2009年12月31日木曜日

たかが歯ブラシ1本と、バカにすな

毎年、六月の虫歯予防週間に入ると、私が虫歯にならないために工夫していることを、そのささやかな心がけをみなさんに紹介したいと思うのですが、今まで、思ったときとキーを叩くタイミングが合わなかった。そして、半年遅れなのか半年早い目なのか、正月休日を利用して、虫歯予防セミナーを開くことにしましょう。一言で言えば、虫歯の予防は、あなたとあなたの歯とのバトルなのです。勝つか、負けるか。あなたが勝てば虫歯にはなりません。それじゃ、何に勝てばいいのかを、そのことについて話すことにしましょう。

講師は、61歳になるまで虫歯になったことは1度もなく、当然歯医者さんにも行ったことのないヤマオカです。それでは、徒然なるままに講義に入りましょう。

私には現在でも、1本も虫歯がありません。そのことには理由というか根拠があるのです。私の生活の歯に関する部分=「私の歯との暮らしぶり」を紹介することにしましょう。

 

①子どもの頃、オヤツは昼間だけ。

私は貧乏な百姓の三男として生まれました。貧乏だったので、家庭にはお菓子類の買い置きはなく、オヤツと言えば、お餅やオカキ、団子、トウモロコシ、乾燥芋、干し柿でした。何もないときには、母が大きなお握りを作ってくれて、それを頬張りながら遊びに家を飛び出していきました。そのようにオヤツは、夕食までの空腹をまぎらすためのものでした。遊びで大暴れをして、水をガブガブ飲むのですから、食べ物のカスが歯の間に残るようなことはなかったのです。まして寝る前までは、夕食に腹いっぱいにご飯を詰め込むので、オヤツなど欲しくならなかった。寝る前には歯磨きをする習慣は我が家にはなかった。歯には多少汚れはあっても、ばい菌マンが夜な夜な動き回るほど、私の口の中はそんなに楽しそうな環境ではなかったようです。

 

②小学校の歯の検査で、歯医者に注意された。

小学校の高学年のとき、講堂で全児童が一斉に歯の検査を受けたことがあった。その検査で私の歯には虫歯はないが、下の奥歯の1箇だけが、上を向いているのではなく、30度ほど外に斜めに向いていると指摘されたのです。でも、大丈夫、食べ物を強く噛むようにしなさい、そうすれば自然に歯の向きは正常になりますからと言われたのです。その後の私はそら豆や固いものを好んで食うようにした。意識して、食べ物を奥歯で真剣に噛み砕いた。イワシ、サンマ、アジ、サバまでも骨を噛み砕いて食べるようにした。大学でのサッカー部時代、皆と一緒に定食屋に入ってメシをよく食ったものですが、食い終わった時には、私の食器には骨など何一つ残されていないのを部友は不思議そうに思ったようです。その心がけは今でもしっかり続けています。先日、孫の前でサンマを丸ごと噛り付いていると、孫が、ジジイ、骨を食べると骨が丈夫になって、頭を食うと頭がよくなるんだよね、と私が教えた通りに言っていた。頭のいいジジイ思いの孫です。兎に角丸ごと食うことがいいようですぞ。

数年前のこと、何かで読んだ記憶があるのです。食べ物を口に入れてよく噛めば噛むほど、脳の活動が活発になって、結果頭もよくなるのです、そんな文章でした。立派な人がそのように述べていた。このことには、私の場合にはちょっと当てはまらないのですが。誰か博識あるお方の説明待ちにしたい。

 

③お父さんのタバコのヤニで真っ黒な歯に生理的に嫌悪した。

私の父親はヘビースモーカーで、四六時中煙草を口に咥(くわ)えていないと、落ち着かないほどニコチン中毒だった。子供の頃「しんせい」や「いこい」を夜中に買いに行かされた。父は歯を磨かなかったので真っ黒だったが虫歯はなかった。けれども、これは世にも不思議な父特有のことで、ニコチンで汚れた歯は虫歯になりやすいのです。その真っ黒な歯を見て、生理的に嫌になって、大人になったら煙草は吸わないようにしようと、幼心に決めていました。そして歯を磨くのはサボってはいけない、と思い続けてきた。私の父が死ぬ時は、その死因は肺ガンだろうと思っていたのですが、胃がんから色んな臓器に転移したけれど、肺までは侵蝕しなかった。

余談ですが、父が死ぬ1年前に、私の息子がオーストラリアの大学に留学していたものですから、父を連れてオーストラリアに旅行に行った。通りで煙草を吸いたがる父を、みんなが集まる場所では煙草を吸いたくても遠慮しなくちゃいけないんだよ、誰も煙草など吸っている人がいないでしょ、と納得させていたのですが、ところがどこでも行儀の悪い奴がいるもんで、堂々と吸って歩いてる人を見つけてニタッと笑い、そして俺に怖い顔をして、俺にも吸わせろうと怒っていた。

ニコチンで汚れた歯を嫌悪する感覚を磨きなさい。汚い歯を、他人に見せたくない、と思う心が、歯とあなたの激烈なバトルを維持できるのです。

 

④少女雑誌「明星」の広告に影響を受けました。

当時の少女雑誌「明星」などには、アイドルの歯のように白い歯は如何に格好いいか、という広告が出ていた。それはチューブに入った特製の練り歯磨きの宣伝だったのです。その宣伝広告が目立ったのは、私が中学生から高校生になる頃で、異性を意識しだした第二次性徴期だった。女の子に嫌われないように、好かれるために、歯を磨かなくてはイカン、と思った。実は、私にも前歯の一部に黄色い部分があって、悩んだ。これが原因で女の子にもてないのではないかと。

けっして現在の私の歯が綺麗ではないが、気にすることは必要なことだ。他人の目を意識しなさいってことだ。そんな私だから、自分の顔は2ヶ月に1度1000円カットに行った時に目の前の鏡で見るだけだけれど、歯は一日に1度は必ずチェックします。

 

⑤一度も歯医者に行ったことがない、と友人に話したら、友人は私を化け物のように俺を見た。

大学に入った。クラブの関係で強制的に寮に入れられた。一つの屋根の下で、長くみんなと寝食をともにすると、生活のあれこれを話すことになるのですが、何かの拍子で、私は一度も歯医者さんに行ったことがないと言うと、聞いた友人は私のことをまじまじと見つめ、私を不思議な動物でも見るような顔をしたのです。お前、それは凄い、お前は珍しい奴だよ。そこで、私は始めて自分の歯が人並み以上に丈夫なのだと気付いたのです。ならば、一生懸命に手入れをしよう、と決意した。

 

歯を治してからお嫁さんに来てください。

恋愛をした。俺のお嫁さんになってくれ、でも、ちょっと待って、俺のお嫁さんには傷モノで来てもらっては困るので、ちゃんと歯を治療してから、お嫁さんに来てくれと、彼女に頼んだ。彼女は言われなくてもそのようにする心算だったようで、少し気分を悪くしたようだった。女房でもない他人に対して、歯を大事にしてくれとは、なんという失礼な奴だと思ったのかもしれない。でも、私にとっては、健康であるためには、その入り口である歯が何よりも大切なのだと確信していたのです。

そして30年後、息子が嫁をもらうことになった。初めてお会いした娘さんは将来の息子の嫁、歯並びの矯正中だった。矯正する刃金のようなものを歯にはめ込んでいた。なかなか気の利いた女性だと安心した。結婚を前に、歯並びと言えども、歯の治療に精励しているなんて立派だ。私の家人もやはり、歯の治療をしてからお嫁さんに来たのは、前の方で述べた通りだ。

 

⑧歯は意志を表す。

目はその人の心模様を表すという。心の窓だ。それじゃ、歯はどうか。歯はその人の意志を表すものだと思ってきた。悔しい時、踏ん張る時には上下の歯を強く噛み合わせた。そして歯軋りもした。奥歯を噛みしめた。前歯は犬のあまがみのように、何かを始めて感得する際に様子うかがいで、使うことがあっても、強い意志の作用点にはならない。かって勤めていた会社で、上司に意味もなく怒られた時、私は奥歯を噛みしめ、靴の中では足の指5本に力を入れて踏ん張った。自慢の奥歯は耐えられたが、古くなっていた靴下は指先が破れた。

整然と並んでいても、多少不揃いでも、歯は意志を強く表す。

 

⑨大きく口を開いて磨く。

日常の虫歯対策では、先ずは歯磨きだろう。磨く時間は、一日5分以上。2回でも3回でも、トータルの所要時間は5分以上は磨きましょう。私は一日1回、朝風呂の中でだ。風呂では新聞を40分ほど昨日の朝刊と昨夜の夕刊の読み残しを読む、そして体を洗うのが5分、それから歯を磨くのです。大きく口を開けること。大きく口を開けると、歯ブラシの角度に充分変化が与えられるからです。洗面化粧台などでは、大きく口を開けていると、大いに下品であるので、誰にも見られない浴室内がおすすめです。歯茎、歯茎と歯の間も、充分時間をかけて磨くというか、擦(こす)ることです。ハイカラに言えば、マッサージ。それから肝腎の歯本体の磨きに入るのですが、まずは気合を入れること。気合の入ってないブラッシングは、意味ない。

 

⑩歯ブラシは剛毛であること。

歯を歯ブラシで擦ることなのですが、歯ブラシが新品のうちはそんなに強く押し付けなくてもいいのですが、歯の刷毛が腰砕けになってくると、これからが大事なのです。力任せに強く歯に押し付けるのです。腕の筋肉が攣(つ)るほどに力を入れて、疲れたら休んで、また強く押し付けて磨くのです。刷毛が完全にヘタレコンデしまっても、横に広がった刷毛が歯の裏などを磨くのに丁度都合がいいのです。知恵です。

我が家では、歯ブラシの交換は頻繁に行います。家人が新しい歯ブラシに変えますよ、と言うと、これからが歯ブラシと私の一騎打ちが始まるのです。歯ブラシとのお別れバトルの突入宣言です。使い果たした歯ブラシはどうせ捨てるのですから、今までの感謝を込めて、これからの数日間を大事にするのです。歯が勝つか、私の腕が勝つか。それほど、真剣に歯ブラシと歯の格闘をするのです。私を媒介にして。そのときに、念じるのです。虫歯になんかならせねえ、と。

新しい歯ブラシの使い始めは、歯茎を傷めて血が出ることがありますが、口の中の血は直ぐに止まるので、血を見ただけで怯(ひる)んで、磨くことをストップしてはいけません。(注)です=個人差はありますので、よく考えてやってください。責任は負いかねますサカイに。

私は学生時代はサッカー部に所属して、そこで私が見出したのは走ることにしても筋肉トレーニングにしても、たまには極度に体にストレスをかけることが必要だということです。1週間の何曜日と何曜日とか、月に何回とか、半年に何回とか、通常の練習ではなくて、極度に体を追い込むことが必要だと体得してきたのです。そんな経験から、歯磨きにも言えることなのです。

社員旅行などで、旅館で泊まる際、3~4人で1部屋をあてがわれるのですが、朝、私の歯磨きの強烈さに同じ部屋の者は肝を冷やします。その激しさは、私にとっては日常的なのですが、他人には理解できないようです。用意された歯ブラシは1回きりでポイ捨てです。どうせ、1回で捨てるならばここまで酷使しないと、私は不満足なのです。

 

⑪練り歯磨きの効能は、解らない。

私はチューブに入った練り歯磨きを使っていますが、果たしてそんなに効能があるものかどうか解っていない。練り歯磨きメーカーの宣伝文句に惑わされないことです。メーカーはいつの世も過大に、誇張して広告するものです。過去の歴史からも、多少の効果があることは証明されているのでしょうが。

練り歯磨きを歯ブラシにつけて磨きだします、その後、うがいをして口の中を綺麗に洗い流します。そして、綺麗になった歯を今度は水で濯(すす)いだ歯ブラシで、もう一度磨くのです。冷たい水で濯いだ歯ブラシは、口の中でとても気持ちがいいのです。歯と歯ブラシの接する触感が、直感的で、清清(すがすが)しくて気持ちがいいのです。この気持ち!! 気持ちいいと感じることが大事なのです。くどいようですが、この気持ちよさを感じることが、歯の衛生管理の基本です。

核

⑫あなたが歯と闘う戦意を、常に高揚させていることが一番大事なのです。サボろうかとか、今日は疲れているから、なんて気を緩めたら必ず虫歯のばい菌マンがやってきます。隙を相手に見せないことです。

 

ここまで、「歯と私の暮らしぶり」を得意満面に書いてきたのですが、実は私にも悩みが生まれてきたのです。最近、上の前歯2本の間に隙間ができてきたのです。以前にも隙間があったのですが、段々その隙間が大きくなってきたように思われるのです。その隙間が段々広くなったらどうするの ? と娘から言われているのです。仕事仲間に前の二本の歯の間が、1センチも空いている人がいて、私はその人の歯を夢見て体が凍りついたことがあるのです。また、昔、大阪の漫才コンビに平和、ラッパ・日佐丸が人気を博していたことがあって、そのラッパさんの前の歯が、私の仕事仲間と同じ程隙間が空いていたのです。天王寺の亀の話をし出すラッパさんの顔も私を苦しめるのです。

それを聞いた長男は、お父さん、元(長男の嫁)が歯並びの矯正をしていたやつがあるので、それを貸してもらったら、ええよ、とぬかしやがる。

もう一人、嫌な奴が傍にいるのです。私が歯について、他人に誇らしげに喋ることに皮肉な視線で眺めている奴がいるのです。私の三女・苑です。彼女は、私の歯にはいっぱい歯垢があって、そんなに自慢しているうちに、ガッツウ~と虫歯になるからと、冷ややかなのです。この身内の敵のためにも、私は頑張ります。

本当は私も、不安を抱えているのですよ、わっ歯っハっ歯です。

 

虫歯予防は、歯とあなたのバトルです。

恩師のガン闘病に学ぶ

朝日新聞の「声」欄に、ガンなどの末期患者に対して、余命の告知をした方がいいのかしない方がいいのか、両方の意見が1週間の間をおいて別々に投書されていた。そのどちらの意見にも正しい理由があると思う。告知する患者の症状のことはもとより、患者の性格や性向を充分配慮しなければならないのだろう。本人だけではなく、家族の人たちにも考慮されなければならない。そんな内容の新聞記事を読んだ後に自宅を出て、会社に着いた。

そしたら、社員の浅が、社長、私の高校時代のクラブの監督さんが、ガンを患ってその闘病の報告会があったのです。恩師は余命4ヶ月と宣告されたのです。その報告会では、こんな話だったのですよ、とA4のペーパー4,5枚のレジメを手渡された。このタイミング、この偶然はなんだ。

このレジメの表題には「奇跡は起きるものではない。奇跡は起こすものだ。ガンなんかに負けるか」とあった。

そのレジメを読んでいて、もしも私がガンに侵され余命数ヶ月ですと宣告されたら、どのような行動をとるのだろうか、何をどうしようとするだろうか。この先生の対処療法を私は、最大に参考にさせてもらううことになるだろう、なあ!

この社員・浅の恩師は体育の先生で、ソフトテニス部の監督さんだ。クラブ活動では、生徒を暑い日も寒い日も叱咤激励、絶え間のない技術の研鑽、それを支える体力の向上、並々ならぬ練習を生徒に課して、その成果を喜びとし、生徒とともに努力を惜しまない先生のようだ。血の気が多い先生。意志も強そうだ。

あっさり、医者の宣告をハイそうですか、とは納得できなかった先生は、色んな医者に会い、自ら学習もして、自分が納得できる治療法をあれもこれも実行して、余命4ヶ月宣言に抗して闘っている。その闘病最中のドキュメンタリーです。

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浅は我が社の自慢の社員です。

高校時代はソフトテニス部で頑張ったと自画自賛しているのですが、仕事においてもなかなかの頑張り屋さんなので、きっと高校時代は、彼が言う通りだったのでしょう。その高校生の時にお世話になった、ソフトテニス部の監督さんがガンを患い、その闘病の内容を教え子に報告した。

話を聞いてきた浅が、私にそのときの報告会でのレジメを見せてくれた。そのレジメを読んで、この監督さんが仰っているガンとの付き合い方が、最もな方法ではないか、と思うようになった。その闘病記というか、ガンとの付き合い方というものを、ここに紹介したいと思った。

先ずは、監督はガンを生活習慣の乱れで起きる病気だと位置づけていることです。

ガンは遺伝にもよると言われているけれど、監督は頑なに生活習慣病だとしている。ガンは生活習慣病なので、生活の乱れを改めることが一番大事で、そのためには食事の改善、適度な運動、ストレスの解消、十分な睡眠、規則正しい排泄に心がけなければならない。

真剣に真剣な顔をしたお医者さんが、コンピューターの画面を見ながら、、余命は後(あと)半年ですよ、なんて告知したらこれは百害あって一利なしだ。事が重大だけに、告げる方も告げられる方も、真剣だ。そんな無神経な医者が多いのだ。

でも、ガンは確かにあることはあるのですが、これを対処の仕方次第では、ガンと共存しながらでも、徐徐にガンを弱らせていく方法もあるんですよ、その為には、よく考えて、あれこれ頑張ってやりましょうよ、と言われたらどうだろう。ニッコリ笑って、私たちと一緒に頑張ってみましょうよ、と言われたら、言われた患者は否応なしに元気になるでしょう。

監督は、西洋医学におけるガン治療の方法に、疑問を投げかけている。現在医療では、手術による摘出、抗ガン剤の投与、放射線の照射が行われている。ガンは増殖するので、治療はそのガンを取り除くか殺すか、弱めるかのいずれかになる。

だが末期ガンは、手術ではほとんど助からない。またガンでなくなる80%が抗ガン剤や放射線による影響で死んでいる事実を指摘している。

 

それでは、監督が行ってきた治療をレジメよりダイジェストさせてもらうことにしましょう。

●ガンに対する恐怖を取り除くには、気持ちの持ち方が大事。主たる治療方法として免疫療法を行った。免疫力を上げていけば自然退縮が可能だと知ったからだ。この免疫療法は、抗ガン剤治療をしていないことが条件だそうです。この施療に関わる医師は全て、明るい希望のある話をにこやかにしてくれた。

それでは、●免疫治療とは、自律神経にある交感神経と副交感神経のバランスを整える療法。ガンやその他の多くの病気は自律神経のバランスの乱れか起こる。特にガンの多くは交感神経優位になると白血球の顆粒球が増える。この顆粒球は体内に入ってきた細菌を食菌するがその処理に活性酸素を出し組織を傷つける。顆粒球が増えるということはリンパ球が減るということ。するとガンを食菌するNK細胞等が減りガン細胞が増え続けガンが大きくなるのです。併せて、●身体の経略に沿って磁気棒を使い、気の流れ、リンパの流れ、血の流れをよくする。監督さんの治療にあたっていた医師は●瀉血も行っていた。●磁気ベッドに寝て血流をよくしたり、●鍼灸で身体の内臓の働きをよくする。

注=瀉血とは、治療の目的で患者の静脈から血液を除去すること。

郭林新気功をした。ガンは酸素に弱いので、それを利用して身体の動きと呼吸法で行う療法。

●鉄分はガンの餌になるので、鉄剤は飲まない。

●長生医療。長生医療とは、脊髄を矯正し姿勢を正すことにより血液の流れやリンパの流れをよくする治療で、交感神経の張りをゆるめ副交感優位にします。免疫療法と同じ理論だろう。ガンを患っていて痛みのある人は、痛み止めの薬より長生医療や鍼灸による痛みを和らげる方がお勧めです。

●半身浴。1回20~30分、それよりも長く1日2回以上。血液は約1分で全身を回る。半身浴で血行をよくし血液を回せば、身体から毒素が出る。半身浴を始めたら尿が黄色くなった。毒素が出たのだと思っている。

食事。●玄米食にした。アメリカでは、ガン撲滅に国を上げて取り組み、ガンの発生原因は食事にあると発表し、●動物性たんぱく質を控え、乳製品を控え、野菜や果物を中心に変える運動を起こし、ガン患者を減らしてきた。日本人の欧米食化により、日本ではガン患者が増え続けている。先進国で、ガン患者が増えているのは日本だけだと言われている。

●ビワ葉温灸。ビワの葉のエキスを温灸器で処理し血流を良くする。自己免疫力を高める。ビワの葉にはガン細胞を殺す成分が含まれている。

●里芋シップ。里芋の粉末を水で練り特殊なシートで患部に貼る。排毒作用。

●AWG放射線療法。微量の放射線によってウイルスやガン細胞を死滅させる。

●漢方薬。主にクロレラで免疫力を上げ排毒を促す。

●玄米酵素。酵素不足を補い、便通を良くする。

●蕎麦パスタ。蕎麦の粉末をぬるま湯で練り、特殊なシートで患部に貼る。

 

監督が知り合った多くの医者のなかには、自分や家族がガンになったら抗ガン剤治療も放射線治療もしないと考えている。ガンを自助療法で治した寺山心一翁氏がかって、海外を含めて271人の医師に、「もしあなたがガンになったとしたら、抗ガン剤を使いますか」と聞き取り調査をした。すると「使う」と答えたのは、ただの一人。残り270人は「使わない」だったと言う。

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20091222の朝日新聞・朝刊の記事も、充分参考にしたい。

ガン治療に、手術、抗ガン剤、放射線以外にも補助的に行われている治療方法の紹介があった。その記事をダイジェストにした。

「リンパドレナージ」と呼ばれるマッサージのことです。放射線や手術後に発生するリンパ浮腫は、乳ガンや子宮ガン、前立腺ガン、咽頭ガンなど、さまざまなガン治療の後遺症です。体内のリンパ管の流れが障害を受けて、細菌や老廃物が処理されにくくなって発症するらしい。治療では、リンパ管をやさしく刺激しながらリンパの流れを誘導するためのマッサージをする。

その施術をする人を、リンパドレナージセラピストと呼ぶ。

この記事は放射線や手術後の施療に効果ありの内容ですが、ガンと闘っている人ならば誰にでも効用があるのではないでしょうか。

「99円」の情けなさ

先日、朝日新聞の社会面で扱った内容だ。私は、なんじゃこりゃ、と初めて知って唖然とした。その内容を、ファイルしなくてはと思いながら、何もしなかった。年の瀬の忙しさに身を委ねてしまったせいだ。そしたら、昨夜の夕刊に再びこの件を扱った記事を見つけたので、ここに転載させていただく。こんな小さな記事にも、私は異常に反応するのです。99円 ? それって、なんじゃ ? と思うのです。典型的な、役所的仕事か。それって、どうにもならなかったのか ?

