2010年8月29日日曜日

民主党代表選、鳩山は狂ってる

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鳩山前首相が、菅首相に対してこの代表選においては挙党態勢を作るよう託していた。とりわけ強く迫っていた。菅首相を応援すると言っていた。ところが、この挙党態勢というのが、実は鳩山氏の勝手気ままなもので、自分が政治家を辞めると言ったけれども、それは皆さんには忘れてもらって、何とか自分の居場所=地位を確保して、組織に留まりたい、そして、ダブル辞任した小沢一郎前幹事長にも、しかるべき地位を用意してやってくださいな、そして、憎きアイツ、仙石官房長官と枝野幹事長を辞めさせてくれないか、こんなことが鳩山氏の求める挙党態勢だったようだ。この挙党態勢に沿ってくれるならば、自分は菅首相を応援するが、どうだろうか、と菅首相に持ち込んだ。そんな話は受けられないと菅首相は断った。

菅首相がそのような考えならば、自由党を民主党に吸収した時のいきさつから、鳩山氏は小沢氏を応援する大義があると方向転換した。菅首相ではなく、小沢氏を応援する、と大変身したのだ。合併したのは2003年のこと、この場に及んでそんなことを理由に挙げた。そして、昨日(28日)、民主党が自民党に代わって政権がとれて、自分が首相になれたのは、小沢氏の貢献によるもので、その恩に報いたい、なんて、中国かロシアで記者に語ったそうだ。

この定見のない前首相に、バカか、と怒鳴ってやりたい衝動に駆られる。民意をよく理解していない。鳩山氏と小沢氏は、そろって3ヶ月前に、政治とカネの問題で首相と幹事長職を辞した。鳩山氏はその時、政界から引退すると発言した。両氏は、どこまで破廉恥なのだろう。政策論争も糞もないのだ、人事と絡めて、自分たちの権力の温存しか念頭にない。

鳩山氏は、民主党が割れることだけが怖いだけ。民意というか国民の声には馬耳東風、自分の首相としての失政の責任なんて露ほども感じてない。この大バカ者め。

両候補には大いに政策論議をして、民主党としての今後の方向性を、この代表選の中で明確にしてもらいたい。が、菅氏が勝てば、小沢氏は今まで通りガミガミ文句を言っては圧力をかける、こんなことは、もう既に見え見えに想像が可能だ。小沢氏が勝てば、小沢流に従えない議員はどうすればいいのか。

やはり、党を二分するのが賢明なのではないか。

兎に角、菅首相は死んだ魚のような目を再びギンギラギンと輝かして、小沢前幹事長については、今は政治とカネの問題は百歩二百歩譲るから、自らの政策を明確に掲げて、政策論議を尽くしてもらいたい。立候補する権利は民主党の議員ならば誰にでもあるのですから、でも、でも、だ、政治とカネの問題についてはきちんと説明しなければアカンですよ。

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昨今の民主党の代表選についての朝日新聞の記事を読んで、今後を見極めましょう。

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20100827

朝日・朝刊

小沢氏は「表の政治」に徹せよ

編集委員・星 浩

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菅直人氏と小沢一郎氏。東京選出・市民運動出身と岩手選出・自民党田中派出身。民主党代表選は、党内の二大潮流を代表する2人の激突となる。国家感や政策、党運営で際だった違いを見せる2人の対決は最近の政界では珍しい刺激的なものとなるだろう。

ただ、論戦に入る条件がある。まず、小沢氏。政治資金疑惑で秘書経験者3人が起訴されている。彼らは自分の政治資金を集めたのではなく、小沢氏の資金集めで虚偽記載に問われたのだ。小沢氏は自身の関与も含め、国会で一言も説明しないまま約3ヶ月前に幹事長職を引責辞任した。小沢氏が代表選に手を挙げること自体、大いに疑問はあるが、あえて出馬するのなら、疑惑について反省し、十分な説明をする必要がある。

小沢氏周辺から聞こえてくるのが「首相・代表分離論」だ。小沢氏が代表になった場合でも、国会での追及などを避けるために別な人物を首相に担ぎ、小沢氏は裏から政権をコントロールしようというのだ。それは透明性を看板にしてきた民主党政治の死を意味する。代表選を機に小沢氏は「表の政治」に徹し、資金疑惑を含めて菅氏と論争を繰り広げなければならない。それができないなら、首相を目指す資格はない。

そして、菅氏。「昔のようにとんがったところがなくなった」と、本人も認めているがここは奮起して政治とカネの問題などで厳しく小沢氏を攻めてはどうか。消費税率の引き上げも引っ込めずに、小沢氏と正面から財政論争をしてみればよい。「政権交代すれば財源はいくらでも出てくる」と言い放ってきた小沢氏の反論が見ものだ。

政権交代から1年。この間の民主党政治は事業仕分けなどで成果を上げた反面、失望させられたことも多かった。最近の出来事では「軽井沢の空騒ぎ」がひどかった。

鳩山氏の広大な別荘で、地ビールを片手に「気合だ」と叫ぶ小沢氏支持の議員たち。景気低迷と猛暑にあえぐ多くの国民には「能天気」と映ったに違いない。与党にいるうちに「政権交代の初心」が磨耗してしまったのだろう。

鳩山氏は退陣後、いったんは「首相を辞任したら政治家も辞める」と明言したはずなのに、いつの間にか復活し、菅、小沢両氏の「調停役」を気取っている。失政の反省はないのだろうか。「気合だ」の議員ともども、頭を冷やせと言いたい。

小沢氏の出馬表明直後、10人の民主党議員に電話した。「正々堂々と決着つけるのは良いこと」と口をそろえながらも声がうわずっているのが分る。代表選後には、ねじれ国会の攻防が待ち受け、場合によっては民主党分裂につながるかもしれないと心配しているのだろう。

両雄激突の代表選は再生の第一歩か。民主党の、そして日本政治の岐路である。

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20100827

朝日・朝刊

社説/小沢氏出馬へ

あいた口がふさがらない

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どうしてここまで民意とかけはなれたことができるのか。多くの国民が、あぜんとしているに違いない。

民主党の小沢一郎前幹事長が、党代表選に立候補する意向を表明した。

政治とカネの問題で、「責任を痛感した」と、幹事長を辞して3ヶ月もたっていない。この間、小沢氏は問題にけじめをつけたのか。答えは否である。

いまだ国会で説明もせず、検察審査会で起訴相当の議決を受け、2度目の議決を待つ立場にある。

鳩山由紀夫前首相にも、あきれる。小沢氏率いる自由党との合併の経緯から、この代表選で小沢氏を支持することが「大義だ」と語った。「互いに責めを果たす」とダブル辞任したことを、もう忘れたのか。

二人のこのありさまは非常識を通り越して、こっけいですらある。

民主党代表はすなわち首相である。党内の多数工作に成功し、「小沢政権」が誕生しても、世論の支持のない政権運営は困難を極めるだろう。

党内でさえ視線は厳しい。憲法の規定で、国務大臣は在任中、首相が同意しない限り訴追されない。このため「起訴逃れ」を狙った立候補ではないかという批判が出るほどだ。政治とカネの問題をあいまいにしたままでは、国会運営も行き詰るに違いない。

より重大な問題も指摘しなければならない。

自民党は小泉政権後、総選挙を経ずに1年交代で首相を3人も取りかえた。それを厳しく批判して政権交代に結びつけたのは、民主党である。

今回、もし小沢首相が誕生すれば、わずか約1年で3人目の首相となる。「政権たらい回し」批判はいよいよ民主党に跳ね返ってくるだろう。より悪質なのはどちらか。有権者にどう申し開きをするのか。

それとも小沢氏は代表選に勝っても負けても、党分裂といった荒業もいとわずに大がかりな政治再編を仕掛けようとしているのだろうか。

金権腐敗政治と決別し、2大政党による政権交代のある政治、有権者が直接政権を選ぶ政治を実現するーーーーー。そんな政治改革の動きの中心に、小沢、鳩山両氏はいた。20年余の歳月を費やし、ようやく目標を達成したと思ったら、同じ二人がそれを台無しにしかねないことをしようとしている。

