権擁護団体は、人権圧迫は一段とひどくなっていると報告している。ここでも入賞を逸したと言わざるを得ない。
中国にとっては誤算続きだったに違いない。
胡錦涛政権は北京五輪に、富強、安定、グローバル化などのメッセージを目いっぱい投影しょうとしてきた。宇宙船に五輪旗を積み込んだ。聖火リレーは、5大陸踏破、エベレスト登頂も組み込んだ。
ところが、今年3月、ラサ暴動が起こった。聖火リレーは、チベット、ダルフール虐殺、環境、人権、食品安全などの問題に対する国際社会の中国への抗議の場となった。これに対して中国国民は、聖火リレーを貶(おとし)めるのは中国の主権を侵し、誇りを傷つけようとしていると激しく反発した。それを「中国イジメ」ととらえる若者たちの激しい排外的民族感情が噴出した。
世界は不安を募らせている。一体、中国はどういう国なのか。どこに向かうのか。中国は、世界秩序と国際規範を守るのか。破壊するのか。
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中国の国際化
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中国の外交官たちは、五輪を前に世界中で噴出した対中不信の広がりに、ショックを隠せない。知人の外交官は、それぞれに言った。
「開催時期がちょっと早かったかな。自国の弱さを外国から指摘されても、もっと平常心で対応したいものだ。もう少し自信を持ってから、次か次の次に開催した方がよかったかもしれない」(国連畑)
「外交部の同僚はみんな、疲れている。五輪を成功させなきゃと言うので、外交官が対応にただただ走り回り、外交が受身になっている。お祭りなのに、ちっとも楽しめない」(米国畑)
それでも、中国の五輪開催の意義は、過去1世紀の時間軸の中、それも中国の国際化の観点から位置づけるべきだろう。
中国国内で五輪開催の声が上がったのは1908年、辛亥革命前夜である。「アジアの病人」と呼ばれる母国を体育強化を通じて再生させることを願ってのことだった。32年のロサンゼルス大会に、中国人選手、それもたった1人の選手が参加した。大連出身の陸上短距離、劉長春。
日本の満州侵略と満州国建国への抗議の意も込め、東北軍閥の張学良が資金援助し、送り込んだ。以後半世紀、日中戦争。、内戦、文化大革命と大動乱が続いた。共産党政権の五輪本格復帰は、改革・開放後の84年のロサンゼルスの大会だった。その後、2000年開催に名乗りを上げたものの、天安門事件が足かせとなり実らなかった。北京大会は、過去1世紀の日中韓の発展と国際化のベクトルが重なりつつあることを示唆してもいる。東京五輪(64年)は日本の国際社会への再復帰を後押ししたし、ソウル五輪(88年)は韓国の民主化を促す上で力があった。両国とも、五輪を開かれた国づくりと国際的地位の向上のためのテコとして使った。中国もその流れを受け継いでいる。ただ、中国のこれからの課題は、環境や人権などの地球的、普遍的な価値と取り組みを世界の公共財として、育て、分かち合うことであろう。国際化とはそのように世界を豊かにしていく過程であるはずだ。
そのように考えるとき、最初の非西欧の五輪種目となり、世界のスポーツへと発展した柔道の国際化の意義は大きい。その礎は、20世紀初頭、アジア最初の国際オリンピック委員会(IOC)メンバーとなった講道館館長嘉納治五郎が築いた。嘉納は日清戦争後、設立した「宏文学院」という学舎に7千人以上の中国の留学生を受け入れ、全学生に柔道を課した。その中には魯迅もいた。嘉納は「精力善用 自他共栄」を柔道の哲学とした。
人間の体と心の可能性への挑戦を通じて、スポーツが人間社会の可能性、例えば「精力善用 自他共栄」といった想像力を灯すことを、私は夢見ている、台頭する中国がそのような精神を育み、世界の平和と秩序に資することを私は、願っている。そうした希望を心に秘めながら、五輪競技を中国の国民、そして世界の市民とともに楽しみたいと思う。
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朝日新聞 社説
北京五輪開幕
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「限界への挑戦」が始まる
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世界には実にさまざまな人々がいる。だれもがそのことに目をみはるに違いない。肌の色も、言葉も、宗教も異なる205の国と地域から選手が集まり、北京五輪が今日開幕する。
205の国・地域といえば、国際オリンピック委員会(IOC)に加盟するすべてのメンバーである。加盟国・地域がこぞって参加する大会は、長い五輪の歴史の中でも2大会連続3度目というのだから、その意味も大きい。
