2010年7月2日金曜日

漂流青年 ゴンザ

「望郷の海」    著者・徳永健生

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この本も、古本屋チェーン店の何とかオフの105円コーナーでゲットした。

大黒屋光太夫の名前は知っていたのですが、このゴンザの話は全く知らなかった。大黒屋がロシアから帰国する50年も前のことだ。本の帯の文章を読んで、読みたくなって、もう買うしかなかった。

ゴンザは、ロシアで「新スラヴ日本語辞典」を完成させ、21歳の若さで彼の地で夭折(ようせつ)したのだ。この辞典は、和訳の文章は薩摩の言葉で綴られていて、言語学者らにとっては貴重な資料になっているそうです。ネットで調べたら、地元鹿児島市にはゴンザファンクラブ(会長さんは吉村治道さん)があったり、ゴンザ通りがあることも知った。もうちょっと深くゴンザさんに触れる機会を作りたいものだ。

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日本史の授業で習った八代将軍徳川吉宗の、目安箱でお馴染みの享保の改革の時代のことだった。若潮丸は、薩摩藩主の島津継豊(つぐとよ)の命を受けて、大坂(今は大阪)の蔵屋敷に勤務する藩士たちの扶持(ふち)米を搬送するために、稲荷川河口の祇園之洲(ぎおんのす)を享保13年(1728年)10月に出帆した。

若潮丸は、沖に出て間もなく嵐に遭遇、帆柱が壊れ、自力では操縦が不能、波の赴(おもむ)くままの6ヶ月の漂流の末カムチャッカ半島に辿り着いた。船に乗り込んだのは17人だった。大黒屋たちも、乗組員17人で出航した。乗組員の17人という数字は、操舵の任務に人をあてがっていくとこの数字になるのだろうか。

嵐に遭難した際の事故や、その後の病気や衰弱で数人が死亡した。やっと辿り着いた海岸の村で、この物語の主人公の二人以外は、全員が警備役のコサック隊に殺された。この難を逃れた二人こそ、11歳の権左衛門(ゴンザ)と瀬戸物屋の35歳の宗左衛門(ソウザ)だった。二人の若者は、森に猟か何かで出かけていたのです。

当時、シベリアは人を寄せ付けない流刑の地だった。ここに流されてきた罪人は二度と生きては帰れなかった。極寒の冬は地獄同然。最悪の地の果てだった。二人っきりになったゴンザとソウザは、ロシア帝国に手厚くもてなされながらも、カムチャッカから各所の吏員や軍人に付き添われ、付き添い人は幾度と変わることはあったが、過酷な旅はやっとのことでサンクト・ぺテルブルグに到着して、終わった。享保18年のこと、薩摩を出てから5年経っていた。ゴンザは付き添いの者からロシアの言葉を教えてもらった。簡単な通辞はこなせる程度にはなっていた。ソウザはこの地のことに馴染むことが、祖国薩摩を裏切ることになり、それは自分が祖国から遠ざけてしまうことになるのではと、ロシアなるものには頑なに心を閉ざした。

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シベリア庁の長官や将軍の手はずで、二人はロシア帝国のイヴァノヴナ女帝に拝謁した。この将軍は女帝の側近で、科学、文化学術振興の強烈な推進論者であった。ピョートル皇帝の遺業となったロシア帝室科学アカデミーの設立に奔走した人物だった。拝謁においては、女帝から、二人の関係、ここに至るまでの出来ごと、日本の町の様子、中心地は、国の皇帝は、鎖国は未だに続いているのかと聞かれた。

ソウザは、女帝から両名は何か奏上したいことはないか?と問われる機会を得ながら、用が済んだら早く帰国させていただきたい、と言うことが言えなかった悔しさに、その後も心がさいなまれ、気分も塞ぎがちになった。それからソウザは病に冒され床に伏した。

人類学民族博物館に併置したのがロシア帝室科学アカデミーで、その一環として日本語学校が設立されたのです。健康を取り戻した元瀬戸物商のソウザは教授になった。ゴンザはアシストだ。ゴンザは、ロシアの言葉を今まで旅をしながら十分学んできたが、日本語の教育は受けたことがなかった。漢字はおろか仮名一字さえ、ソウザがカムチャッカで教えるまで書けなかった。11歳で船に乗りこんで、まだまだ見聞の少ない少年ゴンザには、難しい作業だった。

ロシア帝国は、極東地域の探索や広く海外との交流を考えていた。とりわけ、日本には強い関心を示していた。交易を考えていたのだろう。そのためには、ロシア語と日本語の対照単語集と対照文例集が必要で、皇帝官房からその作成の指示を受けた。ロシア語はゴンザが、日本語はソウザが担当すればなんとかなる、と考えたのだろう。ソウザは、健康を取り戻したかと思われたのですが、「項目別露日単語集」「日本語会話入門」の原稿の仕上がりに合わせるように、亡くなった。享年43歳。

一人っきりになったゴンザは、シベリア庁では日本へ調査隊か使節団を送り込む準備をしているとの情報を得て、この機会には必ず自分が必要とされるに決まっている、そのためにはもっと学習しておかなければならんと強い決意をもって、皇帝官房からの指示である「新スラヴ日本語辞典」の編纂に埋没した。ゴンザは教授として、仕事仲間にも恵まれた。辞典に続いて、「友好会話手本集」『簡略日本文法」も作成した。

知らない間に、ロシア海軍による日本航路調査は艦隊を連ねて出奔(しゅっぽん)した。そのことを知ったゴンザは、狂人のように動揺した。願いが叶わなかったのだ。

生活の面倒は、知人や親友に暖かく見守られていたが、冬の寒さに疲労が重なり体力の衰えが急に進む。冬の寒さは過酷だった。故郷の薩摩の山河を夢枕に静かに息を引き取ったのは、享年21歳の時だった。余りにも若過ぎる死だった。

★この辞典では、どのように露日の対訳をどのように表記されているのか、本文中のまま紹介しておこう。------

〈クルミ〉を〈椎〉、〈林檎〉を〈柿〉、〈オリーブ〉を〈カタシ〉〈椿〉、などと充てたのは、実物を知らないゆえの苦しまぎれであり、〈平和〉を〈仲直り〉とやり、〈賄賂〉も〈贈物〉も同列に〈雑 飼(ざつしよう)〉とやったのも、概念と実態の差異をもうひとつ、突き詰めれられなかったせいだった。〈専制君主制〉を〈一つ頭〉、〈独裁の〉を〈わが自由の〉と置いたのも結果として概念の把握に苦しんだせいだった。〈神の国〉は、以前のまま〈仏の国〉とした。宗左衛衛門が教えてくれさえすれば、と悔やまれたが、それを言うのは愚痴だった。

☆ネットでは、青年=ニセ、私の=オイガト、近い=チケ、少し=チット、翻訳する=コトバウツシ、知らぬ=シタン、友人=ネンゴロ、だった。

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