2008年10月31日金曜日

まさか、この俺が救急車のお世話にーー

10月28日、朝からハードな打ち合わせを行った後、私は昼飯用のラーメンを作っていた時です。何かちょっとおかしな気分に襲われ、天井が回り出したのです。眩暈(めまい)が、始まったのです。この5~6年、軽い症状なのですが頻繁に眩暈に襲われてきた。今までは、しばらく、じっとしていれば、波が引くように正常に戻るので、余り気にはしていなかった。

ところが、今回は頭のどこかで激震がおこったようです。天井がクルクル回りだしたのです。ガス台のガス栓は何とか閉めた。そして壁の方に視線を向けたた時、壁の模様がグラグラ揺れて、抽象画のように見えた。立っていられなくなって、うずくまった。そのまま、床にゴロンと仰向けに転がった。嫌な予感がした。私が、かって友人が脳梗塞で倒れた時に立ち会った経験から、これは、お医者さんのお世話にならないといけないと思い、会社の仲間に即救急車の要請をお願いした。

天井に顔を向けて、横たわっていたのですが、怖くて目が開けられない。皆の声が鮮明に聞こえる。手足を動かしてみた、言葉を発してみた、意志通りに手足は動き、言葉も正確に喋れていたので、これは友人のように脳梗塞ではないぞ、と確信した。

保土ヶ谷消防署の救急車が10分も経たないうちに来てくれた。台所の狭い所から引っぱリ出され、移動するために体の位置を変えられるだけでも怖かった。担架に乗せられて2階から運び出された。ラーメンをオミさんに食ってもらってくれ、と言うのを忘れなかった。それほど意識はしっかりしていたのです。目は閉じているものの、私が建物の何処を運ばれいるのかは、よく解っていた。

救急車の中に収められ、隊員から質問を受けた。何をしていたのですか?「台所でインスタントラーメンを作っていました」。単純に麺とスープだけでは楽しくないので、タマネギとネギと人参と薩摩芋を細かく切って、一緒に煮ていた。そこで、家から持ってきた煮込んだカレーをその上にのせて温めていました。

手を右、左と動かしてみてください。次に、足を動かしてみてください。私は指示通りに、キッチリと応えられた。

眩暈は、どのような眩暈でしたか? 前の方で書いたようなことを返答しました。隊員にとって、この質問が重要だったようです。私が後で調べたことなのですが、眩暈の表れ方によって、どこが原因なのかが推測できるのです。もう一度繰り返しますが、私の今回の眩暈は、自分の体や、その周辺のものがあたかも回転しているかのような感覚になったものでした。嘔気はなかった。この場合は、三半規管の乱調によることが多くて、大抵は耳の障害によるものと、決めてかかってもいいそうです。この時の私の血圧は、上が180だった。私の通常時の血圧は、上が120、下が90なので、上が180というのは初体験だ。

ついでに調べたことを書かせてもらう。よろめくような、非回転性のふらつく感覚の場合は、大抵は中枢神経や高血圧によるものらしい。もう一つ、立ちくらみ、血の気が引き、気が遠くなるような感覚に陥る場合は、実際には失神するらしいのですが、これは、低血圧によるらしい。脳梗塞の場合は、嘔気があって嘔吐することが多い。また手足が自由に動かすことができなくなったり、言語をはっきり話せなくなることがある。

隊員は、搬送先の病院を探した。希望する病院はありますか、との質問に、任せますと強い意志を示した。隊員は私との問診というか質問のやり取りから、この患者は三半規管が原因ではないかと判断したようだ。自宅にも比較的近い聖隷横浜病院の耳鼻咽喉科に電話したが、生憎(あいにく)医師が空いていなかった。東戸塚記念病院の内科なら、オッケーなのですが、どうですかと聞かれ、任せますと答えた。

救急車に付き添いで乗ったことはあったが、まさか私が患者の身になって、搬送されるなんて、考えられなかった。でも、現実にベッドに括り付けられ、助けを求めていたのです。付き添いで乗った時に感じたたのは、献身的な救急隊員の働きぶりだった。時々刻々と血圧を測り、脈拍を測り、顔の表情をチェックしながら、患者を励まし、何かと気を配る。その時の患者は先に書いた私の長い付き合いの友人だった。重症だった。脳梗塞だった。隊員は、彼の手をしっかり握っていてくれた。公務員のなかでもこんなに頑張っていてくれる人がいるのだと、すごく嬉しく感じたことだった。

今、そんな救急隊員に私は体を預けているのだ。救急車は環状2号線を走って、東戸塚記念病院に着いた。担架から下ろされ、病院で用意してくれたベッドに移る際にも、体を移動することや、少し体の向きをかえることさえ、怖かった。

担当してくれた内科の医者は、私の症状や救急隊員からの報告で、緊急を要しない症状であることを私に告げて、時間が経てば治まりますが、検査はどうしましょ、と聞かれてCT検査や血液検査、思い当たる検査はしてくださいとお願いした。

血液検査のために採血してくれた看護婦さんから、どこのラーメン屋さんですか、と聞かれた。ええっ?。その時は何故、そんなことを聞かれたのか解らなかったのですが、看護婦さんは私が昼飯用のラーメンを作っている時に倒れたことを誰かから聞いて、私の職業をラーメン屋さんだと誤解したようだった。面白かった。

それらの検査を終えてベッドに寝かされた。付き添ってくれたミズイさんとオミさんには、大丈夫だから会社に戻ってください、と言ってから、私は2時間ほど熟睡をしたようだ。検査結果をもって医者が枕元に来てくれた時には、フラフラ感や、足を地面に下ろす怖さは、もうすっかりなくなっていた。医者は自分は内科なので、正確には診断できていないが、脳や血液等では異常は見られません、ということでした。

自分で血圧を測ったら、14:59で最高が144で最低が84、15:26で最高が130で最低が80だった。ゆっくり元の状態に戻っているようでした。

三女が迎えに来てくれた。早速、ビールを飲んで、焼酎の薄いのを飲んだ。健康が何よりも、ありがたい。犬の散歩の朝5時まで、9時間ほど熟睡した。

翌日の29日、会社に向かう車の中で、聖隷横浜病院の耳鼻咽喉科に寄ってみようと決心した。東戸塚記念病院の内科の医者は、予防と対策はない、と言った言葉が気に入らなかった。そんな筈はない、原因があって結果があるのだ。この病院は、会社までの道を少しだけ遠回りさえすればいいのです。たまたま、今日は水曜日で、営業のスタッフは休みだ。ならば、午前中、診断してもらおう。財布にはいつものようにお金が入ってないことに気がついて、都合よく自宅に顔を出していた次女に、お金を持って来てもらった。地獄も天国も金次第じゃ。

聴力は、小さい音までよく聴こえています、と太鼓判。円盤のようなものの上に足を揃えて立って体の揺れを測定する検査などを行った。1分間目を開けて測定して、もう1分間目を閉じて測定した。どちらも、揺れが異常だと言われた。来週は、MRIの検査だ。

会社の仲間に、それは「メニエール病」だと言う者がいる。このことについては、今度の診察の際に確かめなくなくてはならないと考えている。それと、初めて体験した最高血圧180のことだ。血圧が原因でこういう症状が発生したのか、起因するものは兎も角、その結果、血圧が上がったのか、どちらなのだろうか。そのこともよく聞かなくっちゃならんな。

会社に着いた。昨日の午後は夢のように過ぎた気がする。台所に近づきたくなかったが、コーヒーを作りに行くうちに慣れた。昼飯時になって、昨日皆(みんな)に心配かけたから、そのお礼に飯でもご馳走しましょうと言って、皆で揃って、大はしゃぎで会社の玄関を出た。そうしたら、どういうこっちゃ、頭がフラフラしだしたのです。これは昨日の最初に感じたグラグラに似ているではないか、どうしよう、頭を両手で挟んでしばらくじっとしていた。グラグラは引いたが、まだ風景はゆっくり揺れていた。怖くなった。静かに会社に戻って、自分の椅子に座った。

落ち着いてから、処方箋をもって調剤薬局に行って、薬をもらった。薬を飲んだら、体がシャキッとなった。この薬の効きめは、まさしく私の体のどこかが狂っている証左ではないか。

会社を取り巻く経済環境が大変な時期にある。息子の結婚式が迫ってきた。孫が、ドンドン大きくなって可愛くなってきた。

早く直さなくてはならん、と決意した。

後日、精密検査の結果、何も悪いところはありません、でした。三半規管の一時的な発作でしょう。疲れないようにすること、ストレスをかけないことですね。予防と対策はこれしかありません。薬が残っているでしょ、持ち歩いて、眩暈がしたら、それを使ってください。クソッ!!、お医者さんはいい加減なもんだ。

三半規管の私に対する反乱か?

2008年10月25日土曜日

ノーベル平和賞 アハティサーリ氏

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朝日朝刊

論説委員・脇阪紀行

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しなやかな丸腰の仲介者

足場は小さなNGO

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「今日の世界で、アハティサーリ氏は傑出した調停者だ」。ノーベル賞委員会は今年の平和賞受賞者をこう評した。1901年に設立された平和賞は、軍縮や国際的な紛争の調停、人道活動など、世界の平和実現に貢献した人物・団体に贈られてきた。その意味で、今年の受賞は「王道」と言える。

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同時に、同氏の活躍はすぐれて今日的でもある。

冷戦終結から約20年。平和や国際社会の安定は、大国同士、軍事ブロック同士の対立が消えても実現していない。世界は、ほかに多くの課題を抱えていることに気づいた。

それに応えるようにノーベル平和賞も近年は、「平和」の定義を拡大させる傾向にあった。昨年は初めて地球温暖化問題を取り上げた。開発や人権など新しい分野にも同賞を贈ってきた。世界のグローバル化で金融危機や地球温暖化、エネルギーや食料高騰問題など、社会を不安定にする要素が多様化するにつれ、平和賞受賞者も、幅広い分野から選ばれるようになった。

紛争の原因も、単に当事者の利害だけでなく民族や宗教など文化的なアイデンティティーも根深くからむようになっている。

そうした時代の変化の中で、フィンランドという中立的な小国出身という立場をいかして、インドネシア・アチェ紛争や北アイルランド紛争、コソボ紛争などで和解の仲介者としての役割を根気強く果たしてきた。

いま足場としているのは、自らが率いる小さなNGO「危機管理イニシアチブ](CMI)だ。強力な外交組織や軍事力を背景にしない。しなやかな平和の使者。

同委員会は「アハティサーリ氏の調停はいつも成功するとは限らなかった。しかし、挑戦し続けた」とその姿勢を評価した。

泥沼化するイラクやアフガニスタン。グルシア紛争のように、入り組んだ民族対立、宗教対立をはらむ危機は世界各地に広がっている。世界はアハティサーリ氏のような新しい形の仲介者を求めている。ノーベル賞委員会は授賞理由を「彼の努力と成果がほかの人たちの奮起を促すことを望む」と結んでいる。

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「紛争人脈」を武器に

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アハティサーリ氏の仕事を追って見えてくるのは、紛争調停を通して築かれた「紛争人脈」の豊かさだ。

