2010年3月23日火曜日

「ライ麦畑でつかまえて」、サリンジャーが亡くなった

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訳者・村上春樹

本の名前・キャッチャー・イン・ザ・ライ  「ライ麦畑でつかまえて」

世界的なベストセラー「ライ麦畑でつかまえて」などで知られるアメリカの作家、J・Dサリンジャーが、今年の1月27日、米ニューハンプシャー州の自宅で老衰のため、91歳で亡くなった、という新聞記事を見つけた。

この本を45年前に読んだ。その本の名前がちょっと気になったので、買って読んだのだろう。随分昔のことで、その本を買った動機は曖昧だ。当時の私は、大学受験に失敗して、来るべき大学生活のための資金稼ぎにドカタをしていた。大学サッカーのチャンピオンチームになんとしても、モグリ込みたい、とひたすらそれだけを考えていた。本の中の「僕」を、ナンチュウ生イキで生ヌルイ奴やなあと感じた程度で、その本がそれほど世界で多くの読者に愛されていたなど、想像もつかなかった。本当にサラット、読んだようだ。何が、そんなに名作なんだ、と馬鹿にしていた節もありか? 私は、私自身若者でありながら、「僕」の若者としての悩みや、焦りや苛立ちを「僕」ほど理解できなかったようだ。きっと私には、能天気だけど健康でいい加減な父母やすばらしい友人、先生、後輩先輩、仕事仲間に恵まれていたからなのだろう、ただ学業の仕上がりだけは、大いに悩みの種ではあった。

なんとか大学生になれたが、学校では友人は少なかった。一日のほとんどの時間は、サッカーもしくはそれに関することで費やしていた。私のクラスにはたった二人だけ女の子がいて、この二人とは話をする機会が、クラスの誰よりも多かった。それは、この二人はラグビー部のマネージャーをしていて、サッカーグラウンドの隣のラグビーグラウンドに毎日来ていたからだ。顔見知りになって親近感が生まれていたのだろう。

そのグラウンドに向かう彼女達と電車の中でバッタリ一緒になったことがあった。彼女らは、私が織田作之助の本を持っているのに気付いて、話題は今読んでいる本の話になった。私は、デカダンモノから戯作モノに、太宰から安吾、田中英光を思いつくまま喋った。その時、顔の小さい方の人が、このライ麦畑~を持ち出したのだ。彼女達には、嫌な思いをさせたかも知れないのですが、ライ麦畑~のどこがそんなに面白いの、なんて不遜な発言までしてしまった。ちょっと喧嘩腰だった。偏狭で、恥ずかしながら自己主張が強いのです。顔の大きい人の方が、私は好みだった。

そして、卒業後入社した電鉄系の会社を10年ほどで辞めて、横浜の不動産屋さんとして身を立てようと決心していた頃知り合った友人の、そのまた友人が、今度長野でペンションを始めたのですが、そのペンションの名前が、この本の名前の通り、ライ麦畑~なのです、ときたもんだ。友人が、友人にペンションのネーミングに、ヒントを与えたようだ。なに!そんなにまで、惚れさせてしまったその本は、やっぱりそれほど偉大なのか。でも、まだまだ腑に落ちなかった。私はその友人のことを尊敬していて、友人の言動は何かにつけて大事に受けとめていたが、それでも浮かぬ顔はいつまでもスッキリしなかった。

それから、25年は経ったのだろう。

そして、ここにきて、この本の著作家、サリンジャーが亡くなったという新聞記事を見つけた。その記事の中で、当然この本の話が出ていた。再三の出現だ。そこで、もう一度この本を読んでみようという気になった。村上春樹氏の訳本が最近発売されていることを知っていたものだから、尚更、この訳本で読み直したいと思った。生まれて初めて、アマゾンでこの中古本を買った。売主は仙台の人だった。

読後、売れっ子の村上春樹さんの訳でも、やはり私の気分は盛り上がらなかった。大人に対する苛立ち、不可解なおしきせ。他の人との違和感、価値観や考え方のの違い。若者の繊細で脆く傷つきやすく揺らぐ心模様は、最初に読んだ時と同じように、今度も痛く理解できたのですが、それでもいまいち、すっきりしない思いを友人に話したら、あれはねえ、英語で読むといいのよ、と返ってきた。

ええ、私ーがー英語でーー?。また、なんぜこんな処でーーーー、友人は難題を振り向ける? なるほど、青春時代に辞書を片手に教科書のように読んでいたら、ひょっとして私の読後感想は違ったのかも知れない。

ここで、自分の青春とこの本を合わせて振り返ってみるに、自我の本格的目覚めの青年期、「僕」の年と同じ頃の私、若者は何かに必ず悩むものだろうが、私には、悩む前にひたすらな希望や夢、目的を具体的に持っていたことが、サイワイだったようだ。そして、希望が叶って大学時代、サッカーにのめりこんでいった。目先の、諸々(もろもろ)の不都合や不合理、将来に対する不安、世間や大人への不信で、クラクラするようなことはなかった。若い雄馬は、鼻先に何もぶら下げなくても、夢中で走っていた。偉くならなくてもいい、金持ちにならなくてもいい、他人(ひと)様に迷惑さえかけなければ、何をやってもいい、郷里を離れる際の母の唯一の忠言だった。大学一のサッカーチームにもぐりこむこと、そして、もぐり込むことができたら、ひたすらサッカーに邁進するのみだった。くたばったり、ひるんだり、躊躇している場合ではなかったのだ。そんな私が、こんな「僕」を理解できないのは当然だったのだ。文科系の人からは、私たちのことを体育会系の奴等は何も考えてないからなあ、と思われていたのだが、私にとっては全くその通りだった。

この本の名前が何故ライ麦畑~になったのか?その辺りを村上春樹さんの訳本の一部を無断で引用させていただいて、ここに披露しよう。「僕」と妹のフィービーとの会話から。「僕」の悩みの総体としての心情が、言葉として漏れているーーーーーー。

「あの唄は知っているだろう。『誰かさんが誰かさんをライ麦畑でつかまえたら』って言うやつ。ぼくはつまりー」  「『誰かさんが誰かさんとライ麦畑で出会ったら』っていうのよ!」とフィービーは言った。  「それは詩よ。ロバート・バーンズの」(*スコットランドの国民的詩人)。  「てっきり、『誰かさんが誰かさんをライ麦畑でつかまえたら』だと思ってたよ」と僕は言った。

それからーー

《この物語のなかで、下の「僕」の話したことを、私は一番感動を持って読みましたーー山岡》

「でもとにかくさ、だだっ広いライ麦畑みたいなところで、小さな子ども達がいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子ども達がいるんだけれど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はその辺のクレージーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現われて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだとは思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれぐらいだよ。かなりへんてこだとはわかっているんだけどね」

これからも、この本とはどんな処で、どんな風に又巡り会うのだろうか。まさか、英語で読むことになるのだろうか。不思議に縁のある本だから。

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20100208

朝日

池上彰の新聞ななめ読み

サリンジャーの死

「青春の一冊」がもつ魔力

池上彰(ジャーナリスト)

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池上彰さんが、各紙各様にサリンジャー氏が亡くなったことに触れ、若者の青春を描いてベストセラーになった「ライ麦畑でつかまえて」が、いかに多くの読者に愛されたかを、コラムで取り扱った記事をまとめていたので、そこの一部を拝借させていただいた。転載しました。

サリンジャーは、後半生は筆を折り、田舎に引きこもって、誰とも会おうとはしないまま、91歳の人生を閉じました。サリンジャーについて触れる以上、「青春」というキーワードと、このエピソードは必須です。

朝日新聞の「天声人語」は、

1951年の「ライ麦畑」は世界で最も読まれた青春の一冊に数えられよう。大人への嫌悪や孤独を描いて、それは狂おしく激しい、と表現した上で、「伝説に殉ずるように作者は逝ったが、遺産は世界で読み継がれることだろう。青春は短い。だからこそ、稀有な青春文学の頭上には、「永遠」の枕詞が色あせない、と語っています。

