2010年2月24日水曜日

私の10,21(ジュッテン、ニィイチ)

20100124に、この私のブログで「安保改定50年」と題して、日米安全保障条約の成立時の意義とその後の影響と今後の果たす役割を、新聞記事らを総動員して小文に書き表した。

そこのところでは触れなかったのですが、昨夜、学生運動ってなんだったんですか、なんて若い人に聞かれて、そんなこともあったなあ、と私の昔(約40年前)の体験を思い出してみた。

1968年、大学に入学した。学内は騒然となりかけていたが、入学式はなんとか無難に済み、授業は辛うじて夏休みまでは行なわれた。安保条約の自動更新の70年を迎えて、学内は騒々しくなってきていた。私の大学では、授業料値上げ反対、学生会館の自主管理奪還で火が噴出していたのです。夏休みが終わって、授業が始まっても、革マルのヘルメットを被った全共闘の学生が授業中に教室に乱入、先生を教壇から引きずり降ろし、クラス討論会を開催しますと勝手に宣言した。どうみても、クラス討論会という名のものではなかった。教壇に立つヘルメットの学生は、角棒を手に、タオルで顔を覆い、一方的に自分等の主張を繰り返しアジっていた。各学部でも頻繁に学生大会が開かれた。そして間もなく、大学側が敷地の周りにフェンスを高く築き、構内には入ることができなくなった。ロックアウトされたのです。

授業は3年生になってようやく始まった。1年半、授業がなかったものだから、学校では友人はできなかった。全てレポート提出で単位を貰った。サッカー部の監督でもあった堀教授は、ヤマオカ、お前のあのレポートではどうしても優はやれない、可だ、可でいいな。そんな悠長なことが現実だった。提出したレポートは、与えられた課題とは全然関係ないゲバラの政治思想を、ちょこっと読んだ本から丸々流用したものだった。右系学者の堀教授に対する私のささやかな抵抗だった。科目は政治学原論だった。堀教授は、マル経を完全に否定できる学者は、俺しかいないと仰っていた。私の在籍していた社会科学部は、講義のジャンルは広範囲で、何とか原論、何とか概論ばかりだった。

 

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私の10,21は、1970年、2年生の時だった。

唯一、学校で声を掛けてきたのは大分出身の井君だけだった。一年の始め少しだけ授業があって、語学のクラスが同じだった。卒業して宇佐市役所に就職した。井君は核マルのシンパで私をデモになんとかして連れ出そうとしていた。彼は骨格が華奢で非力なゆえに、私のことを、警察との体力勝負の肉弾戦では、頼りがいがあると思ったのだろう。

この頃は、小田実、柴田翔、高橋和巳、井上光晴らの本を集中的に読んでいた。

ベトナムへのアメリカの侵攻に対する、日本では当然、世界各地からの反感が極度に盛り上がっていた。そんな状況のなかでの日米安保問題だった。何が何でもアメリカは日本を同盟国に引き込もうとする。日本を、ソビエト、中国、北朝鮮の共産主義国家に向けて、守備?攻撃の要衝として基地を提供させる国にしておきたい。日本の保守系政治家はそれを望んだ。アメリカの言うことばかり聞いていると、必ず戦争の片棒を担がされることになるだろう、と確信した。

こんな政治状況下で、学生運動が炙り出した学内改革には大体の学生が賛同していた。医学部のある大学では、医局内の非民主的な運営、旧弊、権威主義などの実態を広く社会に知らしめた。角棒を持たなくても、行動はしないが、全共闘の隠れシンパは多かった。私もその一人だった。

夏が終わって秋の始まりの頃のことだった、年齢は2年遅れの入学なので22歳、2年生だった。井君が真剣に、何かに憑かれたような顔をして、10・21、(ジュッテン、ニィイチ)国際反戦デーのデモに参加してくれないか、ヘルメットも角棒も用意しておくので、と頼まれた。やっぱり、井君は私のところへやって来た。内心怖れていたのだ。私の大学の構内は静けさを取り戻しつつあった。デモに参加する学生も減ってきたことに危機感が出てきたのだろう、語調に嫌だと言わせないだけの凄みがあった。言葉遣いに、直向(ひたむき)さがあって、一瞬、腰が引けた。が、私には私なりに、依然として権力や体制、世の中に対してジレンマもあって、私はまだまだ怒っていた。

私は体育局のサッカー部に所属していたので、みんなからは学校側というか、体制側の人間だと思われていたようなのです。

70年春には、日航よど号事件あった。日米安全保障条約が自動延長された。その自動延長阻止の運動は盛り上がりに欠け、自然に熱は冷めつつ、運動は低調になっていった。騒動は、むしろ党派の分裂による内ゲバの方が目立ち、一般学生も運動から遠ざかっていった。運動に対する挫折、諦念、シラケ。若者の間ではシラケムードが漂っていた。比較的好意的に支援していた市民たちも、学生運動には冷ややかな視線に変わった。分派抗争の象徴的な出来事として、後の72年、あさま山荘事件があった。