ほぼ1年前、新しい政治が始まることを期待して有権者は一票を投じた。その思いを踏みにじるにもほどがあるのではないか。しょせん民主党も同じ穴のむじな、古い政治の体現者だったかーーー。政党政治自体への冷笑がさらに深まっては取り返しがつかない。

代表選をそんな場にしてはならない。有権者は政権交代に何を託したのか、根本から論じ直し、古い政治を乗り越える機会にしなければならない。

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20100828

朝日・朝刊

社説/政策を競うのでなければ

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民主党の代表選は、再選を目指す菅直人首相と、「復権」に執念を見せる小沢一郎前幹事長との前面対決の構図となった。

政治とカネの問題にけじめをつけていない小沢氏に、首相を目指す資格があるとは言い難い。民意を問うことなく、首相をまた交代させようとする企てが正当とは到底いえない。

しかしながら、小沢氏が人事で裏取引して立候補を見送ったり、傀儡の候補者を立てたりすることに比べれば、表舞台で正面から戦う方がまだしも、ましかも知れない。有権者とすれば、せめてそう考えてこの代表選を見つめるほかない。

対決とはいえ、むき出しの権力闘争に堕するなら願い下げである。

昨年の総選挙マニフェストを見直すのか否か、消費税論議に踏み出すのか否か。菅、小沢両氏は、民主党内にある二つの潮流をそれぞれ代表する。

権力を得て、どんな政治を、政策を実現したいのか。双方が明確に示し、論戦を繰り広げ、黒白をつける機会にしなければならない。

小沢氏はいまだ政治資金問題への対応を明らかにしていない。政権構想もこれからだ。わずか1年で2回目の首相交代を迫る以上、自分が首相になればそのマイナスを補って余りあるプラスがあると説得しなければならない。

右肩上がりの成長の時代が終わり、政治の役割は果実の配分から「痛み」の配分に移ったとも言われる。政治指導者には、「あてかこれか」を選び、負担増になる人びとには丁寧に説明し、納得を得る努力が求められる。

「相談しない、相談しない、説得しない」とも言われる小沢流が、今の時代にふさわしいか。小沢氏には、その政治手法の総括も求められよう。

菅首相は参院選で、総選挙マニフェストの見直しと消費税論議を提起した。厳しい財政事情を直視すれば理にかなった主張である。参院選敗北後、代表選をにらんで言をあいまいにしてきたが、もはや封印する理由はない。

対する小沢氏は、あくまでマニフェストの実現を目指すというなら、その財源を具体的に示さなければいけない。消費税論議を当面棚上げするのなら、それに代わる日本の財政健全化の道筋を示す責任もある。

普天間問題を含む外交・安全保障政策や、ねじれ国会への対応についても、この際、徹底した論戦を通じて、党の意思統一を図る必要がある。

党内にさまざまな考え方があっても、これまでは「政権交代」という一点で結集ができた。しかし、それが実現したいま、改めて民主党は何を目指す政党なのかが問われている。

「小沢か、脱小沢か」の主導権争いだけにうつつを抜かしていたら、国民の気持ちは離れるだろう。

2010年8月27日金曜日

今夏二度目の暑気払いだ

暑い、暑い。残暑どころか、気温に関してはまだまだ盛夏だ。23日、昨日だったか?、群馬の高崎では38,5度を記録したと、新聞報道があった。

車のラジオから聞こえた、しょしょ?、と初めて耳にした言葉が、不思議に耳に残った。言葉の響きが、ちょっと官能的に聞こえたのは、私だけ? この「しょしょ」ってのは、日本語だとしたら・・・・・、後で辞典で調べればいいや。聞いて間なしの時には、そう思うのだが、そのうちその言葉のことも、忘れてしまうのが今までの例だった。ところが、今回は会社に戻ってプロジェクトの事業計画を立てようと、PCに向かっても、先ほどの「しょしょ」が忘れるどころか、生き生きと蘇ってきた。

そして、講談社の日本語大辞典で「しょしょ」が「処暑」だということを知った。また、株式会社ササガワの「ご贈答マナー」によると処暑は以下のようでした。

処暑:太陽暦の8月23日(または24日)。二十四節気の第13節目で、太陽の黄経が135度の時点に来たことを示します。残暑がまだ厳しい時期だが時折涼しい風が吹き始め、山間部では早朝に白い露が降り始め、霧が漂い始め、ヒグラシも鳴き始める気候としています。秋の始まりを告げます。*これ以降は残暑お見舞いになります。(ヤマオカ=第12節目は立秋だと思う)

そして、24日の18:30~。弊社の二度目の暑気払いを、中華料理屋店で行なった。夏の終わりの兆(きざ)しや、ちっちゃな秋は何処にも見つからない。暑気払いをやって、モリモリ食って、ガブガブ飲んで元気をつけるしかない。幹事は名物幹事の長君だ。幹事には、料理や店の選択権が与えられ、自らの胃袋に好都合なように決めることのできる特権も付されているのです。

一人、ポッキリ2980円で、飲み放題食い放題だ。特別のメニューでなく、通常の営業で出しているメニューの中から好きなだけ頼めばいいのです。メニュー書きには金額も表記されているので、どれだけ食えば、飲めば元をとれて、得をするかが明白なので、オーダーする側は自ずから気合が入る。結果、食った、食った、飲んだ、飲んだ。

一回目は7月6日だった、焼肉屋で贅の限りを尽くした。贅と言えども、弊社の身の丈に合った範囲内ですぞ。幹事は満足気だった。参加者は一応に喜んでいた。今回も前回に増して盛り上がった。

建築部門の桜が、お客さんとの打ち合わせが長引いて、宴会に加わったのが制限時間の残り30分の頃だった。食い放題飲み放題のセットなので、制限時間が2時間と決められていた。後、30分なんだけれど、これからでも皆と同じだけ食えるか、と尋ねたら、そんなには腹が減ってないけど、ウンヌン、モジモジ言いながら席に着くや否や、まくりまくって、結果的には一番多く飲み、一番多く食ってくれた。よかった。胃袋の許容量は幹事さん並みだ。我が社に新たなスター誕生ってとこか。私は、紹興酒を鱈腹飲ましていただいた。この夜も、権太坂まで千鳥足で帰った。二度道端で休んだので1時間以上もかかった。

社員の夏休みは、大体各自消化した。働くぞと気勢は上がっていた。意欲満々だ。これからが、秋の商戦に突入と言うことなんだけれど、気候はまだまだ秋には遠い。

暑気払い、決意を新たにした夜でした。

2010年8月21日土曜日

セミを捕るのに、網なんか使わなかった

私の会社の周りには、公園があって樹木が溢れています。会社の私の机からの眺めも、窓いっぱいに緑の樹木が見えるのです。また、帷子川の川辺にも大きな樹木が並んでいる。私は、仕事の合間を縫って、この樹木の緑濃い木陰で暫しの休憩を楽しんでいるのです。

その樹木の間を、子どもが虫かごと網を持って走り回っていた。おい、おい、君たちは何を捕まえようとしているんだ、と聞いたら、セミだというではないか。

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私の子供の頃は、今の子供たちが持っているような網など使わなかった。子供の知恵なりに手作りしたものを使った。このような小道具はひょっとして、私の田舎のオリジナルかもしれないので年配諸氏は、はるか昔を思い出して私の話を聞いてみてくださいな。

竹の棹(さお)の先に、直径10センチほどの木の輪っぱをつくってその端を竹の筒の中に挿すのです。この輪っぱには、木に絡んで伸びている蔓(つる)を利用すると、丸く曲げ易い。金魚すくいの時に使う和紙を張った輪っぱみたいなものをイメージして頂ければいいのです。子供には、そう簡単に針金が手に入らなかった時代です。今から、50~55年前のことです。その蔓でできた輪っぱに、クモの巣を見つけては、その巣を重ねて張るのです。緻密に、隙間がないように。

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この写真はジョロウグモだそうです。ウィキペディアからのパクリです。