「祝福の電話かと思って電話口に出たら、次はコソボを考えてくれと言うんだ。彼の頼みは断れなかった」。6月に来日した際、アハティサーリ氏は記者にこう語った。

インドネシア・アチェ紛争の和平合意がまとまった05年8月、フィンランドの首都ヘルシンキの自宅で喜びに浸っていた同氏に国際電話をかけてきたのは、長年の友人でもあるアナン国連事務総長(当時)だったというのだ。

フィンランドの外交官としてナンビア紛争の仲介に取り組んだアハティサーリ氏は国連外交の最前線を経験するために、87年、国連本部に転身した。そこで親交を深めたのがアナン氏だった。当時のデクエヤル事務総長の下で働きながら欧米やアフリカに知己を広げる。94年、母国の大統領になり、旧ユーゴ紛争の調停に手腕を発揮してからは、紛争仲介を求める依頼が殺到した。

その人脈は、紛争解決そのものにも生かされた。近年、イラク紛争の仲介に取り組んだ際には、血で争う紛争を乗り越えた北アイルランドや南アフリカの関係者を招いて、当時の苦悩や経験をイラクの人々に語り聞かせた。

少年時代、旧ソ連軍に追われて避難生活を送った体験や、20代にNGOの一員としてパキスタンで貧困撲滅に取り組んだことが紛争解決への情熱を支えているのだろう。8年前に大統領職を退いた後、紛争仲介のNGOを旗揚げした。2年前、ヘルシンキの事務所を訪ねた時、「最も尊敬する友人はこの人だ」と言って、獄中に二十数年間つながれながら南アフリカ独立を導いたネルソン・マンデラ元大統領の写真を示した。

アハティサーリ氏は今、どんな和平調停にかかわる際にもNGOの若い仲間を加えるようにしているという。紛争仲介の仕事を受け継ぐ後継者が出ることへの期待からだ。ノルウェーのノーベル賞委員会もその期待を込めた。

ノルウェーも中東和平など予防外交に輝かしい実績を持つ国だ。世界に悲惨な紛争が消えない21世紀、両者の思いはぴったり重なっている。

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朝日朝刊

社説

ノーベル平和賞 紛争の時代が彼を求めた

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この人がいなければ、紛争の犠牲者はきっと増えていたことだろう。

今年のノーベル平和賞は、フィンランドのマルティ・アハティサーリ元大統領に贈られることになった。

旧ユーゴスラビア、インドネシアのアチェ、北アイルランドなど多くの地域紛争で、和平の仲介や交渉にあたってきた。30年に及ぶ貢献を評価するとともに、」とくに冷戦後の世界における紛争調停の重要性に光をあてたいというのが贈る側の意図だろう。

ノーベル平和賞は一昨年に貧困撲滅、昨年には地球温暖化問題に着目した。今年の選考結果は、戦争の悲惨さを食い止めるという平和賞の原点に戻ったとも言える。

アハティサーリ氏が初めて紛争調停を経験したのは70年代末、40歳そこそこの外交官だったころのことだ。アフリカ南部ナミビアの紛争で国連代表に任命され、紛争当事者の対話仲介にあたった。

冷戦終結後の90年代、地域紛争が世界各地で起きるとともに、アハティサーリ氏の出番が増えていった。

旧ユーゴのボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、国際平和会議の座長として和平交渉を進めた。セルビア共和国とコソボ自治州の対立では、当事者の間を走り回って「コソボ独立」への道を開いた。

旧ユーゴでは宗教や民族が激しくぶつかり、民族浄化と呼ばれた集団虐殺も起きた。そのなかでの調停がどれほど忍耐を要する仕事であることか。

「バルカンの諸民族の間には数百年にわたる深い対立と憎悪がある。紛争解決にはそのことを踏まえねばならない」。今年6月に来日した際、アハティサーリ氏はコソボ紛争の仲介を振り返ってそう語っている。

輝かしい実績とそれを支えた豊かな経験は、時代が求めた結果でもある。 

忘れがたいのは、インドネシア北部アチェでの紛争解決で見せた手腕だ。分離独立を求めてゲリラ闘争をしてきた自由アチェ運動とインドネシア政府との和平交渉を仲介した。

当事者の主張にじっくり耳を傾ける一方、時を見計らって妥協案を示し、受け入れを迫る。長年の経験で培われた柔軟で豪胆な仲介術が発揮され、見事な成功をおさめた。

この時、アハティサーリ氏はすでに大統領を退き、NGOの仲間とともに交渉を仲立ちした。さらに欧州連合に話を持ち込み、武装解除や元兵士の社会復帰など、和平を定着させる作業でも国際支援の仕組みを編み出した。

アチェ紛争では、日本政府もかって和平仲介を試みたが、うまくいかなかった。アジアではスリランカ、フィリピンのミンダナオなど地域紛争は今もなくならない。アハティサーリ氏の業績から学ぶことは少なくない。

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間違いなく欲しかった。

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ノーベル平和賞を受賞したマルティ・アハティサーリ元フィンランド大統領は10日、ヘルシンキの大統領府で記者会見を開き、「授賞は予想できないが、間違いなく欲しかった」と喜びを表した。

大統領府によると、アハティサーリ氏は「尊敬するマンデラ元南アフリカ大統領のような人の後に続くことができて光栄だ」と語り、さらに「受賞によって、私が率いるNGO『危機管理イニシアチブ』(CMI)に必要な資金が簡単に集まるようになればと思う。資金がもっとあれば、今まで以上のことを成し遂げられると常に思っていた」と語った。同氏の引退後もCMIが活動できるよう基金を設立する考えを明らかにした。

紛争の仲介者としてわきまえたことは「常に率直でいること。良いことばかり言ってはいけない。私は常に善人ではない」と説明。多くの関係する国や機関を巻き込み、協力を結集させる必要性を説き、「国連やフィンランド大統領と言う経歴のおかげで、どんな政治的な立場の人にも連絡を取り、助けを求めることができた。ラッキーな立場にあった」と振り返った。

同氏がかかわったセルビアからのコソボ独立交渉については「コソボの隣国、マケドニアとモンテネグロが独立を承認してくれた今が、一つの大切な時だ。まだ承認していない国に良い影響を与え、承認国がもっと増えてくれることを望む」と語った。

今後は、紛争の調停だけでなく紛争予防にも力を注ぐ。「今後10年間で世界で約10億人の若者が職にあぶれる。希望を失うとテロリストになってしまう」と語り、中東や北アフリカの若者に職を与える活動を行うという。

 

マルティ・アハティサーリ氏

元フィンランド大統領。

フィンランド・ビープリ(現ロシア領)生まれ。NGO活動後、フィンランド外務省に入り、73年、36歳でタンザニア大使。国連ナミビア特別代表などを歴任。94~00年、フィンランド大統領。退任後も国連事務総長特使としてコソボ問題に取り組んだ。

2008年10月22日水曜日

林洋子シタール弾き語り、「雁の童子」

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先日、新聞のスクラップを整理していたら、賢治の童話をシタールの弾き語りで活躍されている林洋子さんの記事を見つけた。私には、宮沢賢治のことなら、なんでもファイルして貯めこむ性癖があるようです。読みもしないで、ただ、しまっておいたのです。そして1ヶ月前、初めて文章を読んだことになるのです。いったいシタールという楽器はどんなものだろうか、ネット情報で調べてみよう、とは思っていたのですが、なかなか本気で調べることはなかった。音大卒の友人に聞いても、インドの楽器かもね、ぐらいにしか教えてもらえなかった。

先日、瀬戸内寂聴さんの源氏物語の現代口語訳を、上原まりさんが筑前琵琶の音にのせて演じる弾き語りを、聴いた。誰が誰を好きになったり、誰が誰に嫌われたり、嫉妬に狂ったり、男女が織り成す恋愛の相は私にはチンプンカンプンだったのですが、調べにのった語りはなかなか、楽しかった。

その後のある日、宮沢賢治祭りのことをネットで読んでいたら、林洋子さんの賢治の童話の弾き語りの案内が、目に入った。長いことファイルされたまま机の中に眠っていて、少し前に整理して見つけた新聞記事の内容そのものだったのです。

10月19日に開催される。もうすぐだ。私の心は、さだ波から荒波に変わった。聴きに行きたいな、と思ったら、その日は日曜日だった。日曜日は、我が社では、私が一番忙しい曜日なのです。スタッフは皆出かけて、私は貴重な留守番なのです。偶然、当日は以前から大崎で大学時代の友人の娘さんの結婚披露宴の三次会に出てくれと言われていたのです。披露宴三次会は大崎で、林洋子さんの弾き語りは、目黒だった。これは二度とないチャンスとばかりに、三次会と宮沢賢治を無理矢理セットした。当日の朝、社員の皆にお願いして、午後は休みにしてくれ、とお願いした。この日は、宅建の試験日でもあったので、人のやり繰りで、皆に負担をかけることになった。

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朝日新聞

ひとり、賢治を語る

いつの記事かは不詳です

論説委員・川名紀美

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林洋子さん(77)は賢治の作品をシタールなどの楽器に乗せて語る出前公演をつづけている。京都の小さなお寺で初めて語りを聞いたのは20年も前だ。

3日、文化の日は林さんの喜寿の誕生日、お祝いを兼ねた1465回の公演に、250人が詰めかけた。

演目は「いちょうの実」と「雪渡り」。「いちょうの実」は母なるイチョウの大木から飛び立って行く千個の実。つまり千人の子供たちの物語である。いったい、どこへ運ばれるのか。子供たち一人ひとりの不安と期待をそれぞれの音色で語る。

林さんはマイクを使わない。生の声の力で賢治の世界へと運んでくれる。じっと耳を傾けていると、丘のイチョウの大木や、雪の原をキックキック、トントンとはねる子供たちの姿が見えてくる。

かっては舞台女優だった。水俣病に題材をとった芝居で、突然、演技ができなくなった。演じる意味を自問しながらインドの農村を歩き、出会った宗教的な大道芸が転身のきっかけになった。50歳のときだ。

政治の世界で「自立と共生」がおおはやりだが、賢治の童話に貫かれているのは本物の自立と共生だ。

「雪渡り」は人間の子供とキツネが信頼で結ばれるまでを描く。植物も動物もひとも、全ての命はみんなつながり、支えあっているのだと語りかけてくる。

そんな賢治の思想を手渡すのに大がかりな照明や音響は似合わない。ひとり演じるのが誠にふさわしい。

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そして、10月19日〈日)

開演・午後2時から

東京都庭園美術館新館ホール

シタール弾き語り・林洋子

雁の童子(かりのどうじ)

作・宮沢賢治

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宮沢賢治の童話と、林洋子さんとシタールが三位一体になった、ひとときだった。いくらもある賢治の童話のなかで、「雁の童子」には、楽器で音を添えるとしたら、他でもない、やっぱりシタールなんでしょうね。賢治の作品には、音や光の世界の無限の広がりがある。風の音や砂の流れる音、月や星の光、明るい太陽。そして雁、父、子供。林洋子さんの朗読が流れていく。シタールの調べが宇宙の彼方にうねりだし、また還(かえ)ってくる。広大な砂漠の、静かに砂の流れる音が、聞こえる。