また、国内では数年前から大企業による公害問題があっちこっちで発生して、被害者の惨憺な状況の報道が、テレビ、ラジオ、出版物で大いに行なわれていた。富山のイタイイタイ病、熊本の水俣病、田子の浦のヘドロ。東京や大都市で、空はスモッグに覆われた。川崎喘息、食物や化学品によるアレルギー。背骨の曲がった魚、片目のカエル。私は、政治的人間ではなかったのに、国や大企業に対してますます義憤を強く感じるようになっていた。

就職する際には、こんな公害垂れ流しの会社には絶対入るものかと、決意した。そんな会社やチェックや指導もできない役所なんかには行ってやるものか。頭が腐る、人間が腐る。自分自身のためにも、国のためにも、国民のためにもならない、と結論した。毒をバラ撒くような会社のスッタフにはなってはいけない。人間として一番大事な命をないがしろにして、より生産性やより利益を多く求める会社ではなく、普通の会社に入りたいと思った。就職活動において、こんな極悪企業や監督不足の役所をやっつけてやる、そんな組織や運動に携わろうと思いつかなかったのは、私の卑小さ、矮小さの表れだ。

そして、1970年10月21日、ジュッテン、ニィイチがやってきた。

井君とは何所で合流したのか今は憶えていない。サッカー部寮の門限破りは覚悟の上だった。気付かれたら、何らかの制裁を気持ちよく受けましょ。でも、チェックが厳しいわけではないので、上手くいけば、誰にも気付かれないかもしれない。我がサッカー部寮は管理することにはルーズだった。点呼はなし、玄関の鍵は壊れていて開けっ放し。結果、誰からも、何のお小言を受けることはなかった。

角棒を横にしてその一本の角棒に6~7人が両手で握り締め、そして何列も何列も並んでジグザグに進むのです。アンポ反対、ベトナム戦争反対、佐藤栄作倒せ、リーダーの掛け声と笛に合わせてシュプレヒコール。都の北多摩しか知らない私は、何所からどこまでデモしたのか解らなかった。でも最終地点はよく憶えていた。赤坂?の確か清水谷交差点だった。

この「清水谷」と書かれた看板が交差点の信号にくっついていたので、この地名を頭の中に刻まれているのですが、その後学校を卒業して会社員になってからも、この清水谷に巡り会ったことがないのです。大阪にもある地名だし、サッカー部の先輩に清水谷高校の出身の人がいたこともあって、頭に銘記した「清水谷」に間違いはないと思うのですが、果たしてこの時の清水谷はどこだったのだろうか。

深夜の11時頃だった。その地点までは、整然とした隊列のままデモ行進が維持できたのですが、この交差点の近くにきて機動隊との正面衝突が避けられなかった。機動隊はここで、これ以上はデモを進ませないと決めていたようだった。機動隊に向かって、火炎瓶が投げられた。交差点に機動隊が陣取り、学生を主体としたデモ隊とは50メートル程の間隔をおいてにらめっこした。機動隊の方からは催涙弾が投げ込まれた。この催涙弾が何かにぶつかって角度を変え、逃げる私の背中にまともに当たった。強烈な刺激臭だった。涙が止まらない、目がキーンと痛くて開いていられなかった。両手で両目を押さえて蹲(うずくま)った。ジャンパーからは刺激臭が強く放っていた。私にとって大事なジャンパーだ。捨てるわけにはいかない。

しばらくは、催涙弾と火炎瓶の散発な応酬だったが、機動隊が急にデモ隊に向かって攻めてきたのです。デモ隊を一人でも多くを捕まえる作戦に出てきたようで、接近戦になった。井君とは、離れ離れになった。道の傍らで蹲(うずくま)っていた私にも機動隊の群れが近づいてきた。機動隊のジュラルミンの盾で学生の体を叩いた、棍棒が振り下ろされる。ゴボウ抜きのように、学生を連行した。角棒で機動隊の隊列に向かうが、接近戦では役に立たなかった。私は、路肩に蹲っていたからか、機動隊は私には棍棒を打ちおろそうとはしなかったが、腕に手をかけた。私を捕まえようとしたのだ。様子を見ていた見物人に、路肩から歩道に引き上げられた。助けてくれたのだ。

しばらくして涙は止まり、痛みもひいた。そして、私は、逃げようと思いついた。怖くなったのだ。ビルの隙間に遮二無二逃げ込んだ。それから、住宅の庭らしいところを隣から隣へ何軒も突っ切った。1階のマンションの居間の灯りを横目に、無茶苦茶逃げた。そして、騒乱の場所からは随分離れた所で、一息ついた。そこは、ビルと倉庫の隙間の闇だった。時は十二時をとっくに過ぎていた。ヘルメットを脱ぎ、臭いジャンパーに包んだ。そして、右左と確認して人っ気の少ない大通りに出た。