さて、このスポーツの祭典の魅力は、何よりも人が持つ能力の限界を競い合うことだ。より速く、より高く、より強く、である。
陸上の男子100メートルには新旧3人の世界記録保持者が挑む。そのなかで5月に9秒72の新記録を出したウサイン・ボルト選手(ジャマイカ)はまだ21歳の若者だ。
サッカーに夢中だった少年は、陸上を始めても専門は200メートルだった。100メートルに取り組んだのは今年からだ。それなのに、今や世界中から目標にされる存在である。
スポーツでも英才教育が進む一方で、荒削りの才能が突然開花することがある。ジャマイカからやってくる196センチの超大型ランナーはその象徴だろう。
一つの大会での金メダル獲得は、72年ミュンヘン五輪競泳のマーク・スピッツ選手(米)が最も多く、7個だった。同じ水泳王国の後輩にあたるマイケル・フェルプス選手は、それを超える8冠に挑む。種目の専門化が進むなかあで、その万能ぶりは驚きだ。
挑戦するのは、金メダルに対してだけではない。みずからの年齢や限界を超える闘いもある。
馬術の法華津(ほけつ)寛、八木三枝子の両選手は67歳と58歳だ。今大会で男女の最年長選手である。米国の女子競泳のダラ・トーレス選手は41歳だ。2度の引退をへて、5度目の五輪になる。
初参加の国が三つある。モンテネグロは2年前に独立を果たしたばかりだ。人口1万人の島ツバルは、温暖化による海面上昇という大きな心配事を抱えての参加だ。太平洋からはマーシャル諸島の選手もやって来る。
戦争や貧困、環境問題。そんな国際社会の現実からいっとき離れて、世界の人々が4年に1度、スポーツで競い合う。そしてテレビ中継を通じて同じ時間と感動を共有する。そのことの意味は決して小さくない。
もちりん、五輪が抱える問題はある。たとえば、テレビの放映権料を当てにしての大会運営のゆがみ、選手の薬物使用などは悩みの種だ。
ギリシャでの古代五輪は1200年近く続いたが、最後は拝金主義や薬物の使用が横行し、幕を閉じたという。
競技の放つ興奮を楽しみつつ、五輪の将来を考える大会でもありたい。
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祭典が映す隣国の多難さ
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聖火リレーの沿道や五輪会場周辺を埋める赤いシャツと五星紅旗。開幕を迎えた北京の街には赤があふれ、人々の喜びと興奮が高まっている。
五輪を催すまでに発展し、世界に受け入れられたことの誇らしさ。中国の金メダルラッシュもありそうだ。若いナショナリズムは最高潮に達するに違いない。
振り返れば44年前、アジアで最初に開催された東京五輪に、中国は参加しなかった。それどころか、開会式の6日後、初の原爆実験を行い、世界を驚かせた。米ソ両超大国との対立を深めつつ、共産中国の建設のまっただ中にあった。五輪の開催など夢にも考えられなかった。
新中国が五輪に初参加したのは52年のヘルシンキ大会だった。その後は台湾問題などからボイコットを続け、夏季五輪に正式に復帰したのは84年のロサイイゼルス大会からだ。
東京五輪から間もなく、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れた。そして鄧小平時代からの改革・開放政策で、ここまでたどりついた。世界はこの間の中国の変貌と発展に驚嘆している。
中国の人々の喜びは、そうした建国以来の歩みだけが理由ではない。
19世紀のアヘン戦争以来、西洋列強や日本の侵略を受け続けた歴史から来る屈辱感。心理的なトラウマとして今も意識の奥に潜むと言われている。五輪開催は、それを晴らす一つの機会なのかもしれない。
そんな中国のナショナリズムは、ときに爆発的なエネルギーを放つ。最近では99年に反米、05年に反日、今年は反仏の大規模デモを各地で引き起こした。共産党支配を揺るがしかねない力を秘めていると言っていいだろう。
このエネルギーをどう束ねていくか。これこそが今後、中国が直面する最も重大な課題なのではないか。さらなる発展の原動力になれば幸いだが、暴走しだすと社会は不安定になり、日本を含めて近隣国や国際社会も安心していられなくなる。
北京五輪によって、中国の歴史に輝きに満ちた新しいページが開かれる。
中国の人々はそう期待しているに違いない。だが、現実はそう簡単ではない。経済格差や腐敗、環境汚染など急速な発展のゆがみが噴出している。ウイグルやチベットの問題も内政の枠を超えた深刻さをはらむ。
日本も、韓国も、五輪開催後の道は平坦ではなかったが、中国の大きさと発展の速度は日韓の比ではない。
ただでさえ社会不安をもたらしかねない課題を山のように抱える中で、若いナショナリズムの独り歩きをどう防ぎ、建設的な方向に導いていくか。
日中平和友好条約の締結から30年。アジアで3度目の五輪開催を喜びつつ、13億人の隣国の多難さを思う。