方や、官房長官室の金庫には、1万円の新札が常時何億円かが入っていて、官房長官の一存で、何にでも、領収書なしで使っていい金があるというではないか。日本を訪れた外国の要人に1本何万円もするワインを土産に渡したり、国会議員が外国に視察に行く際に、餞別として30~50万円を渡していたと聞く。馬鹿なことだ。この金を使えばいいじゃないか、なんてそんな短略的なことを考えているわけでは毛頭ないが、もう少し国として考えなくてはいけないのではないか、と思う。

今年は、年越し派遣村で始まった。昨日、都では、住まいのない求職者用に国立オリンピック記念青少年総合センターに、宿泊施設(派遣村)を開村した。来月4日まで宿泊場所と食事を無償提供するそうだ、が、その後はどうなるんだろう。また、寒い路上や建物の隅っこに追い払われるのか。

そんな世情を考えて、この99円の記事を読んだ。子供の頃から貧乏だった。こんな年(61歳)になって、多少扱う金額が大きくなったけれど、生まれながら我が身には、我が精神にはお金とは縁遠いようだ。だからかこそ、お金の遣い方は清らかであって欲しいと思う。金に関して、下の記事のような、他人を馬鹿にしたようなことが起こったときには、私は狂ったように怒りたくなるのです。戦時という異常な時代に、その原因が作られた。平和な時代の今だからこそ、その不幸せな事件を極めて平和的に友好的に処理をすべきではないのか。まして、かって植民地だった韓国の、統治国に徴用、徴兵された人々に対してのことだ、国策として、最優先事項として取り組みべき問題だ。

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20091228

朝日・夕刊

窓/論説委員室から

小倉幸一

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戦時中、10代半ばで名古屋の工場に勤労動員された韓国のおばあさんに先日、厚生年金の脱退手当金として、99円が日本の社会保険庁から振り込まれた。

前にも例がある。年金加入期間などに応じて18円とか316円とかが韓国の徴用工に支払われ、あまりの馬鹿馬鹿しさに受け取りを拒否されるなどした。

ちゃんと対応できていれば、60年も前に支給されるはずのものである。厚生年金保険法などの制度上、貨幣価値を換算する根拠がないため、当時の額面通りの支払いになったという。

加入記録を探し出すといった社保庁の労も否定はしないし、言い分はあろう。だが、あまりにも杓子定規に流れる「お役所仕事」の典型ではないか。

「憤るというよりも、そんなことを飛び越えて、こっけいでさえありますねえ」と知り合いの韓国人は話す。

朝鮮半島や台湾での植民地支配、アジア侵略。そういう日本の行為に起因する「戦後処理」は十分なされたわけではない。働かされた企業に未払い賃金の支給を請求したり、過酷な労働への補償、日本という国に謝罪を求めたりするアジアの人たちは少なくない。

約15年前には、軍事郵便貯金などを持っていた台湾の旧日本軍人・軍属に対して、日本政府が当時の額面を120倍に計算し直して返したこともある。

来年は韓国併合100年だ。お隣同士のわだかまりを解いていくには、心の通った行動がかぎになる。

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29日に社会保険庁が、韓国政府に厚生年金の被保険者台帳に、戦時中の徴用などで日本の企業で働かされていたとされる韓国人4727人の記録があることが判明し、その該当者の名簿を提供した、との報道があった。

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20091230

朝日・朝刊

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韓国では盧武鉉政権下の2004年、日本の統治時代の徴用・徴兵 などの実態を調べる「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」が政府機関として設置された。08年からは、労働を強いられた本人に年80万ウォン〈約6万2千円)の医療支援金、遺族に2千万ウォン(約156万6千円)の慰労金を支給されている。

同委員会によると、16万人から「日本の工場や鉱山などに強制労働された」との申請があるが、約9割は裏づけの資料がないため、認定作業が滞っている。このため、10月下旬、ひとまず4万人分を日本側に照会した。

これを受け、社保庁は確認作業を開始。朝鮮名で246人、日本名で4642人の計4888人の加入履歴を確認した。重複分を除くと、実数は4727人という。

年金記録の確認により、4727人は韓国政府の支援制度を受給できる可能性が高くなった。ただし、社保庁は「各人の加入していた期間は調べていない」としており、日本政府に対して年金脱退手当金を申請できる資格があるか否かはわからない。

2009年12月29日火曜日

核密約文書が現存

20091223 の朝日新聞・朝刊 1面に、核密約文書が佐藤栄作元首相宅に保管されていたとの報道があった。佐藤氏の次男の佐藤信二(元通産相)により明らかにされた。この、当の佐藤栄作は米国がのめりこんでいくベトナム戦争に、どこの国よりも真っ先に積極的に全面的に支持した。その挙句、このウサン臭い男は、ノーベル平和賞を受賞した。

が、その後、佐藤栄作の化けの皮は剥がされた。

このノーベル平和賞を選考したノーベル賞委員会が2001年に刊行した記念誌「ノーベル賞平和への100年」の出版記念会見で、共同執筆家の一人のオイビン・ステネルセンは「佐藤氏を選んだことは、ノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」と当時の選考を強く非難した。「佐藤氏はベトナム戦争で米政府を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」と記し、授賞理由と実際の政治姿勢とのギャップを指摘した。また「佐藤氏は原則的に核武装に反対でなかった」とも指摘した。

この後は、全て朝日新聞の記事を抜粋、転載させていただいた。

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20091223

朝日・朝刊

社説/沖縄核密約・署名文書発見の衝撃

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核 002

 

沖縄返還をめぐる日米密約の決定的な証拠文書が見つかった。

当時の佐藤栄作首相とニクソン米大統領が沖縄返還に合意した1969年に交わした合意議事録の現物だ。「重大な緊急事態」の際は米国が沖縄に再び核兵器を持ち込むことを認める、と約束している。

この密約の存在は、佐藤氏の密使としてキッシンジャー大統領補佐官との交渉にあたった故若泉敬・元京都産業大教授が90年代に著作の中で明らかにした。しかし、日本政府は否定を続け、米国側の情報公開でも、この文書の存在は確認されていなかった。

鳩山政権は、自民党政権時代の日米の密約の解明作業を続けている。すでに、核を積んだ米艦船の日本寄港や領海通過を事前協議の対象外とする密約を裏付ける関連文書が見つかっている。だが、40年の時を経て密約そのものの文書が発見された衝撃は深い。

英文でタイプされた文書には、両首脳の署名もある。再持ち込み先として、日米合意で普天間飛行場の移転先とされ辺野古をはじめ嘉手納、那覇などの地名も挙げられている。極秘とすることも念押しされている。その生々しさには息をのむばかりだ。

東西の冷戦下で、当時はベトナム戦争が激しくなっていた。米側は佐藤氏が求めた「核抜き本土並み」返還を受け入れ、沖縄県内の米軍基地からの核兵器の撤去に応じた。その代わり、有事の際の核持込への確約を日本の首相からとりつけていた。

米国の軍事戦略にとって沖縄をどれほど重要か、そして返還後もその役割をできるだけ減じたくなかった米政府の思惑を、鮮明に映し出している。

自らの手でなんとしても沖縄返還を果たそうとした佐藤氏は、米側の要求をのみ、非核三原則との矛盾を隠すために「密約」として国民を欺く道を選んだことになる。

鳩山由紀夫首相はや岡田克也外相は、外務省の有識者委員会に密約の真相解明を委ねる考えを示した。

確認すべきは、この秘密合意が日本政府の中でどのように引き継がれてきたのかだ。歴代首相や外交当局者は国民に真実を語って欲しい。

さらに重要なのは、密約が現在もなお法的な効力を持つものなのかどうかについて、日米両政府が協議し、見解を一致させることだ。

当時と今では、安全保障環境も核兵器の運用も大きく異なる。現実問題として米国が日本に核兵器の持ち込みを求める可能性は極めて低い。しかし、だからといって密約と非核三原則との矛盾を放置はできない。同盟に対する国民の信頼も揺るぎかねない。鳩山政権の普天間移設問題への姿勢をめぐって日米関係がきしんでいる時だからこそ、賢明な対処を望む。

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〈解説〉

沖縄への核兵器「再持ち込み」をめぐる秘密合意は、ごく少数の関係者しか知らなかったとされる。若泉氏の著書によれば、関与したのは当時の佐藤首相、ニクソン大統領、若泉氏とキッシンジャー大統領補佐官の4人。今回文書が明らかにされたことで、過去の政権が否定し続けてきた「密約」の存在は動かしがたいものになった。

返還前の沖縄には米軍の核兵器が配備されていた。佐藤首相は、返還に当たって核を撤去させ、米軍基地の運用に当たっても本土同様に日米安保条約に基づいて「事前協議」を適用するなど、「核抜き本土並み」の返還を実現すると表明。政権にとって大きな政治的テーマとなる。その際に米側が問題にしたのが、紛争などの緊急事態が起きたときに「再持ち込み」が保証されるのかという点だった。

同書によれば、一連の手続きは外務省当局へも知らされずに進められたようだ。文書そのものも佐藤氏が保管していたとなれば、外務省には存在しないとみられる。

問題は「合意議事録」が日米関係において何らかの拘束力を持ったかどうかだ。まだ冷戦のさなかで、ベトナムへは沖縄から米軍の爆撃機が出撃していた。が、軍事技術の向上により、再び沖縄に核ミサイルを配備する必要性は失われていた。そうした状況の中で、佐藤氏や若泉氏は、核の撤去を実現させるには引き換えに再持ち込みを認めるしかないという「苦渋の選択」をしたのかも知れない。

現在、沖縄に核が再配備される可能性はほとんどない。

この合意がその後の政権や日米関係にどんな影響を与えたかはまだわかっておらず、改めて検証が必要となる。

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日米間の「密約」とは

①核持ち込み痔の事前協議の対象から艦船の寄港などを外す核密約

②朝鮮半島有事の際に米軍が在日米軍基地を出撃拠点として使うことを認めたもの

③有事の際の沖縄への核の再持ち込みに関するもの

④米側が負担すべき原状回復費400万ドルを日本側が肩代わりするなどの財政取り決め

の4密約の存在が指摘されている。

2009年12月27日日曜日

今年も行ってきた、「銀河鉄道の夜」

20091224   19:00

第27回クリスマス公演  

『銀河鉄道の夜』・・ケンタウルス つゆを降らせ

ブレヒトの芝居小屋

2010

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宮沢賢治=作

広渡常敏=脚本・演出

林光=音楽

文化庁「地域文化芸術振興プラン」事業

東京演劇アンサンブル・・第27回クリスマス公演

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今年も、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に行ってきた。東京アンサンブルからお知らせをいただいた時、もうそんな時季になってしまったのかと驚いた。

舞台監督の入江龍太氏に会えて、久しぶりに話す機会ができてよかった。容貌は、おやじ(入江洋祐)そっくりになってきた。次回は君のことを可愛がった西田英生を連れて来るからね、と約束した。是非、「桜の森の満開の下」がいいできばえなので見に来て欲しいとたのまれた。

昨年は一人で観に行った。一昨年は、社員全員と友人達で1ステージを貸切にしていただいた。その前にも6、7回は観ているのですが、毎年、一部に演出の変更を試みて演じられるのも、楽しみの一つでもあるのです。

ケンタウルス祭の夜、ジョバンニは不思議な旅をする。私も無理やり、そう無理やり(槍)だ、この旅に同行させてもらうことにした。

今年の仕事はほとんど終えた。事実、肝心要の問題は、処理仕切れてはいないのです。まだまだやらなくてはならない仕事を、本当は残しているんだけれども。

まあ、いいか!!っと、私も、宮沢賢治の幻想四次元の空間へ、ジョバンニとともに旅立った。

銀河の夜を走る軽便鉄道のかなたに走り出した。ここからが私が一番お気に入りの世界なのだ。

人間の愛の愛が、歴史の歴史が、友情、母や父に対する愛、犠牲愛、自然界に存する万物に対する愛の愛がーーーーーそして生命の生命が、燃えているかもしれない。化石が、夢や歴史を歌う。

真(まこと)の幸〈さち〉は、何所に、どのように、あるのでしょうか。

私の会社の会社が、仕事仲間の仕事仲間が、苦しくて堪らないことの苦しくて堪らないことが、なんだ、そんなにちっちゃな問題かと思われることの、なんだ、そんなにちっちゃな問題かと思われることが。

現実世界は、銀河の夜のかなたに広がる世界の世界の影らしいのだがーー。

私には、まだ銀河の底で、真っ赤に燃えるさそりや、さそりの歌が解らない。

カンパネルラが友の犠牲になって、死んだ。

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ほんとうにこんな、さそりざの勇士だの、空にぎっしりいるだろうか。

ああ、ぼくはその中を、どこまでも、どこまでも、歩いてみたい。

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広渡常敏

宮沢賢治の〈不完全な幻想四次元〉世界では、人々の願いや祈りによって世界が変化する。思いが実現するのだ。そして銀河鉄道の夜の彼方の四次元世界に〈おかあさんのおかあさん〉がいらっしゃる。三次元現実の〈おかあさんは病気で、ジョバンニの牛乳を待っていらっしゃる。四次元世界の〈歴史の歴史〉は三次元現実では〈歴史〉となる。どうやら幻想四次元の投影として三次元現実があるらしい。さながらマルセル・デュシャンの投影図法のようである。もしーー三次元現実の人々の願いや祈りが、銀河の彼方の幻想四次元の世界に届くならば、不動とも思われる現実も変化することができるかもしれない。このような祈りにも似たユーモラスで稚気あふれる世界像が、「銀河鉄道の夜」の基軸構造である。

檜の真っ黒に並んだ坂の道で立派に光って立っている電灯の下に自転車のスポークのように四方に伸びているジョバンニの影たち(二次元)。それらの影が地面から起き上がって(三次元となって)ジョバンニを取り囲む。ジョバンニは二次元から四次元へ出発することになる。銀河ステーションに夜の軽便鉄道の音が近づいてくるのだ。

(今年のパンフレットの中の文章より)

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ブレヒトの芝居小屋で、今年は何回目の「銀河鉄道の夜」になるのだろうか。8?、9回目か、私の頭の中もファンタジ-? よくわからなくなりました。

東京演劇アンサンブルのブレヒトの芝居小屋に行く度に、観客席から「銀河鉄道の夜」を読んだんだけれど、なかなか解りづらくて、あなたは、よく解った? などと観客席から声が漏れてくるのです。必ず、毎年のことです。お互いに、うかぬ表情で、にらめっこしながら、自分流の解釈を交わしている。それほど、この本は奥深く、哲学的で、幻想的で、愉快なのです。

20091129の朝日新聞です。

「重松 清さんと読む 百年読書会」で12月の本として宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を取り上げられていた。スクラップにして保存してあった。

その記事をダイジェストで転載させていただく。

この本についての各人各様の読後感想の違いを大いに、さらして見せてくれた。この読後感想の一つ一つが、私のこれまでの過去に感じたことと相通じることがあって余りにも可笑しかった。やっぱり私も、初めて読んだときはさっぱりつかみどころがなかった。そして、1回、2回読んだが、解らなかった。東京演劇アンサンブルの広渡常敏さんの脚本演出による「銀河鉄道の夜」を観ても、未だに全てが理解できていないのです。含蓄があり過ぎて、またまた、来年も観に行くことになるのでしょう。

母の母が、愛の愛がーーー、これは理解したのですが、、、、。

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20091129の朝日新聞より

まずは再読組の投稿を拝読していると、面白いことに気がつきました。宮沢賢治自身の夭折(ようせつ)もあってか、「青春時代の愛読書」として名高い本作ですが、じつは読み手が年齢を重ねることで感じ取れる奥行きがたっぷりありそうなのです。

茨城県の坂さんが「子供の頃は透明で壮大なファンタジーとして好きでしたが、40代を目前とする年齢になった今強く感じるのは、人が生きる哀(かな)しみと美しさです」と言えば、兵庫県の高さんは「20歳で読んだときには理解不能だったが、60歳を過ぎて読み返してみると、これは童話というより高度な哲学書ではないかと思った」、さらに福岡県の長さんは「血気盛んな若い頃には2ページも読み進められなかったが、今は一気に読んだ」---。

一方、若い世代の初読組・神奈川県の神さんは、「僕は賢治と相性がよくないかもしれない」と率直な感想を打ち明けて、こう続けて言いました。「鉄道に乗ってどこまでも行くという感覚を、現代に生きる僕たちは感じづらくなっているのではないでしょうか?」-なるほど「夜汽車」が死後になりつつある時代、むしろアニメの「銀河鉄道999」を思い浮かべた方が作品に近づけるということもあるのかも。

実際、詩情豊かなイメージをふんだんにちりばめた作品だけに、その世界を共有できるかどうかが感想の賛否の分水嶺になっている様子です。

「三度読み返したが、何が書いてあったのかさっぱりわからないし、イメージを結ぶことがまったくできなかった」東京都の宮さん。

「何度も読んだが、ヒントどころかとりつく島もないというのが正直なところである」東京都の木さん。

ただし、それは決して作品そのものへの反発や否定にはなっていません。宮さんは「皆様の投稿を読むことで学んでみよう」、木さんも「今回は自分のコメントはお手上げ。参加者各位のコメントを楽しみにさせていただく」--これぞ読書会の醍醐味であると同時に、作品に対する優しさや謙虚さが、すでにして宮沢賢治の世界に無意識のうちに包み込まれている証なのでは、とも思わされます。

東京都のほわさんの投稿は、冒頭に「なんて歩きにくい」とありました。てっきり批判のコメントだろうかと思っていたら、さにあらず。

「すごく濃密な文章、そして、鬱蒼(うっそう)としたイメージ。子ども向きとも思われるのに、その内容の濃さ。現代の小説は、これに比べたら草原をスーッと通り抜けてしまうようなもの。

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1992

広渡常敏 「銀河鉄道の夜を旅する」

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野をわたる風の音に耳を傾けて、いのちのよろこびを感じない人がいるだろうか。小鳥のさえずりを聴いてわからないという人がいるだろうか。銀河鉄道の夜を旅する人々には耳をすますとつるの声、さぎの鳴き声がきこえるし、プリオシンの岸辺に埋もれている化石のうたう声もきこえてくる。じっさい、宮沢賢治は林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりや、かしわばやしの青い夕方の風からもらった話を童話に書いたのであった。賢治のイーハトーブはこのようにしてつくりだされた。

だが宮沢賢治がおもい描いたイーハトーブの夢とは、まったくちがったかたちで歴史はすすんだ。西欧的近代科学はじぶんに適合しないものを切り捨て、排除して、近代化、工業化、都市化はほとんど行きつくところまで行きついた。歴史が排除し切り捨てたものたちの歴史だとするならば、排除され切捨てられたものたちの歴史はどこにどのように息づいているのだろうか。賢治にならってぼくらも路傍の石や並木やベンチや、とり残された路面電車や高層ビルや、曇り空を吹く風やパラボラ・アンテナを眺めて、そこからどんな話をもらうことができるだろうか。ぼくらはイルカのことばがわからないように、眼の前の木や草がぼくらに語りかけているにちがいないことばが、ぼくらにはわからない。たいへん便利なオート・カメラが発達したおかげで、眼前の風景に向かってぼくらはパチリとシャッターを押すだけだ。こうしてぼくらは風景から話をききとることができなくなっている。人間から”ものがたり”をつくる能力が奪い取られようとしている。エンピツ削り器のおかげでぼくらの手は、ナイフでエンピツをきれいに削る能力をなくしている。じぶんの手がエンピツをきれいに削れないんだと感じとる感覚さえ、ぼくらから消し去られようとしている。高度に発達した工業化社会は、経験を必要としない社会なのだ。熟練労働はいまでは家庭の台所にだけ残されている。いや、その台所さえ、経験が消去されようとしている。いまではおふくろの味はカップラーメンなのだ。

このあいだ、といってももう去年のことになるが、京都梅小路の蒸気機関車の操車場跡で「銀河鉄道の夜」を上演した。巨大な鉄の塊のようなSLが入線してくると、転轍機が鳴り、円形の転車台が軋む。ジョバンニやカンパネルラたちを乗せた台車があらわれると、見物席にざわめきがひろがった。

ーーー此処はいまは博物館だ。過ぎ去った鉄の時代の痕跡が冷えびえと息づいている。昔の姿そのままに、いまは深い眠りについた梅小路の一隅で、ぼくはあやうく感動する。

これは鉄の時代の終焉をものがたる一つの風景だ。鉄とともにこの国の近代化が推し進められた。鉄とともにこの国の軍国主義もすすんだ。そして打ち振られた日の丸の旗のなか、この機関車が出征兵士を運んだ。

この風景のなかで、ぼくの網膜のなかに傾斜角をもった第三インター記念塔のイメージが浮かびあがる。始動する鉄の時代の過激な朝ーーメイエルホリドよ、マヤコフスキーよ、あなたたちもこの風景のなかに息づいているのか。ブレヒトよ、ホルヴャートよ、ソシテエルンスト・ブロッホヨ、ノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)の闇も、この風景のなかに漂う。

そしていま、ぼくらは廃墟となった鉄の終焉の風景のなかで「銀河鉄道の夜」を上演しようとしている。宮沢賢治の四次元世界のプリオシンの岸辺に、果たされなかった約束や、人知れずもらされた吐息や、夢みられた夢の化石が埋もれている。排除された歴史の歴史を発掘する人たちの影も見えるのだ。

「銀河鉄道の夜」の上演台本を書くとき、ダダの画家マルセール・デュシャンに啓示を受けて、賢治の「おかあさんのおかあさん」をぼくはとらえた。それから影たち。桧のまっくろにならんだ坂の道で、りっぱに光っている電灯の下でジョバンニが出会う影たち。その影たちが排除されたものたちの化石ーー歴史の歴史を掘りおこしている。

蒸気機関車が回転して、まっかに照らし出され、銀河の底でうたわれる”さそりの歌”をジョバンニたちが歌う。林光によって作曲された歌はオキナワの民謡を連想させた。機関車は身を震わすように白い煙を噴出させて号笛を吹き鳴らした。人々は涙を流した。ぼくも泣いた。

この人って、可笑(おか)しいんですよ

大磯の吉田邸の隣接で、私達の会社が小さなプロジェクトを始めようとしていて、そのプロジェクト資金を金融機関から借りるために、その金融機関の担当者を大磯駅に車で迎えに来ていた。私と私の会社のスタッフは、約束の時間よりも早く着いた。私の会社の同僚・浅は、車の中で何本もタバコを吸って時間を潰ししていた。