公演の後、長野から来たと仰っていた男の人は、賢治の世界を文字だけで味わうのではなく、このような味わい方もあるのですね、と林さんに感謝されていた。確かにシタールの奏でる音は、果てしなく広がるシルクロードの世界には、ピッタリとは思ったが、弾き語りでなくても、私には十分だった。それにしても、シタールという楽器の音色は、不思議だった。体に染み入るように感じた。そして体を通して、遠い宇宙に消えていく。

最後に、童子が育ててくれたお父さんに投げかける言葉に、私はまたもや「銀河鉄道の夜」でも味わった三次元の世界から四次元の世界へと誘(いざな)われた不思議な感覚に陥った。人間の人間が、お父さんのお父さんが、私の私が、---そして愛の愛が、三次元の世界から四次元の世界に、思索と問答を伴って、渦(うず)となって私の心に沁みる。

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パンフレットより引用させていただきました。

「雁の童子」のストーリーは~

シルクロードの彼方。タクラマカン砂漠。流沙の南の泉で、一人の巡礼の老人が、小さな祠の由緒を語ります。

沙車の街に須利耶圭(すりやけい)という人が住んでいました。

ある朝、須利耶さまは、殺生を慰みとするいとこの方と野原を歩いていたところ、その方は空を飛ぶ雁の群れを鉄砲で撃ちます。

すると、弾丸の当たった6羽の雁は次つぎに人になって落ちてきたのです。

五人は天に戻りましたが、最後の一人、小さな子供だけは戻ることができませんでした。

その子が雁の童子でした。

須利耶さまは童子を引き取り、自分の子としてお育てになりました。

童子はとても賢い子でした。

そして、命の奥にある悲しみを感じとっているようでした。

歳月はめぐり、やがて須利耶さまと童子が別れる時がやってきましたーー。

ーーー私はお父さまとはなれて、どこへも行きたくありません ーーー

ーーー誰もね、ひとりで離れてどこへも行かないで、いいのでしょうかーーー。

林洋子さんと、「クラムボン」のことをネットで紹介されていたので、その文章をダイジェスト版にしてここに転載させていただいた。

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1980年、林洋子さんが50歳の時だった。宮沢賢治を一人語りで演じる会「クラムボン」は誕生した。

劇団俳優座から劇団三期会で数々のブレヒト劇に主演。その後フリーとなってからは水俣病の実態に触れ、石牟礼道子原作「苦海浄土」の巡礼公演を経、以来、林洋子は沈黙せざるを得ない年月を経験する。

73年に訪印、コルカタの民家に滞在。帰国後ベンガル語を学ぶ。78~79年インド再訪。ベンガルの農村を一人歩き宗教的大道芸バウルに出会い、表現の原点を発見する。

「芝居ができなくなった自分、約十年近く沈黙した自分の命が、開かれ、動き出すのをまざまざと自覚したインドでの生活」『(合い言葉はクラムボン)より』を経て、帰国した林は、ある雨の日、偶然見かけた母子の柔らかな素直な仕草にハッとする。

バスの中から見かけた、いわばどこにでもありそうな母子の手をつないで話をしている何気ない情景なのだが、まるで打たれたかのような瞬間だった。「あれは、命の仕草だ。生きているもの全てが、一つずつ持っている柔らかな命の仕草だ」『同』

「その時、ピカッと、賢治が私の中に飛び込んできた」『同』という。

「私は何者か。私の持ち場が俳優なら、本音でその持ち場につこう。命のために。命どうしが支えあうために、つながるためにー---」『同』

1994年、「幼児も涙してその世界に没入するほどの感動を人々に与えた」と宮沢賢治学会及び花巻市より第4回イーハトーブ賞受賞。

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 シタールは~

インドの代表的な弦楽器である。胴体は乾燥した巨大なカボチャだ。1メートルに及ぶネック(棹)に金属弦が二重に張ってある。下側に共鳴弦11本、上側に上弦7本。

2008年10月21日火曜日

奥秩父・瑞牆山(みずがきさん)

紅葉の岩山の名峰

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この企画に我らも参加しないか、と加藤隊長から電話をもらった。私は仲間の都合も聞かないでオッケー、と即答した。

今から約37年前の大学2年か3年の秋だった。詳しいことは記憶に残ってはいないのですが、私は一人で奥秩父連峰の中心部を踏破した。当時私は、大学でのサッカーの練習に苦しんでいた。私以外の部友は、練習すればするほど上達していた。私はと言えば、なかなか人並みのレベルまでは、追いつけなかった。一人っきりになって無茶苦茶、体を苦しめたかった。山歩きの基礎も糞も知らない私は、カッ跳びで山歩きをした。ダッシュとはいかないが、日々のサッカーの練習と同じ感覚だ。軽いクロスカントリーだ。今回、加藤隊長から奥秩父とか瑞牆山の名を聞いて、懐かしかったのです。行きたいと思った。私が、山々の一つひとつを把握している、珍しいエリアなのです。

37,8年前の歩いたコースの詳細は覚えていないのですが、確か西武線の秩父駅の方から入った。その後はバスに乗ったのだと思う。地図を見ながら振りかえってみた。

三峰山を眺めながら三峰神社横を過ぎた。

歩いた、走った、甲武信ヶ岳(こぶしがだけ)(標高2475メートル)に着いた。山容が拳(こぶし)に似ているので本来は拳岳という。それが、甲斐、武蔵、信濃の国の境にあるので、このような名前で親しまれるようになったそうだ。

少し縦走のコースからは少しそれて、奥千丈岳(おくせんじょうがだけ)(標高2409メートル)にも寄った。

大弛(おおだるみ)と名前のついている所も通った。地名の通り、たるんで?いた。地名が面白かったので地名だけは記憶にある。

国師ヶ岳(こくしがだけ)(標高2592メートル)。

瓦礫の山道をひたすら登って、金峰山(きんぷさん)(標高2599メートル)に着いた。山頂の五丈岩はこの山のシンボルで、強く印象に残った山でした。五丈岩と書いてゴジョウセキと読むのだと言われたように思う。が、今回、ガイドにも聞いてみたのですが、ゴジョウセキとは呼ばず、文字通りゴジョウイワとのことだった。

大日岩を過ぎて、瑞牆山〈標高2230メートル)。山の名前なのですが、その時はミズガキとは、アヒルの足が水をかき易いようになっている様から命名されたのだと聞いた記憶があるのです。文字にすれば「水掻山」か。今回の山行でその真否を確かめなければいかんな、と思って、これもガイドさんに聞いたら、そんなこと聞いたことがありません、だった。何も知らない者に、いい加減なこと教えるな。

金峰山からなのか、瑞牆山からなのか増富ラジウム温泉の方にに下りた。バスの車窓から温泉の施設を見下ろしたような気がする。それからバスに乗って、韮崎の方に出たようだが、覚えがないのです。

こんな縦走と言えばいいのか横断と言えばいいのか、相当長い道のりを2泊で歩き通した。体力には幾らでも余裕がありました。3日で60~70キロメートル、否もっと歩いたと思われた。でも、当時の私にはいくら急峻の直登でも急降下でも、ぬかるみでも、鎖場でも、1日30キロぐらいなら1週間でも2週間でも歩き続けることができるほど、パワーがあった。

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そして今回は~

参加予約は1ヶ月前にしたのですが、お金を振り込んだのは1週間前です。それは私の左足のヒザに痛みが発生したので、参加できるかどうかが心配だったのです。大学時代のサッカーの後遺症です。毎冬になれば、必ずこの痛みは出るのですが、今年は少し早く出たようです。階段の昇り下りでヒザにピリピリと痛みが走るのです。あの、憎っくき金さんをタックルし過ぎたのかもしれないな。

そして、山登りの前日、昼ごろから雨が降り出した。会社の仲間に、明日の天気はどう?と聞いたら、仲間は,口を揃えてきっと雨でしょう、と揺るぎない返答S、(Sは複数のSです)。憂鬱だった。最初から降っている雨の中へ、家を出て、バスに乗って、高い山に入っていく、登山道はぐちゃぐちゃだ、こんなことに思いをめぐらせると、さすがに気が重くなるのも当然でしょう。

私は、仕事の関係で池袋に居た。プロジェクト資金の借り入れのための金銭消費貸借契約をして、連帯保証の約定に署名捺印している最中に、加藤隊長から私の携帯電話に電話がかかってきた。「事務局から、明日、下山が遅くなったら暗くなるので懐中電灯を持ってくるように言われたので、忘れないように」、私はそんなことより、「雨やな」と一言切り返した。本音は、雨だったら行きたくないんじゃ、と言いたかったのですが、言いそびれた。隊長の気合に臆したのだ。当日、隊長は「あの時のあなたの声は暗かった」と仰る。隊長は私の魂胆をよく見抜いておられた。その時、雨でも行くしかないかあ、と諦めた。

明日、瑞牆山から下りたらビールを必ず飲むだろう。その時のツマミを明治屋で、ピスタチオ2袋買った。雨で憂鬱なのに、明日のビールのツマミをちゃんと用意するとこは、優秀でしょ。

その後も、東京・銀座で打ち合わせをして、お酒をごちそうになった。雨は降り続けていた。家人は、明日は晴れますよ、と嬉しいことを言ってくれる。23;00 雨音を聞きながら布団に入った。

翌朝、5:00起床。まだ外は暗かったが、雨はやんでいた。犬の散歩からの帰り道、東の空にうっすら朝陽が見えてきた。納豆ご飯に味噌汁。空が晴れることに、これほど感謝したことはない。ハレルヤ~だ。私の孫の名前はハル~です。これは関係ないか。

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瑞牆山荘をスタート(11:00少し前)して瑞牆山に登って、その登った登山道を戻ってくる、というコースでした。登山道はきっとぐじゅぐじゅで、ぐちゃぐちゃ。ズボンが泥んこになるぐらいは覚悟していたのですが、我々はどこまでもツイテいるのです。山は花崗岩でできていて、私見ですが、どうも此処の花崗岩は軟らかそうに見えた。気密性がなさそうで、ぼろぼろ壊れ易そうな岩だった。その壊れてできた砂状の土壌は水のはけがいいのだ。そのはけの良さで、降った雨は地中に早く沁み込み、登山道の表面はサラサラで、転んだり滑ったりすることが心配だったのですが、その心配はなく快適そのものだった。

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富士見平で昼飯のお握りを2個のうち1っ個、賞味した。さあ、これからだ。

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でも、奇峰をなす頂上の奇岩たちは、そんなに脆(もろ)そうには見えなかった。脆いとあの異様な威(偉)容さはいつまでも維持できてない筈だ。山の名前の由来は、先に書いたのでここでは触れないが、長い期間この姿をよくぞ守ってきたものだ。頂上は平らな岩岩で、狭かった。平らな岩面から一歩足を踏み出すと、何百メートルもの谷底へ落下。クワバラクワバラ。落下したら、お陀仏、間違いなしだ。尻込みしながら、谷底や周辺を眺めた。今回は20人ほどの団体だったので頂上の狭いスペースでも危なくなかったが、土日でたくさんの人が登ってきた時には、冷や冷やさせられます、とガイドさんは言っていた。

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頂上で、昼飯のお握りを2個のうち残りの1っ個を食べた。下りの危険は、慢心だ。