クモ(蜘蛛)は腹から糸状のものを出して、放射状に縦糸を張り今度は縦糸に横糸を張って、巣を作るのです。クモにも色んな種類のものがいます。この網状の巣は、クモご本人の住処(すみか)であり、餌を捕まえる道具でもあるのです。子供の頃は、クモは私らとは日常生活において極めて馴れ馴れしい関係であった。木々の間にも、農耕用具の入っている小屋、作物を貯蔵している納屋、家の隅々にクモの巣を張っていた。クモは作物に害を及ぼす虫を捕ってくれる、ツバメなどと同じように、益をもたらしてくれる虫であって、鳥だったのです。

大学入試に2度も失敗して、ドカタをしながらの浪人時代に、松方弘樹のオヤジが主人公を演じていたテレビドラマ「素浪人月影兵庫」のなかで、月影のおじさんが異様にオカラを気に入って、クモを異妖に怖がって、画面の中を走り回っていたのを憶えているのですが、何ゆえにクモがそれほど嫌われたのか不可解であった。オカラの方は、私も同じように大好きなので、さほど驚かなかったのですが。東京へ出てきて、男の子も女の子もクモを見つけては、イヤ~だ、なんて私には不思議でしょうがなかった。何で、そんなに嫌われるようになったのですか、頭胸部と腹部からなる、ちょっと変わった風体のせいだとしたら、それは余りにも可哀相ではないか、何も彼のせいではないのだ。見かけの美醜で、相手を判断したらアカン。

クモの中でも、私たちの田舎でオニグモ(鬼蜘蛛)と呼んでいたクモが作った巣を、優先的に使いました。一番粘っこくてねちゃねちゃしていました。でも、当時、確かにオニグモと言っていたけれど、ネットで調べたオニグモの写真に記憶はなかった。大きさにおいては、もっともっと大きなクモもいました。

私の子どもの頃は、このクモの巣を張ったもので、高いところにいるセミなどを捕まえたのでした。

「蜘蛛の子を散らす様」を講談社・日本語大辞典で調べていたら、「多数のものが、四方八方に、ちりぢりに逃げていくさま」とあった。実際、クモの子どもは一回脱皮すると、卵のうから数百匹が、散らばっていくそうなのです。地面に落ちるもの、体から糸を出しそれで風を受け、遠くへ飛んでいくもの。そのようにして、そこで、子どもらは自分の生活を始めるそうな。クモの生態そのものから生まれた、慣用句のようです。勉強になりました。

クモの巣でセミを捕った話の次は、鳥モチの話をしなければならないと思うのですが、これは次回に。それと、私が育った京都府綴喜郡宇治田原町と、ここ横浜の保土ヶ谷では、セミの種類が全然違うのです。全国版の分布図のようなものができればいいなあ、と思った。

2010年8月16日月曜日

富士山に登ってきた

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日本一高い富士山に登ってきた。霊峰と言われている。身を正して登らないとイカンのだ。今回は、孫・晴が通っている幼稚園の夏の恒例の企画に参加させて貰ったのです。

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その幼稚園というのは、保土ヶ谷にある初音ヶ丘幼稚園とスカイハイツ幼稚園のことです。初音ヶ丘幼稚園には、私の子ども4人がお世話になり、今、長女・実の長女・モミジと次女・花の長男・晴の二人がお世話になっている。代替わりだ。私の可愛い二人の孫のことだ。園長先生は、学生時代に山登りをやっていた経験があるからこそ、園児を富士山の頂上に立たせたいと思いついたのだろう。幼稚園としては、破天荒とまでは言わないが、余りにも思い切った企画だ。私の子どもらが通園していた時には、毎年一度は保土ヶ谷の初音ヶ丘からみなとみらい地区にあるランドマークタワーまで歩いた。今でも続いているのだろう。当時、おう、ようやるなあ、と感心、喝采した。少し体育会系の方針が、私には気に入っていた。

私は今回二度目の富士山になるのですが、一度目は約10年ほど前、何処をどのように登って、どのように下りたのかさえ記憶にないのです。兎に角忙しかった、夜歩いた、一緒に登ったオジサンが絶息しそうだった、ご来光は大人数だったので頭越しに見た、頭が高山病で痛かった、山頂でのビールは不味かった、下りは走って下りた、そして6合目から5合目までのだらだら道が死にそうに苦しかった、足がパンパンに腫れて一週間は普通には歩けなかった、こんなことが、前回の思い出だ。

今回は幼稚園が主催した富士登山だ。サポート隊のお父さんたちは、何度も仕事を終えての夜、抜かりのないように打ち合わせを繰り返したと聞いた。

その山行(さんこう)を振り返ってみた。

前夜(0806)、準備にかけた時間は30分。酒は控えめにして、21:00に寝たので、深夜01:00には目が覚めた。布団の中で井上ひさしの「腹鼓記」を少し読む。朝と昼の食べ物は次女が用意してくれている。家人は3日前に手術して入院中だ。富士山の山頂にある浅間神社奥宮(おくのみや)に彼女の病気の回復祈願をすることにしていた。安易にお祈りしただけでは、神様は何も聞いてくれない、難行苦行の果てでないとお祈りする資格がないのでは、と考えた。

一行は、子供9人、園長さんはじめ先生方、学研のオジサン、カメラマン、幼稚園児の送迎を担当しているバス会社の人、父兄たちの総勢37名の団体でした。子ども1人に家族らの保護者が1名以上必要だということなのですが、我がチームは6歳の子ども1人にその両親とジジイの3人のバックアップ体制だ。登山、下山及び全ての行動は家族単位、家族の責任においての実施なのです、とpapaの会、オヤジの会から強いお達しが出ていた。この企画のことを娘から聞いて、寸秒の間もなく、参加することを決心した。来月で62歳、68,5キロの体が瞬間に反応したのです。この駆け出しの老人は、ここ数年このような企画を渇望していたようでした。

初音ヶ丘幼稚園前集合、スタート=04:00 環状2号、保土ヶ谷バイパス、東名高速道路、御殿場から国道138号線、東富士五湖道路、富士スバルライン五合目着=07:00

5合目の富士急雲上閣の3階大広間で休息した。

    

さすが幼稚園主催だけあって、慎重だ。この地点で標高2350メートル、今までの日常生活に比べて、酸素がすでに異常に薄い状態の所に居ることになる。よって、先ずは体を今の高度に慣らすことが必要だ。2時間の休憩はどうしても必要らしい。ここで、風船が配られた。この風船を何度も膨らませることによって、肺への呼気、吸気の活動を活発にさせる。初めての経験でした。いい結果が出ているようなので、毎年、この風船を膨らませることをやっているのです、と幼稚園の先生の説明だった。高山病になった時のために薬も用意してある、その薬の種類、飲み方の説明があった。気分が悪くなった時、怪我をした時の対応の仕方も説明があった。何かの事に備えて、この場所で待機してくれる人もいる。山登りの専門的用語としては、ベースキャンプだ。

海野先生の進行で、今回のメンバーの自己紹介を全員でした。サポート隊の皆さんは、所属している会社や名前しか仰らなかったが、一人ひとりにこの幼稚園とのかかわりの歴史を聞いてみたいと思った。私にも、長くて深い関係があるのだ。本人がこの幼稚園を卒園して、子どもが4人とも同じ幼稚園でお世話になったという人が二人居た。そのうちAさんは、子どもが現役の年長さんなのに、子どもは参加せず、お父さんだけの参加でした。もう一人のBさんは、子どもはとっくに卒園しているのに、自分だけが参加していた。このBさんは、去年は雨がどしゃ降りで山頂には行けず、その前年は仕事が遅くなって深夜帰宅。睡眠不足のまま参加して強度の高山病で、中途で断念、下山した。その前の前は、スズメ蜂に刺されて、これも中途でリタイアー。悔しいから、今年も来たのです、と言っていた。奥さんからは、今年は落石かもしれないよ、ビビラされて出てきました、と苦笑い。

 

河口湖口登山道(吉田口)からスタート=09:00。軽い体操と記念写真を撮ってから歩き出した。

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6合目までは、アップダウンの少ない単調な道が続く。数人が乗れる馬車や一人乗りの馬が行き交う。馬糞があちこちに落ちていた。客を待つ馬が待機していた。孫の足取りは軽い。園長先生の手を引っ張っていた。全員難なく歩き続けた。行きも帰りもこの区間は、山登りが目的ではなく、単純な観光として訪れている中国人のグループが多く目に付いた。やはり日本一高い富士山の登山口だけでも見届けたいのだろう。記念写真を撮っていた。