日経新聞の「春秋」は、

作詞家の秋元康さんに「借りたままのサリンジャー」という題名の歌があることに触れ、「この小説家の名を聞いただけで青春時代のほろ苦さや憂鬱、出口のない焦燥が胸によみがえる人も多いに違いない」と感慨に耽ります。「田舎町で隠遁生活を送っていたという氏は、移ろう世と人間の悲喜劇をどう見つめていたのだろうか」と思いを馳せ、この週末は、「彼に彼女にいつか借りたままの本を取り出し、思いにふける人もいよう」と文章を締めます。

読売新聞の「編集手帳」は、

自己を据える場所が見つけられないいらだちと、大人社会への反抗と、永遠の青春小説を残し、サリンジャー氏が91歳で死去した、と書き記す。孤独であったろう後半生については、みずからの後半生を原稿用紙にして小説のつらい続編を書いた、そんな気もする、と。

中年の新聞記者たちを、一瞬にして文学青年の昔に引き戻す。サリンジャーにはそんな魔力があるようです。

このライ麦畑~を、3日前の朝9時頃、新宿中央公園で読み終えた。その後、西新宿にある東京オペラシティにある会社と打ち合わせをするために向かったのですが、待ち合わせ時間よりも早く着いたので、2階の本屋さん、KUMAZAWAで時間潰しを図った。以前から頭の中にこびりついていた梶井基次郎の「檸檬」を偶然見つけてしまった。一冊の文庫本にたくさんの短編がおさめられていて、420円也。久しぶりに中古本でないものを買った。

60年前のサリンジャー、80年前の梶井基次郎。アメリカの悩む若者の姿を描いて、その後、社会との接触を避け、人知れず隠遁生活に入ったサリンジャー。

今度はーーーー、人間の苦悩を見つめ31歳の若さで凄絶に夭折した梶井基次郎の作品に触れてみたくなったのです。

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2010年3月22日月曜日

「国家のウソ」戦いの終章

この3件の朝日新聞の記事は、どうしてもマイファイルしておかなければ、とキーを叩いた。

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20100310

朝日・朝刊

社説/日米密約報告

国民不在の外交にさらば

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民主主義国の政府が、国家の根幹にかかわる外交・安全保障政策をめぐり、何十年にわたって国民を欺き続ける。あってはならない歴史に、ようやく大きな区切りがついた。

1960年の日米安保条約改定と72年の沖縄返還をめぐる四つの日米密約について、岡田克也外相が設けた有識者委員会の調査報告書が公表された。

今回、検証された密約は、いずれも米国側の情報公開や、関係者の証言でかなり以前から「公然の秘密」となっていた。にもかかわらず、歴代の自民党政権はその存在を否定し、国会でウソの説明を繰り返してきた。

壮大な虚構と、それを崩さないために演じられた悲喜劇に幕を下ろすのを可能にしたのは、政権交代である。

国民の生活や国益に直結する重大な政治判断は、長い時間が経過したり、局面が変わったりしたら、歴史の審判に付されなければならない。民主主義の大原則だ。検証の成果を評価し外交への信頼の強化と民主主義の一層の成熟につなげていきたい。

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さらなる検証が必要

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四つの密約に対する報告書の認定には、濃淡がある。

第一に安保改定後の核持ち込み密約である。核兵器を積んだ米艦船の日本への寄港や領海通過については、事前協議が必要な核持ち込みには当たらないとする「暗黙の了解」があったとして、「広義の密約」と認定した。

外務省の事前の内部調査では、単に日米間の「認識の不一致」とされた。しかし、歴代首相も外務当局から説明を受け、米側の解釈に異を唱えなかった。密約との認定は当然だろう。

一方、沖縄返還後の核再持ち込みについて、当時の佐藤栄作首相とニクソン大統領が署名した文書の現存を確認しながら、「必ずしも密約とはいえない」とした。これには首をかしげざるを得ない。

有権者委は3ヶ月余りの短期間で報告書をまとめなければいけなかった。米国側の当事者からのヒヤリングも十分とは言い難い。

今回、政府は報告書作成の資料とした膨大な外交文書を、秘密指定を解除して公開した。政府の調査は一段落だが、学会などで米軍資料との照合も含め、多角的な検証を期待したい。

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自民長期政権の責任

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何より大事なのは国会の役割だ。衆院外務委員会は密約調査のための参考人招致を決めている。さらに真相に肉薄する使命がある。

密約問題は、自民党長期政権が残した巨大な負の遺産である。自らの責任に正面から向き合ってもらいたい。

密約の背景には、当時の政府が直面した深いジレンマがあった。

国民の反核感情を考えれば、正面切って核搭載艦の寄港を認めることは政治的にできない。一方、米国は核兵器の有無を否定も肯定もしない政策をとっている。核搭載の可能性のある船の入港をすべて拒否していたら、米軍の作戦行動に支障をきたし、核抑止力が低下する懸念もある。そんな悩みだ。

ただ、日本の安全保障上、寄港を認めざるを得ないと信じるなら、どんなに困難だろうと、国民に理解を求める努力を試みるべきではなかったか。

かって核搭載艦が横須賀や佐世保などに寄港していたことは間違いあるまい。「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則との矛盾は覆いようがない。

そうした見て見ぬふりが、結果的に日本の安全を守ることにつながったという密約擁護論もある。しかし、米国は冷戦終結後の90年代初め、水上艦艇からすべての戦術核兵器を撤去した。核持ち込みの可能性が事実上なくなった後も20年近くも国民にウソを繰り返してきたことは言い訳できまい。

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三原則堅持は当然だ

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鳩山由紀夫首相は今後も、非核三原則を堅持する方針を表明した。

日本の安全保障にかかわる危機の発生に備え、このさい核搭載艦の寄港は認める「2・5原則」に転換すべきだとの主張も出ている。

しかし、現実に米国による日本への核持ち込みは考えられない。最悪事態の想定に引きずられて、三原則を見直すのは本末転倒でしかない。

オバマ大統領が「核なき世界」を唱え、国際社会は核軍縮・不拡散への取り組みを強めている。三原則の堅持を足場に、できるだけ核への依存を低くした安全保障や北東アジアの平和構築に指導力を発揮することこそ、今の日本にふさわしい役割といえる。

外交文書公開のあり方についても、根本から考え直したい。30年経過した文書は原則公開するというルールは日本にもあるが、例外扱いが多い。原則に従った積極的な情報開示を求めたい。政策決定過程をきちんと記録し保存することの重要性も銘記したい。

有職者委は今回、あるべき文書がみつからなかったとして「遺憾」を表明した。01年4月の情報公開法施行を前に、密約関連文書が破棄されたとの外務省幹部の証言もある。事実なら、歴史の改ざんに上塗りをする行為であり、到底許されることではない。

本来、民主主義国の外交に密約はあってはならない。万やむを得ず秘するなら、後世からの厳しい批判を覚悟をしなければならない。政治家や外交官が常におのれに問うべきなのは、歴史に対する緊張感と謙虚さである。

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200100318

朝日・朝刊

ザ・コラム

日米密約=「国家のウソ」戦いの終章

編集委員・外岡秀俊

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「事実上、勝ったのかな、と」

それまでのインタービューで数時間、厳しい表情を崩さなかった人の顔が、その瞬間、ほころんだ。

元毎日新聞記者、西山太吉氏(78)。9日に出た外務省有識者委員会の「密約報告」を、長い国との戦いの人生で、どう受けとめたのか、と尋ねた時のことだ。

西山氏が外務省の機密電文を入手して38年。国は一切「密約」を認めず、西山氏が有罪となった刑事事件でも、国を相手取った2度の訴訟でも、頑として「密約はない」と言い続けた。西山氏が追い求めてきたのは、名誉回復というより、密約という「国家のウソ」を認めさせることだった。

1972年の沖縄返還に際して、日本政府は、「土地の原状回復補償費」400万ドルを、肩代わり負担していた。今回の報告書は、この事実を「広義の密約」と認定した。「裏負担は一切なし」と言い続けてきた国の方針の大転換である。