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私は、駅前にある大磯観光協会の案内所に、かって大磯ロングビーチで一緒に働いたことのある水さんが居ることを思い出し、顔を出してみた。最初、この案内所に来たのは3年前。大磯町の年間行事を知りたくて、この案内所に飛び込んだのです。何かのために、必要だったのでしょう。その時、水さんに会ったのは偶然だった。彼の顔を見て一挙に懐かしさが溢れ出た。彼は定年後の再就職でこの案内所で働いていたのでした。数年前、息子さんはバイク事故に遭い、亡くなったと言っていた。子供を交通事故で亡くした親父の悲惨さは、想像に難くない。私は、家人に子供にはバイクに興味を持たせないようにいろいろ仕向けさせた。私もオートバイクの事故で嫌な思いをした経験から、そのように思向したのだろう。       

かっての職場だった大磯ロングビーチの関係者に会ったり、話をする機会があったりすると、その時の私の生活のあれこれを、どうしても懐かしく想い出してしまう。

大磯ロングビーチに勤務時代、今から35年前。私は学校を卒業して2年目から3年目にかけて、25~26歳だった。学校を卒業したのが、24歳だったのだ。働くことが、面白かった。仕事に関して、職場で教わること、仲間から聞くこと、先輩たちのすることを目の前にして、全てが興味津々だった。

盛夏、プールの営業中、アパートから職場まで、ゴム草履に海水パンツ一丁で出かけたこともしばしばあった。帰るときも海水パンツ一丁だったので、雨が降っても、土道の水溜りに足をとられてもジャブジャブ、平っちゃらだった。アパートは、広大な畑に隣接していた。酔っ払って、道から外れて畑に沈没したこともあった。転んだところがナス畑であったり、キューリ畑であったりで、その都度土産にナスやキューリを貰って帰った。濡れ手に粟だ、??。仕事中、体力が余っていて、縦300メートルの駐車場を皆で徒競争をした。腹筋大会もやった。二人一組になって、両手を地面についている者の両足をもう一人が持ち上げて、手押車の競争もした。エネルギーが有り余っていたのだ。誰もが真っ黒な顔に、白い歯が健康的だった。私は、どの遊戯にも競っては誰にも負けなかった。

敷地内は、道路交通法の適用外なのをいいことに、私は自動車免許証を持たないのですが、富士重工業のスバルサンバーを我が物のように独り占めした。丈夫な車だった。プール営業の準備から片づけまで、敷地が広いのでこのスバルサンバーは大活躍だった。会社の誰もが、その車のことは、ヤマオカのものだと諦めていた。そんな甲斐あって、自動車免許取得には、どこの自動車学校にも通わずに、二俣川の自動車試験場で、学科は一発、仮免は4回目、本試験は2回目で合格した。自動車免許取得に要した費用は、交通費込みで1万5千円までだった。一度でも試験に不合格になると、精神的に挫(くじ)けるものです。毎回付き合ってくれた妻の励ましで、踏ん張れたのです。絶対他人を褒めない支配人が、この件に関しては、こいつ割りとしっかりしているんですよ、と取引会社の担当者に言ってくれた。

大磯ロングビーチに配属されていた時は、売店とプールサイドのレストランの責任者をしていた。売店は、前年比1,5倍強の売上を達成した。レストランは対前年比1,3倍の売上を記録した。フジテレビの「夜のヒットスタジオ」の中継中にも、私はビールをドンドン売った。酔っ払いが発生してテレビの生放送に万が一のことが起こると、重大な事件になる可能性があるというので、支配人が私たちの売店をビニールシートで覆った。言うことを聞かない私らは、実力で阻止された。幾らでも売れたのです。

総支配人と支配人がいて、そのどちらの支配人からも可愛がられた。その一方の支配人から、酒を一晩中飲まされて、お前はどちらの言うことを聞くのか、と言われて困ったことがあった。もう一人の支配人も、同じことを言って、俺に迫った。あんたの方が嫌いだ、とは正直に言えなかった。

敷地内で松の小さな幼木を見つけては、それをあちこちに移植した。今、2009年、立派な這い松になっている。西湘バイパスから見える高さが3~5メートルの木は、当時私が植えた松だ。私の先輩も、後輩も誰もそんなことをする人はいなかった。皆からは馬鹿扱いされた。

スイミングクラブを発足することになった。、当然、お前のカカアもやるんだと言われ、社員でもない妻も否応なしに参加させられた。妻は、河合関係の会社に勤めていたのですが、止むなくその会社を辞めざるを得なかった。スイミングクラブでの子供の教え方は、私の奥さんの知恵に、全てを委ねた。我々には、持ち合わせているノウハウは何もなかったのです。私も、一人前のコーチになるために、泳いだ、泳いだ。一日3時間、5千キロをノルマにした。素人の駆け出しには、きつかった。お陰で、3ヵ月後には、他人様の前でも恥をかかないですむ程度には泳げるようになった。

冬は、ゴルフ場の支配人役だった。辞令を受けた本物の支配人は、仕事大嫌いで役に立たなかった。仕事に本気で取り組んでいなかった。社員の全てが、そんな感じだった。上司からは、社員の知り合いだからとか、あの人にはいつも仕事上お世話になっているからとかで、フィーを安くしてやってくれと頼まれたこともあったが、私は絶対きちんと定価を頂いた。又、小さなゴルフ場だったので、一日にプレーできる人数が決まっているので、上司が特別な配慮をしてやってくれと言われても、これも絶対受けつけなかった。この類のことは、私が一番嫌うことだった。そんなことを、私に連絡してくる上司を、アホだと卑下した。

敷地内の西友の中にあったレストラン「アゼリア」で、私たち夫婦の結婚のお披露目をした。大磯地区の人々にも、新妻を紹介したかったのです。友人達のなかには長髪族がいて、お世辞にも行儀がよいとは言えない連中が多かったのです。その友人達の態度が気に食わないと言って、キッチンでふて腐れて、会場には顔を出さないと言っては拗(す)ねた支配人。この男は元W大の競泳部のOBだった。本当に大人気ない上司だったが、私を非常に可愛がってくれた一人だ。                                       

その案内所は、相変わらず水さんのコミュニティそのものだった。久しぶりだったけれど、水さんは見かけはさほど変わっていなかった。ここに顔を出す人は、観光案内所の役割とは関係のない人たちばかりで、何気なく入ってきて、なにやかや話をしては、挨拶をしながら出て行くのです。私がその場に居る間、そのなかでも、何度も来ては出て行くオジサンがいた。元IBMの社員で写真が趣味の人だった。何かで情報を得て、大磯にやってくる芸能人をことごとく写真に撮っていることを自負していた。その写真を持ってきて、私に説明してくれたが、私が知っている芸能人はいなかった

そのオジサンに水さんが、私のことを紹介しだしたのです。水さんは、私のことをこの人と呼んで、話し始めた。

この人が結婚1年目を記念して、トラック島に行ったんだけど、羽田の飛行場の小荷物検査で、バッグの中の大磯ロングビーチのゴムボートをチェックされ、私が総務の責任者だったので、私の所に警察か公安か、どちらかから電話があって、この荷物を持つ青年はそこの会社の社員だと名乗っているのですが、本当ですか---------、とそんなことがあったらしい。思い出しても、その時に長い時間をかけて検査された記憶はなく、気がつかない間に、裏側でそんなやりとりがあったらしい。そのゴムボートは、通常営業で使われているものではなく、もう少し小さめのボートなら、どんな具合になるのかメーカーに試作品を作ってもらったものでした。そんな出来事が35年前にあったのだ。当時、そういうことがあったことを話してくれていれば、今ここで、さほど、驚くこともなかったのですが、久しぶり会って、唐突に、こんな内容のことを聞かされれば、誰だって驚くにきまっている。

水さんが話したラック島は、間違いで、本当はグアムだったのです。当時、本気でトラック島を色々学習していた。トラック島には、家人の友人の夫(現在藤沢にお住まいの相さんです)が、かって大学を卒業してから長年トラック島に住んでいて、その島の好さをいろいろ聞かされていたのですっかりその気になっていたのですが、仕事の関係で、そんなに長く休みがとれなくて、手っ取り早いグアムに変更していたのです。当時のトラック島の、何人もいた酋長ををまとめる一番偉い酋長さんが相さんの叔父さんだったのです。その叔父さんのお父さんは、かってプロ野球のピッチャー(昔の大毎オリオンズの前身のチームだった。未確認)をしていた人で、その人が漁業の関係で住みついたと聞いている。

この小文の作成のためにキーを叩きだしたのは、以前に務めていたときの先輩に会って、私のことを可笑しいと言ってくれるものだから、ひょっとして本当に可笑しい話なのか、と思いながらキーを叩いてみたのですが、読み返してみて、さほど可笑しいと感じられなくて、恥ずかしくなった。

でも、昔を思い出すいい機会にはなったので、これをこのまま投稿することにしました。

神に裁いてもらおうよ

昨夜、夢をみた。夢の中で、私は法廷にいた。

裁判所は、広い草原の丘の上にたった1棟だけ、ぽつ~ンと建っていた。周辺には、住宅も牧舎も建物は何もありません。深い霧に包まれていた。昼間なのに、建物の灯りが外に少し漏れていた。

私は被告席に、傍には、私の会社のスタッフが浮かぬ顔をして座っていた。裁判官がたった一人、真正面の席に座っていて、その前には書記官の女性がいて、コンピューターを前に、議事録をとっているのでしょう。原告は右側に、被告は左側に、裁判官と向かい合うように座っていた。電灯は点されているのですが、部屋の中なのに靄(もや)がかかっていてお互いの顔がぼ~っとして、輪郭がはっきりつかめない。

私は会社の代表者として出席している。被告席に座らされているなんて、どうしても実感が湧いてこない。私が育った長閑な田舎では、けっして豊かではなかったが、泥棒も人殺しも、そんな悲しい事件など起こったことがない。他人を騙すなんてことも、聞いたことがない。他所では凶悪な犯罪が日常的に起きているんですよ、と聞かされても嘘だと思っていた。そんな山間谷間の田舎で育った私が、こともあろうに、被告席に座っているなんて、一体、何が起こったと言うのだ。私が、私の会社が何をしでかしたというのだろう。亡くなってしまったけれど、父や母が、こんな私を見たら、戸惑うことだろう、こんな席に座るためにお前を育てたわけではない、と叱りながら悲嘆にくれるだろう。

原告は、何かを主張していた。口角に泡を吹かし、髪を振り乱し、大いに息巻いているようだが、薄いカーテンの向こうにいるようで、ぼんやりとしか見えない。私には何を主張しているのかさっぱり理解できない。確かに言葉を発しているのでしょうが、私の耳には、理解できる言語としては、届いてこない。頭を抱えて何度も考えた。一体全体、私が、私の会社が何をしたと言うのだろう。

原告は自分が受けた損害や被害を裁判所に訴え出て、裁判官がその罪の深さや償いの量を見計らって、被告に課すのが裁判なのでしょう。被告には、思わぬ重い罰を下されることもあるし、予期せぬ罪から解放されることだってある。

裁判官は静かに、私の顔を心配そうに見ていた。

原告は5人だった。2人は中年の女性で3人は男の大学生でした。誰もがかって見たことのある面々だったが、どこで会ったのか憶えていない。大学生が、裁判に訴えているのは、ただ、単に学習のためなのだろうか。原告になって、裁判を持ちかけたのには理由がある筈なのに。

中年の女性たちには、楽しい家庭があるのでしょう。大学生には、勉強して有為な社会人になって欲しいと願うばかりだ。

裁判官の表情が見えない。意思の通じない長い抗論がだらだら続いたが、どうしても争点がはっきりしないのです。争点が噛み合わない。原告が訴えている内容が、被告である私には理解できないのです。

そうこうしていると、私にはさっぱり理解できない理由が解ってきた。それは、原告自身に損害や被害に対する認識が薄いのだろう。薄いからこそ、私に、被害を及ぼした張本人に対して、訴える力が弱いのだ。又、訴えている内容にも後ろめたい思いがあるのではないだろうか。ズバッと核心をついてこない。

裁判官が口を開いた。裁判官の表情に赤みがさしてきた。

「この事件については、私が判決を出す前に和解を薦めたいのです。が、両者はいかがかな。あなたたちが、和解への作業を進められないようでは、私には考えがあります」。私は依然として訴えられた内容が解せないので、判断しかねていた。

突然、原告に向かって、裁判官の口が爆裂した。「私の法の裁きの前に、神の裁きを受けて来て下さい。そうしたら、もう一度審理することにしましょう。原告と被告人、いかがですか」。

私たち原告と被告は、裁判官の忠告に従って、早速神の裁きを受けるための準備に入りました。

尿意を感じて、私は目が覚めたのです。

2009年12月22日火曜日

オシムの言の葉を、思い起こせ

サッカーの日本代表の監督である岡田武史氏の考えていることは、私はよく理解している。岡田監督は前監督のオシム氏がチームに求めたことをよく理解している。そこに自らチームに求める戦法、戦術を加えながら、岡田ジャパンを作り上げることに懸命になっている。いい結果を出して欲しいと願っている。

この時期になって、私が敬愛するオシムが、かってジーコから監督を引き継ぐ際に語った言葉を今、ここで再確認しようではないか。私のファイルにあった資料を掘り返して読むと、もう一度、この言葉を我々は噛みしめた方がいいのではないか、と思った。早速キーを叩いた。

「日本人は自分たちがトップの仲間だと勘違いしている。できるサッカーとやろうとしているサッカーのギャップがあり過ぎる」。

圧倒的な個人レベルの高さがなければなし得ない、自由な発想のサッカーを求めたジーコ監督の方向性に疑問を投げかけた。日本には日本に適したサッカーがある。それがオシムの考え方だった。

「身長を伸ばせないし、補えないものはある。それなら違う方法でステップを踏むのが正しいこと。背の高い選手をそろえてもうまくいくとは限らない」。

体格やフィジカルがすべてではない。それは小柄な選手が多い千葉で実践した「考えながら走る」の実績が証明している。

「日本人特有のいいものがあり、日本の道を見つけることが大切だ。日本人の特徴を生かせるメンバーを集めてやるべき」。

オシムが口にする「勤勉さとスピード、敏捷性こそが日本人の武器だ」。

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そして、先日クラブW杯の決勝があった。対戦は、スペインのバルセロナとメキシコのエストゥディアンテス。結果は、延長戦の末にバルセロナが制して優勝、5億円近い賞金を持っていった。この試合を振り返って、日本代表の岡田監督のコメントが新聞(朝日・朝刊・スポーツ)にあったので、転載させていただいた。

岡田監督が語った。「スペインサッカーの魅力は、理想の美しいサッカーと勝つサッカーの両方を求める価値観を国民やメデイアが共有しているからだろう。以前は自分の中でもこの二つは別だったけれど、それが一緒になってきた。今のメンバーならできると思っている」、と。

ここでは「美しいサッカーと勝つサッカー」と表現しているが、こんなスマート言葉ではなく、オシムは上の欄のような実際的な言葉で語った。『「できるサッカーとやろうとしているサッカ」ーのギャップがあり過ぎる』だ。このあり過ぎだと言ったことが、今では、岡田監督にはそれ程の差もなく感じられてきているのではないだろうか。選手も然りだ。

先日、カターニャの森本貴行が言っていたことが頭から離れない。「このチーム〈日本代表チーム〉は動いていれば、ボールが出てくるンです」。この言葉、なんと、頼もしい言葉ではないか。次回のワールドカップにおいて、上位に食い込める可能性はある、がそのハードルは非常に高い。だからこそ、ワクワクさせる。これこそが、サッカーなのだ。

2009年12月18日金曜日

昨日は、漢字デーだった

昨日は珍しく目新しい漢字に出くわす機会が多い日だった。「珍紛漢紛」って、こんな漢字だったの?、「卓袱台」ってやっぱり表形文字?。ちゃぶだいは知っていても、卓袱台は知らなかった。「熟柿」は表象文字か、郷里のことを思い出すいい機会を作ってくれた。

 

★珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)

フランス革命秘史ナントカを読んでいたら、突然、アントワネットちゃんが言うセリフが珍紛漢紛だ、ということで、この状況を表現するのに漢字四文字が出てきて、字の並びから「ちんぷんかんぷん」とは読めたが、こんな字を当てるのか、と瞬間、納得できなかった。自宅に帰って、ネットで調べてみたら、意味は言っていることがわからないことで、珍紛漢紛の漢字が使われることが多いとあった。そして、この「ちんぷんかんぷん」には、珍糞漢糞、陳糞翰糞の四文字述語が当てられることもあると書かれていた。

★卓袱台(ちゃぶだい)

昔と言ってもそう遠くない以前、明治から昭和の40年代ころまで、日本家屋の居間には必ずあった。座卓、現在用語では座敷用テーブルです。木製のもので脚が4本あって、片付けやすいように折りたためるようになっていた。丸形、正方形、長方形のものがあった。折りたためないと、卓袱台と呼ばないとも聞いたことがある。食事などの一家の団欒、友人親戚が遊びに来てくれての談笑にも卓袱台をはさんでおこなわれた。夜になると、居間は寝室にも代わることもあったので、その時には卓袱台は脚を折って片付けられた。テレビドラマの「寺内貫太郎一家」の親父が、なにかの拍子で頭にきてひっくり返すあのテーブルのことです。「時間ですよ」にも、撮影用のセットでは不可欠な家具であった。「巨人の星」でも、息子・星飛雄馬の言動に激怒した父・一徹も、しょっちゅう卓袱台を引っくり返していたことが、懐かしい。褒められない日本の親父の一原型?か。小津安二郎監督作品にも、セットされた家具のなかで重要な役割をしていた。「卓」が何故「ちゃ」なんだ、と思って日本語大辞典(講談社)の卓袱台を見たら、「ちゃぶ」は「卓袱」の中国語の音から、と書かれていた。

 

★熟柿(じゅくし)

夜、讃岐うどん屋さんで、うどんを食う前に酒を飲もうと思って、店長お勧めのモノをくださいと注文した。店長は熟慮、あなたは色んな酒を飲んでくれているのですが、これは初めてでしょと焼酎の瓶を見せてくれた。真っ赤なラベルに熟柿と書いてあった。この字、読めますか?、の質問に、私はじゅくしでしょ、と答えると、店長さんは、よく読めたねと感心してくれた。熟柿=じゅくし、で憶えているわけではないのです。郷里、熟した柿の実が、葉が落ちて裸になった柿の木にポツウ~ンと寂しげに取り残された光景が頭のなかをかすめた。その柿を日常的に「じゅくし」と呼んでいたので、そのまま、その名前を言ったまでのことなのです。だから、私はこの熟柿を国語学的に読めるのではなく、山野の風景の一事物の呼び方として知っているだけのことなのです。私の郷里では、渋柿を赤くなってきた頃を見計らって採り、皮を剥いて干柿にするのです。その干し柿の名は、宇治田原町特産=古老柿(ころがき)です。その際、なっている柿を全部採るのではなく、鳥の為にいくつかは残しておくのです。鳥は野菜や果物に巣食う虫をとって食う重要な役割をしてくれるのです。悪い鳥もいるのですが、ここは百姓のおおらかさで、まあいいんじゃないの、ということだろう。鳥さん用に残しておいた柿でも、全てが鳥に食われることもない。食われ損なった柿が、外気が冷えて霜が降り出した頃には、果肉がゼリー状になって、甘味を増し、結晶したようになるのです、これが熟柿なのです。山猿の私にとって、アケビと並ぶ大好物でした。明治、森永、グリコ、雪印がいくら頑張っても、この食感、味は出せません。

赤くなった渋柿を採って、米の籾殻(もみがら)の中に入れて置いて、熟すのを待つこともしました。でも、味では木にくっついたまま自然に熟したモノには、負けました。

★落花生(らっかせい)

お歳暮に八街産落花生をいただいた。有難うございました。私は、どの送〈贈)り主にも受け取った礼状を出しているのですが、経済が最悪の状況下ですから、お気持ちはとっても有り難いのです、が、どうか、今後はお気遣いなさらないように、と一言添えているのです。

その頂いた落花生の箱の中の八街産落花生の紹介文に、落花生という名前の由来というか、何故このような名前がついたのか、その説明書きがあったので、つい熟読してしまった。その説明書きから、抜書きを思いついたのも、私の会社の社員に、落花生が土の中にできるということを知らない者が幾人もいたからなのです。

明治の初めにわが国に導入された作物です。

落花生は土の中にできる作物で、花が咲き終わるとしぼんで地面に垂れ下がり、花の根元から子房の柄が長く伸びて地中に入り、先の方にさやができます。この花が落ちて実が生まれるところから、落花生の名前がつけられた、とのことです。

2009年12月13日日曜日

年末恒例、朝日&住生の創作四字熟語

今の時季、朝日新聞の天声人語では、恒例で下のような類の小文を著している。毎年、楽しみにしているのです。この一年の世相を振り返って、住友生命が創作四字熟語を募るのです。

その創作熟語を利用した天声人語の文章の巧みさに感心させられてきた。マイノートに書き留めておきたいと、そのときは思いついても、ついつい忘れてしまう。世知辛い年末なのに、今回は、マイコンピューターに保存して置く機会が持てたことに感謝する

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20091211

朝日・朝刊

天声人語

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有権者の抜きはなった刃が日本の政治を袈裟懸(けさが)けにした。これぞ「一票両断」。住友生命が募った年の瀬恒例の創作四字熟語に、一年を振り返る名作迷昨が多く寄せられた。

寒空の炊き出しで今年は明けた。派遣切りや雇い止めで仕事を失った人々が「断雇反対(だんこはんたい)」を叫んだ。夏の選挙で永田町はひっくり返る。「政権好待(せいけんこうたい)」が実現したが、、新政権の「鳩世済民(きゅうせいさいみん)の手腕はいかに。

新型インフルエンザが上陸すると、店頭からマスクが消えた。日本中が「顔面蒼白」となって、来訪の外国人も驚いた。うつされてはたまらないと、通勤電車も人ごみも「一咳触発(いっせきそくはつ)」でピリピリする。予防したくてもワクチンは足りず、切歯扼腕(せっしやくわん)ならぬ「接種待腕(まつわん)」がなお続く。

高速道路の「千円」は功罪が半ばした。喜々として「遠奔千走(とおほんせんそう)」する人もいれば、「千車万列」の大渋滞にプロの運転手は泣かされ、客をとられた鉄道も船も泣いた。暦の魔術で初の「秋休五日」(シルバーウイーク)となったものの、どこもかしこもやはり渋滞。