本物の運動家ではない私は、その催涙弾一発で戦意喪失、滅入ってしまったようだ。が、これから、どうしょうかと考えた。今夜の寝所のことは、何も考えていなかったのだ。突然、知恵が涌いた。高田の馬場にサッカー部の後輩の福が下宿していることを思いついたのだ。その夜は小雨が降っていたように思う。確か、お姉ちゃんと二人でアパートに住んでいる筈だ、お姉ちゃんには謝れば何とかなるだろう、これしかない。通りの酔っ払いに高田の馬場方面はどちらですかと尋ねて、言われた方向に体力任せで歩き続けた。何時間歩いたのか、定かではない。催涙弾の影響か、疲れか、頭は重く体はだるかった。高田の馬場駅近くの西友にたどり着いたのは、空が薄っすら白みかけた6時頃だった。アパートは西友の近所だ。睡眠中突然起こされ、福は不機嫌だったが、そんなことには構っていられない。私の方が先輩だ。私は、疲れていて眠たかった。タオルを借りて、顔と頭をを拭いた。幸い福のお姉ちゃんが居なくて、お姉ちゃんの布団に寝かせてもらった。この布団を使っていいのかなあと思いつつ、まあ何とかなるやろう、直ぐに布団に包(くる)まった。枕元には、革マルのヘルメットとジャンパーを置いた。福は卒業後、秋田市役所に勤めている。

私が学校に入るために田舎を出る時、父も母もそんな大仰な忠告はしなかったが、私の頭の中に深く刻み込まれたのは、母が何気に零(こぼ)した言葉でした。それは、「タモツ、お兄ちゃんがこの家を守って頑張っているので、お兄ちゃんが困るようなことだけはしないでくれ。何をやってもいい、偉くならなくてもいい、お金持ちにならなくてもいい、だけど、警察だけにはお世話にならないようにしてくれ」だった。

何時間眠ったのだろうか、アパートの玄関が開く音で目が覚めた。福の母親が秋田から何かの用事でやってきたのでした。どうして、こんなに早く秋田からやって来たのだろうか、と不思議に思ったけれど、それ以上考えは及ばなかった。実際、私は時間の感覚がなかったのだ。福に、私のことをこの人は誰だ、と秋田訛りで聞いていた。福は睡眠はたっぷりの様子だった。それから、数分後、福の母親は私の枕元にやって来て、ヤマオカさん、起きなさい、何ですかこれは、ヘルメットを指差していた。催涙弾を受けたジャンパーを手にぶら下げていた。

それから、福の母親にこっぴどく説教を受けた。私は、畳に正座をさせられた。あなたのお母さんは、こんな息子を見たらがっかりするよ、昨夜は何があったの、田舎から勉強しますと言って出てきたのでしょ、ヘルメット被って角棒持って暴れたってしょうがないでしょ、勉強もしっかりやってないんでしょ、サッカーだって真剣にやってるの、私の息子に変な知恵を仕向けないで。よそのおばさんにこれほど怒られたのは、生まれて初めてだった。福の母親は、福の汚れ物と私のジャンパーからズボンからシャツも一緒に洗濯機に入れて洗い出した。やっと説教から解放された。雨戸が全部開けられた。夜は小雨が降っていたのに、外は雲ひとつない晴天だった。太陽が眩しい。頭が痛い、体がだるい。これ以上布団のなかには居られない雰囲気、気まずい感じ。しばらくして、福が学校に行って、私は福のトレーニングウェアーを借りて、東伏見の私の下宿に帰ることにした。

啓(福の名前)ちゃん、お姉ちゃんはどうしたの?福の母親は自分の娘の動向のチェックも怠りない。我が子の動静調査だったのかな。友達の所へ行ってくると言って昨日出かけた、と報らされた母親は、機嫌が悪かった。

福のお母さんは、ヤマオカさん、秋田に遊びにいらっしゃい、キリタンポを用意しておくから、ナマハゲも見物できるからね。翌年、秋田に遊ぶに行って、大いにご馳走を頂きました。

このような、私の1970年の10,21(ジュッテン・ニィイチ)でした。

 

2010年2月19日金曜日

記憶に留めよう、小沢の「???」

東京地検特捜部は、民主党幹事長の小沢一郎の資金管理団体の政治資金偽装記載で、元秘書で衆議員の石川知裕を逮捕起訴した。元会計責任者の公設第一秘書の大久保隆規と、石川元秘書の後任の池田光智秘書も起訴された。この三人と共犯者として告発された小沢は不起訴になった。

小沢は、政治的、道徳的、管理責任は感じているとしばしば発言している。雇用主、代表者責任もあると思うのだが。小沢幹事長の口元から発せられる言辞は、彼が喋れば喋るほど、疑惑が深まるばかりだ。国民は、こんなに頭にきているのに、当の本人はいたって平気を装い、強気で乗り切ろうとしている。

この小沢の行動に根に持つ俺は、この一連の事件を記録しておかなくちゃと思っても、自前で文章にして残すことはなかなか難事なことなのです。そんな時機、当を得た産経新聞の記事を見つけた。この男の生き様を、私の中で風化させないように保存しておかないとイカンと思っていたのです。

幹事長の小沢のことを書いてみて、やはり党首の鳩山由紀夫の奇天烈なお話も追記して置かないと気がすまなくなった。これも不思議なお話です。鳩山由紀夫首相の資金管理団体「友愛政経懇話会」をめぐる偽装献金問題で、鳩山の実母が息子から何も言われていないのに、息子に何も言わずに、月々1500万円を6年間11億円を資金管理団体に支払われていたというのだ。そのように母が支払っていたことを鳩山本人は全然知らなかったというのです。そんなことって、ホンマにありか?そのうちの1億円を公設第一秘書は偽装献金に回していたというのである。この鳩山のことも、忘却の果てに、追いやってはイカン。

