2006年12月29日金曜日
「いのちがけでかく」教えた先生 灰谷 健次郎
立派な人が次から次と逝去される。朝日新聞の「惜別」では、亡くなった方々の、お人柄や業績、諸々を紹介している。どの人の場合にも、感心させられる内容なのだが、私にとって、今回はちょっと気分よくさせてもらったので、記事にめぐり合わなかった人に、読んでもらいたい、と思ってキーボードを叩いています。筆者の大野博人さんは、朝日新聞社の記者の方だと、思い込んでいいのかな。その紹介はなかったので、勝手に思い込んでしまうことにしましょう。小学生だった大野さんが、作家になる前の先生・灰谷 健次郎さんとの(てがみ)を通しての交流を著していた。読者を、楽しく、微笑ましくさせる文章作法で。灰谷先生との邂逅が、記者・大野さんの人格形成に大なる影響を与えたことなのでしょうね。灰谷先生は、教師を辞めて、作家活動に入る。一方の大野さんは、勉学を重ねて、新聞社に入社。モノの考え方、文章の綴り方で、恩師からの教えの通りに精を出して、その仕事の一部が今回の記事なのでしょう。
私のような者が言うまでもないが、灰谷 健次郎さんは天国で、大野さんの記事のできばえをさぞかし、満足されているのではないでしょうか。こんな、偉そうなこと、書いて、失礼しました。もう、仕方ないことだけど、私も、あなたたちの中に、飛び入りたかった。
2006年12月25日 朝日(夕)
惜別 灰谷 健次郎さん
1冊の古い便箋が手元に残っている。ぼろぼろの表紙には「ひろひとちゃんと先生のてがみ」とユーモラス文字。書いたのは灰谷先生だ。45年前の神戸市立東灘小学校で、ぼくら2年2組の担任だった。便箋に、友達と遊んだ話や詩をたどたどしい文でつづると赤ペンで返事をくれる。先生はクラスのみんなとそんなやりとりをしていた。 面白い表現があると「きょうまでのてがみのなかでいちばんよかった。さいこうやな」とほめる。でも、いい加減な文章には「こんな詩あかんワ。自分をふりかえってみることができるのがつづりかたや。そやないと、ちょっとあたまのええ、もんくのよういうふつうのにんげんになってしまうぞ」。で、「ごめんなさい」と書くと、「いいたいことがあったら、なんでそのことを紙いっぱいにかかへんのや。先生ごめん、なんてあやまるのはかしこいのとちごうて、ずるいのや」。それに反発すると「おこってるときのほうがよっぽどええわ。おまえがわかるまでなんぼでもけんかしたるぜ」
「絵や詩は、先生にいわしたらいのちがけでかくもんや。ひろひとみたいなやりかたでかかれたら、先生までばかにされたような気がするわ」。
二十代。まだ作家として世に出てはいなかったが、表現することの切実さを幼い子供にも懸命に伝えようとしていた。授業でも本気で向き合うから、子供達には圧倒的な人気があった。
大好きな先生とも別れる学期末。「てがみ」のおしまいに先生はこう書いた。
「むかしの中国の詩人が、さよならだけが人生だ、とかいている。にんげんはいきているあいだ、なんかいもしたしい人とさよならをせなあかん。さびしいこっちゃ。でも、それがにんげんのべんきょうのみちや。まあ、そんないみやな」
「サイナラ。また、あそびにこいな」
あそびにいきたいよ、せんせい。
2006年12月27日水曜日
その個性を壊すな、自然のままが一番。
世界に通用する次代の科学者を育てようと開かれている、高校生の科学技術コンテスト「ジャパン・サイエンス&エンジニアリング・チャレンジ」(朝日新聞社主催、内閣府、文部科学省、農林水産省、経済産業省ほか後援)の最終審査の結果、科学技術振興機構賞を受賞した山口県立厚狭高校2年生の3人組(阿部美弥子さん、井上真理子さん、植田奈津美さん)の研究成果を紹介している記事を見つけた。他にもいろいろな研究の成果の紹介はあったのですが、科学に弱い私には、この山口県の3人組の研究の記事しか関心が湧かなかったし、他の賞には理解できなかった。
「善意のメダカ放流」警告、
のタイトルを見て、わが意を得た思いで、ニタットとしてしまった。
内容は、私が考えていたことと、随分違うのだけれども、川のメダカの生態をよくも、こんなに気を揉んでいてくれて、よくもこんなに科学的に調査して、何気なく行われてきたメダカの放流に警告を発した。川を、水中に棲む魚や虫たちのことを、常に気に留めている私には、彼女たち3人の行為が嬉しいのです、感謝しているのです。彼女たち3人組の研究の成果は後のほうで新聞記事を転載したので、その項で確認してください。いく種類もいるメダカのそれぞれの個体としての保存が必要なのでは、という問題提起である。
以前(2006年9月29日 金)に、この私のブログで、川に放流された鯉が異常に大きくなって群遊、大きな口を広げて小魚、虫を、あたかも鯨のように、何もかも漁ってしまう。一網打尽。平和だった頃の川は、農薬などは流れ込んではこなかったし、両岸には草が繁茂していて、陸(土)の世界と水の世界が一つになって、交流しながら調和がとれていた。
その大きい鯉を間引くことで、水中の世界を自然な状態に戻したい、と思ったのです。
この考え、間違っていますか? 間違っているとお思いの方はどうぞ、お知らせください、納得できれば、いつでも主義主張を換えられます。
メダカや鮒、タニシやヤゴ、小魚、虫が大きな鯉に食われたくないのです。
善意の方が、善意で、何かいいことでもするように、鯉を放流したのでしょう。これは、大きな勘違い、大きな間違いです。
私には科学的な思索ができないので、誰か、私が危惧する問題を科学的に証明して欲しいのです。
2006年12月23日 朝日