司民参加」の裁判員制度が始まり、「判官判民」の裁きに市民感覚がにじみ出た。白昼の天体ショーは「皆祈日食」で晴天を待ったが悪石島は無情の雨。米国では旅客機が川に奇跡の不時着。「一機冬川(いっきとうせん)」の機長の離れ業が喝采を浴びた。

この人を忘れてはいけない。石川遼君めあての「一目遼戦(りょうせん)」のギャラリーでゴルフ界はわいた。国宝の阿修羅像展も長蛇の盛況となり、多くの人が「阿美共感(あびきょうかん)」した。ゆく年に、忘れ得ぬあのまなざしが、ふと胸をよぎる。

2009年12月12日土曜日

この前田の短いコメントに感動した

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Jリーグの年間表彰式「2009 Jリーグアウォーズ」が7日、東京都内であり、最優秀選手賞〈MVP)は鹿島のMF小笠原満男(30)が初受賞した。主将としてチームを史上初の3連覇に導いた統率力が評価された。小笠原の真骨頂は、早い攻守の切り替えだ。相手をなぎ倒して球を奪い、好パスで流れを変える。「危機を、一瞬で好機に」と本人が志す動きは、チームが逆境の時ほど研ぎ澄まされる。朝日新聞紙上における中川文如記者の記事をお借りした。私も、小笠原の受賞については、十分納得している。チームの大黒柱としての風格がある。新聞のスポーツ面に、小笠原がMVPのトロフィーを小脇に抱えた大きな写真が載っていた。来季は、4連覇とアジア制覇をねらうと言ってのけた。

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得点王として、20ゴールを挙げた磐田ジュビロの前田遼一が表彰された。日本選手としては02年の高原直泰(当時磐田、現浦和)以来7年ぶりらしい。

その隣に前田の短いコメントがあって、その短いコメントのなかに、前田の日常の心意気が痛いほど解って、思わず、このコメントを保存しておかなくっちゃ、とキーを叩いた。

前田ー「先輩のおかげ」

日本選手で5人目(6回目)の得点王に輝いた前田。「ここにいられるのは中山(雅史)さんや高原(直泰)さんとプレーできたから」と切り出した。ともに磐田黄金期を支えた先輩FWだ。「でも2人と違って(中心選手として)リーグ優勝、W杯に出場したことがない。肩を並べたい」。今後の前田の活躍を見届けたいと思う。私の後輩、林義規が長年監督をして、トップレベルのチームとして頑張っている、東京は暁星高校の出身だ。文武両道の学校だ。

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20091208 朝日・朝刊 スポーツ

潮 智史 

鹿島 変わらぬ「伝統」

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5年連続で最終節までもつれたJ1の優勝争い。3連覇もさることながら、鹿島の強さにうならされるのは96年の初優勝から、98,00,01,07,08,09年とコンスタントに勝ち続けていることだ。普段の練習から球際の争いを厳しくし、パスの精度を10センチ単位で研ぎ澄まし、結束と献身を重んじる。細部を突き詰める精神性をサポーターは「ジーコスピリッツ」と呼び、選手は「伝統」と表現する。5日の浦和戦でも猛攻を落ち着いてかわしながら、攻め手を探ってひたひたとゴールに迫った。押し込まれた前半を0-0で終えた時点で試合は鹿島ペースだった。

緩みのない守備から仕掛ける速攻と勝負強さ。一貫したスタイルは、ピッチ上で実際に監督役も担っていたジーコを含め、7人のブラジル人監督が作り上げてきた。あまりに手堅くてときに面白みに欠けるほどだが、彼らの仕事ぶりを見ていると。「変わらない強さ」に思い至る。

日本人は勝てば、次には何か新しいものを求めたがる。常に進歩しないと落ち着かない性分だ。鹿島でも優勝した翌年に新鮮味を求める日本選手に対し、「当たり前のことをきちんと身につけろ」と反復練習を強いる監督が結果をだしてねじ伏せてきた。小難しい戦術論を持ちかけても、「最後にものを言うのはあきらめない気持ちとチームの結果だ」と答える。サッカーをシンプルにとらえている彼らは余計なものをそぎ落とし、ただし、肝心の土台となる部分に妥協は許さない。勝つすべを心得ているのだ。

日本代表の岡田監督が横浜マ監督だった当時、00年から6年にわたって鹿島を率いたトニーニョ・セレーゾ監督のチームづくりにあきれていた。「毎年、同じことを忍耐強く繰り返してチームを作り上げる。私には到底まねできない」と。王国ブラジルの奥深さである。(編集委員)

2009年12月10日木曜日

太宰はやっぱり、嘘つきの天才だった

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学生時代、太宰の小説を古本屋さんに出回っているものなら、なんでもかんでも読み漁っていた。貧乏学生だったので、新刊本は買えなかった。そして昭和48年、24歳で某電鉄系の親会社に入社して、初任給を貰えたら、一番に買うぞと決めていたのが筑摩書房の太宰治全集全12巻(昭和46年、新刊として発行)だった。新品全巻で1万円ぐらいだった。活字が大きくて読みやすかった。初任給が5万5千円、手取りが4万8千円。本屋さんから、届きましたから取りに来てくださいと連絡を受け、財布を持たない私は、お金を裸で握り締めて向かった。本を受け取り、代金を誇らしげに支払った。本は重かった、心は晴れ晴れだった。何だか、自分が成長したような気分になれて嬉しかった。

当時、太宰のどの小説も何度も読み返していた。そのなかで、「津軽」は別格だった。太宰の作品のなかで、一番好きなのがこの「津軽」だ。太宰が、30年ぶりに乳母だったたけを訪ねて行く。探しあぐねて、やっと孫(?、子どもじゃなかったと思っているのですが、かん違いかも)が通っていた国民学校の運動会の会場で再会するのですが、この場面で私はいつも金縛りになってしまうのです。

「津軽」のクライマックスの舞台は、陽が燦燦(さんさん)と照りつける運動会の会場で、健康色に彩(いろど)られ、久しぶりに会った太宰と乳母、お互いに会いたくて会いたくて、晴れやかで、自然で、屈折のない交情、純粋で崇高な愛、そんな愛に溢れた状況だった。

作家は物語を創作するものだとは、よくよく理解しているのですが、私小説風に書かれているものだから、ついつい太宰の本当の本当のことを、本当のことだから尚更具体性を伴って、文学的に素晴らしい作品になっているのだ、と思っていた。昨日まで、たけさんと再会した時の状況は、本に書かれたそのものだったと、思ってきた。

ところがじゃ、実際は本に書かれたのとは、随分違ったようだ。その内容については、後の方の新聞記事に委(ゆだ)ねる。虚構という字を好んでよく使った太宰さんに、私は立派に騙(だま)されていたことが、今日の新聞記事で、知った。やっぱり、太宰は天才だったんだと、再発見させられた、ニンマリ、にんまり。こんなに、ころりんと騙される幸せもあるんだ。太宰のことが、ますます憎たらしいほど好きになっていく。

昨日〈20091209〉、太宰治全集で「津軽」を走り読みした。最後の最後のところで、太宰は嘘をつきました、と告白している文章があった。私には、そこまで読解できていなかったようだ。その部分をここに転記しておこう。---《まだまだ書きたい事が、あれこれあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽くしたやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。》 最後にきて、付け足しのように虚飾を行わなかったなんて、言わなくてもいいことを敢えて言っているのは、私は虚飾を行いましたってことだったんだ。どこまでも、憎めない作家だ。

☆新聞記事を丸ごと転載させていただいた。

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以下、20091208 朝日新聞夕刊 

ニッポン 人・脈・記 漢字の森深く⑩

太宰はこの字を追った

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太宰治は今も人気作家だ。生誕100年を迎えた今年は、漢字検定ならぬ「太宰治検定」までできた。

こんな問題がある。

〈私には、また別の専門科目があるのだ、世人は仮にその科目を「  」と呼んでいる〉

空欄に入るのは漢字1文字。出典は「津軽」だ。戦時中に故郷の青森県を旅してつづられた小説で、代表作の一つとなる。この「専門科目」について〈人の心と人の心の触れ合いを研究する科目〉とも書いている。

答えは「愛」。

「津軽」の最後で、太宰は子守のたけと再会する。愛という字を太宰流に描けばこうなる、という屈指の名場面だ。

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越野タケ

たけは本名越野タケ。大地主だった太宰の生家へ13歳で奉公した。幼い太宰をかわいがり、深い影響を与える。嫁いでから11人の子を産んだ。

小説で太宰は、たけを探しあぐねた末に国民学校の運動会で見つけ、〈生まれてはじめて心の平和を体験した〉。一緒に行った竜神様の桜の下で、たけが語る。〈お前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮らしていた〉

太宰と同郷の文芸評論家相馬正一(80)は戦時の勤労動員で結核を患った。「このまま死ぬのか」。戦後、太宰の「人間失格」を読み、心をつかまれる。

高校教師をしながら太宰研究に打ち込み、のちに優れた評伝で名をなす。タケに何度も会い、思い出話を聞いた。

「あの有名な場面がほとんど虚構と知った時は、いや、本当にびっくりしました」

太宰は再会した国民学校で、実はタケそっちのけで知り合いの住職に酒をふるまわれていたという。竜神様でもタケと言葉をかわしていない。

相馬はこの住職からも再会の表情を明かされ、こう考えた。

「太宰は母にかわいがられなかった。タケさんの姿を借りて育ての親という像を作り、安心立命を得たかったのでしょう。再会シーンは願望なのです。愛をめぐる虚構の天才ですね」

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「津軽」が書かれたころ、太宰に恋している女性がいた。戦後の小説「斜陽」の執筆を助ける太田静子だ。太宰が1948年に別の女性と入水する7ヶ月前、太宰の娘、のちの作家太田治子(62)を産む。

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太田治子

治子もタケに会っている。大学生だった66年、太宰を取り上げたテレビ番組の仕事で津軽を旅した。相馬が親切に案内してくれた。68歳のタケは、悲しいくらい腰が曲がっていた。

「あんた、わしの孫だ」

手をつかまれた。「その力の強かったこと。それでいて、浜辺に咲くハマナスの花のように上品なおばあちゃんでした」

治子は自宅に帰って泣いた。

「ママ、私、生きていてよかった」。出生のことで悩んでいた自分を、太宰ゆかりの人たちが温かく迎え入れてくれたから。

「津軽」は太宰文学のなかでも治子の好きな作品の一つだ。

「タケさんと再会する場面にフィクションはあっても、父の心にうそはありません」

タケは上京して、太宰の墓参りをしたことがある。再会した時と同じアヤメ模様の紺の帯を締めて。83年に85歳で亡くなり、今月15日が命日になる。

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治子は1枚の和紙を大切にしている。自分が生まれた時、太宰が名前の1字を取って名付け、したためてくれた。

〈この子は私の可愛い子で、父をいつでも誇ってすこやかに育つことを念じている〉

この肉筆に見る愛の字は、柔らかく、かわいらしい。

治子は今年9月、「明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子」を著した。母の日記を読み、2人の愛と向き合う日々。心は重くなったが、やっと父と母のありのままの姿を見つめることができた。これからは、詩人金子みすずの詩のように、明るい方へ生きていこうと思う。

一つの漢字に、たくさんの物語がやどっている。その森は深く、人を魅了してやまない。

(このシリーズは文を編集委員・白石明彦、写真を八重樫信之が担当しました。文中敬称略)

2009年12月8日火曜日

菅平が遠くになりそう

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12月3日、自宅を04:45に出発、車で菅平に行ってきた。環八、関越、上信越道の上田・菅平で高速道路を下りた。144号線、406号線を通って、菅平入り口に08:00に到着。

数年前に買った別荘を手放すことになったのです。経済不況の真っ只中、少しでも流動資金を確保したいので売却することにした。今まで別荘の管理をしていただいていた香さんに、お礼の挨拶をしなくてはいけないと思いついたのです。香さんは、我々の別荘の前の道路を隔てた向かい側でペンションを経営されているのです。ペンションの名前は「じゃじゃ馬山荘」です。

売却にあたっては、売主である弊社は宅建業者でもあるので、買主さんに交付しなければならない書類を須坂市役所で取得する必要がある。建物の設備のチェックもしなければならない。長野地方法務局での仕事は、インターネットと郵便で事足りたので、時間は短縮できた。

保有していた期間はたったの3年半だったけれど、社員や社員の家族、友人には数々の思い出を演出してくれた。夏に冬に、建物が大きいのでグループで利用できたのです。

私にとって、この別荘には格別の思いがあったのです。菅平という土地柄だ。私の精神と肉体、を鍛えてくれたのは、ここ菅平の母校のグラウンドだったのです。元々、根性のある方だったのですが、その根性にさらなる磨きをかけてくれた。丈夫だった体に鞭を打ち、なお一層頑健な体に鍛えてくれた。大学4年間の夏合宿、疲労、苦痛、汗と鼻汁、よだれにまみれて過ごしたサッカーのグラウンド。昼間は真っ赤な太陽と砂ほこり、夜には清澄な風、冷たい水、美しい星と空、柔らかい布団。

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早稲田大学菅平グラウンド

エリートと呼ばれる部友たちに囲まれ、励まされ、実際に足や手、首を引っ張り回されて、何とかみんなの足かせになりながらも頑張れた。感謝している。走っている後ろから、ぐいぐい押されたこともある、決められた時間内に走りきらないといけないのです。

技術も体力も、みんなとは同じようにはいかなかったけれど、なんとかやり通せたことで、私は、私の大人としての一歩を踏み出せたと思う。私の秘(ひそ)かな自信にもなった。大人としての行動の原理原則をここで、身につけたのだ。

そんな足手まといのサッカー部員が、練習だけではなくて金銭に関しても部友に多大の迷惑をかけたのです。4年間の部費踏み倒し、寮費踏み倒し、みんなで酒を飲みに行っても、清算する段になって、私だけは割り勘に参加できなくて、一人食い逃げ飲み逃げ?蚊帳の外状態だった。こんな男を大目に見て、手放しで許してくれた先輩、同輩たち。浪人中、ド方仕事で貯めた資金から、入学金と4年間の授業料を差っ引いて、その残った金額を4年間48ヶ月で割った額が送金されてくるのです。が、その額はみんなの半額、3万円だったのです。目を瞑(つぶ)って付き合ってくれた。心優しい後輩にも恵まれた。感謝しても、感謝しきれない。迷惑をかけたことが、卒業後も気になっていて、事あるごとにそのことが思い起こされ、いい気がしなかったのです。

そんな折、この別荘を買わないか、とかっての会社の同僚だった佐から持ち込まれたのです。即、買うことを決意した。私には思惑があったのです。日本の各地から、サッカー部の合宿に馳せ参じてくる卒業生のために、現役の選手と同じ合宿所では酒は飲めないし、夜遅くまでの談笑は許されない、それならば卒業生みんなのたまり場にでもなれば、こりゃ喜んでもらえるだろうと思い巡らしたのです。今までの不孝を許してもらうのに、こりゃ打ってつけだ。

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ダボス山(スキー場」

 

「じゃじゃ馬山荘」さんに挨拶に行った。ご夫婦は以前にも増して元気だった。ご主人さんは72歳でピアノ歴は長く、奥さん75歳で2年前からドラムを叩き始めたとのことでした。月に2回、先生が来てくれるのだそうだ。先日、老人達のダンス大会があったのですが、150人の前でドラムを叩いてきましたと、上機嫌だった。その曲はジャズなど洋楽ではなくて、50年ほど前の「東京ラプソデイ」なんですから、笑っちゃいますよね、と。それから、ペンションの仕事を、あなた達と会った頃、やめようと思っていたのですが、最近昔のお客さんが思い出したようにパラパラ来てくれるようになって、やめられなくなっちゃいました。苦笑していた。でも、商売抜きなので、いつまでも居ていいよ、なんて調子でやっています、と仰っていた。私たちも今まで、色んな人のお世話になってきたので、これからは、みなさんにお返しをしながら、生きようと話し合っているのです。奥さんの顔は少し赤みがあって、つるつるしていた。可愛い紀州犬の子犬がいた。人懐っこくて、私にくっついて離れなかった。

それから、須坂市役所に向かおうとしたのですが、どうも母校のグラウンドが気になって、今度ここへやって来るのはいつのことやらわからない。見納めにはしたくないが、ここでグラウンドをもう一度網膜に焼付けておかなければ後悔する。思い出がセピア色になりかけていた。誰もいないグラウンドは、小雨が降るなかにひっそりと静かにたたずんでいた。悲しそうにも寂しそうにも見えた。グラウンドを前に、当時のことを思い出そうとしたが、40年以上も前のことだ、激しく熱いものは湧き起こってこない、とにかくグラウンドも私も、今は静かだ。当時もそうだったが、今も菅平は私には、他人行儀でよそよそしい。温かく迎えるという風情ではない、冷たく厳然と立ち向かっている。容赦しないぞ、とでも言いそうな気配だ。

追慕、菅平は遠くなりにけり、だ。

なんだか、物足りない。静かに、ボーウッと眺めるだけで、このまま、帰るわけにはいくまい。過去の激情が蘇ってくるのではと期待したのに。畜生、俺はどうなったんだ?。そうだ、それならスキー場のダボス山にでも登ろう。学生時代、朝に、昼に走って登った。制限タイムに入れなかったら、罰が用意されていた。突然、この体を痛めつけたいという欲望が、キリギリと湧いてきた。脂肪で弛(たる)みきったこの体を苛(いじ)めるのだ。一気に走って登ろう、ぜえぜえ、息を吐きながら。40年前の、合宿中の激しい練習の痛苦の一部でも、この私の肉体に蘇らせるのだ。

でも、ーーそれは無理だった。走るどころか、ゆっくりゆっくり歩いて登るのが精一杯だった。息は荒れない、乱れない。学生時代には、韋駄天のように駆け上り、下りはめっちゃめっちゃスピードをあげて、足元に何があろうとも、牛の糞があちこちにあったのですが、そんなものへっちゃらに無視して駆け下りた。今、私はゆっくりとゲレンデを振り返り振り返りしながら登っている。小雨が頬に冷たい。何日か前に降った雪が頂上付近に少し残っていた。頂上から、パノラマのような景色を見渡した。遠くには山が連なり、近くにはあちこちにグラウンドやスキー場、畑が視野いっぱいに広がっている。

そして須坂市役所に向かった。用を済ませた。

会社に戻ったのは、17:00だった。

2009年11月30日月曜日

昨夜は、初めての「ナイト」だった。

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「ナイト」なんて、何だか不思議な語感? 意味深? 騎士のような格好良さとはほど遠い、なんだか陰気臭さが漂う単語だけれども、そんなに心配はご無用です。弊社で経営しているバジェットホテルの深夜業務のことを話したかったのです。

「パラディス イン 相模原」。北里大学の真正面にある。相模原屈指のバジェットホテルです。ビジネスによし、家族利用によし、経済的な料金で泊まれるということで、相模原では今一番注目されているのです。楽天ジャランの「神奈川で泊まってよかった!ホテル・旅館ランキング」では、常時6,7,8位をキープしています。この初秋のランキングでは当ホテルは8位だったのですが、6位はあの有名なホテルニューグランドで、7位はあの贅沢な湘南江ノ島の料理旅館恵比寿屋でした。室の快適性と、食事、料金、スタッフのもてなしに、連日、ホテルのホームページに感謝と身に余る賞賛のお言葉をいただいています。当ホテルの運営のコンセプトを社員がよく理解しているのだと思われる。

どこのビジネスホテルも、経営には苦労しています。全国的に展開しているルートなんとかホテル、坂京インとか今までは経営磐石と言われていたホテルでさえ、取引会社への支払い期間を延ばして欲しい旨の通知を送ったり、工事代金の延払いを通告したり、この類の話題はこの業界にも事欠かない。

弊社のホテルも経営は火の車だけれども、周辺ホテルと比べると客単価にしても、部屋の稼働率にしても頑張っている方だと思う。ホテルのような装置ビジネスでは、こんな不況時には先ずは経費の削減を徹底することだ。でも、この作業はもう一通り終えてしまった。チェック項目は、光熱費の節約、食材仕入れの工夫、エレベーター・電気設備・立体駐車場の保守管理費の価額交渉、清掃・植栽・ルームメーキングを自前作業する、駐車場・リース代の削減など。

次に手をつけなくてはならないのは、スタッフの勤務シフトかなと考えていた。そんな時にホテルを担当していた小さんが退社することになったので、この私が引き継ぎをしなければならない羽目になった。

果たして私にホテルの何が解っているのだろうかと詰めて考えた。経理からは数字上の運営内容の報告は受けている。考えあぐねた結果、やっと、たどり着いたのがホテルの仕事をスタッフと同じように働いてみることだ、と。手を打つのはそれからだ。仕事の全てを理解すること、自分も全ての仕事をこなしてみること、スタッフの名前を憶えることから始めようと決心したのです。

私には不動産会社の社長としての仕事もあるので、それならば夜、働けばいいのだと思いつき、支配人に働く日と時間を指定してもらった。家人には、白いカッターシャツ、ネクタイ、革靴を用意しておくように言った。ええ、そうなんですか、と家人は意外に冷静だった。日頃、ホテルや私の会社のことを逐一話しているから、彼女はそれなりの覚悟はしているようだ。

そして金曜日(20日)、8時にホテルに入った。支配人から予約マニュアル、予約電話対応、チェックイン対応、業務チェックリスト、パラディスクラブ入会案内、飲み物の販売価格表、駐車場のご案内、手製の周辺グルメマップ、宿泊プラン、ルームナンバー及び部屋タイプ、数量、宿泊料金表などの印刷物を手渡された。胸には実習生・山岡保の名札。顔を手で撫ぜて、髭を剃ってくるのを忘れて来たことに気付いた。あんなに、髭もきちんと剃ってくるから、と支配人に大見得を切ったのに、ホテルマン失格だ。

明日(21日)は、北里大学で何学部か解らないのですが、推薦入試があって、その受験生たちの親子連れでの宿泊で、ほぼ満室状態だった。70室のうち空きは4室のみ。宿泊人数は95人。

チェックインの作業を、熟練スタッフの後ろで仕事を盗み取らなくてはと思いながら、顔には笑みを絶やさず、殊勝な面持ちで頭を下げ続けていた。そうこうしているうちに、支配人が、お客さんが立ち去ったのを見計らって私をギョッと睨んで、社長、いらっしゃいませとか、有難うございましたとか、行ってらっしゃいませとか、皆が言っているんですから、一緒に挨拶してくださいよ、と叱られた。叱られたのは当たり前だ。何よりも、挨拶。挨拶が一番。挨拶がどれだけ大事かということぐらい、この年になるまで、嫌と言う程痛感してきた筈なのに。我ながら、恥ずかしかった。