「ただ、この400万ドルはまだ二の丸、三の丸に過ぎない。本丸は財務省だ。間もなく、その密約報告が出るはずです」

そう話す西山氏と別れて数時間後、財務相は1億ドルの「密約預金」があったことを認めた。

西山氏が「本丸」と呼ぶように、12日に出た財務省報告は、400万ドルよりもはるかに重い財政密約を認めた。

米公文書によると、69年の沖縄返還交渉には、二つの難題があった。一つは米側が要求する「緊急時には沖縄に核を再持ち込みし、通過する権利を認める」という条件だ。「非核三原則」を唱える日本側には、とてものめない主張だった。もう一つは、返還に伴う補償や財政負担をどうるかという点だ。米側は、占領後に沖縄に投下した総資金を6億5千万ドルと算出し、一括支払いするよう求めて、激しく日本側と対立した。

結果として同年11月の日米首脳会談で、72年の「核抜き・本土並み」の沖縄返還が決まった。

本来なら折り合えない条件で日米が合意できたのは、日本側が舞台裏の「密約」で、米側の条件をのんだからだ。

核兵器については、佐藤栄作首相とニクソン米大統領の秘密議事録は明らかになった。財政についても、今回の報告で「密約」の存在が明るみに出た。その全体像を示すのが財務相のサイトにも載っている69年12月2日付の「柏木ージューリック文書」である。

交渉にあたっていた日米財務当局者のイニシャル署名があるこの密約によると、日本が支払う額は4億5千万ドルと、無利子預金。沖縄返還協定に明記した「3億2千万ドル」を大きく上回るが、その内訳も「基地移転費用と返還に伴うすべての予算経費」として2億ドルを計上するなど、政府の説明と著しく異なっている。

財務省の調査では文書が発見されず、菅直人財務相は米国の公開文書をもとに実態を調べさせ、政府・日銀が27年間、約1億ドルを無利子でニューヨーク連邦準備銀行に預金していたことを突き止めた。文書通りなら、政府は沖縄返還に際して、5億ドルを超す財政出動をしていたことになる。

外交文書に秘密はつきものだ。結果的に安保条約が日本の安全に寄与し、沖縄が返還されたのなら、当事者の苦労を多とすべきだ。

今回の密約をめぐって、そんな評価も聞かれる。しかし、本当にそれですむ話だろうか。

「沖縄への核再持ち込み」をめぐって、有識者委員会は「密約とはいえない」と認定した。理由は、佐藤栄作元首相が引き継いでおらず、「当時の共同声明の内容を大きく超える負担を約束するものではない」からだという。

だがこの点について、米公文書から多くの密約を発掘してきた琉球大の我部政明教授はいう。

「共同声明には、『事前協議制度に関する米政府の立場を害することはなく』とうたっているが、これが核搭載艦船の寄港の容認を指すとしても、核貯蔵まで認めると解釈するのは困難だ。密約は、沖縄の核貯蔵地をいつでも使用できる状態に維持しておくこと、日本側は事前協議があれば遅滞なく受け入れることを約束した。共同声明を大きく超える内容だ」

さらに、密約に詳しい西南女学院大学の菅英輝教授もこういう。

「日米の最高指導者が公式会談で合意し、署名した文書を、引き継がないので無効といえるだろうか。米側に突き詰められたら、効力がないと突き返せるだろうか」

現に米国側は00年、米情報公開法に基づく朝日新聞の請求に対し、米国務省がこの議事録を機密文書として保管していることを認めた。一方は私人として闇に葬り、他方は国として厳しく管理する。その違いに暗然とさせられる。

「密約は、国会審議を欺き、国民の判断を誤らせる最大の犯罪」

そういい続けてきた西山氏は、19日、衆院外務委員会に参考人として出席する。来月9日には東京地裁で、西山氏が起こした情報公開訴訟の判決も言い渡される。

「国会のウソ」をめぐる戦いの最終章が始まる。

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20100320

朝日・朝刊

社説/密約文書

破棄なら、二重の背信だ

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それが正当なら、国民に対する二重の背信行為である。徹底した真相の解明と責任の追及が必要だ。

日米密約の核心にかかわる重要文書が、外務省内で破棄されていた可能性が高まった。元条約局長の東郷和彦氏が衆院外務委員会で、後任に引き継いだ「最終重要書類」のうち半数が公表されていないと証言したのだ。

先に、安保改定前の核持ち込み密約の存在などを認めた外務省の有識者委員会の報告書も、「当然あるべき文書が見つからず」、「不自然な欠落」も見られたと指摘していた。

2001年4月の情報公開法施行を前に、当時の幹部が密約文書の破棄を指示したとの証言はすでにあった。東郷氏も省内事情をよく知る人から「文書が破棄されたと聞いた」と語った。

民主主義国の外交で、密約は本来、あってはならない。ぎりぎりの国益判断で秘密にせざるをえない場合には、経緯を記録し、後年、一般に公開して、歴史の審判を受けるべきものだ。

「密約はない」と半世紀にわたって国民にウソをつき続けたうえに、国民から重要な判断材料を奪うなどということが許されていいわけがない。

今回、秘密指定を解除されて公開された外交文書からは、冷戦の下、日米安保体制による核抑止力と国民の強い反核感情の折り合いをどうつけるか、当時の政治家や外交官が真剣に悩み苦しんだ姿も浮き彫りになった。

外交記録の破棄は、そうした先人の歩みを消し去る行為でもある。過去の政治判断や政策を検証し、将来に生かす道を封じてしまう。

来年4月施行の公文書管理法は、公文書を「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」と位置づけ、廃棄には首相の同意を義務付けるなど、厳しいルールを定めている。

岡田克也外相は東郷氏の証言を受け、「外務省としても、よく調査しなければならない」と語った。

比較的近年の話で、現役官僚が関与している可能性もある。個人の責任が明らかになることで、省内に亀裂が走る懸念もあろう。

しかし、政権交代を経て、ようやく政府が密約の存在を正面から認めたのに、文書破棄の疑惑を放置したままでは、外交への国民の信頼回復も中途半端に終わりかねない。

岡田氏には明確な指示を出して欲しい。改めて第三者機関を設置し、当時の外相や外務省幹部らから事情を聴くべきだ。

外務官僚だけの判断で破棄が行なわれていた可能性もある。官僚の無責任な隠蔽体質をただすうえでも、事実関係を明らかにすることが不可欠だ。

真相に迫る責任は国会にもある。外務省任せにせず、国会が国政調査権を発動して調べる道もある。

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先日、銀座テアトルシネマに「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」を観に行った時に、入り口カウンターに置いたあったパンフレットです。観に行くことはできないが、せめて今話題の沖縄返還に絡む日米の密約を扱ったものだ。折角だから、貼り付けた。

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山脈(やまなみ)

20100320(土)

19;00~22:00

山脈(やまなみ)

木下順二/作  入江洋祐/演出   林光/音楽

ブレヒトの芝居小屋・東京演劇アンサンブル

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街は3連休の初日だ。ブレヒトの芝居小屋まで、横浜からのどの道路も非常に混んでいた。

先日、「桜の森の満開の下」を観に来た時に撮った写真を、この劇団代表者の入江洋祐氏に渡した。入江家の父(洋祐)、母、息子(龍太)、娘(紡子)の4人だけの写真なんて、我が家にはないのよ、と母上から言われて、偶々(たまたま)カメラを持っていた私は、それならばと腕に磨きをかけて、一家4人勢ぞろいの写真を撮ったのでした。入江家にとっては、貴重な写真になったのだ。芝居小屋の客席に着くと、舞台担当の入江龍太氏が寄ってきて、前回の桜の森~の舞台や道具を作った際の苦労話を、楽しく振り返りながら話してくれた。余程、あの芝居には精も魂も使ったようだ。彼は、ますます「舞台屋さん」の風格を滲ませてきた。