炎熱ウォーキングだ

8月11日には、旅行会社の企画もので、同業者の仲間たちと磐梯山に登ることになっていたのですが、催行に必要な最少の参加者さえ集まらなくて、旅行会社から中止の知らせを、5日前に受けた。
11日は月曜日で、私の会社は毎週月曜日に早朝週例会を行っているのです。何かと理由をつけて断ることが多かった私は、いつも一緒する仲間から、今回は断らせないぞ、そんな無言の圧力を感じて、たまには皆と山に行きたい希望もあって、申し込んだ後は、もう本気で楽しみにしていたのです。
私の我が儘な都合で、今週だけ週例会を月曜日から火曜日に変更してもらった。
磐梯山に、本当に登りたかったのです。
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今から35年前、大学のサッカー部の後輩マサカツと、磐梯山に登ったことがあったのです。私は4年生、マサカツは2年生だった。当時、二人は余りにも無鉄砲だった。午後2時ごろから猪苗代湖の方の登り口から入った。登り口周辺は、冬はスキーのゲレンデになるようで、ジャンプ台もあった。頂上までは、どの位時間がかかって、何時ごろ何処に下りたらいいのか、は無確認のまま。天気の見通し、も無確認のまま。食料の量は、服装は、無頓着、無関心。
登り口で地元の農家の夫婦らしき人から、口を揃えて、こんな時間から登るのですか、と怪訝がられ、急ぎなさい、と注意された。急がなくてはならなかったのだ。体力に自信があった私達は、急ぎ足というよりも、ランニングだった。富士山登山マラソンが毎年行われるが、あんな調子で駆けたのです。想像してみてください、走っている最中も、いろんな話をした。ゲラゲラ笑った。幾らスピードを上げても、苦しくなかった。楽しかった。太陽がまだ陽がさしている間に登頂できた。山頂は、畳3畳ぐらいのスペースだった。そこで、夕日に向かって、二人揃って「キジを撃った」、関東名物連れションだ。裸になって両手挙げてのバンダイの記念写真を、互いに撮り合った。そこまでは、よかったのですが、下りには苦労した。最悪だった。頂上だから夕日に照らされていたものの、少し下山するだけで、もう谷間は薄闇に覆われていて、高度を下げていくたびにその闇がドンドン濃くなって、そのうち真夜中状態の真っ暗闇になってしまったのです。雨がポツリと顔に落ちた。コースの表示が見えない。町の灯りが、はるか遠くの方で、ポツンと見えるだけ。ただ遠くをぼんやりと見つめながら早足で歩いた。雨がポツリポツリと降り出した。街の灯りだけが頼りだった。望みの灯りだ。遠かった。
灯りに向かって歩いてはいるのだが、行き先が解らない。宿泊の予約は勿論、宿泊場所さえ決めていなかった。最悪の場合は野宿も覚悟していたのですが、雨に対する用意はしていなかった。
この二人は何かにつけていい加減だったのです。
なんとかなりますよ、大丈夫ですよ。そうか? それならエエけど、頼むぞ。こんな会話ぐらいの打ち合わせで、今まで何度も、思いつくままのことを実行してきた。信頼しきっている二人なのでした。
夜の9時過ぎになろうとしていた。平坦な山道に下りて樹木がまばらになっても、曇り空のため、依然として真っ暗闇だった。幸い、雨はやんだ。
ひたすら歩いた。そのうち舗装された道路に、やっとのことで出られた。裏磐梯何とかハイウエー?、とか言う新しくできた道路だった。車が来るのを待った。30分程して、若い女性の二人乗りの軽自動車がやってきた。私等はあたかも暴漢のように、必死で止めた。マサカツが、泊まるところがあればその近くまで乗せていただきたい、と懇願した。マサカツは無類の笑顔の持ち主で、どんな人にも好かれる、このときも必中必殺技(わざ)だった。私はこの車をもう絶対逃がさないぞ、とドアーに手をかけて放すまいとした。二人の女性は姉妹のように思われた。最初は随分と驚いたようだったが、やはりマサカツの笑顔は誰をも味方にするようでした。
ヤマオカさんは、やけにお姉さんに気に入られようとしていましたね、とヌかしやがった。そんなこと、いつものことよ。嫌われるより好かれた方がいいに決まっているやろ。それに、一般的には姉の方が何かにつけて主導するわけだから、先ずは、お姉さんに嫌われちゃいかんだろう、政略だよ、マサカツ。
その後のことは、憶えていないのです。何処まで連れて行ってもらい、何処に泊まったのか、記憶がない。
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そんな思い出多い磐梯山を、この時期に再び登れそうなのだ。同業の山仲間の先輩の配慮に感謝した。まさか35年前の再現にはならないだろうが、今回は非常に楽しみにしていたのです。あの時は、私は23歳だった。どんな社会人になるのか、皆目見当がついていなかった。社会にでたら、学校で勉強していなかった分は、きちんと早い目に取り戻して、世のため人のために働くことを誓っていた。
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そんなこんな日々から、楽しい磐梯山登山を前に、私は知らず知らずのうちに私の体に負荷の予告をしていたようです。私の体は、この類の負荷が好きで、組織細胞は、お祭り前モードになっていた。
ところが、意に反して中止になった。がっかり。この火照った体を優しく慰撫するには、それ相当の代替ストレスをかけるしかなかった。そこで、今回のためではないのですが、私は以前から秘かに練り上げていた企画があったのです。
権太坂から鎌倉まで歩くことだったのです。この企画を実行することにした。
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(080811)のことでした。
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 0730 自宅を出た。/境木地蔵、やきもち坂、品濃一里塚、赤関橋、上柏尾、不動坂、舞岡、桜堂
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毎年、正月に恒例で行われる箱根駅伝の花の2区の権太坂です。この駅伝のために、権太坂(ごんたさか)の知名度は、全国版です。どのチームも、実力者を配して、勝負をかける区間です。
出発地の権太坂のことを、横浜市教育委員会が「横浜市地域史跡」で著しているので紹介しておこう。
=この辺りは権太坂と呼ばれる。江戸から西へ向かう旅人が初めて経験するきつい坂でした。日本橋から4番目の宿場であった保土ヶ谷宿まではほぼ江戸内湾沿いの平坦地でしたが、宿の西にある元町橋を渡ったあたりより、長く続く険しい登り坂になる。
「新編武蔵風土記稿」に名前の由来は、道ばたの老齢の農民に旅人が坂の名を聞いたところ、耳の悪いこの老人は、自分の名前を聞かれたと思い、「権太(ごんた)」と答えた、とあります。坂の上から神奈川の海は大変美しかった、とあります。旅人にとって、印象深い場所となり浮世絵などに描かれ、保土ヶ谷の名所ともなりました。 (以上)
武州の国と相州の国の境だから境木なのです。ここは東海道の保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置する。
境木地蔵のことは、私の地元のことなので詳しく紹介しよう。権太坂小学校の生徒なら、誰もが授業で先生から教わっています。
昔、鎌倉由比ガ浜に漂着したお地蔵さんを漁師が浜に祀った。ところが、大雨で流されてしまった。数年後そのお地蔵さんは腰越に流れ着いた。夢でお地蔵さんから、江戸の方へ行きたいと告げられた漁師は、お地蔵さんを牛車に乗せて運んだら、途中で車が動かなくなり、漁師から託された村民は地蔵堂を作り安置したところ、村が繁盛したということだそうだ。