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登山道がこんなに急な岩場なのに、軍手を持ってこなかった非常識を恥じた。完璧な山登り家の大澤さんが、軍手を貸してくれた。彼もまた、私の公私に亘る重要な保護者でもあるのです。私のイイカゲンサを御見抜きになられているのだ。感謝して、感謝。

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頂上から眺められる限りの山々や峰々や、瑞牆山の大きく聳(そび)える岩のことは、写真を観ていただきたい。金峰山、国師ヶ岳、奥千丈ヶ岳、八ヶ岳、甲斐駒ははっきり眺められた。日によっては富士山も遠望できるそうだ。

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紅葉が終わって、葉っぱが散って裸になった木があると思えば、まだまだこれから艶(あで)やかな紅葉の衣に着替えようとしている木もあった。同じような高度でも上手い具合に揃わないものなんだ。紅葉している樹木で、知っているのはモミジ、イチョウ、ヤマブドウ、ウルシ、ブナ、ナナカマド、ツツジ、カエデなどでした。シャクナゲは、しっかりした濃緑色の葉で頑張っていた。春に芽吹く幼い芽が、ちょこっと出していた。これから冬を迎えるのだ。芽が可愛いかった。尖(とん)がった芽は葉の、丸い芽は花芽でした。子供の頃、よく食べたアケビは見当たらなかった。

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太宰治は、「富嶽百景」の中で、師匠の井伏鱒二が富士山を眺めながらの散歩の最中に放屁をなされたことを、文学として著しているのを、かってニャリとさせられたのですが、加藤隊長がオナラを私の面前でカマしたことには、ニンマリできなかった。正隊員の大澤さんにも、屁をカマした。隊長、屁をコク自由は制約されているのですぞ。今度こそ、加藤隊長が腰を抜かせる程の屁をカマしてやるぞ、と決意した。

私の足は、登りには強いのですが、下りには滅法弱いのです。下り坂で、どしんと、体重がヒザにかかるのが、苦痛なのです。左足のヒザは学生時代の名誉の古傷をいまだに引きずっているのです。ショックをできるだけ右足のヒザにかかるようにしているのですが、時間が経つに連れて、弱い左足ヒザが痛み出したのだ。人間は二本足で歩く以上、避けられません。この程度の痛さで、山登りの醍醐味を棒に振れるか!! こんな時はそのように考えるのです。

山荘に戻ったのが16;40ぐらいでした。戻りの下り坂は西斜面になっていたので、夕日が射している時はなんとか五時ごろまでは明るいのですが、この時間、北斜面なら懐中電灯が必要になります、と注意していた。

瑞牆山荘で、缶ビールを買って飲んだ。慌てて飲んだので、鼻の下にまで泡がついた。

バスに乗っての帰途。車窓から遠ざかる瑞牆山を何度も振り返って眺めた。それにしても頂上がギザギザの山容は、これからも記憶に残り続けることだろう。

須玉インターまでの道は田んぼの中を走った。刈り取られた稲が、天日干しされていた。私の田舎では、刈り取った稲をそのままコンバインにかけた籾(もみ)を乾燥機に入れて、十分乾燥させてから籾摺(もみすり)機にかけて、玄米にするのですが、そのやり方では美味い米ができないそうだ。天日干しにこだわる農家の方はそのように、申されているようです。専業農家として頑張っている私の田舎の兄貴や甥っ子にも、言っとかなくちゃ。

中央高速道の須玉インターに向かった。須玉から中央高速道を走って、高井戸で下りて環8を走り、第3京浜の三ツ沢で下りた。天理ビル横でバスから下車。

ダイヤモンド地下街の中華料理屋さんで、ビール、紹興酒、レバニラ炒め、マーボ豆腐、ギョウザ、あと何やら腹にぶっ込んだ。最後に私はタンメン、加藤隊長と大澤隊員はチャーシュウと何とか入りメンを仲良く分けて食べておられた。

そして、各人、三々五々、自宅に帰った。

そして、、遅れてFIFAサッカーワールドカップ・アジア予選の対ウズベキスタン戦をテレビで応援。

オーレイ!!

後半戦しか観られなかった。戦果のことは別の場所で、酒でも飲みながら、いかが?ですか。

山から戻っての数日間は、筋肉痛が快い。

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081015(水)かお

横浜西口(7:00)===バス===瑞牆山荘ーーー富士見平ーーー天鳥川源頭ーーー瑞牆山(標高2230メートル・日本百名山、山梨百名山)---(往路下山)---瑞牆山荘===バス===横浜到着(19:45)

歩程約8キロメートル・5時間30:

登山中級B

旅行企画・実施=クラブツーリズム株式会社

我らの仲間たちは、隊長=加藤史朗、隊員=大澤勝彦(正隊員)、山岡保(補欠)

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瑞牆山(みずがきさん)(山梨県)(パンフレットより)

北杜(ほくと)市のシンボルになっている瑞牆山は、秩父連山の西端に位置する花崗岩山です。まるでノコギリのような独特のギザギザ頭は今から2万年以上も昔の火山活動の名残です。瑞牆山は弘法大師が修行した山と伝えられ、山岳信仰の山となっています。古くから甲州修験道として登拝していた。神社の周囲に巡らす垣根を表す瑞垣が名の由来と言われている。奇岩、奇峰です。

大ヤスリ岩、小ヤスリ岩、弘法岩、十一面岩。

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***後日、山で撮った写真を貼り付けしますので、ご覧ください。

2008年10月20日月曜日

又か、ドストエフのおっさんの「罪と罰」!!

彼が恐れていたのは、神なき世界のおとずれであり、

「神がなければすべては許される」のひとことは、その不安の証だった。

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「一つの死を百の命と取りかえるんだ」

ラスコーリニコフに訪れる運命のささやき。極貧の元大学生は、七百二十歩さきの老女の家へとひとり歩き出す。

「なるほど、もうはじまっているのか、あれの罪が!」

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また、読むことになるのだろうか。

今日か、明日かは判らないが、やっぱり、きっと手にして読むことになるのだろう、そんな金縛りに似た感覚に襲われた。

今日、081019、新聞全15段で、光文社、ドストエフスキーの「罪と罰」全3巻の亀山郁夫氏新訳の発売広告が出た。既刊の同氏新訳「カラマーゾフの兄弟」の本の紹介もしてあるのですが、これはもう読んだので、目の焦点は「罪と罰」の方だ。

何回読めば気がすむのだろう。

「カラマーゾフの兄弟」は4回読んだ。「罪と罰」も3回読んだが、工藤精一郎訳が1回、江川卓訳を2回読んだ。4回目の「カラマーゾフの兄弟」は昨年、亀井郁夫訳が出たので、その宣伝文句に魅かれて読まされた。2ヶ月前、イースト・プレス発行の「まんがで読破・カラマーゾフの兄弟」も読んだ。読書嫌いな、我が愛すべき息子にも娘にも強制的に読ませた。

今度も、光文社が亀井新訳をアピールしての大宣伝に目を奪われてしまったのです。言っておきますが、私は光文社のまわし者でも、宣伝マンでもありません。ドストエフのおっさんのファンちゅうだけです、さかいに。

その新聞15段の広告の中に、亀井氏が書いている文章を、書きとめて置かないと、悔いが残ると思ったので、転載させていただいた。

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光文社

光文社古典新書文庫

東京外語大学長・亀井郁夫

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フョードル・ドストエフスキーの類まれな力は、「人間」という存在のもつ意味と魂の領域をかぎりなく押し広げた点にある。彼の目は、二つの方向から人間の世界を見ていた。罪をおかす人間と罪のいけにえになる人間の二つの世界、二つの目。それらが交差する地点に、ドストエフスキー文学の真の醍醐味は立ち現れたーーー。

ドストエフスキーによって、わたしたちの世界は救われるのか?神はほんとうに存在するのか?

「罪と罰」を訳しながらわたしが感じていたのは、高利貸し老女の殺害をたくらむ青年の恐ろしい傲慢さと、それを上回ってあまりある運命の力である。青年は、文字通り、運命にとって殺人の現場へ導かれる。青年に殺人をそそのかし、「大地との断絶」の罪をくだす運命とは何か、神に罪はないのか?

ドストエフスキーが晩年にたどりついた信仰こそ、命の絶対性、その純化された観念である。それはある点で、宗教のカテゴリーを超えていた。どのような意味でも、人を殺すことは許されないーーそれは、かって国家反逆の罪に問われ、死刑の恐怖を味わった男ならではの、究極の結論だった。だからこそ彼は、「罪と罰」の主人公を自殺の道から救い出したのだ。ほかでもない、命の絶対性を教え込もうとして。だが、人間がけっして免れることのできない罪がある。「カラマーゾフの兄弟」で、作家はようやくその表現に立ち向かう。人間の命そのものが罪であるという矛盾ーー。では、恐ろしくも謎に満ちたこの小説が、わたしたちの魂にどこまでもひびく理由とは何なのか?

究極のところでそれは、「父殺し」という宿命の罪に苦しむ魂を、永遠の救いに導きたいと願う作家の、ひたすらな思いではなかったろうか。

「わたしの主人公」アレクセイ・カラマーゾフこそ、命の絶対性のシンボルである。満天の星空のもとで彼がかき抱く大地は、ほかでもない、わたしたちの魂のなかに息づいているのだ。

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081024,25、日本でミリオンセラーになったドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の翻訳者である東京外語大学の亀山郁夫学長がモスクワで公開対談を行った。そこで、日本におけるドストエフスキー人気の高まりを紹介した。ロシアではドストエフスキーの重厚な小説は若者から敬遠されており、日本でのブームはモスクワ市民の強い関心を呼んだ。

亀山氏は「資本の暴力」が支配するグローバル化とインターネットに代表されるテクノロジーの影響下で、「人間の心が根本的に壊れ始めているとの予感をぬぐえない」と指摘。自殺率が先進国で1位となっている日本ではこの兆候が顕著だと述べ、「自ら作り出したテクノロジーによって壊れた日本人の心が人間精神の破壊を見つめ、救いをテーマにしたドストエフスキーを発見した」とブームの背景を分析した。

2008年10月17日金曜日

世界同時、経済不況

最近のアメリカ経済の狼狽、困惑、苦痛ぶりが短い文章でまとめられている記事を転載させていただいた。世界経済が同時にこれほどまでになった情況は、私にとっても初めての経験だ。後日のために、何かのためになるのではと思いついたので、この記事を転載させていただいた。転載にモタモタしているうちに、世界経済の実態はますます、すさまじく転落しつつある。その動乱振りを後ろの方に書き足した。

その後の世界経済の動きを書き加えています。

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(081010)

朝日朝刊・経済

経済気象台

ウォール街の徒労と絶望

(山人)

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9月下旬から10月初旬まで、金融危機に揺れるニューヨークとワシントンに滞在した。ちょうど、経済不振に陥っていた金融機関の接収・譲渡、7千億ドルの政府資金導入を含む金融救済法の当初案の否決、株価の暴落、金融市場の機能まひなど、米国の金融システムが大きく変転している時期だった。