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20100125(月)

産経新聞

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自らの資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる政治資金規正法違反事件で、東京地検特捜部の任意聴取を22日に受け、その直後に会見し、事件について初めて語った民主党の小沢一郎幹事長。だが、その説明には随所に不自然な点がみられた。わずか20分余りで一方的に打ち切られた会見。当初「政治献金」としていた問題の土地購入原資の説明は、その後「融資」に変わり、会見では「個人資金」に。こうした説明に象徴されるように、事件への疑問はいまだにほとんど解消されていないのだ。

「(秘書寮建築のため)土地を購入することを決め、私の個人資金を陸山会に貸し付けたことが事実のすべて」

小沢氏は会見の冒頭、こう語り、ゼネコンからの裏献金の疑いがある陸山会が平成16年に購入した土地代金の原資について、自己資金であると強調した。報道陣には原資となった4億円の出どころについて書面を配布した。

それによると、①自宅を買い換えた際の残金で、元年に引き出した2億円 ②家族名義の口座から9年に引き出した3億円 ③同じく14年に引き出した6千万円ーーの計5億6千万円だったとし、これらを個人事務所の金庫に保管。土地購入時には4億数千万円が残っており、このうち4億円を貸し付けたと主張した。

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それでは、疑問①

《多額の資金を引き出して、手元で保管したのはなぜ?》

小沢氏側の関係者は、9年の引き出しについて「バブル崩壊で銀行破綻が相次ぎ、ペイオフ(預金保護)解禁の論議が出たため」と説明するが、バブル絶頂の元年に引き出した理由は不明だ。

総務省統計によると、当時の定期預金金利は4%以上。2億円の預金で単純計算すると、利息は年間800万円に上がり、5年間預けておけば4千万円以上の利息を受け取れたはずだがーー。

小沢氏は問題となった土地以外にも、妻名義で2つの不動産を購入している。

登記簿によると、7年5月に自宅近くの秘書寮用地を購入。この際、土地と建物を担保に銀行から2億3500万円の融資を受け、利子を含め約2億6千万円を11年5月までに返済していた。

その3ヵ月後の8月には自宅隣地を購入し、土地と建物を担保に3億5千万円の融資を受けていた。19年3月までに返済したが、総額5千万円余りの利子を支払った計算になる。

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疑問②

《多額の手持ち資金がありながら、利息を上回る金利がかかる融資を受けて土地を購入したのはなぜ?》

小沢氏は、問題の土地購入時に4億数千万円が残っていたとするが、17年3~5月にも小沢氏の資金4億円が陸山会の口座に入金され、すぐに同額が引き出されるという不自然な動きがあった。4億円を土地代金に充てたため、小沢氏の手持ち資金の残高は数千万円しか残っていないことになるが、17年の4億についてはどう調達したのか。

最も不可解なのは小沢氏側が当初、定期預金を担保に銀行から小沢氏の名義で受けた4億円の融資を土地代金に充てたとしながら、実際には「小沢氏が貸し付けた資金」で支払った後、関連政治団体から集めた約1億8千万円と陸山会の資金で4億円の定期預金を組み、不必要な融資を受けていたことだ。

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疑問③

《土地代金の原資として4億円を陸山会に貸し付けておきながら、さらに4億円の融資を受けたのはなぜ?》

小沢氏は融資書類に署名しながら「具体的な事務処理について関与していない」と説明。署名した理由については「以前に陸山会が不動産を購入した際にも金融機関から個人での借り入れを要請されたことがあり、秘書から頼まれて、そういう理由からと思って署名した」としている。

小沢氏は土地代金の原資4億円の貸し付け理由について「関連政治団体からかき集めれば何とかなるが、そうすると各団体の活動費がなくなるから」と説明した。しかし、実際には不必要な定期預金担保の融資を受けるために、約1億8千万円の資金を各団体からかき集めていたようにも見えるがーーー。

2010年2月17日水曜日

ソの宮参り

20100214(日)

ソの宮参り

11:30~

住吉神社(福岡市博多区住吉町)

神事を司ってくれたのは、当神社の神主=H・宗氏でした。

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(ソと、ソの両親、ソのジジババ4人と神主=宗氏)

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14日、私たち夫婦は羽田を7時35分発の福岡行きスカイマークで飛び立った。長男夫婦に初めて生まれた女の子・ソの宮参りのためだ。私にとっては、三番目の孫になる。機中からは、眼下一面、雲海で何も見えない、上空はきれいな青空だった。雲海の上に、富士山が忽然と現れて、三合目辺りから山頂にかけての山容がくっきりと真っ白に見えた。噴火口がこんなに真上から見えて、窓際の妻は痛く感動していた。私にとっても初めて見る光景だった。今までも、これからも富士山は日本の厳然たるシンボルだ。フジヤマは神々しいばかりだ。日本に富士山があってよかった、と思う。