彼との共通の友人である昌にも、招待状を送っておいたんだけどなあ、とこぼしていた。次回には、昌を連れて来てやろう、きっとこの舞台監督は、昌にも自分の仕事を見てもらいたいのかもしれない。お客さんは、芝居の内容からオジサン、オバサンが多かった。この芝居をかって何所かで観て、郷愁の思いにかられて来たと思われる人も多かった。

お芝居の内容は、頂いたプログラム等を貼り付けましたので、その方でご理解ください。ちょっとサボリ気味です。すみません。

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パンフレットより~

1945年、東京大空襲、疎開、原爆、敗戦、戦後。

とし子は、出征した夫の親友山田の勧めで、義母とともに山村に疎開する。山田ととし子は愛し合っていた。義母と暮らしながらとし子は、山田の農村研究を助けるための聞き取り調査をすることで自分の気持ちを抑えていた。しかし、夫の戦死の報せが届き、山田には赤紙が届く。とし子は入隊するまでの30時間を愛する人と過ごすために、家を捨て広島へ向かうーーーー。

戦争という極限状態のなかでほんとうに生きようとする人間の熱い想い。1968年『蛙昇天』でシュレを演じて以来この作品に憧れてきた入江洋祐が、木下順二の傑作に挑む。

とにかくぼくは生きたいんだ。死なないで生き延びたい。石にかじりついてでも。そして生き延びて、思う存分いつかは仕事がしたい。あと十日もすりゃぼくはどこの戦場で銃を構えているか分らない。僕の意思とは全然別に。ただ人形として。

あたしにもやりたいことをやらしてよ。どうせお互い、どうなっちゃうか分らないじゃんじゃないか。あたしは今まで我慢して我慢して自分を殺してきたのよ。かわいそうなほど自分を殺してきたのよ。だけど、もういや。あたしにも今度一度だけは好きなことをさしてよ。

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(練習風景)

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「青い山脈」  入江洋祐

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兵なれば婚約解かむと申されき (昭和16年12月8日)

昨年12月読売新聞に投稿された短歌である。

その1941年(昭和16)年から既に68年経っている。作者は80歳を超えている筈だ。彼女は68年間、毎年、いや毎日この時の衝撃を思い浮かべていることだろう。おそらく志願兵であったろう彼は、12月8日の天皇の開戦の勅令と、真珠湾攻撃の報道を知り、自己の死が確定したと考えたに違いない。そして、愛する人のために婚約を解消した。君は自由でなければならないと。ぼくは戦争中疎開児童だった。その伊豆の山村で別の形の結婚も見た。突然の召集令状、赤紙が届き、娘さんの方からせめて式だけでもと申し込まれて、三々九度の盃を交わし翌日出兵、戦死。花嫁は出征兵士の妻としてずっと婚家で過ごし生涯独身を通した。小学生だったぼくはその行為を誇り高く美しいものだと思っていた。そして正しいことだとも。でもいま思う。《美しかった》のだろうか、《正しかった》のだろうか。あまりにもむご過ぎる、あまりにも悲しすぎると。

『山脈』のとし子は愛する山田に召集令状が届き、翌日入隊だと告げられた時、即座に決意する。残された30時間を一緒に過ごそうと。そして広島へ出奔する。戦死した夫とその母、山田の妻子に対する大きな背信行為だ。そして大日本が何百年もかかって創りあげた、大切な伝統を、美意識を破壊する《反逆》であり《不倫》である。でもぼくはこの瞬間のとし子がたまらなく好きだ。縛られていた道徳、規律、文化を喰い破る。人間の自由への投機。木下順二は「本質的に非常にエゴイスティックな恋愛」を描きたかったのだと語っているが、その《個》のエゴイスティックな行為が、人間の《自由》への残された隘路(あいろ)なのだ。しかし、こうして獲得した自由も小さなものでしかない。そして、木下順二の生涯を貫くもう一つのテーマ「個人が抹殺されることによってでなければ、歴史ってのはつくりだされてこないだろう」が現われてくる。

三幕、原爆で山田を失ったとし子が、若いよし江に語る。「どんどん歩いてきたのよ、夢中にね、山なみに向かって。ーーーーだけど、ちっとも近づいてこないのよ、山なみが。歩けば歩くほど向こうへ行っちまうような気がするのよ」。この感覚はぼくの、現在の喪失感にピッタリなのだ。なにもかもが、芝居を始めてから55年、世界が良くなったという実感がないのだ。犇犇と悪くなってゆく。なにをやってきたんだと自戒している毎日だ。「山なみがどんどん向こうへ」行ってしまうのだ。

戦後『青い山脈』という小説が映画が歌があった。「若く明るい歌声に、雪崩も消える、花も咲く」と唄った。「古い上着をさようならーーー」と唄った。あの輝かしい青い山脈を求めて、ぼくたちは歩きつづけなければならない、息をきらせながら。

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2010年3月19日金曜日

帷子川に来てくれ、シー・シェパード

先日20100309の朝日新聞・朝刊・横浜版に、「帷子川にギバチ戻る」という題字の記事を見つけた。

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(以下細い字は新聞記事のままです)

環境省レッドリストで絶滅危惧種に指定されているナマズの仲間ギバチが、横浜市旭区の帷子川で見つかった。水質汚染と河川改修で長く姿を消していたが、生息が確認された。「汚い川の代名詞」だった帷子川の水質は下水道普及にともない、ここ十数年で急速に改善。アユの遡上も確認されたことから、流域で魚道づくりも進められている。(佐藤善一)

天王町にある弊社のすぐ近くには、相模鉄道が走っていて、その線路と平行して帷子川が流れている。この帷子川の源流は旭区の若葉台団地付近だそうだ、そこから旭区、保土ヶ谷区、西区を通って、みなとみらい地区の横浜湾にそそがれる。今年も、そろそろ桜の季節が間近に近づいてきた。川岸には桜の花が咲き誇りその見事さは東京の上野や横浜の野毛などと対決しても、見劣りしない、と思っているのは私だけかもしれないが。今日、この地区の染井吉野は一分咲きだった。来週中には満開、この一週間前後は見ものだ。また、端午の節句、子供の日の頃になると、自治会の年間行事なのでしょう、川を跨いで張られたロープに付けられた緋、青、黒、大小の鯉幟(こいのぼり)が、いくつも、いくつも風になびくのです。この光景は私のみならず、通り過ぎる人の目を楽しませてくれるのです。そんな帷子川の川岸の、天王町から星川、和田町の範囲内は、私の日ごろの散歩道でもあるのです。買い物や区役所、図書館への行き帰り、その川面を眺めながら歩くのです。亀が甲羅を干している。子供たちが網をもって、石の周りをじゃぶじゃぶ、虫や魚を探していることもあります。鷺のような鳥も飛来する。今日は鴨がつがいで泳いでいた。ボラが群れをなして泳いでいる。犬と散歩を楽しむ人も多い。ベンチに腰掛けて読書を楽しんでいる人もいる。その帷子川の水質が、年々よくなっているという、喜ばしいお知らせだ。

帷子を「カタビラ」と、35~6年前に横浜で仕事をするようになってから、この字の読み方を知った。広辞苑〈新村出編〉(昭和40年1月10日発売、第一版第十五刷)によると、帷子=(かたびら)は、①中古、几帳(きちょう)、張(とばり)などに掛けてへだてとした布帛。夏は生絹(すずし)を、冬は練絹を用いる。②裏をつけぬ衣服、ひとえもの、暑衣。広辞苑のこんな説明では、几帳、張、布帛、生絹、練絹、暑衣を又も辞書で調べなくてはならないではないか、ここは、そうもしていられないので、イメージを膨(ふく)らまして納得しましょ。なぜ、その名が帷子なのかと言うと、天王町付近では片方は山で、片方が田畑があったため昔の人はカタビラと呼んだそうだ。これはネットによる知恵だ、諸説ある筈だから丸呑みは危険です。今の天王町付近までは、かって海岸が迫っていたようです。20年程前までは、よく氾濫した。弊社のビルの地下にも水が浸入したときに、自動的に稼動する排水ポンプが備えられている。天王町駅前の城南信用金庫の地下にも、川から溢れた大量の水が流れ込み、大きな話題になったことがある。その後護岸工事が進められたのです。