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6合目(2390メートル)安全指導センターで下のチラシが配布されていた。何の下調べもしなかったので、このチラシだけでも大いにお助け資料になった。噴火した火山礫が、風化して、人間の足に踏みしだかれ、細かくなった砂地を歩くのは大変だった。大人の足は大きくで接地する面積が広いので、抵抗が生まれて、それなりに歩けるものの、子どもにとっては滑りやすく大変苦労していた。幼稚園の送迎バスの運行会社の若者が、密着で孫をサポートしてくれた。岩場は、子どもにとっては砂地よりも苦なく登っていた。アスレティックのように両手で岩を掴み這うように進んだ。これは、楽しそうに見えた。快晴が続いた。

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子どもたちには、肉体的な疲労と言うよりも、目標地点が見えないことによる精神的な苦痛や不安に、耐え難かったのだろう。子どもたちは泣く、泣く、ぐずる、ぐずる。引っ張っている手が痛いとか、暑いとか、理由のない不平が絶えない。それでも、足は動かさないと進まない。私は孫に、いち、に、イチ、ニ、いち、に、イチ、ニと声を掛けた。孫も自分で、声を掛けて、自らを叱咤激励しているようだった。バス会社の若者が、密着でサポートしてくれたのが嬉しかった。私は若者に、結婚しているんですかと尋ねた。もう少しで1歳になる子どもがいるのです、そう、これから楽しみですね、と会話を交わした。この若者は、きっといい父親になるだろうと確信した。

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7合目(2700メートル)を過ぎた辺りから、園長先生がトップを歩き、その後に私、カメラマンが続いた。私は隊長さんを越してはならないと言われていたので、躊躇っていたのですが、園長先生から休むと体が冷えるので、歩きましょと言われ、ついつい掟を犯してしまった。それでも、私はブレーキをかけながら歩いたのでした。

園長先生は、上の方からカメラマンに、ちゃんと仕事をしろよな、と大きな声でカツを入れた。眼下に見える河口湖や山中湖と頑張る子どもたちをシャッターにきちんと収めろ、ということだろう。周りは、茶色い岩と石、砂だが、遥かな遠くの山の眺めは濃い緑や淡い緑、陽が射している部分と陰になっている所が、微妙に変化して登山者の目を飽きさせない。この辺りまで登ってきて、疲れは吹っ飛んだ。眺めが癒してくれる。今夜の泊まりの小屋ももうすぐだ。

 

 

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(8合目到着寸前)

 

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8合目(3250メートル)の山小屋「元祖室」に着いた=15:00。ここで宿泊したのです。すぐ脇には残雪が見える。私が着いた時には、園長先生はカップラーメンを食っていた。顔の赤みはビールだろう。私も負けずに、娘婿の竹さんが用意してくれたウイスキーをストレートで飲んだ。何で、ストレートかって、それは水を買うと高いのです。こんな所でも貧乏根性は抜けないようだ。

家族単位で行動しなければならないルールを破った後ろめたさがあって、ひたすら孫が上がってくるのを今か、今かと待ち続けた。やっと、孫の一団が一つ下の山小屋白雲荘に姿を見せたとき、ジジイは感激した。タオルを握った手を、孫の名前を呼びながら千切れんばかりに振った。孫も元気に手を振って応えた。頑張る孫だ。それからの孫は、目的地を頭の中で、しっかり確認したのだろう、ゆっくりだけど、しっかりとした足取りで登ってきた。孫は、破顔一笑、しっかりした足取りで到着した。私の目に涙が滲んだ。他人に見られないように、横を向いてそっと涙を拭った。

孫の母親も、よく頑張った。彼女だって、今までこれほどの荒行(あらぎょう)の経験はない。母親としての意地もあったのだろう。サポートしてくれたバス会社の若者に感謝。

見晴らしは最高だった。山の峰々がどこまでも続き、野がどこまでも広がっている。尾根があって谷がある。平らな部分は人間さまの日常の生活の場なのだろう。河口湖、山中湖が眼下に、相模湾はにぶい銀色だ。大島、初島が大きく見えた。江ノ島、丹沢の大山の頂が尖がっていた。南アルプスがくっきりと存在を誇示。はるか彼方に横浜みなとみらい地区のランドマークタワーも薄っすらと見えた。人間が生活したり経済活動しているエリアの何と狭いこと、まだまだ広大な自然に恵まれていることを、今更ながら感心した。

眼下を眺めながら、ウイスキーを娘婿の竹さんと園長先生と飲んだ。孫の園友・キヨのお母さんにも少し飲んでもらった。奇麗な女性だ。キヨも、ぐずぐず言いながら、よく頑張った。

園長先生が大きな声で、陰富士が見える、あれだよ、あれ、と叫んだ。夕日を浴びた富士山が陰になって表れる。私が今まで見た陰のなかで一番大きい陰だ。下の写真では、富士山の稜線に沿って、陰が少し外れて同じように稜線を描き、頂上を形づくっているのが陰富士と呼ばれているもののようだ。よくご覧くださいな。

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夕食のカレーは美味しかった。前回登った時の会社の同僚のことを思い出していた。この同僚は、容器に入ったカレーをもの凄いスピードで平らげた後、食い終わって空になった容器を無言で長く睨(にら)みつけていた。きっと、量の少なさに怒っていたのだろう。気性は激しいのですが、口数の少ない人でした。

8月7日が誕生日の孫の園友・ショウと次女に山小屋から記念のTシャツがプレゼントされた。ショウは6歳、次女は29歳だ。いい記念になったことだろう。

翌朝の朝食も配られた。これ以上、ウイスキーを飲むのをやめた。朝食には、マスクが付いていたので、何でなの?と竹さんに尋ねると、下り坂は火山灰の砂煙が舞い上がるので、鼻と口を覆うためのものです、と教えられた。事実、砂煙の量は多くて、顔にはべったり、鼻の穴にも、耳の穴にも、たっぷり吹き込まれた。タオルで拭う度に、白いタオルが真っ黒になった。

2段になっているベッドで寝た。家族連れは下段だった。掛け布団は2人に1枚。私は、前回に泊まった小屋が隙間だらけで風が入ってきて寒い思いをしたので、ホッカロンを持って来ていたので、暖かく過ごせた。18:00から00:00まで熟睡。その後、夜景を眺めに起きたぐらいで、04:00までうつらうつら眠ったので約10時間ぐらい寝たことになる。完睡だ。

深夜、泊まっている山小屋の前を、山頂に向かって登っている人の声が途絶えなかった。夜から登り始めた人たちだ。同じ山小屋に泊まっている人でも、ご来光を山頂で迎えようとする人たちは、夜中1時過ぎに出て行った。

夜景が綺麗だった。星は、濃紺のビロードの上に砂金がばら撒かれたように輝いていた。平野部には、人間さまの営みの明かりが無数に灯っている。折れそうな月が鮮明に浮き出ていた。バイキングの刀?のようだ。貼り付けたようにも見える。星や月が、手が届くほど近くに感じた。子供の頃の故郷で見た夜空を思い出した。孫の園友・ショウのママは、死んであの世を見てきたような錯覚になりました、とか言っていた。天上界か? あなたは天上人?そんな気分になられたようだ。

ご来光は=04:45。神々(こうごう)しい。頂上の上空に、少し薄いが大きな虹も出た。天気は快晴だ。

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山小屋「元祖室」をスタート=06:00。山頂を目指す。

ここからは、頂上らしきところが何となく確認できるので、孫にも覚悟ができているようだ。しっかり歩いていた。いち、に、イチ、ニと声を掛けた。あの鳥居が頂上だと、指を差して教えても、黙って眺めただけで、歩くことに耐えていた。でも、声を掛けて励ます側も、目的地を具体的に教えながらなので、楽だった。次第に、孫の顔がシャキットしてきた。登りきれる、と確信したのだ。