どのコースを歩けばいいのかと考えながら歩いていたら、鎌倉まで車で行くときによく通る道を、自然に選んでいた。
歩くのと、車を使うのとは、本来選ぶべき道は違うはずだったのに。
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 0900 舞岡公園を通過。/下倉田、小菅ヶ谷、本郷台中央公園、本郷台駅、栄区法務局、横浜栄共済病院、公田、桂町、鎌倉女子大、岩瀬、砂押橋、大船警察署、常楽寺
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舞岡地区は、歴史的には白地図のように思われる。近くには日限山地蔵はあるだけで、他に歴史上由緒あるポイントを知らない。人間の営みからは置き去りにされていた地域だったのだろう。少し鎌倉寄りには、何かを彷彿とさせる地名の、公田がある。
その残された自然を、そのまま整備してできた公園が舞岡公園で、中には、田んぼや茶畑、炭火焼き、池、広場があり、タヌキ、野うさぎ、キジ、ホタルが生息している。公田は後日、調べる必要がありそうだ。
私が尊敬している同業者のスーさんが、以前舞岡に住んでいたことがあって、自宅にお邪魔したときに、ヤマオカなあ、舞岡は横浜唯一の文教区として独立するのだ、と息巻いていたことがあった。人間的にはすばらしい人なので、かねがね尊敬はしていたのですが、そのときは妙なことを言うもんだと思った。いや、舞岡には彼以外にも立派な人がいることは十二分に解ってはいるのですが。単なる彼一流の悪ふざけかな。
私のリュックには、おにぎり2個と新聞2日分と今読みかけの本が入っている。おにぎりは昼飯用、新聞と本は道中涼しい所で休みをとりながら読む心算でした。
ところが、本郷台駅近くまできた辺りから、足が重たくなってきたのです。まだまだ、先が長いことを思うとのんびりしていたら、バテてしまうのではないかと不安になってきたのです。炎天下、長く時間をかけると、ヤバイと思い始めたのです。
コンビニで62円の氷菓を買った。この安くて栄養の無い氷菓は、後味が悪くなくて、好きなのです。
大船警察署の前で、おにぎりに手をつけた。10年程前、この警察には我が社の社員がお世話になって、専務が引き取りにきた。仕事熱心過ぎて、ちょっとやり過ぎたようでした。電柱に捨て看を張った罪です。
おにぎりを1っ個食ったら、もう1っ個あることに気がとられ、気になって気になって、やっぱり食うことにした。
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10:47 小袋谷交差点そばの公園で一息.。/北鎌倉女子学園
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車が排出するガスが、臭く感じる。私の吸気の量が増えてきたのだろうか、車の排気に顔を逸(そ)らした。どうしても車を使わなくてはならないときはしょうがないが、できるものなら排気ガスを出す車以外の手段を選びたいものだ、と痛感した。
家庭のゴミ収集車の作業中、狭い道路のために、後続の車が並ぶ。作業員は、その車の通行の邪魔にならないようにと、猛烈な働きぶりで頑張っていた。運転手はゴミ集めと運転で、テンテコマイだ。このご苦労に感謝。
旧民家を模した郵便局がある。郵政民営化の前に建てたのだろう、何か意図があったのだろう。
小袋谷一帯は、地下の水位の低い所で、あっちこっちで湧き水がでているのです。この地域で、我が社が建売住宅の分譲をしたことがあった。その敷地の一部から水が湧き出ていた。ということは、敷地の地下部分が水でゴチャゴチャになっているのでは、と心配したのですがそうでもなかったのです。水路がきちんとできていて、水はそこだけを通っているだけで、水路を壊すことなく出口を確保さえしておけば、恐れることはない。井戸は、ほんの少し掘るだけで、水が豊かに溢れ出すのです。湧き水を近所の人たちは、洗濯や野菜を洗ったり、庭や道路の水撒きに使っている。
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11:00 北鎌倉駅到着。/円覚寺、明月院、建長寺、鎌倉学園、巨福品坂(こぶくろさか)、切通し、近代美術館
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やっと、この道中の先に目安がついた。円覚寺でもゆっくり見学してみるかと、入場門に近づいた。入場料、大人300円とある。躊躇うことなく拝門しなかった。でも、俺には知恵があった。以前に映画好きの友人に誘われて、円覚寺の墓地にある小津安二郎の墓をお参りにきたことがあった。その時に知った、墓地のための入り口ならスルーできるのではないか、と思って脇の方に廻ってみたのですが、案に反してそこにも検問所があった。
歩き出した。
行儀の悪いドライバーは、未だに減らない。ノロノロ走る車の横を歩いていたら、ドアーが開いて、そこからティッシュを路上に投げ捨てるではないか。それも、私が歩いている、目の前にだ。車内でのゴミは、ゴミ箱に貯めて置いて、車から降りるときに処分するのではないのか。こんな馬鹿に誰が育てなのか。世なのか、親なのか。
建長寺を過ぎた辺りで、巨福品坂、という字を見つけたが、読めないので誰かに聞こうと、メモして帰った。鎌倉が発行しているパンフレットで「こぶくろさか」と読むことを知った。コブクロト読んで、その文字が巨福品?、それに小袋谷もあったなあ。なんだかよく解らないが、文字を較べて、自分なりに理解した。
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11:30 鎌倉鶴岡八幡宮到着。/源氏池、平家池、雪の下、政子と段葛(だんかずら)、静御前(静の舞)、源頼朝
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参拝者が手水するところで、200ミリリットルのペットボトル1本分ぐらい、水を飲んだ。手水には作法があって、柄杓(ひしゃく)で水をすくい両手を清める、そして柄杓をふところに抱き寄せるようにしてから口をすすぐのです。この際、柄杓には口を触れないようにすること、と注意書きがあったが、私は柄杓に水を一杯にして口をつけて6杯も7杯も飲んだ。喉が渇ききっていたのです。今回に限って、許してタモレ。
何とか鎌倉まで歩き通せたことを、自宅にいる家人に報告の電話をした。数回の着信音の後、電話に出た彼女は、私の報告を聞くまでもなく、今、北島が世界新で金メダルよ、と興奮シマクラ千代子で言ったまま、ガチャンと一方的に電話を切るではないか。北京五輪で、北島康介が100メートル平泳ぎで世界新で1位になったのです。後日、200メートル平泳ぎにおいても1位で金メダルを獲得した。この200では世界新には及ばなかった。これで、北島はアテネと北京の2大会で、100,200の平泳ぎで4個の金メダルをとったことになる。彼女にとって、私が元気ゆえに、私のことなんてどうでもよかったようだ。
静御前の悲劇をメモしておいたから、それを書き加えます。
=平安時代に末期、源義経に愛された「静」は平家滅亡後、兄・頼朝との確執から奥州に落ち延びた義経の悲運を憂い、大槻の里(現;郡山市大槻町)の池に身を投じたと言い伝えが今に残る。
源頼朝が政子の安産を祈願して作った段葛(だんかずら)を、ゆっくり歩いた。クールダウンです。
ーーーーーーーーーーーーツꀀ
12:00 鎌倉駅到着。夕方、鎌倉の浜で花火大会があるようで、浴衣姿の若者が目立った。