エコノミストや当局関係者の多くが、徒労感を強くにじませていた。金融機関の脆弱性に対する相互不信の高まり、連銀の大量の流動性供給にもかかわらずしつこく残る信用収縮圧力、公的資金投入に対する国民の強い批判など、さまざまな手立てを迅速に講じてきたにもかかわらず、期待したような事態の改善がみられないことに対する疲労感、不安感を、彼等との議論の中で強く感じた。

しかし、バブル崩壊後の日本の金融危機を経験した人間からみると、米国人の感覚はまだ甘い。

皆の目が金融市場に釘付けにされている間も、経済は着実に悪化している。住宅市場の縮小、住宅価額の下落は続いており、下げ止まるとしても、それはまだ先の話だ。雇用者数は9ヶ月連続で減少し、個人消費も冷え込みが顕著だ。家計の過大債務の削減が加速すれば、米国経済はさらに悪化するだろう。頼みの輸出にも、世界経済減速の影響が及びつつある。

そこに信用収縮の悪影響が加われば、経済はさらに悪化するだろう。そして、景気後退は新たな不良債権を生み、金融システムは一段と脆弱化してゆく。つまり10年前の日本で起きたような金融危機と経済危機の悪循環が深まる可能性がある。

米国経済の低迷は、深く長いものになるだろう。それは日本経済にとっても、停滞が予想以上に長引くことを意味する。

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*9月15日、米証券大手リーマン・ブラザーズ倒産。

*15日、メリルリンチが米銀大手バンク・オブ・アメリカに身売り。

*経営難で米政府当局の管理下に入ったAIGはアリコを売却する方針を明らかにした。

*米証券1位のゴールドマン・サックスと同2位のモルガン・スタンレーが銀行に衣替え。

*米銀行大手6位ノワコビアと同7位のウェルズ・ファーゴは合併することで合意した。

*9日のニューヨーク株式市場は、ダウ工業株平均の終値が前日比678,91ドル安の8579,19ドルになり過去3番目の下げ幅を記録した。終値では03年6月末以来の9000ドル割れで、同年5月以来約5年6ヶ月ぶりの安値をつけた。

*10日、ニューヨーク株式市場は、ダウ工業株平均が、一時8000ドルを割った。

*世界の株式市場の時価総額は、9月からの1ヶ月余りで1400兆円が吹き飛んだことになる。

*東証に上場する不動産投資信託(リート)「ニューシティ・レジデンス投資法人」が9日、民事再生法の適用を東京地裁に申請した。

*10日、中堅生保の大和(やまと)生命が自力再建を断念して更生特例法の申請を東京地裁に申請した。

*10日午前の東京株式市場で日経平均株価が一時100円超暴落し、8000円割れ寸前に迫った。

*10日、ワシントンで開かれる主要七カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)で、世界的に動揺を続ける金融システムを安定化するには、公的資金による金融機関への資本注入が欠かせないとの認識で合意した。協調利下げ。

*アイスランドは財政が悪化して主要国内銀行を国有化、ロシアに約5400億円の支援を要請した。

*金融危機がスポーツ界にも大悪影響。ロンドン五輪選手村建設、F1、イングランド・サッカー界、米プロバスケットボール協会、米フットボールロー グ、米大リーグ

*政府与党は10日、地方銀行など地域金融機関に公的資金を予防的に資本注入する為の法律を検討し始めた。

*米国。金融機関への資本注入や住宅ローン資産の購入に使える最大7千億ドル(約70兆円)買取制度が本格的始動。

*公的資金の注入は、米国に始まって英、アイルランド、ドイツ。

*欧州連合(ユーロ圏)は、公的資金注入と、政府保証の付与を通じた銀行間取引市場の活性化対策を練る。

*英国、アイルランド、ドイツ、スペイン、ギリシャ、ニュージーランド・オーストラリアで銀行救済基金、個人預金全額保護。

*15日のニューヨーク株式市場では、ダウ工業株平均は一時、前日終値より391,39ドル安の8919,60ドルまで下げ、取引途中では2日ぶりに9000ドルを割り込んだ。

*16日、東証また暴落1089円台。日経平均の終値は、8458円45銭。

*08年度の上場企業倒産は16日までに23社に達した。戦後最多のペースで進んでいる。

*米自動車大手ゼネラル・モーターズの経営不安が表面化。

*16日、シンガポールとマレーシアの政府・中央銀行は国内のすべての預金を保護すると発表した。

*国際通貨基金は、金融危機で財政難に陥った中小国や新興国への緊急融資制度の貸付上限を撤廃した。

*アイスランドに国際通貨基金を中心にした約6千億円の緊急融資を受け入れた。

*スウェーデン政府は、約21兆円規模の国内金融安定化策を発表した。

*中国の7~9月の国内総生産・実質成長率は前年同期比9,0%だった。

*10月23日の東京外国為替市場の円相場は大幅続伸した。1ユーロ=123円 1ドル=96円

*23日の東京株式市場は、日経平均株価の下げ幅は一時600円台を超え、年初来安値を更新した。8000円台割れ寸前まできた。終値は8195円74銭。

*24日の東京株式市場の日経平均株価が、03年5月以来約5年5ヶ月ぶりに8000円台を割り込んだ。終値は7649円だった。

*24日のニューヨーク株式市場の終値は、03年4月以来の約5年半ぶりの安値をつけた。ダウ工業株平均の終値は8378,95ドル。前日比312,30ドル安だった。

*27日の東京株式市場は、世界的な景気減速と急激な円高による企業業績の悪化に対する懸念が高まり、日経平均株価は急落。03年4月末につけたバブル後最安値〈7607円〉を大幅に下回った。終値は7162円90銭。

*28日、東京株式市場の日経平均株価は、1982年10月以来、約26年ぶりに7000円台を割り込んだ。午後の取引では買い戻された。終値は、前日終値より459円02銭高の7621円92銭。

*31日、日本銀行は金融政策決定会合で政策金利の誘導目標(無担保コール翌日物)を現在の年0,5%から0,2%幅引き下げ、0,3%前後とすることを決めた。

 

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(081011)

朝日朝刊

株価暴落/不安の連鎖を断ち切れ

社説

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株価暴落の世界的な連鎖が止まらない。きのうの東京では日経平均株価が一時1000円以上も安くなり、バブル後の最安値7607円まであと500円ほどに迫った。7日間の取引で3000円以上も下落した。

主要国のなかでも、日本株の落ち込みが激しい。6年余りの景気回復を支えた日本経済の強みと、陰で温存された弱みが同時に売られている。

強みは輸出だった。しかし、一時1ドル=97円台に突入する円高と世界不況による業績悪化の予想で、自動車や電機など主力株が売り込まれた。

弱みは、証券市場が海外からの投資に頼りすぎていたことだ。欧米の投資家は金融危機を受け、海外での資金運用を縮小し引き揚げている。そのあおりを東京がもろに受けた。

株と同時に外資依存で膨張してきた不動産市場でも収縮が止まらず、上場されている不動産投資信託(Jリート)が初めて破綻した。さらに、このリートや米国のハイリスク金融商品での資産運用が多かった中堅生保の大和生命が破綻に追い込まれた。高利回りの保険で資金を集め、高リスクで運用する無理な経営が、金融危機に直撃された。

日本の金融機関は傷が浅いから大丈夫。日本は金融危機の経験者として、対応策を外国へ伝授する役だ。これまでそう思いがちだったが、足元から火が噴出した。不意を突かれた株式市場は不安感が頂点に達している。

政府・金融機関は、まず不安の連鎖と増幅に歯止めをかけるよう、全力をあげなければならない。

大和生命の破綻は特殊なケースではあるが、株安がさらに進めば、苦境に陥る金融機関がでるかもしれない。当局は金融機関の経営内容を、いまいちど総点検をしてほしい。

同時に、破綻に備えて安全網を整備し直さないといけない。中小金融機関へ公的資金を注入するための「金融機関強化法」は、今年3月に期限が切れ失効している。生保への公的支援制度も来春で切れる。

これらの復活・延長などを盛り込んだ対応策を、自民、民主両党が検討している。地方経済の不振もあって、経営が苦しくなってきた中小金融機関もある。取るべき対策を総まとめにして早急に実現させるべきだ。

主要七カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)が開かれる。金融機関に対する主要国首脳会議(G8サミット)の開催も検討されている。日本はサミットの議長国として国際協調を主導しなければならない。

また、日本の主要企業にも注文したい。たしかに世界不況は逆風だが、これまでの好況でため込んだ蓄積も各企業にはある。逆境のときこそ、それを次の成長のために使ってほしい。

2008年10月11日土曜日

金木犀

今の季節。朝の犬の散歩や、仕事で各地各所の住宅を見て歩くなかで、どこからともなく金木犀の香りがしてくる。甘い香りに、しばし、歩を止めてうっとりすることがあります。でも、この金木犀の香りが子供の頃は嫌だった。胸糞悪い気分になって、その場から急いで遠ざかったものです。化粧厚めの女性の臭いのように感じたり、爛(ただ)れた臭い、退廃した臭い、不健康で不衛生な臭い、だらしない臭いのように感じて嫌悪した。

匂い=良いにおい

臭い=悪いにおい

私が30歳の時、中古住宅を手に入れて、大工さんに増改築してもらうのに、庭の金木犀の大きな木をどうしても切らなくてはならなかったのです。大工さんや工務店の社長さんは、切るのはモッタイナイので、なんとか切らないで、希望のスペースを確保できないものかと、思案してくれたのですが、私は何の躊躇いもなく伐採抜根してもらった。最後の最後まで、大工さんは金木犀の木を切ることに抵抗した。私が30歳の時ですから、もう30年も前のことです。その時は、まだあの強い臭いが嫌いだった。

それから、30年経った。そんな私だったのに、どうしたことだろう。今は、金木犀の香りにうっとりするなんて。何がどのように変わったのでしょうか。

こんな話を友人たちに話すと、やっぱり私と同じように、子供の頃は嫌いだったが大人になるにしたがって、気づかないうちに好きになった、という人が意外と多いことが解った。

でも、春に咲く沈丁花(じんちょうげ)の臭いは未だに好きになれない。また、この花の臭いも、いつかは好きになるのでしょうか?