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山頂に着いた=08:30。少し先に着いて、孫の一団を迎えた。孫の顔はいつも通りのいい笑顔だ。次女は自分の息子と何度も記念写真を撮っていた。この親子にとっていい記念になるだろう。

 

お鉢巡り。山頂の休憩所で後方のグループの到着を待っていたら、天気が変わってきた。雲にすっかり包まれてしまって、雨粒がポツーンぽつ~んと落ちてきたではないか。最終組が着いて、お鉢巡りに行こうと打ち合わせをしている頃になって、空模様がますます悪化した。腹が減ってラーメンに心を奪われた人が続発した。次女と孫は、ラーメンを食ってから後発でお鉢巡りに加わるということになって、私は竹さんと先発組でスタートした。常識的には、お鉢巡りは大気の澄んでいる午前中に済ませるのがいい、午後は雲海ができやすいのだ。悪天候、強風の時は絶対避けるべきだ。

冷たい風が強く吹いてきて、完全に濃霧に包まれた。風は体が揺すられるほどの強さだ。私は薄着だったのです。噴火口を覗いた。噴火口は直径600メートル、深さ200メートルのすり鉢型。富士山をご神体とする浅間神社では、噴火口の所を幽院とか大内院とかの名で神社の一施設になっているようだ。山頂郵便局の隣にある浅間神社奥宮で家人の病気の完全治癒を祈った。二日間着たきりスズメのティーシャツには、神のご加護がありますようにと子どもや孫、家族、知り合いの名前を書き込んできた。

この辺りにまで来て風と霧が心配になって、孫たちの後発隊に、大人の希望者はよしとするものの子どもは来させないようにして欲しいと、隊長に無線連絡をたのんだ。

馬の背は、風が強かった。体が揺すられて飛ばされそうになった。雨は降っていなかったが、吹き付ける霧には水が含まれていて、衣服は水っ気を浴びた。寒かった。

富士山測候所。あのNHKのプロジェクトXだ。富士山気象レーダーだ、新田次郎だ。日本一高い、剣が峰3776メートルのポイントを触れてきた。ここでも記念写真を撮ってもらった。誰かから、この時の写真は回ってくるだろう、楽しみにしている。

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これからは下山だ。下りは、孫は絶好調だった。隊長に手を引っ張ってもらって、色んなお話をしてもらっていた。私も、漏れ聞いていた。この隊長さんは、私よりも10歳ほど若いのですが、左手が自由に動かないようだった。その件には触れなかったのですが、何か大病を患われたのでしょう。博識で、性格が穏やかで、うちの孫はすっかりこの隊長にべったりになった。隊長の人を惹きつける魅力を、孫はすぐに感知したのでしょう。火山のことは理解できてないだろうが、拾った石が、幼稚園の周りにある石よりも、軽いか重いか、どっちだろうと問い掛けてくれた。

霧が急に迫ってくるかと思いきや、嘘のように晴れ渡ったりした。

下り坂は、大人には厳しいが子どもには楽なようだった、登りの時のように、ぐずったり、泣いたり、喚いたりはしなかった。孫よりも、孫の母親の方が苦しそうだった。

6合目から5合目は、下り坂を下りきってからのだらだらした単調な道だ、そのなんてことのない道が、意外に疲れたのです。それは前回も同じだった。ツアーの団体が、勢いよく登り坂をやって来る、私は彼らの元気な足取りに見とれていたら、登り組のツアーのガイドさんが、私たち下り組の人たちの表情をとらえて、みなさん、下ってきた人たちの表情を見てください、疲れているでしょ、明日は皆さんもこのような表情になって下りてくることになります、なんて言ってやがる。これを聞いた瞬間、悔しかったけれど、作り笑いをして、余裕綽々の振りをした。我が一世一代の、やせ我慢だ。

やせ我慢、英語では、put up with from pride だ。受験勉強で習った述語だ。put up with~,~を我慢する、だ。こんなことを未だに思い出せるのは、よっぽど苦労したってことか!

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15:30に登り口の雲上閣に全員揃った。園長先生より、全員が無事に登って下りてこられたことが、よかった、と挨拶を締めくくられた。学研からのご褒美の図鑑、誰からなのか記念の鈴を頂いた。

バスに乗り込んだ時を恰も見計らっていたように、雨が降り出したのでした。山の天気は千変万化だ。ラッキーだった。下山の最中に、少しでも雨が降っていれば、幾らひとときと言えども、それはそれは大変なことだったのに。

16:00にバスは保土ヶ谷に向かって帰途についた。バスの中では、楽しい話に花が、咲き過ぎた。私も本来のペースに戻り、残りのウイスキーを飲み干し、誰に憚ることもなく放談した。私が気分よく喋ると、誰かに必ず迷惑をかけるのですが、今回はどうだったのだろうか、気分を害した人がいたとしたら、慎んでス・マ・ンだ。ここでのことは、誰が何といえども無礼講だ。

竹ちゃん一家に私を加えて、こんな大それたことをなし得られたことに、自ら驚いています。園長先生をはじめ、幼稚園の先生方、サポート隊の皆さん、お世話になりました。来年もどうか参加させてください。有難うございました。感謝しています。

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3776メートルの山頂。幼稚園の先生、学研のおじさん、竹さん、送迎バス会社の方、Bさん、そして山岡です。撮影者はきっと、もう一人の幼稚園の先生だと思われる。

追記

10年前に登った時と決定的な違いは、どこのトイレも綺麗になったことだ。富士山を世界遺産登録に挑戦しようとしていると聞いたが、それならば当然、自然のこと環境のことが、最優先で取り組まなくてはならない問題だ。前回、私のような不衛生にすこぶる強い人間でも、ちょっと苦しかった。かっては、し尿が地表に垂れ流しだったのですから。

それと、登山者の中に外国人が多くなったことだ。前回は半分夜の歩きだったので、詳しくは見ていなかったのですが、外人を見た記憶がないのです。今回は、中国人、韓国人、インド人、イスラム系の人を多く見かけた。

 

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2010年8月14日土曜日

老人と海

ヘミングウェイとは、違うよ。

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19:05~

キネカ大森

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今夜は、弊社のお盆休み(13,14,15日)の前日の夜だ。明日からは一部の社員を除いて全員が休みなので、私だけは出勤することにした。私は1週間前に富士登山で、先に休みを取ったのです。会社をどうしても空っぽにするわけにはいかないのだ。主な業務は弊社の社有物件の売却活動に、お盆休み返上で頑張っている不動産会社からの問い合わせに対応することだ。

そんなこんなで、貴重なこの夜のこの時間、何か目新しい企画を立てられればいいのですが、お金がない、アレがない、コレがないのオンパレードで、策が思いつかない。でも、私はこんなことで、情けなさ過ぎるとくよくよ落胆などはしない。

ナイナイ尽くしでも、少しは文化的な時間を過ごしたいものだ。どんな環境下に追い込まれようが、常に前向きに考えるところは、昨今の経済不況で鍛えられた。そこで一考、一念発起?して、窮鼠?風、大株主の特典を利用して東京テアトルの映画を観ることにした。当面の現金の手出しはない。我ながらグッドアイデアーだ。

向かう映画館は、愛してやまない西友大森店の5階「キネカ大森」。これしかない。なんだか、この映画館とこの店=西友とは、どうしても私のビジネス人生とカブってくるのは、ーーーーー何故?

映画「老人と海」を観てきた。鑑賞後の気分はすこぶるイイわ。

 

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以下の文章は全て、上のプログラムの裏面に書かれたものを、そのまま書き写したものです。

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82歳の老人が、ひとり小舟を操り、流れの速い黒潮で巨大カジキに挑む!

