2010年6月12日土曜日

あれに見えるは茶摘みじゃないか

この文章を綴り出したのは5月25日から、私の田舎では茶摘みの真っ盛りだった。5月2日は、立春から数えて八十八夜になる。田舎では、八十八夜は摘み始めの頃で、最盛期はもう少し後の5月の中頃だ。

私が子供の頃の、この季節のことを思い出してみようと思いついた。茶にまつわることも、書き加えてみた。

口癖になっているので、つい茶摘みと言うけれど、今では、実際は手摘みではなくて、全てが機械刈りになっている。セレモニー的な催しなどでは、茜襷(あかねだすき)の娘さんが、手馴れぬ手つきでお茶を摘むことはあっても、普段ではあまり見られない。我が家では、私が子供の頃は全て手摘みだった。そして、鋏(はさみ)刈りになって、今は全て機械刈りだ。

東名高速道路で、静岡県に入ると斜面に規則正しく並んだ茶の木が、蒲鉾型にきちんと刈り揃えられている風景を目にするでしょう、あれは、芽が出る前に、新芽を機械で刈りやすくするために、又、古い葉が混ざらないようにあのような半円形にしておくのです。刈り出すと短時間で終わってしまうので、刈っている風景を見た人は少ないはずだ。茶の木の列の両側に二人一組になって機械を挟むように持つ、エンジンのついた自動刈取機で、進んでいくのです。体力のある人は一人でも操作できるのですが、これは骨が折れると、甥っこは言っていた。

私の生まれ故郷は京都府綴喜郡宇治田原町。「宇治茶」の本場だ。宇治市は都市化が進み、茶畑は少なくなり、宇治茶の産地としては、我が生地の宇治田原町と隣接の和束町,南山城村、京田辺市が担っている。子供の頃は、宇治田原町ではなく、田原村だった。小さな村だったのです。

「宇治茶」とは京都府内でとれた茶葉が50%以上含まれていて、残りを滋賀県、三重県、奈良県の3県で生産された茶葉をブレンドしたもの、と京都府茶業会議所は定義した。宇治からはるか遠くの京都の北部でとれた茶も、宇治茶として名乗れるのです。ところが、その後京都府内産を50%以上使用するとの自主規制は撤回されたと聞いたが、その後どうなったか確認していない。

子ども心に、大人たちの仕業を疑っていたのです。大人はずるい、騙している、と思っていた。それは、早朝、まだ朝が明け切らないうちに、恰も、闇商売の如く。私たちの田舎に静岡から大きなトラックで茶が運ばれてくるのです。出荷することがあっても、製茶を持ち込まれることに疑いを持った。静岡茶は安かったのです。持ち込まれた茶に、地元の茶葉を少し混ぜて、高級宇治茶として、出荷されていたのです。それは反則じゃないの、と尋ねたら、大人は立派な答えを用意していた。「香のいい宇治茶に、味のいい静岡茶を混ぜたら、最高にええお茶になるんや」と。宇治茶の定義ができるまでは、これが常識だったのです。

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(この写真は朝日新聞紙上から頂いたものですが、これはセレモニーを撮ったものだ)

田舎では、お茶の季節が一年間の中で一番忙しかった。忙しいのは大人だけではなく、子どもにもそれなりの影響があった。

立派な新芽が出るまでに、農家は一年を通じて少しづつ茶の木の世話にかかわっているのです。

夏の真っ盛りは比較的百姓仕事は少ないのです。この農閑期に、田んぼの畦道の草を刈ったり、畑の周辺に生い茂った草を刈って、茶の木の根元に敷くのです。これは、雑草が生えないようにするのと、敷いた草は肥料になるのです。生えていた雑草は引き抜き、その敷いた雑草の上に乾して枯らす。高価な油粕のような肥料を極力少なくすませるためだと思う。また化学肥料一辺倒では土がやせていくのだ、と父はよく言っていた。この原理は水田も同じだった。できるだけ、有機肥料を使った。