科学技術振興機構賞
「善意のメダカ放流」警告 山口県立厚狭高校(2年)
動物園の協力で、サギなどの鳥に野生メダカとヒメダカを食べ比べさせてみた。よく目立つヒメダカの方が、圧倒的に食べられやすかった。彼らが自然界で生き残れない理由がよくわかった。
遺伝子汚染を調べるきっかけは、ある新聞記事だ。学校近くを流れる川に、毎年、大量のヒメダカが放流されていることを伝えていた。ヒメダカは、川ごとに遺伝的な特徴を保って生きながらえてきた生き物。「その個性を消すようなことをやっていいのかしら」
ヒメダカ由来の遺伝子検出の有効な方法が今のところ見つからず、野外の固体にヒメダカを交雑させる方法で検定に取り込む。大量放流された川にヒメダカの痕跡がないのに、放流の記録の無い川に交雑固体が確認される、といった不思議な現象もあり、まだ解決すべき問題が多い。大陸産のメダカが交じっていると疑われる川もある。
放流は、ほとんどの場合が善意から行われるので、やっかいだ。「それでも、訴えるべきことはちゃんと訴えたい」と阿部さん。
「メダカの遺伝子汚染」
広く飼育されているヒメダカは、生物学的に野生のメダカと同じ種で、自由に交雑する。ヒメダカ放流が、野生集団にどう影響するのか、野外調査や各種実験、遺伝子レベルでの比較による検証を続けている。
2006年12月23日土曜日
悪風なびく今こそ、弊社のチャンスだ
売り惜しみが加速
不動産研究所は今月14日に、首都・東京圏(東京、神奈川、埼玉、千葉)で06年中に発売される新築マンションが前年比15%減の7万2000戸程度にとどまる見通しになったと発表された。
売値が、地価上昇、建築費アップによる影響を受けることは必至だ。その売値をめぐって、我々業界は今、販促活動は休眠状態にある。それはお互いに他社の動きを牽制し合っていると言うほど激しいものでなく、静かに相手の動向を窺がっている、と言ったほうがいいだろう。
最近の地価の上昇は顕著、弊社のモノサシではどうしても事業化を断念せざるを得ない案件でも、大手デベロッパーは仕入れて事業化を目論んでいる。土地取得については、大手さんは非常に派手です。私は、ホンマに大丈夫かヨ、と懸念している。
どこかの会社が高値で売り出して、その高値に追随して「お客さん、土地は高くなったし、工事費も高くなったので、しょうがないでしょ」と言いたいのだろう、か。その節目でちゃっかり余分に儲けよう、との魂胆が垣間見える。そんな状態が、結果的に、売り惜しんでいると、言われている理由です。
そのように、欲ぼけした売値を、我々業界人は「新価額」といって、「あそこにある物件の新価額は幾ら?で売りにでるのでしょう」なんて、話し合っているのです。
弊社には、07年秋に完成予定で進んでいるプロジェクトがある。
パラジスハウス 伊勢原・桜台タワーです。
小田急線 伊勢原駅徒歩10分 32戸 2タワー 全室角部屋 各室2面採光が特色
ここで弊社の営業をかけようとするのが、このブログの主旨ではない。
弊社は、売り惜しみ状態を利用?して、新価額で利益を上げようとする風潮とは一線を画して、独自の戦略を立てなさいと指示している。
従来通り、普通通りで、いい。
できる限り、品質を高め、経費を削減、他社よりも手ごろな価額で買ってもらえるようする。この悪風なびく今こそ、事業拡大可能なチャンスとみた。
私の07の初夢は、新価額で売り悩む会社を尻目に、弊社の売り出し現場はヤイノやいのの大賑わい、お客さんに大いに喜ばれて、~そんなようになりそう。
07には大きく飛躍するぞ。
2006年12月22日金曜日
「超一流」の言葉の繊細さ
それから、松井秀喜のコメントだ。このコメントも、スポーツ紙で読んだその時、彼ならば、そのように発言するだろう、と思った。
じとっと、彼の心境を理解できた。
そんなことが、新聞社の記者には、ネタになるのだ。文章を綴れる能力を持っている人が羨ましい!!わ
「超一流」の言葉の繊細さ
2006 12 19 朝日より
アスリートの発する言葉の繊細さに驚くことがある。
「元々、僕は夢という言葉は好きでない。見る事はできても、かなわないのが夢。大リーグで投げられると信じて、目標にしてやってきたので、今ここにいると思う」
レッドソックスの入団が決まった松坂大輔のボストンでの記者会見だった。「夢が実現したが」という質問に答えた。「夢」という言葉を彼はきちんと定義し直した。
超一流の選手たちは、独特の感性を持ち、それを言葉にする。例えば、イチローはこんな言葉を残してきた。首位争いをしているとき、ライバルの名をあげられると、「他人の打率は僕にコントロールできない。意味のない質問ですね」。「自分にコントロールできることとできないことを分ける。自分で制御できないことに関心をもたないことです」。
ヤンキースの松井秀喜のセリフがイチローのそれに似ていて驚いたことがある。入団1年目、不調が続いた時、ニューヨークのマスメディアにバッシングされた時だ。「人の書く記事を僕はコントロールできないでしょ。だから全く気にならないですよ」
ニューヨークよりも厳しいかもしれないボストンのマスコミに対しての心構えとして、松坂への有効なアドバイスにもなるだろう。
「目標」という言葉にも、厳密な定義を与えたアスリートの一言も忘れられない。スピードスケートの長野五輪金メダリスト、清水宏保はこういった。「目標とは達成すべき結果のことです」
「夢と目標」。漠然と口にしがちな言葉に、彼らは人生の意義をこめ、再生させる。
2006年12月21日木曜日
沢村栄治さんって、どんな人?