チェックイン時に、昔の宿帳にあたるアライバルカードに住所と名前を記帳してもらう。そして宿泊代をいただき、ホテル側からは領収書を発行するのですが、受験生の親に発行する領収書に「合格!北里大学」とゴム印を押して差し上げるのです。このゴム印を見て受験生と親はニンマリ微笑むのです。このホテルにアルバイトで来ている女子美術大学の学生が、毎年模様を変えて、女子美と北里大用を作ってくれている。

朝食の案内がきめ細かい。明日は、北里大学の推薦入試なので朝食は混むと思われるので、皆さんは早い目にイートインに降りてきていただいた方がいいかと思われます。イートインは1階にあるのです。どの受験生も初々しくて可愛い。目が輝いている。私は、44年前の私は、どうだったのだろうか。当時、私の頭には血がガンガン昇っていた。

昼飯用の合格弁当の予約の確認。弁当を持って行くと、昼飯時にあたふたしなくてもいいようにと予約を受けたら人気だった。モーニングコールの要望の有り無しと、有りの場合の時間の確認。

慌(あわ)ててやって来た受験生の母が、フロントで貸してもらえる時計などはありませんか、ときたもんだ。試験に時計がないと心配なんでと、母は受験生以上に困惑顔だった。今はありません、としか答えられませんがーー、探しておきますよと係りの者は答えていた。そのことを頼まれた係りの者が、何をどうするのか、様子を見ていたら、忘れ物をストックしてある段ボール箱をロッカーから引き出してきて探し出した。忘れ物のなかに時計があればと思いついたようだ。忘れ物は一定期間、預かっておくことにしている。残念ながら、時計は忘れ物の中にはなかった。そして、翌朝朝食のために降りて来られたお客さんに、支配人が日常使っている自分の腕時計を外して貸していた。私には、まだまだ物足りない支配人だけど、この時は、よくやるなあと感心させられた。こうでなくては、イカンのだ。

蕎麦枕に代えて欲しい、と来た。抱き枕を貸して欲しい。毛布や加湿器、アイロンを借りに来た。なんぜ、アイロンなんだとスタッフに聞いたら、明日の試験には面接があるので、スカートやズボンの折り目をつけるのです。なあーるほど、と納得した。ある日、受験生の女の子がブラウスを忘れてきたことがあったのです、その時は皆で手分けして買いに走ったのですが、近くでは見つからず、社員の物を貸してあげたことがあったのです、と支配人。

このホテルをよく利用してくれているお客さんが、今夜は予約していないんだけれど泊まれますか、とやってきた。ルームチャージは幾ら?と聞かれた支配人は、生憎(あいにく)今夜は、受験生の泊まりでいっぱいでして、定価の室しかないのです。この常連さんは、いつもインターネットで割引のパックを申し込んでくれている。今夜の料金には不満顔だった。でも、しょうがないか、と宿泊の手続きをとってくれた。俺たちの子供の頃は、受験といったって、一人で何所までも行ったもんだ、でも女の子なら、親はやっぱり心配だよなあ、なんて独り言を言いながら、サインした。俺は、お客さんが室に行ったのを見届けながら、支配人さん、ああいうお客さんには、こういう日でも、ちょっとぐらいまけてやればいいんじゃないの。そこが難しいところなんですよ。

20:00、昼間からの社員が、館内チェックは異常はありませんでした、と支配人に報告があった。その者も帰宅して、ホテルに残されたのはナイトの二人と実習生の私の三人だけになった。今日一日の集計をして、明日の予約受付カードを整理していた。これを、整理しておくと、明日の昼間勤務の人が楽なんですよ、と言いながら。イートインのテーブルと棚を拭いた。そして朝食コーナーに、コーヒーカップと紅茶のカップ、スプーンとホーク、ジュースと飲み水用のグラス、ジャム3種類とマーガリン、サラダをとる小皿、それらを整然と並べて、綺麗な布で覆った。パンを挟んでとるピンセットの大型のようなものは、紙でできた布巾のようなもので覆った。

それから、私は仮眠に入った。01:30~04:00。他のスタッフも仮眠するのだろうと思っていたのですが、他のスタッフは私が4時に起きてくるまで、仮眠をとっていなかった。室に入ってテレビのビデオのスイッチをいれたら、エッチな画像が出て吃驚した。後でホテルのスタッフに問題があるのではないか、俺のようなオジサンなら別に驚きはしないけれど、若い人には悪影響があるのではないのか、と問い詰めたら、3分は只なので、これを楽しみにしているお客さんもいらっしゃるんですよ、ときたもんだ。このことについては、今後何とかしなくちゃイカン課題だ。

職場に戻った。支配人から、黒いエプロンを手渡された。パントリーでは、パンを焼く準備に入っていた。早速、私も半加工された生のパンをトレイに膨れてもぶつからないように隙間をとって、並べた。そこに、支配人からダメダメの声が掛かった。私は素手で、パンを握っていたのです。ビニールの手袋をして作業をしなければならなかったのでした。

昨日、昼間勤務の人がレタスを切ってボールに入れておいてくれたものをガラスの大きな器に移して、ニンジンの細く切ったものと、缶詰入りのコーンをスプーンですくってレタスの上に振りかけた。ドレッシングは、既製のもの三種類を2セット用意した。冷蔵庫に並べておく。

コーヒーの淹れ方を教えてもらった。最初の1回目は、コーヒー豆を使わないで水だけを通すのです。水が全部落ちると、ポットの中は熱い湯が充填されたことになって、蓋をして、そのまま本番まで待機。5器用意した。

オレンジジュースは、既製の壜に入ったものを、よく振ってジュース差しに小分けした。7本用意した。お客さんの前に出す時には、このオシャモのようなもので、もう一度撹拌してから出すのです。自然のジュースなので沈殿するのです。

水は用意なんかしなくても氷を入れるだけだから、6時のイートインの営業開始と同時で十分なのです。

04:00~05:30。私以外の2人は、交互に休憩に入った。

モーニングコールの一発目は、五時半。モーニングコールを忘れたなんて、しゃれにもなりませんよね、と電話していた。コーヒーを淹れた。コーヒー豆2カップ分を濾し紙を敷いたカセットに入れて、決められた水の量を入れる、それで後は待つばかり。社長、濾し紙は1枚にしてください。気付かずに2枚重ねてしまったらしい。支配人は私の作業を厳しくチェックしていたのだ。

06:30、小鳥の囀(さえず)りのバックグランドミュージックを流した。パン、コーヒー、ジュース、水、お湯の入ったポット、サラダをセットした。朝食の始まりだ。受験生の親子がガサガサと降りてきた。お早うございます、大きな声で挨拶した。受験生諸君の健闘を祈っています。朝食券の回収、コーナーに揃えておいたジュース、コーヒー、サラダ、パンの補給、食器の片付け、テーブルの掃除。忙しく動き回るのは実に気持ちがいい。これらの作業は、どれも私には十分こなせた。

そうして、8時までの私の勤務時間は無事に終わった。

ホテルを離れる時、私は自分のことを、俺も満更(まんざら)木偶(でく)の坊ではなさそうじゃないか、まだまだ頑張れるではないか、と我ながら嬉しかった。実務には、そんなに役に立ってないかもしれないが、スタッフの仕事を今は知ることだ。業務の全てを知悉することだ。

今日、これからは、不動産屋としても頑張らなくてはならない。16号線はこの時間、大変混んでいた。早く会社に着きたいと焦る。

仕事が、これでもかこれでもかとあるのは、とっても幸せなことなんだ!!!

2009年11月27日金曜日

弦楽合奏団ロンディーノ 第4回演奏会

20091125

開演・18:30  開場・18:00

会場・かなっくホール

入場無料

演奏曲目・A.コレルリ/合奏協奏曲 作品6-9

       F.メンデルスゾーン/シンフォニアNo-6

       J.S.バッハ/二つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV1043

       (女声合唱とピアノ)

       F.シューベルトほか/五つのアヴェマリアとアーメンコーラス

       B.ブリテン/感傷的サラバンド(シンプルシンフォニー)

       F.レハール/金と銀

       F.レハール/メリーウィドウメドレー

       (女声合唱と弦楽合唱)

       F,メンデルスゾーン・作詞津川圭一・アレンジ木村茂雄

 

      *友情出演:女性合唱団ロンド  指揮=木村茂雄

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半年程前から、この演奏会に誘われていた。弊社を金融面から支えていただいている某金融機関の弊社担当者の文さんから、趣味でやっている演奏会が秋に開かれるので、是非山岡さんにも来て貰いたい、自分はチェロを弾くのです、とのことだった。

チェロって楽器の名前を聞いたら、普通の人はその音色など楽器の持つ性格などを思い浮かべるのでしょうが、私には何も思いつかない。音楽的生活には、縁遠いのです。今は、文さんはその金融機関を辞めて、金融機関に勤務中に知り合った大型自動車の修理を請け負う会社に勤めている。一週間前に招待状を会社の方に持ってきてくれた。

こりゃ、敵前逃亡はできないぞと覚悟はしたのですが、折角会場に足を運ぶのだから、予備的知識を得たうえで行った方がいいのではないか、と色々試みようとしたのですが、元々音楽のオも理解できない私のことだ、手がかりは掴めなかった。

結局、演奏される曲や作曲者については、無防備、無素養、無勉強、無知のまま会場に出かけた。バッハ、シューベルト、メンデルスゾーンの名前だけは知っていた。バッハとシューベルトの肖像画は中学校の音楽室の壁に掛けられていた。髪の形が特徴的だった。両者の違いは判らないが、一度見たらあの髪形は忘れない。

指揮者で指導者の木村茂雄氏が 、作曲者や曲の説明をしてくれたのですが、よく理解できなかった。どの曲も、日本では江戸時代にあたる時期に作られた。日本では、歌舞伎が弾圧を受けたこともあったが、庶民に根強く普及した。歌舞伎を音楽では三味線が支えた。日本でも、音楽において西洋に引けをとらない文化があったのですよ、と指揮者は話した。

ロンデイーノの演奏で、ロンドが「翼をください」を歌い、それから我々観客も参加してもう一度「翼をください」を歌った。いい歌だと思った。指揮者が支援している知的障害者の作業所「NPO法人あいの木」の人々が、この歌を歌っている時に、施設でもよくやっているのでしょう、手話をしながら歌っていたのを見つけた指揮者は、施設の人たちを舞台のまん前に来てもらい、手話をしながらもう一度この歌を一堂全員で合唱した。私は、得意の音痴がバレないように声音を落として、控えめに歌った。

文さんの後輩、馬さんにも久しぶりに会えた。馬さんには恋人らしき男性が付きまとっていた。なあるほど!!!、彼女は見違えるように綺麗になった。一緒に行った音楽好きの友人に演奏はどうだった?と聞いたら、ニッコリしたままだった。その顔からは、友人も評価していたのだろうと思う。

一つの楽器ではなくて、今回は弦楽器だったのですが、協奏するということは、こういうことなんだ。皆で声を合わせて歌うと、こんなに感動するのかと吃驚した。今回は、予定になかった手話まで参加した、貴重な音楽会でした。

弦楽器は、ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバス、チェンバロでした。

「翼をください」=作詞・山上路夫 作曲・村井邦彦

文さんに感謝。

2009年11月22日日曜日

必殺仕分け人、大鉈(なた)を振るう

来年度予算要求の無駄を洗い出す行政刷新会議は、「事業仕分け」を国立印刷局市ヶ谷センター(東京都新宿区)で行った。全事業を廃止、地方に移管、整理や削減、に仕分け、見直した。平たく言えば、どの事業に国の予算をつけるか、削るか、減らすか、やめるか、地方にまわすかを選択する予備的事前打ち合わせだ。前半は終わった。

誰でもが傍聴できる会場での、仕分け人と官僚とのやり取りは、面白いと言っちゃ叱られるかも知れないが、この初めての試みに私は興をそそられた。ネットでも中継された。政権党が、自民党から民主党に変わって、本気で行政の無駄をなくし、脱官僚を目指すという、この何とも言えぬ語感のさわやかなことよ。選挙戦で掲げたマニフェストを実行するためにも、先ずはこの会議を成功させたいと民主党は考えているのだろう。この行政刷新会議の仕分け作業は、手法において私には本当に、こんなことでエエのか?と思うところも多々ある。いいか、悪いかはちょっと横に置いといて、印象は鮮烈だ。何種類もある事業の一つ一つを、バッサバッサ、廃止か地方に移管か、整理や削減、そのどれかに評決していくんですから。これは、革命ですよ。私には、個人的にどうしても納得できない判断が幾つもあった。それにしても、この企画は私には、目から鱗落ち、大事件だ。

この「事業仕分け」はこれからが後半。それからが、行政刷新会議の本会議。今後どのように進められていって、予算編成にどのように活かされるのか、注視を劣らないことが肝要だ。ここは、どうしても歴史的に画期的な事件だと私は捉えているので、この状況の一部を、後々のために記録しておく価値があるのではないかとキーボードを叩いているのです。

2,3日前、朝のテレビに必殺仕分け人役の民主党の蓮舫議員が出演していた。政府系の独立行政法人や公益法人が補助金や交付金を溜めに貯めた基金を政府に返還をするようにと評決したことについて、かって野党だった民主党の蓮舫さんの話が面白かったので、ここで紹介しておこう。国会議員を何年もやってきたのに、今までの立場は野党だったので、調査できる範囲に限りがあって、政府系の独立法人の実態が判らなかったのです、とのことでした。なんでや? 国会議員と言えども、易々とはこの手の調査はできないらしい、ということに驚いた。相手は、民間会社ではなく政府系の法人だぞ。国民は、国会議員によりよい国づくりのための政治を信託しているのです。役員が何人いてそれぞれが幾らの給料を貰っていて、基金として幾ら保有していて、何の目的でこれらの基金をどのように使おうかと考えているのか、さっぱり判らなかったのだ、ということだった。天下りする方法にも手が込んでいて、役員や理事に就任すると、すぐにそれは天下りだと指摘され(バレ)るので、嘱託社員としてなら、注目度も低く、バレにくい。隠れ蓑です。嘱託社員と言えども給料や扱いは全く理事や役員と同じ。無闇にガッポリ溜め込んだ独法の基金と、新種の天下り方法との、何とも甘い関係なこと。

最近の民主党に、物足りなさは幾らでもある。例えば鳩山首相と小沢幹事長の秘書に絡む政治資金規正法違反問題から所得の申告漏れなど、この幹部二人の金に絡む件はいつまでもすっきりしない。沖縄米軍基地の移設における首相と他閣僚とのちぐはぐな発言といつまでもハッキリしない首相。首相と官房長官の官房機密費についての公開、非公開と発言が変転した。失点や減点ばかりだ。でも、この事業仕分けのお陰で、鳩山内閣の支持率は、幾分下がったけれど、依然として高い支持率を確保している。

党を牛耳り、陰で、内閣を動かす小沢幹事長の不気味さ。この党の幹事長にモノ申せない、民主党の幹部と政府の要人たち。首相は、心とか、友愛とか、そんな言辞を弄(もてあそ)んでいて、ハッキリ言って国務には活かされていない。政務や行動で示して欲しいものだ。一体全体、沖縄の人の「心(こころ)」を、どうするんだ。

この事業仕分け結果が来年度予算に反映されるかどうかは、最終的には財務省の予算査定で決まる。廃止と評決された事業の所管省庁から、結果は参考程度にしかならない、との声もあるが、藤井裕久財務相は事業仕分けで出た結論は的確に査定するように主計局に指示した、と発言した。仕分けを尊重する考え方だ。どうかな、と私は疑問をもつ。

昨日で前半の事業の仕分け作業は終わった。この作業ではいろんなことが判明した。今後どのように政策にいかされるのか、じっくり見届けさせていただくことにしよう。

初日に行われた事業仕分けの結果は以下の通りでした。行政刷新会議のホームページの一部(初日分)を貼り付けさせていただいた。

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政府の行政刷新会議作業グループ(WG)による11日の事業仕分け結果の詳報は次の通り。
 ▽国土交通省
 【国土・景観形成事業推進調整費】年度途中で再開可能となった公共事業に充てるため、2010年度予算に200億円を概算要求。「ほかの予算分野の流用で対応できる」「厳格な運用が求められる」などを理由に13人中12人が廃止、1人が予算削減と評価し、廃止に。
 【下水道事業】概算要求は5188億円。仕分け人から「人口の少ない過疎地などでは、下水道よりも低コストな浄化槽などの汚水処理施設の整備を進める方が効率的だ」との指摘が相次ぎ13人中廃止1人、自治体の判断に任せるが7人、10%程度の予算削減が3人などとなり、判定は「地方自治体に財源を移した上で、実施は各自治体の判断に任せる」となった。

▽国交省、農林水産省
 【港湾、漁港、海岸、河川環境整備事業】バレーボール場や広場などレクリエーション施設の整備などに批判が集中し、予算の削減を求めた。

▽農水省
 【農道整備事業】都道府県の農道整備を国が補助する事業で、10年度の概算要求額は168億円。農水省は中山間地での農業生産性向上のため必要だと主張したが、「一般道と一体的に整備するべきだ。国が補助する根拠が不明だ」といった意見が相次いだ。11人中で廃止が6人、自治体の判断に任せるとの意見が1人、予算削減が4人だったが、最終的には廃止と判定された。
 【里山エリア再生交付金と田園整備事業】約90億円を要求。森林や用水施設、遊歩道など居住環境の整備を助成する里山エリア再生交付金と、都市と農村の交流目的で施設整備などを行う田園整備事業はいずれも廃止。重複する事業が多いことや効果が不明だとの指摘が多く出た。
 【農業農村整備事業】農村集落の下水処理施設の整備を進める農業集落排水事業は「自治体に財源を移譲し、判断を任せるべきだ」と、国が補助事業として行う必要はないとの意見が大勢を占めた。農業に使う水利施設の整備や維持を行うかんがい排水事業は「予算要求の削減」と判定。1774億円を要求しているが、20%程度の削減が適当との声が多かった。

▽国交省
 【道路整備事業】1兆2332億円を概算要求。仕分け人からは、費用対効果分析で効果が費用を上回って着手できる事業でも「コストをカットすべきだ」とコスト縮減を求める意見などが続出した。事業評価の厳格化やコスト縮減、道路構造令の柔軟化などにより予算の見直しを行うとした。
 【河川改修事業】1945億円を堤防の整備などに要求。「改修個所の個別の評価を行い、優先順位を明示すべきだ」などの意見が相次いだため、個所ごとの事業評価、コスト縮減のインセンティブの導入などにより、予算の見直しを行うと判定した。

▽厚生労働省
 【健康増進対策費(地域健康づくり推進対策費)】食生活改善の啓発活動で、厚労省は1億8600万円を要求。仕分け人から「国は情報提供だけで足りる」「農水省の事業と重複している」と、必要性を疑問視する意見が相次いだ。13人中8人が廃止、5人が自治体や民間への委託を選び、判定は廃止。
 【レセプトオンライン導入のための機器整備等の補助】厚労省は要求額215億円を151億円に減額する方針を表明したが、仕分け人から「所得が高い開業医に補助する必要はない」などと厳しい指摘が続出。13人中7人が10年度予算への計上見送り、5人が廃止、1人が民間委託との意見で「来年度予算の計上見送り」と判定された。
 【独立行政法人雇用・能力開発機構運営費交付金等】もともと「予算の無駄が多い」との指摘があり、麻生政権が08年12月に同機構の廃止と事業の大半を別法人に引き継ぐことを閣議決定済み。厚労省は「高度な職業訓練は国でしかできない」と主張したが、判定は「地方や民間への移管や業務のスリム化をさらに進めるべきだ」となった。
 【診療報酬の配分(勤務医対策等)】仕分け人は「小児科など医師が必要な診療科に報酬を重点配分すべきだ」「厚労省のこれまでの価格設定は失敗」と指摘。16人全員が配分の見直しが必要と判定し、開業医と病院勤務医の収入格差の平準化や、整形外科や眼科など収入の高い診療科の報酬引き下げなどを求めた。
 【後発品のある先発品などの薬価の見直し】主成分が同じで安価な後発薬(ジェネリック医薬品)がある先発医薬品について、後発薬並みの薬価水準まで引き下げるかどうかを議論。厚労省は「国内メーカーの開発意欲をそぐ恐れもある」と主張したが、15人全員一致で、一層の引き下げを必要とする「見直し」と判定した。
 【医療関係の適正化・効率化】医療機関や薬局に支払われる診療報酬の不正をチェックする厚労省の外郭団体「社会保険診療報酬支払基金」と「国民健康保険団体連合会」を統合すべきだとして「見直し」とした。入院時の食費・居住費も「見直し」と判定、「療養病床に比べ、一般病床の患者の自己負担は低い」と患者負担増につながる意見も。整骨院など柔道整復師の報酬請求の一部ケースで減額を求めた。
 【若者自立塾(若者職業的自立支援推進事業)】ニートなどの若者に合宿型の施設で就労体験をしてもらう事業で、10年度は3億7500万円を要求。作業グループでは対策の必要性自体は否定されなかったものの、08年度の利用者がわずか490人にとどまったことがやり玉に挙がった。12人中5人が廃止、4人が「自治体や民間に任せる」と割れたが、最終的には廃止が決まった。