新芽が出る前に、茶園を消毒するのですが、今では考えられないほど強力な農薬を使っていたようです。ホリゾール、今でもその農薬の名前がすぐに記憶から蘇ります。何故なら、その名前が子ども心に恐怖だったのです。田舎では服毒自殺するのにこの農薬をよく利用されたのです。私の村では自殺が多かった。閉塞された村には死神が棲み易かったのでしょうか。どこの農家にも納屋にはその農薬はあったのです。その農薬を使って消毒された茶園には、危険ですから入らないでくださいと書かれた赤い看板が掲げられていたのです。今でも、ホリゾールという農薬は市販されているようですが、濃度は随分薄められていると聞く。環境を考慮して全ての農薬は希釈されているらしい。

春の始まりの頃、茶の木がバラバラに伸び放題になっているのを、新芽が出る前に蒲鉾型に整えておくのです。毎年、同じ大きさに枝を刈るので、切った後の表面は隙間なく緻密な地肌になります。以前にはその刈った古葉を、番茶にしたのです。その古葉を蒸(ふ)かして、焦げ茶色になったものを天日で乾したものが番茶です。我が家では販売用でなく、自家使用の分だけ作っていました。

新芽が出る前に、茶の木を囲むように藤棚のような棚を作る。今は長年使える鉄パイプで棚を作るのですが、私が子どもの頃は、木の支柱に天井は竹を桟のように一定の間隔で張るのです。新芽が適当に大きくなったところで、天井に藁で作った菰(こも)を被せるのです。横も菰で囲む。これは、太陽の光を遮(さえぎ)ると光合成が進まなくなって渋みの成分のカテキンが抑えられ、うまみ成分のテアニンが増す。このようにして作られるのが「玉露」です。このテアニンは、脳を活性化し神経を鎮静する作用があるらしい。お茶を飲むと寛げるのはこのためだ。またこの覆いは保温して霜を防ぐのです。霜をまともに受けると、新芽はやけどをしたように芽が黒こげになってしまうのです。黒こげになった茶葉をそのまま製茶すると、仕上がった茶には不純物が混ざったように出来上がるのです。

私が子供の頃にはなかったのですが、藤棚のような棚を作らないで、簡便に茶の木に直接黒いシートで被う「かぶせ茶」がある。これも、玉露づくりと狙いは同じだ。覆いをしないまま収穫するのが「煎茶」です。

茶の木の種類にはいくつかあるのでしょうが、私の記憶にあるのは「やぶきた」です。

そして、お茶の本番が始まるのです。

この季節は、茶の生産農家ならどの家も、猫の手も借りたくなるほど忙しいのです。小学校も中学校も、この農繁期は授業が午前中で終わって、午後は茶畑で茶摘みの手伝いをすることになっていた。今は、そのようにはなってないようです。

小学校にも行ってない子どもが、一番厄介モノで、子どもの面倒を見るなんて事は、農家にとって非常に困るのです。小さい子どもは、母の背中に背負わされていた。当時、幼稚園はなかった。午前の授業を終えた小学校の先生方が未就学児を講堂に集めて、遊んでくれたのです。臨時の託児所だった。講堂に茣蓙を敷いて、長いテーブルの上に広げたちり紙に、種類の違ったお菓子や飴が配られたのを憶えています。授業の終わった次兄が、自宅にいる私を迎えに帰ってきて、学校まで連れて行ってくれた。帰りも一緒だったので、きっと兄も学校で遊んでいたのだろう。長男は、迷いなく茶摘みだ。長男、次男がいて、私は三男坊でした。託児所の時間が終わると、次兄は茶摘みに参加して、私は一人で家の周りで遊んでいました。家の周りで、退屈している私をカゴに背負って、茶畑まで連れて行ってくれたこともあった。この頃、父は40歳ぐらいだったのだろう。非常に元気だった。