往き帰りの機中で、大江健三郎の「新しい人よ眼ざめよ」〈講談社〉をなんとか、半分までは読み終えたいと思っていたので、窓の外のことには目もくれないで本に夢中になった。琵琶湖の上を通った時にも、妻は私に報せてくれた。私の生まれ故郷は、琵琶湖から流れ出る瀬田川の下流だ。生家の辺りは見当がついた。それからは、ただ雲の中を飛び続けた。見えるのは雲ばかり。福岡に近づいて、高度を下げると、雲り空にけむる福岡の市街と海岸線が見えた。海岸線には埋立地と思われる造成地が広がっている。会社では社員が一所懸命働いている。そんなことを思うと胸がチクチク痛みはすれど、やはり私事といっても祝い事だから自ずと気が緩む。

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福岡空港からタクシーで直接住吉神社に向かった。住吉神社に10:30頃着いた。広い境内には大木が何本も茂っていて、敷地には細かい砂利が掃き清められていた。先ず驚いたのは、結婚式や宮参り、厄除けと思われる参詣者が多いことだった。大安だったこともあるのだろう。住所は福岡市博多区住吉3丁目だ。

早く到着したので、境内をうろうろしていたら、この神社に奉職中の神主さんで、私たち夫婦の長男・草の嫁・元さんの兄・宗さんが、私たち夫婦を見つけて近づいてこられた。私は、今日のことでお世話になること、明日のことは大層おめでとうございます、と挨拶を交わした。

ここらで、何故九州の福岡の博多の住吉神社で、長男の子どもの宮参りをすることになったのか、説明しなくてはならない。長男の嫁・元さんの兄・宗さんが、この神社で奉職中だとは先ほど記したのですが、そのお兄さんが明日、ここで、この神社にかって勤めていた女性と結婚式を挙げるのです。その式に列席するために、息子夫婦はここに来なくてはならない。それならば、お兄さんに宮参りの祈祷をやってもらおうじゃないか、ということになって、我々夫婦も来ることになったのです。私は宮参りとお食い初め、それと最近我が家に忍び寄ってくる”松っつん”との食事に、妻は、それ以外に明日結婚式から披露宴までの間、孫・ソの子守役を買って出たのです。

明日新郎になる神主は、足腰が弱っている妻には控え室を案内してくれて、私には神社の建物や歴史のことを色々話してくれたのです。

話してくれたことと、パンフレットなどから得た住吉神社についての情報を少し纏めておきたい。筑前一の宮だ。底筒男命(そこつつのおのかみ)、中筒男命(なかつつのおのかみ)、表筒男命(うわつつのおのかみ)の住吉三神を祭神としている。「筒」は星を意味するとか、何かで読んだような気がする。日本全国に約二千社ある住吉三神を祀る神社の中で最も古い神社であるとされている。現在の全国の住吉神社の総本社は大阪の住吉大社である。大阪の住吉大社、下関の住吉神社、博多の住吉神社の三社が日本三大住吉とされる。本殿と拝殿とは、25年ごとの式年御遷宮(せんぐう)が行なわれることになっていて、平成22年の10月にはその遷宮大祭がある。本殿は16??年に黒田長政公による建立、建築様式は「住吉式」、福岡県の重要文化財に指定されている。

伊勢神宮も御遷宮の準備をしていましたよと彼に話したら、伊勢神宮は20年ごとに完全に建て替えるのですが、それは大変な工事になるので、住吉神社では25年ごとに立て替えるのではなく、大規模な修繕、修理や模様替えをすることにしているのです。今はその工事の最終的な仕上げの状態のようであった。そのために、祈祷などは拝殿の前に仮の拝殿を設(しつら)えて行なわれていた。遷宮が終了したあかつきには、この仮の拝殿は移築されて神輿を仕舞いこむ倉庫になるとのことだった。

今日も参拝客は多いのですが、昨日の方が結婚式が多かったのです、と仰った。昨日は土曜日で先勝だった、遠方からのお客さんを呼ぶには好都合だったのでしょう。神社で働いている人は、アルバイトの人もいるのですか、と尋ねたら、全部職員ですとのことだった。他人事ながら、みんなに支払う給料のことなどを考えてしまった。

能楽堂は、近所の人たちが能の練習に使うことが多い。以前に野村万何とかさんも演じたこともあったのです、とのこと。若者用のミュージック大会やお笑い大会、演芸会なども催される。福岡県の重要文化財に指定されている。

土俵。今回の主役の一人、孫・ソの出生した当日(20091108)には、今の横綱の白鳳が土俵入りをしてくれたのですよ、と仰っていた。奉納土俵入りだったのでしょう。

 

無事に生まれた感謝と健やかに成長することをお願いしました。

H・宗氏によって、宮参りの神事は執り行われた。同時に4組が祈祷を受けた。赤ちゃんを抱くのは、赤ちゃんの父親側の祖父母の何れかが抱くことになっているようです。神様の世界では、お産をした母親は穢(けが)れているとみなされているようです。私見ですが、この儀式が滞りなく済めば、この神の霊域から遠ざかれば、もうそれはどうでもいいことなんでしょうが。神は、神ゆえにいつも、古めかしいことを言いなさる。ここは、黙って従いましょ。

