2007年11月30日金曜日

いのちの食べかた。

映画「いのちの食べかた」(our daily bread)を観てきた。

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渋谷[シアター] イメージフォーラム   11月14日〈水) 

私のベジタリアンの友人が、肉を食えなくなった理由を話してくれたことがあった。友人は猫をこよなく愛している。猫を可愛がる延長線上で、動物を愛するあまり殺すことを嫌悪しだした。いくら食用だからといって、動物を殺すなんて、絶対許せないと言い出した。私は愛犬家の一人です。愛犬ゴンが死んだときは、悲しくて狂ったように泣いた。そのゴンに誰かいたずらでもしようものなら、私はその相手を、牙をむいて何の躊躇いなく噛み付いたことでしょう。「動物を殺すなんて絶対許せない」と言う友人の言葉を、私は自然にナルホドとうなづけるようになった。

今まで何の抵抗もなく肉を食ってきた私にとって、全く口にしないわけにはいかないが、食する量は極端に減った。また私の女房は肉が好きじゃないので、元々家庭での食卓には、肉料理は少なかった。子供が大きくなってからは、もっと少なくなった。

又、盲導犬や介助犬のことを、人間の犬に対する虐待だというのです。犬にも犬の独立した権利が認められているのではないのか。人間さまに都合がいいからといって、犬をそのように馴らして、酷使するのは許されることではない~と。私には、まだ納得できないところがあるのだが、友人の主張に迷いがない。

それから~                                               

最近、宮沢賢治の童話集に影響を受け続けている。年末の忘年会を「銀河鉄道の夜」の観劇会にしたので、再び「銀河鉄道の夜」を読み直した。その続きに童話集も読み直した。どの童話にも、雲、星、風、草や樹木が脇役に登場するのですが、そのどれもが、命をもっているように登場するのです。意思や感情をもっているのです。人間が、宇宙が、動物が、植物が、世の中に存在する全てのモノが、物語のなかで役が与えられていて、その役を演じているのです。繰り広げられるお話は、万物が静かに平和な世界を希求しながら進んでいく。今の私たちの暮らしに非常に勉強になることが多い。示唆されっ放しだ。世の中の何もかもが、悪い方向に進んでいる今こそ、宮沢賢治に習おう。以前に読んだときには感じなかったことが、今私にはみずみずしく、感得、理解できるのです。

昨今、環境問題についての議論は活発だが、ずうっと以前に宮沢賢治さんは自分の作品のなかで環境の問題を取り上げていたことになる。動植物についての食物連鎖については、学校で教えてもらった記憶があるが、環境を座視して、人間をも含めた動植物のより良い関係なんて、誰も指摘する人はいなかった。動物は、飼育されて殺されて、食材になる。生あるものが、そんなにバサバサ殺されていいのか?と私は疑問を持ち始め出した矢先に、今回の映画の広告を見付けたのです。

そして、この映画に~

映画の中身を紹介しようとしたのですが、ドキュメントなので、内容を紹介するには、全てを詳細に表さなくてはならないと思った瞬間、文字を書き続けることを断念してしまった。以下、簡単な紹介です。

食材の提供者は、食べる人にとって、美味しいと感じるように、味わい、舌触り、風味の精度をあげる。飼育は、管理しやすい方法を極める。そしてできるだけコストを下げて、安く大量に製品化して市場に出し、多額の利益を狙う。徹底的に機械化された生産現場の映像は、見る者を圧倒した。映像と、現場で発生する音を最大限ビートを効かして、私の五臓六腑を抉る。見終わった時、疲労がどっと寄せた。

鶏、牛、豚、魚をベルトコンベヤーで次から次へと解体されていくのです。オートメーション化されていて、作業員は決められた仕事を淡々とこなしていく。牛にとどめを刺すのは人間だった。バケツ10杯程の鮮血が滝のように流れ出したのには肝を冷やした。

とうもろこし、麦、ひまわり、オリーブ、ピーマン、トマトの消毒や殺虫の薬剤散布は飛行機を使って大規模に行われる。薬漬けだ。種まきから収穫まで全て機械化されていた。農耕というイメージは全然ない。ピーマンの根は、海綿状の土壌もどきに根付いていて、その海綿状のものに水や栄養分が補給されるのだろう。土を耕しているよりも効率がいいのだろう。花巻農学校の宮沢賢治先生がこの映画をご覧になられたら、きっとびっくりされることでしょう。嘆かれるかもしれない。いや、怒り出されるかも。

映画の広告文より。  

今、誰もが気になっている食品偽装問題。でも本当は、私たちも良く知らない。「食べ物がどうやって作られているのか?」を。

これは、私たちが普段食べている食べ物が、食卓に並ぶまでの、驚くべき旅。徹底的に機械化された生産現場に圧倒され、そこで誇りを持って働く人々を想像する。

劇場でしか体験できない食の真実。きっと、食べることがもっと愛おしくなる。「いただきます」と心から言えるようになる。

2007年11月29日木曜日

オシム監督の回復を祈る。

オシム監督が脳梗塞で倒れてから、10日ほど経つのかな。病状は依然、深刻な事態のままだ。是非、日本A代表の指揮をとってくれることを願っているのですが、病状を見ながら、サッカー協会では後任人事を進めているようだ。監督の仕事はハードで過酷だ。オシム監督の口から発せられるいくつかの名言は、なかなか含蓄があって、サッカーファンのみならず多数の人々を魅了させてきた。赤鬼のようで、仁王さんのようで、時には阿修羅のようなオシムおじさんを、私のサッカーの知らない友人は、「ただの、オッサンやんけ」とぬかしよる。「違うんだよ、あのおやじは。俺は尊敬しているし、期待しているんだよ。凄いオヤジさんなんだよ」。東京五輪での善戦、メキシコ五輪で銅メダルをとれるまでに指導してくれたデッドマール・クラマーさんと並び賞される外国人指導者だと私は思っている。サッカーを愛する者たちにとって、感謝しなきゃいかん貴重な御両仁なのだ。

クラマーさんは「日本サッカーの父」と呼ばれ、「サッカーは生活の鏡である」と生活面にも厳しい指導を課したコーチだったそうだ。

昨日(11月28日)、少し反応がでてきたと報道があったが、まだまだ気が抜けない状態のようだ。一刻も早い回復を願うばかりだ。

オシム監督が倒れたことを知った瞬間、私はオシム監督の後任には岡田武史氏になるだろうと確信した。サッカー協会の会長である川淵さんが最終の決裁者なんだから、「岡田で決まりや」と女房に断言した。「何でや?」と聞かれたが、ここは、岡田しかいないのです。ワールドカップのアジア地区の3次予選が近づいていることを考えると、後任者は急がなくてなならない。そんな状況下で、信頼できて、それなりのリーダーシップをとれるのは、岡田しかいない。岡田は、川淵さんにとって身内同然だ。今日の新聞なんかでは、岡田に決まりそうだという内容になっている。

こんなところで先輩風を吹かせてもしょうがないのですが、岡田は私の後輩、川淵さんは大先輩だ。岡田っ!、ここらで一発気合入れて頑張って欲しいのです。オシム監督が求めていたサッカーを君は一番近くにいて、一番理解していると思うのです。それに、君独特の戦法を加えて欲しい。

そんな日々のなか、3日前ぐらいだと思うのですが、天声人語にオシム監督のことが書いてあったので、早速切り抜いて転記させていただいた。

天声人語(朝日朝刊)