私の机を移動することにしたので、この際とばかりに本棚、引き出しを整理していたら、黄色染みた新聞が出てきた。私は、これはという記事を見つけたときは、取り敢えず切り取って(どこか)に仕舞って置くようにしている。でも、きちんとファイルをしてないので、今回のように、思わぬときに、飛び出してくる。毎年プロ野球のシーズンが終わると、その年度に活躍した選手の表彰が行われる。そこで投手部門に沢村栄治賞というのがある。私は、出身が京都だから、沢村栄治のことは、よく知っている。でもその人と、なりについては何も知らない。そういうわけで、私は新聞を切り取っておいたのだろう。その記事を此処に転載したので、読んで欲しい。
1997年 朝日新聞 月日不詳
戦争が奪った「160キロ」の速球
容赦なく3度出征・最後は代打だった
宇治山田の小学校から旧制京都商業まで、沢村とずっとバッテリーを組んだ山口千万石さん(80)は、元気に故郷で少年野球の世話をしている。
「栄ちゃんは、そりゃ、すごかったよ。中3(京商3年)の時、急に速よなって、ひざの高さの球がきゅーん伸びる。ドロップは肩からひざまでストーンやった、サイン間違ったら絶対に捕れへん。練習で受けるときも命がけやった」
「毎日三百球は投げていた。天才いうけど努力家や。ふだんはおとなしい。やさ男で、ピアニストみたいに長い、細い指してた。それが試合になるとものすごい強気で、追い込んで変化球のサイン出すと、怒って、『三振とるのは直球や、頭に入れといてな、千ちゃん』
やった」
千ちゃんの手は突き指だらけで、第一関節はどれも曲がったり節くれ立ったままだ。千ちゃんの宝物である。「ようけ三振とったなあ。野球の醍醐味、味わわせてもろた。戦争なかったら四百勝は楽にしてたやろ」
沢村の伝統的快投は昭和9年〈1934年〉秋、来日したベーブ・ルースら「史上最強」の全米軍相手に投げた静岡草薙球場の試合。0-1で負けたものの、ゲーリックの本塁打1本に抑えた。この時の全米軍は十八戦全勝。前の三試合だけで五十得点をあげていた。十七歳の沢村はこの猛打線をわずか五安打に抑え、四連続を含む九個の三振を奪った。
千ちゃんと夏の甲子園大会に出場した三ヶ月後である。「トライキ(ストライク9!)。千ちゃんが小学校から叫び続けてきた快速球に、ルースもゲーリックも三振した。四番ゲーリックは三球で。巨人軍の故・青田 昇さんは「百六十キロは出ていた。落合や清原、イチローでもバットにかすりもしなかっただろう。」と書いている。
沢村はこの日からちょうど十年、終戦の前年に、三度目の出征で台湾にに向う途上、輸送船が米潜水艦に撃沈され、戦死した。
戦後五十年の記念の年、米大リーグのオールスター戦のマウンドにドジャースの野茂投手が立った。試合開始前、センターの大スクリーンに、真珠湾攻撃と、戦場に向う大リーガーたちの記録フイルムが流され、白髪のジョー・ディマジオがグラウンドに現れた。
=一部、焼き鳥のタレのため読解不可能=
沢村は「快投」の翌年、誕生直後の巨人軍のエースで渡米、若きディマジオとも対戦した。本塁打を打たれたが、大リーグから何度も誘いを受けた。迷いつつ、「こんなでっかい国と戦争したらあかん」と沢村。
「大リーグの主力選手は危険な戦線には送られなかったんだよ」と、元ニューヨーク・タイムズ紙のD・ハルバースタム記者に後日、聞かされた。沢村らには容赦なかった**?〈刺身用の醤油のシミと、思われる、読めない〉中国戦線へ。
その前の*(ソースの零れと思われる、読めない)年秋、プロ野球公式戦がスタート。沢村は二度のノーヒット・ノーランなど、その秋と春で通算三十七勝六敗。柔らかいフォームからの抜群のスピードと制球力。が、二年の兵役で手投げ弾を投げすぎて肩を痛め、左手には銃弾を受けた。帰国後、スピードを失う。
二度目は初恋をやっと実らせた新婚五ヶ月で、フィリッピンのジャングルへ。一年余りでげっそりして帰国。今度は制球力も失う。四十年十月、六番青田の代打出場が最後だった。巨人軍をくびになり、失意のなか、出征。生まれた長女の顔を見ることもなく戦死した。二十七歳だった。
「最後はくやしかったやろなあ。あの気の強い栄ちゃんがノックアウトならあきらめたやろけど、代打やったんや」
千ちゃんと育った伊勢市の。近鉄・宇治山田駅のすぐ近くに一誉坊墓地。お墓は近所の石屋さんがひと肌脱いだ。遺骨はない。大切にしていたベーブ・ルースのサイン入りボールなどが葬られた。
日米戦での快投で、日本のプロ野球誕生の原動力になった。
(大リーグからの誘いに)「わし、行ってみたいが、怖いわ」
2006年12月20日水曜日
もう、面接なんかしたくなあい!!
もう、私、面接なんかしたくありません。こりごりだ!!