茶摘みの最盛期に入ると、もう誰も子どもたちのことを構ってくれない。兄弟三人、朝目覚めた時には、家の者はみんな出払っていて誰も居ない。兄弟はめいめいに起きては、朝めしを食う。食卓にはご飯たっぷりの炊飯器とケース丸ごとの塩昆布、皿盛のたくあんが置いてある。ガス台には鍋に入った味噌汁。これらが食事の全てだった。毎日毎日がこのままなのです。文句を言える場合ではない。黙って食うのみ、それでも、白いご飯に塩昆布で十分満足だった。ご飯をお腹いっぱいに食った。気分転換に白いご飯にマヨネーズ、ということも試みた。マヨネーズは、ちょっとハイカラだった。箸とお茶碗を洗ってカゴに入れて置く。

小学校に入ってからは、兄二人と私も一人前のスタッフとして茶摘みをした。午前中だけの授業が終われば、昼めしも朝めしと同じものを同じようにかっ喰らって、一目散に茶畑に向かった。摘み方は「一芯二葉」(いっしんによう)。新芽とその下の二枚の葉の下の茎を、指の腹で折る、と言うことになっているけれども、なかなかそのようにいかなかった。新芽の伸びが摘んでいくスピードよりも早くて、大きい芽になってしまうことが多かったからだ。爪を立てて、爪で芽を摘むと十分ぐらいで切れ目のところが赤くなる。指の腹で摘まにゃならぬのです。大人たちは、リズムよく芽を摘むのです。瞬く間にカゴにいっぱいになる。

雨が降っても、ビニール製の雨合羽を被って素知らぬ振り、平気の平左衛門で仕事の手は休むことはない。晴れているときと何ら変化はない。私は、首筋に雨粒が一滴二滴濡れたり、指や手のひらが白くシワシワになってくると悲しくなってきて泣きたくなった。それでも、手を休ませるわけにはいかなかった。

大人たちは、朝が早いので、10時頃にお握りを食べた。

昼食。3時には小休止。

お茶を飲んで、おやつを食って各自思い思いのやりかたで寛ぐ。毎日3時になると、役場の屋上にある拡声器から、三波春夫や春日八郎の歌が流れるのです。三波春夫の「お富さん」や春日八郎の「トンビがくるりと輪を描(か)いた、ほーいのほい」が人気があった。菅原都々子さんの「月がとっても青いから、遠まわりして帰ろ」も、よく流された。みんな声を揃えて歌った。村全体が茶摘みに歩調を合わせているのです。その後、携帯ラジオが普及したけれども、拡声器から流される音楽は、その当時は貴重で休息に欠かせなかった。役場が、そんな粋な計らいをしてくれていたのです。私は、その頃ゲルマニュウムのラジオを持っていた。これは、広範囲にみんなに聞かせてやれるほどボリュウムが上がらなかった。仕事が終わるのは7時から8時だった。8時はまだ明るかった。母は食事の準備に少し早い目に茶畑を出た。いつの頃からか、役場の屋上からの拡声器による音楽は、流れなくなった。

母が帰ってくるまでに、風呂を沸かすのが私に与えられた仕事になった。当時上水道が整備されていなくて、井戸の水をつるべでくみ上げて、つるべ3、4杯でバケツがいっぱいになり、そのバケツを20杯ぐらいを井戸から風呂桶まで運ばなくてはならなかった。一番年下の私だったけれど、腕力には自信があった。こんなことぐらいは、当然の仕事だと認識していたのだろう。竈(かまど)の燃やし口で、新聞紙に小枝や細い木に火を点ける、それから太い薪に火が移るように、時間をかけて待つ。なかなか、難しい仕事だった。火吹き竹で、風を送る。難儀をしたときには、顔が煤(すす)だらけになっていた。風呂桶に水をはらないで、竈(かまど)に火をつけたこともあった。肝を冷やした。相当薪が燃えてから気がついて、慌てたこともあったが、決定的に風呂を壊すことはなかった。