2008年8月10日日曜日

郷里は源氏物語のメイン会場だった。


上原まり(朗読・筑前琵琶) 瀬戸内源氏を語る

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瀬戸内寂聴訳源氏物語


源氏物語三十一帖 真木柱(まきはしら)

横浜市岩間市民プラザ・ホール/ ( 080803)/ 開演17:00

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正確には、源氏物語のメイン会場は私の生まれた町のお隣の宇治市でした。
私が、生まれて育って、20歳で東京の学校に入るまでは、京都府綴喜郡宇治田原町で過ごした。宇治田原町は、宇治川に流れ込む田原川の河岸段丘にある。猫の額ほどもない平らな部分が住宅地で、ほとんどが山で、少しの畑と水田がある。宇治川を遡っていくと、瀬田川になり、琵琶湖下流の瀬田のあらい堰にたどり着く。湖畔には大津、石山だ。川は下っていくと、宇治から伏見を抜けて、木津川と合流して淀川になる。名前が宇治市と宇治田原町で、呼称は似ているものの、行政的に別々の市と町だ。住宅開発のために茶畑が少なくなっていく宇治に代わって、我が宇治田原町は開墾を重ねて茶畑を増やしている。今では、宇治茶の生産地としては、もう我が宇治田原町の方が量的に圧倒している。私の実家は、お茶の専業農家として、甥っ子が屋台骨を支えている。この甥も若い頃には、茶畑なんか、売ってしまえばいいんだ、なんて血迷っていたこともあったのだが、今は頼もしい後継人だ。
私はそんな「宇治」という市の名前が、町名の一部に組み込まれている【「宇治」田原町】の町民として育ったのです。私を育ててくれた生家は、農耕作業や山仕事以外の話を、家庭内では話したことがなかった。実生活においては、農業文化についてだけは、濃い生活をしていたなあと思う。
宇治にある京都府立城南高校に通いだしてからは、源氏物語の重要な部分で宇治が舞台になっていることを知った。が、もうそのときはズッポリサッカーに狂っていて、本を読むことなんて考えられない環境に自身を追い込んでいた。
高校生のときには、先生が源氏物語のほんの一部分を話してくれたことはあったのだが、この宇治の何処で、誰が何をしたのか、当時本など読もうなんて思いつかなかった私には、チンプンカンプン状態のまま、ここまで恥ずかしながら生きてきた。
その後、大学生になって社会人になって、与謝野晶子や谷崎潤一郎、瀬戸内寂聴さんの口語訳本が出版されていることは知っていても、手にすることはなかった。
そして、昨年から今年になって「源氏物語千年紀」だとかで、なにかと世間は騒がしい。これは、2008年は源氏物語が記録(紫式部日記)で確認されてからちょうど一千年になるということで、その記念行事が各地で行われているからだろう。
そんな矢先、私の会社の近くにある保土ヶ谷区岩間市民プラザホールで、「源氏物語三十一帖 真木柱」の瀬戸内寂聴さんの口語訳を琵琶の演奏にあわせて、上原まりさんが朗読を演じる、という企画を横浜市の刊行している印刷部から見つけ出した。
迷わず予約した。入場料は2000円だった。
朗読というよりも、朗誦という感じだ。何回の朗読会で物語が完結するのか、判らないのですが、それを聴き通すことは仕事があり無理だろう。
源氏物語五十四帖の残り十帖が宇治なのだが、宇治のことは勿論、少なくとも源氏物語の全体的なあらすじぐらいは理解したいと思った。
インターネットで調べてみた。
宇治十帖までは、光源氏を主人公に宮廷での恋愛模様を描かれているのですが、宇治十帖の「橋姫」から「夢浮橋」は、光源氏の子・薫君と孫・匂宮の二人の男性と大君、中君、浮舟の三人の姫君と繰りなす悲恋の物語らしい。機会をとらえて宇治十帖も聴いてみたいものだと思っている。この催しは、毎月少しづつ、少しづつ進んでいくのです。
そんな宇治が、源氏物語のメイン会場になっていたなんて、なんだか不思議な気がします。源氏物語宇治十帖古跡巡りの案内図を見ると、どの箇所も私のよく知っている場所ばかりだ。今から40年前、私が東京の学校へ入る前まで、もっとしっかり探訪しておくべきだったと悔やまれる。どのポイントも友人とタムロったり、ホンダのカブで何度も前を通ったことがあるのです。
当時の私は、頭に血が昇った状態だったので、文化的なるモノには興味が持てなかったようです。
そんなこんなで、私は岩間市民プラザホール向かったのです。