現在、弊社は社員募集中です。面接に来る誰もが、それぞれに過去の実績を履歴書、職務経歴書に書き込んでやって来る。これが、私には苦痛なのです。それぞれに、「実録人生物語」を引っ提げて。失敗談、成功談、苦笑混じりでないと語れないこと、涙なしでは語れない、聞けない話が、初めて会う人の口から溢れ出す。
私は、その場から逃げ出したくなるのです。
面接中、この人はどんな人なのだろうか?と一生懸命に思いを巡らせる。
今までどんな仕事をどのようにしてきたのですか。
何を思って生きているの、何を背負ってる、何を目的に、何を目標に、夢は、希望は、人生で一番大事にしているものは、尊敬する人は、軽蔑する人は、愛する人は、好きなもの、嫌いなもの、趣味は、と聞きまくる。
極彩色に彩られた、人生模様が私を圧倒する。
弊社に足りない部分の補充なのか、事業拡大したい部分の補強なのか、何れかの目的で、募集をかけている弊社の都合を、我はすっかり忘れてしまい、頭は蚊帳の外へ。
人と会って見て、誰がいいのか、判断がつかないのです。
人を見る目が無い私は、社長としては、落第かもしれない。
長所と思われる部分は、それを伸ばしてやればいいし、短所と思われるところは改善・修復すれば、済むことなんだけれど。
会社を立派にして、入社を望む人なら誰でもが入社できる会社にしたいものです。この思いつきは危険ですか。
あいつ
前の(ID 137)で、現東京都知事のことを「あいつ」なんて、書いてしまったものだから、又また、茨木のり子さんの詩を紹介したくなりました。
あいつ
〈あいつの言葉は腐っている〉
人ごみのなかで 通りすがりに
吐き出すような台詞が耳朶を打った
あいつとは どいつなのか 知らないが
私はただちに了解した その内容もわからずに
〈そう あいつの言葉は腐っている〉
なぜなら日々
腐った言葉に首まで漬かり
憤懣やるかたないのだから
自分の言葉にすらそれを感じ
身ぶるいすることがあるのだから
あいつが どいつでも おんなじだ
私は、茨木のり子さんが存命中に聞き質したかった。
茨木のり子さんの、「のり」は何ですか? お父さん、お母さんはどういう思いを込められたのでしょうか?
2006年12月19日火曜日
倚りかからず
数日前のブログで記した茨木のり子さんだ。
その茨木のり子さんの詩を一編、ここに紹介させていただく。何故、又、ここで茨木のり子さんなのかは、詩の後方の文章で、私の意図を解ってください。
恥ずかしいことなのですが、茨木のり子さんが、記した(人ベンに奇をくっつけた字)がPCでは、綴れなくて、止むを得ず『寄』の字を使わせてもらおうと思った。
そんなことしちゃ、私の詩?想はどうなっちゃうの、とあの世から降臨、怒りまくっていただけたら、私、この上なき幸せちゅうもんですが。
ところが、数日後、弊社の賢明なスタッフの小沢雅子から、「倚」の字を見つけ出す方法を教授された。教えてもらった。きちんと、茨木のり子さんの原文通りに綴れました。
倚りかからず
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問に倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
私が、茨木のり子さんを尊敬しても、尊敬しきれない、神々しい茨木のり子さんの毅然とした醍醐味を、皆さんも楽しんで?欲しいのです。「私の詩想を甘くみるんじゃ、ねーぞ」と、茨木のり子さん。
今、報道されている官製談合事件から、茨木のり子さんの詩を彷彿させたのかもしれない。知事の椅子に倚りかかり、いや、どっぷり椅子に埋まって、離れようとしない。逮捕されるまで、天地神明に誓ってそのような、天の声など発したことなどありません。福島、和歌山、宮崎の三県の知事は皆全く同じ様な発言を繰り返した。逮捕されるや、舌の根も乾きもしないうちに、ゲロちゃった。こんな知事に票を投じてきた県民の失望は計り知れないものがある。地方権力の象徴である知事の椅子はよっぽど居心地が良さそうだ。茨木のり子さんにとって、必要だったのは、背もたれだけだって、ヨウ
倚りかかる、と言えば権力以外にもあるのです。
言葉、文字に倚りかかった例です。著名な人が「冒険者」ぶった言辞をしたとする。ただの普通の人なのに、もうその人は冒険者になってしまうのです。1962年、堀江謙一さんが単独無寄港で太平洋をヨットでアメリカまでたどり着いた快挙を、あの東京都の現知事石原慎太郎が、この快挙に水を差した発言をしたことを、私は憶えている。余りの快挙に、石原は疑問視した。勇気の無い奴が余りの快挙に嫉視したようだ。その知事さんと言えば、日本の近海をうろうろ浮遊しているだけじゃないか、冒険を語るなんて資格が、「あいつ」のどこにあるんだ、と中学生時代に感じた。
知事の息子が、東京都から特別任務を委嘱されたが、実の無い成果の割りに、派手に公費をつかってくれた報道があったものだから、ついつい文章が長くなってしまった。
2006年12月14日木曜日
弊社は、何ごとにも、へつらうことなく、生きる
免許許可日は、平成18年5月3日
商号は、株式会社 アーバンビルド
業務に従事する事務所は、
横浜市保土ヶ谷区天王町2丁目45番地32
神奈川県知事 (3)21757号
社団法人 全日本不動産協会会員
社団法人 不動産保証協会会員
どうですか?皆さん。堂々とした不動産会社だとお思いになられましたか。
が、おかしな政治団体に、否応なしに、納得のいかない賛助金を支払わされている悲しい部分を抱えている会社でもあるんです。
今年10月に朝日新聞で報道されたことを、以前に私も同じ経験をした。余りにも一致しているものだから、此処に新聞の記事を転載させてもらって、広く世間の人々や同業者の反応を窺がいたいと、思いました。