サッカー日本代表のオシム監督(66)は、祖国ユーゴスラビアの解体やボスニア内戦といった辛酸をなめてきた。それゆえだろうか。口をつく言葉は奥が深い。民衆の悲劇が、名将の人生に、深深とした陰影を刻んでいるように見える。動じない精神力と、異文化への広い心が持ち味である。それを戦争体験から学んだのかと聞かれ、「(影響は)受けていないと言った方がいい」と答えたそうだ。「そういうものから学べたとするのなら、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が~」(木村元彦『オシムの言葉』)

内戦の死者は20万を数え、サラエボの街は破壊された。街の一角に、監督が生まれ育った地区がある。そこで起きた悲劇を描く映画「サラエボの花」が、近く東京の岩波ホールで上映される。内戦下の組織的レイプを見据えて、内容は重い。この映画に、脳梗塞で倒れる直前のオシム氏が文章を寄せている。愛してやまない故郷を、「すべての者が共存し、サッカーをし、音楽を奏で、愛を語らえる場所だった」と誇らしげに思い起こしている。

その故郷を、「人類のモラルと良心がかき消された、世界史上に類のない場所になってしまった」と言い切るのは、辛かっただろう。燃えるような郷愁と、戦争への憎悪が渦を巻く、切ない一文である。オシム氏の容体は予断を許さないと聞く。現役時代の氏は、ハンカチ一枚の隙間があれば、3人に囲まれても突破したそうだ。危機を突破して、新たな言葉を聞かせてくれるよう願う。

2007年11月13日火曜日

「イーハトーブの果樹園」柿3個、初めての収穫なり。

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3個収穫できたのですが、1個は試しに食いました。残りの2個です。立派なものです。美味かった!!

「イーハトーブの果樹園」 柿物語

私の果樹園の柿の木から、今年初めて柿3個が収穫できた。4年前に取得した土地に、柿3本、ミカン1本、スモモ1本、栗2本を植えたのです。その3本の柿の木のうち1本から、3個が生って、他の2本にはまだその気配がない。あと何年か必要なのだろう。栗もいくつか生りました。ミカンはまだ青い実の状態です。その土地は建築基準法上では、なかなか難しい土地で、家を建てるには手続き上難易度の高い宅地なのです。手続きさえちゃんとすればいいのですが、なかなかそうも行かず、昔から秘かに狙っていた、憧れの果樹園にしたのです。

その果樹園の名は、「イーハトーブの果樹園」です。私に今一番影響を与えている宮沢賢治さんの作品から拝借させていただいた。悪用はいたしません。賢人の名を汚すようなことは決していたしません。風や草や樹木にも、雲も、星も、意思や感情をもって、それらが物語の重要な脇役を果たすイーハトーブの世界に私も連れ込んでもらいたいのです。

かって家が建っていた部分は、樹木には相応しくない土壌なのですが、庭だった部分は、かっても花壇や木があったのでしょう、いい土なのです。果樹園を思いついて、真っ先に買ってきた果樹の苗木は、柿の木だった。桃、栗、3年、柿 8年とか、小さいときから聞かされていたものだから、イの一番に柿を植えなくてはと、思ったのです。その後、他の苗木を、思いつくまま植えたのです。

それに、私は無類の柿好きなのです。

生まれは、京都府と滋賀県の国境の山間谷間の小さな山村でした。京都府綴喜郡宇治田原町南切林が郵便物の届く住所です。主にお米とお茶(宇治茶)を作っている専業農家で生まれました。子供の頃、野原、田畑を駆け回り、山へ出かけては野イチゴ、アケビや茸類を採ったり、川では網やザルで魚をすくったり、潜ってはウグイなどの手つかみをして、過ごしました。ターザンごっこでは、ガキ仲間にいつも危険な技を見せ付けた。

そんなガキの頃のおやつはと言えば、田畑に植えられたキュウリ、スイカ、マッカ、トマト、柿、イチジクを盗んで喰うか、山に入ってアケビ、野イチゴを探して、喰うことでした。今のようにお金を持って、駄菓子屋さんやコンビニに行くなんて考えられませんでした。真夏のスイカやトマト、キュウリは喉の渇きを癒し、空腹を満たす絶好のおやつでした。家に帰れば、おにぎりかお餅だった。何もない時は、おにぎり。おにぎりは、自分で勝手に、手のひらに塩をつけてにぎるのです。餅は、だいたい一年中用意されていた。夕方、腹をすかして帰ると、祖母が餅を焼いてくれた。母は、夕暮れまで野良仕事をして、それから夕食の準備に入るので、子供の私等は待ちきれないのです。

農家の人が、汗水たらして世話をしている農作物を、内緒でいただくわけですから、盗人ということになるのですが、そこには毅然とした不文律があったのです。私は父から、そのローカルルールを伝授されていました。大人も子供も、守らなければならない、泥棒の掟(おきて)があったのです。

キュウリは変形していて、均質に育たないと思われるもの。スイカやトマトは小さくて、そのままにしておいてもまっとうに育たないだろうと思われる物で、それなりに熟している物をいただくのです。これらは、いつかは、間引かれて捨てられる物なのです。また収穫期が過ぎて、取り残されていたものをいただくのです。これらは、喉の渇き、空腹を満たす、好材料になるのです。このようなことは、田舎では皆が承知の上のことで、野良作業中、お互いに、盗み喰いを許し合っているのです。

その田畑の農産物のなかで、私は特別柿に魅かれたのです。私の「盗み食い」症状が一番劇(はげ)しく表れるのは、柿が視野に入ったときなのです。柿を見ると、人間が変わるのです。私の田舎では、柿を商品にして市場などに出すことは誰も思いついていなかった。品質の優良な柿を育ててみようとする百姓はいなかった。金になる果物として、見なされていなかったのです。でも、やっぱり、私にとっては、最高の果物でした。

そんな子供時代を過ごしてきた私だから、いまだに「盗み食い」症が抜けないのです。年を重ねてきた、いっぱしの良識ぶった大人なのに。59歳。困ったものです。生っている柿が、道路にまではみ出しているのを見ると、自然に手が動きだそうとするのです。たとえ、その柿の木が他人のものでも。必死に、両手を合わせて指をからめて、どちらの手も勝手に動かないように押さえつけるのです。

今から20年程前のことです。私は早朝5時頃自宅をスタートして、権太坂から藤塚、今井町、秋葉町、品濃町、平戸周辺をランニングしていた時期があったのです。ランニングで疲れたら、早足で歩くのです。約1時間。いつものコースに、庭先に柿がたわわに実っている農家があったのです。柿の花が咲いて、青い実になって、それが赤く色づいていくのを、しっかり観察していました。最初は羨ましかった程度だったのですが、色づいてくると、私の子供時代にきっちり培った「盗み食い」症の初期症状が表れだしたのです。その柿の木は、少し道路から奥まった所に立っていたのです。鈴なりに生っていて、枝はその重さに必死で耐えているようにも見えました。私の病気は、日に日にますます悪化していくばかりだった。真っ暗闇だった。ついにその日が来たのです。末期症状を迎えた私は、餓鬼になって1個の柿を手にしてしまったのです。柿の実を手にした盗人は、一目散にその場を離れなくてはならないと、走り出そうとしたその時、目に入ったものは、人影だったのです。暗闇のなかに、はっきりと老人を確認しました。その農家の人だと思われる老人は、早起きをしたのでしょう。早く起きて家族に迷惑をかけまいと玄関の前で縁台に座っていたのです。座って、煙草を吸っていたのです。老人は、こっちを見ていました。私の行動を見ていた筈です。でも、一瞬の出来事だったから、老人は何も反応できなかったのでしょう。私は逃げた、逃げた。韋駄天、脱兎の如く、その場からできるだけ早く、遠くへ移動しなければならなかった。足がツッた、心臓はバクバクして破裂寸前。その時に、決心したのです。二度と「盗み食い」はしまいと。私はいつまでも、懲りないと改めない、生半可な人間なのです。