住吉神社の神楽と巫女さんによる舞を披露してもらった。太鼓、横笛、謡いはH・宗氏が担当された。拝殿の前で全員で何枚も何枚も記念写真を撮りました。

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12:00~。ホテル・日航福岡で、「お食い初め」だ。子どもが一生食べ物に困らないように願う儀式のようです。私は初めて知ったのですが、宮参りの主人公・ソに石を噛ませるのです。何故石なのか、このことについて詳しくは分らない。後日学習すること。このとき、ベイビーはお母さんのおっぱい以外の食べ物を初めて口にする、ということ。実際には食べることはできないので、食べたことにするだけです。大人たちは大いに食し、鯨のように酒やビールを飲みました。さらに充分親交をあたためました。

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私と妻、息子・草と、私の四番目の子ども=三女に忍び寄る男”松っつん”、この四人で、宿泊先のホテル・ニューオータニ博多の近くで、18;00から飲んだ。

松っつんが去年から博多で働いているので、俺たちが福岡に行くことを前もって報せたら、是非一緒に食事をしたい、私が安くて美味いところを探しておきますと、請け負ってくれた。モツ鍋だった。彼は職場から自転車でやってきた。店を出た頃は小雨が降っていたが、若者はそんなことにはお構いなしで、傘もささず闇に消えていった。社宅を追い出されるのでアパートを探さなくっちゃと言っていた。彼は、新進気鋭の社長が張り切る服飾メーカーの誇り高い社員だ。この会社の社是(しゃぜ)が、格好いいのです。私も気に入っているのですが、ここでは差支えがあるので公開は遠慮します。

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翌日15日、福岡発07;10のスカイマークで、羽田には9時頃着いた。会社での10:00から打ち合わせに間に合った。

妻は、息子夫婦が結婚式に参列、披露宴で美味しいお料理を食べている間、孫の子守をしながら、松っつん紹介の博多人形店へ出かけ、長女の住宅が今年8月に完成する、その新築祝いに人形を買ってきたと言っていた。

2010年2月10日水曜日

葱(ネギ)で、血がさぁ~らさら

自分の健康については無頓着で、無配慮なこの私なのですが、ここに至って、体を気遣うようになったのは、やはり歳(とし)のせいだろうか。健康な体を気遣うと言ったって、さりとて、特別なことをしているわけではない。

健康に気をつけているその一つは以前のように酒の馬鹿飲みをしないこと、その二は睡眠時間をたっぷりとること、その三はよく歩くこと、その四は肉や脂類をできるだけ摂取しないこと、で、そして最後は葱(ネギ)をちょっと多い目に食うことなのです。まさに平凡な養生方法です。

この文章を綴る気持ちになったのは、下の天声人語に触発されたからです。私とネギのことを思いつくまま綴ってみた。

生家の周りの畑には、一年中ネギが植えてあった。なかでも、晩秋から初冬、夜露が降りる頃のネギは柔らかくて美味しかった。すき焼きや鍋物には欠かせなかった。家族の誰もが、すき焼きの肉にはいつまでも箸をつけないのに、ネギや白菜の葉物にはシャブシャブの感覚で、入れては直ぐに箸をつけたものです。ヌタ(ヌタってどんな言葉を使うのだろう)も好きだった。ヌタって皆さんはどんな料理かわかるだろうか、解らない人はメールをください。学校に入るために43年前に東京に来てから、大衆食堂などでも見かけたことがない。丁寧にレシピを家人に作ってもらいますから。ネギは朝昼晩の食事には、必ず何かにして食っていた。

多分、我が家でこの時期に収穫するネギほど美味なるネギは他所にはない。間違いなく40~50年前までは。日本中で私たち家族以外に、これほど美味なるネギを食した人はいなかったのではないか。鳥渡(ちょっと)、言い過ぎかなとも思うが、私の父のネギの育て方が、完全に違ったのです。

春に種を蒔いて小さく育った幼苗を、適度に間隔をおいて植えます。大きく成長して葱坊主ができると緑の部分を切って捨て、白い部分と根を掘り起こして夏頃まで小屋の軒先などにぶら下げて乾燥させておくのです。そして盛夏に、その乾燥させてあった根を植えつけるのです。このように栽培した方が、緑のサヤの部分に栄養がいっぱい蓄積されるのだと、父に教わった。宿根草なのです。その根から新しく緑の部分が成長してきたころに、夜露が降りるのです。これを、私たち一家は頂いていたのです。恒例で開かれる農業協同組合主催の農産物の品評会において、父が出品したネギは、常に上位にいたが、優勝したことはなかった。父は、悔し紛れに、見た目ばかりで比べてもアカン、味を確かめてから最終的に判断して貰いたいと言っていた。子ども心に、父の言っていることは正しいと思った。ネギ以外にも、牛蒡(ゴボウ)でも毎年表彰してもらっていた。