▽文部科学省
 【施設関係独立行政法人】「青少年自然の家」などを運営する国立青少年教育振興機構と、教員研修センターは地方自治体にも類似施設があり「地方または民間非営利団体(NPO)に移管」。男女共同参画に関する研修を実施する国立女性教育会館は、役員報酬が高額なことなどから国からの運営費交付金(10年度概算要求額約6億円)を削減する。
 【子どもの読書活動推進事業と子どもゆめ基金】読書活動を進めるために教員や保護者向けの資料を作り、ネットサイトを運営する。「地方や市民レベルの活動があり、国が行う必要はないのではないか」との意見が出され廃止。「子どもゆめ基金」についても廃止の判定が出された。
 【スポーツ予算】地域のスポーツ施設整備やドーピング防止活動などの事業について、予算の大幅な削減が必要と判定。サッカーくじの収益をもとに独立行政法人日本スポーツ振興センターが実施する事業などとの類似が理由だ。
 【独立行政法人日本芸術文化振興会】芸術家への助成など振興会が関係する事業は、運営の方法に批判が目立ち予算の削減と判定された。
 【芸術家の国際交流等】若手芸術家の海外派遣など交流事業(要求額32億円)は、帰国後の活動状況を調査していないことなどから予算を削減。全国約5千カ所で小中学生に日本舞踊や茶道などの伝統文化を体験してもらう「伝統文化こども教室」など3事業(22億円)は「国として行う必要はない」となった。
 【放課後子どもプラン推進等】空き教室で子どもの居場所をつくり地域の交流も支援する放課後子ども教室推進事業は、厚労省の「放課後児童クラブ」と似ていると指摘されたが、「放課後の居場所は大事」と強調する声もあり、結論は「継続」「自治体に任せる」の両論併記。家庭教育支援基盤形成事業などほかの3事業はそれぞれ「廃止」や「自治体に任せる」などとなった。
 【学校ICT活用推進事業等】小中学校で配備が進む電子黒板やコンピューターなどICT(情報通信技術)機器を効果的に活用してもらうため、教員の研修などを実施する学校ICT活用推進事業(要求額7億円)は、機器そのものの必要性に疑義が示され廃止。新学習指導要領に基づく11年度からの小学校での外国語活動(英語)必修化に向けた「英語教育改革総合プラン」(モデル事業)も、教材の全児童らへの配布が無駄遣いなどと指摘され、廃止となった。
 【農山漁村におけるふるさと生活体験推進校事業等】小学生に自然の中で1週間程度の宿泊体験をさせるモデル事業。メンタルヘルスなどに対応するため、専門医を学校に派遣する事業と一緒に論議された。モデル事業として行われることに疑問の声が上がり、評価は「廃止」と「地方自治体へ移管」が拮抗(きっこう)。結論は「国の事業として行わない」となった。

2009年11月17日火曜日

「山西省残留」の真相究明に生きる

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新潟県生まれ、元陸軍兵長。

体内の砲弾の破片は、今も空港の金属探知機を通るたびに反応する。

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「山西省残留」の真相究明に生きる、奥村和一さん(85)。私には、この顔に見覚えがあった。

20091017 毎日新聞朝刊の経済・社会6面に、かって私のブログでも紹介したことのあるドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」の奥村和一さんのことを「ひと」で紹介されていた。世間は、もっとこの件に注目しなくてはいけないのではないか、と思うのです。以前、映画を観た時に手に入れたパンフレットを出してきて、復習してみた

何故、今、こんな時期にこのような記事を毎日新聞が取り扱ったのか、その理由は判らないのですが、この事件の実態を、行動を共にした戦友たち、無念な思いで亡くなった戦友のためにも、その真相を世に訴え続ける奥村さんにエールを送りたい。一緒に裁判を起こしていた戦友は、次から次に亡くなっていくなかで、資料整理に勤(いそ)しむ。奥村さんの奮闘記だ。

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この事件を、ここでもう一度おさらいしておきたい。

日本は1945年8月にポツダム宣言を受諾し降伏したが、中国山西省に駐屯していた北支派遣軍第1軍の将兵5万9,000人のうち約2,600人は、その後も武装解除を受けることもなく残留し、中国国民党系軍閥に合流、共産党と戦った。国民党系軍閥の閻錫山〈えんしゃくざん〉将軍から残留を強く要請された第1軍は、軍司令官・澄田中将や参謀長・山岡道武少将の企図、命令で特務団を編成した。このような不穏な動きに、日本軍全体の復員を担当していた作戦参謀の宮崎舜市中佐が派遣されたが、澄田や山岡は耳を傾けなかった。誤魔化したのだ。宮崎中佐は悔しがった。そして、残留兵は、敗戦後3年半も、共産党の軍と戦い続けた。映画の中で宮崎さんは、奥村さんの問いかけに、病院のベッドに寝込んだまま、当時の悔しさが蘇り、悲鳴まじりの聞き取れぬ声音と息を発し100歳近い老体を震(ふる)わせた。目には涙が溢れてきて、顔をぐじゃぐじゃにして怒っていた。

こんな馬鹿なことが事実として、あったのだ。

澄田は軍閥・閻錫山の軍の最高顧問に就いて指揮をとった。国民党軍の雲行きが怪しくなった頃、澄田や山岡は多くの将兵を残して、飛行機で脱出し日本に帰国した。結局、戦犯になるのを免れた。

捕虜となり抑留されて、1953年から54年に帰国したが、待っていたものは終戦翌年3月に「現地除隊」の手続きがとられ、軍籍を抹消されていた。

そして奥村さんたちは、国と政府を訴えた。残留兵らは、軍の命令によって残留したのであり現地除隊させられたことも身に覚えのないのだから、日本に復員するまでの軍籍が認められるべきであり、軍人恩給や戦死者遺族への扶助金も支払うべきだと主張した。

だが、政府見解としては、軍首脳の言い分をそのまま支持している。軍命はなかった。残留は兵士本人の意志によるものだと結論した。

この訴えは、2005年9月、最高裁は上告を棄却。口頭弁論は行われなかった。

(映画「蟻の兵隊」のパンフレットより。一部山岡が書き加えました。)

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以下は新聞記事のまま、転載させていただいた。

20091017

毎日新聞・朝刊。「ひと」

「山西省残留」の真相究明に生きる元日本兵

奥村和一さん(85)

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左耳は聞こえない。時折、体内に残った砲弾の破片が暴れだす。そのたびに「ウソの歴史を正すまで、死ぬわけにはいかない」と思う。

終戦後、中国山西省で国民党系の軍閥に合流した日本軍2600人の一人として戦った。上官から「共産化を防ぐことが日本の国体を守ることになる」と命じられての残留だった。砲弾の直撃で重傷を負ったのは、戦争放棄をうたった日本国憲法が施行された翌年。故国の土を踏んだ時は終戦から9年がたっていた。

待ち構えていたのは、ねぎらいではなく、厳しい仕打ちだった。軍命で戦ったのに、国は残留・抑留期間の軍歴を認めず逃亡兵扱いした。

戦友とともに国を訴えた裁判は05年に敗訴が確定。けれども、その経緯をまとめたドキュメンタリー「蟻の兵隊」(池谷薫監督)をきっかけに、日本軍の山西省残留問題が世に知られるようになった。

支援の声に後押しされて改めて裁判を起こすはずだったーーー。だが、「仲間の多くは亡くなり、1人になってしまいました」。今は資料の整理と、軍命の存在を裏付ける公文書の発掘に力を注ぐ。

「軍隊時代、兵舎で物が盗まれると、泥棒ではなく盗まれた兵隊が悪いという論理がまかり通ってた。このままでは残留命令に従ったものが悪いということになってしまう」

1ヶ月前、がんと診断された。予期せぬもう一つの戦いが始まった。「どちらも逃げるわけにはいきません」

2009年11月11日水曜日

3日は、七五三詣りだった

20091103。

保土ヶ谷区神戸町にある神明社で、孫2人の七五三詣りをした。神明社は、旧伊勢神宮領榛谷(はんがや)御厨(みくり)総鎮守)だ。

091103七五三詣り 052

七五三詣りは、満年齢で男の子は三、五歳、女の子は三、七歳になると、これまでの子供たちの成長と健康を感謝するとともに、さらなる今後の成長と健康を祈願する儀式として行われることになったようだ。昔?は数え年だったようです。

前日は雨が降った。本番、雨が降れば困るなあ、と心配していたが、今日は、雨(あま)っけがすっかりなくなって、よく晴れた。

今日、11月3日は文化の日だ。新聞〈朝日)を読んでいたら、「今日はなぜ『文化の日』?」という記事を見つけたので、その記事から今日の日のことを抜書きさせてもらう。文化の日は、48年の「祝日法」制定当時から続く祝日。11月3日は明治天皇の誕生日で、戦前は明治節だった。どんな経緯で明治節が文化の日に生まれかわったのか。憲法記念日とする考え方もあったようだ。山本勇造・参院文化委員長(作家の山本有三、「路傍の石」の著者だ)は、当時、11月3日をこう理由づけた。戦争放棄を盛り込んだ新憲法公布の日で忘れがたく、『自由と平和を愛し、文化を進める』、そういう『文化の日』ということに我々は決めた」。やや強引。ややこじつけ。自由や平和の日でもよかったのに---。

今日の七五三の主役のうち、七はなしで、五は私たち夫婦の次女・花の長男「ハ」で、三は長女・実の長女「カ」。

お祈りされる当の二人は、朝早くから初めて着せられた着物がうれしく、うきうきした気分でいたのは、傍にいる我らにも伝わってきた。カは、さすがに女の子で、頭に飾りの櫛をさしてもらい、和物の手提げを持って、気持ち良さそうだった。袴姿のハは、テレビの時代劇に出てくる侍にでもなったつもりで、家人の母の貴重な杖を借りて、バカ殿のチャンバラのフリをして遊んでいた。ハは、用意していた草履は、どうしても慣れなくて、いつものトラックシューズだ。そのバカ殿も、神前に行く前には、もう飽きた、と言っていた。神社の境内で、記念写真をバカバカ撮った。

京都から義母(家人の母)が来てくれた。この七五三詣りと、長男・草のお嫁さんの出産、あかちゃんを見るためだ。家族がふえて皆、楽しく暮らしている光景を、嬉しいと言ってくれた。静かに、我らの撮影会を眺めていた。義母には、横浜に滞在中、これ以外にも忙しい今後の予定が入っているのです。水戸に住んでいる堀川女学校時代の友達と東京駅大丸で食事会、飯能と府中に住んでいる小学校時代の友達と池袋東武百貨店でフランス料理で食事会、川崎の亡くなった夫の妹と、横浜駅で食事だ。82歳。私には、父も母も亡くなってもういない。どうか、健康でもっともっと長生きして欲しいと思っています。

いつもいる巫女さんが、特別な日なのにいなかった。神主さん一人で、何もかもこなしていた。式次第の説明から、神事の細事まで。宮参りの人もいたのですが、この若夫婦は子供に着物をうまく着せられなくて苦労していた。気付いた神主さんはその世話もやいていた。この赤ちゃんのおじいさん、おばあちゃんもいたのだが、この老夫婦は何も出来なかった。

主役の二人は、神前では恭(うやうや)しく、頭(こうべ)を垂れていた。神主さんからお札入りの袋と千歳飴を、ありがとう、と大きな声で受取っていた。今日の二人は、行儀良くできました。

千歳飴は、鶴亀松竹梅の模様が描かれた袋に入っていた。きっとお多福顔が描かれた飴で、切っても切っても同じ絵柄があらわれる長い飴だ。長く長く、幸せに暮らせるようにと願いが込められているのでしょう。

神明社は、私の会社の傍にあって、日ごろ何かとお世話になっている氏神様です。横浜市内で、いくつもある同名の神社の中でも、最も由緒の古い神社の一つとされている。天照皇大神宮を祀り、伊勢神宮同様、天照皇太神宮、豊受大神宮(外宮)がある。

 

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★神明社のパンフレットに保土ヶ谷・神戸の地名の由来が書いてあったので、ここに転記させていただいた。

一説によりますと、保土ヶ谷の地は昔、幡屋郷(はたやごう)と言われていましたが、平安時代の末期に伊勢神宮に寄進され「榛谷(はんがや)御厨(みくり)」と呼ばれるようになりました。そして榛谷がなまって保土ヶ谷に、また神戸とは神宮のご料地であったことからきていると言われています。

2009年11月9日月曜日

私の中のあなた

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映画=「私の中のあなた」

監督=ニック・カサヴェテス

姉・ケイト=ソフィア・ヴァジリーヴァ

妹・アナ=アビゲイル・ブレスリン

母・サラ=キャメロン・ディアス

父・ブライアン=ジェイソン・バトリック

テイラー=トーマス・デッカー  アレクサンダー弁護士=アレック・ボールドウィン

デ・サルヴォ判事=ジョーン・キューザック  弟・ジェシー=エヴァン・エリンクソン

ケリーおばさん=ヘザー・ウォールクィスト

映画館=キネカ大森(東京テアトル) 西友大森店5階

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映画好きの三女と私と家人の三人で、映画「私の中のあなた」を、先日27日の18:20から観てきた。

東京テアトルの大株主である家人を巻き込んで、その優待のおこぼれを、私と三女はお裾分けをいただいた形だ。隣のブーツと言うのか室では、今大宣伝中の「沈まぬ太陽」も上映していたのですが、我がチームは迷いなく、こっちの映画を選択した。「沈まぬ太陽」は山崎豊子さんの原作を2,3年前に読んでいたので、もうエエわ、という感じ。我が家の面々は、余り宣伝されると、急に嫌になるタイプなのです。映画が終わって、館外に出たときに三女に、俺又久しぶりに泣いちゃったよ、と言ったら彼女も、ウン泣かされたね、としみじみ言うではないか。映画としての出来栄えは、私には論評できるほどの能力は身に付けてはいない、だけど恥ずかしくなるほど泣けたのだ。

以下は、映画館で頂いたパンフレットの中の文章を、乱雑に抜書きさせていただいた。

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私の命はオーダーメイド。姉を救うために生まれた。でも、今、私はその運命に逆らって、大好きな姉の命を奪おうとしているーー。

アナ11歳。白血病の姉・ケイトを救うために、ドナーとして”創られて”生まれてきた。

ケイトに生きて欲しいーー。その想いは、家族みんな同じだと疑わなかった母・サラは、ある日、信じられない知らせを受ける。

「もう、姉のために手術を受けるのは嫌。自分の体は、自分で守りたい」と、アナが両親を訴えたのだ。

病気と闘いながらも幸せだった家族に訪れた突然の出来事。

いったい何故、アナは突然大好きな姉を救うことをやめる決意をしたのか?

そのアナの決意の裏には、驚くべき真実が隠されていたーー。

 

母・サラ=「言っとくけど、あの子を死なせるつもりはないわ。絶対にね」

妹・アンナ=「小さな頃、ママが言っていた。私は青空のかけら。ママとパパの愛の結晶だって。でも、あとになって、それがウソだって分かったのーー」

姉・ケイト=「私が死ぬのはかまわない。でも、私の病気のせいで家族まで壊れてしまうのは、嫌。」

 

全米の涙を絞り、かってないほど泣けることを約束したベストセラーが、遂に映画化!この物語に優しい命を吹き込むのは、「きみに読む物語」で世界中を涙で包んだニック・カサヴェテス監督。

母親サラ、フィッツジェラルドを演じるのは、ハリウッドのトップを走り続ける女優、キャメロン・ディアス。15年のキャリアをもつ彼女が母親に挑戦するのは初めてのことだ。母親を提訴する次女アナ役を名演するのは、「リトル・ミス・サンシャイン」で、11歳にしてオスカーにノミネイトされた天才子役、アビゲイル・ブレスリン。名女優の共演にも、期待が寄せられている。

〈家族とは何か〉〈愛情とは何か〉〈生きるとは何か〉と、さまざまな問題を問いかけながらも、決してシリアスな描写になり過ぎないように、笑顔と明るさに溢れた演出で、物語は進んでいく。時にはユーモアをもって優しいタッチで語られる物語が、切なさを倍増させ、観る者の心を見事に奪うのだ。大事な人を失うとき、人は、それぞれに違った反応をする。でも、その困難な中で、家族はまた、お互いへの絆を強めもするものだ。そうして物語は最も衝撃的で、最も優しい結末へとつながっていくーー。

それぞれの思い、そのすべては大好きな家族のため。さわやかに泣いた後は、生きていることへの感謝や、身近にいる人を愛することの大切さを、あらためて実感する。

松井ワールドシリーズで、MVP

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(キャップテンのジーターと抱き合って喜ぶ)

20091106の朝日新聞朝刊の1,22,38面、と天声人語、本日の新聞の中の松井秀喜選手の記事全てを、ここに転載させてもらった。こんな偉業こそ、ストックしておきたい。

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1面

耐えて7年 マツイの日

骨折・手術ーーー素振り信じMVP

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(2回、先制の2ランを放った)

大リーグ、ヤンキースの松井秀喜外野手(35)が日本選手初のワールドシリーズ最優秀選手(MVP)に選ばれて幕を閉じた第105回ワールドシリーズ。チームを9年ぶりの世界一に導いた男に対し、観客は試合途中から「MVP、MVP」と連呼して、その活躍をたたえた。

9年ぶりの優勝が決まって、松井秀喜はベンチから一直線に同い年でキャプテンのジーターのもとへ走り寄った。大リーグ7年目でついに頂へ到達した。

あの夏とは、逆だった。92年の甲子園大会。星陵高・松井の名は5打席連続敬遠で全国に広まった。今ポストシ-ズンは4番ロドリゲス敬遠、松井勝負の場面が度々あった。「おれは、(勝負されて)打ってるもん。プレッシャーなんて感じない」。世界一へ向けた強い思い。眉を上げて少しムッとした。第6戦も、2,5回にロドリゲスが際どいコースを攻められ四球で出塁。2度とも生還させた。

当時を振り返り「おれもおじさんになったな。選手としては、夕方4時くらいかな?」。シリーズ直前、冗談めかして松井は言った。順風満帆だった巨人時代とは違い、ここ数年は苦難の日々が続いた。06年5月には左手首を骨折した。07年オフに右ひざ、昨オフには左ひざを手術した。

ここ数年、取材中に一瞬、会話が途切れることがあった。「ひざは大丈夫?」。そう聞くと、「まあ、心配するな。何とかなるから」。オフに何度も聞いた言葉だ。楽観でも悲観でもない。周囲の不安な雰囲気を、いつもの甲高い声で和らげる。自分にも言い聞かせているようだった。

尊敬する長嶋茂雄・巨人元監督の教えだけは忠実に守り続けた。一心不乱にバットを振ることが、復調への糸口と信じて疑わなかった。「素振りにこそ打撃の全てが凝縮されている」。バットが空を切る音に耳を澄ました。

おかげで復調の兆しが見えた。今季は移籍後、2番目に多い28本塁打を記録。ワールドシリーズの第3戦では、流し打って左翼席へ本塁打を放り込んだ。パワーと技術がないと出来ない離れ業。「おれもまだまだ、いけるね」。うれしそうに話した。そして、日本選手で初めてMVPに輝いた。

戦いは終わった。しかし、松井にはもう一つの仕事が残っている。ヤンキースとの契約が今年で切れる。残留できるのか、移籍か。松井の考え方はいたってシンプルだ。

「守備機会にこだわる。ひざをさらに回復させ、もう一度、打撃と守備でプレーしたい」。高校時代からバットを振って、走って体を仕上げてきた。来季はそのプレースタイルにこだわる気持ちがある。それを受け入れてくれる球団はどこか、だ。

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天声人語

7年前、大リーグ挑戦を決めた松井秀喜選手は、記者会見で一度も笑わなかった。「何を言っても裏切り者と思われるかもしれないが、いつか『松井、行ってよかったな』と言われるよう頑張りたい」。そう、本当によかった。

背番号55の大活躍で、ヤンキースがワールドシリーズを制した。粘っての先制ホームラン、2本のタイムリーとも胸のすくう当たりだった。栄冠には、日本人初の最優秀選手(MVP) という宝石がついた。オノをぶん回すような巨体がそろう米国では、勝負強い中距離打者の印象が強い。イチロー選手がカミソリなら、ゴジラはナタの切れ味だろうか。どっしりと構え、狙いすまし、しなやかに一撃を見舞う。

耐える男にみえる。右足で細かく間合いをはかり、総身に火薬を満たしてなお、際どい球を見送る。会心の一発が出れば、喜びを押し殺してベースを回る。けがやスランプを理由に取材を拒むこともなかった。

「巨人の4番」を捨てた最初の選手である。日本にとどまれば何度もタイトルを取っただろう。ワールドチャンピオンにしても、何人かの日本人が先に経験した。4年契約の最終年、新装のヤンキースタジアム。野球の神様は、最後の最後に「マツイの日」を用意していた。

辛口で鳴らすニューヨークのファンが総立ちでMVPコールを送る。くしゃくしゃの相好で大男たちと抱き合う姿に、そうか、7年分の笑顔なんだと納得した。自分を裏切るな、迷った時は挑戦せよ、倒れるなら前に。いくつものエールを発する、いい顔だった。

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22面より

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(3回、中前に2点適時打)

ヤンキースの松井秀が、念願の「世界一」を最高の形で手に入れた。4日、王手をかけて臨んだワールドシリーズ第6戦は5番指名打者で4試合ぶりに先発出場。2回に先制2ランを右翼越えにに放つと、3回は中前に2点適時打。5回は右中間へ2点二塁打。4打数3安打6打点で、優勝とともに、日本人初のシリーズMVPにも輝いた。

日本選手がワールドシリーズに出場して優勝したのは、05年の井口(ホワイトソックス)、06年の田口(カージナルス)07年の松坂、岡島(ともにレッドソックス)に続いて5人目。全6試合に出場し、計13打数8安打8打点3本塁打、打率6割1分5厘の松井は、MVPにふさわしい活躍だった。

MVPコール  満場が熱狂

試合途中にもかかわらず、地元のヤンキースファンの一部から自然発生的に「MVP」のコールがわき起こった。5回。1死一、二塁で迎えた松井秀の第3打席だった。5球目の甘い変化球をとらえると、鋭いライナーが右中間を破り、試合の流れを決める2点を挙げた。総立ちのファンの拍手を浴びながら、二塁に到達した松井はニコリともしなかった。夢にまで思い描いたワールドシリーズ優勝をかけた大一番。不動の心を貫く35歳のプレースタイルは、いつもと変わらなかった。チームが勝つために何ができるかーー。2回の先制2点本塁打も、3回の中前2点適時打も、厳しいコースを攻められながら、相手の失投を見逃さずにとらえた。冷静に好球を待ち続ける意識が、勝負どころで見事に生きた。

第2戦では決勝のソロアーチを放ち、シリーズの流れを変えた。第3戦では代打でだめ押しの一発。打率6割1分5厘は、10打席以上立った打者に限ると、100年を超すワールドシリーズ史上歴代3位の高打率だ。松井秀は言う。「みんなの気持ちが勝ちに飢えていた。それが僕にもいい形で出たと思う」

ワールドシリーズで大活躍した選手は、名門ヤンキースでも「レジェンド(伝説)」と呼ばれる特別な存在だ、日本選手初のMVPに、松井秀は「大きな思い出になった」。伝統のピンストライブの球団の27度目の優勝が語られる時、フアンもまた「マツイ」の名前を永遠に語り継いでいくだろう。(村上尚史)

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38面

努力の天才 魅せた

松井MVPに歓喜

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(5回、2点適時打)

大リーグのワールドシリーズで最優秀選手(MVP)を獲得したヤンキースの松井秀喜選手(35)の活躍を、関係者は祝福した。

ヤンキーススタジアムでは、父の昌男さんら家族がスタンドから見守った。試合開始前に携帯電話に本人からのメールを受けた昌男さんは「頑張る、という内容で、今日はやりそんな気がした」と感激していた。

出身地の石川県も祝福ムードに包まれた。

甲子園で活躍した星陵高校時代、松井選手を指導した同高校野球部総監督の山下智茂さん(64)は、金沢市内の学校法人のテレビで試合を見守った。「ベンチの中での表情から気迫が伝わり、やってくれると思っていました。感動しています」

山下さんは今年6月、不調に苦しんでいた松井選手をヤンキーススタジアムに訪ねた。古傷のひざをさすって復調の願掛けをし、「今年こそ世界一になってくれ」と激励したという。「彼は努力の天才。今回の結果も、彼の頑張りがあったからだと思う。今はただ『おめでとう』と言いたい」と表情をほころばせた。

古巣の巨人からも祝福の声が相次いだ。

長嶋茂雄・元巨人監督は「MVPに選ばれた松井の笑顔を見て、涙が出るほどうれしさがこみ上げてきた。ワールドシリーズに勝つためにヤンキースに入団して7年、心身ともに苦労が多かったと思います」とコメント。

原辰徳監督は日本シリーズの試合前に「彼は世界一になる目的で巨人から海を渡ったのだから、本人も心の底から達成感を感じて喜んでいるんじゃないかな」と語った。

また、王貞治・ソフトバンク球団会長も「ここ一番の大勝負でヤンキースの主力選手として、チャンピオンを自分の手でたぐり寄せたことはすごい」と松井選手の活躍を喜んだ。

私に3人目の孫が、誕生!!