以下 2006年10月30日 朝日(夕)より
東京都内の不動産業者の6割が加盟する業界団体「東京都宅地建物取引業協会」(都宅協)が、新規加入者に対し、系列の政治団体への入会を事実上条件づけて賛助金を求め、その一部は自民党東京都宅建支部を受け皿にするなど不透明な形で集められていたことが分かった。東京都選挙管理委員会が公表した05年の政治資金収支報告書で明らかになった。本来は自主的であるはずの政治献金が、本人の自覚があいまいなまま集められ、処理されている実態が浮かんだ。~ここまで 朝日(夕)。
弊社が宅建業の免許を取得する際にも、同じだった。免許申請の受付で、「黙って入会して頂いたほうが。審査はスムーズにいくと思いますよ。更新の際にもですよ」と言われた。ムカッツときたけれども、その時は、(商売したさ旺盛)で、矛盾に挑む意思は稀薄だったようです。少しはおかしいぞ、とは思ったのですが。何も行動を起こさなかった。恥ずかしい、ことだった。
今、又、この場で、怒りが蘇ってきた。
自民党が嫌いだとか、好きだとか言っているわけではありません。隠れたように仕組まれていることが、許せないのです。一番信頼されなければならない業種である、不動産業に関する関連団体が、ペテンまがいのことをやっていては、やっぱり、「不動産屋は信用できんわ」という事になってしまう。
私の知り合いの不動産屋さんは~「おかしいと思うよ、だけど、業界の慣例に従うしかないんだよ。狭い業界なので、何を言われるかわからん。近所の役員が、マア そう言うなよ、と説得にくるんだ。それも嫌だしな」
私は、自分が創業した会社を、「開かれた、社会民主主義会社」にしたい、と思っている。左派の経済人でもありたいと、思っている。夜は、当然左利き(左党)ですが。
都宅協への入会、
不動産業を開業したり、支店を新たに開設したりする場合、法務局へ営業保証金1千万円の供託が必要だが、都宅協に加入した上で全国宅地建物取引業保証協会(全宅保証)に分担金60万円を納入すると供託が免除される。このため、業者のほとんどが都宅協のような業界団体に入会している。
2006年12月13日水曜日
台湾代表監督 今井敏明君。君の活躍に期待する。
今井敏明は、早稲田大学ア式蹴球部(通称:サッカー部)の昭和52年度卒業生。高校は浦和西高校。学生時代は、ガッツある元気者で、硬い体でガツウン、ガツウウンとプレーする選手だった。大学では、私のほうが4年先輩だったので、同じ時期に同じグラウンドで一緒に練習したことはない。彼は私の卒業と入れ替わりに入学してきた。
でも、彼たちの学年は楽しい奴ばかりで、私は卒業後も彼らが4年になるまで、練習や試合をよく観に行ったものです。彼らは卒業後も、各界に華々しく活躍しています。奴等のキャラクターならば、当然のことのように活躍するであろう、と想像はできた。
結果、今井敏明以外、学校の先生は4人、教育委員会、大手医療器メーカー、老舗百貨店、酒醸造会社、スポーツクラブ、大学サッカー部の監督さん、大手食品会社、大病院の事務局、大手飲料会社、事務機器販売等で、各地で遺憾なく腕を振るっている。
卒業後、彼たちは1年に1度の試合を取り込んだ同窓会をあっちこっちでやりだした。今年で、30年は続いている。彼らに親近感を持っていた私と田中正親は、当然のように毎年参加している。
その今井敏明君が朝日新聞に大きく取りあげられたので、マイ・ポケットする。私とは随分、人生観、価値観、スポーツ観が違うのだけれども、今此処でそんなことを議論する余地はない。頑張っている今井敏明に、もっと頑張って欲しいとエールを送りたいのです。
2006年11月27日 朝日(夕)
監督武者修行
午前7時15分。台湾中西部・嘉義市の中正大学の一角で、サッカー台湾代表の朝礼が始まった。1人の選手が話を始めた。周りは笑って聞いている。最後を軍歌で締めた。「うまいじゃないか。ちょうど3分9.時計を見た今井敏明監督(51)が言った。2人目は2分で話を終えた。通訳が内容を伝える。「1人目は、会社の上司に誘われ、飲みに行くのが好きになった話。2人目は人に言われるだけでなく、自分の意見を持つことが大事だという教訓の小話でした。8月から、3ヶ月間、大学の寮を借りて合宿をした。
毎朝交代で3分間スピーチを課すようになったのは、「選手に考えさせ、主体性を植えつけるため」だ。午前の練習は10時に始まった。ほぼ北回帰線上にある嘉義の気候は熱帯に近く、10月下旬でも暑い。長距離走の合間にパスの基本練習を行う。「ただ蹴るんじゃない!パスだ!」今井監督が叫ぶ。疲れた状態での正確な球扱いが目的なのに、集中に欠ける雑なキックが目立つ。こんな合宿は初めて。学食の中華料理は口に合うが、さすがに毎食だと「機械的に口に運んでいる」と、今井監督は苦笑する。ほとんどの選手にとって、今井監督は初めて出会う外国人。その存在を有効活用しようと、台湾サッカー協会が日程を組んだ。