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キンモキセイ〈金木犀〉

ギンモクセイの変種、中国南部が原産で江戸時代に渡来した。秋になると小さいオレンジ色の花を無数に咲かせ、芳香を放つ。芳香はギンモクセイよりも強い。雌雄異株であるが、日本では雄株しか入っていないので結実しない。中国では丹桂と呼び、花を白ワインに漬けたり〈桂花陳酒〉、茶に混ぜ花茶にしたりする。(ウィキペディア)より

2008年10月10日金曜日

犯人はセラチア菌でした

我が社の分譲した住宅を買って頂いたお客さまから、水廻りりが赤くなるのは何でしょうか、という問い合わせを受けた。

早速、お客様のお家にお邪魔した。水道管から赤い水が出るということだったので、横浜市の水道局の維持課の職員にも立ち会っていただいた。維持課は、このお家までの水道管の経路や、敷設されている水道管の状態を管理するのが主たる業務らしい。我が社の担当者は、先ずは水道管に異常が発生したのかと思ったらしい。でも、簡単にその場でできる塩素濃度のチェックはしてくれたが、異常なしです、とのことでした。水道局の職員はこの赤いのは、きっと赤カビですよ、と言ったが、詳しい説明がなかった。それでは、その赤カビはどこからくるのか、水道水に含まれているのか、疑問を残した。

その「赤カビ」のことが、立ち会ってくれた母親から、住宅の購入者である息子さんに伝えられた。その際、お客様には不安が伴っていたからだろうか。報告を受けた息子さんは、誤解されたのか、疑問が増幅したのか、身体に及ぼす影響を心配されたのか、納得できないので水質検査をして貰いたいと要望された。そして、昨日(081009)、検査を行ってきたのです。検査結果は約1週間後に出るということでした。

私は赤くなっている部分を指先で擦(こす)った。そしたら、赤い部分は取れたので、これは何も深刻に悩むことはないと確信した。拭けばとれるなら、拭いて下さいと購入者にお願いすればいいのだ。でも、この正体はわからない。

昨日水道局からこられたのは、水質課の職員二人でした。お二人が声を揃えて仰るには、これは「赤カビで、セラチア菌です」と断定された。

以下は、ネット情報と横浜市水道局から教えていただいた内容をまとめたものです。

浴室のタイルや便器の内側などがピンク色になることがあります。この原因は、水道水ではなく、空気中に存在するセラチア菌がタイルなどの上で繁殖したためです。付着物は、市販の消毒用アルコール溶液で拭き取ると除去できる。ピンク色で、目に見える状態で存在しているときの状態のことを、バイオフィルムを形成しているというそうです。バイオフィルムとは、固い物の表面に細菌が層を成して堆積した微生物共同体のことです。流しのぬるぬるなどがその代表的なものです。

セラチア菌は普通土の中にいて、空気中に浮遊しているそうです。一般家庭の水廻りにはふつうに存在していて、特に新しい住宅には多いらしい。一般の健康な人には無害で、口に入っても病気などを引き起こすことはないが、輸血の時とか注射剤において血中に入り込まれると厄介なことになる。

セラチア菌はキリストの故事に因んで霊菌と呼ばれているのです。

2008年10月8日水曜日

田沢投手の勇気に、カンパイ!

朝一番(081008)の新聞記事に、唖然とした。その記事の内容は新聞記事をそのまま転載させていただいたので、確認してください。

その記事の内容に、瞬間ピーンときて、これは可笑しいぞと思いながら、批判的な記事や、批判的なコメントが、聞こえてこないのが、不思議だった。プロ野球を支えていくには興業が成り立たせなくてはならないのは、百も承知だ。古典的経営者のボスの横顔が浮かぶ。巨人、ナベツネとその申し子の滝鼻オーナーの真剣な表情が目に浮かぶ。日本の野球が興隆を極めて、そのお陰で新聞が沢山売れて、テレビの視聴率が上がって、広告収入が増えること、これが経営者の狙いだ。とりわけ、読売新聞は自前の球団巨人の戦果が、発刊数に露骨に影響する。球団経営にモロに影響をくらう。

今回は、ドラフトの目玉になりそうだった新日本石油の田沢純一投手が、ドラフトを拒否して海外のプロ球団と契約したいと宣言したことから、日本の球団は彼が先鞭となって、学校を終えて、社会人野球を経て日本のプロ野球を経験しないまま、海外でのプロ野球を目指そうとする者にケチをつけたのだ。プロに新しく入った優秀な人材を話題にして、自分勝手に、日本でこってり商材にしたっかたのだ。このようにして海外へ渡った選手が、海外でのプロ球団を退団した後に、日本でのプレーを目指しても、一定の期間は、契約することはできません、という規定だ。嫌がらせだ。一旦海外のプロ球団に入団しても、止むを得ない事情で帰国しなくてはならない場合だって発生しかねない。そんな時には、日本のプロ球団は雇ってあげませんよ、だって。数年たったら、雇ってあげますよ。なんじゃ? この根性が気に食わん。日本のプロ野球界は焦っているようだ。こんな焦りが今回の決定につながったようだが、私にはそこまでなりふり構わずヨウやるね、と思った。

スポーツはスポーツとして進化しない限り、興味が惹かない。アスリートは、自分の進化に全身全霊を賭けて、最善を尽くす。時間の経過も大きい問題だ。環境と機会も。進化していく姿に人は感動を受けるのだ。北京五輪の日本野球のダラシナサに、うんざりした人も多かっただろう。イチローや松坂、両松井、黒田、岩村、その他の大リーグで活躍している選手達のなんと!!格好のエエことよ。オジサンは、零細企業の経営者の端くれだ。我々の業界、経済の世界、何もかもが重苦しくて堪らん環境の中で、仕事の束の間、大リーグで頑張っている選手のことが話題になった時は、しばし爽やかな気分になる。挑戦したいという田沢を応援したい。オジサンは、仕事のうえで突破口を開けずに苦悩している。田沢には、夢が、若さが、才能が、勇気がある。ワールドカップFIFAをめざす岡田ジャパンの、アジア予選のこれからの戦いも、楽しみの一つだ。

チャレンジ、可能性を信じてどこまでも努力を続けようとするアスリートを応援したい。アスリートが目指そうとする世界が、今の日本のプロでなくて米大リーグなら、それも大いに結構ではないか。それを嫌がらせのようにする、あなたたちは何者ですか。野球を真に愛する者たちは、今回のプロ野球実行役員会の規約を決めたことに、誰も喜んではいない。役員さん、あなた達は偏狭ですぞ。

私はサッカーを愛しています。サッカーに育てられた者です。日本では、野球に遅れてプロ化したサッカーですが、中学生のことは知らないが、高校生でも海外でプロとして頑張っている選手がいるのです。そして、日本代表の歴代の監督は誰もが、日本選手が海外でのプロチームに所属してプレーすることを勧奨している。

現在の日本のプロ野球の球団関係者、とくに経営者さん、そろそろ、お目覚めが必要なのではないですか。

そして、今朝(081008)、やっぱり、朝日新聞が怒った。吼えた。その記事は昨日の記事の後に転載させていただいた。

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(081007)

朝日朝刊・スポーツ (ダイジェスト)

ドラフト拒み外国球団入り

帰国後2~3年 契約せず/NPB新規約

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プロ野球の実行役員会が6日あり、ドラフト指名を拒否して外国のプロ球団と契約した選手についての規約を決めた。外国球界でプレーした後日本でのプレーを希望した場合でも、高校出の選手は帰国後3年、大学出・社会人からの選手は2年、日本の球団は契約しないことにした。

今ドラフトでの1巡目指名が確実まがらメジャー希望を公表した新日本石油ENEOSの田沢純一投手にも、メジャー入りした場合には適用されるとしている。ドラフト指名に漏れて外国へ行った場合にはこの規約は適用されないが、田沢は事前に12球団に「指名しないで欲しい」と伝えているため、今回指名されずにメジャーに行っても、帰国した場合は2年間、日本のプロではプレーできなくなる。

田沢の一件を受けて、日本プロ野球組織(NPB)が「自衛策をとらざるを得ない」(巨人・清武代表)と有力選手の流出防止策を練っていた。

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(081008)

朝日朝刊・スポーツ

自由自在/「ケチなルール」

〈志方浩文〉

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「海外流出の抑止という意味だから、NPBはケチなルールを作ったとか書かないで欲しい」

プロ野球のドラフトを拒否して海外プロ球団へ行った選手への規約が作られた6日の実行委員会後に、ある球団幹部が話した。規則を作った側も、「ケチなルール」と自覚しているということだ。

海外へ行ってから一定期間は契約しない、という規定なら理解できる。

今回のものは違う。日本に戻ってくる場合、海外球団を退団してから2~3年、契約しないということだ。それは、選手にとってプロではプレーできない空白の期間を作るといううことだ。メジャーで一旗揚げて最後は日本球界での輝きを目指す選手を拒絶することにつながる。

しかも、田沢がメジャー希望を表明してから話し合いを始めて作った規定なのに、田沢にも適用するという。これでは「後だしジャンケン」だ。

今後も、メジャー志望の有望選手は後を絶たないだろう。日本球界が考えるべきは、「向こうに行かせない」ことではなく、そういう選手にいつ日本で活躍して貰うか、ではないか。

今年のドラフトで入る大学・社会人選手は、フリーエージェント(FA)権を取得するのに国内移籍なら7年なのに海外なら9年かかる。22歳の選手なら最短で31歳だ。

「それなら直接メジャーへ」と考えても仕方がない。これが、5,6年で行けるとなれば、日本のプロに入ろうとする選手も増えるだろう。

国外FAの年数を短縮するには、大リーグ球団から今はもらっていないFAに伴う移籍金を取ることも必要だ。そういう交渉を、加藤コミッショナーに託すのはどうだろう。

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田沢「渡米の決意揺るぐな」

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日本プロ野球組織(NPB)がドラフトを拒否して海外のプロ球団と契約したアマチュア選手に対し、海外球団を退団後、日本のプロ入りに一定の凍結期間を設けたことに関し、大リーグへの挑戦を表明している社会人野球・新日本石油ENEOSの田沢純一投手は7日、「決意が揺らぐことはない」と改めて渡米の意志を示した。

田沢は、「内容を詳しく知っているわけではないが、まずアメリカ。日本に帰ってくるまで考えていない」と話した。ただ、「後に続く人に対し、申し訳ないという気持ちはある」と複雑な心境を明らかにした。大久保監督は「早い段階で渡米の意思を公表したのは、ドラフト指名を検討する日本のプロに迷惑をかけないためだったのに、突然ルールを決められるなんて」とプロ側の対応に疑問を呈した。

2008年10月6日月曜日

新聞拾い読み5話

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roger

(080922)

朝日朝刊

その①宮沢賢治賞を受賞した作家・東工大世界文明センター長

ロジャー・パルバースさん(64)

文・写真/大野拓司

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宮沢賢治の名作「雨ニモマケズ」を英語にどう訳するか。すでに出ている英訳本は、どれも「負けず」を否定形に訳している。ところが、この人は「Strong in the rain」と初めて肯定語で表現した。

「賢治は『負けず』に、頑健な肉体と精神への願いと祈りを込めた。それを際立たせたかった」

賢治作品の英訳や、独自分析を加えた日英対訳を多数出版。賢治没後75年の22日、ふるさと岩手県花巻市から第18回宮沢賢治賞を贈られる。

「さらさら、ぽしゃぽしゃ、おろおろ、感性豊かな擬声語や光と風の鋭い描写。動植物も人も星も石ころも、宇宙の存在すべてに温かいまなざしを注いだ賢治のコスモポリタンな寓話ワールドに魅せられた」

米国出身、ハーバード大大学院で政治学を学び、東欧に留学したがスパイと間違われ国外追放。恋にも破れて帰国するとベトナム戦争のさなか。「徴兵なんてまっぴら」と逃避した先が、たまたま日本だった。23歳。最初の晩に立ち寄った東京下町の屋台で初めて覚えた言葉が、ちくわ、こんにゃく、。「注文の多い料理店」ではなかったらしい。

大学で英語を教えながら、独学で日本語を習得。小説や戯曲、翻訳、舞台演出など、活動の幅を広げてきた。32年前に国籍をオーストラリアに移し、以来、日豪を行き来する。

「銀河鉄道に乗って、どこまでも旅を続けたい。「ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」

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(0809??)