おばあちゃん(祖母)と一緒に風呂に入った。祖母は米ぬかを布にくるんで、石鹸代わりにしていた。ぺっちゃんこの乳房の胸に抱きしめてくれた。檜の丸い湯船は、一人用で狭かったのです。タオルを丸く膨らませて、空気を包んで浴槽に沈め、押し潰しては、オナラだと言って笑い合った。祖母は自分の体を洗うよりも、私の体を丁寧に洗ってくれた。風呂上り、祖母は大島の椿油を髪にこすりつけていた。

ある程度摘み取った芽がたまると、その都度頻繁に共同の製茶工場に運ぶのです。父がその運び役を担っていたが、私が茶摘みに退屈しているだろうと気遣って、工場に連れて行ってくれた。大きい竹カゴに入れておくと、天気のいい日には呼吸熱で蒸れるのです。この蒸れが茶の仕上がりにはよくなくて、竹カゴには換気よくするために隙間があった。工場につくと、他人の物と混ざらないように、カゴの中に山岡と書いた札を入れて置く。私は、工場の中を走り回っては、大人に叱られた。

その後、父は我が家に中古の機械を集めてきて自前の工場を作った。その後、兄が大幅に改良した。そして、最近になって甥は最新の工場に変えた。この工場の変遷だけでも、我が家の歴史が語れるのです。その時々、市場やお茶を飲む人からの要請に応えて、誰がどのように苦心、工夫したかが、甥の話からいろいろ偲ばれる。いい香がして味が良くて、見た目に綺麗で、衛生的に。甥の工場は、全ての機械が最新で、より良いお茶に仕上げるための新しい機械が加わった。それらは、摘まれてきた茶の葉が蒸れないように、風通しのいい状態を維持し続ける機械。これで、新鮮さを保存するのです。そして混ざり物を除去する機械たちです。

共同の製茶工場があり、個人の製茶工場が彼方此方にあって、在所はお茶の香に充満していた。幸せな気分に浸った。

茶摘みのシーズンに入ると、東北、とりわけ宮城県から茶摘みのおばさんたちが、それぞれの農家に寝泊りでやってくるのです。出稼ぎ応援団です。みんな長い付き合いなので、前年帰る際に、次の年の約束をして帰るのです。我が家の茶畑は、我が家の人手と親戚から手の空いた人の応援だけでまかなえる程度のものでした。だから、我が家の家族は全員が必要不可欠、誰一人として大事な戦力だったのです。宮城からの応援団は、季節的で一時的、手馴れていることで、お世話になる方はそれはそれは有り難い戦力で、仕事を終えて宮城に帰るときには、帰路、温泉に招待したり、お土産をいっぱい用意していたようです。

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(新しく茶の木を植えた。以前は水田だったのです)

最初に収穫するのが一番茶。最初に収穫して、一ヶ月ほどすると又新芽が出てくるのですが、それは二番茶といいます。二番茶は価額が半値近くなるので、売上げを伸ばすということの意味合いは薄く、刈って茶の木の形を守るということに主眼が置かれているように思った。

出来上がったお茶は、出来上がり次第近くの茶問屋さんに預けに行くのです。収穫が全て終わり、製茶された全てが茶問屋に届けられたところで、売却の値段が決まり、その総額がその年の売り上げになるのです。中学生になった頃から、この商取引に私は疑問を持っていた。人のいい父は、一時(いっとき)にその売上げを全部貰わないで、ちびりちびり我が家にお金が必要になる度に、少しづつ貰っていたのです。この茶問屋は我が家の遠縁にあたる商家だったから、父は信頼していたのだろうが、私は一抹の怪しさを感じていた。市場での競り合った取引ではなかったのです。言わば、言いなりの価額で買ってもらっていたのです。