柿にもいろんな種類の柿がありました。正確に何種類と答えられる者はいないそうです。700種類とか、1000種類とか、言われている。田舎にあった渋柿はツノコ(正式名称はツルノコ)と、呼んでいた種類が一番多く、それ以外にもいろいろあった。甘柿では、富有柿、次郎柿、チンポ柿(たまたま、学生時代に読んだ小説で、今 東光さんが題名に使っていた)は、どこにでもある種類のものだった。が、その本当の名称は、名無しの権兵衛で、田舎ではただ「甘柿」とだけ呼んでいた。今、思うに、ひょっとして今 東光さんの受け狙いの造語かもしれません。作家はうまいこと、嘘をつきますから。

渋柿は渋をとるのに使われるのと、干柿にするものに分かれるのです。

百姓は、冬を迎える鳥のために、どの木にも幾つかは実を残して置くのです。その残された柿のなかでも、鳥が見逃したラッキーな柿の実は、秋が深まり霜がおりる頃、果肉は真っ赤なゼリー状に結晶するのです。このようになった柿のことを、熟柿(じゅくし)と言います。結晶化した果肉の美しさは、今でも懐かしく思い出されます。それが、オイラのおやつなのです。今、市販されている森永さんか明治さんのゼリーと比べたら、月とスッポンの違いです。半熟になった実を、鳥に食われないうちに収穫して、米のモミガラの中に入れて、果肉を完熟させる方法もありました。

浪人時代のことです。私の母の実家には、背丈10メートル程の柿の木があって、実が採りごろになっても、それを誰も採ろうとしないことを知った私は、1週間に1度の割りで出かけていった。2階建住宅ほどの高い木に登って、柿を竹籠に入るだけ入れて下りてくるのです。木登りは、幼児のときから、歩くよりもハイハイの次におぼえたようです。秋、切林(自宅の在所名)と名村(母の実家のある在所名)の間を、何度も往復するのでした。この柿はチンポ柿と今 東光さんが言っていたものです。1日に20個は食っていた。実は大きくなくて、種が幾つも入っているので、食べられる部分は少しなのです。皮をむかないで、そのままがぶっと噛るのです。

柿根性と言う言葉があるように、柿の枝はもろく、肝を冷やしたことは何回もありました。反語は梅根性だ。こいつは、精神的にしぶといってことだろう。

この頃から、私は柿の虜(とりこ)になっていったのです。親戚の間では、完全に変人扱いでした。へい、私は柿食人です、と言っていました。でも祖母だけは、あんまり食べ過ぎると、体が冷えるから気をつけなさいと気をつかってくれた。

大学に入れなくて、ドカタ稼業に身を染めた。仕事を終え、夕方には必ず酒を飲むのです。卑猥な言葉を無理して使って、無理して多い目に飲んでは、管を巻いた。受験がうまくいかなかったことを文部省のせいにしたり、ヴェトナム戦争に対する政府の対応を批判したり、学園紛争にやたら共鳴したり、深酒するためのネタには事欠かなかった。ドカタ仲間で飲む酒の量は半端ではない。

そして、必然的に苦しい二日酔いの朝を迎えるのです。ガンガン、頭が痛い。のどが渇いて、かあらっから。吐き気がする。胃が痛い、腸もやられて、ぴ~。そこで、また柿なのです。酔いさましに、私は柿をかっ食らうのです。救いを求めて、すがるように。阿修羅の如く、柿を食い続けるのです。柿が二日酔いに効くんですよ、と効かされていたものだから、盲信した。ずうっと後に、柿に含まれるタンニンが、アルコールの吸収をうまくコントロールして悪酔いを防いだり、血圧降下作用もあるのだと知った。またカリウムは、アルコール分を早く体外に出す働きをするのだということも知った。

大学になんとか潜りこめた。勉強のことは、そっちのけでサッカー一筋の学生生活だった。激しい練習に明け暮れ、食っても食っても、ヒモジイのです。毎日、いつも満腹状態にしておかないと、頭が変になるのです。でも、腹を満たすにも、資金が必要なのです。貧乏だった、素寒貧だった。そんな時に、田舎の父から送られてきた柿は、私を有頂天にしてくれた。うれしくて、涙が出た。不揃いな柿が、ダンボール箱に100個ほど入っていた。一人、ニタニタしながら1日10個づつ食った。

私の田舎は、お茶が特産なのです。宇治茶です。滋賀県に近い湯屋谷地区という集落があって、そこで永谷宗円が、室町時代に緑茶の製法を考案した。千利休の茶室も、元はこの地で作られたのです。これほどお茶に関しては立派な土地柄なのです。お茶の聖地とでも言いましょうか。でもここは、お茶を語る項ではないので、これで終わりにして、柿物語に戻ります。

渋柿は、渋をとる方にまわされなかったものは、干柿にするのです。その干柿のことを郷里の有志が作った小冊子に載っていたので、その文章を紹介します。郷里で作る干柿は、果肉を完全に天日で干しきるのです。だから、歯ごたえはあります。そして、白い粉が噴いてくるまで、ザルであおるのです。そうしてできた干柿を、郷里ではころ柿と呼んでいました。お正月などには、神棚に餅に並べて供えます。

古老柿(ころがき)伝説「美女石」 (孤娘柿)とも。                      宇治田原茶業青年会が編集。


『古老柿。秋になると、澄み切った秋空のもと、あちこちで(ぽきん、ぽきん。)と枝を折る乾いた音が青空にこだまします。稲刈りも既にすみ、秋祭りも終わってほっとした頃。お正月にそなえて宇治田原の町では、古老柿作りが始まります。そんな古老柿にまつわる伝説をご紹介しましょう。宇治田原の柿は枝もたわわに実るとても美しい眺めでしたが、どうしたことか甘い柿が少なかったのでした。村人たちはいろいろ工夫しましたが甘くはならず悩んでいました。ある日、一人の少女が道端にたおれていました。話を聞くと空腹と疲労で持病が出たらしく、かわいそうに思った村人は一所懸命に看病し、そのおかげで少女はすっかり元気になりました。そして柿が渋くて悩んでいることを話すと、少女は、村人に渋柿を甘くておいしい柿にする方法を教えてくれました。それは、一面に白い粉がふいたまるいコロコロした柿で、口に入れると、とても甘くおいしいものでした。

村人がどうしてこんなに甘い干柿ができるのかと感心している間に、少女はにっこり笑って名前も告げずにお礼だけを言って立ち去っていきました。村人は不思議に思い、そのあとをしのび足でつけていくと、少女はお寺への坂を上がって姿を消してしまいました。』


渋柿の渋みを抜いて食べる方法もあるので、紹介したい。


渋柿を40度ほどのお湯に半日から1日ほど浸けるか、焼酎に浸けるなどして、渋みを抜く方法があります。湯に浸けるやり方は、果肉が柔らかくなったり、表面が傷つきやすいので、あまり出来ばえはよくないのですが、一番手軽です。また、一度に大量に作れる利点があります。焼酎に浸けるやり方は、一番グッドに出来上がりますぞ、上品な味を楽しめます。このように渋みを抜いた柿も、食った、食った。