             Allium fistulosum

食物としてのネギにこれほどまで、関心が深まったのには、子どもの頃の影響もあるのでしょうが、ここにきて、又、私の体がネギを欲しがってきたからです。

誰かからアドバイスを受けたわけではないし、何か著作物から知識を得たわけではない。まして、テレビやラジオから情報を得たわけではないのですが、10年程前、50歳になった頃から、今回のテーマであるネギのことを、私が子どもだった頃の大人たちと同様に意識するようになった。郷里で過ごしたときと同じように、ネギを体が求めだしたのです。それも、突然急に、強烈に。納豆に混ぜて食べるときのネギの量が、気がつかないうちに日に日に多くなってなってきたのです。朝飯の御膳には、昨晩のオカズの残りと、納豆とそれぞれのパックに入った刻んだネギ、塩昆布、漬物が並べられている。朝めしに関しては、家人はパン党、私はご飯党なのです。

先ずは納豆から手をつける。茶碗に納豆を入れて、そこにネギを山盛りに入れて混ぜるのです。私は何年か前から、大人用ではなく、女性用の少し小さめの茶碗を使っているのです。小さめの茶碗にいっぱいになった納豆とネギとご飯を300粒程と混ぜ合わせるのです。それをよく噛んで食べるのです。この習慣が、どうも体にイイようなのです。ネギは、子どもの頃の摂取量と同じ位になったのだろう。

このように納豆と多い目のネギの練り合わせを食い出してから、体の調子がイイのです。何故、そんなにイイの?なんて聞かれても返答できないのですが、兎に角、イイのです。血が、血流が、血の巡りがイイようなのです。私の体のこんな状態を、ある日横須賀で酒を飲んでいた友人に話したら、私はそれが玉ネギなのよ、と聞かされた。どちらもネギ。ネギと玉ネギだ。きっと、共通の成分が含有しているのでしょうか。今度は玉ネギの研究が課題になりました。後日、学習することを誓います。血の巡りの良さこそ、体に抵抗力をつけるための基礎ですから。それに、リンパの流れにも必ずイイ影響が出ることになるだろう。

私は、理屈抜きで、血の巡りがイイと体感しているのです。

少し前までは、会社でラーメンを食べる時には、ネギ大盛り。外食するときはネギラーメン。この頃は、昼飯代を削る為にスパゲッテイやラーメン、うどんに蕎麦が多いのですが、具なしでひもじい思いをしているのですが、いつか余裕が出てくれば、ネギをふんだんに使った料理を作ってみたいと、虎視眈々、その時期が来るのを待っている。

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★ネットで得た豆情報

ビタミンA、B、C、カルシュウム、カリウム、鉄、など栄養素が多く含まれている。魚や肉の臭みを消す役割もする(ラーメン屋さんがスープを作るのに、ネギがスープ鍋に入っているのをよく見かけた)。におい部分の「硫化アリル」は高い殺菌力とビタミンBとの相乗効果で、疲労回復、糖質の分解と吸収を助け、滋養強壮に効果がある。漢方では、体内の保温効果、発汗作用があることから、初期の風邪の治療によいと言われている。

 

 

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朝日・朝刊

天声人語

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岡本眸(ひとみ)さんの句に〈葱焼いて世にも人にも飽きずをり〉がある。ネギは焼いてうまくなる野菜の一番かもしれない。ぬらりとした薄皮や髄のあたりから甘みがとろけ出し、生きる喜びさえ教えてくれる。

本来、薬味となる尖った食材である。火を通すだけでこれほど化けるものかと思う。ツンからデレへの変わりようは、どこか仕事も遊びもいける人のようで、できる野菜と呼ぶにふさわしい。しかも風邪に効くとされている。

富山大大学院の林利光教授らが、ネギの「薬効」が本当らしいと突き止めた。A型インフルエンザに感染させたマウスの実験で、ネギの抽出物を与えてきた一群は、そうでない群に比べウイルス量が3分の1に抑えられたという。抗体の量は逆に3倍近かった。

林教授は「ネギの成分のどれかに、予防的に免疫力を高める効果があるのでは」と語る。大衆が頼りにしてきた言い伝え、信じるに足るらしい。寒さに弱いチンパンジーにネギを食べさせている動物園もある。

「おいしい良薬」はそうはない。どの成分がどう効くのか、難しい話は先生とネズミにお任せするとして、この時期、ネギ三昧というのも悪くない。白も青も旬は冬。群馬の下仁田、京都の九条、いずれも寒さで滋味(じみ)が増す。

同じ季語にも、俳人の感性は別のひらめきで応える。黒田杏子(ももこ)さんは〈白葱のひかりの棒をいま刻む〉と料理した。月が替わり、寒の谷もあと二つ三つというところか。名のある産地であろうとなかろうと、店先の「光の棒」たちがこぞって輝く季節である。

2010年2月3日水曜日

小林繁投手 追悼

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巨人、阪神の元投手で、現日本ハム1軍投手コーチの小林繁氏が17日午前11時頃、福井市内の病院で心不全のため急死した。57歳だった。巨人のエースとして活躍していた同氏は「空白の一日」としてプロ野球界を揺るがした江川事件の”犠牲”となる形で、1979年2月にトレードで阪神に移籍。引退後は近鉄、韓国・SKでコーチを務め、09年から日本ハムで投手コーチを務めていた。春季キャンプを目前に、現役コーチが57歳の若さで波瀾万丈の人生に幕を下ろした。(18日のスポニチより)