かってJリーグ・川崎フロンターレを率いた今井監督は、昨年12月から台湾代表(当時世界ランキング156位)を引き受けた。就任後、アジアカップ予選はここまで韓国、イラン、シリアの強豪相手に5連敗。失点が計21も喫し、得点がない。選手は大学生中心に20代前半が多いが、世代交代を図っているわけではない。今井監督は「こうなっちゃうんだよ。台湾の選手寿命はとても短いから」と話した。企業チームは台湾電力と大同の二つ。軍のチーム、大学、高校を加えた短期の大会などを年に数度開くだけだ。脂がのった社会人がしのぎを削る場は少なく、仕事をこなしながら漫然とプレーするだけになる。「台湾の選手は目標を設定しにくい環境にある」と、今井監督をサポートする陳俊明コーチ(37)も語る。今井監督は、代表に招集した社会人10人から「メリットがない」と断られた。運動能力の高い先住民も「プロがある野球に流れる」(陳コーチ)と言う。サッカー代表には2人しかいない。ほとんどの代表選手隠れて喫煙するのを今井監督は知っている。向上心にも欠けるのだ。就任当初は1時間半だった練習を1時間に縮めたのは、集中力を高めるためのやむを得ない工夫だ。10月には若手2人を横浜マリノスの練習に2週間参加させた。海外で、刺激を与えるためだった。台湾協会には、選手が目標を持ち切磋琢磨できるよ、環境の整備を求めた。林徳嘉秘書長は「企業チームを増やせなくても選手がサッカーに専念できるよう、個人スポンサーは探せる。また県ごとに社会人、大学生、高校生の混合選抜チームを作って戦うリーグを来年から作る」と、改善案を示している。午後練習は4時開始。対人プレーで、守備の位置取りや、それを突破する攻めの動きを説く。鄭勇仁主将(29)には「一つ一つの練習が何のためかを考えさせられる」と新鮮に映る。11月15日。アジアカップ予選最後のシリア戦も0-3で敗れたが、台湾協会は来年の契約延長を希望する。「何としてもここで結果を出す」。生まれ変わろうとする台湾と走り出した今井監督の思いだ。
2006年12月10日日曜日
今、社員旅行中だ。グアムだってヨ
今、社員旅行中です。
当社では、毎年、12月初旬に社員旅行を行っている。直接の担当者は、この2 3年は若手の元気者だ。その以前には、(オジサンばかり)会社だったので、幹事は皆を驚かせる企画が立てられなくて、(まあ、しょうがないか)コースばかりだった。旅行社との、日程、行き先、費用、行き先での時間の過ごし方、を打ち合わせているその側で、聞き耳を立てるスタッフたち。楽しいことの打ち合わせは、私にも、心なごませてくれる。グアムに決めたようだ。
グアム島は、日本から約2,500キロメートルの距離にあり、飛行時間は約3時間余り。日本から一番近いアメリカです。
2006年12月8日~11日 3泊4日
滞在:パシフィック・アイランド・クラブ グアム
タモン湾に面し広大な87,000㎡の敷地に島内最大のウォーターパークがある。
私は、来年、アメリカにリフォームの勉強に行くので、今回は辞退した。
社員旅行の、全ての目的は社員の慰労である。仕事の事をすっかり忘れて遊ぶことだ。
会社負担は、社員は全額、社員の夫や妻は実費の1/2、義務教育期間中の子供は0。フィアンセ、愛人は全額個人負担。
私からは、大いに遊んで、楽しんできてくれることを、願うばかりだ。
行って、来おうい!!
後日の報告編をお楽しみに
2006年12月8日金曜日
茨木のり子さんの遺稿 来年詩集に
気骨の人 別の一面
茨木のり子さんの遺稿が、来年詩集として出版されると新聞記事で読んだ。
よかった。嬉しかった。
忘れかけようとしていた、茨木のり子さんが紙面といえども私の前に再び現れてくれたことに、喜んでいる。
私は、大学生だった4年間、東京は武蔵野、東伏見のグラウンドを核に直径2キロメートルの範囲内で浮遊? 暮らしていた。
東伏見は、入学時は、東京都北多摩郡東伏見町だった。それから確か3年生の時に、東京都保谷市東伏見になり、現在は東京都西東京市だ。
朝から晩まで、サッカー漬け生活だった。当時毎日といってもいいほど会っていた牛島孝之さんから、彼女のことを教えてもらった。牛島さんは、あたかも自分の恋人のように話してくれた。
(注)後日、牛島さんのことについて、記述する機会はあろうかと思われますが、今回は、素通りです。
「茨木のり子さんは、詩人です。何に対しても、端然として毅然、気骨の人。この人の詩にガ~ンとやられてからは、私は盲目的な読者になりました。時々、グラウンドにも現れるのですよ。私はそのことも気になって、毎日、ラグビーとサッカーを見に来ているんですよ」とも言っていた。
牛島さんから彼女の詩集を借りて読ましてもらった。その時は、唯、強い女性だと思った。
当時の私は、詩集を読むなんて柄に合わないと、ハナカラ決めてかかっていた。詩集を手にするだけで恥ずかしかったのです。何故って聞かれても、当時若者だった、私の心情は複雑でした。
それから、約35年経った。私の蔵書に茨木のり子さんの詩集は増えた。読後の感じ方も随分変わってきたように、思う。
その茨木のり子さんが、今年2月に79歳で亡くなった。
死を知った時、彼女の体の状態などお構いもなしに、もう茨木のり子さんの詩を楽しめないのか、と、咄嗟に不肖のファンは悲しんだ。私は恥じた、不埒な読者、詩不適確者かもと。
40編の遺稿が見つかった。「歳月」と題した詩集にまとめられ、来年2月の命日に出版される。夫と二人の世界、だそうだ。
2006年12月4日の朝日(夕)より
「新婚の夜のけだるさのなか
わたしは思わず呟いた
どちらが先に逝くのかしら
わたしとあなたと」 (『その時より』)
今年6月 東京都西東京市の自宅の書斎で、甥の治さんが「Y」と書かれた箱を見つけた。「Y」は75年に死別した夫・三浦安信サンの頭文字。中には錆びたクリップで留められた原稿の束があり、掲載順も記されていた。
治さんが作品の存在を聞いたのは数年前だった。「なぜ生きているうちにださないの」と聞くと、(照れくさいのよ)と笑った。出版元になった花神社の大久保憲一さんには「最後の詩集はよろしく」とだけ、頼んであったという。
今年2月17日、茨木さんは友人に配る別れの手紙を用意したあと、くも膜下出血で亡くなった。
「本人にとって本質的なことはすべて、死ぬ前に肩がついていた気がします」。治さんはそう振り返る。
戦後の世のあり方を問いかけた代表作とは違い、(歳月)は安信さんへの思いや男女の心の機微を描く。安信さんが夢枕に立つ「夢」、夫が入院する前に最後の食事を囲んだ思い出の「最後の晩餐」、通勤路に足跡を見出そうとする「駅」。