復刻(朝日新聞) 中日 日本一。

私は、根っからの中日ファンではございません。でも、男、落合が好きです。中村紀洋(のりひろ)が、オリックスを昨季自由契約になり、育成枠とかで入団した中日で、かくも頑張ったことに感動した。ケライマックスシリーズに入ってから、私は俄然、中日のことがイヤに気になりだしたのです。巨人などには目もくれない、落合が好きなのです。今シーズンは、今までとは違う雰囲気を体感したのです。これあ、見逃すわけにはいかないぞ、と覚悟した。そしたら、あれよあれよのうちに、勝ち進んだ。見れば、見るほど個性的な選手がいることに興が沸き、私もペナントレースに乗っかってしまったのです。岩瀬、山井、谷繁、森野、山本昌、井端、荒木、ウッズ、平田、李炳圭がいて、故障中の福留がいる。感心を持てば持つほど、個性的な選手ばかりだ。

2007 11 2日の朝日新聞の朝刊の1面から2,18、19,20面の中日ドラゴンズの記事をできるだけ多く転載しましたので、あの時のあの場面を思い出したくなったら、読み返していただきたい。

先ずは1面から

中日 日本一 

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53年ぶり  シリーズ初、継投で「完全試合」

プロ野球の日本シリーズは昨年と同じ顔合わせで1日、第5戦がナゴヤドームであり、中日が日本ハムを1-0で破り、対戦成績を4勝1敗として53年ぶり2回目の日本一を果たした。日本ハムの2連覇はならなかった。

中日の先発、山井大介投手(29)は立ち上がりから得意のスライダーがさえた。ボールを低い目めに集めて凡打を打たせる投球に徹した。2回には中村紀洋三塁手(34)、4回には荒木雅博二塁手(30)の攻守など、野手も山井投手を盛り上げ、日本ハムに攻略のきっかけを与えなかった。

山井投手は8回まで走者一人も許さない完全な内容。58回目を迎えた日本シリーズ史上、初の完全試合を期待させる投球ぶりだったが、落合博満監督(53)が9回からリリーフエースの岩瀬仁紀(ひとき 32)を投入。その岩瀬投手も打者3人で抑えた。日本シリーズ史上、一人も走者を出さなかったのは初めて。

中日は今季、セ・リーグ2位だったが、新しく導入したクライマックスシリーズの第1ステージ(対 阪神)、第2ステージ(対 巨人)をともに全勝の5連勝で勝ち上がり、日本シリーズへ進出。第1戦(札幌ドーム)は落としたが、その後は投打がかみあって、4連勝で一気に優勝を決めた。リーグ優勝しなかったチームが日本一になるのは初めて。

最高殊勲選手(MVP)にはオリックスを自由契約になり今季、中日にテスト入団、育成選手を経てレギュラーを獲得した中村紀選手が選ばれた。

2面から

ひ と    53年ぶりに日本一になった中日ドラゴンズの監督

 落合博満さん(53)     文・加藤真太郎  写真・小川 智

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一人の走者も許さなかった先発の山井大介投手を代え、9回から抑えの岩瀬仁紀投手を送り込む。日本一への思いが伝わる采配で日本ハムに雪辱した。

史上一人しかいない3度の三冠王。でも、今や「名将」と呼ぶ方がふさわしい。就任してから4年間、毎年優勝争いに絡み、、リーグ優勝2度。今年は2位に終わったが、セ・リーグ初導入のクライマックスシリーズを5連勝で突破した。

「勝利が一番のファンサービス」。様々な集客作戦を繰り広げる今の風潮を嫌う。1月の少年野球教室も、1万円の福袋を買う「有料」を条件に腰を上げた。

グラウンドから離れると人間くさい。今季通算200勝をめざした山本昌投手の登板前には、「これを食べないと勝てないやつがいるからなあ」。42歳左腕が登板前に験担ぎで食べるカレーライスを自らも口に運んだ。遠征先では宿舎にわざわざ取り寄せてまで食べた。

東京遠征で都内の自宅に戻ると、20歳の一人息子、福嗣さんと野球ゲームに興じる。「ここでは何を投げればいい?」「巨人の小笠原か。ここはインコースだ」。本業の血が騒ぎ出し、福嗣さんは「母ちゃん、嫌になっちゃうよ。本当の攻め方を教えるんだよ」。横で信子夫人がほほえむ。

「52年の厚い壁にはねかえされた」。札幌での屈辱から1年。53年続いた負の歴史に「オレ流」が終止符を打った。

18面より

4連勝竜一気

新生ノリ 感謝・涙のMVP

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どん底からのシーズンを、最高の結果で締めくくった。中日の中村紀がシリーズ最高殊勲選手(MVP)に輝いた。昨季、オリックスを自由契約となり、2軍戦のみ出場が可能な育成選手として中日に入団。地道な努力でチャンスをつかみ、シリーズでは再三の好打で打率4割4分4厘、4打点。チームを53年ぶりの日本一に押し上げた。「今年はいろんなことがあった。本当はほっとしている」。試合後のインタービュー、涙で声にならない。「ありがとうございます」

日米で通算16年プレー。豪快なスイングで本塁打王1度、打点王2度獲得した。しかし、昨季オフ、オリックスとの契約交渉がこじれ、トレードも不調。行き先がなくなった。中日が救いの手を差し伸べたのは、2月25日。年俸は昨季の50分の1の400万円、背番号「2005」からのスタートだった。

3月に支配下選手登録され、1軍出場が可能になったが、それでも年俸600万円。背番号「99」。「お金の問題じゃない。感謝の気持ちでいっぱい」。妻の浩子さん(35)が「野球小僧」と言うほどの情熱家が意気に感じた。

今季終盤は腰を痛め、コルセットをつけてプレーした。この日もドームの駐車場に着いた時は、ぎこちない歩き方だった。試合が始まれば、けがを感じさせない。2回、先制点につながる二塁打を放った。

「一度リストラされたたが、自分を信じてやってきた。そういう人たちの励みになれば」。かって金色に染め上げていた長髪は、初心を忘れないよ高校球児のように短く刈り込んだ。そんな謙虚さは1年を通じて変わらなかった。生まれ変わった「ノリ」に、野球の神様もほほ笑んだ。

ダル奪投11K実らず

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悲運の右腕はベンチで腕組みして唇をかみ、落合監督の胴上げを目に焼き付けた。「先に点を与えてしまった。全力を尽くし

たが、負けたのは自分の責任」。たった1点で日本一を逃したダルビュッシュは潔かった。唯一の失点は2回。無死一塁で中村紀を追い込んでからのウイニングショットが甘かった。高めスライダーを右中間にはじき返され、二、三塁。勝負するのか外すのか、中途半端なコースにいった。平田の右犠打が決勝点になった。

中4日の疲れのため150キロは投げられない。それでも第1戦の13個に続き、7回で11奪三振。「体力的にきつく、降板したらもう1球も投げられなかった」というが、2試合16回で適時打はついに許さなかった。

今季、ヒルマン監督に2年連続の日本一を誓った。新人の春季キャンプで喫煙問題を起こしたときから温かく見守ってくれた。「自分が今あるのは監督のおかげ。この人のために頑張らなければ、とやってきた」

最後だけ有言実行とはいかず、ヒルマン監督とはお別れとなる。

「監督の最後の試合になったのは悔いが残る。(監督との3年間は)自分のことを成長させてくれた。これからも練習します」。高校時代は練習嫌いでプロ入りした男が、その大切さを教えてくれた恩人に感謝の言葉を贈った。

選手信じた5年間

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ラストゲームは、一人の走者も出せなかった。ヒルマン監督は「投打の力を出せなかったが、選手を最後まで信じた。選手には恥じることも悔いることもないと話した」と語った。