その後、ずうっとしてから、私の兄の奥さんの実家が茶問屋だったので、その茶問屋に買ってもらうようになり、市場価額で普通に取引することを初めて知ったのです。この茶問屋さんも代替わりして、我が家も今や甥・清が責任者になり、お互いに値段が手ごろな時期を見て売買する。品質についても茶問屋・中さんから厳しい注文がくる、これらは直接価額に反映することなので、双方は真剣だ。肥料の種類と施肥の時期、茶の木の樹齢、茶摘み時期、地勢の違う畑の対策、黒いシートのかけ方と時期、消毒、霜対策、製茶工場における各工程でのチェックなどがポイントだ。茶問屋の中さんは、消費者の好みを直接聞いているので、彼のアドバイスは貴重です、と甥は言っていた。兄の時代までは、消費者のことなんて眼中になかった。ただ、作ればいいのだ、こんな調子でやってきた。お客さんの好みは、茶問屋や小売の人たちが考えればいいのだと。

この稿の冒頭で書いたのですが、宇治市内でとれる「宇治茶」は、茶畑の宅地化で少なくなる一方だ。宇治茶の生産の担い手は宇治周辺の地域、我が故郷の宇治田原町、隣接の和束町、南山城村、京田辺市だ。

父は、自分のお兄さんが戦争に行っていたので、妻(私の母)と母(私の祖母)と、私たち子ども三人を育てながら、農業をしながら京都伏見の火薬工場に通っていた。父の兄、伯父(おじ)さんは、東南アジアの何処かで地元の風土病に罹って帰って来て、独身のまま、少しの療養の後亡くなった。そして、終戦。次兄が生まれ、3年後の1948年に、三男の私が生まれた。

戦争で働き手を失った農家が、耕作を放棄せざるを得ない田畑が小さい村と言えども、いくつもあったそうなのです。それは、きっと全国的だったのでしょう。そのような状況下、田畑を維持できない人が、耕作を希望する人に売却する。その買主の購入資金を低利で融資を行なうための金融機関を国策で作ったのではないかと勝手に想像した。戦中から戦後にかけて、極端な食糧不足の危急存亡にあって、耕作すれば収穫可能な田畑を荒れ放題にしておくわけにはいかなかったのだ。父はこのままでは、農業で家族を養っていくには、耕作面積が狭過ぎると思っていたのだろう、あっちこっちの水田や畑を借り入れ資金で購入した。父の死後、権利書を整理していたら、名も知らぬ金融機関との数々の金銭消費貸借契約が出てきた。

その後は、開墾だ。私の故郷、宇治田原町では50年前に区有林を開墾して茶畑にする事業を、京都府の蜷川虎三知事の肝いりによって、大変奨励されたのです。私の父は、12,3人の組合員の一員としてこの開墾事業に参加した。この計画が持ち上がった時には、30人以上の参加希望者がいたのですが、実際にスタートした時には、参加者は3分の1になっていた。計画から造成が終わるまでに、5年間はかかったそうだ。今年のゴールデンウイーク(黄金週間)に、実家の建て替えのお祝いと、父と母の墓参り、百姓仕事のお手伝いの真似事のために帰郷した。その真似事の百姓仕事は、父が組合に参加して作った茶畑に黒いビニールシートを被せることだった。立派な茶畑になったなあ、なんてセンチメンタルな感慨を漏らすと、甥はこの茶畑はそろそろ代替えをしなくちゃならん時期にきているんです、とのこと。茶の木も年をとると根こそぎ伐採して、新しい若木に植え替えなければならないそうだ。

その後も我が家の耕作面積は増え続けた。今度は棚からボタモチ式で増えていったのです。開墾した茶畑は、当然茶に特化しているので、びっしり隙間がない。他にも、茶畑はどこも連続した茶畑になっているので、その中の1画だけ茶の木の世話をしなくなったら、もう大変、茶の木は伸び放題、害虫がウジョウジョ発生し、病気に冒され、周辺の茶畑の主は戦々恐々だ。離作する人は、先ずは隣地の耕作人に相談するのです。売るに売れない。うちの畑も面倒みて欲しいと頼まれるのです。兄と甥、二代で農業に勤(いそ)しんでいる我が生家は、地元ではその堅実さにおいて信用が厚いのです。そのようにして、茶畑だけではなく、水田もどんどん増えたのです。機械化が進み、どうせなら耕作面積が広ければ広いほど効果的なのは言うまでもない。