その帷子川の都岡橋付近の水中に沈んだ鉄パイプの中から、約12センチのギバチが見つかった。ギバチはナマズ目ギギ科の淡水魚。1960年代まで、県内でも上中流域で数多く見られたそうだ。2007年には、保土ヶ谷区和田付近で、孵化してまもないアユの仔魚も確認された。遡上できるように、段差がある流域の4箇所で魚道を作っている。

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(アユの遡上が見つかり、作られた魚道。旭区白根1丁目)

そのギバチという魚は、今まで見たことも聞いたこともなかった。今回初めて知った。相鉄線鶴ヶ峰駅隣接の旭区市民活動支援センター「みなくる」に展示してあるので見に行って来た。下の写真が張本人です。水槽に入れられ、木のかけらと石の間でじっとしていたのです。全体の姿をカメラにおさめようとしたのですが、私の意を理解してくれなかった。形は、一見、山椒魚のようで、鯰(ナマズ)のようでした。

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水槽に入れられて展示されていたのですが、そこに説明文があったので、写し書きをしてきました。

生態ーー流れがあり、比較的水質もよい河川の中流域から上流域に生息する。石や岩の下や、石垣の隙間、ヨシの間や倒木の下に潜む。主に、夜間活動し、水生昆虫や小魚などを捕食する。幼魚は農業用水の水路を利用することもある。産卵期は6~8月。

形態ーー体は細長く、体色は茶褐色、黒褐色で鱗はない。上顎(あご)、下顎それぞれ2対づつ合計8本の口ひげ、胸びれ、背びれに1本づつ合計3本の棘を持つ。棘には毒があるとされる。尾ひれの後縁がわずかにくぼむ。幼魚には黄色味を帯びた斑紋がある。

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この稿を起した大きな原因の一つには、これから書くことを主張したいがためでもあったのです。

帷子川の水質が改善されて、しばらく見なかった魚が蘇ってきたという記事は非常に嬉しい。下水道が不整備だったことや、心ない者が工業廃液などを流すのはもっての他だが、私はここで主張したいのは、鯉などの大きくなる魚の放流についも、以前にもこのブログに書き込んだのですが、いとも簡単に放流しないで欲しい、ということなのです。

橋の上から、岸辺から鯉が悠然と泳いでいるのを、何も考えずに、只、見る分にはいいのですが、私は、水中における動植物の生態系、とくに川に生息する小魚、小動物、小さな虫たちのことを考えるのです。相鉄線天王町駅から、松原商店街に向かっていく途中に帷子川にかかっている帷子橋があるのですが、この橋の上から近所の人が鯉のエサに、ポテトチップ、ポップコーンやパンの切れ端を投げるのです。人間でも、これらを食い過ぎるとメタボの赤信号が即、点くのに、鯉には余りにも栄養あり過ぎだ。大きな鯉が、1メートル近い鯉が2~30匹、大きい口を開けて投げられたエサをキャッチしているのです。大きな鯉がますます大きくなる。こんな大きな鯉が、コンクリートで護岸されたところを、我が物顔で占拠している状態は異常です。エサが投げ込まれない時には、川上に向かってじっとしたまま大きな口を広げている。小さな虫や、小魚は否が応でも大きな口に吸い込まれてしまう。かって水質が汚染されていても、耐力のある鯉を放流して、その泳ぐ様で水質が段々と良くなっているのだと偽装したかったのか、たとえ汚くてもせめて耐えて泳ぐ鯉でも眺めての憂さ晴らしだったのか。

昨今、コンクリートで直壁風に作られた岸は見直されているようだが、このようなコンクリートの岸壁では隠れ場所がないのだ。大きな鯉はなりふり構わず、口に入ってくる食べ物は、ゴッツアンっと大いに満足だろうが。大きな鯉だけが、特権的に愛されるというのはちょっとおかしな話でないか。魚には、今回のギバチのように棲む流域は決まっているようだが、大きな鯉が、中流、上流に泳いで行くことだって十分考えられる。魚が憩うヨシや水草におおわれた川岸、隠れ場所も必要だ。望ましい調和のとれた生態系の維持が必要なのではないか。生態系を、鯉が狂わせているのでないか、と私は考えているのです。一体化した川を、棲む魚の種類ごとに区切るというのも無理なことだ。

そこで、短気な私はこの大きな鯉を間引けばいいのではないか、と思いついた。南極海で日本の調査捕鯨船に乗り込んできたシー・シェパードのピーター・ベスーン船長に天王町に来て貰って、このズーズーしい大きな鯉を叩き殺して欲しいと思っているんじゃが、と友人に言ったら、友人は鯉を殺したってしょうがないでしょ、鯉には罪はないのよ。人間が、鯉を放流しないようにすることじゃないの。どうしても放流するときは節度のある放流をして、放たれた鯉には、必要以上に餌をあげないことではないのか。シー・シェパードの船長さんにお願いしなければならないのは、鯉を捕まえるのではなく、無配慮に鯉を放流する奴を捕まえて貰うべきなんだよ。鯉を放つ人間を捕まえて、この事態の認識をさせることじゃないの、ときたもんだ。

異常に鯉が増えたならば、他の魚も安心できるように鯉を間引いて、間引いた鯉を場所を変えて安心した状態で棲めるような環境を作ってやるべきではないの。そのような啓蒙活動こそ必要なんじゃないの。

この友人は、トコトン、生き物を大事に考える御仁なのだ、横顔が天使のように見えた。

このことに賛同していただける人は、声をかけてくれませんか。

2010年3月16日火曜日

カラヴァッジョ 天才画家の光と影

 

銀座テアトルシネマで

映画「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」

を観て来た。

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弊社では営業部門の定休日を水曜日と決めている。定休日だからといっても、仕事が気がかりで、かってのようにいつでもひょいひょいと出かけるわけにもいかない。気分が何となく重いのです。会社から離れたくない。そんな状況下にいる私を見るに見かねて、絵の好きな友人が再三、是非にと誘ってくれた。気分転換にいいよ、と友人は気楽に言う。重い腰を上げて行ってきた。でも、入場券は、私の女房保有の東京テアトル株の株主ご優待利用だ。平日の昼間だからか、映画の内容のせいか、中年以上のご婦人が多かった。

映画の内容は、700円で買ったプログラムの文章を転載させていただいたのでその文章をお楽しみください。映画の内容がよく分ります。光と影を文字通りに天才的に描いた画家は、人生にも光と影があり、光の部分とは有り余る能力を揮ったこととその理解者に恵まれたこと、影とは庶民をモデルに選んで写実的に描き、権威的な教会からはその画法に反発を喰らうことが多かったこと、と人を純粋に愛するがゆえに、傷ついていく部分のことだ。

また、天才画家の光と影を、これまた光と影を天才的に撮る撮影監督、名匠ストラーロが担当した。物語としての映像は勿論、物語に出てくる名画も、さすがに見ごたえがあった。最初から最後まで、大いに楽しませてもらった。映画に出てくる名画のなかでは、今まで観たことのある絵画は、「果物かごを持つ少年」ただ一つだけだった。

ただ、一緒に行った友人は、脚本について、物足りないなあと言っていた。が、私にはそのことについては友人の言っていることが理解できていない。文字人間の私には、テンポが速くて込み入った内容の映画や、観念的な映画は苦手なのですが、この映画はストーリーも解りやすくて悩まなかった。

視覚は、充分魅了されました。

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以下は、この映画のプログラムより、転載させていただいた。

レンブラント、ルーベンス、ベラスケス、フェルメールなど多くの芸術家に影響を与えたバロック絵画最大の巨匠、カラヴァッジョ。

美術史に不滅の名を刻む画家は、なぜ、わずか38歳で命燃え尽きたのかーーーー?