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(ようこそ。こんにちは、あかちゃん)

私たち夫婦に3人目の孫が生まれた。091108(日)、07:10。私たち夫婦の第二子で長男・草夫婦に、女の子が生まれました。

私は今朝、面会はできないのは判っていたのですが、入院中の病院が通勤の途中にあるので、兎に角寄ってみた。妊婦に、徹夜で付き添った息子に会って、様子を窺おうと思ったのです。病棟横の夜間入り口から、息子に電話したら、お父さん今生まれたよ、との返事と赤ちゃんの元気に泣く声が受話器から聞こえてきた。その赤ちゃんが泣いている声がそうなのか。そうや。よかったなあ!!、と答えたが、声帯の機能が急に変調、声がウルウルしてしまってそれ以上のことが言えなくて、お母さんには知らせておくから、と電話を切った。安心した。

息子にも「子ども」ができたのだ。

この父親は、いままでは、30年来の私の息子で、新米の社会人で、夫としては駆け出しだ。これからは、それに父親役が重なって担うことになる。この事実は重要だ。子どもの成長を見守って暮らす生活は、大変だけれど、私にとっては実に楽しく、生きがいをもてた。色んなことがあったけれど、楽しい思い出ばかりだ。新しく父と母になった君たちに、期待する。欲を言えばキリがないが、子どもを元気に有為に育てて欲しいと願う。そして、ここが肝心なのですが、君たちには、いい父親いい母親になって欲しいのです。

家人に子どもが無事に生まれたことを報告してから、約一時間程して、ところで、お父さん、子どもはどっち、よ? 男の子だったの?女の子なの? 緊張がほぐれた後の、なんと間抜けた会話だったことか。私たち夫婦の、4人目の子どもの時もそうだった、家人の母から無事に生まれたよ、と聞いた途端ヒザががくがくと崩折れ、生まれてきた子どもが女の子だったのか、男の子だったのか、聞きそびれた。友人に子どもが生まれたんだ、と報告したら、どっち、よ?男の子?女の子?と言われて、慌てたことを思い出した。

2448グラム、少し小ぶりな女の子で、全体的には我が山岡系の顔ではなく、母親似でしたとは家人からの知らせだ。つい、良かったなあ、と言ってしまったのには、日頃の思いが口に出たまでのこと。

昨日08:00破水があって、その足で入院した。実に24時間の耐久レースだった。最後の5時間は分娩台で悲鳴を上げながらの大格闘だったようだ。産婦は、今(昼)、ベッドでぐっすり寝込んでいますので、ご安心ください、とは息子からのメールでした

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(俺が親父だ、よろしく!!)

 

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(俺は、君の親父のオヤジだ)

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                             (めっちゃ、かわいい)

仕事を早い目に終えて、病院に行った(18:20)。マスクをしないと入れませんと守衛室で指摘され、マスクを自動販売機で買った。1箱2個入り100円だった。新しくお父さんになった息子・草は、小さなベッドに寝かされた子供と、じっとにらめっこ状態だった。ちっちゃな体だったが、存在感はあった。美人になるなあ、と直感した。でも、鼻は間違いなく山岡家のモノだ。指の腹で顔を触った。つきたての餅の薄皮のようだ。私たち夫婦から生まれた4人は、どれも大きかったので、そのちっちゃさに驚いた。お父さん、抱いてみる、と言われたけれど万が一のことを考えて遠慮した。王姫はぐっすり眠っていた、が時々、顔の一部を動かすのを見て、息子と私はニンマリ微笑み合った。

お父さん、めっちゃ可愛いわ。そりゃ、そうだよ。この私の息子も、親父になったのかと私は感無量だった。このようにして、世代が継がれていくのだ。

20:00には、退館しなければならない。息子に晩飯を食いに来いよと言って、私は先に自宅に向かった。

2009年11月4日水曜日

晩秋の国道1号線を歩く

10月22日、金融機関の役員や担当者らと、湘南地区某所の大手建設会社の社宅を、リノベーションして再販する事業の可能性を探るため、現地で打ち合わせすることになっていた。

戸塚影取にもう一つの検討中のプロジェクト案があって、その企画も急がなくてはならなくて、弊社のスタッフだけは、22日の早朝に湘南地区に足を踏み入れる前に、この戸塚影取に集合することになった。

私は、はたと考えたのです。権太坂から車に乗って会社のある天王町まで出るぐらいなら、このまま自宅から歩き出して、戸塚影取に到着さえすれば、後は車に乗せてもらえる。確実に決められた時間内に着きさえすれば、全てオッケーだ。

今年の夏には、恒例の真夏の長距離散歩ができなかったことを思い出して、急遽晩秋長距離散歩を決行することにした。今回は全長約12キロメートルだ。人間の体には1年(強)に、半年(中)に、3ヶ月(中)に、1ヶ月(弱)にそれぞれ1度は、筋肉に強中弱とストレスをかける必要があるのだ、と考えているのです。

06:45に家を出た。環2境木、環2平戸、不動坂から横浜新道に入って、戸塚警察、原宿。会社に向かっている同僚に、私は歩いて戸塚影取に向かっているので、俺のことは気にしなくてもいいから、と携帯電話で知らせた。

横浜新道は、神奈川区常盤台から戸塚区上矢部に至る4,5キロメートル。

不動坂交差点から大坂上までの道路を、ワンマン宰相と言われた吉田茂首相が、大磯の自宅と東京の行き帰りに、国道1号線の戸塚駅隣の踏切で、長時間電車の通過に待たされることが度々あって、そのことに業を煮やして、踏み切りを通らなくてもすむように、バイパスとして作ったのです。その吉田茂首相のワンマンぶりから、世の人々は、この部分の道路のことを愛と皮肉を込めて「ワンマン道路」と言うようになったそうだ。

どんなことがあっても、08:30に戸塚影取に着いていなければ、その後のこともあって、スタッフに迷惑をかけることになる。この私が、皆に迷惑をかけるなんて絶対許されないことだ。いつものペースではなく、2段ぐらいギヤーを高速にいれた。風はひんやりしているのですが、汗がシャツに滲んできた。額の汗のつぶが下がってきて、目に入る。

車の排気ガスが、以前よりも少なくなっている。かっては、黒煙を噴射しながら走っていた車もあったが、私が歩いている間はそんな無節操な車は走っていなかった。廃ガス規制をしているからなのだろう。かって、道路脇にある建物や工作物などは排気ガスで煙ったように黒ずんでいたものでした。

洗濯物を干したままの家がある。昨夜は帰って来なかったのか、それとも今朝洗濯物を干して出かけたのだろうか。干してある洗濯物の中に女物もあるので、軽く目を向けただけで、じろじろ見ることは避けた。空き巣泥棒なら、こんなことでも狙いどころにするんだろう。干してある洗濯物で、その家族の構成や職業、年齢、生活の豊かさ度合いまで想像がつくのですが、余り品のよくない思いつきだと恥じた。

家の周りに、その家の家業に必要な物なのだろうが、工事道具や、建材やらが乱雑に積み上げられている家もある。もう少し片付ければ、いいのにと思う。そんなことにかまっていられない程に忙しいんだよと怒られそうだ。お金にも忙しいのかも知れない、と思いついてこれもいやらしい想念だと恥じた。

歩道の整備が行き届いていない所が、いくつもあった。普段余り歩く人が少ない所なんだろうが、やはり整備しておいて欲しいと思った。老人が歩く所を見つけだせないようでは困るではないか。旧国道一号線と横浜新道が交わる辺りです。

柿が、あちこちの畑や家の庭先に、たわわに実っていた。子どもの頃、高さ10メートルもある柿の木になった柿を、秋から冬にかけて全部食ってしまうほど好きだったのです。餓鬼でした。八百屋さんに並んでいるような大きくて立派なものではなかったのですが。私には、昔から真っ赤になった柿には理性を失ってしまう性癖があって、ほんの5,6年前まで、他人の柿を黙って採(盗)ることが悪いことに決まっているのに、気付いた時には、もう口の中で噛み砕いていたものなのです。他人の柿を失敬することは善くないんだ、ということが、どうしても解らなかったのです。制御が利かなくなるのです。私は柿泥棒だったのですが、この手の罪の意識の薄い犯罪者は他にもいるように思う。ところが、5年前からイーハトーブの果樹園を自前で保有することになってからは、こんな恥ずかしい行為をすることは、自然になくなった。豊かになったのです。犯罪を減らすためには、やはり豊かにならなくてはならないようですね。

原宿を過ぎたところの交番で、交番の前に立つお巡りさんに、お早うございますと声を掛けられた。突然だったのですが、上手く大きな声でお早うございますと、返礼できた。好(よ)かった。この数年間、神奈川県警は不祥事が続いて、肩身の狭い思いをしてきたのだろう、名誉挽回の一策として、いつごろからか、交番前に立っての警らを始めたのでした。学生時代、角棒でジュラルミンの盾に衝突してから、警察官を見るにつけ、小突いてやりたい衝動に駆られてきたのですが、こんな挨拶されちゃって、にっこり笑って応えてしまった私は、いつの間にか普通のオジサンになっちゃったみ・た・い。どうせ、交番前で立って警らをするんだったら、運転中の携帯電話は駄目よ、とか脇見運転は危険だよ、お父さん、飲酒運転しないで帰ってきてね、なんて標語の書いた幟(のぼり)でも掲げてみたら、どうでしょうか。

08:10に戸塚影取に着く。所要時間は1時間25分。鳩首、残念ながらこの物件の企画を没にした。

2009年11月1日日曜日

恋は永遠ですか?

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朝日・朝刊

オーサー・ビット2009より2話

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☆ 瀬戸内寂聴さん

瀬戸内さんの波乱万丈の人生を知ってか生徒からは「恋と愛の違いは?」「恋は永遠ですか」と質問が相次いだ。

「恋は仏教では『渇愛』と言う。愛するだけでは足りず愛されることを求めるのね。仏教で『慈悲』と呼ぶのが愛。見返りを求めません」「恋は残念だけれど永遠じゃないわね。アメリカでは長くて4年と言います。私は2年だと思う」

(岩手県立福岡高校浄法寺校と、二戸市立浄法寺中学校の生徒、保護者、公募の市民を前に)

 

☆亀山郁夫さん

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エリート意識にとらわれ、金貸しの老人を計画的に殺した若者。だが、「この主人公を嫌いだ、許せない、と思った人は?」と尋ねると、手を上げる者はいない。「どうしてかな」。首をかしげる生徒たち。亀山さんはやさしく説いていく。

それは『罪と罰』が善ではなく、悪と同化させる力を持つ物語だから。読者は悪の主人公と一体化することで、善悪とは何かと自問し始める。つまりこの物語は、考える魂を目覚めさせる「最初で最後の童話」だという。

「じゃあ、主人公に科された刑をどう感じた?」。2人の女性を殺したラスコーリニコフは、流刑地での強制労働8年という刑を言い渡される。「人を人とも思わず殺した」という点で、亀山さんは、昨年の秋葉原無差別殺傷事件を引き合いに出した。「秋葉原の犯人は、極刑を免れないかもしれないのに」

時代を超えた二つの凶悪事件の犯罪心理は、生徒の関心事でもあった。女子生徒の一人が意見を述べた。「ラスコーリニコフは自白したけれど、反省はしていない。苦しみから逃れたかっただけだ」。異論は出ない。いよいよ謎だ。彼はなぜ、たった8年の刑だったのか?

亀山さんが沈黙を破った。「刑を軽くしたのはドストエフスキーが主人公と読者に与えた、死ぬな、生きろ!というメッセージなんです」

(愛媛県立松山西中等教育学校の生徒を前に)

シラケ鳥が、鳴き止まない

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先の衆議院選挙で自民党が大敗して、逆に言えば民主党が大勝して、その後自民党の総裁選では谷垣禎一氏が選出されて、やっと、28日国会が開かれた。初日、鳩山由紀夫首相の所信表明演説に対して、各党の代表質問が始まった。トップバッターは自民党の谷垣禎一総裁だった。

質疑の内容については兎も角、ここで話題にしたいのが、自民党のシラケ具合が余りにも酷(ひど)過ぎることだ。私は、私なりに自民党が糞根性丸出しで、なりふり構わず矢(や?)るのでは、と期待していたのです。谷垣総裁の質問にも、お利口で上品で頭のいい人なのはよくわかるのですが、野党の党首としての迫力が余りにも無さ過ぎる。衆議院選挙大敗の総括をきちんとして、自党の目指す国づくりの方策を練り上げて、この国会に臨む戦略を構築したのだろうか。民主党に対抗できるだけの案を作成したのか。否、なあ~んにも、党内論議をやってないのではないのか、そのように思われた。やっと議論をぶつける正念場に差し掛かったというのに、何よりも、自党の総裁が代表質問の座についているのに、聞き入る同僚議員の真剣の無さ希薄さが、丸々テレビ画面に映し出されて、視聴する側をウンザリさせた。元首相の、森、安倍、福田に麻生らの間抜け面(づら)がひな壇状に並んでいた。

国会議事堂の上空にも、私の頭の上にもシラケ鳥が、シ~♭~ラ~♯~ケ~、群れ飛んでいる。

そして昨日、29日のこと。仕事で川崎区高津区の野川に行くために、田園都市線の宮前平駅からタクシーに乗ろうとして、構内乗り場で客待ちの車のウインドウーをコブシで叩いたが、運転手が私の存在になかなか気が付こうとしない。思い切り強く叩いて、やっと気付いた運転手は、恐縮して平謝りした弁解の内容は、自分の不注意と言うよりも、ラジオで聞いていた国会中継の内容にいささか頭にきていたようで、そのことが恰(あたか)も気が付かなかった原因のように、ベラベラ喋りだしたのでした。

まずは、タクシーの利用者が、この1,2年で俄然減ったことを嘆いた。土曜、日曜は全く客はいません。遊びにはタクシーを使ってくれません。ビジネスで急いでいる人以外は乗ってくれません。そんな不景気の折、何ですか、あの国会での討論はどういうことなんですか。白けちゃってますよね。自民党は、腐ってしまいましたね。民主党も、可笑しいですよね、政務三役はよく働いているようだけど、なんですか、あの小沢という奴の威張り腐った態度と、鳩山のいう友愛は、本当に本気なんですかね。不安ですな。

民主党は開催される各委員会での審議の過程を公開して、民意を汲みながら民主的な手法で進めようとしているんですよね、小沢さん、鳩山さん。これって、民意を諮(はか)るってことでもあるんだよね。でも、その気はあるようだが、そのようでもなさそうだ。

今やっている国会の与野党の攻防も、あれは国会の討論になってないですよ。そりゃそうですよ、政権党が変わったのですから、与野党が噛み合わないのは当たり前ですよ、と運転手に言っても運転手は腑に落ちないようだった。

自宅に帰って、夕刊の新聞を読んで、また驚いた。谷垣総裁は、初めての党首討論で、気負ったのか、動転したのか、元々変な奴なのか、この聖なる国会で、禁忌、避けなければならない言葉を発した。過半数を大いに超した民主党の議員の野次や拍手が整然と行われ、大いに気分を害したのだろう、頭にきた谷垣総裁は、突然、民主党議員の集団を、「ヒットラー・ユーゲント」になぞらえた。ヒットラー時代のナチス党内の青少年組織だそうだ。良識派の谷垣総裁が、質問の最中に頭に浮かんだ言葉を、口から漏れ出すままにストップがかけられなかったようだ。

こりゃ、なんちゅうこっちゃと、思った。が、直ぐに民主党の最大の実力者である小沢一郎幹事長の顔が脳裏にちらつき、言葉選びは賢明ではなかったが、谷垣総裁が言いたかった本意は、なんとなく理解できた気がした。小沢をヒットラーだとは決して言ってはいませんので、ご理解をお願いします。民主党の新人議員に対して、小沢幹事長は、高級官僚を30年もやってきた人たちにさえ、君ら1年生議員の仕事は、政務ではなくて、選挙と国会?だと叩き込まれているのです。だから指導者に従ったまでのことなのです。

この民主党も危険千万だ。今後、要注意ですぞ。

2009年10月23日金曜日

「むべ」の実を初めて食った

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先日、横浜市泉区の中古住宅の物件調査に行った。住宅の家並みから、少し離れた農家の庭先に置かれていた野菜の無人店舗で、昼のラーメン用の野菜でも買おうと思って覗いてみた。この近辺に寄った時には、時々ちょこっと覗き見することがあるお気に入りのお店なのです。たまたま10円足りなくても、スマンと謝ればすみますから。でも決して常習犯ではありません。実家は農家ですから、働く農民の根っからの味方です。品物は、毎度御馴染みの、大根の間引いたもの、ネギ、柿、ニラ、薩摩芋、ジャガイモ、キャベツ他にも何かあったが、憶えていたのはそれぐらいだ。

それらの商品の横に、一人一個差し上げますと走り書きされたメモが添えられた「ムベ」が籠に入れてあった。ムベと書かれていて、読んでも、私には初見(はつみ)の実だ。秋で、落葉だ。季節柄、アケビに似ているなと直感した。一つ手に取って見ると、ほんふぁりと柔らかった。色は薄赤紫だ。匂いを嗅ぐと甘い香がした。一人一個とは書いてあるが、私は特別二個頂いた。だって、私はこの店の上顧客なんですから、神は許し賜るであろう。

むべと運動会 005

その無人店舗の前の道路を跨いだところに、藤棚のようにつるがぐるぐる巻きに棚を作っていた。そのつるからたくさんのムベが鈴なりになっていた。きっとこの無人店舗の店主の屋敷なのだろう。キュウイのようにたくさんの実がぶら下がっていた。

自宅に持ち帰って家人に、この実のことを説明しても、一向に興味を向けてこない。ならば、私が独占的にいただきますよ、と言って、半分に切ってみた。果皮は厚く固かった。果皮の中には、乳白色の粘液が黒いヒマワリのような種の隙間に詰まっていた。それをスプーンで種ごとすくい出して、種ごと口の中に入れ、乳液を喉に下して種をぺっぺと吐く。スイカを食べる時と同じ要領です。

むべと運動会 008

むべと運動会 009

甘い。甘かった。アケビを最後に食ったのは、もうかれこれ50年近く前のことなので、その味の記憶は薄いのですが、アケビもたしかに甘かったが、ムベの方が糖度においては高そうだ。アケビも食べられる部分が少なかった。それでも、子供の頃、猿並みの山遊びの最中には貴重なおやつでした。それにしても、50年前とは、年月の経つのは早いものですね。百代の過客なんて言葉を思いだしたが、その意味はどうでしたっけ。キュウイは果皮の中に、しっかりした果肉が詰まっていて、小さい種は邪魔にはならずに果肉と一緒に食べられるので、商品としては十分流通しうるだけの資格があるように思うのですが、ムベの場合は、アケビと同様食べられる部分が余りにも少なさ過ぎる。これじゃ、売れない。天智天皇の時代には、貴重だったようですが。

それにしても、今回、ここでこの果実ムベに巡り会ったお陰で、食することができたのです。この機会が無かったら、一生ムベを知らずに死んでいったかも知れないのですから、今日の物件調査はそのものに大いに意義があったことに、初物(はつもの)体験が重なって、幸せな気持ちになりました。

注。文中、「むべ」を読み易くするために「ムベ」と片仮名にした。

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学習しよう=「むべ」の名前の由来をネットで見つけた。古文で「むべなるかな」という言葉に由来するそうです。以下は、ネットの文章をそのまま転載させていただいた。私の生まれ故郷のお隣で、その名が生まれたようなので、なおさら注目することに「むべなるかな」ということです。

では~。

その昔、大津に都があった時代(667~672年)、天智天皇が『蒲生野(がもうの)、湖東地域;愛知川と日野川の間の地域』に御遊猟に出かけた際、この地に立ち寄られ八人の男児をもつ元気な老夫婦に出会い,「汝ら、いかに斯(か)く長寿ぞ?」と尋ねられたそうです。

そこで老夫婦が「この地で採れるこの実を食べているためです」と説明したところ、「(むべ)なるかな」(なるほど、それはもっともなことだ)、「斯くの如き霊果は、例年貢進せよ」と仰せられたのです。それ以来、この果実を「むべ」と称するようになった、とさ。

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提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(私の方で、勝手にダイジェスト、編集させていただきました)

ムベ(郁子)

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ムベの実

分類
アケビ科
ムベ属

和名

ムベ(郁子)
トキワアケビ(常磐通草)

ムベ(郁子、野木瓜、学名:Stauntonia hexaphylla)は、アケビ科ムベ属の常緑つる性木本植物。別名、トキワアケビ(常磐通草)。方言名はグベ(長崎県諫早地方)、フユビ(島根県隠岐郡)、イノチナガ、コッコなど。

特徴

日本の本州関東以西、台湾中国に生える。柄のある3~7枚の小葉からなる掌状複葉。小葉の葉身は厚い革質で、深緑で艶があり、裏側はやや色が薄い。裏面には、特徴的な網状の葉脈を見ることが出来る。