大久保さんは「人間がこんなにも深い愛情を持っていて、それを惜しげもなく詩にできた才能に心を打たれた」と話す。
23歳だった茨木さんが8歳年上の医師だった安信さんと結婚したのは49年だった。私生活について多くを語らなかったが、取材に訪れた学生に「(自分の世界を持つことを)夫が理解してくれ、育てようとしてくれた。上等の男性でした」と話したこともある。安信さんを亡くした後は、共に過ごした家で、ひとり暮らした。
死後、寝室の枕元で小さな木箱が見つかった。何度も触った後があり、安信さんの戒名と「骨」が数かけ入っていたという。
2006年12月2日土曜日
樋口一葉の心意気
天声人語を読んで、筆者はうまいこと書くなァ、と感心した。5千円札の絵模様になった樋口一葉さんの人となりを、5千円札と他の札との使われ方の違いをもって、表されている。
やっぱり、この記事も一つマイ・ポケットさせて頂こう。
以下 天声人語からの抜粋より
2006年11月23日は、二十と四年で世を去った作家・樋口一葉の命日だ。
短く、しかし強く生きた一葉の生涯をたどると、改めてその際立った心意気が思い出される。
「人情かみの如しうすく、~ 世はいかさまにならんとすらん~わがこころざしは国家の大本にあり」
「たけくらべ」では、吉原の遊郭という独特な場所の周辺に生きる人々の思いを見事に描き出した。森鴎外主宰の雑誌「めさまし草」の合評蘭に「たけくらべ」に関する一節がある。「この人の筆の下には、灰を撒きて花を開かす手段あるを知り得たり、~この人にまことの詩人といふ称をおくることを惜しまざるなり」
22歳の年の日記にこう記した。
他の札と違って、5千円は札束にはなじまないようだ。使われる時も1枚だけのことが多い。一葉は、札になっても一葉か。それが、やや切なくもあり、あの心意気の高さにはふさわしいようでもあった。
2006年12月1日金曜日
私は、私の会社を、『社会民主主義会社』にしたい。
① 会社の財務を良くした方が、何故いいの?
何故、会社を良くしなければならないの?
会社がよくなったら、どうなるの?
誰のために、良くするの?
こんな疑問を、誰でも持つものです。
会社は、株主が出資した資本金を利用して、企業活動を行っている。利益をあげて、株主が出資してくれたお金に対して、配当金を支払い、税金を支払って社会還元する。
利益があげられないと、必然的に財務状態が悪くなり、株主に対する配当金が少ししか払えなかったり、全く配当金が払えないことになる。金融機関からの評価も悪くなる。そうすると希望する額の融資金が受けられない。資金不足に陥る。事業の展開が貧困にならざるをえない。やりたい事業をうらめしく眺めることしかできない。 当社のように、自己資金が少なくて借入依存度が高い会社は、内外における突発性の政変・経済の変化によって、市場が大きく揺れる、その時のリスクは高く、危険だ。債務を保証している私も不安だ。よって、会社は、どんなことがあっても、いい会社にするしかないのです。ほどほどに、なんてことは許されない。
* 役員(社長・専務・取締役)と株主と社員の相互理解を得ながら、社員にとっての会社《会社にとっての社員》、株主にとっての会社(会社にとって株主)の認識を深めたい。
②会社が良くなったら、社長、特に創業者は、会社をどういう方向に舵を取りたく思うのですか?
人によるが、世の社長はこういう事態に面した場合に、大体二通りの方向性を露わにすることがある。
《会社温存型》 自分の給料をほどほどに抑えて、会社に利益をどんどん上げさせ、株主には配当金、税金(社会還元)を支払って、内部留保金を増やそうとする。 会社を大きくして、沢山の人に雇用の機会を用意する。チャンスがあれば、上場を目指し、社員に上場のうまみを、味わらせてやりたいと思う。創業者、社員にとって、とにかく、会社の今までやってきたこと、今後やり通そうとしていることを、社会に認めてもらいたいと思う。会社は、永続するものだと考える。会社の将来と、自分の将来を見据えて、仕事に励む。会社の成長と、社員としての人間的成長を喜びとする。
《社長個人だけ温存型(身内もふくめて)》 社長を含めた身内のスタッフの給料を、会社に利益が出ない限界ぎりぎりまで上げる。結果、会社には利益が出ないようにする。 自分の女房か娘を、バカ息子を役員にして、給料を支払う。儲けられる時に儲けておこう、後の事は重要じゃない。個人資産を増やすことを第一に考える。社員を使い捨て感覚で使用する。給料体系を、フルコミッション、歩合給偏重になりがち。
*山岡は《会社温存型》を目指したい。
③今、私が置かれている状況
以下 税理士の五浦氏の見解より A ,*氏・+氏の株式持分について、*氏は純資産価額方式、+氏は配当還元方式による評価であることに留意せよ。
B , 土地保有特定会社 現状では、税法上の大会社に該当するため、総資産に対して70%以上の土地保有率をもって土地保有特定会社となり、同族株主の株の評価が純資産価額方式に限定されている。 土地の保有割合を下げることにより類似業種比準方式を選択できる。
(注)当社は、不動産会社で、土地を仕入れて付加価値を付けて売却する。そのような事業展開を行っているゆえ、土地の保有比率を下げるわけには、いかない。
そこで*氏の株式の評価はどうなるの?上記のA Bにより、同族株主の評価、純資産価額方式によると前期末:@?円《1株》?*?=?円この数字を見て社員はどう思うのか、社長にとって、どういう意味があるのか? 社員は=ひぇー、それがどうしたの? 俺にとって、私にとって、何か、ええことでもあるの? 社長は=ヒャー、それどういうこっちゃ。 ????? それ、俺に呉れるの? なんか、ええことあるのか?