朝日朝刊(ダイジェスト)

その②ポリティカにっぽん/東京政治から逃げておいで

早野透(本社コラムニスト)

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私は鳥取県で開いた「スローライフ学会フォーラム」にでかけた。鳥取市と周辺の町に会場が分かれた催しの一つ、鳥取県智頭(ちづ)町のシンポジウムを聞く。ここで寺谷誠一郎64歳という異色の町長に出会った。鳥取市との合併に反対して2期の途中で辞職、町長の座を譲り、また今年6月、住民の署名運動で担ぎ出され、返り咲きの3期目というヘンな経験の持ち主である。その話し。

「みどりの風が吹く、疎開の町をめざして」というのが町のスローガンです。町の93%は森、50年杉を伐っても大根1本の値段ですよ。でもね、こんど森を生かして町立病院で「森林セラピー」を始めたい。都会で病んだ人に疎開に来て貰って、野菜をつくったり、森の空気で癒したりしてもらうんですよ。

テーマは森。シンポのパネリスト西村早栄子さんの話。ここにきて2年3ヶ月、「森のほいくえん」をつくりたいと思っているんです。ドイツにはもう400もあるんですよ。園舎はない、こどもたちは雨でも雪でも森で過ごすんです。元気でたくましくなる。いまは、森のお散歩会をしているんですけど、10人、15人ででかけてお弁当を食べて、絵本の読み聞かせをすると、子供たちの目がきらきらする。

緑陰読書のリーダー岸本真澄さん、13戸の集落の農産物加工「知恵工房」で栃ようかんをつくる谷口貴美恵さん。パネリストは人口8千の町で、いきいきと生きるすてきな女性たち。

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unagi

(080923)

朝日朝刊

その③ウナギの故郷、親もいた。

マリアナ諸島の産卵域で捕獲/卵からの養殖へ期待

山本智之

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「ニホンウナギ」の親魚が太平洋マリアナ諸島沖の産卵海域の深海で、初めて捕獲された。水産庁と水産総合研究センターが22日、発表した。この海域ではこれまで誕生直後の幼生しか見つかっていなかった。謎に包まれたウナギの回遊ルートや産卵条件の解明につながると期待される。

ニホンウナギは日本、韓国、中国などに住む。成長すると産卵のため川を下り、海に入る。どこで産卵するのかが長年の謎だったが、東京大海洋研究所の塚本勝巳教授らが05年、同諸島沖のスルガ海山周辺で幼生を見つけ、ここが産卵海域だと突き止めた。しかし、親ウナギが捕まらず、どのくらいの深さで産卵するのかなど詳しい生態はまだわかっていない。

水産庁などのチームは今回、スルガ海山を含む広い海域でトロール網を引き、6、8月に親ウナギ計4匹を捕まえた。捕獲した深さは200~350メートルだった。親ウナギの捕獲は、産卵場所を詳しく知る重要な手がかりになる。

現在のウナギ養殖は、沿岸でとった天然の稚魚(シラスウナギ)を育てて出荷している。近年、稚魚が激減しているため、卵から育てる養殖法の開発への期待が高いが、幼生を稚魚に育てるのが技術的に難しく、普及していない。

東京大海洋研究所の青山潤・特任准教授によると、ウナギは世界に18種・亜種いるが、産卵海域で親魚が捕獲されたのは初めてで、「捕獲場所の水深や水温などは、卵から育てる養殖法を実用化する上で貴重なデータになる」という。

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kiyihara

(081002)

朝日朝刊

その④清原23年、花も涙も

万感の花道に桑田、イチローら/岸和田のヤンチャから、オッサンへ〈ヤマオカ〉

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プロ野球オッリックスの清原和博内野手(41)が1日、23年の現役生活にピリオドを打った。京セラドーム大阪でのソフトバンク戦に、4番・指名打者としてで先発出場。左ひざの手術などで先発は約2年ぶりだった。第3打席に右中間に適時二塁打を放つなど4打数1安打1打点、最後の打席は豪快な空振り三振だった。引退後は未定だという。

試合前、ソフトバンクの王貞治監督(68)から花束を受取った清原の目は、すでに潤んでいた。不思議な縁だ。85年秋。PL学園高(大阪)の清原は、王監督の巨人へ入ることを願った。しかし、巨人がドラフトで指名したのは、この日も姿を見せた同級生の桑田真澄さん(40)。若い頃のわだかまりは、時が解決。そして、同じシ-ズンで2人はユニホームを脱ぐ。

試合後の引退セレモニー。マウンド上の清原に、阪神の金本知憲外野手(40)らから花束が贈られた。巨人移籍後に清原のテーマ曲ともなった歌手の長渕剛さん(52)が作詞・作曲した「とんぼ」を、長渕さん自身が熱唱。満員の観客も一体となった大合唱を、清原はタオルで何度も涙をぬぐいながら聴き入った。

「清原和博のために、そしてオリックスのために来てくださって、本当にありがとうございます」と始まったあいさつ。11年間在籍した西武、9年間在籍した巨人のファンへの感謝の言葉が続く。感極まったのか、しばらく間が空き、「花道を作ってやる」とオリックスに誘ってくれ3年前に他界した故仰木彬元監督やわざわざ駆けつけたマリナーズ・イチロー外野手(34)へのお礼の言葉を語った。

「オリックスのユニホームを着たことを誇りに思い、きょう、引退させていただきます。全国のプロ野球ファンの皆さん、23年間、応援どうもありがとうございました」。場内を一周しファンに別れを告げた。最後は胴上げされ、5度、宙を舞った。

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まれな個性だった

二宮清純さんの話

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挫折と栄光の双方に彩られた、人間臭さ満点の「民衆のヒーロー」だった。これほど起伏ある野球人生を歩んだ選手は少ない。甲子園の大スターとしてプロ入りしたときは、長嶋・王のように正統的ヒーロー像を最後まで貫くと思われた。新人王に輝き、西武の黄金時代の主軸を担った。

ところが、FA移籍した巨人で結果を出せない。「俺は殺人でも起したんか」とぼやいたことがある。そして今の姿に変わる。無精ひげ、日焼け、ピアス。感情の起伏が素直に格好に出て、打席でも若い投手をにらみつける。好青年からこわもてアウトローへ。両極端のシンボルになった、極めてまれな個性だった。

95年に渡米した野茂にイチローが続き巨人を頂点とする野球選手の王道路線は崩れた。それでも清原は巨人にあこがれ、「花の都で一旗揚げたい」と言った。最後の古典的ヒーローだ。これらが幅広い層から支持された理由だろう。

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(081003)

朝日朝刊

俺は、岸和田のダンジリ野郎や(やまおか)

天声人語

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長渕剛さんの名曲「とんぼ」は都会への憧れと挫折を歌う。〈死にたいくらいにあこがれた東京のバカヤローが/知らん顔して黙ったまま突っ立っている〉。花の都に寄せる片思いは多くは裏切られ、意のままにならぬことばかり。でも無様に、無骨に生きてゆく。

長渕さんと、スタンドを埋めた3万人の大合唱に送られ、オリックスの清原和博選手が引退した。華あり、涙あり。23年の現役生活を、「東京のバカヤロー」ではなく、故郷大阪で終えた。

最終戦の相手、ソフトバンクの王監督がかけた言葉は「生まれ変わったら、同じチームでホームラン競争をしよう」。85年のドラフト。王さんが指揮する巨人軍の指名を信じて裏切られた男を、言葉で抱きしめた。同じシーズンにユニホームを脱ぐのも何かの縁だろう。

525本の本塁打を重ねながら「無冠」に終わった。最後の打席は、自身の歴代最多を更新する1955個目の三振。直球を投げ続けた杉内投手に頭を下げた。タイトルより大切なものがあると教える。美しい空振りだった。

「憧れの球団」に移ってからは故障に泣いた。投手がしつこく内角をえぐると、仁王立ちでにらみ返した。だが、そうした人間味や勇気に引かれるファンもまた多かった。インタビューの請け応えにも、飾らない人柄がにじんでいた。

日本のプロ野球は、大リーグへの人材流出で危機にある。清原選手のヒーロー伝説、あるいは反骨の物語を、ここで終わらせるのは惜しい気がする。どうにもならない不運を力にする生き方の、続きを見てみたい。

 

清原は、最後のボールを空振して終わった。その最後のボールを杉内投手に贈ったと聞く。清原の一面を見せられた。

テレビのある番組で、清原のヒザの手術の内容を見て、これは、現役復帰が難しいと直感した。最後の試合の第3打席目で放った二塁打も走るのが精一杯で、やっとのことで二塁ベースにたどり着いたように見えた。あんなヒザで、よく走ったものだ。

5度宙に舞った胴上げも、着地したときに見せた顔の表情は、安らぎの表情でも、歓喜の表情でもなかった。ただ痛みに耐えているだけだった。ヒザの痛みに耐える表情が、私には余りにも痛々しく感じられて、辛かった。

清原のファンでもなかったのに、ここにきて、遅ればせながらのファンの仲間入り宣言をしました。

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その後も清原の記事は続く

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(081009)

朝日朝刊・スポーツ

EYE 祭りのさなか 去った男

編集委員・西村欣也

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この寂寥感は何なのだろう、と思う。セ・リーグの優勝争いが大詰めを迎え、巨人と阪神の優勝争いは最高潮だ。祭りの中で、時代が過ぎていくのを感じている。

清原和博が引退した。彼は、プロ野球の何かを象徴していた。それは昭和の香りではなかったか。村山実が長嶋茂雄をライバルとし、江夏豊は王貞治を宿敵とした。江川卓と掛布雅之の直球だけの勝負も記憶から消えることはない。

清原はその流れをくむ男だった。野茂英雄や伊良部秀輝との勝負。桑田真澄との「Kk対決」。チームの勝敗だけでなく、個人と個人の勝負が観客を引き込んだ。

そんな男が球界から去る。王監督の退任とともに、時代の歯車が大きく動いた。

「無冠の帝王」だと呼ばれた。しかし、通算サヨナラ本塁打12本、サヨナラ安打20本はともにプロ野球記録だ。ファンの心のスクリーンに刻印を残した証明だ。

通算1955三振、196死球もプロ野球最多記録だ。たたえる記録ではないかもしれない。が、打席を投手との決闘の場に選んだ男の勲章でもあるだろう。

よく泣いた。巨人に指名されなかったあの日、87年、巨人を下して日本一になる時は、試合が終わる前から涙があふれた。引退試合では王監督に「来世、生まれ変わったら同じチームで本塁打競争しよう」と言われた。祭りが最高潮であるほど、寂しさがつのっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

eye

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2008年10月4日土曜日

「ええ、意味はありません」

kagawa

(081001)

朝日朝刊

俳優・香川照之

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この俳優さん、香川照之の演技は、映画「ゆれる」で知った。私のこのブログでも、この映画を観た感想を書いたことがある。女性監督の繊細な感性を、俳優として微妙な演技でこなしていた。監督さんの思いには充分応えていたように感じた。

心が微妙に揺れる、吊り橋が文字通り揺れる、考えが静かにそれから激しく揺れる。揺れることの表現を、顔の表情、目、眉、頬、額、アゴ、特に真正面を向ける表情に、後姿の演技に魅入った。