今から20年前、荒々しく美しい自然が残る与那国島に、サバニと呼ばれる小舟を操り200キロもの巨大カジキを追う老漁師(りょうし)がいた。島の人びとに支えられ、ばあちゃんを愛して海に行き、海を愛して漁に出る。じいちゃんは長い不漁に苦しみながら、自然への敬意と漁師の誇りを忘れず、1年後、ついにカジキとの格闘に打ち勝った。まっすぐなじいちゃんの生き方や、自然と人間とが共存する姿から、人が生きることの根源的な強さと豊かさがはっきり見えてくる。

 

ヘミングウェイの不朽の名作「老人と海」の世界が、地球の裏側に厳存していた。

小説「老人と海」の舞台であるキューバのハバナ港と、日本最西端に位置する与那国島とは、緯度がほぼ同じで似たような激しい海流が流れている。この面白い類似に気が付いたプロジューサーは、「老人と海」の世界を求めて与那国島に飛んだ。そしてサバニに乗ってカジキ漁をする老漁師、糸数 繁さんと出会い、与那国島の独特な文化やゆったりと流れる時間をカメラに収めながら1年にわたって撮影を敢行し、企画からまる5年がかりで映画は完成した。

 

じいちゃんは、愛する海に還っていった。

映画完成後、最初の上映会が与那国島で開かれた。そこでじいちゃんはヒーローになった!しかし、東京公開を1ヵ月後に控えた1990年7月末、いつものようにサバニで漁に出ていたじいちゃんは、カジキと思われる大魚に引きずり込まれ、海で還らぬ人となってしまう。海とともに生き、そして海に還っていったじいちゃんは、真の意味で「老人と海」の主人公そのものだった。

 

監督=ジャン・ユンカーマン

20年前に与那国島でじいちゃんと出会い、この映画を作りました。

都会に住んでいる僕たちは、「自然と共に生きる」ということを、だんだん忘れてきているように思います。

今の時代にこそ、何もないようなところでも幸せに生きられる、ということを感じて欲しいです。

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2010年8月11日水曜日

本田圭祐の言葉通りだ

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(1日のスパルタク・モスクワ戦で、ボールをキープするCSKAの本田圭佑)=AP

先のW杯南ア大会の日本代表は、決勝トーナメント進出は叶ったものの、一回戦でパラグアイに延長戦を終えて0-0、勝負はPK戦に持ち込まれ、結果、負けた。決勝トーナメントでは1勝もできなかった。でも、私は、よく頑張ったと思う。日本代表の今後の進歩の可能性を証明してくれた。選手は当然、関係者も足がかりをつかんだ、と実感していることだろう

ところが、どういう訳かマスコミの日本代表に対する評価が、ちょっと褒め過ぎないではないかと思っていた。過去のどの大会よりもできは良かったのは、間違いない。でも、---だ。スポーツ新聞は読まないので、どのように報道されたのか知りませんが、テレビ報道には、余りにも見識の足りない報道でウンザリした。おめでとう、なんて表現していたノー天気な奴もいた。みのもんたは朝の番組で、凱旋なんて言葉を使っていた。何も解らん奴は、いい加減なコメントをするな。でも、一般紙の記事だけは冷静に分析していた。

大阪市は岡田監督を顕彰するとかしないとか、その結果は知らない。横浜市と川崎市は市内にあるJリーグのクラブに所属する日本代表選手を、市民栄誉賞か、何とか賞を考えているとの新聞記事を見たが、その後受賞したのかは知らないが、ここで私は思うのです、果たしてこんなご褒美モノに値するのかと。

そんな思いに耽っていたら、20100803の朝日新聞・スポーツ欄に本田圭祐がW杯の自らの、日本代表の戦いについて感想を、インタービューの形で語っている記事が出ていた。この本田の本音が、まさしく私の感じていた感想と同じだったので、嬉しくなってマイファイルした。真のアスリートは謙虚だ。きちんと自らを分析していることはサスガだ。

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20100803

朝日朝刊・スポーツ

本田 6月の記憶語る

「W杯で得たのは、二つのゴールと準備できたという自信」

「もっとレベルの高いサッカーしたい」

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モスクワに戻ってようやく落ち着いた。再び挑戦が始まる、という気持ちになった。

ワールドカップ(W杯)が終わった直後の日本国内の盛り上がりは、僕にとって「壁」だった。僕の気持ちを浮つかせようという壁。切り離して、自分をコントロールできるかどうかが大切だった。

日本に戻ったら批判を予想していた。帰国して記者会見すると聞いたとき、負けたのになぜ、と思った。応援してくれた人には感謝の気持ちを伝えたい。決勝トーナメント進出を喜んでもらえたことも知っていた。でも勝負事ということで考えれば、負けたチームに祝福はふさわしくないという感覚が僕にはある。

ヤマオカ=この本田の感慨こそが、アスリートとしては普通なのだ。日本では、試合の分析もしないまま、よくやった、よかった、となんぜ、そんなに簡単に処理してしまうのだろうか。まあまあ、よかった、それで、シャンシャンで終わろうとしてはいないか。前の方で書いた、顕彰とか市民栄誉賞と言う問題ではない。なんぜ、そんな賞に直結するんだろう。

W杯後、100件ほどの取材をお断りしたのは、「おめでとう」と言われても、なんと答えていいかわからなかったから。礼儀を重んじて「ありがとう」と言えば、自分の気持ちが複雑になる。取材を受けるのは仕事とはいえ、自分にうそはつけなかった。

W杯で僕が得たのは、二つのゴ-ルと、あの舞台で勝負強さを発揮できるだけの準備ができたという自信。それ以上も以下もない。今後に生かして初めて価値が出る。

少しは成長したのかもしれない。大会後、CSKAモスクワでサッカーのレベルが物足りないと感じるようになった。1月に入団してスペイン合宿に参加した時は、日本代表よりずっと強いと感じたのに。今すぐにでも移籍して、もっとレベルの高いサッカーをしたいと思うぐらいだ。

ヤマオカ=このW杯後には、長友が、川崎がヨーロッパのクラブからオフアーがあって、飛び込んでいった。その前には出場の機会に恵まれなかった内田も、新天地を求めてヨーロッパに行った。森本、松井はヨーロッパの所属チームに戻った。

W杯直前の準備が始まった頃、日本代表は自信にないチームだった。親善試合で負け続けたからだろうが、何が悪かったのかは今でもわからない。ただ、不安を感じながらプレーしていたのは確か。ミスが出たときはミスした人のせいでいいのに、その前のプレーをした人までが「自分のせいかな」と気にしていた。そうやって迷いのあるプレーが増えていった。

いいサッカーをしているという実感をつかんだ昨年9月の欧州遠征や11月の南アフリカ遠征とは、まったく違うチームになっていた。自分で打開したかったが、できなかった。伝染しやすいネガティブな雰囲気に巻き込まれないようにした。

スイス合宿の選手ミーティングでは、闘莉王さんが精神論を語ったのに続いて「目標の4強を本気で目指したい。みんなの気持ちを聞かせて欲しい」と発言した。

でも何人かが話した後、テーマは戦術や細かい話に移った。発言しない人もいたから、みんながどう思っていたかはわからない。結局、カメルーン戦までチーム状態は下降する一方だった。

W杯前最後のコートジボワール戦で完敗した後、僕は報道陣に「みなさん、3戦全敗だと思ってるでしょう」と言った。でも内心、「これはすごいチャンスが巡ってきたぞ」と思っていた。

すでに批判されていたから、勝てなくても「やっぱりな」で終わる。重圧がないから力を出し切りやすい。カメルーンに勝てば流れはひっくりかえると思った。実際、その通りになった。

2010年8月10日火曜日

井上ひさし「腹鼓記」を読む

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(平和憲法について講演する。20090503秋田市文化会館)

井上ひさしさんが今年の4月9日に亡くなった。私は好き嫌いに拘わらず、文学作品や映画、芝居に関しては、色んな作家のどんな分野の著作にも一応は顔を突っ込む性癖があるのですが、何故か、井上作品とは縁が薄かった。

でも、「ひょっこりひょうたん島」では随分楽しませてもらいました。また「吉里吉里人(きりきりじん)」の本の名前が奇妙で、広告の紹介文にも心は傾いたのですが、何故か手にとって読もうとはしなかった。作品とは、この程度の触れ合いでした。

護憲・平和運動にも積極的に活動しておられて、そのうち「九条の会」の呼びかけ人としての活躍の方が、私の強い関心事になった。そして、井上さんが、子どものために憲法の前文と九条をやさしく、わかりやすい言葉で訳したというか、書き直した「子どもにつたえる日本国憲法」を刊行したことを、朝日新聞紙上で知った。その記事のなかで、紹介されていた本の一部に感動した私は、マイCPに本の文章をそのままにキーを叩いて、ファイルした。写したのです。それでも、彼の本を手にすることはなかった。