花期は5月。花には雌雄があり、芳香を発し、花冠は薄い黄色で細長く、剥いたバナナの皮のようでアケビの花とは趣が異なる。

10月に5~7cmの果実が赤紫に熟す。この果実は同じ科のアケビに似ているが、果皮はアケビに比べると薄く柔らかく、心皮の縫合線に沿って裂けることはない。果皮の内側には、乳白色の非常に固い層がある。その内側に、胎座に由来する半透明の果肉をまとった小さな黒い種子が多数あり、その間には甘い果汁が満たされている。果肉も甘いが種にしっかり着いており、種子をより分けて食べるのは難しい。自然状態ではニホンザルが好んで食べ、種子散布に寄与しているようである。

利用

主に盆栽や日陰棚にしたてる。食用となる。日本では伝統的に果樹として重んじられ、宮中に献上する習慣もあった。 しかしアケビ等に比較して果実が小さく、果肉も甘いが食べにくいので、商業的価値はほとんどない。

茎や根は野木瓜(やもっか)という生薬で利尿剤となる。

ムベの花(4月末から5月)

ムベの実(断面図)

2009年10月20日火曜日

黄落(こうらく)

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著者・佐江衆一

発行・新潮社

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作者(夫)は、自分たち夫婦の壮絶な老老介護の実体験を、文学作品に仕上げた。迫真のドキュメンタリーです。

湘南に住む還暦間近の夫婦に92歳の父と87歳の母を介護することになった。物語は、栃木県に住む老父母を自分たちの近くの貸家に住まわせたことから始まるのです。

母は転んで、大腿骨を骨折する。手術で人工骨を埋める。夫は交通事故を起こして入院。母は入院してリハビリに励む。妻の腰痛が激化。母は痴呆を発症する。母は退院して自宅に戻るのですが、喧嘩でもしたのか、錯乱か一時的な感情の高ぶりか、深夜父の首を絞めるようなことが起こった。ベッドのなかにいる時間が長くなった。自の意志で絶食を仕掛ける。衰弱が進む。妻は介護に疲れ、夫婦関係も最悪の状態に陥り、離婚して妻を解放してやらねば、と考えるようになり、そのことを妻に話すと、妻はその前に、あなた、お母さんのオムツをかえてみたら、と言われ、慣れない手つきでやってみたものの、耐え難いものだった。妻は懸命だ。褥瘡(学習=じょくそう・床ずれのこと)にならないように、体の位置をこまめに変えてやる、便秘気味の糞詰まりを指で栓になっている便をとる。

介護疲れで夫に何も話さなくなった妻。妻の介護の努力は涙ぐましく、献身的だった。母が最後のお話があると枕元に自分の息子とその嫁を呼びつけ、あ・り・が・とう、と言った。その後には、私は結婚してないのよ、とも言った。何かがあったのだろう、父を許していないようだ。母の容態を窺う父を、シッシッと追い払う母。最期には、こ、ど、も、とうわ言を言った。だが、母は介護も空しく命を絶った。

夫として、妻に母の介護に対する感謝の言葉の一言もかけてやれなかった悔いと、そのことを娘から叱責されたことにショックを受けた。

父を夫婦の家に引き取る。それから、夫婦は今度は父の痴呆に振り回される。その顛末に悲しくなることが多いが、辛いけれど懸命に介護に励んだ。病院や介護施設への送り迎えのために軽自動車を購入した。夫は、長年の持病だった痔ろう『痔の薬の宣伝コピーでは、「じ」ではなく「ち”」を使ってますね、何故だ?ち(血)が出るからか』の手術入院をする。父をショートスティの養護施設に入所させる。週に1回の大学の講師としての仕事を辞める。入所中に、この時とばかりに、妻を連れてスペイン旅行に出かけた。この施設で、父に恋人ができた。退所後は、ラブレターの交換が始まる。徘徊が始まった。恋焦がれ合う年老いたカップル。自殺を仄(ほの)めかす父、そのため四六時中警戒していなければならない。父の部屋の様子が気になって、夜は眠れない。小田原に住む彼女から父に会いたいと、電話をかけてくるようになった。彼女に会いに行きたがる父。

また妻には、自分の老母がいてそちらの方にも、泊りがけで介護に行かなければならなかった。

私=ヤマオカがこのような事態になったら、私は一体どのような行動をするのだろうか。主人公のように、父母に接することができるだろうか。母と息子とその妻とのことについては、過酷な介護の中にも心温まる意思の交流があって、読者の気持ちを少しは治まらせてくれるのですが、男親である父の場合は、一人で居るときは、腹がへった、目が見えない、聞こえない、あ~あ、とかう~うとか意味もなく大声上げて、静かにしているなと部屋を覗き見れば、貯金通帳を長々と眺め、そしてお金を何度も何度も数えたり、それでも好色だけは衰えず、二階からは唾を吐くこともあって、この父を介護する側からは、どうも可愛くなく、愛嬌もなく、気持ち悪くて、介護相手としては難物過ぎるのです。私=ヤマオカも、こんな難物になるのだろうか。

著者はこの作品でドゥ・マゴ文学賞を受賞した。

(注。パリのドゥ・マゴ賞(1933年創設)の持つ、先進性と独創性を受け継ぎ、既成の概念にとらわれることなく、常に新しい才能を認め、発掘を目的に創設された。bunnkamuraが主催する文学賞。)

この本の中で、感動した一場面を、この場に及んで思い出した。母は息子の嫁に下の世話から何から何までお世話になりっぱなしで、気を揉む日々が続く。これから先、どれほど長く自分は、この息子の嫁にお世話になるのか、時には絶望的になることがあって、そんな時、母は嫁に聞いたのです、「これから、私はどうすればいいの?」。その質問に嫁は「いいのよ、このままでーー」と応えた。私は、この問答を読んで、瞼が熱くなった。できた嫁さんだ。

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ところで、私のことだけれど。

私には、介護する父も母も、もういない。

私の兄は、私よりも5歳年長なのですが、母の時も父の時も、体を酷使する農作業の合間に、病院への送り迎え、入院中にも毎日必ず様子を窺いに顔を出し、医者と打ち合わせをし、退院後は自宅での療養の手助けをよくぞマメにやってくれた。兄嫁は、宗教には熱心なのですが、実生活では頼りにならなかった。何の為の宗教なのか、この人に限っては、宗教なんて屁の突っ張りにもならない(この表現は、私の田舎ではよく使うのですが、何の役にも立たないし、何の効能もないときに使う常套句です)。そんな妻に対して兄は、何も文句も苦言も発しなかった。面倒なことは一身に引き受けてくれた。

この小説を読んで、私には介護する老人がいないので、介護する側からではなく、介護される側の私のことについて、考える時間をいただいた気がする。きっと私も時間の経過と共に、必ず老いる。そして、必ず私にも介護の手が必要になる時がくる。自力で在宅療養、それから民間ヘルパーのお世話になる、それから介護施設、病院へと、どのような経過をたどるのだろうか。

そこで、子ども達にはできるだけ負担を少なくしたい。負担をかけなくて済まされるものなら、そうしたい。できるものなら、自分の身の処し方ぐらいは自分で判断して、その選んだ方法・手段で、余生を暮らすことができれば最高なんだろうが、本当に、できるのか、不安だ。

果たして、私にはどんな老後が待ち受けているのだろうか。

2009年10月18日日曜日

虹の岬

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著者・辻井 喬

発行所・中央公論社

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著者・辻井 喬と言えば、豪腕な政治家で西武の創業者でもあった堤康次郎の息子であり、セゾングループを育て上げた経営者でもあった。今は経営からは離れ、セゾングループとの関りは、唯一セゾン財団の理事長としてのみだ。経営者だった時には、その名は堤清二だった。この作品「虹の岬」で、谷崎潤一郎賞を受賞した。

私も、学校を卒業してから最初にお世話になったのが、かって西武鉄道の持ち株会社だった。その会社を退職してからも、西武の関連会社とは、仕事上お世話になる機会が多くて、堤清二(辻井喬)さんの名前は、しょっちゅう聞かされた。彼の人となりを社員の口を経て聞かされるものの、実際には会ったこともないのですが、彼の大学時代のこと、父・堤康次郎衆院議員議長の秘書として、文化性を取り入れたセゾングループの代表取締役として、それから詩人、小説家、文化人、評論家としての才智に凄く魅いられていたのです。

西武鉄道の堤義明氏については、会社からは9年半給料を頂き、現実に観光宣伝物についての決裁をいただく機会があったので、それ以外にも他の社員から色んなことを聞かされ、それらしきイメージはできていたのですが、セゾンの社長さんのことは、茫漠としたままだった。

その辻井喬さんの「父の肖像」(野間文芸賞)は既に読んだ。35年来の友人がその本を貸してくれた。そして今回のこの本「虹の岬」のことは、書名は随分前から知っていたのですが、手にとって読む機会はなかった。そして1ヶ月前、何とかオフの古本屋さんの105円コーナーで見つけた。躊躇うことなく何冊か買った中に入れた。

最初の2,3ページを読んでいるうちに、頭を過(よ)ぎった思いが、ページをめくればめくるほど、その思いが段々大きく確信に近いものになった。著者は学生時代から詩作などに才覚を見せ、それからは自らも起業し大成功を果たしたことなどが、本の主人公・川田 順と少し似ているように思った。それらが、次に記した妄想が沸き起こった理由の一つかも知れません。

ここからは、私一人の禁じられた妄想とでも片付けてもらいたい。著者にもこの本の主人公のような秘められた恋愛体験をおもちなのではないか、と着想した。著者の手鏡に主人公が映(うつ)ったのだ。そして、この本を書き上げようと決心されたのではないだろうか。スマン、繰り返しますが、これは私の妄想だ。この稿の読み人は、軽く、軽くに処理してください。が、詮索にストップをかけるのも、詮索を続けるのも、各自御随意に。そんなことを、想起させるほど、著者は主人公・川田順の愛情物語に入れ込んでいる。あっと言う間に読み終えた。熱心な読者のヤマオカにも、きっと老いの波が寄せてきているのだろうか。身を乗り出して読みました。

昭和23年の川田 順が恋に悩み自らの命を絶とうとした古典的事件が、急に、現在に艶(なま)めかしいものになって、読者に刺激的に迫ってくる。どうせ読むなら、読書の手法としては少し品には欠けるが、読者の雑念を行間に放り込んで読んだ方が楽しい。この老いらくの恋を、私の体の中に、うらやましく思っている虫が棲んでいるわけではないことを、ここに断言しておきます。

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さて、物語は終戦を挟んだ時期に、歌壇の重鎮だった川田順の老いらくの恋の巻でした。

この老いらくの恋を自ら、歌にしているので、それをネットで見つけた。本の中にも、歌はあちこちに出てきます。これらを詠めば、すっかり彼の恋愛がどういうものだったのかが、容易に理解できます。

 

*樫の実のひとり者にて終わむと思えるときに君現れぬ(歌作、研究中に出会った)

*相触れて帰りきたりし日のまひる天の怒りの春雷ふるる(逢瀬の帰りか?)

*たまきはる命うれしもこれの世に再び生きて君が声を聴く(自殺未遂後)

【注、たまきわる=魂きわる、枕言葉で命や世にかかる。日本語大辞典 講談社】

*何一つ成し遂げざりしわれながら君を思うはつひに貫く(安穏な生活に戻って)

 

若き日の恋は、はにかみて

おもて赤らめ、壮士時の

四十歳の恋は、世の中に

かれこれ心配れども、

墓場に近き老いらくの恋は、

怖るる何ものもなし。  (「恋の重荷」序)

 

はしたなき世の人言をくやしとも悲しとも思へしかも悔いなく  (俊子)

 

げに詩人は常若と

思ひあがりて、老いが身に

恋の重荷をになひしが、

郡肝疲れ、うつそみの

力も尽きて、崩折れて、

あはれ墓場へよろよろと(「恋の重荷」)

【注、うつそみ=うつせみ(現身) ①この世の人 ②この世、現世)日本語大辞典、講談社】

 

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ストーリは、ネットに、当時の朝日新聞の記事や、他にも載っていたもので、充分理解して貰えると思ったので、それを借用させていただいた。

老いらくの恋(朝日新聞より)

昭和23年12月4日「朝日新聞」社会面トップの見出し、
「老いらくの恋は怖れず。相手は元教授夫人。
川田順は昭和11年まで住友コンツェルンの常務理事として実業界で活躍する一方、歌人としても『西行』、歌集『伎芸天』などの著作を多数持つ歌壇の重鎮であった。昭和14年妻和子が病死した翌年京都に移住し余生をひとり気ままに歌作、研究に打ち込んでいた。そのとき若く美しい人妻鈴鹿俊子と出会った。俊子が順の弟子となって以来二人の仲は急速に進展した。
   吾が髪の白きに恥づるいとまなし溺るるばかり愛 しきものを
   逢はぬ日を数へてさびし二日三日四日五日となりにけるかな
やがて秘密は露見。俊子は家を出て離婚が成立した。事態は望む方向へ進んだが、相手を欺きその妻を奪った罪の意識からは遁れられない。順は友人たちに遺書を送り自殺を図るが未遂に終わった。
   つひにわれ生き難きかもいかさまに生きんとしても生き難きかも
自殺未遂から二週間後、朝日新聞は、「夕映えの恋に勝利、川田順結婚を決意」と報じた。ときに順67歳、俊子39歳、まさに老いらくの恋であった。
翌年二人は結婚し京都を発って小田原市国府津に帰住、のち藤沢市辻堂に移り順はここで俊子の献身に支えられ安穏な晩年を送った。
   たまきはる命うれしもこれの世に再び生きて君が声を聴く
   何一つ遂げざりしわれながら君を思ふはつひに貫く

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あらすじ(ネットにあった文章を転載させてもらった)

京都大学教授・森三之介の元へ、母親に言われるまま嫁いだ平凡な主婦・祥子が、住友本社の理事という地位を捨ててまで短歌の道を精進しようとした歌人・川田順と出会ったのは、昭和19年5月に行われた歌の会のことであった。夢見がちな祥子はロマンチシズムの心情を持つ川田に憧れ、敗戦後、新古今集の評釈を始めた川田の清書の手伝いをするようになる。だが、そんな妻の行状を三之介は快く思わず、川田の手伝いを辞めるように再三宣告した。しかし、彼女はそれを決して辞めようとしないばかりか、やがて川田との許されない恋に落ちていくのであった。姦通罪が廃止され、戦後民主主義が芽生え始めた時期とは言え、新聞や雑誌はふたりの・不倫・を報じた。一度は実家に身を隠す祥子であったが、実家にも居づらくなり、結局3人の子供を捨て川田の家に身を寄せることになる。やがて、三之介との離婚が成立した祥子は、川田への愛を貫こうと川田に身も心も捧げるも、川田は祥子に多大なる迷惑をかけたという思いから自殺を図ってしまう。祥子のお陰で一命を取り留めた川田は、その後、祥子と結婚。独立した長女・尚子を除く、ふたりの子供を京都から引き取り、掬泉居と名づけた関東の家で暮らすようになる。しかし、その生活は苦しいものであった。雑誌社へ原稿を持ち込むが、・老いらくの恋・と陰口を叩かれ、どこも相手にしてくれないのだ。そんな中、婦人画報の野口という男が川田に戯曲を書くように勧めてくれた。初めは演劇界にも受け入れられなかった川田だが、やがてそれも軌道に乗り、彼の書いた戯曲は歌舞伎座で演じられるまでになる。家の近くの岬に立った川田は、人生を振り返りひとつの歌を詠む。それは、何一つ成し遂げられなかった自分であったが、祥子を想う心だけは貫いたという意味の歌であった。


2009年10月16日金曜日

広島長崎五輪、こりゃ大義大ありだ

2016年夏季五輪の開催地に、ブラジルのリオデジャネイロが決まった。盛り上がらないままの東京が落選したのは、当然至極のことだと受け留めた。リオが南米大陸で初めての開催地になった。ブラジルの国民、リオ市民の喜びはいかばかりか。大いに腕を揮(ふる)って立派な大会が行われることを祈りたい。私も経済的、業務的に余裕が出来れば、行ってみたいと思っている。

東京の招致活動は、石原慎太郎東京都知事の味噌をつけた発言で幕を閉じた。落選した腹いせだった。招致を競い合った相手国に対して、記者会見で裏取引があったようなニュアンスの発言をした。不愉快にさせた。スポーツマンらしくなく、潔くなかった。

盛り上がらない招致活動に、150億円を投じた。そのことにも、馬鹿知事は「余剰分で夢を見ようと思ってやったのは間違いではなかった」とどこまでも、低次元で悪びれない。余剰金だと言ったって誰の金だと思っているのだろうか。極秘に開かれた反省会では、招致活動で一番重要なのは、IOC関係者との人間関係で、スポーツ、語学、外交の術に秀でた人材を育てることだ、と結んだと聞いている。解ってない。人材を豊かにすることには、異論はないが、でも落選の理由は、そんなもんではない。本当の原因は、皆が白けていることの理由を分析してみれば、答えはいとも簡単だ。市民レベルでは、ドッ白けていて、参加意識が希薄なままだった。何故か。それは、誘致することの大義が整っていなかったからだ。

そうして数日後、今度は広島の秋葉忠利市長が、2020年の夏季五輪招致を広島と長崎を中心になって目指すと日本オリンピック委員会に申し出た。このことを聞いた瞬間、東京招致のくだらなさに滅入っていた私は、俄然元気を取り戻した。これは、楽しいことになりそうだと予想する。広島市長は「より多くの世界中の人に被爆の実相を知ってもらう機会にもなる」と、田上富久長崎市長は「核廃絶の国際世論を加速させる可能性がある。核廃絶を達成するためにできることがあるならやってみたい」と口を揃えた。

朝日新聞の天声人語氏もこの企画に期待して、「ヒロシマとナガサキが人々の胸に刻まれば刻まれるほど、核廃絶の潮流が強まっていくと信じたい」と述べている。朝日新聞はすかさず社説でも、両市にエールを送った。後ろの方に転載させてもらった。

五輪招致は、核廃絶の世論をさらに高める重要なプロセスだと信じたい。

ただ、五輪憲章では立候補できるのは1カ国1都市で、両市が目指す共催という形は現時点では認められていない。かって東京オリンピックでは、主会場は東京でもヨットは藤沢で行われた経緯がある。

11月3日にはオバマ米大統領が日本に来る。多くの日本人はオバマ大統領に広島と長崎を訪れて欲しいと思っているけれども、アメリカの保守勢力のニラミが厳しく、訪問は無理なようだ。それほど、アメリカの保守層は、原子爆弾を二つの市に落下させたことを、アメリカの正義と理解しているようだ。

だが、オバマ大統領は、この世で初めて原子爆弾を使用した国の大統領として、アメリカには同義的責任があると発言した。そして、今後のオバマ大統領の核廃絶への取り組み、国連中心主義への回帰、覇権主義をとらない、単独主義で突出しない、話し合い外交を続ける等々の活躍を期待してノーベル平和賞を受賞した。

この招致には難しい課題が山積だ。両市の発意の源になる大義を、共有できる人たちをどれだけたくさん取り込めることができるかが、成否に懸っているように思う。願っている。ネットを通じたり、勝手連的であったり、兎に角若者達が招致の前線に立って活動できるようになれば、ハッピーだが。そのような形態が望ましい。ヒロシマやナガサキこそ、次代に引き継がれなければならない。これは、今度こそ、私は応援したい。この招致活動を実らすためには、IOCが今回、招致活動の反省会で出た、人材養成もここへきて、必要になるのだろう。

JOCは、両市の案を日本の案として取り上げて欲しい。そして、日本国としても物資両面において最大の協力をして欲しいと願う。

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☆学習/大義=①人がなすべき道。とくに、国家、主君に対して臣民が踏み行うべき道。②おおよその意味  (日本語大辞典・講談社)

☆学習/味噌をつける=失敗して恥をかかされたり信用を失ったりする。(慣用句ことわざ辞典・三省堂)

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091014

朝日朝刊・社説

広島長崎五輪

共感呼ぶ夢の実現に

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大変な難題であることは承知の決断だろう。

2020年の夏季五輪をいっしょに開こうと、広島市と長崎市がそろって名乗りを上げた。

人類史上でただ二つ、原子爆弾を投下された都市が手を携えて共同開催の道を求め、検討委員会をつくって招致の可能性をさぐる。

両市を中心に国内外3千以上の都市が加盟する国際NGO「平和市長会議」は、20年までの核兵器廃絶をめざす。来年の核不拡散条約(NPT)の再検討会議で、その目標までの道筋を定めた「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を採択しようと呼びかけている。

「核兵器のない世界」を追求するオバマ米大統領に、ノーベル平和賞が贈られることが決まったばかりだ。世界の人々が注視する大イベントである五輪を被爆地で、と提唱することで、国際世論を核兵器廃絶に向けて大きく動かしたい。そんな思いが読みとれる招致声明である。「平和の祭典として出発した五輪は、核兵器廃絶の実現にふさわしいイベント」という訴えは多くの人々の共感を得るだろう。

とはいえ、立ちはだかる壁はあまりにも厚く、そして高い。

まず財政面だ。一般会計の大きさを16年五輪の招致をめざした東京都と比べると、広島市は10分の1以下、長崎市はさらにその半分以下だ。広島市は1994年のアジア大会を開いたが、参加したのは42カ国・地域だった。近年の五輪は200を超す国や地域が参加する。基盤整備や招致、運営にかかる多額の資金をどう調達するのか。

「志を共有する複数都市」にも仲間に加わるよう呼びかけ、ネット献金も募るというが、容易ではなかろう。

五輪憲章は「1都市開催」を原則にしている。例のない共同開催は、日本オリンピック委員会(JOC)や国際オリンピック委員会(IOC)が受け入れ難いのではないか。

ほかにも、ホテルの客室数の確保や二つの都市間の移動、五輪後の競技施設の活用、さらには招致に失敗した東京都のかね合いーー。解決しなければならない課題は多い。

今回の提案を実らせるには、五輪の姿を一変させる必要がある。

大型公共工事で都市基盤や豪華な競技施設をつくり、招致にも多額の費用をかける。そんな国威発揚や経済振興と結びついた五輪では、限られた大都市でしか開けない。そうではなく既存施設を利用することで、あまり金をかけない五輪を生み出せないものか。

広島、長崎両市は、JOCやIOC、さらには政府や国民に、自らが描く「これまでとは違う五輪」の姿を提案してみたらどうだろう。

そうでないと、二つの被爆地の市民の納得も得られまい。