そこで、税理士の五浦さんの、コメントより。
「山岡さんが、ここで、何も準備も用意もしないで、死んだら、この???が相続税評価対象額になるのですよ。山岡さんの私財については、仕事柄知り得ています。全財産を処分しても処理しきれないでしょうね。奥さん、子供は家を追われるように出て行くしかない。このまま、やり続けていれば、会社は益々よくなり、社長が年を重ねていく。こんな危険なことはないですぞ」。
④今、社員が置かれている状況
社長の株式の評価が??? 俺には関係ない。そんなこと、知っちゃおらんよ、と思うのが社員各自の実感だろう。でも、じっくり考えたら、俺達社員が働いた成果でもあるんだよな、と思い巡らしてもいいのではないのか。社長は、社員からのそんな声を待っている。社長は、借入金の連帯保証を重ねる。この債務を背負うプレッシャーは、並みたいてのものではないことも、よく理解して欲しい。でも、山岡はちょっと変な部類の人間だから、会社運営の楽しみと苦しみを、チャラにして、それなりに楽しくやってるんだからええのだ、と割り切ってくれても、いいのだ、よ。 そこで、山岡は、この評価を、これまで頑張ってくれた社員、これから頑張ろうとしてくれている社員に、お裾分けできないか、と思い当った。でも、今のままでは、どうにも、何もしてやれないのが実情だ。 社員は、今後の取締役会で、社員の株主しての利益分配方式を検討するので、その検討結果が出るまで、待っていて欲しい。
⑤上場できたら?
上場しなくても、頑張っている企業は幾らもある。例えば、リクルート、サントリー、ロッテ、竹中工務店などがそうです。これらの会社は経営トップの強力なリーダーシップの下、株式市場から資金調達を行わなくても自らの生み出すキャッシュフローを基に事業拡大しています。また、「上場企業」という肩書きがなくても、これまでの実績から十分に社会的信用を得ています。私達の会社では、このような会社の真似はできません。よって、上場するしかないと考えている。上場するためには、どの証券取引所にも、上場実質審査基準がある。以下の通りです。このことは、本来、なにも上場の為に行うことではないことばかりなんだが。
1、企業の継続性及び収益性 2、企業経営の健全性
3、企業内容等の開示の適正性
4、その他公益又は投資者保護
について審査され、証券取引所が承認しなければ、上場はできない。
私の会社、私達の会社から、公器としての会社になるわけだから、高いハードルを越えなければならないのは、当然だろう。
社員に対しては、働くことにおいて、社員を守ること、会社が当然しなくちゃならないこと、備えなくてはならないこと、労使に対して、すごく緊張維持できる環境を整備しなければならないことが多いのです。
会社は誰のもの? の根源的質問についての、必然的解答は《上場を目指す》と結論を下す。
何故なら、会社は良くなったけど、社員には具体的にはメリットがない。株主だって少しぐらい高い評価(配当金)を受けたところで、物足りない。会社の大発展の夢を実現したいと思っている、役員・株主・社員には欲求不満が募るばかりです。
この不満を解消するには、上場することが、一番手っ取り早く、直接効果のでる方法だ。
とは言え、上場を達成するには、今期、来期、再来期、その次の期、その次の期の次の期の、業績を計画通りに実行しなければならないのです。その強い決意を共有されなければ、実行は無理だ。社員のため、会社のため、社長のため、どんなことがあっても、上場するしかないのです。 上場できれば、会社、社員、株主にも、エエことがあるのですか? 問題は、ココなのです。
株式上場のメリット
・ 財務面・資金調達の能力の強化・ 知名度・対外的信用力の向上
・ 社内管理体制の整備
・ 株式流通性の向上、株式価値の顕在化、増大
・ 従業員へのインセンティブ
株式上場の主な留意点
・ 企業内容の開示義務、説明責任の増大
・ 証券取引法、会計基準、その他法令への対応
・ 事務量・経費の増加、人件費の増加
・ コンプライアンスの強化
社員に対しては~決められた株数を発行しなければならないから、前もって、社員持ち株会(山岡自身はこのやり方は、スカン)とか、何らかの方法で各社員に株を保有してもらい、その株の市場評価次第では、差益をゲットできる。ストックオプションなどで、会社が良くなれば良くなるだけ、株価が上がって、より以上のゲットが可能になる方式も検討してみたい。上場できたら、流通性のある株になるから、資産としても十二分だ。これが、大きいのです。これだけを目的に上場を目指す社もあるぐらいだ。当社はそんなアホな集団ではない。
上場すると、市場から資金が集められ、会社の財務的な運営は進めやすくなる。又、研究費、将来を見越した投資が可能になる。調達した資金を事業に投資することにより上場していない会社よりも成長のスピードをあげることができる。
全ての活動において、何事に対しても、ひるむことなく堂々と対処できる。(当社は上場できなくても、堂々とやってきたし、今後も堂々とやらなければならない)他社との業務提携がスムーズに進められる。 社員の募集がやり易くなる。いい人材が集まり易くなる。
⑥上場は通過点だ
社会的に認証され、益々公器としての役割が重くなる。だが、社会的に認められたといえ、最低限の基準をクリアーした程度に過ぎず、もっと高いステージでの活躍を求めてチャレンジしたい。我が社は、あらゆる情報を、根源的変革を視点に、最適利用を考え、加工し、高付加価値の環境創造をお客様に提供している。この活動のさらなる飛躍を目指している。
荒ぶる魂を持つ熱き若者たちが、雄叫びをあげて、勇猛果敢に前進するのだ。
私たちは、横浜で一番元気のいい会社だ