週刊「金曜日」の創刊時、同じ編集員だった本多勝一さんとは、大いに揉めていて、本多勝一ファンだった私はその推移に関心を持っていた。本多勝一さんの喧嘩相手だったことも、そんなことはないと思うのですが、井上作品とは距離を置いていたわずかな理由かもしれない。

そして井上さんの死を知った。新聞が訃報を大きく取り扱った。きっと、井上さんは私が心の奥底に長年留め置いていたお方だったのだろう。井上さんの仕事のさまざまな内容を紹介した記事を読んで、その新聞を捨てるわけにはいかない、切り抜いて保管して置いたのだ。いつの日か読み直すことを確信していたのだろう。そんなに気になる作家ならば、もう少しきちんと本を読むなり、芝居をしっかり観ておけばいいのに、サボって、ついついその機会を作ろうとはしないまま今日に至った。

そして今。

何とかオフの全国的古本チェーン店の105円コーナーで、井上さんの「腹鼓記」を見つけて読んでいる。面白いのです。だます特技をもつ狸さまと人間さまの温かい交流を物語りにしたものです。この「腹鼓記」を読みながらニタニタしているのです。この「腹鼓記」を読んでいる最中に、かって新聞の切り抜きしたことを思い出し、その切抜きを探し出して読むうちに、やはりこれはブログにも貼り付けておくべきだと感じたのでした。

この立派な作家の、今日、この日この時間に残された作品に触れる幸せを感じている。まだ、「腹鼓記」一巻だけの読者ですが。何とかオフの105円コーナーで井上さんの本があれば、教えてください。私は保土ヶ谷区権太坂に住んでます。勤務地は相鉄線の天王町駅近くです。

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朝日・朝刊/社説  井上さん逝く

築いた言葉の宇宙に喝采

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稀代の喜劇作家。現在の戯作者。博覧強記(きょうき)の知恵袋。時代の観察者。平和憲法のために行動する文化人。

井上ひさしさんを言い表す言葉は、いく通りも思い浮かぶ。だが、多面的なその活動を貫いた背骨は一つ。自分の目で見て、自分の頭で考え、平易な言葉で世に問う姿勢だ。

本や芝居は、深いテーマを持っているのにどれも読みやすく、わかりやすい。それは、ことの本質を掘り出して、丁寧に磨き、一番ふさわしい言葉と語り口を選んで、私たちに手渡していたからだ。

そのために、できる限りたくさんの資料を集め、よく読み、考えた。途方もない労力をかけて、自分自身で世界や歴史の骨組みや仕組みを見極めようとしていた。

この流儀は、井上さんの歩んだ道と無縁ではないだろう。

生まれは1934年。左翼運動に加わっていた父を5歳で亡くし、敗戦を10歳で体験した。戦後の伸びやかな空気の中で少年時代を過ごすが、高校へは養護施設から通った。文筆修行の場は、懸賞金狙いの投稿と浅草のストリップ劇場。まだ新興メディアだったテレビ台本で仕事を始め、劇作家としては、デビュー当時はまだ傍流とされていた喜劇に賭けた。

王道をゆくエリートではない。時代の波に揺られる民衆の中から生まれた作家だ。だからこそ、誤った大波がきた時、心ならずもそれに流されたり、その波に乗って間違いをしでかしたりしないためには、目と頭を鍛えなければならない。歴史に学ばなければならないと考え、それを説き、実践した。

特に、あの戦争は何だったのかを、繰り返し、問い続けた。

復員した青年を主人公に、BC級戦犯の問題を書いた「闇に咲く花」という芝居に、こんなせりふがある。

「起こったことを忘れてはいけない。忘れたふりは、なおいけない」

井上さんは2001年から06年にかけて、庶民の戦争責任を考える戯曲を3本、東京の新国立劇場に書き下ろした。名付けて「東京裁判3部作」。

東京裁判を、井上さんは「瑕(きず)のある宝石」と呼び、裁判に提出された機密資料によって隠された歴史を知ることができたことを評価している。

同劇場は、8日から、この3部作の連続公演を始めたところだ。その翌日、拍手に包まれて幕が下りた直後に、井上さんは旅立った。

(いつまでも過去を軽んじていると、やがて私たちは未来から軽んじられることになるだろう)。公演に寄せた作者の言葉が、遺言になった。

生涯かけて築いたのは、広大な言葉の宇宙。そこにきらめく星座は、人びとを楽しませてくれる。そして、旅する時の目当てにもなる。

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朝日夕刊/評伝

奇想と笑い 圧倒的

論説委員=山口宏子

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作品群を改めてみると、質と量の迫力に圧倒される。戯曲は60を超え、小説も多数。エッセーや対談は数え切れない。一作一作が高い峰。それがどこまでも続く。雄大な山脈のようだ。

だから、代表作はーーーと考えると、はたと迷う。

直木賞受賞作「手鎖心中」など、江戸を舞台にした小説は井上文学の土台だ。初小説「ブンとフン」は奔放な想像力が暴れるナンセンス文学だった。「奇想」と「笑い」は井上文学の大黒柱。「吉里吉里人」はその集大成だろう。戯曲も輝く。どれも喜劇の装いだが、色合いは多彩だ。

悪漢の物語に大どんでん返しを仕掛けた「藪原検校」や「雨」。「小林一茶」など評伝劇も実り豊かだ。

そして、戦争と戦後を見据えた作品の数々。広島の原爆をめぐる「父と暮らせば」は海外でも上演を重ね、映画にもなった。

おっと、忘れてはいけない。テレビ人形劇「ひょっこりひょうたん島」や、「ねえ、ムーミンーー」というアニメ主題歌の歌詞が思い出に残る人も多いはずだ。

次から次へと思い浮かぶ。「井上山脈」の大きさだ。

どの作品もやさしく、おもしろく書かれ、どんな読者や観客も拒まない。

しかし地底にはマグマがたぎっていた。

井上さんの父は、左翼運動で検挙され、拷問がもとで亡くなったという。5歳の時だった。10歳で終戦。価値観がひっくり返るのを目の当たりにした。貧しくて養護施設で育った時期もあり、東京に進学してからも、東北の方言などで悩みは深かった。

こうした体験が、社会や時代、人間の中に潜む病理や矛盾、悪を容赦なく見通す目を育てたのだろう。だが冷徹な目がえぐりだしたものは、ペンの力で豊かな娯楽に作り替えられた。怒りを笑いに転じて人びとの胸に届ける過程が井上さんにとって熱い闘いだった、膨大な資料を集め、克明な年表や地図を自作。趣向と工夫の限りを尽くして1本の戯曲を仕上げる。書き終わると体重が5キロも減った。

戦争への怒りは行動にも結びつき、憲法九条を守る運動を主導した。

温かな人柄だったが、時に、後輩作家への対抗意識をむき出しにもした。新しい才能を刺激とし、闘志をかき立てていたのだろう。

穏やかで激しく、やさしくて鋭い大作家が逝った。足元に広がる穴の大きさと深さは計りしれない。でも、見上げれば遺(のこ)された山脈が見える。そこにはいつも井上さんがいる。

2010年8月5日木曜日

妻が入院した

昨日(3日)、我が家の大黒柱の妻は横浜の病院(無事に退院した暁には明記しましょう)に入院した。

彼女は、この2年程前から、腰が痛いと言い出した。実際には、腰と言うよりは大腿骨の付け根の部分の関節が擦り切れてしまって、スムーズな動きができなくなってしまったのだ。神の手の医者がいるという鎌倉の某病院に、年末に手術の予約をしていたのですが、痛みが激しくなって、そんなにのんびりしている訳にはいかなくなったのです。今回の病院で診察していただいたお医者さんが、この治療には手術が必要で、手術方法が確立されているので、そんなに心配されることはない、早く手術しましょうということになって、今回の手術になったのです。何も神の手は必要ないとのこと。この担当医の名は減氏だ。