シーズン前、主力が抜けたため下馬評は低かったが、若手が台頭した。投手力と堅守に加え、犠打と足を絡めた攻撃で接戦をものにしてきた。

2年連続の日本一は逃したが、米国人監督としては初のリーグ連覇と、北海道に野球文化を根付かせた実績は色あせない。「5年間、たくさんの素晴らしい思い出がある。また札幌に帰って試合がしたかった」。来季から大リーグ・ロイヤルズで指揮をとる44歳は寂しそうに言った。

19面より

夢半世紀歓喜

山井快投8回完全

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日本シリーズ第5戦は1日、中日が平田の犠打で挙げた1点を守りきり、53年間抱き続けた悲願を達成した。セ・リーグのチームが日本一になるのは5年ぶり。

中日先発の山井は直球、変化球ともにさえ、8回を終わって一人も走者を許さない投球を見せた。連覇を狙った日本ハムだが、丁寧に低めを突く山井を終始打ちあぐねた。不振を極める打線のなかで、唯一好調を維持していたセギノールも抑え込まれ、攻略の糸口をつかめなかった。中4日で先発したダルビュッシュは2試合連続の2ケタ奪三振と力投した。しかし打線は9回から代わった岩瀬にも3人で仕留められ、完璧に封じられた。

壮絶な投手戦を中日が「完全試合リレー」で制した。中日は2回先頭のウッズがダルビュッシュのシュート回転の球を左前へ。続く中村紀がスライダーを狙って右中間二塁打。1死二、三塁から平田が外角高めの直球に食らいつき、右犠飛を放った。ダルビュッシュはこの1点だけで7回まで11奪三振の力投。

しかし、山井のスライダーとカーブを巧みに使った投球はそれを上回った。荒木の美技などもあり、8回まで一人の走者も出さず、岩瀬にバトンを渡した。

「本人が言うから」交代劇

中日1-0日本ハム 

9回表を迎えるナゴヤドームに「ヤマイ ヤマイ」の大歓声がとどろく。だが、その直後、場内アナウンスに、3万8118人の観客の誰もが耳を疑った。

「ピッチャー山井に代わり~岩瀬」。中日の山井は8回まで打者24人を一人も塁に出さない完全投球。球数はまだ86球。「体力的には限界ではなかった。」と山井。でも「個人記録はどうでもいい。頑張ってきた岩瀬さんに投げて欲しいと思った」。指揮官は9回を岩瀬に託した。

継投について聞かれた落合監督はさらりと言った。「山井がいっぱいいっぱいと言うから」

3勝1敗と王手をかけ、地元での胴上げがかかった大事なマウンド。川上を前倒しで送る手もあったが、落合監督は迷わず山井を送り出した。

投げ合う相手はダルビュッシュ。でも、ひるまない。「初回から感じがよかった」。鋭く曲がり落ちるスライダーがさえまくる。「後半は一発を警戒した」と丁寧に低めを突いた。低調な日本ハム打線はほんろうされるしかなかった。

バックももり立てた。4回。先頭森本の強いゴロに荒木が飛び込み、素早く一塁へ。続く田中賢の場面では、谷繁が中村紀にセーフティバントを警戒を指示。読みとおりのファウルフライを中村紀が難なく捕った。山井を中心にチームは一つになり、最後はバトンを受けた岩瀬が3人で締めた。

「山井が完璧」だったんじゃないですか」。山井に最高の賛辞を送った落合監督。中日がシリーズ史上初の継投による完全試合を達成し、53年ぶりの頂に立った。

最大の重圧 耐えて締め  抑え・岩瀬

感情が爆発すると、人間の体は想定外の挙動をするものらしい。歓喜の瞬間、岩瀬はガニ股。中途半端に拳を突き上げた。「どうやって喜ぶか、いろいろ考えてたんですけど、すべて吹っ飛んでしまいました」。ラジオ体操のようなガッツポーズに、守備神も苦笑いだ。

緊張感が並じゃなかった。何せ8回までパーフェクトの山井の後を託されたのだ。リードは1点。負ければ名古屋での胴上げはなくなる。「人生初めてでしたね。こんなにプレッシャーがかかったのは」

異様な雰囲気のドームの真ん中で、腹をくくった。「やるべきことをやる」。三振、左飛、二ゴロ。13球で、53年ぶりの日本一を手に入れた。「あの状況でも僕に任せてくれた。その期待にこたえたかった。絶対に」 (篠原大輔)

横っ飛び荒木美技

中日の二塁手、荒木の好守が、山井の快投を支えた。4回、日本ハムの先頭は1番の森本。中堅方向への鋭い当たりを、横っ飛びで好捕した。「体がかってに動いてくれた」。試合後、満面の笑みでそう振り返った。

去年のシリーズでは本来の力を出せなかった。「何とか借りを返したかった」。資料だけではなく、DVDもじっくり見て、相手投手陣の癖を完全に盗んだ。「盗塁は裏づけがあってのもの」。走攻守、持てる力を振り絞って、日本ハムを苦しめた。堂々の優秀選手賞獲得だった。

中日・森野 日本一を語る

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ぶっ通しのノック、力に

昨年、日本シリーズで負けた夜、札幌の街に出ると、お祭りムード一色ですごく肩身の狭い思いをした。今年はリーグ優勝も逃し、一度死んでいる。ここで一泡吹かせてやろうと。だから、日本一は本当にうれしい。

2月のキャンプで急きょ同じ三塁の中村紀さんが加わった。でも、競争しなきゃという心境にならなかった。三塁しかできなければ別だけど、違うところもやっていたから。逆に、監督の信頼がないのかなと考えて発奮した。今年は、内野、外野、一塁とグラブを三つ持ち歩きました。

結局、バッテリー以外、七つの位置を守った。どこでも守れるのは誇り。その方が試合もでられるし、昨年はレギュラーを奪ったといっても、数字的にも周囲の信頼もまだまだだったので、今年はみんなの信頼を得られるように強い気持ちで臨んだ。年間6失策だったけれど、ここ一番で変なミスがなかった。

04年から落合監督になって、練習をすれば実力がつくことに気づかされた。それまで守備は「普通にできればいいや」程度しか思っていなかった。監督のノック?当然つらいし、正直つらいし、正直受けたくないですよ。特に05年秋のキャンプでは放心状態になった。何時間ぶっ通しで浴びたかわからないけど、思い出したくない。監督は僕にとって「野球の先生」ですね。

打撃では。今年は「二度と打てない」といういい当たりが多かった。「ミスター3ラン」と言われました。8本の3点本塁打はすべていい場面。シーズンでは主に5番を打ったけれど、今年は4番のタイロン(ウッズ)が歩かされても、気負いなく打てました。

僕にとって、福留さんが抜けた穴は大きかった。途中で気づいたんです。福留さんの打席で、左打者にどんな球を投げられるかを見ていた。中村紀さんが3番に入り、1番から4番まで右打者。試合の流れを見ているのに、投手の攻め方がつかめず、調子を崩した。1番のつもりで積極的に行くことで克服しました。今年の目標は3割、20本塁打、100打点でした。結果は、2割9分4厘、18本、97打点。本塁打数のわりに打点はよく行ったと思う。初めて球宴に出たし、北京五輪予選はすべての持ち味を出せるように準備するつもり。そして来年は、もっと成績を上げたい。3割と言って届かなかったので、3割6厘と言おうかな。楽しみにしてください。

もりの・まさひこ

横浜市生まれ。神奈川・東海大相模高時代では1年生から活躍。96年、ドラフト2位で中日入団。06年、立浪から正三塁手を奪い、10年目で初の規定打席に到着。今年は七つのポジションをこなし、主に左翼手として日本一に貢献した。妻と一男一女の4人家族。29歳。