愛に生き、悲運に散った天才の感動の物語。

その人生は、光の部分は限りなく美しく、影の部分は果てしなく罪深いーーー。

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北イタリアに生まれ、芸術の中心地ローマで才能を開花させながら、栄誉に甘んじることなく、描きたい絵を描き愛したい女性を愛し、やがて南イタリアへと流れ墜ちていったカラヴァッチョ。華やかなルネサンス文化が終焉した時代に、徹底した写実描写、劇的な明暗対比や感情表現によって、バロックという絵画革命を起こした天才の人生は、画家の遺した作品に似てコントラストが強く、激しいものだったーーーー。

波乱に満ちた一生を描いた映画「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」では、絵のモデルとなった女性たちとの恋愛や生涯にわたり彼を支え続ける貴族の女性との崇高な愛といったさまざまな愛のドラマが繰り広げられ、多くの女性を惹きつけたカラヴァッジョの人間的な魅力を浮き彫りにしている。

またこの映画には、宗教改革に対抗するカトリック教会が、絵画は信仰を広める最有効手段とみなし画家たちのパトロンになったという時代背景がある。カラヴァッジョは教会からの依頼に対し、庶民をモデルに人間味溢れる聖人像を描いたため拒絶される苦い体験に遭う。政治的な権力抗争の中心舞台が教会であった当時のイタアリア社会では、自らの信念を貫こうとしても命の鍵さえ教会に握られ、一個人は時代の波に翻弄されて未完の人生の幕を無念のうちに下ろすしかない。

没後400年。カラヴァッジョという一人の画家を通して、聖と俗、罪と赦し、情熱と冷静、栄光と破滅が狂おしくせめぎあう人生を、本作は鮮烈に描いている。

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歴史的な名画をスクリーンで鑑賞できるゴージャスな2時間。

名匠ストラーロが再現した「カラヴァッジョ的」世界とは

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本作では、《聖マタイの召命》《果物かごを持つ少年》《聖礼者ヨハネの斬首》など、現在では世界各所に点在するカラヴァッジョの代表作の中から約20点もの至宝が鑑賞でき、名画が誕生するまでの秘密が明かされていく。すべての絵画は、カラヴァッジュ研究の第一人者であるイタリア文化財・文化活動省局長のクラウディオ・ストリナーティと、美術史家でカラヴァッジョに関する著作も多いマウリツィオ・マリーニにより監修を受け、美術映画としても最高のクオリティに仕上がった。

登場する絵画にとどまらず、カラヴァッジョを生涯の師と仰ぐほど心酔している名匠ヴィットリオ・ストラーロによる撮影も、カラヴァッジョの美学を讃えることに成功している。『地獄の黙示録』『レッズ』『ラストエンペラー』で3度のアカデミー賞に輝く「光の魔術師」ストラーロは、カラヴァッジョの絵画の特性を詳細に研究し尽くし、絵筆をキャメラに置き換えて、色彩、照明からキャメラポジションに至るまで「カラヴァッジョ的」世界を再現し、絵画と映画の完璧な融合を見せている。

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カラヴァッジョが生きた時代そのままイタリアを堪能する歓び

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本作は実際にカラヴァッジョがたどった足跡を追い、彼が生きた時代そのままの貴重な旧跡が映像におさめられているが、ローマではカラヴァッジョの代表作が展示されているサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂、サンタンジェロ城、ファルネーゼ宮殿など、陽光眩しいシチリア島では美しい海岸や中世の古城などが撮影された。

主人公カラヴァッジョが情熱的に演じたのは、『輝ける青春』で繊細ながら気性の激しい弟ナッテオ役を演じたアレッシオ・ボーニ。パトロンのデル・モンテ枢機卿役に『裸のマハ』のジョルディ・モリャ、絵画のモデルになるフィリデ役に『王は踊る』のクレール・ケームなど、イタリアは元よりスペイン、フランスなど国際色豊かな俳優が集結している。

監督はイタリア若手の中で最も注目されているアンジェロ・ロンゴーニ。また『イルポスティ-ノ』でアカデミー賞受賞の作曲家ルイス・バカロフによる情感豊かな旋律も印象に残る。

 

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201002198(金)に、朝日新聞夕刊、be エンタでこの映画の紹介と説明がなされていた。すかさず切抜きにして、映画を観る機会を狙っていた。

以下の文章は、全て新聞記事を転載させていただいたものです。

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『光と影 生涯かけ追求』

「カラヴァッジョ」撮影 ストラーロ

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今年は、バロック絵画の先駆者カラヴァッジョの没後400年。その波乱の生涯を描く「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」(アンジェロ・ロンゴーニ監督)が東京・銀座テアトルシネマで公開中だ。光と影の巨匠を撮影監督として映したのは、こちらも光の魔術師と呼ばれるビットリオ・ストラーロ。ローマ郊外の自宅で作品への思いを聞いた。(ローマ=南島信也)

ストラーロは「地獄の黙示録」「レッズ」「ラストエンペラー」で3度のアカデミー撮影賞を受賞した名匠だ。

カラヴァッジョとの出会いは、映画学校で学んでいた20歳のころにさかのぼる。ローマ市内のサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会で代表作「聖マタイの召命」を目にして、息をのんだ。

「右上から差し込む光とその下の影のライン。神聖性と人間性、自覚と無自覚を象徴している。生と死の比喩として表現した光と影を初めて見た」

この衝撃が、ストラーロの映画人生を決定づけた。「学校では、光と影の意味について教えてくれなかったが、カラヴァッジョと出会って、少しだけ分った。どの映画を撮る時もあの時の記憶をたどりながら表現してきた。どうやったらあの絵のシーンを再現できるのか、生涯をかけて追求するテーマだ」と語る。

映画は、窮地続きの修行時代から、枢機卿や有力貴族に認められるが、その後、暗転するカラヴァッジョの人生を描く。称賛と殺人を犯したことによる死刑宣告。娼婦、有力貴族婦人らとの恋と分れ、絶望の数々ーーーー。逃亡の果てに38歳で倒れるまでの波乱の生涯を、画風さながら陰影鮮やかに映し出している。

カラヴァッジョは「マスター・オブ・ライト」と称される。その明暗を劇的に対比させた描写や感情表現と、徹底したリアリズムで時代の寵児となった。その彼を映すのに、最も苦労した点とは?

「電気がなかった時代の光を再現することではなく、カラヴァッジョという人間を理解することだった」と言う。「なぜ、彼の絵にあのような光や影が必要だったか。それを知るために、彼に関するあらゆる本を読み、心理学も勉強した。今日のすべての視覚芸術が彼の影響を受けていると信じている」

ストラーロは「ライティング・ウイズ・ライト」(光で書く)という言葉を好んで使う。その意味をこう語った。

「映画というのは、ひとつの物語が始まり、展開して完結する、いわば本のようなものだ。作家が言葉で、音楽家が音符で語るように。映画は光で物語をつむぐ芸術にほかならな

 

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ストーリー

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灼けるような陽が照りつける小船に揺られながら、高熱に浮かされた一人の男が人生を振り返るーーー。

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芸術の中心地ローマで味わう絶望感

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ミラノで絵の修行をしていたカラヴァッジョが芸術の都ローマに出るため援助を依頼した相手は、コスタンツァ・コロンナ侯爵夫人。幼い頃から恋焦がれてきた美しき夫人は、彼のためならなんでもすると約束してくれた。

ローマで画家のマリオ・ミンニーティと知り合ったカラヴァッジョは、彼の紹介でダルピーノ工房に入り込む。夜になると、マリオや血の気が多い仲間オノリオらと街へ繰り出し、そこで情熱的な美女に釘づけになった。彼女は高級娼婦のフィリデ。しかも元締めは街の権力者ラヌュッチョ・トマッソーニで、手が出せる女ではなかった。

そんなある日、足に大怪我をしたカルヴァッジョは、マリオの献身的な介護で癒されていく。愛する彼をモデルに絵を描いて売ったが、日々の食べ物にも困る生活に絶望し死に取り憑かれていくカラヴァッジョをマリオはまた優しく抱きしめるのだった。