我等夫婦の第四子、三女の苑が妻の入院に付き添ってくれた。妻と娘はその前から、何度も病院に通って、検査と貯血をした。貯血は、手術の際、多量の出血があった場合の用意のためだ。実際に自分が貯血した血液を手術中に使うことを返血と言うらしい。そして昨日から明日(5日)の手術本番を迎えるための準備に入った。

今日の4日、16:30から、担当医から今回の手術の内容、手術後のリハビリ、手術に伴って起こり得ることの説明を受けた。患者やその関係者に病気の内容を知らせる案内書が用意されていて、それも読んだ。隣のベッドの患者さんが、先ほどお宅の娘さんがお母さんのお見舞いに来られて、私の睫毛が長いね、と言って帰られました、と笑っていた。アイツは、そういうことを平気で言う変な奴なんですと言っておいた。仕事の合間に顔を出してくれたのだ。本当は変な、いい奴なんですけど

治療としては手術が最善の方法で、これしかないとのことだった。人工股関節の全置換を行なうのだそうだ。特殊な金属、プラスチック、セラミックなどで作られた人工股関節を、擦り切れた自前の股関節と交換する手術だ。人工股関節は大腿骨側(ステム)と骨頭、寛骨臼側(カップ)の部品を組み合わせて交換する。

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担当医の減氏から伺った手術前のお話は次の通りでした。

全身麻酔をするので、筋肉が弛緩して静脈血栓が発生しやすくなる。肺梗塞を起すこともあるので、皮下注射をします。また血栓の発生を防ぐ為に、サイズが窮屈なタイツをはいてもらいます。人工関節が外れることはあるのですか、と聞いたら、それは可能性としてはあります。手術後3週間は足をひねったり、組んだりしないでください、脱臼は癖になることもあるのです。最初の3週間を無事に過ごせれば、多分その後は無理しなければ、大丈夫でしょう。返血でも足りなくて、輸血を行なったときに発生する危険についての説明があった。異物を体内に埋め込むので細菌感染や、細菌がその人工関節に巣食うことも稀にはある。この人工関節はどのくらいもつのですか、の質問には20~30年の耐久性能があるのですが、人によっては緩んできて、痛みを感じることもあります。適度に、お医者さんにチェックしてもらう必要があるでしょう。手術室には、手術に携わる医師と看護師、他に使用する機械の専門家も室に入ることを了承してくださいと言われた。

担当医の説明の後、ベッドに戻って、体温と血圧を測ってもらっていた。体温36、5。血圧の高いほうが150を超えていたので、怪訝がっていた。再び計って貰っても、得た数値は前回と変わらなく高かった。彼女は、さきほど担当医の先生からいろんな説明を受けたことが原因なんでしょう、と独り言を言っていた。

妻には夕食の時間が近づいてきたので、三女と私は病室を後にした。

自宅に帰って、娘が作ってくれたレーメンを美味しく頂いたのですが、缶ビール1缶は飲んだものの、どうも気勢が上がらない。1年、365日の毎夜、正体を忘れるほどきちんと飲んでいる私が、今夜は焼酎にも日本酒にもウイスキーにも手が伸びない。左手は、すくんだままで手持ち無沙汰、右手は頭を掻いてばかりだ。

そして、明日5日、09:00から手術は行なわれる。三女が付き添ってくれる。手術前に、長男夫婦とその子供(私の3番目の孫)が、私と見舞いに行くことになっている。

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術後の写真です。

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2010年8月2日月曜日

国会議員、盗っ人猛々(たけだけ)しいぞ

国会議員の月割り歳費のことだ。

この稿は、自宅のPCで作成したのですが、PCのどこかに不具合が発生して、投稿できなかったのです。そんなことで、内容がタイムリーでないのが心苦しい。

先の衆院選で政権交代した。その熱気の陰で、話題をさらったのが議員歳費の月割り給付だった。昨年8月30日に当選した議員が、わずか2日しか在任しないのに、1か月分の歳費が丸々支払われた。議員さんよ、あんたら、盗っ人猛々しいぞ、と怒っているんです。民間企業では絶対ありえないことだ。

地方議会では日割り歳費が常識になっている。地方議会の方が市民により近い存在だから、その変更は急がされたのだろう。大阪府議会は歴史が古い。1965年に導入されたと朝日新聞の朝刊(20100731)で知った。商売の都、大阪の商人(あきんど)の視線は、どこの地域よりも厳しかったのだろう。福島県矢祭町では、議員の給料を日当にしている。

国会議員の歳費には、なんの手も打たないまま、ここに至った。そして今回の参院選でも同じ問題が、当然ながら起こっている。選挙が終わって、1ヶ月ほどしてみんなの党が、この臨時国会で、法改正しようと主張しだした。民主党は、この件をこの参院選のマニフェストに掲げながら、党内抗争に明き暮れ、あげく時間がないとか言っちゃって、自民党は正式の手続きを経て取り組みたいとか言っちゃって、言っちゃって言っちゃって、この二党には本気でこの問題に取り組もうとしていない。

渡辺喜美代表のみんなの党は大きな声で他党を挑発した。新聞もこの問題がいかに不合理かを酷評した。テレビなどは、視聴者にとって、一番喜ばれる材料とばかりに連日報道した。関西のある大都市の若手の知事さんは、これは泥棒ですよ、とまで言っていた。

そして日は経っていく。

民主党と自民党は7月分を日割りにして、一部を自主返納できるような国会議員歳費法を改正する方針でいると聞く。ところが、今日(29日)の新聞を読んで、開いた口が塞がらない。先に民主党代表選に菅直人の対抗馬として立候補した小沢側の樽床伸二国対委員長は27日、記者団に「野党の中心的な3党で意見をまとめて頂いて、テーブルにつくことについてはやぶさかではない」と述べ、政権党として主導権をとる姿勢を見せなかった、などと報道されていた。政治資金規正法に絡む疑惑だらけのおめえの小沢親分は、月割りはおかしいと明言している。この問題は、国会審議に時間を要する問題でもない。得意の政治主導という鬼?に金棒?でも、国会議員は誰も反対できないだろう、それほど世論は熟成している。こんなことでは、民主党も先がない。

この辺の問題を市民感覚で取り組まないと、いつまで経っても、政治は国民からの支持が得られない。こんな当たり前のことを、どの党が最初に気付くのでしょうかね。

梅雨が明けたというのに、スッキリしませんなあ。強いリーダー、ブレないリーダーの出現を待つ。今まではボケっとしていた政治家さんだって、今からでも剥(む)きになって大変身「変心」していただいても結構ですゾ。

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20100730

朝日・朝刊

天声人語

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中国の明代の『菜根譚(さいこんたん)』は語録風の随筆で、本国よりむしろ日本でよく読まれた。その中に「衣冠の盗(いかんのとう)」という言葉が出てくる。衣冠とは官職につく者をさしていて、平たく言えば「給料泥棒」の意味である。

難関で鳴る科挙に晴れて受かり、あとは役得にどっぷり漬かる者が多かったのかもしれない。失礼ながら、この話を、国会議員の「月割り歳費」の問題で思い出した。先の参院選で当選した新議員は7月の在任が6日しかない。なのに満額の230万円が支払われる。

お手盛りの大盤振る舞いと見られても仕方あるまい。去年の衆院選では8月30日に当選した議員が、たった2日で全額もらった。批判がわいたが、足元を清める動きは鈍く、政権交代の熱にかき消えた。そして今回、またぞろである。

浮世離れした厚遇は新議員を勘違いさせかねない。だが結局、この国会では「日割り」への法改正とはいかず、自主返納という形を整えるそうだ。かえって気の毒ではないか。同期当選の仲間をうかがいつつ、踏み絵を踏まされるような気分だろう。

仙石官房長官がこのあいだ「引き下げデモクラシー」なる言葉を使っていた。恵まれた立場の人を引きずり下ろして溜飲を下げる。低級な民主主義のことだ。むやみなパッシングは不毛だが、この問題への批判はしごく真っ当な庶民感覚だろう。

『菜根譚』は給料泥棒たる「衣冠の盗」を「民衆を思い愛さない者」と定義している。きょう初登院する新人は55人。その本来の意味で、ドロボーとは無縁であってほしいと願う。