2007年11月11日日曜日

忘年会は、銀河鉄道の夜だ。

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今年の【忘年会】を企画しました。

’07 アーバンビルド 

大忘年会「来年はもっと頑張るぞ」

日時:12月27日(木) 15:00~

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」

東京演劇アンサンブル  第25回クリスマス公演 

宮沢賢治・作  

広渡常敏・脚色 

演出  林光・音楽

場所=ブレヒトの芝居小屋 (東京都練馬区関町北4-35-17)                     電話=(03-3920-5232)交通=西武新宿線武蔵関駅北口より徒歩6分

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今年は、いろんなことがありまして、私が企画することにした。東京演劇アンサンブルの志賀さんと、映画の配給も行っている東京T株式会社の高橋さんとのひょんな関係から、私も巻き込まれ、交流を深めているうちに、こんなことになった次第です。社内の誰にも相談しないで進めてきました。ビールを前に「志賀さん、クリスマスには何を上演するのですか」とお聞きしたら、「宮沢賢治の銀河鉄道の夜をやります」と返ってきた。へえ、と驚いた。企画はここで、即、お決まりだった。 今から15年ほど前に、忘年会を兼ねてだったか?、仕事仲間に慰労と感謝、また親睦を図ろうと、銀河鉄道の夜の朗読会をしたことがあった。その朗読会を思いついたのは、当然、私だった。学生時代に知り合った、当時、東京演劇アンサンブルで女優をしていた北村麦子(本名=入江紡子、愛称ツム)さんに依頼した。朗読してもらう文章を、ツムとまとめるのに苦労したことを、懐かしく思い出します。

ちなみに、ツムは東京演劇アンサンブルの代表者の一人である入江洋佑さんの長女です。もう一人の代表者は、志賀澤子さんです。朗読会の後、私は東京演劇アンサンブルの銀河鉄道の夜を2度観ています。そして、今度は3度目だ。

この忘年会に参加していただく皆様には、資格や基準は一切ありません。希望していただく方ならば、誰でも自由に来ていただきたいと思っています。大風呂敷を広げてお待ちしております。日頃、アーバンビルドの社業に邁進している社員の皆さん、その家族の方々、日常業務でお世話になっている各方面のサポーターの方々、どうぞ友人にも声を掛けてご一緒におこしください。なんせ、大風呂敷なんですから。

劇場の収容能力は、130人は可能だと聞いています。でも、130人という限定があるので、予約は必要かと思われますので、当忘年会開催準備室(045-338-3370)のⅠさんには連絡をしてください。

お芝居の後で、劇団の代表者と若手役者さんにお話をうかがうコーナーを作っていただきました。劇団にかける心情(なんで、ブレヒトなのか?)とか、役者にこだわる思いなどを話していただくようにお願いしています。ビールと(柿の種)なども、少々用意させていただきます。酒がないと、見向きもしないお人もいらっしゃるものですから。でも、酒場じゃないですからね、紳士的、上品に、飲み上手でないといけませんよ、淑女に嫌われますぞ。

宮沢賢治の世界は、草や樹木、星や雲、風をも意思や感情をもって登場するのです。是非、銀河鉄道に相乗りしませんか。現在、無料乗車券を風の又三郎が、風に吹かれながら、制作中です。皆様のお越しをお待ちしています。

銀河鉄道

ケンタウルスつゆを降らせ      

ケンタウルス祭の夜、

ジョバンニは不思議な旅をする。

宮沢賢治の幻想四次元の空間へ、

ジョバンニとともにぼくらは旅立つ。

銀河の夜を走る軽便鉄道のかなたに、

人間の愛の愛が、

歴史の歴史が、

そして生命の生命が燃えているかもしれない。

現実世界は銀河の夜のかなたにひろがる

世界の世界の影らしいのだがー

広渡常敏(脚色 演出)   (パンフレットの文章より)

宮沢賢治の〈不完全な幻想四次元〉世界では、人々の願いや祈りによって世界が変化する。思いが実現するのだ。そして銀河鉄道の夜の彼方の四次元世界に〈おかあさんのおかあさん〉がいらっしゃる。三次元現実の〈おかあさん〉は病気で、ジョバンニの牛乳を待っていらっしゃる。四次元世界の〈歴史の歴史〉は三次元現実では〈歴史〉となる。どうやら幻想四次元の投影として三次元現実があるらしい。さながら、マルセル・デュシャンの投影図法のようである。もし三次元現実の人々の願いや祈りが、銀河の彼方の幻想四次元世界に届くならば、不動ともおもわれる現実も変化することができるかもしれない。このような祈り似たユーモラスで稚気あふれる世界像が、「銀河鉄道の夜」の基軸構造である。檜のまっくろに並んだ坂の道で立派に光って立っている電灯の下に自転車のスポークのように四方に伸びているジョバンニの影たち(二次元)。それらの影が地面から起き上がって(三次元となって)ジョバンニを取り囲む。ジョバンニは三次元から四次元へ出発することになる。銀河ステーションに夜の軽便鉄道の音が近づいてくるのだ。

ものがたり〈劇団作成の案内文より)

北の海へ漁に行って帰らない父をもつジョバンニ少年は、活版所で働きながら、病気の母の世話をしている。学校では、つらい仕事のために皆と元気に遊べない。父親のいないジョバンニを見て、友達は仲間外れにする。カムパネルラだけはジョバンニを気に留めていて、ジョバンニもまたカムパネルラにあこがれていた。

美しく飾られたケンタウルスの星祭りの夜、ジョバンニはお母さんのために牛乳をもらいに行く。その途中で、ザネリたちに冷やかされたジョバンニは、町の灯りや子供たちのざわめきから離れて丘の頂上にやってきた。降るような星の下、体を冷たい草の上に投げ出した。寝そべっていたジョバンニの耳に、汽車の汽笛が聞こえてくる。

ジョバンニは影たちの激しい踊りに取り巻かれ、気がつくといつの間にか天の川を走る軽便鉄道に乗って幻想四次元の世界に旅立っていた。どこまでも滑るように走って、決して引き返すことのない銀河鉄道。気がつくと、カムパネルラも乗っている。

「お母さんは僕を許してくれるだろうか」、カムパネルラの突然の言葉にジョバンニは、この幻想四次元の軽便鉄道に乗って、〈お母さんのお母さん〉に会いに行こうと考える。

ジョバンニとカムパネルラの星めぐりの旅。ほんとうの幸せを見つけ出す旅が始まる。傾く銀河の彼方に、ジョバンニはほんとうの幸せを見つけ出すことができるだろうか。

2007年11月5日月曜日

憲法と市民結ぶ政権の夢

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朝日新聞新で、

元社会党の委員長浅沼稲次郎さん

のことを扱った記事が出ていたので、下に転載させていただいた。

私が小学校の5年生か6年生だったと記憶している。演壇に駆け上り、浅沼委員長を右翼の少年が包丁のようなもので2度刺した。浅沼委員長は病院に搬送中に、絶命した。刺した少年は元大日本愛国党員の山口二矢(おとや、17歳)だった。その場で逮捕された。

1960年、昭和35年10月12日、自民・社会・民社の3党首による立会演説会が日比谷公会堂でおこなわれた。浅沼委員長は議会主義の擁護を訴えていたと聞く。右翼の集団が、ヤジを飛ばして演説の妨害をしていた。演説の終わりかけた頃、その集団の中から手に短刀を持った山口が壇上に駆け上がった。そして、悲劇が起こった。

この頃、右翼による活動が活発になっていたらしい。このショッキングな場面を、普及しだしたテレビで、全国的に放映された。茶の間はそのシーンに戦慄した。子供だった私には、その事の重大さが理解できなかった。翌日、私は学校で山口二矢ぶって、再現シーンをやってみせた。そんな無邪気な子供だった。

なんだろう?