この訃報を聞いて、私は自分のことをヤバイっと思い当たったのです。この江川騒動では、瞬間湯沸かし器のように、巨人の横暴、江川家の身勝手さ、コミッショナーのなんとも見識の低さに怒った。江川陣営のことばかりが怒りで頭がいっぱいだった。私が、その怒りド心頭、狂ったように怒っているうちに、亡くなった小林投手がその後築き上げた偉大な記録に感心することもなく、記憶の果てに追いやってしまっていた。

作新学院を卒業した頃は、大学ならどこでも受け入れてくれるだろう、それが早稲田であろうと慶応であろうと、入れるものだと思い込んでいた。私の価値は相当なもんだと自惚れていた部分もあったのだろう。まだ、少年から大人になりかけの未成熟な年齢なら、しょうがなかったとしよう。最初は、入る大学のブランドを求めたが、慶応入学は叶わなかった。次に求めたのは,所属球団だった。当時、人気では他球団を圧倒していた巨人でなければ、ならなかったのだ。そんな一途な気持ちが、その気持ちを利用した各欲望諸氏に踊らされてしまった、と言うことだったのでは。

トレードを宣告された小林投手は、けなげに巨人を去り、その年には22勝を挙げて最多勝だった。そのうち対巨人戦では8勝もしているのです。そして二度目の沢村賞を受賞した。一度目は巨人にいたときに受賞している。プロ野球の世界では、江川は、小林の記録を超えることはできなかった。このことも、江川は苦しかったことだろう。

この小林投手の頑張りを、江川!!お前なあ、わかっちょるか?

ところが、江川は解っていた。歳月が知恵をもたらせたのか、知性を磨かせたのか、私の思い過ごしだったようだ。江川は、アホではなかった。よく解っていた。自分の弱さに目を瞑り、都合主義に便乗した軽薄さ、金に目がくらんだ卑しさ、そんなことを自省したのだろう。後になって、江川はこの問題に触れられる度に、慎重な言葉遣いをした。今回、小林投手の死を知らされた江川は、礼を尽くした言葉で哀悼の意を表した。「申し訳ないという気持ちは、僕の中では終わってない」

 

空白の一日

1978年秋のドラフト会議前日、巨人は浪人中の江川卓投手と契約。江川の交渉権は前年のドラフトで指名したクラウン(現西武)にあったが、当時の野球協約ではドラフト前々日に交渉権が切れるため、巨人は会議前日を「空白の一日」としてどの球団とも契約可能と主張した。これは無効とされ、巨人が欠席したドラフトで阪神が江川を1位で指名。巨人はドラフトの無効を訴えるなど混乱が続いたが、当時の金子コミッショナーが「強い要望」として、阪神がいったん江川と契約して巨人へトレードする案を提示。両球団が応じ、巨人から小林投手が阪神へ移籍した(この記事は、朝日新聞18日のスポーツより)

 

1978年、法政大学を卒業した江川は、1位指名したクラウンライターズとは、九州は遠いとか何とか言っちゃって、交渉には応じないで、作新学院職員という身分で野球留学した。何故なら、大学から社会人野球に入団すると最低2年間はプロ野球に入団することは許されていなかったからだ。

「空白の一日」と言うのは、入団交渉が前日まで続いていた場合など、交渉していた場所が遠隔地だったり、また天候の変化などにより、関係者がドラフト会議に出られないことが起こり得ることも考慮に入れて、ドラフト会議のための準備期間として用意したもので、通常ではその空白の一日に行動を起こすことは考えられなかった、が江川・巨人連合は、なりふり構わず行動した。結果、江川は巨人と契約したのでした。

それに、当時はドラフトの対象者は「日本の中学、高校、大学に在学している者」と規定されていて、江川は法政大学を既に卒業しており、在籍ということではどこにも籍を置いていなかったので、ドラフトの対象外でもあったのです。

巨人のオーナー正力亨は傲慢にも、江川との契約を正当性のあるものだと主張したが、セントラル・リーグ会長の鈴木龍一は、巨人と江川の契約を無効であると裁定した。

それからが、腑に落ちない。

日本野球機構コミッショナーの金子鋭が動き出した。江川の父親、巨人の正力亨、作新学院の理事長・船田中とその秘書・蓮実透らが、鳩首、悪巧みを図ったのだ。裏側では、読売ジャイアンツは江川の親に、東京で住宅もプレゼントをするなんてことを約束していたとも聞いている。

★2007 秋。二人は清酒のテレビCMに共演した。

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(200709 テレビCMで共演)

そのコマーシャルフイルムでは、二人が和解の握手をしながら会話を交わすのです。「申し訳ありませんでした」と江川。小林が笑顔で「君が謝ることないよ」と応える。それから、小林は、「お互いしんどかったなあ。だけど、あの事件はお互いの体に一つのパーツとして埋め込まれたまんまだ。死ぬまで、もっていくしかないよな」。江川は深く肯いた。この二人の会話は、二人の心境を察して誰かが作ったのだろうが、実に当を得ていて、二人は充分満足しながら演じたのだろう。