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なんとも髭黒(ひげくろ)の大将の、人の好さ、単純さ、惚れた女に対する実直さが、アホのように微笑ましい。女に入れあげた男ほど、めでたいものはない。
大将とは、物語のなかでは官位を表す用語であるはずなのに、原本を確認したわけではないので不明なのですが、瀬戸内寂聴さんが、現代のオッサン感覚で大将(たいしょう)と、語らせていたようで、愉快だった。寂聴さんは、本当は髭黒の大将じゃなくて、髭黒のオッサンと言いたかったのではないだろうか。
大将と、原本には無いものを、敢えて付け足したのではないのか。寂聴さんのユーモアかも。
髭黒のオッサンが、年甲斐も無く玉鬘(たまかずら)に有頂天になって、北の方(きたのかた)には近寄らなくなった。気を病む北の方が、カッとなって、玉鬘のところへ行こうとする髭黒のオッサンの頭の上に、香の灰を一気に降りかけた。痛快だ。現在風に言えば、キレたのでしょう。
昔も、今も、嫉妬に駆られた者の行為は過激だ。
今回の「真木柱」はストーリーが簡単で解りやすかったけれど、こんな調子で男と女が、繰りなす恋愛劇なら、もうイイヤという気にもさせられた。男と女の愛憎ほど、私の最も苦手とするところです。誰が、誰を好きになろうが嫌いになろうが、好きにやって、と言うまでだ。

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(パンフレットより)
【これまでのあらすじ】
「夕顔」を忘れられない源氏は、夕顔の遺児・玉鬘を養女として引き取りました。
玉鬘の美しさは評判となり、次次に恋文が届くことになりました。源氏自らも玉鬘への恋心を募らせ、胸中を告白してしまいます。しかし、冷泉帝の行幸の見物で美しく端整な帝に目を奪われた玉鬘は、宮仕えに気持ちが傾きます。
源氏は玉鬘の入内のために、裳着の式を計画します。そして頭の中将に、玉鬘が夕顔との間にできた姫君であることを告げ、父娘の対面が果たされました。
出仕の準備はできたものの、宮中での帝寵争いを思い決心できずにいる玉鬘のもとには、求婚者たちからの恋文が多く届けられました。
しかし、玉鬘は蛍兵部卿の宮にだけ返歌をするのでした。

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【三十一帖 真木柱】
あろうことか、侍女の手引きで髭黒(ひげくろ)の大将と玉鬘(たまかずら)は結ばれてしまいます。源氏は不本意でしたが、仕方ありません。帝も失望しますが、尚侍として出仕させることにしました。鬢黒の北の方は数年来物の怪に取り付かれており、心を病んでいました。ある夜、玉鬘のもとに出かけようとする鬢黒に、北の方は香炉の灰をかけてしまい、鬢黒は家に近寄らなくなります。親である式部卿の宮は、北の方と子どもたちを自宅に引き取ることになりました。
真木柱の姫君は、父と別れる歌「今はとて宿はなれぬとも慣れきつる真木の柱はわれを忘るな」と書いた紙を柱の割れ目に挟み、泣きながら牛車に乗り込みます。翌年の春、予定通り玉串は出仕しますが、風邪を理由に鬢黒は自邸に引きとります。その年の暮れに、玉串は男の子を出産するのでした。

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2008年8月8日金曜日

野茂投手が引退

2ツꀀツꀀツꀀツꀀツꀀアメリカの野球ファンを驚かせたトルネード投法
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日米通算201勝 /開拓者、去る /トルネード、日米席巻 /フォーク決め球
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「野球人生、悔い残る」
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上記はいずれも新聞記事の見出しだ。
「引退する時には悔いのない野球人生だったという人もいるが、僕の場合は悔いが残る。自分の中ではまだまだやりたい気持ちが強いが、自分の気持ちだけで中途半端にしていても周りに迷惑をかけるだけだと思った」
野茂が引退を決意したとき、このようにインタービューに答えた。「悔いが残る」という野茂のコメントを聞いて、なんとも野茂らしい、と感心した。よくぞ、野茂らしい言葉を残してくれた、と嬉しかった。
野茂、そりゃそうだよな。野茂の気持ちが痛いように理解できた。
その後、清原をはじめ、野茂とゆかりのある人々は、口を合わせて、野茂の引退の弁「悔いが残る」には、感動したと述べている。
去年メジャー入りして不覚にも主審とぶつかって転倒、その怪我を乗り越えて、再びメジャーに復帰したが、ダメージは深く、今春引退した元巨人の選手と比較せざるをえなかった。彼は、引退の弁で、「野球の神様に感謝したい」とコメントしていた。神様に感謝するのもいいけど、もう少し彼ならではの発言を聞きたかった。巨人に入団した際の、江川卓のドラフト制度の魔の1日問題、桑田真澄と清原?と巨人の三角関係の果ての桑田指名問題、この人たちの言葉には、人を感動させる力がない。
でも、だ、昨日(7月29日)、某テレビ番組で、桑田が、野茂の引退の言葉を聞いて感動した、と言っていたそうだ。優秀なアスリート同士には、厳しいスポーツの世界を生き抜いてきた者同士には、判り切っていることなのだろう。ならば、桑田氏も自分の言葉で引退の言葉を使えばよかったのだ。今シーズン、メジャーに復帰できる報をアメリカの飛行場で知らされた桑田投手は、言葉を発することができず、記者を背にして泣いた。このシーンをテレビで見ていて、私も泣いた。桑田投手の、メジャーに賭ける情熱がいかばかりのものか、私の想像を絶する域なのだろう。その泣き顔は少年のようだった。
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02年のキャンプ
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朝日新聞に掲載された記事を、勝手に拾い出して転載させていただいた。この偉大な投手に対して、私が個人的な見解を述べれるほど、私は人格者ではない。又、許されるものではない。記事のどの内容も楽しくキーを叩けた。
記憶が風化するのを恐れての、準備です。