そして、今度は甥ら仲間10人程で組合を作り、父らが行なった開墾よりも3倍に近い広さの山林を茶畑にする計画が進行中だ。隣地区の森林組合が保有している山林を借りた。2010年、今年ゴールデンウイークに帰省した時には、造成がほぼ終了していた。予算の関係で排水工事を節約したら、やっぱりそれは塩梅が悪くて、工事会社に頼めなく、みんなで変更工事をやりました、と言っていた。国、府、町からの補助があるにしても、彼らには大規模な事業だ。甥はいい仲間に恵まれている。もう若者とはいえない年齢になったけれども、どこまでも茶作りには貪欲だ。山岡家の出身者の一人として、嬉しい限りだ。

先日、甥から聞いた話なのですが、茶の葉泥棒が出現したとのことには仰天した。リンゴや梨、倉庫に納められた米が盗まれたことは聞いたことがあるのですが、他人の畑の茶の葉を夜の闇に乗じて、盗み刈りをするなんて、私が子供の頃には想像もつかないことだった。平和そうに見える山里で、世知辛い話を聞かされて、厭(あ)きれてしまった。

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(写真は、朝日新聞紙上から借りました。体験手もみ風景です)

20100605

朝日・朝刊

be on sunnday

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「茶摘」は文部省唱歌だ。

夏も近づく八十八夜、

野にも山にも若葉が茂る

「あれに見えるは茶摘じゃないか。あかねだすきに菅の笠」

 

日和つづきの今日此の頃を、

心のどかに摘みつつ歌う

「摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ、摘まにゃ日本の茶にならぬ」

 

「茶摘」は文部省唱歌。1912(明治45)年発行の「尋常小学唱歌」に載った。作詞作曲者とも不詳。金田一春彦・安西愛子編「日本の唱歌(上)明治編」の解説にはこうある。

「京都府綴喜郡宇治田原村の茶摘み歌に『向こうに見えるは茶摘みじゃないか。あかねだすきに菅の笠』 『お茶を摘め摘め摘まねばならぬ。摘まにゃ田原の茶にならぬ』というのを採ったものだろうという」

このように、宇治に伝わる歌を元にしたと伝えられているが、明確な裏づけはない。子どもが2人で「せっせっせ」と声をかけ、歌いながら手と手を打ち合わせる遊戯歌としても歌われてきた。

1997年発行の『茶のすべて』(窪川雄介編集・発行)の「茶摘歌」の項、「茶作唄」の中に、京都府綴喜郡宇治田原町に伝わる「摘み唄」が挙げられている。「アー向こうに見えるは茶摘みじゃないか、ヨイショ(=かけ声) 茜襷に菅の笠 アー宇治はよいとこ北西晴れて、東山風そよそよと」とされている。

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もう少し、同じ新聞から記事を拾って、マイポケットにしまっちゃおう。

★茶摘み歌が消えたのは大正時代に茶鋏(ちゃばさみ)が導入されてからだ。第一次世界大戦で工場の女性労働力の需要が急増し、女性の日当が高くなったことが背景にある。「たすきの女性に代わって、男が鋏で刈るようになった」

以後、主に歌われたのが「茶切り節」だ。「唄はちゃっきり節 男は次郎長」で始まり30番まである。1927(昭和2)年にできた。作詞の北原白秋は、茶鋏で刈る音をちゃっきりと表現した。次郎長の清水港は茶の積み出し港として栄えた。

 

★明治時代、茶は生糸に次ぐ2位の輸出品だった。明治後期には全国の生産量の6割が輸出された。その8割が米国向きだ。米国では当時、ティーといえば緑茶を指し、緑茶に砂糖とミルクを入れて飲んだという。

 

★おいしいお茶の淹(い)れかた

決め手は湯温だ。沸騰したお湯をポット→急須→湯冷まし→茶碗と移して10度づつ冷ます。少し待って人肌に近い40~50度になったら、5グラムの玉露を入れた急須に注ぐ。「舌でころがすように飲んでください」。

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