何で?

この事件は私にとって、政治とはいったい何なんだろう?と考える最初の出来事であった。それにしても、今から思うに、3党が党首を立てて公開の場で意見を交わすなんて、よっぽど昔の方が民主的だったのではないのか。

その後、浅沼稲次郎は私の出た大学と同じと知って親近感を抱くようになった。あのガラガラ声と、その特徴的な風貌で人気があったと聞く。「ヌマさん」、と友党にも対立する党にも慕われていたそうだ。

ポリチィカ にっぽん  早野 透(朝日新聞コラムニスト)

2007 10 29 朝日朝刊

浅沼と江田

「ドナウの真珠ブダベスト。失われた革命とオリンピックの栄光」。そんな誘いのフレーズに惹かれて、「君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956」の映画の試写を見にでかけた。

独裁的な共産政権下、市民たちは自由を求めて立ち上がった。だが、ソ連の戦車がたちはだかる。流血、そして敗北。その渦の中で愛し合ったオリンピック水球選手と女子学生の悲劇。「私たちはかみしめる。自由はすべてに勝る贈り物であることを」。いい映画だった。

「ハンガリー動乱」から半世紀、この国は自由をかちとって、この映画ができた。ハンガリーに遅れること4年、日本では、国会の周りを空前の民衆デモが取り囲む「安保闘争」が起きた。こちらももう少しで半世紀になる。日本の場合、あの劇的な日々は何を生んだんだろう。

今月12日昼、国会近くの憲政記念館で、社会党委員長だった浅沼稲次郎の追悼集会が開かれた。1960年のこの日、「ヌマさん」は東京・日比谷公会堂で演説のさなか、17歳の右翼少年に刺殺された。岸信介首相退陣とともに「アンポ ハンタイ」のデモの波が引いて、高度成長に向かったころだった。

沼は演説百姓よ                                                   汚れた服にボロカバン                                      きょうは本所の公会堂                                        あすは京都の辻の寺  

戦前から「無産階級」のために、がらがら声で走り回った。 「人間機関車」ヌマさん。東京の下町、深川の安アパートに住み、馬肉を好み、銭湯に通った。底抜けに楽天的で、かくも大衆に愛された政治家はまれだろう。しかし、なぜ、いま急にヌマさんなのか。

追悼集会で、土井たか子、村山富市の歴代委員長が語った。岸信介の孫、「戦後レジームからの脱却」の安倍晋三首相は退陣したけれども、国民投票法は残った。土井さんは「参院で与野党逆転した。次は憲法を大切にする多数派をつくらなければ」と述べ、村山さんは「9条を守ること。それが浅沼さんが生きているということ」と熱弁をふるった。集会呼びかけ人には民主党の横路孝弘衆院副議長、江田五月参院議長も名を連ねた。どうやらヌマさんをかついで、安保闘争にも似た「護憲再結集」を策そうということらしい。

もうひとつ、同じ12日の夜、「江田三郎没後30年・生誕100年を記念する集い」が都心のホテルで開かれた。浅沼が殺されて社会党の委員長代行となったのが江田である。銀髪、ソフトな語り口、エダさんはヌマさんとは違った魅力でテレビ時代の大衆をひきつけた。

しかし、それからの江田はいばらの道だった。かたくなな社会主義ではもうだめだと「構造改革」を唱え、「江田ビジョン」でこれからの四つの目標を打ち出した。         アメリカの生活水準                                        ソ連の社会保障                                          イギリスの議会制民主主義                                   日本の平和憲法  

今から思えば、なんと当たり前のことだろう。江田がめざしたのは「市民的自由」だった。だが、教条派は「敵のアメリカを見習えとは何だ」と悪罵を投げ続けた。そんなことでは社会党は人々の気持ちをつかめないのに。江田は「議員二十五年政権とれず 恥ずかしや」と嘆きつつ、一人で離党した。

「記念する集い」のシンポジウム で、民主党の菅直人代表代行、江田の息子の五月参院議長らが語り合った。69歳の江田が死を前に「社会市民連合」をつくったパートナーが当時30歳の菅さんである。「江田さんの社会主義は社会正義のことだった。こんどの参院選で民主党が掲げた『生活が大事』と同じではないか」と発言した。江田ビジョンはいまの民主党につながる。

江田の心残り、「政権」も手に届くところにきた。菅さんは「衆院解散に追い込んで届かなくても、また解散に追い込む。2度でも3度でも挑戦する」と述べた。3年間は変わらない参院の野党優位状況をテコにすれば、それは可能である。

ヌマさんが「無産階級」のために奔走したとすれば、社会党の末裔社民党の福島みづほ党首は「ワーキングプア」のために走り回る。働いても働いても浮かばれない格差社会。福島さん4月、東京・新宿でフリーターや派遣、過労死寸前の正社員たちの「自由と生存のメーデー」のデモと一緒に歩いた。7月、「生きさせろ!」と叫ぶ作家雨宮処凛さんらの人材派遣会社のピンハネへの抗議シュプレヒコールにも参加した。

今月24日の福島さんのパーティーで、彼女は語った。「私は弁護士のころは、市民運動にも加わって、ルンルンと生きていました。政治の世界に来るとそうはいきません。なかなか勝てないので辛い思いもする。やりたいこととやれることのギャップの感じます。政治は、巨大壮大な権力構造です。安倍さんのことはひりひりする思いで見ていました。私は、しぶとく、まっとうな社会にするためにがんばっていきたい」

完了支配でも市場原理でもなく、憲法と市民と生活を結ぶ、もう一つの政権。野党の現実は混迷に満ち、力量不足も否めないけれど、ここは大きな夢をみたい。あの「安保闘争」から半世紀になんなんとして、同じ日の昼と夜、浅沼と江田を偲ぶ集会があったのは、そんな未来図への寓意だったかもしれない。

                       

2007年11月3日土曜日

図星です。相続税は地獄招きだ。

さすが、朝日新聞さんだ。私の考えていたことと全く合致したコメントだった。あっぱれだと思いました。今は小さな意見かもしれないが、そのうち世の中を揺さぶる意見になると、私は、確信してしています。全国の頑張っている中小企業の経営者の皆さん、こんなことが、文字になって、意見として主張してくれた朝日新聞に感謝して、実現するように関係各省庁に圧力をかけましょう。

2007 11 1 朝日朝刊

未上場株式相続の「タワケ」 経済気象台)     (樹)

相続税とは、親の残した財産を相続するときにかかる税金である。親が働いてたくさんの税金を払った残りを節約してつくった資産である。そういう意味では二度目の課税となる。それでも、土地建物といった不動産、上場企業の株式や債券、銀行預金など換金可能な資産の相続なら換金後に納税することができる。だが、中小企業の後継者には、未上場企業株式の相続による納税が重大な責任と義務となっている。相続税の目的は、富の配分による貧富の差の拡大防止とされる。しかし、未上場企業の株式の相続は財産の相続というよりは事業の継続だ。

換金できない自社株に誰も買わない高額な株価を設定し、これに税がかかる。だが、後継者には支払い可能な資金はない。未上場株の換金は不可能だからだ。このため兄弟で平等に分割継承された株式では事業を継承した人が債務者、株式のみを相続し経営に参加しない人が債権者という妙な関係になってしまう。