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ドジャースに入って1年目で地区優勝

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多くの日本選手が大リーグで活躍する先駆者的な役割を果たし、日米通算201勝を挙げた野茂英雄投手(39)が今月17日、現役引退を表明した。
今季、ロイヤルズとマイナー契約を結び、4月5日に3季ぶりにメジャーへ昇格。千日ぶりのマウンドに上がるなど3試合に登板したが、球威の衰えは目立ち、同20日に戦力外通告を受けていた。本人が現在、米国にいるという。
野茂投手は89年、新日鉄堺からドラフト1位で近鉄(現オリックス)に入団。「トルネード〈竜巻〉」と名付けられた独特の投球動作から繰り出される直球とフォークボールを武器に、4年連続で最多勝と奪三振王に輝くなど通算76勝46敗1セーブを挙げた。
95年、国内で反発もあった中、ドジャース入団。村上雅則投手(64,65年ジャイアンツ)に次ぐ2人目の日本選手大リーガーになると、オールスター戦で先発、新人王と奪三振王を獲得するなど活躍。「ノモマニア」と呼ばれる熱狂的なファンを生み、前年のストライキで失われかけた大リーグ人気を取り戻す救世主にもなった。メジャーでは計7球団に所属し通算123勝109敗。96年と01年、ナショナル、アメリカン両リーグで無安打無得点試合をマークする史上4人目の快挙を達成した。
98年には日本選手初めての本塁打も記録している。
また、出身の社会人野球で休部が続くことに危機感を抱き、03年に「NOMOベースボールクラブ」を立ち上げ、野球を続けられる環境づくりにも貢献した。


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01年4月、レッドソックス時代に2度目のノーヒット・ノーラン
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今年の春は招待選手としてロイヤルズのキャンプに参加したが、開幕枠には入れずにマイナーでのスタートとなった。
それでもプロ19年目はあきらめなかった。中継ぎ陣が手薄になったチーム事情もあったが、日本選手をよく知るヒルマン監督(前日本ハム監督)の強い推薦により、メジャー昇格を果たした。
4月10日。本拠カウフマンスタジアムの右翼にあるブルペンで、野茂は待ちきれないようにキャッチボールを繰り返した。メジャーで千日ぶりとなるマウンド。2本塁打を浴び「特にいつもと気持ちは変わらなかった」と、いつもの無表情だったが「やっぱりうれしい」と本音ももらした。
とはいえ、現実は厳しかった。3試合に登板して、防御率は18点台。2週間あまりで球団から解雇された。プレーしたメジャー球団数は「7」だった。


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「世界に目を向けていた」・「ひとつの時代終わった」
近鉄時代の同僚、功績をたたえる


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近鉄時代 野茂と籍を同じくした人々はその功績をたたえた。
ロッテの立花ヘッドコンディショニングコーチは、野茂の入団当時の仰木監督から、トルネード投法について「1年で壊れるかもしれない。しっかりと鍛えてやれ」と言われたという。野茂は、ストレッチをしながら自分で編集したライアンやクレメンスのビデオを熱心に見入っていた。「ぼくなんて、彼等にくらべれば、へみたいなものですね」と語ったという。「常に上を見て、世界に目を向けていた」
野茂が残した功績について、「投手といえば、シーズン中は走るだけだったのが、しっかりウエートトレをやった。野茂の成功で、選手生命を延ばした選手は多い。太く長くやりたいと言っていたことを実践してくれたことが、一番の誇り」と話した。
オリックスの大石監督「すごい功績を残したことは尊敬する」とねぎらい、「野手(二塁手)としては三振か四球で守りにくい投手だったね」と笑いを誘った。
近鉄時代の5季をともにした赤堀投手コーチは「ひとつの時代が終わり、さびしい感じ」
金村義明氏は「日本の球団のオーナーになって、そのチームのマウンドに立ちたいというのが彼の夢やった。今後は日本野球のために尽くして」と話す。日本ハムの吉井投手コーチは「野球ファンとして、すごい力をもらった。引退するのなら、おめでとうと言いたい。あれだけ成功したのだから」と言った。


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89年11月、ドラフト1位指名のあいさつに訪れた近鉄・仰木彬監督

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トルネード
「トルネード」の愛称は近鉄(現オリックス)入団1年目の90年、球団が公募し、6千通近い中から選ばれた


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95年7月、大リーグオールスターゲームに日本人選手として初出場

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大リーグ挑戦、無理を現実に


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決して平坦ではなかった野茂の挑戦が、のちに日本の大リーガーを次々に生む大きな流れを作った。当時、日米間にはポスティングシステム(入札制度)のような制度はなかった。
94年のシーズン後、野茂は複数年契約や代理人交渉を要求し、近鉄との契約交渉がこじれた。今では任意引退選手としてメジャー入りは不可能だが、野茂は特例のような形でドジャースへ移籍を勝ち取った。日本の球団からフリーエージェント(FA)権取得前の大リーグ移籍は、想定外とも言える時代だった。
続いて96年オフには伊良部秀輝(当時ロッテ)問題が持ち上がった。球団が業務提携を結んでいたパドレスを経てヤンキースに入団するという「三角トレード」が起こり、日米間の選手契約が本格的に見直された。98年、入札制度が生まれ、FA権取得前でも球団の許可があれば大リーグへの道が開かれた。野茂の成功も大きかった。日本選手の実力が見直されるようになった。00年オフ、イチロー(当時オリックス)が日本選手としては初めて入札制度を使い、マリナーズへ。石井一久、松坂大輔ら日本の主力級が後を追った。