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上りつめた栄光の階段

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窮地にあったカラヴァッジョのもとに、ついに救いの手が差し伸べられる。絵の評判を聞きつけたデル・モンテ枢機卿が宮殿の一室を提供し、生活のすべてを援助してくれることになったのだ。

カラヴァッジョの絵がお披露目されるサロンには、有力貴族ジェスティニアーニ侯爵や画壇の大御所ズッカリ、人気画家バッリョーネなどローマ中の名士が集まっていたが、カルヴァッジョは誰にも媚びることなく率直な意見を口にし、皆を驚かせる。

フィリデのことが忘れられないカラヴァッジョは、彼女をモデルにする権利を賭けラヌッチョにテニス対決を挑み勝ち取った。モデルに乗り気でなかったフィリデだが、彼の描く絵に感動し、その熱い思いのまま二人は激しく愛し合う。

その頃、巷ではチェンチ殺害事件の話題でもちきりだった。チェンチ男爵の娘ベアトリーチェとダルピーノの工房で言葉を交わしたこともあるカラヴァッジョは、殺人の罪を着せられ首を斬り落とされる彼女の姿を目に焼きつけ、フィリデをモデルに迫力あるユディトの絵を完成させる。だがフィリデは、娼婦として暮らさなければならない自分を理解してくれないカラヴァッジョと言い争い、泣きながら去って行く。

フィリデとの別れからまたしても放蕩に明け暮れるカラヴァッジョにとって、最高に名誉ある仕事がもたらされる。それはサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂の絵画制作。《聖マタイの召命》《聖マタイの殉教》の誕生でローマ中の賞賛を浴びたカラヴァッジョが、誰よりも作品を見せたかったコロンナ侯爵夫人もその栄光を称え、これからは家族を持ち落ち着いた生活が必要と勧めるが、彼は夫人に永遠の愛を捧げると告白するのだった

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最愛の女性と引き裂かれーーー

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その頃、教会では異端粛清が続き、火刑に処せられたドミニコ会修道士ジョルダーノ・ブルーノの末期の苦闘を見届けたカラヴァッジョは、聖人も人間だと考え《聖マタイと天使》を描く。しかし人間的過ぎる聖人像だと教会に受け取りを拒否され、街での乱闘騒ぎで鬱憤を晴らすしかなかった。

すでにスペイン派が多数を占めていた教会では、フランス派のデル・モンテ枢機卿にカラヴァッジョを擁護する力はもうなかった。宮殿を辞した彼は、街の娘レナをモデルに呼び寄せ二人で暮らす。レナはかってカラヴァッジョに助けられ、お返しに牢獄から出てくる彼をじっと待ち続けていたのだ。心優しく、信頼と愛情を寄せてくれる彼女に、カラヴァッジョは初めて安らぎを得る。

しかし、デル・モンテ枢機卿に依頼され、新教皇に初めて献呈する大切な絵のモデルに庶民のレナを使って《ロレートの聖母》を描いたカルヴァッジョは、教会の非難にさらされる。その上、最愛の人レナにも危害が及び、逆上したカラヴァッジョはトマッソーニの仕業だと決闘を申し込み、怒りのままに彼を刺し殺してしまうのだった。

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転がり落ちる運命の果てに

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重傷を負ったカラヴァッジョはナポリのコロンナ邸に運び込まれ、夫人の必死の看護によって傷は癒えた。が、そこに届いたのは、恐るべき死刑宣告の通達。動揺するコロンナ侯爵夫人に、カラヴァッジョの芸術を誇りに思っていた夫人の息子ファブリツィオは、マルタ騎士団の庇護を必ずとりつけると約束する。

カラヴァッジョはマルタでヴィニャタール騎士団長をはじめとした騎士たちに手厚くもてなされ、渾身の一作《洗礼者ヨハネの斬首》が騎士たちの感動を呼び、ついに名誉騎士に叙任される。だが、彼を憎む上官の罠にはまり牢につながれ、カラヴァッジョの味方をする騎士たちによってひそかにシチリアへ逃げ延びた。そこでローマ時代の友マリオと再会を果たしたカラヴァッジョは、追っ手に殺される恐怖に怯えながら、数々の注文に応じ残された力を振り絞るように《聖ルチアの埋葬》などの力作に取り組んでいく。

一方ローマでは、デル・モンテ枢機卿をはじめとするパトロンたちや、コロンナア侯爵夫人やフィリデまでもが恩赦嘆願のために捨て身の覚悟で力を注ぎ、そのお陰で教皇による恩赦の知らせがやっとシチリアに届いた。カラヴァッジョは、芸術の都ローマに戻れる、そしてコロンナ侯爵夫人と再び会えるという喜びに打ち震える。だが、運命は過酷だった。ローマに戻る途中の港で官憲に誤認逮捕され足止めをくらい、教皇に献呈する絵画を乗せたまま離れていった船はなんとか追いつこうとするカラヴァッジョに、死の影が忍びつつあったーーーー。

 

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(聖母の死)

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(ラザロの復活)

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(果物かご)

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(病めるバッカス)

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(合奏)

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(ホロフェルネスの首を斬るユディト)

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(アレクサンドリアの聖カタリナ)

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(聖マタイの召命)

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(聖マタイの殉教)

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(蛇の聖母)

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(聖マタイと天使)

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(ロレートの聖母)

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(アントニオ・マルテッリの肖像)

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(慈悲の七つの行い)

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((執筆する聖ヒエロニムス)

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(ダヴィデとゴリテア)

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(アロフ・ド・ヴィニャクールの肖像)

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(教皇パウルス5世の肖像)

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(洗礼者ヨハネの斬首)

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(ダヴィデとゴリアテ)

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(アロフ・ド・ヴィニャクールの肖像)

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(聖ルチアの埋葬)

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(いかさま師)

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(トカゲに噛まれた少年)

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(フィリデの肖像)

孫の一言は、魔法の力

昨夜、孫が我が家に泊まった。孫・晴の住んでいる家は、我が家の前の道路の向かいだ。距離で言えば、10メートルも離れていない。一日の仕事を終えて自宅に帰るときには、孫・晴の家に寄って娘夫婦から酒を一杯、二杯、多い時には三杯、もうちょっとご馳走になるときもある。気持ちよくなって、それから我が家の玄関チャイムを押す毎日なのです。

孫・晴の家に寄ると、孫が喜んでくれる。「ただ今」と声をかけると、「お帰り」と返ってくる。私もそれに呼応して嬉しくなるのです。頬っぺたを両手で包み、頭を撫ぜて、次に全身をぐうっと抱きしめるのです。これは孫を持った者にしか味わえない、特権的快楽、排他的愉悦です。

朝、私が犬の散歩を終えて、新聞を読みながら食事をしていたら、隣の部屋に寝ていた孫・晴が起きてきた。まだ早いから、もう少し寝ていても大丈夫だよ、と言ったのですが私と一緒に食事をしたかったようだ。食事をしながら、孫・晴が大きな声で、「ジジイは、幸せだよね、美味しい料理を作ってくれるお嫁さんをもらって」ときた。なんちゅう!!、見事に当を得た美辞。突然、私の脳天を直撃したこの言葉は、私の体を蜂の巣のように穴だらけにしてしまった。

実は、この一週間、私と妻との間で揉め事があってお互いに嫌な雰囲気のまま過ごしてきたのです。原因は他愛無(たわいな)いことです。夫婦喧嘩は犬も食わぬというけれど、こんなものにどんな熨斗(のし)を付けても、誰もがご免被りたい。所詮、夫婦喧嘩なんて他人を思いやる、ちょっとした配慮があれば、起こり得ないものなのに。些細なことでも、一度感情をこじらせると、普通の状態に戻るには空しく長い時間を要する。大人には何かが邪魔をして、相手に対して簡単には、スマンとは言えないものなのだ。これが、悲劇が長引く原因なのだ。

そんな、重っ苦しい雰囲気の中での、孫・晴の一声は私の頑な心を一瞬にして、和(なご)ましてくれた。鋼鉄のようになって心が、瞬時に蒟蒻(こんにゃく)化現象だ。妻も孫・晴の声を確かに聞き取っていた。私は、「お前なあ、ええこと言うなあ」と感謝を込めて、頭を下げた。

それから、いつものように朝風呂に入るのですが、お前も入らないかと声をかけると、既に幼稚園の制服に着替えていたのに、惜しみなく脱ぎ始め、「ジジイと朝風呂に入ると気持ちがいいんだよね」ときた。なんちゅう!!麗句。

いつものように新聞を持ち込んだ。何か面白い記事でもあれば、孫・晴を喜ばしてやれたのに、生憎適した話題はなかった。「新聞にはいっぱい色んなことが書いてあって、面白いんだよ。字をいっぱい知っていなくては読めないので、ジジイは字を一所懸命に憶えたんだよ」。

「そうだよね、ジジイはいっぱい字を知ってるよね、ママが言っていたよ」ときた。

そうなんだよ、ジジイはいっぱい字を憶えて、いっぱい新聞や本を読みたいんだよ、と話すと孫・晴はしっかり肯いていた。

2010年3月10日水曜日

愛ちゃん、早大中退待った!!