私の心も揺れた。映画を観終わって、駐車場に向かっているときに、映画通の三女から、いい映画だったね、と言われて、私は我に戻った。それまで、アイツ、香川という奴にウツツを抜かされていたようだった。不思議な俳優だ、と頭の中はそのことで一杯だった。

その後、映画のよく知っている友人らにあの香川照之という俳優さんって、知ってる?と聞きまくった。それゃ、知っているよ、と言う人ばかりだったので、私は驚いた。彼の出生までも説明してくれた奴までいた。

そうして今回、香川氏が自分の出演した映画の紹介と、初期の頃影響を受けた黒澤清監督とのことを自ら筆をとった記事を見つけた。なんとまあ、よくもこんなに濃く、影響を受けた監督さんのことやら、自分が出演した映画のことを、述べられるもんだ、と感心した。記事を読んだ私まで、熱くなった。その文章を確保した。

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一九九七年の九月は、私にとって不思議な転換期となった。

「蛇(へび)の道」という小さな映画で、私は黒沢清という男が監督する映画への出演を受けた。黒澤明の親族だと勝手に思った外国人記者も当時何人かいたようだが、残念ながら何の縁故関係もない。

男は同年、「CURE」というホラー作品のヒットで一躍時の人になる。しかし当時の私は、俳優がある演技をする時に「意味」などを監督にいちいち尋ねて「俺は考えているぞ」的姿勢を過度に示す、若者の誰もが迷い込む落とし穴に深く陥っていて、脂がのり、映画の手法を知り尽くしていた黒沢清にとってはひどく厄介な存在に映ったに違いない。

黒沢清はそんな私に実に具体的に指示を出した。いや、出さざるを得なかったと言った方が妥当だろう。

「ええと、ここで三秒経ったらあのドアまで歩いて、そこでしばらくじっとして下さい。で、おもむろにですね、こちらに歩いてきて下さいますか。あ、こっちに来る意味は全然ありません」

この、「意味は全然ない」という言葉を、そのとき私は何度聞いたことか。俳優の動きは「意味」を伴って初めて存在すると信じていたささやかな私の孤塁を、男はものの見事に破壊した。私は言葉を失った。

しかし、である。一つの意味を理屈で懇々と説明されるよりも、「意味はない」と先手を打って言われた方が、俳優という生き物は、非常事態発生とばかりに自分自身の中に自らの行動原理のようなものを急いで探し出し、理屈では到達し得ない直感的動きに瞬時にシフトする場合があることに次第に私は気づき出した。目から鱗(うろこ)だった。私は、今度こそ本当に言葉を失った。

この作品以来、私は、事前に計算した「意味」を、あるいは計算そのものを演技の中に求めることを辞める決心をした。少なくともそう努めようとした。それが、私が黒沢清から貰った宝だ。

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あれから十一年が経つ。私はその間、どうしても黒沢監督に恩返しがしたいと思っていた。この十一年で私が培(つちか)ったものがあるとすれば、すなわち俳優として、下らない「意味」を頭から少しでも追い出した自分を確立し得ていたならば、それを黒沢に不断に示し、広げ、その雄姿をぜひ確認してもらいたいと思っていた。

九月二十七日に封切られた「トウキョウソナタ」という映画は、そんな私が、実に十一年ぶりに黒沢清の演出を受けた作品である。

ああ、この十一年を私はどれだけ待ったことか。現場の私はまるで子供だった。黒沢清という先生に、自分の全てを見ていて欲しいと願う幼稚園児のようだった。感情が、直感が、無意識に横溢した。

「トウキョウソナタ」は、ホラーの名手としてその後揺ぎ無い地位を築いた黒沢清が、初めて普通の家族の物語を描いた意欲作品だ。

黒沢清は、これまでもそのホラー作品の中に、日本の社会性や政治性を陰画(ネガ)のようにひたひたと染み込ませてきた。今回、より分かりやすい「家族」というテーマに、東京の、日本の、いや世界の抱える社会問題を強烈なメッセージとして織り込んだ「トウキョウソナタ」は、その意味では、これまでの黒沢作品の集大成とも言えるだろう。

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果たして、私は黒沢清に恩返しが出来たのだろうか?

十一年を経ても男の「ええ、意味はありません」は健在だった。それを聞いて、私の心は嬉しさのあまり千里の丘を駆け抜けた。今作で家族の父親を演じた私がラストシーンで溢れさせるある感情は、黒沢清という男がこれまで作品の中で貫いてきた映画人としての姿勢に私が心から捧げたオマージュである。あるいはこの男と出会い、再会し、今の私がある十一年という歳月に対する全霊の感謝である。一人でも多くの人に、それを見届けて頂ければ幸いである。

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余談ですが

先日、日曜日の朝、香川照之、本木雅広、小泉今日子さんの三人が対談している番組を観た。そこでの一場面のことだった。俳優さんは、自分の演技に自分流の工夫をこらすことに努力を惜しまない。その努力は、各人個性的なようだ。香川氏は自分の演技についてのこだわりを、ひと通り話し終えた後で、無名塾の仲代達矢さんのことを話したのが面白かったので、ここに追記した。

30人ほどが真っ裸での入浴シーンだった。身につけているのは一本のタオルだけ。陰部?を隠す人もいれば頭に巻きつけて下半身は丸出しの人もいた。演技の最中で、仲代氏が演技論か、何かを話し出したそうだ。ここは、こうなって、あれは、ああなって、と話すこと20分。当の仲代氏は話に夢中になって、自分の下半身が晒(さら)されていることに全然意に介することなく、講釈は続いたそうです。その間、カメラは仲代氏のチンチンを撮り続けていた。演技にこだわる香川氏も、このチン大将には参った、と話していた。香川氏は面白可笑しく話されていたのだが、私の表現ではその面白さが半減したかな。やはり、無名塾を主宰してこられ人だけあって、仲代氏もスゴイ人のようだ。今後も活躍の場を大いに拡げていただきたい。

2008年10月2日木曜日

河野氏と小泉氏

(080929)

朝日朝刊

hata-koizumi

風考計=河野氏と小泉氏

幕を引く「異端児」の因縁

若宮啓文(本社コラムニスト)

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今年8月15日、東京の日本武道館。天皇ご夫妻も出席した全国戦没者追悼式で、河野洋平衆院議長が「追悼の辞」に思い切った中身を盛り込んだ。

「特定の宗教によらない、全ての人が思いを一にして追悼できる追悼施設の設置について、真剣に検討を進めること」を政府に求めたのだ。つまりは靖国神社とは別の追悼施設をつくろう、という意味である。

例年、追悼の辞には思い入れをを込めてきた河野氏だ。少なからぬ人が共感する案だとはいえ、真っ向から反対する人も会場に多いことは百も承知だろうに、ここまで言うとはーーー。議長として最後の機会になると思えばこそと想像はできたが、それにとどまらぬ思いもあったのか。今度の総選挙には立候補しないと明かにしたのは、ひと月後のことだった。

同じ終戦記念日の朝、小泉純一郎氏はモーニング姿で靖国神社を参拝した。首相退陣を控えた2年前、念願だったこの日の参拝を果たした感慨がよみがえったに違いない。小泉氏も河野氏のあとを追うように引退表明に至る。

河野氏71歳。小泉氏66歳。いささか早すぎるふたりの退場は、時代の大きな区切りを思わせる。

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「自民党が時代的役割を果たし終えたとの認敷に立ち、新たな保守政治を創造する悲願を込めて、離党を決意した」

誰あろう、河野洋平氏が読み上げた32年前の声明である。39歳で自民党を飛び出し、新自由クラブを作った時のことだ。

ロッキード事件を機にこの新党が生まれのをドキドキしながら取材した若き日を思い出す。政界再編の走りだったからだが、まだまだ自民党の岩盤は厚く、もがき続けた河野氏は10年後に党を解散して自民党に戻った。

宮沢内閣を官房長官で支え、野党自民党の総裁になると、「自社さ」政権を作って社会党の村山首相をかかついだ。これがハト派の全盛期だったが、自身は首相になれずに終わった。

小泉氏が存在感を示したは、河野氏が党内力学から再選を断念した95年秋の総裁選だった。橋本龍太郎氏に完敗したが、やがて01年に3度目の挑戦を実らせる。旧来の自民党政治に切り込んで「自民党をぶっ壊す」と勇ましかったが、総裁選前に会ったとき、「負けた方が面白くなる」と党を飛び出す覚悟を語っていた。その度胸が勝利の決め手だった。

このとき、河野氏の離党からすでに四半世紀。政治も社会もすっかり変わっていた。小泉氏は5年半、党内の「抵抗勢力」を敵にして首相を続けることになる。

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同じ神奈川県選出で、どちらも「保守の異端児」だった。両氏を水と油の因縁に染めたのはイラクと靖国神社、そして憲法だった。

イラク戦争が迫っていた03年3月、小泉首相が歴代の総裁経験者を招いて「開戦支持」へ理解を求めたとき、河野氏は「憲法の精神」を強調して強く反対。やはり護憲派の宮沢喜一元首相が「はっきり言いましたなあ」と感心したほどだ。巡り合わせの妙か、その秋、河野氏は衆院議長になり、以来5年近くに及ぶ。

中国では反日デモが吹き荒れた後の05年6月、河野氏の呼びかけで5人の首相経験者が議長公邸に集まった。靖国参拝を控えるように意見をまとめて、河野氏が小泉氏に伝えたのだ。しかし、小泉氏はその秋も参拝を繰り返した。

同じ年、結党50年を迎えた自民党は憲法改正案をつくり、党是とされてきた「自主憲法の制定」を形に表す。自衛隊を「自衛軍」にする9条改正も盛り込んだ。

その10年前、結党40年を機に河野総裁の下でつくられた自民党の新宣言は「すでに定着している平和主義」をふまえ、党の改憲方針を棚上げしていた。これを覆してのことである。

小泉氏が日本人の高揚感を背景に人気を保ったとすれば、河野氏は日本人の節度を大事にしようとしてパワーが不足した。宮沢内閣で従軍慰安婦問題の「河野談話」を出し、村山内閣で戦後50年の「村山談話」を支えたが、これらを攻撃してきた安倍晋三氏が政権をとったころ「やっぱり自民党は右の政党だね。僕なんか、よく総裁になれたもんだ」と、ハト派の悲哀を漏らしたものだ。

一方、郵政総選挙の圧勝などであれだけ権勢を誇った小泉氏も、麻生新首相らが「小泉改革」の功より罪に光を当てるなか、悲哀を味わいながらの引き際である。麻生氏が長く河野氏を支えた側近だったのは皮肉な縁ではないか。

しかし、その麻生氏も河野氏の思想を引き継ぐ政治家ではない。外交路線では河野氏よりむしろ小泉氏や安倍氏に近いタカ派とされるのだから、この党は本当にわかりにくい。

麻生氏を首相に指名した衆院本会議で、議長の胸に去来したものは何だったか。自分が届かなかった座を、弟分がついに手にした。しかし、それは自分が理想とする首相像とは遠いーーー。

ひょっとすると、河野氏の引退へ背中を押したのは、この複雑な感慨だったのかも知れない。