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帰ってきたら抱きしめたい
高校時代の恩師


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大阪・成城工高(現成城高)で野茂投手を指導した宮崎彰夫さん(65)は「ご苦労様とひとこと言いたい。あきらめないで頑張って欲しい気持ちと、もう十分だという気持ちがあった」と、ねぎらった。
4月下旬に野茂投手はロイヤルズを解雇されたが、「その後も彼が練習していることは知っていた。95年に米国に渡ったときの気持ちを最後まで忘れなかったのだと思う」。
「トルネード投法」は、小さい頃から自分で工夫して編み出したものだ。当時の常識からは外れていたが、宮崎さんはフォームの矯正をしなかった。社会人野球の新日鉄堺へ進む際も、フォームをいじらないことを条件にした。自由な発想を尊重したことが、大リーガー・NOMOが生まれた下地になったといえる。
宮崎さんは「彼が日本のプロ野球界に与えた影響は本当に大きい。帰ってきたら歓迎会を開いてやりたい。ご苦労様と言って抱きしめてやりたい」と語った。


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彼の後ろに道はできた
西村欣也(編集委員)


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野茂らしい引退だと思った。最後の最後まであきらめず、彼はメジャーリーグにこだわり続けた。
日米通算201勝をあげている。海を渡った95年のシーズン、新人王と奪三振王となった。日米両国で新人王を獲得したのは野茂1人だ。2度のノーヒット・ノーランも達成した。「ノモマニア」という社会現象を引き起こした。富も、名誉も、手に入れた。しかし、彼は最後まで立ち止まることをしなかった。それがパイオニア(開拓者)としての誇りだったのだろう。
道なき道を切り開いてきた。渡米自体、当時の日本野球関係者から非難の目でみられた。彼はそのとき、代理人の団野村氏に言った。「団さん、僕達は間違ったことをしていない。進みましょう」。彼の後ろに道はできた。その道をイチローが松井秀喜が、松坂大輔が歩んでいった。
近年はひじの故障に苦しんだ。06年6月手術を受けた。07年はどこのチームにも属すことができなかった。それでも、現役にピリオドを打たないのが、野茂の生き方だった。ベネズエラのカラカス・ライオンズに入団した。08年、カンザスシティー・ロイヤルズとマイナー契約を結んだ。そして4月5日にメジャー昇格を勝ち取るのだ。10日、05年7月15日以来、千日ぶりにメジャー登板を果たした。
しかし、故障が完治したわけではなかった。ひじへの負担を減らすために、彼は生命線ともいえるトルネード投法を封印する。セットポジションからの投球は、直球のスピードを奪ってしまった。4月20日にロイヤルズから戦力外通告を受けた。
野球とベースボールの間に大きな橋をかけた野茂英雄の名は、日米のプロ野球ファンの脳裏から消えることはない。燃え尽きるまで投げ続けた野茂の生き方をたたえたい。彼と同じ時代に野球とベースボールを取材できたことを心から幸せに思う。

2008年8月4日月曜日

全日本不動産協会の横浜支部、第4ブロック

社団法人全日本不動産協会横浜支部、第4ブロックの勉強大好きグループが主催している、昼飯を囲んでの学習会で、何でもいいから、30分位喋ってくれませんか、という要請を受けた。
声を掛けてくれたS住販のH君には仕事上でお世話になったこともあるので、無碍には断れなかった。我々の業界は、建設業界とともに今、たいへん苦しい環境下にある。そのなかで、当社が、今まで何をどう考えてやってきたのか、ハッキリ言って「苦しいばかりの請負人」みたいなことばかりだったのですが、他人(ひと)の苦労話も、皆さんにはいい勉強になるのでは、と思いつき勇気をもってやってきました。

以下は、その際のレジメです。
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    横浜で一番元気な会社、アーバンビルドの山岡です。


(080804)




 


*一回目のバブル
若さにまかせて、勢いでやっていた。未熟なままだった。その結果、その勢いが仇になった。でも若かった我々には屁でもなかった。生き地獄を笑いながら(嘘!!)耐えられた。

*そこで、今度は会社を、A=「社員、顧客、協力会社、関係会社、支援者、株主のために、いい会社」にしようと決心した。
絶対潰れない会社を作ってみせるぞ、と力んだ。トーマツ監査法人にも調査をお願いした。

*だが、一回目のバブルを本気で真剣に反省しないまま、二回目のバブルに突入してしまった。一回目のバブルをやっとのことで、乗り越えたと思ったときに緊張の箍(タガ)が緩(ゆる)んだ、そのときが慢心の始まりだった。頑張れば、なんとかなった。そのなんとかなった状態で、仔細を省みず夢中で働いたのがまずかった。ここが、甘かった。

*二回目のバブル
現在、苦戦中だ。
そこで再び学習したことは、
①会社には、できるだけ多くの自己資本を確保すること。
②自動的に、自己資本が確保できるシステムを確立すべきだ。
③価格変動リスク、流動性リスクの回避を経営の一番重要なチェック事項にする。

*再び、振り出しに戻った。
そこで、今度こそAに「いかなる変化にも耐え得るホンモノの会社」をプラスした会社作りを目指すべきだと強い意識を持っている。もう逃げ場はない。年齢的にも、困難な作業だけれども、経営者ならば当然だ。厳しく律していかなければならない。

*人は、金は、モノはーーー。

◎山岡の人生観、価値観によって会社はその姿を見せる。
農家の三男坊、運動会・学芸会大好き少年、浪人時代とドカタ稼業、早稲田大学サッカー部の4年間、クラス討論会から革マル、反米反帝反戦反知識人反権力、読書遍歴、友人、国土計画の幹部候補と堤義明、根性のない経営者との確執、根性のある経営者との邂逅、いいオジサン、親が死んで孫が生まれる、左派系経営者、会社は誰のモノ、
夜は右派(酒)系粋人でありたい。