20100305の朝日新聞で以下の記事が出た。

卓球の福原愛(21)=ANAが早大を中退することを5日、関係者が明らかにした。2007年に早大スポーツ科学部のトップアスリート制度で入学したが、「同制度で入った学生は出席重視で、日本代表としての活動との両立は難しかった」と家族らは話している。今年は5月の世界選手権団体戦(モスクワ)に出場後、6月からは中国スーパーリーグに再び参戦の予定。日本リーグ参戦も続ける。退学届けは今月末までに出すという。

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私も、四十余年前早稲田大学でサッカー部に在籍していた。学部は社会科学部です。当時、早稲田のサッカー部は、常にチャンピオンであらねばならない、と誰もが誇りをもっていた。ワセダ、ザ、ファーストが合言葉。高校の時にそれほども練習をしないまま、素浪人を二年もして、それから大学に入った。この素浪人だった二年間、学資稼ぎのためにドカタをした。これが、サッカー部に入ってから苦労する原因作りになった。肉体労働をした結果、体の重心を習慣的に足の裏全体で受けるように慣らされてしまった。それが、サッカーをする上で弊害になったのです。相撲などにはよかったのだろうが。機敏に方向を変えるためには、プレー中はつま先立ちでないと、それに対応できないのです。

お前はゴミみたいなもんだとか言われながらも、この部からは絶対離れるものか、と執着した。

入学当時は、真っ直ぐに走ることさえできなかったのです。体力がなく、過度の練習で頭も回転しなくなって、夢遊病者のようだったのです。方向を狂わないように、タッチラインに沿って走るのですが、体のバランスを欠いて、タッチラインから大きく外れてツツジの垣根に頭から突っ込むことになるのはしょっちゅうでした。

福原後輩は、世界のチャンピオンをめざしている超スーパーなアスリートだ。私みたいな極めて劣等生でも、一所懸命だったのは、同じだ。私は推薦で入学したわけではないので、何のシバリもない気安さはあったが、やはり日本の大学ではチャンピオンになって、私はそのメンバーに入ることを夢見ていた。

学校では難しい授業が行なわれていたが、私は体ボロボロ、頭フラフラでも、この難しい講義を嫌だと思ったことはない。だって、私には目のウロコ落ち、知らないことをドンドン教えてもらえる。感謝していたからだ。でも、だからと言って、私の理解が進んでいたわけではない。解らないことばかりで、結果、成績も当然悪かった。それでも、満足していた。

この頃、社会科学概論、日本ナショナリズム論、フランス思想史、政治学原論など、一般教養として受けた授業の時に使った本を読んでいるのです。学生の時には解らなかったことが、今は面白いように理解できるのです。こんなこともあるのですよ、福原後輩。

そこで、後輩の福原愛さんにアドバイス。大学に所属できる幸せをもう一度考え直してみて欲しい。新聞記事によると、トップアスリート制度で入学した学生は、出席を重視するとある。最近、中国の世界ランキング第3位の選手に勝ち、心身ともに充実しているのだろう、気合も一段と入っている。中国のある卓球団と契約して中国リーグにも参戦するとある。今が旬の福原選手は、100%競技者として邁進したい気持ちはよく理解できるのですが、大学の授業も捨てたものではない。休学するということだって可能だ。先生から講義を受ける有り難さを鑑み、もう一度考え直してもらいたいものだ。4年が無理なら、5年だって、6年かかってもいいではないか。私にとって、大学は掛け替えのないモノをプレゼントしてくれたのですが、馬鹿っなことに、そんなことが解り出したのは、最近のことなんですよ。

退学届けを出さないでください。

2010年3月9日火曜日

もうすぐ春ですねえ

3月6日は啓蟄だった。二十四節気の一つ。日本語大辞典(講談社)=地中で冬ごもりしていた虫がはいだしてくるころをいう。

2月20日(土)の早朝、雨の中を犬と散歩していた。アスファルトの道路を大きなカエルが、暗闇の中を横切っていた。この日の前後2~3日は異様に暖かくて、冬眠から目が覚めて嬉しくて、散歩にでかけたのだろう。久しく会えなかった恋人を探していたのかも。その日の昼に、弊社社有のアパートを購入していただいた佐さんも、私も見ましたよと仰っていた。佐さんは藤沢にお住まいだ。夕方、会社で雑談している時に、カエルのことを話題に出したら、俺も見たと自宅が寒川の浅が言った。こんなに人の目についているのだから、湘南地区から横浜にかけては、大量のカエルが冬眠から目が覚めて、地上に現われたのだろう。

寒椿の花がぽたぽた落ちて、沈丁花と水仙が満開で、モクレンとコブシの花の蕾がゆるんできた、一気に花を開かせようと準備万端整えているのだろう。梅一輪、一輪ほどの暖かさの梅は満開を過ぎて散りだした。河津ザクラも満開が過ぎた。出勤途中に通る高校の前のカンヒザクラも満開だ。三寒四温、春は、もうそこにやってきている。

3月3日のひな祭りの日、大皿に盛られたチラシ寿司の横の花瓶に桃の花が活けてあったので、この桃の花、どうしたのと家人に聞くと、花屋さんで買ってきましたとのことでした。きっと暖かい南の地方から市場に送られてきたのでしょう。まだ、ここら辺りでは桃の花はもう少し時間がかかりそうだ。

私の家の猫の額のような狭い庭の、猫の鼻の穴のような小さな池には、今年も氷が張らなかった。この5~6年は薄い氷さえ張らない。微妙に気温は上がっているようだ。鮒と泥鰌(どじょう)はまだ姿を見せないが、金魚はもう春を先どりしたように気持ちよさそうにスイスイ泳いでいる。

そして今日まで、保土ヶ谷の権太坂に住みついて30年以上も経つのに、また犬の散歩を初めてからでも20年は経つのに、花を咲かせる木が少ないこの季節に、今、満開に花を咲かせている樹木が2種類もあることに気付かなかったのです。その樹木があるのは、一本は私の家から10軒向こう、もう一本は200メートほど離れた所、いずれも普通の家の庭に植えられている。今まで全然気が付かなかった。

季節は確実に春に向かっているというのに、日本経済の春はまだまだ遠いのだろうか。こちらの春こそ早く来て欲しい。待ち遠しいなあ。

その一つは、ミモザだ。その名を家人に教えてもらった。

ミモザという名前も初めて知ったので、ネットで調べていたら、今日8日はミモザの日「国際女性デー」なんて情報も手に入れた。副産物だ。女性の差別撤廃を求める日なのでした。

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もう一つの花木は、下の写真のものです。明日(20100309)、その家の住民に聞いてみようと思っている。

早朝、家を訪ねた。上のものとは少し花のつき方が違ったのですが、ミモザだったのです。でも、少し種類が違うようです。そのうち誰かに教えを乞うことにしたい。

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