親から継承した小さな田圃(たんぼ)を兄弟で平等に分け合うことを、「タワケ」と言う。尾張地方の方言で、「馬鹿」という意味だ。事業継承遺産を均等に分けた結果、全員が食っていけなくなる、ということへの皮肉である。

有能な経営者が相続対策という非生産的な仕事に貴重な時間を割き力を注ぐ。これは国家的損失だ。現在オーストラリアには相続税はなく、米国も10年にはなくなると聞いている。

業績を上げ、長年にわたり納税を行い無駄使いをせず内部留保を高めた優良企業。そんな企業の株式評価は高く、事業継承時に多額の相続税が発生する。これでは優秀な中小企業経営者ほど最後に「罰金」を課せられるようなものだ。農業の後継者と同じく、未上場企業に事業継承の特例を設けるべきだ。さもないと、いずれこの国から、中小企業が姿を消すことになってしまう。

またかよ、尾崎 豊だ。涙その④

昨夕(10月31日) 帰途、カーラジオのスウィッチをオンに入れたら、馴染みのあの歌手の歌声が流れてきたではないか。尾崎 豊だ。

瞬間、ドキっとした。あの声が怖いのです。恐れていたのです。あの歌声が一旦私の鼓膜を揺るがしたならば、胸はキュンと締め付けられ、涙腺が緩み、脳の活動が停止し、視線が定まらなくなるのです。そのうち、うつむいてしまうのです。

「シェリー 」、そして

やっぱり、「15の夜」だった。

夕方の5時半頃、NHK・FM82.5

毎週水曜日は、営業のスッフの定休日なので、少し早く会社を出た。近所に住む長女が孫を連れて家に来ていることも、大きな理由だったのです。鰤(ぶり)大根の作り方を母親に教えてもらいに来たのよ、と言っていた。又、かえで(私の孫の名前です)と来ているので、早く帰ってきてと急かせられていたのです。

「シェリー」が終わり、まさに自宅の駐車場に着く直前に、「15の夜」が始まった。

糞!!

車を駐車場に入れた。エンジンのスウィッチが切れない、ラジオの電源は点いたまま。尾崎は歌い続けている。家人は私の帰宅に気がつかない。ライブでの収録盤で、歌声はかすれ、感極まっている聴衆の声が混じっている。尾崎が、必死に、聴衆に語りかけるように歌う。ライブ会場を感動の坩堝(るつぼ)化したような異様な雰囲気を伝えてくる。

私には、ラジオのスウィッチが切ることができない。

盗んだバイクで走り出す、行く先も解らないまま、暗い夜のとばりのなかへ~。冷たい風、冷えたからだ~。

う~ぅ、う。

躊躇いながらシートを倒して聞きふける。やっぱり、私はやられてしまった。彼に弱いのだ。車の中から窓越しに自宅のリビングを覗くと、孫が長女と遊んでいる。犬は二匹が寝そべり、もう一匹は食卓の下を駆け回っている。女房が夕食の準備をしている。食卓には、数種類の料理が並べられている。まだ歩けない孫が、皆の感心を集めているのだろう、駐車場の車の中の私ことには、誰も気付かない。室内は平和な家庭そのものだ。

尾崎は、愛したい、愛されたい、信じたい、確かめたい、と繰り返し歌っている。

私はといえば、一人、車の中。尾崎が胸を掻ききらんばかりに歌っている。私は、やっぱり泣かされた。涙が止まらない。シートに縛り付けられ、身動きできない。全身をシートに深く沈めて、泣いた。家族は、私の帰りを楽しみに待っていてくれる。でも、こんなに、涙ボロボロでは、自宅には入れない。

私は、尾崎に縛り付けられ、もう~離れられな~ああ~い。と尾崎の真似して口ずさんでみた。

一ヶ月に2度も尾崎の歌を浴びせられるとは。幸か不幸か。この機会に感謝したい。

2007年11月1日木曜日

いよっ!! 中日・落合監督。

ナベツネのオヤジさんは、さぞかし悔しがっていることでしょう。今シーズン、読売ジャイアンツ・巨人はセ・リーグ優勝を果たした。クライマックスシリーズでは、巨人は、リーグ優勝の祝勝会の酔いが冷め切らないまま、中日は、監督の落合が頭を丸坊主にして、文字通りチームを一丸化。双方、試合に臨んだ。結果、私の想像していた通りというか、案の定というか、巨人は中日にけちょんけちょんにやられた。

そして中日は、パ・リーグの日本ハムと日本シリーズを戦うことになった。昨日(10月29日)までは、中日の2勝1敗だ。これからが、楽しみですぞ。日本ハムだって、そう簡単には負けるわけにはいかないだろう。今シーズン絶好調のダルビッシュが控えているではないか。ダルビッシュは婚約中とかで私生活も充実している。未来の夫として、特に許婚にはいいところを見せたいところだ。沢村賞も獲得した。いけいけどんどんの、今は旬(しゅん)、真っ盛りの投手だ。

球場への来場者はどの試合も満タンらしい。さぞかし、参加チームの収益はいいのだろう、これからもどのように試合の勝ち負けが進むか解らないけれども、いい結果は間違いなしと推察できる。

書き込み(11月1日)=昨日、日本シリーズ第4戦。中日対日本ハム戦は、中日が4:2で勝った。これで中日の3勝1敗で、王手をかけたことになる。次はお待ちかねのダルビッシュ君の出番だ。ここで、ダルビッシュが中日にストップをかけられるか、楽しみだ。昨日も中日の中村紀が決勝打をはなった。中日が優勝したときには、きっと、落合監督とこの男が話題になるのでしょう。我輩も心の準備をしておこう。

ここで、私は余計なことを考えてしまうのです。何かにつけてうるさいナベツネさんが、オフになったら、又何かを言い出しかねないだろうと。クライマックスシリーズはよくないとか、止めようとか。あのオヤジから目を離せないオフになりそうだ。

2007 10 30 朝日朝刊 スポーツ面

EYE  西村欣也

落合采配 反骨と熟練と

04年の日本シリーズ前の出来事を忘れない。プロ野球界は再編騒動の嵐に巻き込まれていた。ペナントレース終盤には日本プロ野球選手会がストライキに突入する事態になった。セ・リーグは中日が首位に立っていた。監督は落合博満だ。

選手会総会に出席しようとしていた井端弘和を落合が引き止めた。何を言われるのか、と井端はわずかに緊張した。落合は静かに言った。「徹底的に戦って来い。日本シリーズがなくなってもいい。世の中にはそれ以上に大事なことがあるんだ」

選手が権力に押しつぶされることに我慢ができない。それは落合の人生観と重なり、今もぶれることはない。

そのシーズン、中日はリーグ優勝し、西武との日本シリーズに臨んだが、王手をかけながら3勝4敗で負けた。落合・中日は昨年も先勝しながら日本ハムに4連敗して、チャンピオンフラッグに届かなかった。中日は54年に日本一になって以来52年間シリーズを制していないことになる。

落合の反骨精神は04年当時と全く変わっていない。しかし、今年のクライマックスシリーズから日本シリーズにかけて、彼の野球にわずかだが、確かな変化が見える。

例えば、競った試合では、岩瀬を8回途中から投入する。第2ステージ巨人との初戦では、予想外の小笠原を先発させ、巨人ベンチを混乱させた。「奇襲じゃない。ローテーション通りだよ」。笑って言ったが、そうではない。短期決戦での戦い方を過去の敗戦から学び取ったのだ。シリーズ第2戦で大量リードの9回に中田を下ろし、石井、クルス、高橋をつぎ込んだのは、使える選手の見極めをする目的もあった。

落合監督のタクトが52年間の呪縛から中日を解放することになるのだろうか。